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さよなら、もう二度と会わない人
私・藤原琴音(ふじわら ことね)の親友、白河紗良(しらかわ さら)は、結婚式の当日、新郎に逃げられた。泣き崩れた紗良は、私の婚約者である...
Chương (1)
第1章
私・藤原琴音(ふじわら ことね)の親友、白河紗良(しらかわ さら)は、結婚式の当日、新郎に逃げられた。泣き崩れた紗良は、私の婚約者である長谷川玲司(はせがわ れいじ)にすがりついた。
玲司は、私をなだめるように言った。
「琴音、俺と紗良は小さい頃からの付き合いだろ。今さらどうこうなるような仲じゃないよ。今日は本当に、形だけだから。それに、俺たちも来週には式を挙げるんだ。少し早いリハーサルだと思えばいい」
紗良があまりにも気の毒で、私は唇を噛みしめながらうなずいた。
そして、本来なら新郎側のアッシャーとして式に出るはずだった恋人が、親友の「新郎」として祭壇に立つのを、この目で見届けることになった。
式のあいだ、玲司は紗良の手を取り、彼女を見つめていた。その眼差しには、愛しさがあふれていた。
司会者に誓いの言葉を求められたとき、彼の返事は、私にプロポーズしたときよりもずっと迷いがなかった。
私は必死に自分へ言い聞かせた。
これは芝居。ただの芝居。本気にしちゃだめ。
けれど、二人が指輪を交換し終え、司会者が笑顔で「それでは新郎から新婦へ、誓いのキスを」と告げた、その瞬間。
会場中が一斉に沸き、二人をはやし立てた。
紗良は頬を赤らめながら、私に言った。
「琴音ちゃん、大丈夫。ちゃんと角度でごまかすから」
私は、その言葉を信じた。
けれど次の瞬間、玲司は紗良の顎をそっと持ち上げ、参列者全員の前で、深く口づけた。
第1話
私・藤原琴音(ふじわら ことね)の親友、白河紗良(しらかわ さら)は、結婚式の当日、新郎に逃げられた。泣き崩れた紗良は、私の婚約者である長谷川玲司(はせがわ れいじ)にすがりついた。
玲司は、私をなだめるように言った。
「琴音、俺と紗良は小さい頃からの付き合いだろ。今さらどうこうなるような仲じゃないよ。今日は本当に、形だけだから。それに、俺たちも来週には式を挙げるんだ。少し早いリハーサルだと思えばいい」
紗良があまりにも気の毒で、私は唇を噛みしめながらうなずいた。
そして、本来なら新郎側のアッシャーとして式に出るはずだった恋人が、親友の「新郎」として祭壇に立つのを、この目で見届けることになった。
式のあいだ、玲司は紗良の手を取り、彼女を見つめていた。その眼差しには、愛しさがあふれていた。
司会者に誓いの言葉を求められたとき、彼の返事は、私にプロポーズしたときよりもずっと迷いがなかった。
私は必死に自分へ言い聞かせた。
これは芝居。ただの芝居。本気にしちゃだめ。
けれど、二人が指輪を交換し終え、司会者が笑顔で「それでは新郎から新婦へ、誓いのキスを」と告げた、その瞬間。
会場中が一斉に沸き、二人をはやし立てた。
紗良は頬を赤らめながら、私に言った。
「琴音ちゃん、大丈夫。ちゃんと角度でごまかすから」
私は、その言葉を信じた。
けれど次の瞬間、玲司は紗良の顎をそっと持ち上げ、参列者全員の前で、深く口づけた。
彼が唇を重ねたその瞬間、会場は沸き上がった。
角度でごまかしたわけでも、軽く触れただけでもない。唇と舌を絡め合う、濃密なキスだった。
私はその場に凍りつき、顔から血の気が引いていった。
隣にいたブライズメイドの一人が、小声で私に言った。
「うそ……あの二人、本当に演技なの?ちょっと入り込みすぎじゃない?」
そうだ。入り込みすぎていた。
私には、二人こそが本物の恋人同士に見えるほどに。
客席からは割れんばかりの拍手が起こり、誰かが「もう一回!」とはやし立てた。
紗良は玲司を押しのけ、顔を赤くして私を見た。
彼女が何か言おうとした瞬間、玲司はその肩を押さえ、再び唇を重ねた。
私はブライズメイドのドレスをまとい、花束を抱えた自分の姿に目を落とし、涙がこぼれそうになった。
長すぎるキスがようやく終わった。
紗良はすぐに私のもとへ来た。
「琴音ちゃん、ごめんね。私、本当に知らなくて……」
言い終える前に、玲司が彼女の手首をつかみ、さっと自分の背後へかばった。
「琴音、ただの演技だろ。しかもお前が自分でうなずいたんだ。紗良を責めるのは違う」
彼はあまりにも堂々としていて、まるで私のほうが分からず屋みたいだった。
紗良が横から説明した。
「琴音ちゃん、私と玲司は本当に何もないの。彼が一番大事にしているのはあなたよ」
私を大事にしている?
私が傷つくと分かっていながら、私の目の前でほかの女にキスしたくせに。
私はドレスの裾を持ち上げ、怒りのままに式場を飛び出した。
いつもの玲司なら、必ず追いかけてきて、私をなだめてくれたはずだった。
けれど今日は、冷たい風の中で私が三十分近く泣いても、彼は来なかった。
目尻の涙を拭い、私は披露宴会場へ戻った。
廊下を通りかかったとき、控え室の扉が少しだけ開いていて、中からかすかな物音が聞こえた。
私は全身を撃ち抜かれたように動けなくなった。
控え室のソファの上で、玲司と紗良が乱れた服のまま絡み合っていた。
紗良のドレスは腰までたくし上げられ、甘く湿った吐息が途切れ途切れに響いていた。
紗良は甘えるように怒り、彼の頬を平手で打った。
「玲司、正気なの?琴音ちゃんに見つかったらどうするのよ」
けれど玲司は焦るどころか、悪びれもせず、喉の奥で低く笑った。
「紗良、俺たち、もう二年もこうしてきたんだぞ。ばれるなら、とっくにばれてる」
彼は彼女の腰に手を回し、強引に引き寄せた。
「それに、さっき籍を入れたばかりだろ。自分の妻を抱いて、何が悪い?」
二年も?籍を入れた?
一瞬で全身から血の気が引き、息の仕方さえ分からなくなった。
紗良はもう抵抗せず、むしろ彼にさらに身を寄せた。
「赤ちゃんができてなかったら、あなたなんかと籍を入れるわけないじゃない。来週には琴音ちゃんと結婚式を挙げるんでしょう?ちゃんと考えてるの?」
爪が深く手のひらに食い込んだ。私はこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえた。
彼女のお腹の子は、玲司の子なの?
玲司は彼女を抱き寄せ、今まで私に向けたことのないほど優しい眼差しをしていた。
「そのときは、それらしい書類を見せておけばいい。琴音は俺を信じきってるから、疑いもしない。たとえ彼女と式を挙げたって、だから何だ?俺の心も体も、ずっとお前のものだ」
紗良が甘い声を漏らした。
「もう、優しくして。赤ちゃんがいるのよ」
「大丈夫、ちゃんと優しくする……」
耳障りなほど艶めいた声が途切れ、私の胸は張り裂けそうに痛んだ。
よろめきながら何歩も後ずさりし、私は壁に手をついて息をした。
一人は、青春時代を共に過ごした親友。
もう一人は、五年愛し合ってきた恋人。
私が一番信じていた二人は、仲のいい友人という仮面をかぶって、陰でずっと裏切っていた。
しばらくして、玲司が紗良の手を引いて出てきた。
私を見た瞬間、二人はどちらも動揺した。
紗良が真っ先に駆け寄ってきて、私の手をつかんだ。
私は一目で、彼女の鎖骨に残るキスマークに気づいた。
「琴音ちゃん、ごめんね。さっきは玲司が悪ふざけしすぎたの。もうちゃんと叱っておいたから」
彼女は振り返り、玲司をにらんだ。
「早く琴音ちゃんに謝って」
玲司はすぐに私の涙を拭った。
「琴音、全部俺が悪い。お前の気持ちを考えていなかった」
私は彼の真剣な瞳を見つめた。
そして、彼が紗良にキスしていたときのほうが、私にキスするときよりも何百倍も夢中だったことを思い出した。
私はこらえきれず、紗良の頬を打とうと手を振り上げた。
けれど玲司はすばやく私の手首をつかみ、振り払った。
「何をするんだ?!」
いきなり強く突き飛ばされ、私は壁に叩きつけられた。痛みで、一瞬目の前が真っ暗になった。
「玲司、あなたと紗良は本当にただの友達なの?」
第2話
玲司の目に一瞬だけ動揺が走った。けれど彼はすぐに取り繕い、わけが分からないという顔をした。
「俺を疑ってるのか?俺と紗良は小さい頃から一緒に育ったんだ。気を許しすぎて、つい距離感が近くなることくらいある。でもお前が考えているようなことじゃない」
彼はそれでも認めようとしなかった。
よく考えてみれば、すべてはとっくに兆しがあった。
玲司と付き合うようになってから、どこへ行くにも三人一緒だった。
彼は私の誕生日を覚えていないくせに、紗良には日付が変わった瞬間に誕生日のメッセージを送っていた。
私は辛いものが食べられないのに、彼は料理を頼むたび全部辛口にした。
紗良が好きだから。
紗良が生理でつらそうにしていると、彼はいつも彼女に休みを取らせた。
私が痛みで壁に頭を打ちつけたくなるほど苦しんでいても、彼は「少し我慢すれば治まる」と言い、会議に遅れないようにと念を押した。
私と紗良は、玲司の起業を一緒に支えた。
会社が上場してからというもの、紗良の給料は私の倍になった。
私だって、何も言わなかったわけじゃない。嫉妬しなかったわけでもない。
けれどそのたびに、玲司は決まって同じ言葉で私を黙らせた。
「紗良とは昔からの付き合いだし、お前の大事な友達でもある。彼女を粗末に扱うわけにはいかないだろ」
友達?
けれど彼が彼女を見る目は、私に向けたどの瞬間よりも優しかった。
玲司は私に先に家へ帰って頭を冷やせと言い、私の腕を引いてその場を離れた。
けれど私をマンションまで送り届けると、彼はすぐ車で去っていった。
去り際、玲司はこう言った。
「紗良は式の当日に新郎に逃げられて、ただでさえ参ってるんだ。さっきのお前の言葉でかなりショックを受けたみたいで、お腹の子にも響いたかもしれない。お前の代わりに、俺が様子を見てくる」
彼の頭の中は紗良のことでいっぱいだった。
今の私の気持ちなど、考えもしなかった。
家に戻った私は、何気なく一冊の日記を見つけた。
日記のページには一枚ずつ、玲司が紗良のいる国へ向かった航空券が貼られていた。
その下には彼のメモもあった。
【紗良が海外支社へ行った。会いに行かないと、どうしても心配でたまらない】
【海外出張で三日間滞在。本当はただ、紗良に会いたかっただけだ】
日記は、私たちの交際三周年記念日の日付まで進んだ。
そこに書かれた内容を見た瞬間、私はもう涙をこらえられなかった。
【ずっと迷っていたけれど、やっぱり告白した。紗良も俺を好きだったなんて。もう逃したくない】
【紗良は琴音が傷つくのを見るのがつらいから、別れないでほしいと言った。俺は同意した】
【紗良がようやく俺を受け入れてくれた。琴音より、俺の体は紗良を求めている気がする】
その日、私は玲司に十数回電話をかけた。
彼は全部切った。
最後に送られてきたのは、冷たい一通のメッセージだった。
【忙しい。邪魔するな】
彼が「忙しい」と言っていた時間、彼は私の親友を抱いていた。ただの友達だと言い張っていた、あの女を。
日記は最後のページにたどり着いた。
書かれたのは、ほんの数日前だった。
【紗良が妊娠した。よくも適当な男と結婚しようなんて思えたものだ。俺は絶対に手放さない】
日記には、妊娠に関する検査結果の書類も一枚挟まっていた。
父親の欄には、玲司の名前が記入されていた。
私はその紙を握りしめ、指先を震わせた。
紗良の妊娠を知ったその日、玲司はすぐに海外へ飛んだ。
彼はわざわざ私に休暇まで取らせ、この国へついて来て紗良の世話をし、彼女の結婚式を手伝わせた。
結婚式から逃げたあの「最低な男」も、玲司がわざと追い払ったのだ。
彼は「夫」という名目を借りて、紗良を妻にしたかったのだ。
スマホが鳴った。
母からまた結婚の催促だった。
「琴音ちゃん、あなたと玲司くんはいつ帰ってこられるの?家族みんな、披露宴を楽しみに待っているのよ!」
「お母さん、私は玲司とは結婚しない」
母が怒り出す前に、私は続けた。
「安心して。結婚式は予定どおり挙げるから」
ただし、私の新郎は別の人に替わる。
第3話
あの日記を、私は一晩中めくり続けた。
二年分、百枚以上の航空券。どのページにも、紗良の名前が書かれていた。
夜が明ける頃、私は紗良の家の前に立っていた。
玄関には玲司の革靴が置かれている。
キッチンからは、軽やかな笑い声が聞こえてきた。
私には一度も料理を作ってくれたことのない玲司が、エプロンをつけて紗良にスープを作っていた。
紗良が後ろから彼の腰に腕を回す。
「琴音ちゃんの様子を見に戻ってあげたら?一人できっとすごく傷ついてるわ」
玲司の声は淡々としていて、どうでもいい他人の話でもしているようだった。
「琴音が傷つく?お前が妊娠してるのに様子を見に来るどころか、自分だけ慰めてもらおうなんて、ずいぶん身勝手だよな。紗良、俺は琴音のこと……本当はそこまで好きじゃなかったのかもしれない。昔も今も、お前には敵わない」
その言葉は、容赦なく私の心を突き刺した。
五年の恋。
私は彼の起業に付き合い、何もなかった彼が会社を上場させるまで支えてきた。
それなのに返ってきたのは、「そこまで好きじゃなかった」という一言だけ。
もう、これ以上は耐えられなかった。気づけば私は、部屋に飛び込んで玲司の頬を思いきり打っていた。
「玲司、別れよう。二人を祝福してあげる」
紗良が前に出て、私を引き止めようとした。
「琴音ちゃん、誤解しないで。彼はただ……」
私は妊娠に関する検査結果の書類と日記を、彼女の顔に叩きつけた。
「この子、玲司の子なんでしょう?恥ずかしくないの?」
玲司は腰をかがめてそれを拾い上げた。
その目は、ぞっとするほど静かだった。
「琴音、それがどうした?来週には俺たちの結婚式だ。今さら別れて、家族にどう説明するつもりだ?」
紗良が泣きながら言った。
「ごめんね、琴音ちゃん。私、すぐにこの子を堕ろしてくる」
玲司は彼女を強く抱き寄せ、冷たい目で私を見た。
「俺は認めない。琴音、お前は一度堕ろしてるだろ。これから子どもを産めるかも分からない。だったら紗良に感謝するべきだろ?俺が式に付き合ってやるだけでもありがたいと思えよ。お前みたいな傷物、俺以外に誰が欲しがるんだ」
紗良が彼の口を塞ごうとした。
けれど、もう遅かった。
私は一瞬で凍りつき、目の奥から熱いものが込み上げた。
十九歳のとき、私は元彼の子を妊娠した。
中絶のときに体を傷め、医師からは、今後妊娠は難しいかもしれないと言われた。
大学に戻ると、根も葉もない噂があっという間に広まった。
男にだらしないとか。金持ちの愛人をしていて、妊娠までしたとか。
そんなことを言われた。
私は何度もSNSに事情を書いたけれど、誰も信じてくれなかった。
孤立し、いじめられ、どこへ行っても後ろ指をさされた。
何度も、死にかけた。
そのたびにそばにいて、崩れ落ちそうな私を何度も引き戻してくれたのが紗良だった。
その後、玲司を紹介してくれたのも彼女だった。
彼はあの噂を一度も信じなかった。
誰かが私の悪口を言えば、飛びかかって殴り合いになってまで守ってくれた。
私たちが付き合い始めた日、キャンパス中が騒ぎになった。
みんなが、玲司は正気じゃないと言った。
大学一の人気者が、どうして「傷物」の彼女なんか作るのかと。
けれど彼は私の手を握って言った。
「琴音は世界で一番いい子だ。世界中のものを全部あげたいくらいだ」
私は信じた。
けれど今、あの地獄から私を引き上げてくれたはずの人が、私を「傷物」と言った。
私は玲司の目を見つめた。
かつては優しさで満ちていたその瞳に、今は冷たさしか残っていない。
「玲司、あの頃は、あんな噂は信じないって言った。私がどれだけつらかったか分かるって言ってくれた。今は?」
玲司は何も言わなかった。
けれど、その目がもう答えを出していた。
紗良は私が崩れ落ちそうなほど絶望しているのを見て、完全に慌てた。
「琴音ちゃん、真に受けないで。玲司は怒りすぎて、でたらめを言っただけで……」
彼女は私の手を取ろうとした。私は怒りのあまり、その手を振り払った。
痛みに息をのむ声がした。
紗良は床に倒れ込み、お腹を押さえて顔を真っ青にしていた。
「お腹が……痛い……」
私が反応するより先に、玲司がものすごい力で私を突き飛ばした。
玲司に思いきり押された私は、テーブルの端にぶつかり、グラスが砕け散った。
破片が手のひらに突き刺さる。
血が一気にあふれ出し、痛みで全身が震えた。
玲司は紗良を横抱きに抱え上げ、血走った目で私に怒鳴った。
「琴音、紗良と赤ちゃんに何かあったら、絶対に許さない。結婚式だって、できると思うなよ」
彼はもう私に一瞥もくれず、紗良を抱えたまま、慌ただしく部屋を飛び出していった。
私は荒れ果てた部屋の中で、床に膝をついた。
手は血まみれだった。
玲司はまだ知らない。
たとえ彼がいなくても、結婚式は予定どおり挙げられる。
第4話
その夜、私はすぐに帰国した。
飛行機を降りるとすぐ、私はあの人にメッセージを送った。
【帰ってきた。明日、婚姻届を出そう】
相手からはすぐに返事が来た。
【わかった】
当初、玲司は結婚式に関するすべてを私に丸投げしていた。
仕事が忙しいから、全部私が決めていいと言っていた。
だから私は勝手に、新郎を替えた。
結婚式当日。
ウェディングドレスを着て階下へ降りると、黒いブライダルカーが家の前に停まっていた。
なんと玲司が、いつの間にか戻ってきていた。
手には赤いバラの花束を抱えている。
その表情はあの日より柔らかく、どこか緊張すらしていた。
「琴音、この前のことは俺が悪かった。今日は何でもお前の言うとおりにする。式が無事に終わるように俺も合わせる。それでいいだろ?」
私が答える前に、彼は勝手に話を続けた。
「でも約束してほしい。これから紗良を困らせないって。紗良は今でも、お前のことを親友だと思っているんだ」
その言い方は、まるで譲ってやっているとでも言いたげだった。
結局のところ、何より紗良のためなのだ。
私はただ静かに首を横に振った。
「必要ない」
玲司は私がまだ意地を張っていると思ったのか、眉をひそめ、私の手首をつかんで車へ引きずっていった。
「行くぞ」
「玲司、離して……」
彼は聞く耳を持たず、強引な動きで私を車に押し込んだ。
私は必死に窓を叩いた。
「玲司、早く降ろして!」
「琴音、今日は俺たちの結婚式だろ。そこまでみっともない騒ぎにするつもりか?」
「玲司、あなたは勘違いしてる。新郎は……」
私が言いかけたそのとき、玲司のスマホが鳴った。
紗良の泣き声が、私の声をかき消した。
「玲司、車をぶつけられたの。怖いよ。赤ちゃん、大丈夫かな……」
玲司の顔色が一瞬で変わった。
「すぐ行く!」
彼は勢いよくハンドルを切り、車は急旋回して、そのまま猛スピードで走り出した。
悲しみと怒りが、一気に胸の奥から込み上げてきた。
私は力いっぱい窓を叩き、手のひらが赤くなるほど叩き続けた。
「玲司、降ろして。私は式場に行くの!」
玲司は眉間に深いしわを寄せ、私に怒鳴った。
「紗良が事故に遭ったんだぞ。それでもまだ式なんか挙げるつもりか?今日の結婚式は中止だ。親友が事故に遭ったのに、心配の一つもしないのか。そこまでして結婚したいのかよ」
私は血走った彼の目を見つめ、かすれた声で言った。
「紗良が生きていようが死んでいようが、私に何の関係があるのよ!」
玲司は一言も返さず、アクセルを床まで踏み込んだ。
車が急カーブで大きく振られ、私の頭は窓ガラスに激しく打ちつけられた。
額に鋭い痛みが走り、血がつうっと流れ落ちた。
玲司は一瞬だけ固まった。けれど車を止めなかった。
彼は歯を食いしばって言った。
「ちゃんと座っていろと言ったのに聞かなかったのはお前だろ。そんなに騒ぎたいのか!」
血が目に入り、視界が赤く滲んでいった。
車の速度はどんどん上がり、メーターは120キロを指していた。
絶望と憎しみが、じわじわと毒のように体じゅうへ回っていく。
私は大きく息を吸い、自分でもどうかしていると思う決断をした。
玲司はなおも冷たく警告していた。
「降ろすなんて思うなよ。あとで紗良に会ったら、ちゃんと謝れ……」
次の瞬間、私はそのまま車のドアを押し開けた。
強い風が一気に吹き込み、ウェディングドレスの裾が車外へ巻き上げられる。
玲司は目を見開き、その目に恐怖を浮かべた。
「琴音、何をするつもりだ?」
私は彼に反応する時間を与えず、そのまま飛び降りた。
体が宙に投げ出され、次の瞬間、全身に激痛が走った。
耳元には、うなりを上げる風の音だけが残った。
そして、玲司の喉が裂けるような叫び声が響いた。
「琴音!」