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弁護士夫婦〜利益を選ぶ夫と正義を選んだ妻〜
白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。 「澪...
Chương (1)
第1章
白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。
「澪!学生時代のディベート大会で、柴田くんと討論してる動画がバズってるじゃん!」
澪を見るなり、夏美が興奮を隠しきれない様子で、声を弾ませる。
「ネットじゃ『神ビジュアルの二人』って大騒ぎだよ。それに、その二人が今どうなってるかみんな知りたがってるし、推しカップルだって盛り上がってるんだから」
画面をスクロールさせていた澪の指先が、微かに止まった。
しかし、夏美は澪の異変に気づくこともなく、まくし立てるように言葉を続ける。
「当時のクラスメイトたち、解説まで始めてるんだよ。澪が反対派の代表として、法学部の憧れの的だった柴田くんを堂々と口説き落とした伝説の試合を、みんなが絶賛してる。
二人が付き合い始めた時なんて、私たちの大学に通う人たちのSNSが全部澪と柴田くんでもちきりだったもんね。誰もが澪が柴田くんを落としたなんて言ってたけど、彼が即座にプロポーズしてきて、みんなの鼻を明かしてやってさ……」
第1話
白川澪(しらかわ みお)が空港で離婚協議書の内容を淡々と確認していると、親友である黒崎夏美(くろさき なつみ)が彼女を迎えにきた。
「澪!学生時代のディベート大会で、柴田くんと討論してる動画がバズってるじゃん!」
澪を見るなり、夏美が興奮を隠しきれない様子で、声を弾ませる。
「ネットじゃ『神ビジュアルの二人』って大騒ぎだよ。それに、その二人が今どうなってるかみんな知りたがってるし、推しカップルだって盛り上がってるんだから」
画面をスクロールさせていた澪の指先が、微かに止まった。
しかし、夏美は澪の異変に気づくこともなく、まくし立てるように言葉を続ける。
「当時のクラスメイトたち、解説まで始めてるんだよ。澪が反対派の代表として、法学部の憧れの的だった柴田くんを堂々と口説き落とした伝説の試合を、みんなが絶賛してる。
二人が付き合い始めた時なんて、私たちの大学に通う人たちのSNSが全部澪と柴田くんでもちきりだったもんね。誰もが澪が柴田くんを落としたなんて言ってたけど、彼が即座にプロポーズしてきて、みんなの鼻を明かしてやってさ……」
「夏美、私……」澪は夏美の言葉を遮り、離婚協議書の条項に視線を落としたまま言った。「離婚するつもりなの」
夏美は息を呑んだ。
「一緒になるのに、あんな苦労をしたのに?」夏美は信じられないというように首を振る。「偶然を装うために、柴田くんのスケジュールを調べ上げて、あのディベート大会の出場枠だって半月徹夜して勝ち取ったんだよ?
やっとの思いで付き合えて、結婚してからの数年間も傍から見ていて幸せそうだったのに、どうして……」
どうして離婚なんてことになってしまったのか?
澪は答えなかった。なぜなら彼女自身も、その問いの答えを知りたかったから。
本当に、どうしてこんな結末を迎えることになってしまったのだろう?
かつての自分の姿を思い出す。
澪は柴田隼人(しばた はやと)を一目見るためだけに、法学部の前で3時間も待ち続けた。
彼が国選弁護の事件を引き受けたと知れば、澪はボランティアに参加し、38度の猛暑の中でビラを配った。
あのディベート大会では、実力者の先輩を打ち破り、素人だった自分を最終ディベーターにまで持っていく努力をした……
何度も偶然を作り出し、本来なら交わるはずのない二人の平行線を、無理やり交差させたのだ。
交際が始まってから、隼人はよくこう言っていた。「俺たちって縁があるよな。色んな場所で偶然よく会ったし」
当時の澪は笑って頷いたが、心の中では分かっていた。縁などではない、すべて自分の血の滲むような努力の結果なのだと。
だが、強引に手に入れたものは、結局のところ神様が定めた縁には敵わないらしい。
少し離れた場所から、騒めきが聞こえてきた。
澪が顔を上げると、到着ロビーの人ごみが自然と道を作り、メディアのフラッシュが次々と焚かれていた。
その中心で、一人の女性が群衆に囲まれながら歩いてくる。
夏美もそれに気づき、驚いた声を上げた。
「あれ、植田さんじゃない?澪と同じ便だったの?最近すごく売れているよね。私の同僚も毎日植田さんのドラマを見ているよ」
澪は視線を戻し、小さく「うん」とだけ答えた。
「確かに綺麗だね。男女問わず人気が出るのも頷ける」夏美はまだぶつぶつと言っている。「家柄も良いらしくて、正真正銘のお嬢様なんだって。まさに人生の勝ち組って感じ……」
「彼女、隼人の初恋の人なの」澪は静かに口を開いた。
途端に二人の間の空気が静まり返り、夏美はしばらく言葉を詰まらせた後、ようやく一言「まじで?」と絞り出す。
澪は何も言わず、別の方向へ視線を移した。
黒のロングコートを羽織り、長身ですらっとしたその姿は、人混みの中でも一際目を引く。
隼人だった。
彼が最近どれほど多忙を極めているか、澪は誰よりもよく知っていた。
メッセージの返信がないのは日常茶飯事、電話をかけても10回中9回は繋がらない。
先週末、澪が38.5度の熱を出してメッセージを送った時も、4時間後に【冷えピタでも貼っとけ】という一言しか返ってこなかった。
しかし今、隼人は植田杏(うえだ あん)の荷物を受け取り、そして肩を並べて立ち去ろうとしている。
行き交う人々の中で、澪には自分自身の心臓の音だけが聞こえていた。ドクン、ドクンと、鈍く響くその音だけが。
杏という人物を初めて知ったのは、2年前のことだった。
スマホに届いたエンタメニュースの通知。【人気女優・植田杏、事務所との契約解除に成功。背後の弁護士はなんと柴田家の御曹司】
澪は記事を開いた。
杏と前所属事務所の契約解除訴訟は半年間続いていて、元々は勝ち目が薄いとされていたが、隼人が突如として介入した。
すると、わずか3ヶ月で全てが決着し、杏は無傷で契約を解除できたのだ。
当時の澪は少し戸惑った。
なぜなら、隼人が芸能界の案件を引き受けることなど、これまで一度もなかったから。
多忙を極める隼人は、最上級の企業法務しか扱わない。それが、柴田家が何代にもわたって守ってきた掟だった。
だから、業界内では噂が飛び交った。隼人にそこまでの異例な対応をさせた相手とは、一体何者なのかと。
二度目は、澪が厄介な芸能関係の案件を抱え、隼人に助言を求めた時。
書斎で書類に目を通していた彼は、申し訳なさそうな顔で言った。「芸能の分野はよく分かんないんだよな。変なこと言って、足手まといになるといけないから……ごめんな」
澪は大丈夫だと答え、隼人の机の上に置かれた杏の広告契約書は見なかったふりをした。
三度目は、隼人がとあるハイブランドで婚約指輪をオーダーメイドした時。
店のスタッフがわざわざメッセージを送ってきて、澪を祝福してくれた。
【奥様、ご主人は本当に奥様想いの方ですね。このシリーズは年に1件しかオーダーを受け付けていないのですが、ご主人は半年も前から予約され、『妻に贈るんだ』と仰っていましたよ】
その時、澪の心臓は大きく高鳴った。
婚約した時、隼人は忙しいから式などは挙げずに、指輪も時間ができたら買うと言っていた。
だから、4年間待ち続けたその時が、ついに来たのだと思った。
しかし、ある写真がトレンド入りした時に、その期待は打ち砕かれた。イベントに出席した杏の指に、眩い光を放つあのダイヤの指輪。
ネット上では、その指輪のブランドを特定しようと騒ぎになっていた。
だが、澪には一目で分かった。
恋焔・シリーズ。
1年間大切に保存していたオーダー表のスクリーンショットと、写真の指輪は、一寸の狂いもなく同じだった。
かつての淡い期待が、その瞬間、無惨にも笑い話へと変わり、澪はその写真を削除した。
杏が隼人の初恋の人だと知ったのも、その時だった。
家柄も釣り合っていて、若い頃からお互い深く愛し合っていたが、些細な喧嘩から別れることになってしまったという。
澪が出口に目を向けると、二人の背中はすでに消えていた。ふと、あのディベート大会の最終弁論を思い出す。
立ち上がった澪は、隼人を見据えてこう言った。
「そちら側はずっと、『ルール』だの『原則』だの、恋愛にも越えてはいけない一線があると語っていましたよね。でも、もしいつか本当に、あなた自身がその人のためなら全部を投げ出してもいいと思える相手に出会ったら……その時、今日ここで口にした言葉を、後悔しないと言い切れますか?」
会場が数秒間、静まり返った。
その静寂の中で、隼人がわずかに眉をひそめ、そしてゆっくりと一言だけ口にするのが澪には見えた。
「後悔するでしょうね」
7年後になって、澪はようやく知った。あの問いに対する隼人の答えは、自分に向けられたものではなかったのだと。
自分は初めから、隼人の「例外」ではなかったのだ。
第2話
翌日、地方裁判所。
木槌が打ち鳴らされ、裁判長が被告に無罪判決を下した。
澪が書類をまとめていると、被告の母親が彼女の手を握りしめ、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。
澪は礼には及ばないと答え、これが自分の仕事だからと伝える。
裁判所の外へ出ても、澪の頭の中では先ほどの法廷でのやり取りが繰り返されていた。
「あの女だ!」
その時突然、鋭い金切り声が上がった。
澪が状況を飲み込む前に、人だかりが押し寄せ、取り囲まれた。
先頭にいた中年女性が、澪の袖を乱暴に掴む。
「あんたはあのクズの肩を持った!だから、うちの娘はまだ18歳なのに、病院のベッドでこれまでに3回も手首を切ったんだよ!あんたたち悪徳弁護士は、金さえもらえればどんな汚い手でも使うんでしょ!」
「あの、まずは落ち着いて私の話を聞いてください……」
「聞くもんか!」中年女性は澪を激しく突き飛ばした。「あんたたちは金持ちの犬だ!あのクズの家が金持ちだからって、無罪放免にして!娘は踏みにじられたっていうのに、あんたたちはそれを『合意の上』だって言うのかい!?」
取り囲む野次馬がどんどん増えていく。
澪はなんとか説明を試みた。「確かに証拠が不十分だったんです。警察が当時……」
「証拠不十分?」中年女性が金切り声で遮った。「あんたたち弁護士は、法律の抜け穴を探すのが専門だからね!黒いものも白と言いくるめて、死人からだって証言を取るんでしょ!」
澪は黙ることにした。今の状況で何を言っても火に油を注ぐだけだと分かっていたから。
「もうこの悪徳弁護士をやめてちょうだい!」
中年女性のその言葉を合図に、丸められた資料やペットボトル、さらには小石が澪の肩に当たり、鈍い痛みが走る。
そして、二つ目の小石が飛んできたその時。
澪は頭を抱え、手の中の書類袋を守るように身を縮めた。
だが、予想していた痛みは来なかった。
誰かに背後から抱き寄せられ、背中がその温かい胸板にぶつかった。自分を抱き寄せたその人物は腕を上げ、澪の体をすっぽりと庇うように抱き込んだのだ。
飛んできた小石が彼の顔をかすめ、一筋の血の跡を残す。
「隼人……」
澪は唖然とした。
隼人は駆けつけた警備員にいくつか指示を出した。決して大きな声ではなかったが、その場を制圧する絶対的な威厳があった。
人垣が引き離され、隼人は澪の肩を抱いて駐車場へと歩き出した。
どうして隼人がここに?
彼は一度だって、こんな……
「行くぞ」
頭上から降ってきた隼人の声には、感情の色が全くなかった。
澪が足元に視線を落とすと、自分が段差を踏み外しそうになっていることに気がつく。
駐車場に着くと、隼人は澪を放し、コートを澪の肩にかけた。
「法廷での立ち回りは完璧だったな」と隼人は言った。
澪は顔を上げた。
隼人の顔の傷跡からは血が滲み出ていたが、彼はそれを拭おうともしない。
「証拠の脆さを綺麗に崩していた。証人尋問の部分も、向こうの弁護士には反論の余地がなかっただろうな」
澪はなんと返したらいいのかわからなかったため、とりあえずコートの襟元をきつく握りしめた。
なぜなら、隼人はこれまで一度も、澪の法廷を見に来たことなどなかったのだから。
結婚して4年、大小合わせて百回以上の裁判に立ったが、隼人は一度も姿を見せなかった。
時折、澪が冗談めかして「アドバイスしに来てよ」と言っても、彼は「企業法務と刑事弁護では畑が違う。行っても何の役にも立たないよ」と返すだけだった。
だから澪はてっきり……
「隼人!」少し離れた場所に停まっていた隼人の車から、杏が降りてきた。澪の悲惨な姿を見て、杏は眉をひそめる。
「だから入口に停めればよかったのに。こんな目にあっちゃって……」
杏は隼人の方へ向き直り、責めるような口調で言った。
「激昂したあの人たちが私に怪我をさせたら困るって、わざわざ私を駐車場に降ろしてから向かったから、かなり時間を無駄にしたんじゃないの?」
隼人は落ち着いて杏に説明する。「君の住む世界はシンプルだからな。窮鼠猫を噛むというが、人間も追い詰められればどうなるか分かったもんじゃないだろ?」
杏が口を尖らせた。「分かったわよ。昔から本当に口うるさいんだから。私だってもう子供じゃないのに」
澪は一歩離れた場所から、二人のやり取りを見つめていた。
その軽々しい言葉の一つ一つが、澪の心に重くのしかかる。
そうか、これこそが隼人が本当に人を愛した時の姿なのか……
たとえ自分が窮地に陥っていたとしても、隼人は杏の絶対的な安全を確保した後にしか、自分を助けに来ない。
自分が彼の妻であったとしても……
杏が澪を見た。「白川先生、早く車に乗って。そんなボロボロになっちゃって……隼人に送らせるから、帰ってシャワーでも浴びてね」
そう言いながら、杏はごく自然に澪を車に乗せようとした。まるで、自分がこの車の女主人であるかのように。
澪は口角をわずかに上げる。「大丈夫。車で来てるから」
彼女は肩のコートを取り、隼人へ差し出した。「ありがとう」
しかし、隼人は受け取らず、「着ておけ」と短く言った。
「大丈夫」澪はそのコートを隼人の手に押し付け、背を向けて反対方向へと歩き出した。
乱れた髪を直そうと手を挙げた瞬間、自分の手が小刻みに震えていることに気がつく。
第3話
SNSが炎上したのは、午前3時のこと。
シャワーを浴び終えたばかりの澪は、一本の電話を受けた。
「白川先生……先生のことがネットで炎上しています」助手の渡辺千佳(わたなべ ちか)の声は少し震えている。
「午後の事件のせい?気にしなくて平気。数日もすれば収まるから」澪は髪を拭きながら答えた。
弁護士という職業柄、世間から叩かれるのは日常茶飯事であるため、とっくに慣れていた。
「いえ、今回のは少し違います。ある芸能人がライブ配信でこの件に触れて……」千佳が言葉を濁した。
「先生、ご自分の目で確認された方が……」
澪が送られてきたリンクを開くと、そこには杏の配信の切り抜き動画があった。
【杏ちゃんは、クズ男を弁護して炎上してるあの女弁護士のこと、どう思う?】というコメントに対し、杏は口元を隠して笑った。
「あの人のこと?昔からそういう人で、人と違うことをして、男の人の前で目立とうとするのが好きなの。
みんながよく言う『男受け狙い』ってやつね」
【杏ちゃん、あの人と知り合いなの?】と問いかけられ、「もちろん」と、杏はカメラの向きを変えた。
画面に、隼人の顔が映し出される。
「この人は私の幼馴染の隼人っていうんだけど、大学時代は学内で超有名人だったの。で、例の女性弁護士、あの頃からどうにかして隼人の気を引こうと必死だったんだよね。
そうでしょ、隼人?」
画面の中で、隼人は小さく一度だけ頷いた。
それはまるで、どうでもいい些細な世間話に適当に相槌を打つかのように。
すると、配信のコメント欄は一気にコメントで溢れかえった。
【やば!このイケメン誰!?】
【柴田先生じゃん!柴田家の御曹司!うちの先輩が言ってたけど、柴田先生はもう結婚してるらしいよ!】
【ってことは、例の女弁護士って昔から男に媚びを売るタイプだったわけ?】
澪は動画を閉じた。濡れた髪が首筋に張り付き、ひどく冷たく感じられる。
媚びを売る……
あの時も、皆がSNSでそう言っていたっけ。
「玉の輿を狙う成り上がり」と馬鹿にされ、3代続く法曹界の重鎮である柴田家に入り込めば、前途洋々だと揶揄された。
あの時、隼人はどう言った?
彼は滅多に更新しないSNSに、たった一言だけ書き込んだ。【どっちが落としたとかじゃありません。互いを選んだのは、俺たちの選択ですから】
そのたった一言で、この件は学校中の誰もがSNSに書き込む事態となった。
後になって、なんであんな投稿をしたのかと尋ねると、隼人は「他人が君をあんな風に言うのが気に入らなかったから」とだけ答えた。
あの時、隼人の胸に抱かれながら、澪は生きていてよかったと思えたのに。
スマホにはニュース速報の通知が絶え間なく届く。
【#女弁護士、玉の輿狙い】というハッシュタグのコメントは、すでに2万件を超えていた。
【で、結局あの女はあの男と結婚したわけ?男の方も何が目的だったんだろう?犬みたいに媚びる女がよかったってこと?】
【ディベートの動画を見た時、めっちゃ仲が良いじゃんって思っていたけど、全部あの女の一方的な貢ぎだったとか、まじきつい……】
【女弁護士って、のし上がるためなら何だってやる連中だよね】
澪は画面をスクロールし続け、延々と読み進める。
突然、指を止めた。
何万という罵詈雑言の中に埋もれた、たった一つのコメント。
【でも例の事件……法廷の生中継を見たけど、被告の男性は冤罪だったんだよ。女弁護士が逆転無罪を勝ち取ったんだから、それっていいことじゃないの?】
その下には、こんなリプライがついていた。【クズ男の肩を持つこと自体が間違っている】
澪はその文字列を、ただじっと見つめ続けた。
誰も真実になど興味はない。彼らは、自分が信じたいものだけを信じるのだから。
実のところ、澪は世間のバッシングなど気にも留めていなかった。
弁護士になったその日から、この職業が批判される運命にあることは百も承知だった。
ただ、隼人までもが、その石を投げる群衆の中に立つとは思わなかっただけで……
翌日、大量の書類を抱えた千佳が、オフィスのドアをノックした。
「白川先生、今月の結審書類、柴田先生からすべてサインをいただきました。
ですが、こちらの書類……間違っていませんか?どうして離婚協議書なんかが混ざっているんですか?
柴田先生もよく確認せずにサインしてしまったようですので、一度、柴田先生とお話しになりますか?」
そう言いながら、千佳が離婚協議書を澪に差し出す。
「間違いじゃないわ。私が意図して入れたの」
忙しい隼人は時間を惜しみ、自分に1秒たりとも時間を割こうとはしない。それならば、仕事の時間を使って離婚協議書にサインしてもらうしかなかった。
千佳の表情は驚きから複雑なものへと変わり、少し躊躇した後に再び口を開く。
「白川先生、もう一つご報告が……」
「どうしたの?」
「先生の昇進申請ですが……」千佳の声が次第に小さくなった。「柴田先生から却下されました」
第4話
オフィスが数秒間、静寂に包まれる。
「分かった」澪は立ち上がり、却下された書類を手に取った。「ちょっと一人にしてくれる?」
昇進申請は先月提出したものだった。
この申請のために、どれだけの徹夜を重ねてきたか、それは澪自身しか知らない。
山積みの記録を読み込み、依頼人に寄り添う日々。
たった一つの証拠のために別の都市へ飛び、午前3時に到着して、朝の9時にそのまま法廷に立つことなど日常茶飯事だった。
隼人も少しはそれを理解してくれていると思っていた。
なぜなら、1週間連続で残業した時、彼が珍しく「遅かったな」と声をかけてくれたこともあったから。
しかし結果として、隼人のたった一言で自分はすべてを振り出しに戻された。
澪は指の関節が白く浮き出るほど、手の中の書類をきつく握りしめる。
彼女は隼人のオフィスのドアを押し開けた。
電話中だった彼は視線を上げ、受話器を手で覆って言った。「何か用か?」
澪は書類を隼人の机に置く。
「なぜ却下したの?」
隼人は電話口で後でかけ直すことを伝え、通話を切った。
「理由は明確に記載したはずだ。君の今の状況は、事務所のイメージを損ねている。だから、昇進も見送ったんだよ。
それに、弁護士協会の方からもこの件について問い合わせがあった。君に違反は無いが、世論が事務所の評判に悪影響を及ぼしているって。
このタイミングで君を昇進させれば、他の人たちが黙っていないだろ?」
事務的に淡々と告げる隼人の姿を見て、澪は不意に笑い出してしまいそうになった。
以前、杏の新ドラマが発表された時、コメント欄で彼女のスケジュールの掛け持ちが問題視されたことがあった。
ファンがそれを暴いた時、隼人は血相を変えて制作陣と交渉に走り、スケジュールの衝突をすべて丸く収めてみせたのだ。
杏には少しの不利益も許さないが、自分なら構わないらしい。
澪が目を伏せると、隼人の冷静な分析が耳に届いた。
「君の実務能力に問題は無い。だが、仕事においては実務能力だけではなく対外的なイメージも大切になってくる。だから、少なくとも半年、この騒ぎが収まるまでは待ってくれ」
「イメージの問題、ね」
澪はその言葉をゆっくりと繰り返した。
「植田さんがライブ配信で私を『男受け狙い』とか言った時、あなたは頷いて同意したよね?
植田さんが世論を扇動して私を陥れようとしたこと、私に非が無いことはあなた自身が一番よく分かっているはず。それなのに、そんなことを言うんだね」
隼人の眉間が微かに動く。「杏は単純な性格なんだ。だから、あんな言い方が君を傷つけるとは知らなかっただけで、今は彼女も深く反省してるから」
澪は呆れて笑いそうになり、感情を抑えきれなくなった。
「さっき、私を昇進させたら世間が騒いで、事務所の評判に傷がつくって言ったよね?
でもさ、隼人。あなたってそもそも、そんな些細な体裁を気にする人間だった?
植田さんの契約解除訴訟の時、世論のバッシングは私の比じゃなかった。ネット中から『恩知らずの裏切り者』と罵られていたのに、あなたは依頼を受けたでしょ?
それに、植田さんの前所属事務所はあなたのお父さんが出資していた会社だったから、彼女の契約解除は、お父さんの顔に泥を塗る行為だった。それでもあなたは気に留めず彼女を助け、激怒したお父さんと3ヶ月も口を利かなかったじゃない?」
隼人の顔色が一瞬変わった。
「植田さんが関われば、世論だの原則だのというくだらない理屈は、あなたにとって全てどうでもよくなるのね。
ねえ、あなたは自分が誰と結婚してるか覚えてる?」
澪の言葉には鋭い皮肉が込められ、彼女の目尻は赤く染まっていたが、最後には深く息を吸い込み、机の上の書類を取り上げて背を向ける。
「澪……」
隼人が澪の名を呼んだが、応えたのはドアが重く閉ざされる鈍い音だけだった。
自分のオフィスに戻った澪は、スマホを取り出した。
主任弁護士からいくつものクエスチョンマークと、音声メッセージが届いていた。
「翠川町への赴任希望だと?法テラスの過疎地派遣プロジェクトに参加するなんて、一体どういうつもりなんだ?昇進の件が理由なら、もう一度話し合おうじゃないか?」
澪は返信を打つ。
【昇進の件が理由ではありません。私なりに考えたのですが、これ以上ここに私が残っても事務所のためにならないと思いまして。
それに、翠川町は過疎の進んだ地域です。私がそこへの派遣に志願しても、異議を唱える者はいないはずですから】
しばらくして、主任弁護士から一言だけ返ってきた。【分かった】
そして、こう付け加えられた。【1週間後に出発しろ。この1週間は有給休暇扱いにしてあげるから】
第5話
澪が家に戻ると、そこはモデルルームのように整えられていた。
モノトーンで整えられ、海外から輸入したというソファは、澪にとっては硬すぎて座り心地が悪かった。
かつて、澪もこの空間を変えようと試みたことがある。
結婚したばかりの年、澪は嬉々として観葉植物をいくつか買って窓辺に飾り、ソファには淡いピンク色のクッションを二つ置いた。
帰宅した隼人はそれを一瞥しただけで、何も言わなかった。
だが翌日、クッションは忽然と姿を消した。どこへしまったのかと尋ねると、隼人は一言「ごちゃごちゃしている」とだけ答えた。
その後も、澪は別のものを置いてみようとした。
陶器の壺、道端で見つけた小さな絵、そしてダイニングテーブルのクロス。
隼人はその度に眉をひそめ、それらは自分が気付かないうちに消え去った。
いつしか、澪は何も買わなくなった。
澪は寝室へ入り、クローゼットの一番下からスーツケースを引きずり出す。
荷物は驚くほど少なく、スーツケース一つで事足りた。
夏美の車がマンションのエントランス前に停まった。
「荷物それだけ?」夏美が目を丸くする。
「うん」
夏美はそれ以上追及せず、ドアを開けて澪の手にミルクティーを押し付けた。「乗って。美味しいもんを奢ってあげるから」
澪はその口ぶりに思わず笑みをこぼした。「残業って言ってなかった?」
「残業なんか知るかって話。有給取ったから!」夏美がエンジンをかける。「私たち、大学を卒業してからまともに遊んでなかったでしょ?この1週間はうちに泊まって、今までの分まで語り明かそう!
自分へのご褒美だと思ってゆっくりしなよ。その翠川町とかいうど田舎に行ったら、どうせ死ぬほど働かされるんだから。今のうちに休んでおいて」
澪は静かに「うん」と頷いた。
夏美が彼女を横目で見る。「明日、ちょっと行きたい場所があるの。アート展なんだけど、苦労してチケットを取ったんだから」
「そういうのは私にはよく分からないんだけど」
「分からないから見に行くんだよ。分かってるふりをしている人たちを観察するのも一興でしょ?」夏美は堂々と言い放った。「それに、家に引きこもってたってカビが生えるだけだよ?」
翌日の午後、澪はアート展の会場前に立っていた。
夏美は急遽会社に呼び出されてしまったため、去り際に何度も念を押して言った。
「ゆっくり見て回ってね。終わったらご飯を奢るから、勝手に帰っちゃ駄目だよ!帰ってもどうせ一人なんだからさ!」
澪は頷き、中へと足を踏み入れる。
しかし本当に、芸術というものが、澪には分からなかった。
一枚の絵に付けられた9桁の値段。澪はしばらく見つめてみたが、どこにそれだけの価値があるのか、さっぱり理解できなかった。
自分には教養がなく、庶民の感覚しかないのだと自覚している。それは、隼人と長年連れ添っても、一向に洗練されなかった。
それでも、他人の価値観は尊重していた。
人が自分にとって価値があると思うものにお金を使うのは、他人がとやかく言うことではない。
澪はゆっくりと歩きながら、大抵の作品を一瞥するだけで通り過ぎていった。
しかし、ある一枚の絵の前で足が止まった。
描かれていたのは、窓辺に座る女性。外から差し込む陽光が、女性の体を優しく包み込んでいる。
澪はその絵を見つめながら、なぜか夏美の「家に引きこもっていたってカビが生えるだけだよ?」という言葉を思い出していた。
思わず口元が緩む。
「ここで笑うのは、どうかと思うけど?」
傍らから、いかにもわざとらしい驚きを含んだ声が聞こえた。
澪は振り返る。
数歩離れた場所に、杏が立っていた。
「白川先生も絵を見に来たのね」杏が近づいてくる。
「この絵は、作者が亡き妻を悼んで描いた作品なの。一筆一筆に、奥さんへの深い思慕と愛情が込められているわ」
杏は少し間を置き、意味ありげな口調で続けた。「白川先生が地方の出身で、こういった芸術に疎いのだとしても、このような作品の前で笑うのは不謹慎じゃないかしら?少し作者に対して失礼かと……」
杏の声は大きくなくとも、周囲の数人の客にしっかりと届く声量だった。
だから足を止め、澪を非難するような目で見る者もいた。
澪は淡々と答える。「別に絵を笑ったわけじゃないから」
「じゃあ、何を笑っていたの?」杏は小首を傾げた。「別のことを考えていたとか?それならなおさら失礼じゃない?」
周囲の野次馬がどんどん増えていく。
澪は、杏のこのじわじわと首を絞めるような陰湿な攻撃が嫌いだった。
澪は顔を上げ、絵を見据えると、ゆっくりと口を開いた。
「作者の竹内亮太(たけうち りょうた)さん。現代画家で、人物の肖像画を得意とするの。それに、この絵が亡き妻を悼んだ作品であることも、55歳の時に描かれたことも事実」
杏は呆気に取られた。
しかし、澪はさらに言葉を続けていく。
「竹内さんが55歳の5月に奥さんは亡くなり、この絵は同年12月に完成した。でも、竹内さんは奥さんの死後わずか1ヶ月足らずで再婚したの。それも、相手は自分の教え子で、23歳も年下の女性」
澪はここで一旦言葉を区切り、杏を真っ直ぐに見据えた。
「だから、私がもし本当に、この絵の『深い愛情』を鼻で笑っていたとして、何の問題があるっていうの?」
第6話
その日の夜、澪のスマホに航空会社からショートメッセージが届いた。
【明日の飛行機の予約が確定いたしました。ご搭乗の2時間前には空港にて手続きをお済ませください】
それと同時にスマホが震え、隼人からのメッセージが画面に表示される。
【アート展でのこと、杏から聞いた。彼女に恥をかかすな】
澪は返信する気にもなれず、見なかったことにして目を閉じ、再び眠りについた。
次に目を覚ますと午前9時を回っていた。夏美はすでに出勤しており、テーブルには朝食とメモが残されていた。
【スープは温めて飲んでね。夜は早めに帰ってくるから、一緒にご飯を食べよう】
パンをかじっていると、スマホが鳴った。
見知らぬ番号だった。
「もしもし?」
「あの……白川先生ですか?」電話の向こうの声は震え、ひどく遠慮がちだった。「山下です。俺のこと、覚えてますか?あの、未払い給料の……」
澪は姿勢を正す。「ええ、覚えていますよ。どうされましたか?」
山下健一郎(やました けんいちろ)は、澪が事務所を去る前に引き受けた最後の案件の依頼人だった。業者が夜逃げし、健一郎を含む十数人の建築作業員が半年分の給与を未払いにされていたのだ。
妻は病に倒れ、子供の学費もなんとかしなければならない。一家は健一郎のそのわずかな金だけを頼りに生きていた。
難しい案件ではないし、証拠も揃っている。それに、澪は去る前に同僚に引き継ぎを済ませていたから、予定通りなら昨日には開廷しているはずだった。
「先生、じ……実は事務所から通知が来て、案件から手を引くって言われてしまいまして」
健一郎の声はどんどん小さくなっていく。「俺には何が何だか分からなくて……だから、先生に聞きたかったんです。俺の用意した書類に、何か不備でもあったんでしょうか?」
スマホを握る澪の指に、ぎゅっと力が入った。
「こちらで確認してみますので、ちょっと待っていてください」
電話を切るなり、澪はすぐに同僚へと電話をかける。
「山下さんの案件、一体どういうことなんですか?」
同僚は数秒黙り込んだ。「白川先生……こればかりはどうしようもなかったんです」
「どうしようもなかったって、どういう意味ですか?」
「実は、植田さんが事務所に来たんです。弁護士役のドラマが決まったから、役作りのためだとかで」同僚は複雑な口調で言った。「その時に、彼女がいくつかの案件に目を通したんですが、山下さんの案件は泥臭すぎてつまらないから断れと……」
澪はそれを聞き、何も言えなくなった。
「白川先生、柴田先生も同席してたんですよ?だから、私に何が言えたっていうんですか……」
「分かりました」
澪は電話を切った。
夕暮れ時、澪は隼人のオフィスのドアの前に立っていた。
中からは話し声が漏れてくる。
「弁護士って、こんなに退屈な仕事だったのね」それは、杏の気怠げな愚痴だった。「こんなドラマ受けるんじゃなかった。毎日ここに座って書類の山を見てるだけなんて、目が痛くなっちゃう」
隼人が笑いながら応じる。「誰もが経験できることじゃないんだぞ?」
「それはみんなが馬鹿だからでしょ?」杏は鼻で笑った。「それより、聞いてよ。この前ある案件を見たんだけど。
山下とかいう作業員の給料未払いで、業者が夜逃げしたってやつ。あんなのやってて何が面白いの?勝ったところでどうなるっていうのよ?どうせ業者に金なんてないんだから、判決が出たって回収できないじゃない?時間の無駄じゃん。
それにあの人たちったら、ほんと酷いんだよ?書類の字はミミズが這ったみたいで、まともに読めやしない。今の時代、字もまともに書けない人間がいるなんて信じられなかった」
隼人は「教育水準の違いだよ」と返した。
「だとしてもさぁ……まあいいや、こんな話。それより夜ご飯どうする?」杏の関心はすでに別のことへと移っていた。
澪は初めて、自分と隼人との間にある絶望的な溝をはっきりと感じた。
一般人にとっては命に関わるような深刻な事件であっても、隼人たちの目には単に「つまらない」ものとしてしか映らないらしい。
隼人たちは高いところから下々の者を見下ろし、穏やかで慈悲深い目を向けながらも、なぜ下々の者が這いつくばって泥にまみれながら生きているのかを、永遠に理解することはない。
澪はようやく悟った。隼人は昔から、何一つ変わっていなかったのだと。
彼はいつだって、あの高みから見下ろす柴田家の御曹司であり、礼儀正しく、温厚で、教養に満ちている。
ただ、かつての自分が若すぎて、その「教養」を「優しさ」だと勘違いしていただけなのだ。
第7話
澪がドアを押し開けると、二人は同時に顔を上げた。
「白川先生?」杏が先に口を開き、眉を吊り上げた。「どうしてここに?地方へ行くんじゃなかったの?」
しかし、澪は杏に視線を向けず、隼人だけを見据えた。
「山下さんの案件、なんで手を引いたの?」
隼人は書類を閉じ、椅子の背もたれに寄りかかった。「杏が言っていた件か?」
「なぜ手を引いたのかって聞いてるの」
しかし、隼人は淡々としていた。「あの事件は債権回収の難易度が高いし、事務所のリソースも限られているからな。実質的な利益を生む案件を優先するのは当然だろ」
「回収の難易度が高い?」澪は隼人を睨みつけた。「証拠は完全に揃っていて、法的関係も明白だし、未払いの事実も確定している。これでも難易度が高いって言うの?」
横から杏が軽く鼻で笑った。「白川先生、分かってないわね。業者が夜逃げしてるのに、判決が出たって何の意味があるの?ただ無駄に労力を使うだけじゃない」
澪は杏を無視する。
「もう契約を結んで、委任だって成立してたんだよ?だから、あなたに一方的に解除する権利なんてないの」
隼人が立ち上がった。「澪、少し冷静になれ」
「私は至って冷静だけど」
澪は数歩進み、隼人の目の前に立つ。
「山下さん、53歳。奥さんは尿毒症で週2回の透析治療を受け、息子さんは大学に入ったばかりで学費も借金でなんとかしてる。山下さんの半年分の給与は96万円。だけど、彼はそのお金だけを頼りに借金を返し、奥さんの治療費を工面しようとしていたの」
隼人が答えた。「知っている」
「いいえ、あなたは分かっていない」澪は一字一句噛み締めるように言った。「96万円が、山下さんたちにとってどれほどの重みを持つのかを……
彼はバス代すら惜しんで、毎日1時間も歩いて事務所に書類を届けに来ていた。
私に電話をかけてくる時も、終始迷惑じゃないかって謝り続けていたことも、あなたは知らない」
杏が横で口を尖らせる。「貧乏人っていつもそうよね。すぐに不幸自慢をして……」
「黙って」
澪は杏を振り返って睨みつけた。
杏は一瞬呆気に取られ、信じられないという顔をした。「今、なんて言ったの?」
「黙ってって言ったの」
オフィスの中が、数秒間静まり返る。
杏は顔を真っ赤にしながら、隼人に縋り付いた。「隼人、聞いた?今の言葉!」
隼人が眉をひそめた。「杏に悪意は無い」
「ええ、分かってる」澪は隼人を見据える。「彼女は理解できないだけ。そして、あなたも理解できないだけなの」
澪は少し言葉を区切った。
「あなたたちの言う善良さとは、高い所から見下ろし、施すものであって、自分たちの気分に影響しない範囲での慰めに過ぎない。
けど、知ってる?字もまともに読めない山下さんが、あの書類を書き上げるために、なけなしのお金で人に2回もご飯を奢って、助けてもらっていたことを。なぜなら、彼は『弁護士は紙に書かれた証拠しか信じない』と聞いたから」
隼人は数秒沈黙した後、言った。「この案件は、誰かに引き継がせるよ」
「その必要はないから」
澪は一歩後ろへ下がる。
「私が自分でなんとかするから」
澪は背を向け、オフィスを出て行った。
事務所のドアを出る頃には、空はすでに暗くなっていた。
風は少し冷たく、なぜだか目頭を微かに熱くさせる。
澪は道端に立ち、ある番号に電話をかけた。
呼び出し音は長く鳴り続け、ようやく繋がった声には眠気が混じっていた。「もしもし?こんな夜更けに誰だよ……」
「石田先生、私よ」
「白川先生か?」石田拓海(いしだ たくみ)の声が一瞬にしてはっきりとした。「電話なんて珍しいな。地方の法テラスに行くって聞いたぞ?」
「一つ、お願いしたい案件があるの」
「なんだ?」
「未払い給与の回収。被告の業者は逃亡中だけど、証拠は揃っていて、居場所の特定もできる。でも、私が発つまでに結審できないから、引き受けてもらえないかな?」
拓海は2秒ほど黙り込み、「よし。明日、依頼人にこっちへ連絡させろ」と答えた。
「ありがとう」
「礼なんかいいから。今度飯でも奢ってくれ」
電話を切った澪は、しばらく道端に佇んでいた。
街灯が灯り始め、行き交う車の波。仕事を終えて家路につく者、急いで待ち合わせに向かう者。
夏美の車がマンションの前に停まっており、遠くから彼女が手を振っているのが見えた。
「どうして電話に出ないのよ?」夏美が駆け寄ってきた。「10回以上もかけたのに!」
澪はスマホを取り出して確認する。
そこには17件の不在着信があった。
「行こう」
夏美が呆気にとられて尋ねる。「行くってどこに?」
「空港。フライトを変更したの」