幼馴染はあの女のために、母を殺した​

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幼馴染はあの女のために、母を殺した​

GoodNovel Hoàn thành

母の心臓手術を行えるのは、世界でわずか三人だけだった。 ​ 「神の手を持つ心臓外科医」と呼ばれる夫、柘植覚(つげ さとる)は、手術を放り...

Chương (1)

第1章

母の心臓手術を行えるのは、世界でわずか三人だけだった。 ​ 「神の手を持つ心臓外科医」と呼ばれる夫、柘植覚(つげ さとる)は、手術を放り出し、風邪を引いた初恋の相手・杉之原美帆(すぎのはら みほ)の看病のために海外へ向かった。 ​ 絶望の淵に立たされたとき、幼馴染の稲玉琉太(いなだま りゅうた)が、最高の医師を連れて母の手術のために駆けつけてくれた。 ​ けれど、遅すぎたのか、母は結局、手術台の上で息を引き取った。 ​ 三年の月日が流れ、覚と離婚し、琉太からプロポーズされた。受け入れようとしたそのとき、琉太と覚の会話が耳に飛び込んできた。 ​ 「天音は気が強い。もしあのとき、母親が本当は病気じゃなかったことや、俺たちが美帆のために母親を死に追いやったと知ったら……」 ​ 全身の血が、一瞬で凍りついた。 ​ 琉太が覚の言葉を遮った。 ​ 「もういい。 ​ 美帆は母親のことで体調を崩し続けてた。天音の母親だけが唯一、適合するドナーだったんだ。俺が美帆の死を黙って見過ごせというのか? ​ 今こうして責任を持って天音と結婚してやるんだ。彼女はこれで満足すべきだろう」 ​ そのとき、私・竹本天音(たけもと あまね)は初めて知った。 ​ 母は、どこも悪くなんてなかったのだ。 ​ 彼らが共謀して、母を殺したのだ。 ​ 第1話 ​ 母の心臓手術を行えるのは、世界でわずか三人だけだった。 ​ 「神の手を持つ心臓外科医」と呼ばれる夫、柘植覚(つげ さとる)は、手術を放り出し、風邪を引いた初恋の相手・杉之原美帆(すぎのはら みほ)の看病のために海外へ向かった。 ​ 絶望の淵に立たされたとき、幼馴染の稲玉琉太(いなだま りゅうた)が、最高の医師を連れて母の手術のために駆けつけてくれた。 ​ けれど、遅すぎたのか、母は結局、手術台の上で息を引き取った。 ​ 三年の月日が流れ、覚と離婚し、琉太からプロポーズされた。受け入れようとしたそのとき、琉太と覚の会話が耳に飛び込んできた。 ​ 「天音は気が強い。もしあのとき、母親が本当は病気じゃなかったことや、俺たちが美帆のために母親を死に追いやったと知ったら……」 ​ 全身の血が、一瞬で凍りついた。 ​ 琉太が覚の言葉を遮った。 ​ 「もういい。 ​ 美帆は母親のことで体調を崩し続けてた。天音の母親だけが唯一、適合するドナーだったんだ。俺が美帆の死を黙って見過ごせというのか? ​ 今こうして責任を持って天音と結婚してやるんだ。彼女はこれで満足すべきだろう」 ​ そのとき、私・竹本天音(たけもと あまね)は初めて知った。 ​ 母は、どこも悪くなんてなかったのだ。 ​ 彼らが共謀して、母を殺したのだ。 ​ 私はドアノブを、壊れそうなほど強く握りしめた。 ​ 爪が手のひらに食い込んでいるのに、痛みさえ感じない。 ​ 涙が音もなく溢れ出し、床に落ちていった。 ​ 琉太が私にプロポーズしたのは、最初から最後まで美帆のためだった。 ​ 三年間そばにいてくれたことも、すべて嘘だった。 ​ ドアの向こうでは、まだ会話が続いている。覚が言った。 ​ 「あのとき、美帆のために、俺はこの手で天音の母親を殺した。自分を恨めしそうに見つめてたあの目が、今も忘れられない。 ​ こうしてお前が天音と結婚式を挙げることが、俺にとって彼女へのせめてもの償いだろう」 ​ 琉太の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。 ​ 「美帆が愛してるのがお前でなければ、誰が天音みたいな女と結婚するか。 ​ いいか、美帆を大切にしろ。さもなければ、タダでは済まさないぞ」 ​ 「お前も天音を大切にしてやれ」 ​ 覚が言葉を返した。 ​ 「余計なお世話だ。天音を愛してなどいない。俺が愛してるのは、いつだって美帆だけだ。天音と結婚するのも、美帆のために徳を積むようなものさ」 ​ 琉太が冷たく言い放った。 ​ 体中の血が凍りつくようだ。 ​ 部屋に飛び込んで、その偽りの仮面を剥ぎ取り、どうしてこんな残酷な真似ができたのかと問い詰めたかった。 ​ けれど、体は鉛のように重く、その場に釘付けになって動けない。 ​ 結局、私は逃げ出した。 ​ なんて情けない、問いただす勇気さえ持てない臆病者なのだろう。 ​ 一人で道を歩いた。 ​ 周囲は楽しそうな連れ合いばかりだ。 ​ それなのに、私には行くべき場所がどこにも見当たらない。 ​ 空が暗く曇ってきた。 ​ 大粒の雨が体に叩きつけられた。 ​ 前触れもなく降り出した雨は、肌を刺すように痛い。 ​ 私は街の片隅でうずくまり、雨水と涙がすべてを塗りつぶすままにさせている。 ​ 世界はこんなに騒がしいのに、私の居場所はどこにもない。 ​ 不意に温かな体温が私を包み込み、懐かしいシダーウッドの香りが漂ってきた。 ​ 頭の上で、琉太の声が響いた。 ​ 「電話に出ないから、ずっと探してたんだ。こんなところにいたのか」 ​ 私は虚ろな瞳を向けたまま、何も答えなかった。 ​ 彼は話を続けた。 ​ 「お母さんのことを思い出してたんだろう? ​ もう考えるな。いいかい、これからは俺がいる。俺がお前の家族になるから」 ​ 彼の胸に顔をうずめ、その穏やかな鼓動を聞きながら、鈍い刃物で何度も心臓を切り刻まれているような心地がした。 ​ こんなに優しく振る舞いながら、どうして母を殺した犯人になれるのだろう。 ​ あのとき、覚は母を見捨てて美帆の看病に行った。 ​ 琉太は医師を連れて、私の人生に差し込む一筋の光のように現れた。 ​ 今思えば、あの医師はきっと、母の心臓を奪うために連れてこられたのだ。 ​ 母の葬儀があんなに急がされたわけだ。 ​ 私は気を失っていた。 ​ 目を覚ましたときには、母はすでに火葬場へと送られていた。 ​ すべては、私に真実を悟られないようにするためだったのだ。 ​ 琉太は私を抱きかかえて家に戻ると、乾いたタオルを手に取り、いつものように髪を拭こうとした。 ​ その指が触れる直前、私は強く顔を背けて避けた。 ​ 「自分でやるわ」 ​ そう言い残して、そのまま二階へと上がった。 ​ 真実を知った今、もう彼と仲睦まじい恋人を演じ続けることなんて、到底できない。 ​ 一秒でも長くそこにいたら、彼を絞め殺してしまいそうで怖かった。 ​ 第2話 ​ 翌朝、ドアが静かに開かれた。 ​ 琉太が近づき、慣れた手つきで私の額にそっと口づけを落とした。 ​ 「今日はお母さんの命日だ。墓参りの支度はできてる」 ​ その声は低く、穏やかだ。 ​ この三年間、毎朝私を安心させてくれたあの声と変わらない。 ​ 私は小さく頷き、何も言わなかった。 ​ 出かけようとしたとき、琉太のスマホが鳴った。 ​ 画面に【美帆】という二文字がはっきりと浮かび上がり、私の目に映った。 ​ 彼の瞳が激しく揺れ動き、繋いでいた私の手を瞬時に離した。 ​ 「ちょっと待っててくれ」 ​ 琉太は急ぎ足でバルコニーへと向かった。 ​ 十分後、戻ってきた彼の顔には、焦りの色がにじんでいる。 ​ 「天音、会社で急なトラブルが起きた。今日は一緒に行けそうにない」 ​ 私と目を合わせることさえせず、彼は背を向けようとした。 ​ 私は手を伸ばし、彼の袖をぎゅっと掴んだ。 ​ 「琉太……お願い、今日だけはそばにいて。今日だけでいいから」 ​ 消え入りそうな声だったが、ありったけの力を振り絞った。 ​ 心の中で自分に言い聞かせた。 ​ もし彼がここに残ってくれるなら、もし私を選んでくれるなら、昨夜聞いたすべてのことを、悪い夢だったと思い込もう、と。 ​ 彼は一瞬だけ動きを止めたが、やがて私の指を一本ずつ引き剥がした。 ​ 「わがままを言わないでくれ。本当に急用なんだ。 ​ 車は手配してあるから、それで向かって。俺はできるだけ早く戻る」 ​ 彼は一度も振り返らなかった。 ​ ドアが閉まる音が、私の心に残っていた最後の望みを奪い去った。 ​ 私の指は、引き剥がされたときの形のまま、氷のように冷たく固まっている。 ​ ――琉太、チャンスをあげたのよ。 ​ それを捨てたのは、あなた自身。 ​ 私はスマホを取り出し、大金持ちの父に電話をかけた。 ​ 「実家に戻って、跡を継ぐわ」 ​ 電話の向こうから、隠しきれない驚きと喜びの声が聞こえてきた。 ​ 「本当か?向こうでの暮らしを、すべて捨てて戻ってくるんだな?」 ​ 私は窓の外に広がる、灰色に沈んだ空を見つめた。 ​ 「三日後に迎えを寄越して」 ​ 車は墓地へと向かっている。 ​ スマホが震え、見知らぬメールアドレスから一枚の写真が送られてきた。 ​ 写真の中で、美帆は満面の笑みを浮かべ、真ん中に立っている。 ​ 彼女の左隣には、私の元夫である覚。 ​ そして右隣には、今しがた出て行ったばかりの琉太。 ​ 二人の男は、忠実な騎士のように、深い情愛を湛えた瞳で美帆を見つめている。 ​ 美帆を見つめる琉太の瞳は、私がこれまで一度も見たことのないほど、優しさに満ちている。 ​ 時折、彼が本当に私を愛しているのだろうかと不安になった理由が、ようやくわかった。 ​ 彼の愛する人は、最初から別にいたのだ。 ​ 続けて、美帆からメールが届いた。 ​ 【五年前も五年後も、あなたは私に勝てないわ。 ​ 私が必要とさえすれば、彼らはいつでもすべてを放り出して駆けつけてくれるもの】 ​ 私は返信せず、そのまま彼女をブロックした。 ​ 琉太とは幼馴染だった。 ​ けれど大学進学を機に、私は北へ、彼は南へと離れ離れになった。 ​ 新しい町で、私は美帆と覚に出会った。 ​ 覚と付き合い始めた私が浮かれて、琉太を美帆に紹介したのが、すべての始まりだった。二人をくっつけようとして。 ​ それ以来、四人で遊ぶことが増えた。 ​ けれど、二人の男はいつも美帆のために私を叱りつけていた。 ​ 一吹きの風が、私を思い出の中から呼び戻した。 ​ 車が止まり、墓地に到着した。 ​ 第3話 ​ 結局、琉太は迎えに来なかった。 ​ 家には帰りたくなかった。 ​ 運転手を先に帰らせ、一人で街を歩くことにした。 ​ ショッピングモールの入り口に着いた途端、琉太と美帆の姿が目に飛び込んできた。 ​ 二人はまるで少女漫画から飛び出してきたかのように、お似合いのカップルに見えた。 ​ 美帆は私に気づくと、一瞬だけ瞳を輝かせた。 ​ 琉太の腕をぎゅっと抱き寄せると、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。 ​ 彼女の声は甘ったるく、けれどその眼差しには鋭い棘が宿っている。 ​ 「天音、どうしてこんな所に一人でいるの?寂しそうだね」 ​ 私は口角を上げたが、作り笑いをするのさえ億劫だ。 ​ 「そうね、なにしろ私の婚約者は……」 ​ 琉太に視線を向けると、彼はわずかに眉をひそめた。 ​ 「美帆のお相手で忙しいみたいだから、一人なのは当たり前でしょう」 ​ 美帆の目尻がみるみるうちに赤くなった。 ​ 彼女は琉太の手を離すと、まるで耐え難い屈辱を受けたかのように振る舞った。 ​ 琉太はすぐさま彼女を背後に庇い、私を睨みつけた。その目には隠しきれない苛立ちが宿っている。 ​ 「そんなに刺々しい言い方しかできないのか? ​ 何度も言っただろう、美帆は妹のような存在なんだ」 ​ それを聞いた私は、自分でも驚くほど冷静だ。 ​ 美帆は声を詰まらせ、今にも私に頭を下げそうな仕草を見せた。 ​ 「琉太、天音を責めないで。 ​ 私がいけないの。私が謝れば済むことだから」 ​ 琉太は慌てて美帆を支え、ひどく心を痛めている様子だ。 ​ 「美帆、お前は何も悪くない。謝る必要なんてないんだ」 ​ 彼は私に向き直ると、重苦しい視線で脅すように見つめてきた。 ​ 「今すぐ美帆に謝れ。さもないと、タダでは済まさないぞ」 ​ 私は奥歯を噛み締め、口の中に鉄の味が広がった。 ​ これ以上、どうやって自分を欺けばいいのかさえ分からない。 ​ 琉太の瞳にも心にも、美帆しか映っていないのだ。 ​ 「謝らないわ。一つも間違ったことを言ってないから」 ​ 彼の額に青筋が浮かび、眼差しは凍りついている。 ​ 背後にいた二人のボディガードが歩み寄り、乱暴に私の膝の裏を蹴り上げた。 ​ 激しい痛みが走った。 ​ 不意を突かれた私は、美帆の前で無残にも膝をついてしまった。 ​ 琉太は私を見下ろし、冷たい声で言い放った。 ​ 「謝り方を知らないのなら、教えてやる」 ​ 目の前にいるのは、母を殺した犯人だ。 ​ それなのに琉太は、その犯人に跪いて謝れと言っている。 ​ 屈辱が全身を駆け巡った。 ​ 私は勢いよく顔を上げ、彼の顔を釘付けにするように睨みつけた。 ​ 「稲玉琉太。今日のこの辱め、一生恨んでやる」 ​ 私の視線に気づいた彼は、一瞬だけ、ほとんど気づかれないほど動きを止め、思わず私を助け起こそうとした。 ​ そのとき、美帆はかすかに声を漏らし、彼の胸に崩れ落ちた。 ​ 「美帆!」 ​ 琉太の顔色が激しく変わった。 ​ 彼はすぐさま彼女を横抱きにすると、私には目もくれず、急ぎ足でその場を去っていった。 ​ 周囲の野次馬の視線が、針のように背中に突き刺さった。 ​ 私は震える膝を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。 ​ 帰宅後、そのまま琉太の書斎へと向かった。 ​ 美帆の誕生日を打ち込み、彼の金庫を開けた。 ​ 覚悟はできている。 ​ 不思議なことに、もう悲しみさえ感じなかった。 ​ 金庫の中には、高価な品は一つもなく、ただ一通の書類が静かに収められていた。 ​ それを取り出した。 ​ いざ証拠を目の当たりにすると、やはり胸の奥が疼くように痛んだ。 ​ 麻痺していたはずの傷口が再び抉られ、腐りかけた肉が露わになったような感覚。 ​ 琉太は私の筆跡を真似て、この同意書に署名していたのだ。 ​ 私はスマホを取り出し、一ページずつ鮮明に写真に収めた。 ​ 力んだ指先が白くなり、激しく震えている。 ​ ――琉太、必ず報いを受けさせてやる。 ​ 書斎を出ようとしたとき、階下で物音がした。 ​ 美帆のか細い声が響いた。 ​ 「琉太、やっぱり帰るわ。天音が気を悪くしちゃうもの」 ​ 私は階段を降りていった。 ​ リビングで、顔を青ざめさせた美帆が琉太の胸に寄り添っている。 ​ 琉太は私に視線を向けたが、美帆に向けられていた柔らかな眼差しは、私を見るや否や冷徹なものへと変わった。 ​ 「ちょうどいいところに。 ​ 美帆は体調が良くないから、しっかり休まなきゃ。今日から彼女はここに住むことにした」 ​ 第4話 ​ 私はただ淡々と「わかったわ」とだけ応じた。 ​ その従順な様子が、かえって琉太の眉をひそめさせた。 ​ 彼は私の手首を掴んだ。その力には、どこか理性を欠いたものが感じられた。 ​ 「美帆の持病がぶり返したのはお前のせいだ。それなのに、こんな態度をとって、一体何に腹を立ててるんだ?」 ​ 私は視線を上げ、彼の瞳の奥をじっと見つめた。 ​ 「ここは琉太の家よ。誰を住まわせようと、私に拒む権利なんてあるのかしら?」 ​ 琉太は呆然とした様子で、手の力をわずかに緩めた。何か言いかけたようだ。 ​ 後ろから美帆の声が聞こえた。 ​ 「琉太、やっぱり私、行くわ。 ​ 私のせいで琉太と天音が喧嘩するのは嫌なの」 ​ 彼女は手を伸ばし、琉太の袖をそっと引いた。 ​ 琉太は美帆の手を握りしめた。 ​ 「安心しろ。俺がここにいる限り、誰にもお前を追い出させはしない」 ​ 彼は鋭い目で私を一瞥すると、美帆を抱きかかえて二階へと上がっていった。 ​ 翌日、私が外から戻ると、琉太がリビングに立っている。 ​ 彼の視線が私に注がれた。 ​ 口を開いた彼の言葉は、当然のことと言わんばかりの命令だ。 ​ 「美帆が最近、夜にうなされてよく眠れないらしい。お前のそのお守り、しばらく彼女に貸してやってくれ」 ​ 私は足を止めた。 ​ 首にかけたお守りは、十数年もの間、肌身離さず身につけてきたものだ。 ​ 幼い頃、私が数日間にわたって高熱にうなされたとき、琉太が彼の両親と共に神社へ参拝し、私のために授かってきてくれたもの。 ​ 不思議なことに、それを身につけたその夜、熱はまるで嘘のように引いていった。 ​ それ以来、私は大きな病気をしたことがない。 ​ 今、琉太はそのお守りを取り上げようとしている。 ​ 黙り込んでいる私を見て、彼は釈明でもするかのように、ぶっきらぼうに言葉を継いだ。 ​ 「美帆は今、具合が悪いんだ。 ​ 少しの間だけ貸せばいい。体が良くなったらすぐに返すから」 ​ 私は首にかけたお守りに手を伸ばした。 ​ ためらうことなく、力任せに引きちぎった。 ​ それをテーブルの上に置き、美帆の方へと押しやった。 ​ 「元々私のものではない。返す必要もない」 ​ 言い捨てて、私は二階へ上がった。 ​ 今日は、この家を去る日だ。 ​ 身分証明書以外、何も持たなかった。 ​ 階段を降りると、美帆と琉太が仲睦まじく座っている。 ​ 「琉太が作ったご飯、本当に美味しいわ」 ​ 琉太は美帆のために料理を取り分けているが、気配に気づいて顔を上げた。 ​ 私を見た瞬間、彼の瞳に警戒の色が走った。 ​ 「美帆は体が弱いから、これは彼女のために作ったものだ。 ​ 欲しがるな」 ​ 私は足を止めることなく、真っ直ぐに玄関へと向かった。 ​ 空港に着いても、琉太からはまだ説教じみたメッセージが届き続けている。 ​ 【たかが食事のことで、そこまでへそを曲げる必要があるのか? ​ お前のせいで美帆がまた気分を悪くした。すぐに戻って謝れ。 ​ 俺の堪忍袋の緒を切らすな】 ​ 私の顔には、何の感情も浮かんでいない。スマホからSIMカードを抜き取り、指先で二つに折り曲げてからゴミ箱に捨てた。 ​ 機内に乗り込み、スマホの電源を切った。 ​ 飛行機がゆっくりと上昇していく。 ​ 窓の外に広がる、見慣れた景色を眺めながら、心の中で呟いた。 ​ さようなら、と。 ​ 琉太は、二度と返信が来ないスマホを握りしめている。画面が暗くなっては、また点灯させている。 ​ かつてないほどの苛立ちが、胸の奥から込み上げてきた。 ​ 彼はネクタイを緩め、この得体の知れない不快感を振り払おうとした。 ​ それから、秘書に電話をかけた。自分でも気づかないほどの焦燥が、その声に滲んでいる。 ​ 「天音と連絡を取れ。今すぐだ!」 ​ 数分後、秘書から折り返しの電話がかかってきた。 ​ 「稲玉社長、竹本様とは連絡が取れておりません。ですが……先ほど裁判所から呼び出し状が届きました。原告は、竹本様です」 ​