十五年目の真実~私たちが父を憎んだ理由~

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十五年目の真実~私たちが父を憎んだ理由~

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10歳まで、私は自分が世界で一番幸せな子供だと思っていた。優しい両親に愛され、温かい家庭があったから。 だが11歳の冬、年が明けてすぐに母...

Chương (1)

第1章

10歳まで、私は自分が世界で一番幸せな子供だと思っていた。優しい両親に愛され、温かい家庭があったから。 だが11歳の冬、年が明けてすぐに母の肝臓がんが発覚した。移植手術が必要になったものの、ドナーはなかなか見つからない。 そのうえ父は、たとえ手術が成功しても莫大な治療費がかかると知るや否や、家の貯金をすべて持ち出し、若い女を作って逃げてしまった。 匿名の支援者がドナーを探し出し、資金援助をしてくれなければ、私たち親子の命はあの冬に終わっていただろう。 奇跡的に生き延びた後、母も私も、あの男を心の底から憎んだ。 「あのクズを後悔させたいなら、あなたが誰よりも立派になりなさい」 母の言葉を胸に、私は死に物狂いで勉強し、仕事に打ち込んだ。 どこかで呑気に暮らしているだろう父親に、いつか絶対にこのツケを払わせてやる。そう誓っていたが、何年経ってもあの男が姿を現すことはなかった。 そして今年の大晦日。母と一緒に年越しそばの準備をしていると、警察から一本の電話がかかってきた。 それが、あの男との十数年ぶりの繋がりだった――彼の「死」という形での。 「結城叶(ゆうき かなえ)さんですね。お父様の結城昭吾(ゆうき しょうご)さんが、古いアパートの一室で亡くなっているのが発見されました。至急、ご遺体の引き取りにお越しください」 第1話 10歳まで、私は自分が世界で一番幸せな子供だと思っていた。優しい両親に愛され、温かい家庭があったから。 だが11歳の冬、年が明けてすぐに母の肝臓がんが発覚した。移植手術が必要になったものの、ドナーはなかなか見つからない。 そのうえ父は、たとえ手術が成功しても莫大な治療費がかかると知るや否や、家の貯金をすべて持ち出し、若い女を作って逃げてしまった。 匿名の支援者がドナーを探し出し、資金援助をしてくれなければ、私たち親子の命はあの冬に終わっていただろう。 奇跡的に生き延びた後、母も私も、あの男を心の底から憎んだ。 「あのクズを後悔させたいなら、あなたが誰よりも立派になりなさい」 母の言葉を胸に、私は死に物狂いで勉強し、仕事に打ち込んだ。 どこかで呑気に暮らしているだろう父親に、いつか絶対にこのツケを払わせてやる。そう誓っていたが、何年経ってもあの男が姿を現すことはなかった。 そして今年の大晦日。母と一緒に年越しそばの準備をしていると、警察から一本の電話がかかってきた。 それが、あの男との十数年ぶりの繋がりだった――彼の「死」という形での。 「結城叶(ゆうき かなえ)さんですね。お父様の結城昭吾(ゆうき しょうご)さんが、古いアパートの一室で亡くなっているのが発見されました。至急、ご遺体の引き取りにお越しください」 「父が死んだ」――その言葉に私は一瞬呆然とし、直後、胸の奥からじわじわと歓喜が湧き上がってきた。 妻と娘を見殺しにしたあの裏切り者が、ついに死んだのだ。 だが、母の反応は違った。瞬時に激昂し、私の手からスマホをひったくると、電話越しの警察官に向かって怒鳴り散らした。 「ふざけないでください!あの男が死んだからって、どうしてうちの娘が遺体を引き取らなきゃいけないんですか! 昔私たちを捨てただけじゃ飽き足らず、死んでまで嫌がらせをする気!?絶対に行きませんからね! 浮気相手に産ませたガキにでも引き取らせればいいでしょ!それが無理なら、そっちで勝手に処分してください!」 まくしたてると、母は画面をタップして一方的に通話を切った。そして血走った目で私を捉え、「絶対に引き取りになんか行くんじゃないわよ」と厳しく念を押す。 怒りと憎しみで目を真っ赤にしている母を前に、私はただ黙って頷くしかなかった。 だが、自室に戻った後、スマホの画面が再び点灯した。 警察からのメッセージだ。そこには、一つの住所だけが記されていた。 画面に浮かぶ文字列をじっと見つめていると、さまざまな思いが複雑に絡み合い、頭の中を駆け巡る。少しの逡巡ののち、私は文字を打ち込んで送信した。 【わかりました】 行く決心をした。 けれどそれは、あの男にわずかでも情が残っているからじゃない。遺体を引き取る義理なんてこれっぽっちもない。 ただ、この目で確かめてやりたかったのだ。 私たちを見殺しにしてまで追い求めた「幸せな生活」とやらが、一体どれほど立派なものだったのかを。 翌日、私は仕事だと嘘をついて飛行機に乗り込み、警察から送られてきた住所へと向かった。 高級タワーマンションで優雅に暮らしているのだろうと思っていたが、たどり着いた先は、今にも取り壊されそうなスラムのような古びたアパートだった。 場所を確認したあと、メッセージにあった大家の番号へ電話をかける。 現れた中年の女は、私の顔を見るなりあからさまに呆れた目を向け、鍵を押し付けながらブツブツと文句を垂れた。 「あんたが昭吾さんの娘さん?すっかり死に絶えてからやっと顔を出すなんてね。今まで何やってたんだか」 相手にする気にもなれず、私は無言で鍵を受け取ると、さっさとその場を離れた。 ドアを開けて中に入り、呆気にとられた。 部屋の中は異様なほどガランとしており、粗末なベッドと小さな机がポツンと置かれているだけで、他に家具らしいものは何一つなかったのだ。 そのあまりにも惨めな有様を目にして、思わず鼻で笑ってしまった。 私はスマホを取り出し、部屋の様子を何枚か写真に収める。 家に帰ったら、母にも見せてやろう。あの裏切り者が自分たちを捨てた挙句、どれほど底辺の生活を送っていたか教えてやるのだ。 先ほど遺体を葬儀社に引き渡した際、警察は「アパートで孤独死していた」と言っていた。 死因は多臓器不全。身長180センチと大柄だったあの男は、発見時、体重がわずか45キロにまで激痩せしていたらしい。 だが、それを聞いても悲しみなど欠片も沸かなかった。 自業自得だ。 あの日、家の全財産を持ち出し、若い女と逃げたりしなければ、私と母があんな地獄のような苦労を味わうことはなかったのだから。 これ以上ここにいる理由はない。そう思って背を向けかけたとき、ふと、机の上に置かれたボロボロのパスケースが目に留まった。 近づいて手に取り、中を開く。 そこに入っていたのは――私が十歳の誕生日に撮った、家族三人で笑い合っている写真だった。 それを見ても、私の心は少しも揺らがなかった。ただ、得体の知れない気味悪さと吐き気だけが込み上げてくる。 妻子を無残に捨てておきながら、今更なにを悲劇の父親ぶっているのか。 かつて母がプレゼントしたパスケースをまだ使い続けているだけでなく、とっくの昔に母がビリビリに破り捨てたはずの家族写真を、わざわざ大事に持ち歩いているなんて。 遺品を整理した私がこれを見つけたら、ほだされて立派な葬式でも出してやるとでも錯覚したのだろうか? 虫が良すぎる。 母がガンで重病の床についていた時、あの男が浮気相手の女を連れて病室に乗り込み、母をさんざん侮辱したあの日のことを。泣いてすがりつく私を怒鳴りつけ、無情にも蹴り飛ばした時の痛みを。 私は死んでも、絶対に忘れない。 腹立たしさが頂点に達し、私はケースから家族写真を引き抜くと、怒りに任せて粉々に引き裂いた。 すると、破れた写真が落ちた後から、また別の写真が顔を出した。 私が大学生の時に撮られた写真だった。 はっとしてそれを抜き取ると、さらに下からもう一枚出てきた。私自身の後ろ姿を背景にして、こっそりとフレームに入るように撮られた、自撮り風のツーショット写真だった。 写真の端に写り込んだあの男の顔の半分は、あまりにも老け込んでいた。ひどく痩せこけて肌は黒ずみ、唇は血の気がないほど真っ白で、私の記憶の中にある父親の姿とはまるで別人のようだった。 まだ五十歳のはずなのに、どうしてこんなに年老いているのか…… 一瞬、胸の奥がチクッと痛んだが、私はすぐにその感情をねじ伏せた。 自業自得だ。あんな男がどうしてこんな姿になったのかなんて、知る必要もない。 どのみちあいつは死んだのだ。こんな悲惨な最期を遂げてくれたおかげで、ようやく私の中で区切りがつけられる。 そう自分に言い聞かせるように、私は写真を机の上に放り投げ、足早に部屋を出た。 第2話 だが、廊下に出た途端、さっきの大家に立ち塞がられた。 「ちょっと待ちなよ。さっさと昭吾さんの荷物片付けてちょうだい。次の人に部屋を貸さなきゃいけないんだから! それとね、あの人、半年分の家賃を滞納してるのよ。全部で十二万。娘なんだから、あんたが代わりに払いなさい!」 その言葉に、なんとか抑え込んでいた怒りが再び一気に燃え上がった。 どこまでも最低な男だ。死んでまで、自分のケツ拭きを私に押し付けるとは。 私は苛立ちのままにスマホを取り出し、電子決済で大家の口座に滞納分を送金した。 「……今、払いました。部屋の荷物は一切いらないんで、そっちで全部捨ててください。もう二度と連絡してこないで」 冷たく言い捨てて立ち去ろうとしたが、大家はひるむどころか、忌々しそうに唇を尖らせてぼやいた。 「若いのに、血も涙もない娘だねぇ。昭吾さんは毎日あんたのこと自慢してたってのに、とんだ恩知らずだよ。 昭吾さんもお人好しすぎるのよ。あん時、あんたのお母さんに自分の肝臓なんか提供しなきゃよかったんだ。さっさと新しい奥さんもらって、別の子供でも作ってりゃ、こんなボロアパートで一人寂しく死ぬこともなかっただろうに」 単なる独り言のような小さな声だったが、その一言一句が、はっきりと私の耳に突き刺さった。 私はピタリと足を止め、全身の血が逆流するような感覚を覚えながら振り返った。 「……何、適当なこと言ってんの。それ、全部あの男が言ってたわけ?」 気づけば、私の声は怒りで震え上がっていた。 「笑わせないでよ!お母さんの肝臓は、見ず知らずの心優しいドナーが提供してくれたの! それにこの十数年、私たちはあの男から一円だって受け取ってない!私と母さんに責任をなすりつけて、悲劇の父親でも気取ってたの!? 浮気相手のために妻子を捨てるような人間のクズはね、こんな惨めな死に方をして当然なのよ!!」 私の剣幕に、大家の女は一瞬呆気に取られていた。それでも、反射的にあの男をかばう言葉を口にする。 「妻子を捨てたぁ?まさか。昭吾さん、酔っ払うたびに家族写真を抱いて泣いてたんだよ。それに、奥さんに肝臓を提供した証明書だって、私たちに見せてくれたし! 第一、この何年もずっと一人暮らしだったんだ。浮気相手なんているわけないじゃないか!」 この期に及んでまだあの裏切り者を庇おうとする大家に、私はすっかり苛立ち、吐き捨てるように言った。 「へえ、よっぽど名芝居を打ってたのね。しかもそんな何年も前から。 でも残念だけど、見込み違いだったみたい。どんなに悲劇の父親を演じようと、私があの男の葬儀代を出すことは絶対にないから。 ……いくらもらったの?死ぬ前にいくら握らされたら、良心を売り飛ばしてまであの男の肩を持てるわけ?」 それを聞いた大家は、みるみるうちに顔を真っ赤にして声を荒らげた。 「な、なんだって!?アパート経営してる私が、あんな男の小銭なんかに困るわけないだろ! 信じないんだね。だったら証拠を見せてやるよ。私が嘘つきの片棒を担いでるなんて言わせないからね。あんた、ちょっと来なさいよ!」 言うなり、大家は私の腕を掴んで強引に部屋へと引きずり戻した。そして勝手に机の前にしゃがみ込むと、引き出しの中をゴソゴソと漁り始めた。 やがて奥から古びたクッキー缶を引っぱり出すと、その中から一枚の『臓器提供同意書』を取り出した。 そしてそれを有無を言わさず私の目の前に突きつけ、鼻息を荒くして言った。 「ほら、見な!私が嘘なんてついてないってわかるでしょ。この提供者『結城昭吾』ってのは、あんたの父親じゃないか。で、この受容者『結城彩音(ゆうき あやね)』ってのが、お母さんだろ? どうして頑なに認めようとしないんだい。昭吾さんも本当に可哀想な人だよ。自分の肝臓を切り取ったせいで合併症をいくつも併発して、体中ボロボロだったんだからね。それでも、お母さんの治療費を送るために工事現場で這いつくばって肉体労働して……死ぬ気で働いた結果が、娘からのこの仕打ちかい? ……もういいよ。私が嘘をついてないのは証明できた。帰りたいならサッサと帰りな。荷物はあとで業者に捨てさせるから」 大家は忌々しそうに言い放つと、持っていた同意書をポイと床に捨てて、背を向けて出て行ってしまった。 しかし、私はその場に完全に釘付けになっていた。 頭の中が真っ白になり、しばらくしてようやくハッと我に返ると、震える手で床に落ちたその紙を拾い上げた。 そこに記された日付、提供者の名前、手術を行った病院、そして執刀医の名前を見た瞬間――私は信じられない思いで、カッと目を見開いた。 なぜなら、その内容のすべてが、あの年の冬に母が移植手術を受けた時の記録と、寸分違わず一致していたからだ。 第3話 頭の芯で、ジージーと耳鳴りが鳴り始めた。 過去の記憶が、濁流のように脳裏にフラッシュバックしてくる。 絶望の淵にいたあの冬、奇跡のように降って湧いたドナーの存在。 それから十年間、毎月一日も遅れることなく振り込まれ続けた、匿名の支援金。 私たちからドナーの正体を問いただされるたび、どこか歯切れの悪かった橘(たちばな)医師の、あの言い淀むような表情。 まさか。 母に肝臓を提供し、生活費を送り続けていたのは……本当にあの男だったとでも言うのか? その考えが頭をよぎった瞬間、私は反射的に強くかぶりを振った。 そんなはずがない。そんなこと、絶対にあり得ない。 あの男の嘘を暴くための証拠を見つけ出してやる。私は血眼になって、ガランとした部屋の中を片っ端から探し回った。 やがて、ベッドの下の奥深くに、ホコリを被ったボロボロのリュックが押し込まれているのを見つけた。 中には、一冊の古い通帳と、二冊のノートが入っていた。 そのうちの一冊を開くと、それはスクラップブックのような手作りのアルバムだった。 ページをめくって、息を呑んだ。 そこに貼られていたのはすべて、私と母を隠し撮りした写真だったのだ。 移植手術を終えて退院したばかりの母。中学校の真新しい制服を着て歩く私。お正月に、近所の神社へ初詣に向かっている私と母の後ろ姿…… ページを一枚一枚めくっていく。一番最後に貼られていたのは、ほんの二週間前、私が母と一緒に年末の商店街で正月の買い出しをしていた時の写真だった。 他の写真と同じように、私たち親子の後ろ姿を背景にして、あの男の老け込んだ顔の半分がフレームに収まっている。 その写真の裏側には、震えるような鉛筆の文字で、不格好な一文が書き込まれていた。 【――最後の、家族写真】 これを見た瞬間、私の全身は激しい震えに襲われ、足からガクッと力が抜けた。 そのまま床にへたり込みそうになる。 信じられなかった。 あの日、私たちを捨てて完全に蒸発したと思っていた父親は……この十数年間、ずっと私たちの手の届く距離にいたというのか。 つい二週間前にも、私たちの姿を見に来ていた。 だとしたら、なぜ? どうしてあの時、若い女を作って全財産を持ち出し、私たちを捨てるような真似をしたんだ? 喉が渇き、頭が割れそうだった。どうしても真実が知りたくて、もう一冊のノートに手を伸ばそうとした、その時だった。 スマホが震えた。母からの、LINEのビデオ通話だった。 私はビクッと肩を揺らし、慌てて通話ボタンを拒否して【まだ仕事が立て込んでるから】と短いメッセージだけを返した。 だが、すぐに今度は音声通話がかかってきた。早く帰ってきなさいと急かす母とこのまま話し続ければ、私の異変に気づかれかねない。 私は「わかった、すぐ帰る」と手短に答えて電話を切ると、通帳とノートを乱暴に自分のバッグに詰め込んだ。 そしてアパートを飛び出し、夜通し走る長距離バスに飛び乗って、家へと急いだ。 家に着いたのは深夜だったが、母はまだ寝ずに私を待っていた。 その小さな背中を見て胸が痛くなり、私は駆け寄って母の体を抱きしめた。 「お母さん、どうしてこんな時間まで起きてるの。体によくないから、夜更かししちゃダメでしょ」 「あなたが帰ってこないのに、安心して眠れるわけないじゃない。顔を見たらやっとホッとしたわ。お母さんはもう休むから、あなたも早くお風呂に入って寝なさいね」 そう言うと、母は少しふらつきながら立ち上がり、重い足取りで寝室へと向かった。 その後ろ姿を見つめながら、私の頭の中ではバッグに入っている手作りのアルバムと、あの『臓器提供同意書』がぐるぐると渦巻いていた。 さんざん逡巡した末、私は思い切って母の背中に声をかけた。 「……ねえ、お母さん。もしあの時、お父さんが私たちから離れたのに、何かどうしても避けられない事情があったとしたら……お父さんのこと、許せる?」 その一言で、母の態度は豹変した。弾かれたように振り返ると、今まで見たこともないような恐ろしい形相で激昂した。 「許すですって!?事情なんてあるわけがないでしょ!あいつは私たちを平気で見捨てた、人間のクズよ! それに私、いつも言ってるわよね。あいつはあなたのお父さんなんかじゃない!父親を名乗る資格なんてないの!今後一切、あの男の話はしないで頂戴!!」 「違うの、あの時お父さんは……」 思わず本当のことを言いかけて、私はハッと口をつぐんだ。 大家から聞いた話も、同意書も、写真の裏の言葉も……そこから導き出された推論は、突き詰めればまだ私の憶測でしかない。 裏で本当に何があったのか、すべての真実が確定するまでは、私たちを地獄へ突き落としたあの男に安易に同情などするべきではないのだ。 私は慌てて言葉を飲み込んだ。 「お母さん、ごめんなさい!私が悪かったわ。変なこと言ってごめん、もう二度と口にしないから怒らないで……」 しかし、母は無言のまま寝室へ駆け込み、バタン!と激しい音を立ててドアを閉めてしまった。 ドア越しに何度呼びかけても、謝っても、中から返事が返ってくることはなかった。 これ以上は無理だ。 私は深くため息をつき、バッグを抱えたまま自分の部屋へと戻った。 父の死をもってしても、母の彼に対する憎しみが少しも薄れていないと知り、私の心は鉛のように重くなった。 あのノートを開いて、いわゆる「真実」を探るべきかどうか、私はひどく葛藤していた。 もし、大家の女が言っていたことがすべて事実だとしたら、私と母はこれからどうすればいいのか。この十五年間、私たちが生きる支えにしてきたあの強烈な憎しみは、一体何だったというのか。 第4話 果てしない迷いの末、それでも私は……震える手でもう一冊のノートに手を伸ばし、ページをめくった。 それは、彼の日記だった。 最初の一ページ目。 【彩音の容態が目に見えて悪くなっている。ドナーは一向に見つからないが、俺が密かに検査を受けたところ、見事に適合した。これも神様の導きなのだろう】 【だが、あの愛情深い彩音のことだ。俺が肝臓をやると知ったら絶対に手術を拒否するだろう。だから、一芝居打つしかない。俺が裏切って妻子を捨てたと思わせれば、あいつは叶のために、憎しみで這い上がってでも生き抜こうとするはずだ】 二ページ目は、彼が私たちを捨てた日の日記だ。文字はひどく乱れ、震えていた。 【今日、金を払って雇った女を連れて、病室で芝居を打った。彩音は怒りのあまり泣き叫び、血を吐いた。あの姿を見て、胸が引き裂かれそうだった。だが長居はできなかった。少しでも気を抜けば決意が揺らぎ、俺がすべてを打ち明けてしまいそうだったからだ】 【病室を出る時、叶が追いかけてきて、「行かないで」と泣きすがりついてきた。俺は心を鬼にして、あの子を蹴り飛ばした。床に転がり落ちた娘を見て、自分を思い切りぶん殴ってやりたかった。どれほど痛くて、恐ろしかっただろうか。 ごめんな、叶。お前と母さんは絶対に生きてくれ。この家で誰かが犠牲にならなければならないのなら、父さんが引き受けるから】 三ページ目になると、筆跡は落ち着きを取り戻し、言葉の端々にわずかな安堵と喜びすら滲み出ていた。 【手術は大成功だ。彩音の術後の経過もいい。あとはリハビリと薬の費用がいる。橘先生に頭を下げて、匿名のドナーからの支援金という名目で金を送ってもらえるように手配した。これなら俺だと疑われることはないだろう】 【今日退院して、すぐに工事現場の肉体労働の仕事を見つけた。体はキツいが、その分稼ぎはいい。今月はいつもより四万円多く送金できそうだ。これで彩音の薬代も安心だ】 そこまで読んだ時、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。 信じられなかった。匿名で救いの手を差し伸べてくれた見ず知らずのドナーは……本当は、私の父だったのだ。 私たちを捨てたというのすら、すべては母を助けるための彼のお手製の悲しい芝居に過ぎなかった。 涙で霞む視界を拭い、私は震える指でページをめくり続けた。 そこには、あのパスケースに入っていた写真の話も書かれていた。 【今日は現場の仕事を休んで、叶の大学へ行ってきた。志望校に合格したと聞いたからだ。あの子は本当にすごい。俺の大切な宝物だ。どうしてもあの子の姿を一目見たくて、遠くから眺めてきた。たとえ叶がどれほど俺を憎んでいようと構わない。あの子が幸せに生きてくれるなら、それが俺にとって何よりの救いだ】 そして、最後の日記。 日付はあの「大晦日の電話」からひと月前のものだった。文字は弱々しく、それはほとんど遺書のようだった。 【この数日、合併症の発作がひどい。病院で検査を受けたが、もう長くないと言われた。医者からは今すぐ入院するように言われたが、休むわけにはいかない。叶はまだ働き始めたばかりで結婚もしていないし、彩音の老後の備えだって十分じゃない。俺が稼いで、少しでも多く金を遺してやらなきゃならない。それが、俺の生きている唯一の意味なんだから】 その日のページの下部には、あの商店街で私たちの姿を隠し撮りしたあとに書かれたと思われる一文が、鉛筆で追記されていた。 【よかった。また二人の姿を見ることができた。彩音の顔色はずいぶん良くなっていたし、叶もすっかり綺麗な大人の女性になっていた。あの姿を見られただけで、俺はもう十分だ】 【ただ、少しだけ未練があるとすれば……もう一度だけでいいから、三人揃って年越しそばを食べたかった。叶に、また「お父さん」と呼んでもらいたかった】 【彩音、叶。お前たちには本当にすまないことをした。俺に甲斐性がなかったせいで、こんな過酷な運命を背負わせてしまった。もし来世というものがあるのなら、今度こそ俺が何百倍も、何千倍も努力してお前たちを幸せにするから。……愛してる。いつまでも】 最後の言葉を目にした瞬間、緊張の糸がぷつりと切れ、私はノートを抱きしめたまま声の限り泣き叫んだ。胸が引き裂かれるような後悔と悲しみが、津波のように押し寄せてくる。 どれくらい泣き伏していただろう。 私はふらつく足で立ち上がり、そのまま家を飛び出した。夜明け前の暗い道を走り抜け、かつて母の手術を執刀した橘医師の自宅へ向かった。 インターホンを何度も鳴らし、扉を開けて出てきた橘医師は、私の顔を見てハッと驚いたようだった。 だが、彼に口を開く隙を与えず、私は血走った目で彼を真っ直ぐに見据えて言った。 「橘先生!あの時、母に肝臓を提供して、ずっと治療費を送り続けてくれていたのは……本当は、私の父だったんですよね!?」