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その愛は、二度と春を迎えない
婚約者・三浦悠生(みうら ゆうせい)の不妊に振り回され、長い年月と大金を費やして治療を続けた末、私はようやく、跡取りを切望されていた彼...
Chương (1)
第1章
婚約者・三浦悠生(みうら ゆうせい)の不妊に振り回され、長い年月と大金を費やして治療を続けた末、私はようやく、跡取りを切望されていた彼の子を授かった。
けれど結婚式の前夜、ローカルで話題になっている投稿が目に飛び込んできた。
【今日もクールな社長に特別扱いされちゃいました!】
動画の中で、結城陽菜(ゆうき ひな)は愛嬌たっぷりに語っていた。
「社長って普段はすっごく怖いんですけど、会議中にこっそり机の下で靴を踏んじゃったんです。そしたら笑ってこっちを見てきて、あとでメッセージで『こら、ふざけるな』って送ってきたんですよ!」
コメント欄はすっかり盛り上がっていた。
【え、これもう完全に脈ありじゃん!氷の社長がデレるの、陽菜ちゃんにだけでしょ!】
【社長の身につけてるものチェックして!陽菜ちゃん専用の匂わせアイテムとか絶対ありそう!】
さらに下へスクロールすると、投稿者の返信に一枚の写真が添えられていた。
そこには、鈍い銀色のネクタイピンが写っていた。陽菜の胸元に留められている。
【これ、彼がくれたプレゼントなんです。これを見るたびに俺を思い出せ、って言ってくれました】
私はそのネクタイピンを見つめたまま、しばらく黙り込んだ。
それは、私・九条彩葉(くじょう あやは)が悠生のために自分の手で磨き上げた、婚約の贈り物だった。
そのピンの内側には、今も私と悠生の指紋を重ねて作ったハートが刻まれている。
第1話
婚約者・三浦悠生(みうら ゆうせい)の不妊に振り回され、長い年月と大金を費やして治療を続けた末、私はようやく、跡取りを切望されていた彼の子を授かった。
けれど結婚式の前夜、ローカルで話題になっている投稿が目に飛び込んできた。
【今日もクールな社長に特別扱いされちゃいました!】
動画の中で、結城陽菜(ゆうき ひな)は愛嬌たっぷりに語っていた。
「社長って普段はすっごく怖いんですけど、会議中にこっそり机の下で靴を踏んじゃったんです。そしたら笑ってこっちを見てきて、あとでメッセージで『こら、ふざけるな』って送ってきたんですよ!」
コメント欄はすっかり盛り上がっていた。
【え、これもう完全に脈ありじゃん!氷の社長がデレるの、陽菜ちゃんにだけでしょ!】
【社長の身につけてるものチェックして!陽菜ちゃん専用の匂わせアイテムとか絶対ありそう!】
さらに下へスクロールすると、投稿者の返信に一枚の写真が添えられていた。
そこには、鈍い銀色のネクタイピンが写っていた。陽菜の胸元に留められている。
【これ、彼がくれたプレゼントなんです。これを見るたびに俺を思い出せ、って言ってくれました】
私はそのネクタイピンを見つめたまま、しばらく黙り込んだ。
それは、私・九条彩葉(くじょう あやは)が悠生のために自分の手で磨き上げた、婚約の贈り物だった。
そのピンの内側には、今も私と悠生の指紋を重ねて作ったハートが刻まれている。
鏡の中の私は、純白のウェディングドレスをまとっていた。けれどその白さが、その瞬間だけはやけに目に刺さった。
あのネクタイピンは、先月、私が悠生に贈ったものだった。
覚えている。あのとき彼は受け取ると、ちらりと見ただけで、何気なく引き出しに入れた。
「こういう無駄なものは、もう作らなくていい。俺の妻になるんだから、家のことをちゃんと回すほうに気を使え」
その声はひどく冷たく、まるで不出来な書類を淡々と採点しているようだった。
私は、彼がこのネクタイピンを気に入らなかったのだと思っていた。
けれど今、そのネクタイピンは陽菜の襟元におさまり、彼女が誇らしげに見せびらかす特別な証になっていた。
画面を見た瞬間、胸の奥に、鈍い衝撃が走った。耳の奥で、鈍い音がいつまでも響いていた。
十年そばにいても、彼の心は私に向かなかった。冷たい人なのだと思っていた。でも違った。彼の優しさは、最初から私にだけ向けられていなかったのだ。
その瞬間、喉の奥がひりついて、私は思わず笑ってしまった。
ウェディングドレスを脱ぎ、私は悠生に電話をかけた。
「どこにいるの?」
「会議中だ」
彼の声はいつもどおり冷たく、わずかに苛立ちを含んでいた。
スマホを握る私の指は、力を込めすぎて白くなっていた。
「今夜、パーティーがあるの。御影隼人(みかげ はやと)も来る。子どもの頃、母があなたと一緒に火事の中から助けた……」
けれど私の言葉は、向こうから乱暴に遮られた。
「忙しい。ひとりで行け」
諦めきれず、私の声はわずかに震えた。
「でも彼は今、都内でも有数の御影家の当主なの。だから一度会っておいたほうが……」
「ツー……」
やはり最後まで言わせてもらえないまま、彼は電話を切った。
受話口には冷たい通話終了音だけが残った。
けれど……電話が切れる直前、私はたしかに、甘ったるい不満げな声を聞いた。
「社長、誰ですか?ほんと空気読めないですね」
胃の中がひっくり返るように荒れ、吐き気が喉まで突き上げてきた。
スマホを握りしめ、私は彼の位置情報をたどって向かった。
そこは最高級の会員制ラウンジだった。少し多めにチップを渡すと、悠生のいる個室まで案内された。
でも中には入らなかった。ただ扉の外に立った。
会社にいると言ったその人が、個室の中で酒を片手に、楽しげに談笑している。
私はただ、扉の外からそれを見ていた。
そして彼の隣に座っているのは、動画に出ていた陽菜という女の子だった。
「悠生、このインターンの子、相当お気に入りみたいだな。お前が女の子相手にそんな顔するなんて珍しいじゃん」
悠生の幼なじみがグラスを掲げ、からかうように言った。
「でもさ、家にいる例の婚約者ちゃんは知ってんの?三浦家で十年も面倒見てやったんだろ。妬いたりしないわけ?」
「妬くも何も、あれはばあさんが勝手に決めた恩返しみたいなもんだろ。悠生が結婚してやるだけ、ありがたいと思うべきじゃない?」
「だよな。元は家政婦の娘だろ?昔、母親が火事の中に飛び込んで、ばあさんと悠生を助けたってだけでさ。なのに今まで、いい暮らしさせてもらって、いい服まで着せてもらって。ばあさんも甘すぎるんだよ。命の恩があるからって、結婚までしてやる必要あるか?」
そう言った途端、中からどっと笑い声が上がった。
全身の血が凍りついたようだった。
私は悠生をじっと見つめた。たった一言でいい、否定してくれることを願いながら。
けれど、何もなかった。
男はただ薄く笑みを浮かべ、グラスの酒を飲み干した。
陽菜が甘えるように悠生の腕を揺らした。
「そうですよ、社長みたいに素敵な人がこんなに早く結婚しちゃったら、悲しむ人がどれだけいると思ってるんですか」
そう言うと、別の幼なじみがまた笑い出した。
「自分のことを言ってるんだろ」
すると陽菜は、ますます拗ねたように唇を尖らせた。
「社長、見てくださいよ。みんな私をいじめるんです」
悠生の腕を揺らしながら、彼女はひどく甘えた声を出した。
男はグラスを置き、ようやく口を開いた。
「言いたいことはそれだけか?」
悠生は一同を見回し、その声には一片の温度もなかった。
個室の中は一瞬で静まり返った。
私でさえ息を止め、心臓がうるさいほど鳴った。
幼なじみはすぐに笑って、その場を取り繕った。
「冗談だって。そんな怖い顔すんなよ、悠生。たださ、俺たちも気になるんだよ。お前、陽菜ちゃんにはそんな顔するくせに、彩葉にはずいぶん冷たいじゃん」
「十年だろ?お前が彩葉に笑いかけてるところなんて、一度も見たことないぞ」
「あの子、悪い子じゃないんだろうけどさ。見てて退屈なんだよな。陽菜ちゃんのほうがよっぽど可愛いし、話してても楽しいだろ」
「で、明日いよいよ結婚式だろ?本当に彩葉と結婚する気あるのか、はっきりしろよ。こっちも段取りがあるんだからさ。いっそ陽菜ちゃんの言うとおり、ばあさんに正直に話せば?相続のためにそこまで我慢することないだろ」
言葉が途切れ、私は悠生をまっすぐ見つめた。
ただ、答えが欲しかった。
純粋に、それだけだった。
彼が何を言っても、その先のことは考えていた。
揺れるグラスの中で、赤ワインの色が、揺れるたびに彼の顔へ淡く映った。
彼は誰のことも見ず、ただ手の中のグラスを回し続けた。
やがて、悠生がゆっくりと口を開いた。
第2話
「結婚する」
あまりにもあっさりした声だった。それなのに、その一言は重く胸に沈んだ。
個室の中では、幼なじみたちがすぐに口笛を吹いた。
「ほらな。十年も一緒にいるんだ、今さら切れないって」
「あー、陽菜ちゃんは気にしなくていいよ。彩葉なんて形だけの嫁でしょ。悠生が本当に可愛がってるのは、どう見てもお前だから」
悠生はそれきり黙った。
けれど、その態度だけでわかった。私の話をこれ以上続ける気など、彼にはないのだと。
彼にとって私は、人ではなかったのだと思う。
十年前の恩を理由にそばに置かれた、面倒な荷物。
ただ、それだけだった。
ふいに、十年前の火事が脳裏に蘇った。燃え盛る炎の中で、母は悠生と隼人を必死に外へ押し出した。けれど母自身は、崩れ落ちた梁の下敷きになり、その場から逃げられなかった。
あの火事のあと、私は三浦家に引き取られた。けれどその代わりに、私は母を失った。
「このいちご、おいしそう」
陽菜の甘ったるい声が、また響いた。彼女は一粒のいちごを手に取り、すぐに置いた。
幼なじみたちがはやし立てる。
「食べたいなら食べればいいじゃん」
けれど陽菜は眉をひそめて、それを置き、甘えるように悠生を見上げた。
「やだ。きれいじゃないもん。社長に洗ってもらったいちごが食べたいんです」
背を向けて立ち去ろうとしていた私は、その一言に思わず足を止めた。
子どもの頃から、悠生は家事など一切したことがない。いつだって私が皮を剥き、洗った果物を、彼の手元まで運んでいた。
私は彼を見つめた。せめて一瞬でも、煩わしそうな表情を見せるのではないかと思った。
けれど彼は、そうしなかった。
「洗ってくる」
悠生はグラスを置き、本当に立ち上がった。
そして振り返り、個室の扉を開けた。
目が合った瞬間、空気が凍りついた。
悠生の目にあった笑みは一瞬で消え、驚きに変わり、すぐに苛立ちと嫌悪の色に変わった。
「何しに来た?」
私は答えず、ただ彼をまっすぐに見つめた。けれど口調だけは、自分でも驚くほど皮肉めいていた。
「悠生。私が贈ったネクタイピンが、どうしてあの子の胸元にあるの?」
彼は私の問いに、少しも動じなかった。ただ、厄介なものを見るような目を私に向けた。
「彩葉、みっともない真似はやめろ」
「みっともない?」
思わず笑いがこぼれた。
けれど、その前に涙が落ちた。
「明日、私たち結婚するんだよね?その前の夜に、あなたは別の女とここで楽しそうに飲んでる。ねえ、みっともないのは私?それともあなた?」
そのとき、陽菜が彼の背後から顔を出し、親しげに彼の腕に絡みついて、見せつけるように私を見た。
「社長、この人誰ですか?怖いです」
そう言いながら、彼女の指はわざとらしく胸元のネクタイピンを撫でた。
悠生の顔が完全に沈んだ。彼は薄着の私を一瞥した。
そしてスーツの上着を脱ぎ、義務でも果たすように、私の肩へ掛けようとした。
「もう騒ぐな。すぐ帰れ。明日の結婚式に支障を出すな」
その言い方は、命令であり、叱責でもあった。
その瞬間、十年分の記憶が一気に押し寄せた。どれも痛いほど鮮明で、さっき個室で聞いた「結婚する」という一言に重なった。
あれは愛なんかじゃなかった。
十年そばにいれば、いつか振り向いてもらえる。
そう信じていたのは、私だけだった。彼にとって私は、愛する相手ではなく、引き受けるしかない義務だった。
だから、もういらない。
「悠生、結婚式は中止にしましょう」
私は彼の上着を軽く払いのけた。
悠生の手が宙で固まり、その目に一瞬、動揺が浮かんだ。けれどすぐに冷たさへ変わる。
「今度は何の芝居だ?」
「芝居なんかじゃない」
私は彼を見つめ、一語一語はっきりと言った。
「悠生。私、もうあなたはいらない」
そう言った瞬間、悠生は信じられないものを聞いたように鼻で笑った。
「彩葉、俺がいなくて生きていけると思ってるのか?」
そう言い終えると、彼はもう私を見ることなく、振り返って陽菜の肩を抱き寄せ、そばにいた警備員へ冷たく命じた。
「彼女を連れていって頭を冷やさせろ。二度と中に入って邪魔をさせるな」
次の瞬間、腕を乱暴に引かれた。私は足元をもつれさせながら後ずさりし、そのまま冷たい壁に背中を打ちつけた。鈍い痛みが、背筋に沿って走った。
バタン。
個室の扉が完全に閉まった。私は壁にもたれたまま、ゆっくりと床に座り込んだ。
十年。
このひとり芝居は、たしかにもう終わらせるべきだった。
スマホを取り出し、私は悠生に関するすべてを削除した。
その次の瞬間、スマホの画面が光った。
画面に表示されていた名前は、隼人だった。
三十分後、隼人は温かいココアを一杯、私の前に置いた。
「大丈夫か?そろそろ、君のお母さんの命日だろ」
目の奥が熱くなった。
私は隼人を見つめた。今でも母のことを覚えていてくれるのは、彼だけなのかもしれない。
そう思って口を開こうとした瞬間、胃の奥から酸っぱいものが込み上げた。鉄っぽい生臭さが混じって、喉元まで一気にせり上がってくる。
「うっ……」
私は反射的に口を押さえ、顔を背けて、何度もえずいた。
隼人の顔色がさっと変わり、すぐに立ち上がって私の背を軽く叩いた。
「どうした?」
「大丈夫」
私はティッシュを一枚引き抜き、口元を強く押さえたまま、喉に残る酸っぱさと苦みを、無理やり飲み込んだ。
「妊娠しているだけだから」
私の背を叩いていた隼人の手が、宙でぴたりと止まった。
それから信じられないというように私の下腹を見つめ、震えた声が、最後に裏返った。
「……三浦悠生は、とっくに子どもができない体だって診断されていたんじゃないのか?!」
第3話
驚きに揺れる隼人の目を見ながら、私は無意識に、まだ何の変化もない下腹へ手を添えていた。
たしかに、悠生に子どもができないことは、誰よりも私がよく知っている。
三年前、検査結果を受け取ったばかりの彼は、書斎にあるものをすべて叩き壊した。
医師に、精子の運動率が極めて低く、自然妊娠はほぼ不可能だと言われたからだ。
だから妊娠検査薬が陽性を示したとき、私は奇跡が起きたのだと思った。
本当は結婚式で、彼に直接伝えるつもりだった。
それに、三浦家を取り仕切るおばあさまにも、きっと喜んでもらえると思っていた。あの人はもう何年も、ひ孫の顔を見る日を待ち望んでいた。
けれど今は……
私はカップを置き、隼人を見た。
「逃げるのを手伝って」
隼人の瞳がまた小さく揺れた。
「でも……明日、結婚式だろ……」
私は目を伏せたまま、この十年のことを淡々と話した。三浦家で暮らし、居場所を失わないように、何もかも悠生に合わせてきたこと。それなのに最後には、母の命の見返りとして引き取られただけの存在みたいに扱われたこと。
「誰のことも恨んでいない。見誤ったのは私だから」
少し間を置いて、私はかすれた声で言った。
「あなたと彼に仕事上の付き合いがあるのも知ってる。迷惑なら、今の話は聞かなかったことにして。ただ……彼には言わないで」
隼人は長いこと黙っていた。
「どうしたいのか言ってくれ。俺が手配する」
驚いて顔を上げると、視線が合った彼は笑った。
「俺に手伝わせてくれ。あのとき君のお母さんが助けてくれなかったら、俺は火の中で死んでいたんだ」
隼人と計画を決めて別れたあと、私はそのまま三浦家の別邸へ戻った。
けれど玄関の扉を開けた瞬間、私は固まった。
リビングでは、酔った陽菜が悠生にもたれかかっていた。
赤くなった顔で彼を見上げ、ふざけるようにネクタイを引っ張っている。
「社長……好きです……すごく好き……」
悠生は陽菜を押しのけなかった。
むしろ片手で腰を支え、酔った彼女をそっと受け止めている。
その目は、私が見たこともないほど優しかった。
十年一緒にいても、私には一度も向けられなかった眼差しだった。
私に気づくと、悠生は陽菜越しにこちらを見た。
その優しさは一瞬で消え、見慣れた冷淡さに戻った。
「彼女は飲みすぎた。ゲストルームを片づけてこい」
当然のような口ぶりだった。まるで使用人に命じるように。
「しない」
私は視線を戻し、そのまま二階へ上がろうとした。
悠生の眉が鋭く寄った。
それも当然だ。十年間、私は彼に何でも従い、一度だって拒んだことがなかった。
彼の顔色が沈み、私へ向けられた目には息が詰まるほどの圧があった。
彼は陽菜を慎重にソファへ寝かせると、立ち上がり、上から見下ろすように私を睨んだ。
「まだ気が済まないのか?」
悠生はネクタイを緩めた。その言い方は一見、折れたようにも聞こえたが、底には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「ネクタイピンのことか?それとも、今夜あの場に入れなかったから怒ってるのか?
わかった。悪かったよ。彩葉、これで気は済んだか?いい加減、いつもどおりに戻れ」
彼は一歩ずつ近づいてきた。視線は氷のように冷たい。
「明日は結婚式だ。おばあさまは病み上がりの体で、わざわざ帰国してくる。
だから、その被害者みたいな顔はやめろ。式で三浦家の顔に泥を塗って、おばあさまを怒らせるな」
彼を見ていると、怒りで息が乱れた。涙が込み上げてきたけれど、唇を噛んで必死にこらえた。
「おばあさまの機嫌を損ねて、相続の話がなくなるのが怖いんでしょう?」
私が冷たく笑うと、悠生の目は完全に冷え切った。
「彩葉!」
悠生は私の名を呼んだ。そして、信じられないほど冷たい声で言った。
「忘れるな。お前の母親が何のために死んだのか」
悠生は鼻で笑った。その目には、嘲りと、冷たすぎるほどの現実だけがあった。
「今のお前の居場所は、お前の母親の命と引き換えに手に入ったものだろ」
頭の中で、何かが音を立てて、頭の中で理性と呼ばれる糸が、完全に切れた。
つまり、彼の中で母の命は、私の居場所と引き換えにされたものにすぎなかった。
ガシャン!
全身を震わせながら、私はそばにあったグラスをつかみ、思いきり彼へ投げつけた。
悠生の顔色が一変し、とっさに身を翻して、陽菜を完全にかばった。
グラスは彼の肩に強く当たり、砕けた破片が床に飛び散った。
彼は低くうめき、振り返った。私を見るその目は、今にも私を殺しそうなほど険しかった。
それでも彼は、陽菜のことを忘れなかった。
ただ私を一度きつく睨みつけると、酔ったふりをしている陽菜を横抱きにし、大股で二階へ上がっていった。
二人の背中が消えていくのを、私はただ見ていた。呼吸が乱れ、胸が苦しくなる。それでも必死にこらえていた涙が、そこでようやくあふれ出した。
喉の奥に血の味が広がり、下腹にも鈍い痛みが走った。
私は腹を強く押さえ、壁に手をつきながら、一歩ずつ自分の部屋へ戻った。
私はスーツケースを出すと、ぼんやりしたままクローゼットに手をかけた。
出ていく。
この吐き気のする場所に、もう一秒だっていたくなかった。
視界の端に、純白のウェディングドレスが映った。部屋の隅で静かに掛けられているそれは、今となっては、悪い冗談みたいに見えた。
私は目をそらした。
服を詰め込んだ、その瞬間だった。寝室の扉が、激しい音を立てて蹴り開けられた。
ものすごい力で手首をつかまれ、乱暴に引き寄せられた。
私はバランスを崩し、冷たい壁に叩きつけられた。
妊娠している下腹が壁にぶつかり、痛みに息を呑んだ。
次の瞬間、悠生がものすごい勢いで詰め寄り、私の首を乱暴につかんだ。
目の前の彼の顔は、怒りでひどく歪んでいた。
「彩葉、お前はいったいいつまで騒げば気が済むんだ?!
俺はもう頭を下げて謝ってやったんだぞ。つけ上がるな!」
彼のこめかみに青筋が浮いた。噛みしめた歯の奥から、低い声が漏れる。
「言ってる意味がわからないのか?俺はもう限界だって言ってるんだ。これ以上、俺に我慢させるな」
床に置かれたスーツケースに目をやると、悠生はひどく冷たい笑みを浮かべた。
「今度は家出のつもりか?彩葉、自分にそんなことができると思ってるのか」
顎をつかむ手に、さらに力がこもる。
顎の骨が軋むほど痛くて、息が詰まった。
「言ってみろ。俺から離れて、どこへ行く?お前ひとりで生きていけるとでも思ってるのか」
首を締められて、ほとんど息ができなかった。視界がぼやけていく。
それでも私は息も絶え絶えに、一語一語絞り出した。
「悠生……私、妊娠してるの」
そう口にしたのと同時に、下腹に、体の奥を引き裂かれるような激痛が走り、真っ赤な血が両脚の間を伝い落ちた。
瞬く間に、足元が真っ赤に染まった。
第4話
悠生の手が、はっと強ばった。
彼は私の両脚の間を伝っていく血の跡を見下ろした。
その瞬間、悠生の顔から怒りが消えた。代わりに浮かんだのは、驚きと戸惑い、そして恐怖だった。
手の力が抜け、私はそのまま床に崩れ落ちた。下腹の痛みが、さらに強くなる。
十年間、私に冷たい顔しか見せなかった悠生が、私が痛みにうめいたその一瞬だけ、わずかに動揺したように見えた。
「彩……葉?」
けれど私は顔を上げ、血の味にまみれた笑みを口元に浮かべた。
「驚いた?あなたに子どもができたのよ、悠生」
笑っているうちに、涙と血が混ざり合い、白いスカートの上へ落ちた。
「でもこの子は、あなたには渡さない。さっき私を殺したくてたまらないって目をしていたでしょう。あれで、最後の決心がついたの」
その瞬間、悠生の喉仏が激しく上下した。唇が震え、何かを言おうとしているようだったのに、声は出なかった。
やがて彼は震える体でこちらへ歩み寄り、私の下腹へ手を伸ばした。
「そんなのあり得ない!」
入口から、甲高い声が飛んだ。
陽菜がいつの間にか戸口に立っていた。悠生の白いシャツを羽織り、顔に浮かんだ衝撃は、すぐに傷ついたような表情へ変わっていく。
「社長、彼女は嘘をついてます!ご自分の体のこと、わかっているでしょう?妊娠なんて、そんな……」
彼女は口元を押さえ、目を赤くし、苦しそうに震えた。
「私、本当に社長とは何もないんです。どうしてそんな嘘までついて、気を引こうとするんですか……真実を知ったあと、社長がもっと傷つくとは思わないんですか?」
悠生の瞳が揺れた。
悠生は振り返り、私を見た。
その目に一瞬だけ浮かんだ動揺が、ゆっくりと消えていく。
そして代わりに、いつもの冷たさと、あきれたような失望が戻ってきた。
「そうだな、彩葉。俺はもう、お前と結婚すると言った。それでもまだ足りないのか?子どもまででっち上げて、俺を縛るつもりか?」
全身の血が頭へ逆流していくようだった。
「信じないなら病院で検査を……」
パシン。
頬に鋭い痛みが走った。
次の瞬間、体ごと横へ弾かれ、背中がウェディングドレスのラックに激しくぶつかった。
金属の支柱が倒れ、真っ白なドレスが降ってきた。
その裾は、血にまみれた私の体を覆い隠した。
悠生はそんな私を、上から冷たく見下ろしていた。汚れたものでも見るような目だった。
「彩葉、お前の相手をしている暇はない。立て。ここを片づけろ。結婚式は予定どおりやる」
そのときになってようやく、悠生の視線が私の下に広がる血だまりへ落ちた。
痛ましさも、ためらいもなかった。
あったのは嫌悪だけ。
汚いものを踏んでしまったかのように、わずかに鼻をひそめ、彼は背を向けて去っていった。
扉が閉まった。
私は床に伏したまま、血が少しずつ白いウェディングドレスに滲んでいくのを見ていた。
真っ白な布の上に、それはゆっくりと赤く広がっていった。まるで、彼岸花が咲くみたいに。
どれほど経ったのかわからない。私は起き上がった。
スーツケースを引き寄せ、扉を開け、一歩ずつ外へ歩き出した。
背後の廊下には、私が踏みしめてできた足跡が残っていた。
ひとつ、またひとつ。
真っ赤な足跡だった。
深夜の道はがらんとしていて、タクシーさえつかまらなかった。
震える手でスマホを取り出し、隼人の番号を押した。
電話がつながった、次の瞬間だった。
下腹に、焼けるような痛みが走った。
刺すようでも、締めつけられるようでもない。
体の奥で小さな命が暴れて、引き裂かれる痛みだった。
まるでお腹の中の子が、最後に必死でしがみついているみたいだった。
スマホが指の間から滑り落ち、私は冷たいアスファルトの上に膝をついた。そのまま意識が闇に呑まれた。
……
再び目を覚ましたとき、私は病院にいた。
隼人がベッドのそばに座っていた。彼は何も言わず、ただ一枚の検査結果を差し出した。
そこには、ぼやけたエコー写真があった。
とても小さな、小さな塊が丸まっている。芽を出したばかりの種のようだった。
「子どもは……だめだった」
隼人の声は、ひどくかすれていた。
「運ばれてきたときには、もう助けられなかった。これは……最後の画像だ」
私はその紙を両手で握りしめた。指先の震えが、どうしても止まらなかった。
そのとき、スマホが鳴った。
画面には、おばあさまからの着信が表示されていた。
「彩ちゃん、おめでとう。今日はとうとう結婚式ね。緊張している?私、あなたたちのためにわざわざ海外から戻ってきたのよ……」
口を開いた瞬間、すべての感情が一気に決壊した。
「おば……あさま……」
血を吐くような泣き声が、喉を引き裂いて漏れた。
けれど言い終える前に、別の電話が強引に割り込んできた。
悠生だった。
「彩葉!式場の人間が全員待ってる。どこで何をしてるんだ!こんな真似をすれば、俺が折れるとでも思ってるのか……」
私はそのまま電話を切った。
乱暴に涙を拭い、隼人を見た。
「もう逃げない。式場へ連れていって」
隼人が勢いよく立ち上がり、信じられないという顔で私を見た。
私は説明せず、うつむいておばあさまに一通のメッセージを送った。
それから立ち上がり、血に染まったあのウェディングドレスを手に取った。
……
結婚式場では、シャンデリアがまばゆく輝いていた。
幼なじみたちは陽菜を囲み、はやし立てている。
「おいおい、社長が結婚するってだけでそんなに泣く?まるで自分が花嫁みたいじゃん」
「そりゃつらいよな。でも結婚したって関係なくない?どうせ義理で決まった相手だろ。本気で好きなわけじゃないんだし」
笑い声の中、悠生は無表情でカフスを整えていた。
そのとき、スタッフの一人が慌てて駆け込んできた。顔を妙にこわばらせていた。
「三、三浦社長……新婦が到着しました」
悠生は眉をひそめ、彼を一瞥すると、グラスを置いて大股で外へ出た。
そして、足を止めた。
ホールの中央で、私は血に染まったウェディングドレスをまとい、裸足のまま壇上に立っていたからだ。
赤と白が絡み合った裾は背後に引きずられ、血の川のように伸びていた。
悠生が現れたのを見て、私は笑った。
背後の巨大スクリーンが、それに応えるように明るく灯った。
最初に映し出されたのは――
会員制ラウンジの個室。
彼が陽菜を引き寄せ、グラスの赤ワインの色が、寄り添う二人の顔に妖しく映っていた。
次に映ったのは――
三浦家のリビング。
陽菜が彼にしなだれかかり、彼は目を伏せたまま、私が見たこともないほど優しい眼差しを向けている。
そして最後に映し出されたのは――
一枚の診断書だった。
【暴行による流産】
その瞬間、会場中が息を呑んだ。
ざわめきが広がり、招待客たちの視線が何度も悠生へ向けられる。
けれど、私だけが見ていた。
最前列に座っていたおばあさま――三浦家を束ね、家のすべてを取り仕切ってきたその人が、震える手で立ち上がるのを。
長年、子授けを願って手放さずにいた数珠が、その瞬間、ぱちんと乾いた音を立てて切れた。