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子なし夫は二児の父でした
海外で事業を広げるため、一年の大半をY国で過ごしている夫・間宮颯太(まみや そうた)に会いたくて、私はY国のプロジェクトに何度も手を挙げ...
Chương (1)
第1章
海外で事業を広げるため、一年の大半をY国で過ごしている夫・間宮颯太(まみや そうた)に会いたくて、私はY国のプロジェクトに何度も手を挙げてきた。
けれど断られ続け、もう諦めかけていた頃、上司が突然考えを変え、私にチャンスをくれた。
上司は、三人の手が重なった親子写真を私に差し出した。
「こちらが間宮社長と奥様、それから今年六歳になるご長男です。一昨年にはお嬢様もお生まれになっていますから、贈り物はお二人のお子様がいらっしゃることを意識して選んでください」
聞き慣れた「間宮社長」という呼び方と、写真に写った見覚えのある腕時計に、私は一瞬言葉を失った。
けれど颯太は、子供はいらないと言って、母に三日三晩許しを求め続けた人だ。
きっと、私の考えすぎに違いない。
ホテルに着いたあと、私は同僚を散歩に誘った。
すると通りの向こうに、穏やかに笑っている颯太がいた。
颯太は二、三歳ほどの女の子を肩車し、右手で小さな男の子の手を握り、左手は別の女と指を絡めていた。
男の子が振り向き、私に気づいた。
その顔が颯太にあまりにもよく似ていて、私は思わず足を止めた。
颯太は、愛は純粋なものだから、子供に邪魔されたくないと言っていた。
私と子供を持たないことが愛だというなら、ほかの女と子供を持つことは、いったい何なのだろう。
同僚は目を輝かせ、私を前へ押し出した。
「間宮社長ご一家にお会いできるなんて、すごい偶然ですね。ご挨拶しましょう」
第1話
海外で事業を広げるため、一年の大半をY国で過ごしている夫・間宮颯太(まみや そうた)に会いたくて、私はY国のプロジェクトに何度も手を挙げてきた。
けれど断られ続け、もう諦めかけていた頃、上司が突然考えを変え、私にチャンスをくれた。
上司は、三人の手が重なった親子写真を私に差し出した。
「こちらが間宮社長と奥様、それから今年六歳になるご長男です。一昨年にはお嬢様もお生まれになっていますから、贈り物はお二人のお子様がいらっしゃることを意識して選んでください」
聞き慣れた「間宮社長」という呼び方と、写真に写った見覚えのある腕時計に、私は一瞬言葉を失った。
けれど颯太は、子供はいらないと言って、母に三日三晩許しを求め続けた人だ。
きっと、私の考えすぎに違いない。
ホテルに着いたあと、私は同僚を散歩に誘った。
すると通りの向こうに、穏やかに笑っている颯太がいた。
颯太は二、三歳ほどの女の子を肩車し、右手で小さな男の子の手を握り、左手は別の女と指を絡めていた。
男の子が振り向き、私に気づいた。
その顔が颯太にあまりにもよく似ていて、私は思わず足を止めた。
颯太は、愛は純粋なものだから、子供に邪魔されたくないと言っていた。
私と子供を持たないことが愛だというなら、ほかの女と子供を持つことは、いったい何なのだろう。
同僚は目を輝かせ、私を前へ押し出した。
「間宮社長ご一家にお会いできるなんて、すごい偶然ですね。ご挨拶しましょう」
私を見た瞬間、女は颯太の手を離し、同僚と並ぶ私のほうへ歩いてきた。
「プロジェクトの件でいらした高坂結月(こうさか ゆづき)さんですね。まさか予定より先にお会いできるなんて。私は颯太の妻、間宮琴葉(まみや ことは)です」
彼女は私のことを知っていた。しかも、目の前で堂々と颯太の妻だと名乗った。
不倫相手のくせに、どうしてあんなに平然としていられるのだろう。
急に私をこのプロジェクトに参加させると言い出した上司のことが頭をよぎる。まさか彼女が、わざと私に気づかせるよう仕組んだのだろうか。
私を見た途端、颯太の笑みがこわばった。抱いていた小さな女の子を下ろし、その手を握ったまま、少しためらってから私に手を差し出す。
「初めまして。お会いできて光栄です」
完全に、私のことなど知らないという態度だった。
私は歯が痛むほど強く食いしばり、他人を見るような冷たい颯太の顔を見つめた。
大学受験が終わった日、颯太は全校生徒と教師たちが見守る中、私に告白した。
それから私たちは同じ大学へ進み、卒業してすぐに結婚した。
十年も一緒にいれば、あの頃の熱が少しずつ落ち着いていくのも当然だと思っていた。
恋が、家族としての愛情に変わっただけなのだと。
けれど本当は、彼には外にもう一つの家庭があった。妻も、子供もいた。
そのうえ男の子はもう六歳で、私たちが結婚した年に生まれていた。
だとしたら、彼が苦労して二つの国を行き来していたのは、私のそばにいるためだったのか。それとも、Y国にあるこの円満で幸せな家庭のためだったのか。
私が手を取らずにいると、颯太の表情が少し冷えた。
「……仕事の場で、その態度はどうなんですか」
それを見た琴葉は、笑みを浮かべたまま颯太の手を握った。
「いいじゃない。高坂さんは、あなたが既婚者だから遠慮しているだけでしょう?私は好きよ、そういうきちんとした子」
一見、私をかばっているように聞こえる。
けれどその言葉の一つひとつが、彼女こそ颯太の妻なのだと私に突きつけていた。
私は口の内側を噛んだまま、笑うことができなかった。
颯太は私を初対面の相手のように扱い、琴葉はその隣で、これ見よがしに妻の顔をしている。
それなら、私はいったい何なのだろう。
同僚は顔色を変え、慌てて私の腰を押すようにして、一緒に頭を下げた。
「間宮社長、奥様、申し訳ございません。高坂は飛行機を降りたばかりで、まだ少し調子が戻っておらず……大変失礼いたしました。
ただ、高坂が恐縮してしまうのも無理はございません。社長ご夫妻が業界でも評判のおしどり夫婦でいらっしゃることは、私どももよく存じておりますので」
颯太を問い詰めたかった。
けれど同僚に促されて頭を下げた瞬間、胸の中で燃えていた怒りが、すっと冷めていった。
そうだ。今の颯太は、私がここで責め立てていい夫ではない。
彼は会社にとっては決して機嫌を損ねてはいけない取引相手で、一方で私は海外プロジェクトに加わるだけでも上司に頼み込まなければならない、ただの平社員にすぎない。
「申し訳ございません。本日は御社とのお話で伺っただけで、決して失礼をするつもりはございませんでした。ご不快にさせてしまい、大変失礼いたしました」
私はそう言って、もう一度頭を下げた。
颯太と琴葉が指を絡め合っている手を見ていると、目の奥がつんと熱くなった。
琴葉は親しげに颯太の腕に手を絡めた。
「いいのよ。あなたは仕事ができるって聞いていたから、今回の担当にしたの。でも、私と主人はこれから家に帰るところなの。プロジェクトの話は、また日を改めてもいいかしら?」
会ったこともないはずなのに、彼女は私のことをずいぶん知っているようだった。
やはり、私がY国へ来ることになったのは彼女が関わっているのだ。
この数週間、部署のみんなは目の下に隈を作りながら残業を続けていた。
このプロジェクトの成功に昇進がかかっている親友の顔も浮かぶ。
ここで私が感情に任せて騒げば、その全部を台無しにしてしまう。
私はそれ以上何も言えず、無理に表情を整えてうなずいた。
「それでは、今夜はどうぞごゆっくりお過ごしください」
颯太が何か言おうとした。
けれどその前に、子供と琴葉がそれぞれ彼の手を取った。
颯太はすぐに表情を戻し、子供を抱き上げると、琴葉のあとについて行った。
ホテルに戻った私は、何の通知もないスマホを見つめたまま、呆然としていた。
どうして颯太は、説明の一つもくれないのだろう。
私は何度も電話をかけた。けれど何度か切られたあと、しつこいと思われたのか、ついには着信拒否されてしまった。
スマホの画面を見つめたまま、私は明け方までただ座り続けた。
そしてようやく、颯太からメッセージが届いた。
【結月。俺がお前をどれだけ愛してるか、お前なら分かってるだろ。子供も琴葉も、最初からこうするつもりじゃなかった。だから頼む、このプロジェクトからは外れてくれ。帰国したら全部話す。
今は何もせず、黙って待っていてくれ】
第2話
説明を求めることさえ、許されないのだろうか。
私は目元の涙を拭い、感覚のない指で何度も電話をかけ直した。
けれど、呼び出し音は鳴らなかった。
返ってくるのは、拒否されたと分かる短い通知音だけだった。
颯太のために、もともと子供が好きだった私は、子供を持たない人生を受け入れた。
それなのに彼は、ほかの女との間に子供を作り、その理由さえ私に話そうとしない。
一人目が予想外だったとして、二人目は?
それも偶然だったとでも言うのだろうか。
十年も一緒にいたのに、彼は「黙って待っていろ」の一言で私を済ませるつもりなのだろうか。
それなら私は、彼にとっていったい何だったのだろう。
少しだけ冷静になってからも、私はまだ、彼に期待する気持ちを捨てきれなかった。
だから自分からメッセージを送った。
まだどこかで、全部嘘だと言ってくれることを期待していた。
【あなたと彼女は、いつからそういう関係だったの】
【もう今さらどうにもならない。今回のことは俺が悪かった。埋め合わせはする。この前、お前が気に入っていたあの島なら、もう買ってある。
でも、琴葉の前で騒ぐような真似はするな。あいつは何も知らないんだ】
その返事を読んだ瞬間、さっきまで胸の中で燃えていた怒りが、すっと冷めていった。
戸惑いも、怒りも、悔しさも、まるで遠いところへ行ってしまったみたいだった。
不思議なほど、何も感じなかった。
そうだ。私は本当は、ずっと前から気づいていたのだと思う。
日々の小さな違和感の中で、私たちはもう、片時も離れたくないと夢中になっていた頃の二人ではなくなっていた。
最初は一か月おきに、一か月ほど海外へ行くだけだった。
それがいつの間にか、一年の大半を向こうで過ごすようになり、私のところへ戻ってくるのは、お盆や年末年始くらいになっていた。
その時点で、気づくべきだったのだ。
私はただ、彼が仕事に打ち込んでいるだけだと思っていた。
だから一度も責めず、むしろ思う存分仕事をすればいいと応援してきた。
一緒にいられないことなら、我慢できる。
けれど、裏切りだけは許せない。
彼からそれ以上の返事は来なかった。
私ももう、問い詰める気にはなれなかった。
翌朝早く、颯太の母から電話がかかってきた。
「結月さん、琴葉さんのところで騒いだんですって?少しは落ち着いて行動できないの?」
責め立てるような声に、私は言葉を失った。
颯太の母は、いつも私に優しかった。そんな口調で責められたことなど、一度もなかった。
唇を噛みしめる。
「違います、お義母さん。私、騒いでなんかいません」
「私のことをまだお義母さんと呼ぶなら、少しは分かってちょうだい。琴葉さんはあの子たちの母親なのよ」
颯太の母は、当然のように続けた。
「言うことを聞いて、今すぐ帰国しなさい。あなたと颯太のことをばらまいて、琴葉さんを傷つけるようなことだけはしないで」
琴葉の名前を口にした途端、その声は少しだけ柔らかくなった。
「琴葉さんは子育てで大変な時期なの。気持ちが乱れることだってあるわ。子供のいないあなたには分からないかもしれないけれど、少しは考えてあげて。刺激するような真似はやめてちょうだい」
スマホを握る手から、力が抜けそうになった。
颯太の母は、私を責める声とはまるで違う声で琴葉をかばっていた。
それどころか、琴葉のためなら私にこんな言葉まで言えるのだ。
「でも、颯太の妻は私です。お義母さん」
もう一度だけ勇気を出し、私は鼻をすすって尋ねた。
すると颯太の母は、たちまち声を荒らげた。
「子供も産めないあなたが、何をもって妻だと言うの?颯太が離婚せずにいてくれたことに、少しは感謝しなさい。これ以上、欲を出さないで」
かつて颯太が、母の意向で経営を学ぶことになり、落ち込んでいたとき、家業を継ぐよう励ましたのは私だった。
その後、颯太が子供はいらないと言って、三日三晩、母に許しを求め続けたときも、私は二日がかりで二人の間を取り持った。
颯太の母はそんな私を、「物分かりがよくて助かる」と褒めてくれた。
結婚してから何年も、私は家のことを引き受け、颯太と彼の母の言うことに従ってきた。
少しでもいい嫁でいようと、以前よりずっと従順で、よく尽くす人間になった。
それなのに、子供がいないというだけで、私は「これ以上欲を出すな」と言われる側になった。
両親以上に私を大事にしてくれていると思っていた颯太の母は、本当は、颯太に外で子供ができていたことをとっくに知っていた。
そして颯太と一緒に、私だけを最後まで何も知らないままにしていたのだ。
結局、私はこの家の人間ではなかった。
喉の奥にこみ上げるものを押し殺し、最後にそう告げた。
「分かりました。離婚します」
要するに、琴葉にその席を譲れということなのだろう。
いい。望みどおり、身を引いてあげる。
第3話
夜が明けてすぐ、上司から連絡があった。
プロジェクトは白紙になった。帰国してくれ、と。
颯太がそこまでやるとは思っていなかった。けれど、もうどうでもよかった。
私はもう、彼らと一切関わりたくなかった。
スマホを取り出して弁護士に連絡し、離婚協議書の作成を頼んだ。あとは颯太が署名すれば、それですべて終わる。
けれど、スーツケースを引いてホテルを出ようとしたところで、琴葉に行く手を遮られた。
「少し話しましょう、高坂さん」
無視してそのまま外へ向かうと、琴葉は手にした封筒を見せた。
「あなたには、これが必要だと思うの」
私は一度目を閉じ、息をついてから、琴葉について近くのカフェに入った。
琴葉は私の前にコーヒーを置くと、自分の指輪に触れた。
「高坂さん。せっかくここまで来たのに、顔を合わせた途端に追い返されるなんて、散々だったわね。けれど、もともと自分のものじゃないものにしがみついても、何にもならないのよ。
分かるでしょう?」
私は思わず笑ってしまった。
「人の夫に手を出したあなたが、どの立場でそんなことを言っているの?」
琴葉は指輪を外し、私の前に差し出した。
「よく見て」
颯太がいつも身につけている指輪と、対になっているものだった。
彼はあの指輪を、一度も外したことがない。
爪が掌に食い込むほど、私は強く手を握りしめた。それでも表情だけは崩さなかった。
「だから何?颯太と正式に結婚しているのは私よ。夫婦なのは、私たちなの」
琴葉は首を横に振り、鼻で笑った。
「分かっていないのね。戸籍上の夫婦なんて、離婚すればそれまでよ。でも子供がいれば、そう簡単には切れないの。
颯太はあなたの前では『子供は持たない』と言っていたくせに、私には産ませたのよ。その意味、分かるでしょう?
あなたを本当の妻として見ていなかったのよ。あの人が愛していたのは、最初から私だったんだから」
ああ、だから颯太は、あれほど温かい家庭で育ったのに、子供を嫌がっていたのか。
昔の私は、それを心の傷だと思っていた。
家族の愛情で癒やしてあげたいと、ずっと努力してきた。
けれど、結局うまくいかなかった。
本当は最初から、彼が嫌っていたのは子供ではなく、卑しく惨めな私自身だったのだ。
鼻の奥がつんと痛み、目元が熱くなる。
それでも私は、言い返さずにはいられなかった。
「だからって、人の家庭を壊していい理由にはならないでしょう?人の夫との子供を産んで、そんなに胸を張れるの?」
琴葉はコーヒーに口をつけ、私を見下すように笑った。
「ええ、胸を張れるわ。あの子たちは颯太の子で、間宮家の跡取りなのよ。
あなたがどれだけ玉の輿に乗ったつもりでいても、生まれまでは変えられないの。颯太が、あなたに間宮家の跡取りを産ませると思う?いい加減、現実を見たら?
私と颯太は、家柄からして釣り合っているの。誰が見たって、本当に夫婦にふさわしいのは私たちでしょう」
婚外子にも相続権があることは知っていた。
けれど颯太が、私との子供を最初から望まず、琴葉の子を跡取りにするつもりでいたなんて、思いもしなかった。
私が十年かけて差し出してきたものは、彼には愛情ではなく、間宮家にしがみつくための執着に見えていたのだろうか。
私の沈んだ顔を見て、琴葉は満足そうに笑った。
そして封筒をテーブルに置き、席を立つ。
「私は若くてきれいで、子供もいる。颯太がどちらを選んだのか、あなたも自分の目で見たでしょう?
たとえ離婚しなくても、あなたが間宮家から得られるものなんて何もないわ。これ以上、私と張り合っても無駄だと思わない?」
私は何度か瞬きをして、こみ上げる涙を押し戻した。
それから封筒を手に取り、ゆっくりと中を開ける。
入っていたのは、すでに颯太の署名が入った二部の――
離婚協議書だった。
第4話
颯太はかつて、私を一生離さないと言った。
今回、不倫が私にばれても、彼の口から離婚という言葉は出なかった。
琴葉がどうやって颯太をだまし、離婚協議書に署名させたのかは分からない。
けれど今の私には、確かにそれが必要だった。
ただ、財産分与を一切認めないという条項を見た瞬間、怒りで全身が震えた。
不倫相手にすぎない琴葉に、どうしてそこまで決められなければならないのか。
帰国の飛行機を降りる頃には、頭も少し冷えていた。
弁護士に連絡して離婚協議書を作り直してもらい、写真に撮って颯太へ送った。
【会って署名する?それともファックスで送ればいい?】
ようやく、颯太から電話がかかってきた。
「離婚なんて、勢いで言うものじゃない。今は少し忙しい。あとで話す」
子供たちと笑い合っていた颯太の姿を思い出し、私は思わず皮肉を返した。
「そう。今度は息子を作るので忙しいの?それとも娘?」
彼のなだめるような声色が、一瞬で消えた。
「お前の親は、そんな口の利き方を教えたのか。今すぐ家に戻れ。うちの母に、嫁としてどうあるべきか教えてもらえ。それができないなら、今すぐ離婚だ」
そう言って、彼は電話を切った。
家に戻ると、琴葉と二人の子供が颯太の両親のそばで、楽しそうに笑っていた。
琴葉は親しげに颯太の母の腕に手を絡め、私を見る目には隠しきれない悪意があった。
「高坂さん、仕事の話をしに来たはずの方が、人の家にまで上がり込むなんて初めて見ました」
琴葉の息子も、不満そうに私を見上げた。
「おばさん、どうして勝手に入ってきたの?ノックしなきゃだめなんだよ」
颯太の母は、冷めた目で私を見た。
その表情だけで、私を歓迎していないことは分かった。
「離婚するんでしょう?だったら、今さら何をしに来たの。私たちの邪魔をしないでちょうだい」
私に向けられたその顔は、これまで見たことがないほどよそよそしかった。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
私はスーツケースをリビングの真ん中に置き、一人で二階へ向かった。
「すみません。
荷物をまとめたらすぐに出ていきます。皆さんの邪魔をするつもりはありません」
颯太の父が杖で床を軽く叩き、低い声で言った。
「颯太はもう帰りの飛行機に乗っている。意地を張るな。この六年、あいつがお前をどれだけ大事にしてきたか、分かっているだろう」
そのとき、男の子が泣き出した。
「この人がパパを取っちゃうの?僕たち、追い出されちゃうの?」
女の子まで声を上げて泣き出し、颯太の両親は慌てて子供たちを抱き寄せた。
「そんなことあるわけないでしょう。ここはあなたたちとパパとママのおうちよ。誰にも追い出させないからね」
男の子はしゃくりあげ、苦しそうに咳き込んだ。
颯太の母は男の子の背中を優しくさすっていたが、こちらを向いた途端、声を荒らげた。
「帰ってくるなり騒ぎを起こして。結月さん、あなたはうちを引っかき回すために戻ってきたの?
颯太に子供はいらないと言わせたのはあなたでしょう?今度は私の孫たちまで追い出すつもり?今すぐこの家から出ていきなさい!」
颯太の父は女の子を抱いたまま、ただため息をつき、それ以上は何も言わなかった。
私は部屋を見回した。
颯太の父が使っている杖は、当時の私がいちばん良い木材を選び、時間をかけて削り、仕上げて贈ったものだった。
颯太の母が持っているお守りも、私がわざわざ有名な寺まで足を運び、厄除けにと授けてもらったものだった。
それなのに今、彼らは琴葉と子供たちを守るように囲み、私にだけ冷たい目を向けている。
六年暮らしたこの家のすべてが、急によそよそしく見えた。
もういい。
持っていくものなんて、何もない。
けれど、スーツケースを引いて出ていこうとした瞬間、玄関の扉が開いた。
帰ってきた颯太が、私の手からスーツケースを奪い取った。
「子供のことで、そこまで騒ぐな。俺はちゃんとお前を妻にしてやっただろ。まだ何が不満なんだ。
琴葉とはうまくやれ。あとは俺がどうにかする」
ようやく泣き止んだばかりの男の子が、また泣き出した。
「パパ、おばさんと行っちゃうの?僕たちのこと、いらないの?やだ、パパ行かないで!」
颯太はすぐに私から離れ、男の子のそばへ駆け寄った。
「誰がそんなこと言った。パパが大事なのは、ママとお前たちだけだよ。あの悪い人はパパが追い出す。すぐ追い出すからな」
嫌悪を隠そうともせず、颯太は私のスーツケースを玄関の外へ蹴り出す。
床に叩きつけられた拍子に蓋が開き、中から離婚協議書がのぞいた。
その瞬間、颯太の目がわずかに揺れる。
彼はすぐに私の腕をつかみ、外へ引っ張り出して声を落とした。
「先に出てろ。子供と琴葉を落ち着かせたら、そのあとで――」
私は離婚協議書を拾い、ついた埃を払って、そのうち一部を彼の手に押しつけた。
「署名して。安心して。私たちに、もうこの先なんてないから」