この命とともに去っていく愛する人

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この命とともに去っていく愛する人

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かつて、黒沢南枝(くろさわ なみえ)は法曹界でその名を轟かせ、誰もが憧れる高嶺の花だった。 名門・雨宮家の御曹司である雨宮舟(あめみや ...

Chương (1)

第1章

かつて、黒沢南枝(くろさわ なみえ)は法曹界でその名を轟かせ、誰もが憧れる高嶺の花だった。 名門・雨宮家の御曹司である雨宮舟(あめみや しゅう)は、南枝を妻に迎えるため、身分さえも顧みず跪き、彼女を支える存在になると誓った。 彼は言っていた。南枝の仕事を誰よりも尊重する。いつだって彼女の後ろに立ち、正式に立場を与えられるその日を待っていると。 そして、こうも誓った。南枝を世界で一番幸せな女にしてみせる。生涯、ただ彼女だけを愛し抜くと。 結婚して五年。 舟はその誓いを一度たりとも違えなかった。五年もの間、変わらずに南枝を深く愛し、この上なく甘やかしてきた。 いつだって彼は、彼女を掌中の珠のように大切に扱ってきた。 家庭のこともよく気にかけ、彼女のために面倒ごとを引き受け、社交の場にも必ず寄り添った。 彼女が調査や証拠集めに奔走し、危険も厭わず闇へと踏み込んでいくときには、彼は自ら車を駆り、誰よりも頼れる後ろ盾になってくれた。 彼女が正義を守ろうとし、幾度となく世論の渦中に叩き込まれたときも、彼は彼女の優しさを誉め称え、決して揺るがない支えであり続けてくれたのだ。 だから、南枝は思っていた――私の人生、舟さえいてくれれば、それでいいんだ。 ――なのに今、三輪糸緒(みわ いとお)はこの案件を引き受け、南枝の妹、黒沢蛍(くろさわ ほたる)を辱めた犯人の弁護士として、彼女の前に立ちはだかっている。 そして、舟は――糸緒のために、鷺を烏と言い、南枝と蛍の尊厳を平気で踏みにじた。 第1話 黒沢南枝(くろさわ なみえ)は自分が法曹界で最も名を馳せていたあの年、雨宮舟(あめみや しゅう)と誰にも知られず入籍した。 舟との秘密の結婚も、今や五年目に入る。 舟は口元にかすかな笑みを浮かべたまま、スマホを彼女の前に滑らせるように差し出した。 画面のなかでは、南枝の実の妹、黒沢蛍(くろさわ ほたる)が頬を紅潮させている。 犯人の山田剛(やまだ つよし)は、口移しで蛍にワインを飲ませていた。蛍は身を引こうとしているのに、その仕草はどこか拒みきれていないようにも、誘っているようにも見える。 「やめて……お願い……」 男は拒もうとする彼女の手を掴み、いやらしい笑みを浮かべてボトルを揺らす。 「いい子だな。なかなかいい飲みっぷりじゃないか」 舟は南枝の真正面に座り、彼女の顔色が土気色に変わっていくのをじっと見つめていた。それでも彼は、身なりひとつ乱さず、落ち着き払っている。 骨ばった指で、こと、とテーブルを叩く。 「南枝、誰が見たって、これは強姦なんかじゃない。ただの合意の上の愉しみだろ? 考える時間はあと三分だ。証拠を出すか、それとも蛍を世間に晒すか。 トップの女性弁護士は一人でいい。糸緒のキャリアに黒星はつけられない。だから南枝、お前は法曹界から身を引け。これからは俺が養う」 「舟……」彼女の声は震えていた。「蛍は私の実の妹よ。私にとって、一番大事な人なの……あの子は薬を盛られたのよ……」 彼は何でもないことのように、カードを一枚、投げて寄越した。 「大事?ただの遊びだろ。それより、糸緒のほうがずっと大事だ。あの子は気が強いからな。裁判に負けたら、きっと泣く」 南枝は彼をじっと見据えた。そして、ふと、自分がひどく滑稽に思えた。 ――ただの遊び、だって? 「実の妹が踏みにじられて、家族も壊れかけている。それが、ただの遊び? 人でなしが許せない罪を犯して、のうのうと外を歩いている。それが、大事ない? あなたにとっては、三輪糸緒が裁判に負けて泣くかどうかのほうが、そんなに大事なの?トップ弁護士の肩書のほうが、そんなに重要なわけ?」 舟は不快そうに眉をひそめ、わずかに身を乗り出し、苛立ちをあらわにした声で言い放った。 「じゃあ、なんだって言うんだ?はっきり言っておく。糸緒は俺に恩がある。俺の中では、誰もあの子には敵わない。 このカードには一億が入ってる。蛍に渡してやれ。バッグでも車でも、好きなものを買えばいい。若い連中だから、ちょっと羽目を外したのも、別に珍しい話じゃない」 南枝は怒りのあまり体が震え、涙が止めどなくテーブルの上に落ちていく。 どうして舟が、こんな人間になってしまったのか、彼女にはわからなかった。 かつて、南枝は法曹界でその名を轟かせ、誰もが憧れる高嶺の花だった。 名門・雨宮家の御曹司である舟は、南枝を妻に迎えるため、身分さえも顧みず跪き、彼女を支える存在になると誓った。 彼は言っていた。南枝の仕事を誰よりも尊重する。いつだって彼女の後ろに立ち、正式に立場を与えられるその日を待っていると。 そして、こうも誓った。南枝を世界で一番幸せな女にしてみせる。生涯、ただ彼女だけを愛し抜くと。 結婚して五年。 舟はその誓いを一度たりとも違えなかった。五年もの間、変わらずに南枝を深く愛し、この上なく甘やかしてきた。 いつだって彼は、彼女を掌中の珠のように大切に扱ってきた。 家庭のこともよく気にかけ、彼女のために面倒ごとを引き受け、社交の場にも必ず寄り添った。 彼女が調査や証拠集めに奔走し、危険も厭わず闇へと踏み込んでいくときには、彼は自ら車を駆り、誰よりも頼れる後ろ盾になってくれた。 彼女が正義を守ろうとし、幾度となく世論の渦中に叩き込まれたときも、彼は彼女の優しさを誉め称え、決して揺るがない支えであり続けてくれたのだ。 だから、南枝は思っていた――私の人生、舟さえいてくれれば、それでいいんだ。 ――なのに今、糸緒はこの案件を引き受け、南枝の妹、蛍を辱めた犯人の弁護士として、彼女の前に立ちはだかっている。 そして、舟は――糸緒のために、鷺を烏と言い、南枝と蛍の尊厳を平気で踏みにじた。 「雨宮……舟……」南枝の声は、ひどく震えていた。「もし、私が折れなかったら、本当に私たちを壊すつもり?」 「なら、試してみればいい」 第2話 南枝が「三輪糸緒」という名前を初めて耳にしたのは、一年前の法廷だった。 糸緒は被告側の弁護士として出廷し、南枝と法廷で激しく論戦を繰り広げた。 糸緒は、気位ばかりが高くて法律知識もさほど深くないくせに、やたらと道徳を振りかざすタイプだった。 彼女は、七十を過ぎた男――隣家の幼い少女にわいせつ行為を働いた老人の弁護を引き受けていた。 審理が終わったあと、糸緒は感情を昂らせたまま南枝のもとへ来て、開口一番、説教じみた言葉を並べ立てた。 「黒沢さんって、少しは思いやりってものを持てないの?彼、もうお年寄りなのよ。寂しさのあまり、ああするしかなかっただけじゃない。 彼が刑務所でひとりぼっちのまま人生を終えるのを見て、黒沢さんはそれで満足なわけ?」 そのとき、たまたまこの話を耳にした舟は、南枝をぎゅっと抱き寄せながら、冷たい眼差しでぽつりと言った。「分別のない連中だな。南枝、俺が片づけてやろうか?」 南枝はそれを断った。 でも、まさか半年後に―― 舟が糸緒を雨宮グループの法務として採用するなんて、思いもしなかった。 あのとき彼は、やわらかい声で南枝をなだめたものだ。「南枝、ただ人手が足りなかっただけなんだ。それに、あの性格も案外面白いと思わないか?」 それからというもの、糸緒の名前は舟の口からやたらと飛び出すようになった。 でも南枝は、舟の愛情にどっぷりと甘えきっていて、糸緒なんて取るに足らない存在だって、まったく気にも留めていなかった。 ――なのに、今。 かつて、もし南枝を裏切ったら針千本飲ますと誓ったはずの舟は、ただ糸緒を笑わせるためだけに、南枝の家族ごと地獄へ突き落とそうとしている。 「……わかった。あなたの言うとおりにする」南枝の心は、完全に死んだように静まり返った。 彼女は舟が差し出した契約書に素早く署名し、最後の一画を書き終えると、もう彼を一瞥たりともせず、背を向けて足早に立ち去った。 だがドアを出た直後、母の黒沢静美(くろさわ しずみ)から緊急の電話が入ったのだ。 「南枝、早く病院に来て!蛍が……自殺したの!」 南枝は全速力で病院へ駆けつけた。 けど、そこで目にしたのは――手首から血を流し続ける妹を抱きしめたまま、医師たちに何度も何度も頭を下げる母の姿だった。 「お願いします、どうか娘を助けてください……!まだ体は温かいんです。止血も必死にやりました。だから、まだ助かるはずなんです……!」 静美は額を床に打ちつけるようにして、何度も頭を下げていた。髪はぐちゃぐちゃに乱れ、額は赤く腫れ上がっている。 なのに、医師たちは困ったような顔で言うのだった。「当院の救急医は全員、雨宮社長のご命令で待機中なんです。我々もこれから、三輪さんのペットを診に行かなくてはなりませんので」 それを聞いた瞬間、南枝の頭は真っ白になって、立っていられないほどだった。 彼女は血の気を失った顔で慌てて駆け寄り、去ろうとする医師の腕を掴んだ。 「先生、犬には専門の獣医さんがいるじゃないですか。でも、あなたたちは人の命を救う医者でしょう?このまま妹がここで死ぬのを、ただ見過ごすっていうんですか?」 医師は、南枝の手を振り払った。 「お嬢さん、どうかご理解ください。雨宮社長がおっしゃったんです。あれは三輪さんにとって、とても大切な犬です。 もし死んだら、三輪さんはきっと食事も喉を通らなくなります。もし彼女に何かあれば、我々全員の責任問題になりますから」 南枝は、医師を引き止められなかった。 彼女はそのまま追いかけ、声が枯れるまで叫び続けて助けを求めた。 ――けど。再び戻ってきたときには、もう遅かった。 静美は、すでに冷たくなり始めた蛍の体を抱きしめて、声を上げて泣いていた。 南枝はゆっくりと、二人のそばに膝をついた。 胸の奥から、鋭い苦しみと悲しみが、大きな波のように押し寄せてくる。 彼女は自分の頬を、何度も、何度も、思いきり叩いた。 「全部、私のせいだ……私が、妹を殺したんだ……」 けど静美は、その手をそっと押さえた。 その手には、まだ蛍の血がこびりついていた。 泣き腫らした静美の目が、ゆっくりと強い光を宿していく。 「いい子……ここを離れましょう。 誰かに頼んで手続きをしてもらうわ。海外へ移住するの。この街なんて、もう二度と戻らない」 …… 南枝は静美とともに、蛍を火葬場へ連れて行った。 半日が過ぎた頃には、静美は一気に十歳以上も老け込んだように見えた。 背中を丸め、骨壷をぎゅっと抱えて黙りこくっている――その姿を見ただけで、南枝の胸は張り裂けそうなほど痛んだ。 そのとき、不意に舟からメッセージが届いた。 第3話 【二時間以内に、スタイリストのところへ行って、糸緒のドレスを受け取れ。そのまま会場まで届けて。住所は、糸緒が送るから】 南枝は、怒りのあまり笑いが込み上げてきて、涙がこぼれそうになった。 相手をブロックして、削除してしまいたい衝動を、必死にこらえて――ただ、二文字だけを返す。 【無理】 すると、すぐに舟から返信が届いた。 再び送られてきたのは――蛍の、あの映像だった。 脅し以外の、何ものでもなかった。 南枝はスマホをぎゅっと握りしめ、指の関節が白くなるほど、力を込める。 静美も、そのメッセージを見てしまい、感情をもう抑えきれずにいた。 「蛍はもう死んだのに……あの人は、まだ何をしようっていうの……!この人でなし……っ、うちの蛍を、死んでまで安らぎを得させないつもりなのか!」 南枝は、泣きじゃくりながら、取り乱す母のことを、ぎゅっと抱きしめた。 「お母さん、やめて……私が行くから。この七日間だけは、雨宮のクズに、少しでも異変を気づかれちゃだめなの。気づかれたら――私たち、もう、逃げられなくなる」 糸緒から送られてきた住所は、ひどく曖昧で――南枝は、汗だくになりながらも急いで向かい、どうにかギリギリの時間で、現地へとたどり着いた。 舟は、入口に人を配置していた。 南枝は遠くから、門の前に立つ一人の男の姿を見つけた。 けど――近づくにつれて、その顔が、はっきりと見えた、その瞬間。心が、一気に、冷たい深淵へと突き落とされた。 怒りで、理性が吹き飛びそうになる。目が、真っ赤に染まった。 そこにいたのは――ほかでもない、妹を辱めた、山田剛だった。 剛も、すぐに南枝に気づいて、だらしない歩き方で、ゆっくりと近づいてくる。その顔には、得意げないやらしい笑みが、べったりと張りついていた。 「おっ、黒沢先生じゃないか。三輪先生に頼まれて、わざわざ迎えに来てやったんだぜ。 にしてもよぉ、もうちょっと早く来られなかったわけ?こっちは、結構待たされたんだけど」 南枝は、指先が掌に食い込みそうなほど、拳を強く握りしめ――込み上げる苦しさと怒りを、必死に、押し殺した。 「……あなた、三輪糸緒に、招かれて来たっていうの?」 声が、かすれている。 剛は、ますます得意げに笑った。 「当然だろ。三輪先生ってのは、ほんとにいい人でさ。こういう格式高い場に来たことねえって言ったら、依頼人なんだから世間を見せてやるって、わざわざ連れてきてくれたんだよ。 しかもさ、あの人の彼氏ってのが、また太っ腹なんだわ。上場企業の社長らしいぜ。見ろよ、このスーツ、あの人が用意してくれたんだ。 黒沢先生も、少しは見習ったらどうだ?なんで、三輪先生のようにあんなに素晴らしい男を見つけられなかったわけ? ……ああ、思い出した。同じ腹から生まれた、あの尻軽な妹さんと同じで――お前も、ろくなもんじゃねえんだったな」 その一言一言が、張り詰めきった南枝の神経を、これでもかと、激しく揺さぶる。 もう、我慢の限界だった。 目を血走らせ、奥歯をぎりぎりと食いしばりながら――手にしていたドレスを、男に思いきり叩きつけた。 「よくも……よくも、蛍のことを口にしたわね!殺してやるっ!」 数発、思いきり殴ったところで、すぐに周囲の人間に、無理やり引き離された。 糸緒が、舟の腕に手を絡めて現れた。彼女はその光景を見て、不快そうに眉をひそめた。 「黒沢さん、誰が、私の依頼人に手を上げていいって言ったの?きちんと、謝罪してください」 「謝罪……?」南枝は怒りのあまり体が震え、声はかすれきっていた。「この男は、私の妹を壊したのよ。なのに、私が謝らなきゃいけないって……?」 糸緒の目が、ぎらりと鋭く光る。 「その言い方、軽率だよ。まだ判決だって出ていないのに。それは、私の依頼人に対する、名誉毀損になるわ」 そう言うと、彼女は舟の腕から、するりと手を離し――顎を上げて、冷たく言い放った。「この件、どう処理するの?私が判断するのは、公平性に欠けるから」 舟は、糸緒の、こういう頑なな態度が、気に入っていた。 いつもは冷たく澄んだ黒い瞳が、この瞬間だけ、柔らかな熱を帯びている。 彼は思わず、苦笑しながら、ぽつりとこぼした。「……まったく、しょうがないな」 そして南枝のほうには、ちらりとも目を向けずに、そのまま、命じた。「跪いて、謝れ」 南枝はその瞬間、目を大きく見開いた。 第4話 南枝は思わず口を開いた。「雨宮、頭おかしいんじゃないの?まさか知らないわけじゃないでしょ、この男が――」 けど、南枝が言い終える前に、舟は軽く手を振った。 するとすぐにボディガードが動き、南枝を無理やり地面に押さえつける。 彼女が抵抗したため、髪を乱暴に掴まれ、そのまま床へと叩きつけられた。 ――ドンッ!ドンッ!ドンッ! 一撃ごとに、鈍く耳障りな音が響き渡る。 南枝の額はたちまち血に染まり、視界もぼやけはじめた。 舟は、糸緒の表情がわずかに和らいだのを確認してから、ようやく手を止めさせた。 拘束を解かれた南枝は、そのまま無様に地面へ崩れ落ちる。 屈辱の涙が血と混ざり合い、ぽたり、ぽたりと土の上に落ちていった。 舟は彼女の前まで歩み寄り、しゃがみ込むと、白いハンカチを差し出した。口調だけは、またあの穏やかな声音に戻っている。でもその目には、もう何の感情も宿っていなかった。 「南枝、この件はもう終わったはずだと言っただろう。それでもまだ食い下がるなんて、お前は糸緒をどこまで追い詰めるつもり? お前は、あまりにも冷酷だな」 南枝は必死に体を起こし、彼の手にあるハンカチを思いきり払いのけた。 「……好きに思えばいい」 かすれきった声でそう言い放ち、彼女はよろめきながら立ち上がる。 舟は、少し離れた場所に落ちたハンカチを一瞥し、ほんの一瞬だけ目を曇らせた。 けど、すぐに糸緒のもとへ戻り、その腰を抱き寄せる。 「屋敷へ戻ろう」 糸緒は、何かを思いついたように背後をちらりと見やった。そこには、やつれ果て、打ちひしがれた表情の南枝がいる。 わざと声を張り上げて言った。「私を家まで送ってくれないの?」 舟は彼女の腰をぐっと引き寄せ、長く深い口づけを落とす。 「今日はお前の家には行かない。俺の家に来い」 南枝は聞こえないふりをしようとしていたが、その言葉は無数の針みたいに胸へ突き刺さった。 鋭い痛みで、呼吸すらできなくなった。 遠ざかっていく車のエンジン音を聞きながら、必死に伸ばしていた背筋が、果てしない圧力と屈辱に押し潰されるように、ゆっくりと折れていった。 舟は、彼女に一台の車すら残さなかった。 南枝が家へ戻ったときには、もう深夜を回っていた。 鍵を開けようとしたそのとき、中から、高まったり弱まったりする甘い声が漏れてくる。 その耐えがたい音は、冷たい平手打ちみたいに、何度も何度も彼女の頬を打ち据えた。 顔からは一瞬で血の気が引き、ドアノブを握りしめる手に力がこもる。けど――解錠する勇気が出なかった。 結局、南枝は家の玄関の前で、一時間近くも立ち尽くした。 晩秋の京栄市の夜風は、骨の芯まで冷たく沁みる。 でも、そんな冷たさでさえ、彼女の心の底の冷え切り方には、到底及ばなかった。 やがて、中の物音がようやく静まった。 彼女は機械みたいに解錠ボタンを押した。 自分で選んだお気に入りの絨毯の上には、引き裂かれた衣服が散乱している。 真夏にいくつも家具店を回って、やっと見つけた玄関の仕切り棚に、使い残しのゴムが無造作に置かれていた。 舟は、かつて二人が愛し合ったこの場所に、糸緒を愛している証を、こうして焦るように刻みつけていたのだ。 南枝は顔を上げなかった。これ以上、惨めな光景を目にしたくなかったからだ。足早に階段へ向かおうとする。 けど、バスタオル一枚をはおっただけの糸緒に、行く手を阻まれた。 頬は紅潮しているのに、その態度はあくまで傲慢で澄ましている。 「黒沢さん、そんな被害者みたいな顔、やめてもらえる?先に言っとくけど、私、別に愛人ってわけじゃないわ」 南枝は奥歯を強く噛みしめて、なんとか声を落ち着かせた。「あなたがそう思うなら、それでいいんじゃない?あなたの自己正当化に付き合ってる暇はないの」 その言葉に、糸緒はわずかに苛立った表情を見せると、南枝の手を強く掴み、そのまま舟の書斎へと引きずり込んだ。 糸緒は慣れた手つきで、いつもは南枝には鍵がかけられていた金庫を開ける。 中から一通の契約書を取り出し、それを南枝に叩きつけた。 第5話 「黒沢さん、よく見てなさい。あなたたち二人は、とっくに離婚してるんだわ。 このサイン、あなたのものだよね。たとえ、あなたが知らないうちに書かされたものだったとしても―― 私たち、どっちも弁護士でしょ。分かってるはず。契約は有効なの。あなたたちはもう、正式に婚姻関係を解消してるのよ。 確かに、舟があなたと離婚したのは、私が愛人なんて受け入れられないって言ったから。 でもね、こうしてきちんと伝えたのは、今後あなたに無駄な執着をされないためなの。 それに、本来なら今のあなたにこの屋敷にいる資格なんてないけど……まあいいわ。引っ越すくらいの時間はあげるから」 南枝は離婚協議書を、最初から最後まで一字一句、丁寧に目を通した。 糸緒が嘘をついていないことくらい、すぐに分かった。 舟は用心深い男だ。こういう契約の類で、抜かりを見せることなんて絶対にない。 もともと南枝は、どうやって舟との婚姻関係を解消しようか、ずっと頭を悩ませていた。 でも、今となっては、その心配すら無用だったらしい。 胸に残るのは、安堵よりも、苦さのほうがずっと大きかった。 五年の結婚生活。どんな苦難だって、二人で一緒に乗り越えてきた。 なのに、辿り着いた結末は、これほどまでにみじめで、しかもあまりに静かなものだった。 悲しくないわけがなかった。 南枝は、なおも得意げな顔をしている糸緒を相手にせず、無表情のまま離婚協議書を丁寧に畳んだ。 「……分かったわ。じゃあ、あなたと彼に祝福を。末永くお幸せに」 最後のお祝いの言葉は、奥歯を食いしばるようにして絞り出した。 部屋に戻ったあと、南枝はほとんど一晩中眠れなかった。 どうせ眠れないならと、彼女は素早く自分の持ち物をすべてまとめ始めた。 そして翌日、舟と糸緒がどちらも出かけているのを確認すると、すぐに引き取り業者を呼んだ。 荷物を受け取りに来た配達員は、箱いっぱいに詰め込まれた高価なドレスや宝飾品を見て、思わず南枝をまじまじと見つめた。驚きのあまり、声が上ずっている。 「お、お客様……配送先のご住所、本当にお間違いないですか?ここ、ごみ処理場になってますけど……」 南枝は無表情のまま、最後の箱を運び出した。 「間違ってません」 そう言って、配達員に少し多めのチップを渡した。 「全部、焼却炉に入れてください。もう要らないので」 どれもこれも、舟から贈られたものだった。 贈り主の気持ちが、今の彼女にとってはもう無価値でしかないのなら――その贈り物だって、ただのゴミと同じだ。 片づけがすべて終わったところで、南枝のスマホが鳴った。母の静美からの電話だった。 受話口の向こうはひどく騒がしくて、しばらくしてようやく、途切れ途切れの泣き声が聞こえてくる。 「南枝……誰かがね、蛍のお墓まで奪おうとしてるの…… かわいそうな蛍……死んでまで、安らかに眠れないなんて…… 全部、私のせいよ……私が、頼りないばかりに……」 南枝はすぐに静美を落ち着かせると、全速力でその場へ向かった。 到着すると、屈強なボディガードたちが静美を乱暴に押しのけている光景が目に飛び込んでくる。 静美は足を取られて地面に倒れ込みながらも、真っ先に腕の中の骨壷を守った。 痛みでしばらく立ち上がれずにいる、その濁った老いた瞳には、無力さと惨めさだけが滲んでいる。 南枝は慌てて駆け寄り、静美を支え起こした。怒りで目を赤く染めながら、声を絞り出す。「……お墓を奪うのは誰なの?」 静美はすがるような目で、前方の人物を指さした。南枝にとって、あまりにも見慣れた背中―― 「……あの人よ。自分のペットの犬が死んだからって、蛍のために用意したお墓を、無理やり奪ったの」 南枝は顔を上げ、少し離れた場所で犬の死体を前に涙を拭っている糸緒を、まっすぐに見据えた。 胸の奥底から、怒りが一気に燃え上がる。 南枝は険しい表情のまま静美の手を引き、ずんずんと前へ進み出ると、冷たい声で言い放った。 「どういうつもり?男を奪うだけじゃ足りなくて、今度は墓まで奪おうってわけ?」 糸緒は涙に濡れた顔を上げ、その言葉を聞いた瞬間――ほんの一瞬だけ、表情が硬直し、歪んだ。 第6話 彼女は下唇を噛みしめ、まるで自分こそが被害者だと言わんばかりの顔をした。 「黒沢さん、言い方に気をつけてください。私はただ、自分の犬を埋葬したいだけ。あなたに何かした覚えはないけど。それに――」 糸緒は、南枝母娘が抱えている骨壷にちらりと目をやった。 「またお芝居でもして、舟に同情してもらおうってわけ?いい加減にしたら?まさか、妹さんが死んだなんて言い出すつもりじゃないでしょうね。 動画で見た限りじゃ、ずいぶん積極的に見えたけど。そういう手口、もうやめたらどう?安っぽすぎて見てられないわ」 その言葉がどんどん下品になっていくのを聞きながら、南枝は、今すぐ頬を張り倒したい衝動を必死にこらえた。 深く息を吸い込み、彼女は直接、墓地の管理者に電話をかける。 事情を手短に説明すると、幸い話の分かる人物だったらしく、すぐに糸緒へ退去を求めてくれた。 「お客様、当社の墓地はすべて事前予約制となっております。お一人のご都合で規則を破るわけにはまいりません。お急ぎでしたら、別の場所をご案内いたしますので」 糸緒は顔色をわずかに青ざめさせ、南枝をぎろりと睨みつける。 「黒沢さん、あなたってそこまで冷酷なわけ?私の犬が死んだっていうのに、埋葬すらさせないつもり?」 南枝は妹の骨壷をそっと墓に納めながら、ちらりとも彼女を見ずに言い返した。「その言葉、あなたにこそふさわしいと思うけど」 糸緒は怒りのあまり体をぐらつかせ、次の瞬間、顔からさっと血の気が引き、そのまま気を失って倒れ込んだ。 南枝が反応する間もなく、背後から張り詰めた冷たい声が響いた。 「墓の中の汚いものを、全部出せ」 振り返ると、そこには顔を強張らせ、大股で糸緒のもとへ駆け寄り、彼女を大事そうに抱き上げる舟の姿があった。 南枝は思わず拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。 彼女はすぐさま、妹の骨壷に手を伸ばそうとするボディガードの前に立ちはだかり、目を真っ赤にして舟を見据えた。 「雨宮……中に何が入ってるか、分かってるの?」 舟は高いところから冷たく見下ろし、吐き捨てるように言う。「何だろうと、俺には関係ない。南枝、お前は何度も何度も、糸緒に突っかかってきた。今のこの結果は、全部お前の自業自得だ」 そう言い終えると、彼は目線だけで合図を送った。 ボディガードはすぐに動き、墓から骨壷を力任せに奪い取る。 そして――南枝と静美の目の前で、その中身を無造作に地面へとぶちまけた。 灰が、土と混ざり合っていく。 静美はその場に崩れ落ち、声にならない叫びをあげながら、這うようにして灰を掬い上げようとした。 けど、ボディガードに止められる。 さらに悪意に満ちたボディガードの一人が、わざと――灰の上を踏みつけた。 南枝はその光景に、ほとんど耐えきれず、血走った目で信じられない思いで舟を見つめた。 口のなかに広がる鉄の味をこらえながら、一言一語、絞り出す。「雨宮……これが誰の遺骨か、本当に分かってるの……?これは、私の――」 「妹のだとでも言うつもりか?」 舟は鼻で笑い、その整った顔に皮肉な笑みを浮かべた。 「どうせそんな言い訳をすると思っていた。 南枝、いい加減にしろ。これ以上嘘をつくなら、本当にそうなるようにしてやってもいいんだぞ」 そう言い捨てると、舟は糸緒を抱いたまま、振り返りもせずにその場を去った。 …… すべての人が去ったあと、拘束から解放された南枝は、絶望に染まった顔で、ゆっくりと地面に膝をついた。 震える手で、妹の遺骨を掬い上げようとする。 けど、指先に触れたのは――骨の芯まで凍りつくような、冷たさだけだった。 傍らで、静美は声が枯れるまで泣き続けている。 その無力さと絶望は、鋭い刃みたいに、南枝の胸を深く深く刺し貫いた。 彼女は、生まれて初めて――これほどまでに、自分自身を憎んだ。 ほとんど正気を失いかけた静美の姿を見て、南枝は無理やり気力を振り絞り、そっと自分の母を抱きしめた。 第7話 「お母さん、大丈夫。あと四日よ。四日さえ耐えれば、私たちはここを離れられるから」 屋敷の中の荷物は、もう全部片づけてあった。 南枝は、あの場所へは二度と戻るつもりはなかった。 残された数日を、ただ静美と静かに過ごしたい――それだけだった。 なのに、それを絶対に許さない人間がいる。 ――ドンッドンッ! ドアが乱暴に叩かれ、壁まで震えるような音が響く。 南枝がドアを開けると、そこに立ちはだかる屈強なボディガードたちの姿があった。顔から、さっと血の気が引いていく。 歯を食いしばり、警戒をあらわにして問いかけた。「……何の用?どういうつもり?私はもう、望みどおり出ていくって言ったでしょ。それでもまだ足りないわけ?」 先頭に立つ男が、無機質な口調で答える。 「社長がお呼びです。三輪さんの誕生日パーティーに、ぜひご出席いただきたいと。 お二人は同業で、以前は同じ事務所にもいらしたとか、三輪さんも、ぜひ来てほしいとおっしゃっていまして」 南枝は、思わず鼻で笑った。「……断ったら?」 男は、即座に手を振る。 数人のボディガードが部屋へ踏み込み、白髪混じりの静美を無理やり押さえつけた。 「社長のご指示です。もしあなたがお越しにならない場合は、お母様に来ていただくよう、とのことです」 その光景に、南枝の目は一瞬で潤んだ。 苦しげに声を絞り出す。「やめて……お母さんから手を離して。分かった、行く。行けばいいんでしょ」 招待、なんて生易しいものじゃなかった。これは、完全に連行だ。 南枝は、まるで犯人みたいに宴会場へと連れて行かれた。 入口に着いたその瞬間、人垣の中心でひときわ目を引く、糸緒と舟の姿が飛び込んでくる。 糸緒からは、かつての素朴で地味な面影なんて、もう微塵も感じられない。 洗練された化粧に、華やかなドレス。 舟にエスコートされながら、大物たちの間を、自信に満ちた足取りで渡り歩いている。 そして舟のふとした瞬間に彼女へ向ける視線。そこには、隠そうともしない愛情と優しさが溢れていた。 まるで、自分の手で大切に育てた花を眺める、みたいに。 その眼差しを、南枝はよく知っている。 かつて、彼が自分を一番愛していたあの頃――あの二年間、同じ目で自分を見ていた。 南枝は着の身着のままだった。 簡素な服のまま会場に入った彼女は、人混みのなかで痛いほど浮いている。 足を踏み入れた途端、嘲笑と陰口が絶え間なく耳に飛び込んできた。 そのとき、糸緒がドレスの裾を持ち上げながら、こちらへ近づいてくる。 「皆さん、そんな言い方はやめてください。黒沢先生とは、確かに以前、少しトラブルがありましたけど。でも、もう今は解決してますから。 それに、黒沢先生はもう雨宮社長と円満にお別れしましたし……雨宮社長も今、私のことをとても大切にしてくださってるんです」 甘くて、得意げな笑みが、その顔いっぱいに広がる。 南枝は思わず舟を見た。 けど彼は――「別れた」というその言葉に、何の反応も示さない。 その事実に、南枝はやはり胸がぎゅうっと締めつけられて、目が熱くなった。 適当にやり過ごして、さっさと立ち去るつもりだった。 なのに、糸緒はふいに声を潜め、二人にしか聞こえない音量で囁いたのだ。「黒沢さん、そんなに急いでどこ行くの?今日はあなたのために、特別な『サプライズ』を用意してあるのよ」 その、不気味な笑みに、南枝の胸に、いやな予感が胸を走る。 そして、次の瞬間。 耳を塞ぎたくなるような、不快極まりない音が、会場中に響き渡った。 巨大なスクリーンに映し出されたのは―― 妹の蛍と、山田剛の、あの夜の映像だった。 その瞬間、南枝は全身から血の気が引き、体の芯まで凍りついた。 我に返った南枝は、弾かれたようにスクリーンへ駆け寄り、映像を止めようとした。 けど――ボディガードたちは、まるで最初から分かっていたみたいに、彼女の前に立ちはだかった。 周囲からの嘲笑とひそひそ声が、耳に突き刺さる。 頭が、締めつけられるように痛い。 「ねえ、あの女、どっかで見た顔じゃね?」 「似てるだろ、あの黒沢先生とかいう弁護士にさ」 「妹なんじゃないの?たしか、わいせつ被害にあったって話だったよな」 「マジで信じてたわけ?あの様子見ろよ、思いっきり楽しんでんじゃん。妹があれなら、姉だってロクなもんじゃないよな」 映像がほとんど終わりかけになってようやく、糸緒は急に我に返ったふりをして誰かに消すように言った。 第8話 糸緒は南枝に向かって軽く咳払いをし、まるで自分は何も悪いことをしていないと言わんばかりに、平然とした目で言った。 「黒沢先生、そんなに怒らないでよ。この件はもう、結果なんて決まったようなものだし。 それに、妹さんがあんなことをしたんだから。私の依頼人は何も言ってないのに、あなたが気に病む必要なんてないでしょ?」 南枝は怒りで理性が吹き飛び、どこからそんな力が湧いたのかもわからないまま突進し、糸緒の腕を掴んで、思いきり平手打ちを一発食らわせた。 糸緒は、そのまま舟の胸へと倒れ込む。 舟は、赤く腫れ上がった彼女の頬を見た瞬間――目つきが一気に冷え切った。 南枝を睨み据え、今にも人を殺しかねない声で言い放った。「黒沢南枝、正気か?」 南枝はまだ完全に落ち着けず、手が震えている。 それでも、嘲るように笑ってみせた。 「さっき、あの人たちが蛍の映像を流したとき、あなたは何してたわけ?目が見えなかったの? この女が叩かれた途端に、急に目が見えるようになったのね。雨宮、忘れないで。私たちの約束を」 これほど激しく感情をあらわにした南枝を見るのは、彼にとっても初めてだったのだろう。 舟は、目の冷たさをほんの少しだけ和らげ、上から見下ろすように口を開く。「今日ここにいる連中の口は、俺が封じる。約束も有効だ。だが、もしお前が約束を破るなら――次に流れるのは、お前の母親の映像だと思え」 南枝は口のなかに広がる血の味を、何度も何度も飲み込み、必死にこらえた。 それでも、涙は止められない。 やがて、抵抗するのをやめ、淡々とした声で言った。「雨宮舟……今日のこと、一生忘れない」 決別を告げるような、その背中を見て――舟の胸に、ほんのわずかな違和感が走る。 けど、腕のなかで糸緒が息も絶え絶えに泣く声を聞いた瞬間、その最後の迷いも、きれいに消え去った。 宴会場を出た直後――南枝は突然、頭から袋を被せられ、そのまま近くの路地へと引きずり込まれた。 「やめて……これは犯罪!私は弁護士よ……!」 何度訴えても、相手は一切、手を止めない。 彼らは手際よく南枝を押さえ込み、スマホを構えて撮影の準備を始めた。 やがて、一人が前に出て、容赦なく頬を打つ。 南枝の頭は大きく揺れ、耳鳴りが響く。 けど、間を置かずに、さらに何発も平手が飛んできた。 どれだけ続いたのか、もうわからない。 やがて呼吸すら苦しくなり、顔は腫れ上がり、涙を流す力さえ残っていなかった。 意識も遠のきかけたそのとき、彼女は、彼らが動画を送信するのを、ぼんやりと見ていた。 そして、音声メッセージが流れる。 「雨宮社長、平手打ち九十九発、完了しました」 「わかった」 スピーカーの向こうから聞こえた、冷たい男の声―― その声が、最後の一発の平手打ちみたいに、南枝の全身に叩きつけられた。 やがて連中が去ると、南枝の体は力尽きて、その場に崩れ落ちる。 肉体の痛みと、胸の痛み。どっちが、より痛いのか――もう、わからなかった。 …… 南枝は、この出来事を誰にも話さなかった。 今の彼女にとって、何よりも大切なのは――静美を連れて、ここから離れることだった。 三時間後の搭乗案内を確認しながら、南枝と静美は、急いで荷物をまとめる。 そして、いざ出発しようとしたそのとき、玄関のドアが、激しく叩かれた。 ドアを開けると、中年の女が一人、ずかずかと上がり込み、開口一番、無遠慮に言い放つ。「なかなか開けないで、何をもたもたしてるのよ」 南枝は、見覚えのないその女を見て、わずかに眉をひそめた。 「どなたですか。存じ上げませんが。お引き取りください」 女は南枝の顔を見るなり、舌打ちをし、質問には答えずに勝手に話し始める。「ねえ、剛。この顔じゃ、ちょっと厳しいわね。まあいい、あんたに嫁が見つかるなら、他はどうでもいい」 第9話 南枝は、この女は正気なのかと疑った。 しかしその直後、蛍を辱めた剛が、ずかずかと中へ入ってくる。 南枝は一瞬で理性を失い、飛びかかろうとした。 「出て行け!よくもぬけぬけと……消えろ!」 でも、剛はまったく動じない。それどころか、得意げに笑ってさえいる。 「なんで来ちゃいけねえんだ?これからお前は、俺の嫁になるんだぜ。ここはもう、俺の家だ。 お前の妹は、俺と寝たんだ。で、今はどっかへ逃げちまった。だから、誰かが責任を取らなきゃならねえだろ。 三輪先生も雨宮社長も言ってたぜ。妹を出せねえなら、お前が責任を取るってな」 その言葉を聞いた瞬間――南枝の心は、底の底まで冷え切った。 ちょうどそのとき、舟が糸緒を連れて中へ入ってくる。 糸緒は、相変わらずの高慢な態度を崩さない。 「黒沢先生、理解してください。もうすぐ開廷なのよ。でも、妹さんとは連絡が取れない。この方法を取らなきゃ、私の依頼人はどうすればいいの? 妹さんを引き渡すか、それともあなたが彼と行くか――」 剛のいやらしい視線を肌で感じながら、南枝は声の震えを抑えきれなかった。「……蛍は死んだのよ。もう現れない。これで満足?」 糸緒は一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに嘲笑を浮かべた。「まさか……今度は妹さんの命まで使って嘘をつくつもり?負けず嫌いのは分かってる。でも、そこまでする必要あるの?」 そう言ってから、彼女は柔らかく視線を上げて、舟を見た。 「舟、どうすればいいの?」 舟は少しだけ考え――やがて歩み寄ると、南枝の手首を強く掴んだ。 「言ったはずだ。この裁判は、糸緒にとって重要なんだ。まだわがままを言うつもりか?」 南枝は目を真っ赤にして、一語一語、叩きつけるように言った。「私も言った。妹は死んだの。どうしろって言うの?遺体を法廷に持って行けって言うの!?」 その言葉に、舟の黒い瞳には失望の色が浮かんだ。 彼は南枝を、無造作に剛のほうへと突き飛ばす。 「連れて行け」 剛はすぐに、軽薄な口笛を吹いた。 静美が涙を流しながら駆け寄ろうとするけど、すぐに押さえ込まれる。 南枝は静美に、ほんの一瞬だけ目配せをした――逃げて。 そして南枝は、うつむき、もう抵抗する気力もないふりをした。 ただ――剛に連れられて外へ出るとき、舟とすれ違いざま、南枝は低く言った。「雨宮舟……あなたは自分の手で、私を突き出したんだね。後悔、しないでよ」 そう言い残し、返事も聞かずに、そのまま足早に去っていく。 南枝はボディガードに、無理やり車へ押し込まれた。 エンジンがかかると同時に――彼女は、ずっと周囲を観察していた。 そして、隙を見つけた。 その瞬間、南枝は迷わず車から飛び降りた。 転倒して手足を打ちつける痛みも構わず、足を引きずりながら林のなかへと走り込む。 この道は、彼女は知っている。空港まで近い。 そのとき、スマホに静美からのメッセージが届いた。 【南枝、もう空港に着いたわ。もし抜け出せないなら、私も行かない】 その言葉に、南枝の目は熱くなった。 十分後――彼女は、なんとか無事に空港へたどり着いた。 静美と合流し、保安検査を通過したとき、張り詰めていた神経がようやく緩んだ。 まもなく離陸しようとする飛行機を見つめながら、南枝は、静美の手を強く握った。 「お母さん……やっと、ここを離れられるね」