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歳月の悔い、果敢なき別れ
夫の松本明(まつもと あきら)の幼なじみに恋人候補を紹介した後、夫が突然、私にこう言い放った。 「おまえ、けっこうあさましい奴だな」 私...
Chương (1)
第1章
夫の松本明(まつもと あきら)の幼なじみに恋人候補を紹介した後、夫が突然、私にこう言い放った。
「おまえ、けっこうあさましい奴だな」
私はその場に立ちすくみ、耳を疑った。
聞き取れなかったとでも思ったのか、後部座席にいた息子が、あけすけに口にした。
「母さん、父さんと恵(めぐみ)さん、もう二年も付き合ってるんだよ。父さん、今までずっとサインを送ってたのに、なんで気づかなかったの?」
さっと血の気が引き、私はふたりの顔を交互に見つめた。手元には、ふたりのために剝いていた栗がまだ握られている。
「どうして……」
夫の表情は、ひどく落ち着ききっていた。バックミラー越しに目が合うと、その瞳の奥にはほんの少しうんざりしたような色だけが浮かんでいる。
「本当は、こんなにはっきり言いたくなかった。でもおまえ、恵に男を紹介しただろう。今日、あいつがどれだけ泣いたことか。
離婚か、それとも別居か。好きなほうを選べ」
第1話
夫の松本明(まつもと あきら)の幼なじみに恋人候補を紹介した後、夫が突然、私にこう言い放った。
「おまえ、けっこうあさましい奴だな」
私はその場に立ちすくみ、耳を疑った。
聞き取れなかったとでも思ったのか、後部座席にいた息子が、あけすけに口にした。
「母さん、父さんと恵(めぐみ)さん、もう二年も付き合ってるんだよ。父さん、今までずっとサインを送ってたのに、なんで気づかなかったの?」
さっと血の気が引き、私はふたりの顔を交互に見つめた。手元には、ふたりのために剝いていた栗がまだ握られている。
「どうして……」
夫の表情は、ひどく落ち着ききっていた。バックミラー越しに目が合うと、その瞳の奥にはほんの少しうんざりしたような色だけが浮かんでいる。
「本当は、こんなにはっきり言いたくなかった。でもおまえ、恵に男を紹介しただろう。
今日、あいつがどれだけ泣いたことか。
離婚か、それとも別居か。好きなほうを選べ」
……
目のふちが熱くなり、頭のなかがぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
息子の松本裕太(まつもと ゆうた)が、いらだった声で言う。
「母さん、何か言ったら。父さん、ちゃんと選ばせてくれてるじゃん。恵さんより若くもきれいでもないし、頭だって負けてるよ?」
一気に目のふちが熱くなり、喉が引き裂かれそうなほどの悲しみがこみあげてきた。
それなのに裕太は、もっと苛立つ。
「また泣くの。ほんと情けない。そういうところ、一番嫌いなんだよね。恥ずかしいよ。
それに先週の保護者会、中止なんかじゃなかったから。僕が恵さんに頼んで、代わりに来てもらったんだ」
頭の中で何かが弾けたような衝撃が走り、信じられない思いで彼を見た。
裕太が小学校に入学して六年、保護者会が開かれたことなんて一度もなかった。
だからその連絡をもらったとき、嬉しくて眠れなかった。なのに当日、ひどいアレルギーを起こしてしまった。
遅れてはいけないと、あわてて薬を流しこみ、家を飛び出そうとした。
裕太は、こんなに具合が悪いのにまだ行こうとする私を見て、とっさに「保護者会、中止になったよ」と嘘をついたのだ。
いま思えば、そんな都合のいい話があるわけないのに。
私が青ざめていると、夫は開き直ったように口を開いた。
「察しの通りだ。薬を盛ったのは俺だ。
裕太を責めるなよ。どうせ死にゃしない薬だ」
死にゃしない──私は震えながら、ふっと笑った。
あのときは知らなかった。あの薬は症状を一時的にごまかしただけで、夜になって全身が燃えるように熱くなり、激しく嘔吐し、ベッドから一歩も動けなくなった。
意識がとおのくまえに必死で救急車を呼んでいなければ、今頃とっくにあの世行きだった。
なのに、この親子はというと、恵を連れて楽しそうに学校の行事に参加しに行っていたのだ。
翌日、私の姿を目にしたときのひと言がこれだ。
「母さん、体よわすぎ。まだ三十そこそこで、おばあちゃんみたいじゃん」
胸が痛くて、血がにじんでいくようだった。
家に帰ると、夫は裕太を部屋に追いやった。もしかしたら謝ってくれるのかもしれないと思った。
けれど彼は、涙にぬれた私の方を振り返り、複雑な目をした。
「離婚しなくてもいい。ただ、恵が子どもを産んだら、おまえ、きちんと育てろ」
雷に打たれたように、脳天をかち割られたかのような衝撃を受けた。
「……は?」
口から漏れたのは、そんなかすかな声だった。
「恵は妊娠した。もう二ヶ月だ」
その瞬間、私は頭の中で時期を数えた。ちょうど、母が亡くなったころだ。
夫は、血の気の引いた私を一瞥もせず、かるい口調で言った。
「あのとき、おまえ、泣きじゃくって俺に電話してきたよな。おまえが限界で、誰かにそばにいてほしいのはわかってた。でも恵が強く引き留めるから、愛おしくて離れられなかったんだ」
喉の奥から叫び声がもれて、思いきり平手打ちを食らわせた。
「このクズ!」
夫は、そのビンタを受け、ゆっくりと顔をもどす。暗い瞳の底には、うすら寒いほどの冷たさだけが沈んでいた。
「ああ、俺はクズだ。でもな、おまえだって潔白じゃないだろ。俺と結婚していながら、ほかの男と寝たんだ」
窓の外で雷が走り、怒りと絶望で歪んだ私の顔をまぶしく照らす。
もう五年だ。とっくに乗り越えたつもりだった。
なのに、いちばん身近な人に、こんなにもかるがると口にされて、私の胸はいとも簡単に張り裂けてしまった。
夫が起業したてのころ、資金も人脈もなく、仕事は行き詰まってばかりだった。
ある晩、ひどく酔って帰ってきた彼は、代わりに取引先へ書類を届けてくれと私に頼んだ。
ホテルの住所を見て、私は行きたくなかったけれど、夫は怒りを爆発させ、私の肩をつかんで叫んだ。
「俺がこの一年どんな思いでやってきたか、わかってるのか!
ちょっとしたことすら手伝えないなんて、そんなに自分勝手なのかよ!
このままじゃ、裕太にだってまともな暮らしをさせてやれないんだぞ!」
第2話
しかし、それは一生消えない悪夢となった。
どうやってホテルを出たのか、自分でもわからない。ただ破れた服を押さえながら、よろよろと警察に駆け込もうとした。
でも、明が私を抱きしめ、懇願するような声でこう言った。
「彩香、俺は絶対にお前を嫌ったりしない。警察に行くのはやめてくれないか。あの賠償金で俺は窮地を乗り切れるし、裕太の私立の学費だって払えるんだ」
それまで胸が張り裂けるほど泣き叫んでいたのに、その声がぴたりと止んだ。
耐えがたい苦しみと絶望の瞬間、私の頭に浮かんだのは裕太のこと、明のこと。自分のことだけは、すっかり抜け落ちていた。
結局、明の会社は成功し、裕太もあの学校に通えるようになった。
なのに私は、心を病んだ。刃物で自分の身体を切りつけ、部屋中に血が飛び散っても、痛みは少しも感じなかった。
死ぬほど苦しい二年を経て、どうにか自分を立て直した。そうしたら今度は、明が私を「汚い」と拒絶した。
私は飛び出して彼の胸ぐらを掴み、こぼれそうな涙を必死に堪えながら、一言ずつ叩きつけた。
「あれは、レイプだったんだよ。明の会社のためなのよ!私を汚いって言う資格ないわよ!」
明の目が揺れ、唇が何かを言いたげにかすかに動いた。
だがその時、突然、着信音が鳴り響く。恵さんからだ。
明はすぐさま電話を取り、数秒もしないうちに早足で出て行こうとした。
その瞬間、何かが少しずつ、少しずつ砕け散っていく音が、私の中で聞こえた。
「行かないで!それでも人間なの?私はあなたの妻だよ!」
半狂乱で追いすがり、彼にしがみついた。
明は暗い目で私をじっと見下ろすだけで、何も言わなかった。すると、奥から飛び出してきた裕太が、私を勢いよく突き倒し、心の底から嫌悪のこもった声で叫んだ。
「母さん、また狂ってる!父さん、僕も行く!恵さんが待ってるよ!」
そうして、泣きじゃくる私を置き去りに、親子は一度も振り返らずに出て行った。
近所の人たちが私を不憫に思い、次々に慰めに来てくれた。
「旦那さん、急用ができたのよ。男って、そういう時は周りが見えなくなっちゃうんだから」
深夜、私は神経質にスマホの画面を見つめていた。恵さんは、案の定、ストーリーを更新している。
高級ホテルの一室。バスタブに浸かる彼女の写真。そこには、男と指をしっかり絡め合った手が写り込んでいる。見る人が見れば、何をしていたかは一目瞭然だった。
「いつも迷わず、私のそばに駆けつけてくれてありがとう」
喉の奥から血の味が込み上げてくる。震える手で、私は明に電話をかけた。
長いコールの間、もう出ないだろうと思っていた。ところが、ピッと繋がる音の後、明の声が途切れ途切れに流れてきたのだ。
「お前にはわからないよ。あいつと一緒にいると、プレッシャーが重すぎる。まだ未成年の頃から俺のそばにいて、子供を産んで、俺のせいでひどい目に遭って、俺をかばって刃物まで受けて……
だから、顔を見るとどっと疲れる。あの時、俺を捨ててどこかへ行ってくれていたらよかったのにって、本気で思うよ。毎日あの顔を見るくらいなら」
ドサッという音とともに、スマホが床に滑り落ちた。また頭がズキズキと痛み出す。私はゆっくりと、手を頭に触れた。
そこには、七、八センチの傷跡がある。
明をかばってできた傷だ。
あの頃、私たちはまだ二十代前半だった。明は若くして成功したために、同業者に恨まれた。刃物が振り下ろされた瞬間、私は迷わず彼を突き飛ばしていた。
私が倒れるのを見た明は、完全に目を血走らせ、死に物狂いで相手に斬りかかった。
血の海に倒れた私を抱きしめて、明は子どものように泣きじゃくった。
「彩香、お前はどうしてそんな馬鹿なんだ。どうして俺なんかをかばったんだ。
死ぬな。神様、彼女を返してくれ。俺の命と引き換えでいい。俺の命でいいから」
彼の心が通じたのか、それともまだ死ぬ運命じゃなかったのか。あの日、私は本当に命を拾った。
私は胸に手を当てた。
そこにはもう、生きている感覚が微塵も残っていないように感じられた。
第3話
一人きりで朝を迎えた。床から体を起こし、手探りで刃物を握った。
落ち着き払った手つきで手首を返し、動脈にそっと当てる。
その瞬間、玄関ドアが外から派手に蹴破られた。
明が鬼のような形相で踏み込んでくる。私の手にある刃物など目に入らず、ただ失望しきった目で私の腕を掴んだ。
「どうしてだ……どうしてこんなことを!」
一睡もしていない頭が重く、掠れた声で聞き返した。「私が……何をしたっていうの」
裕太が真っ赤な目で飛びかかってきた。
「恵さんの家、火事だったんだ!昨日、僕たちと一緒にいなかったら、死んでたんだよ!」
床にドサリと座り込んだ私に、裕太の悲鳴が突き刺さる。
慌てて顔を上げれば、裕太の手が血にまみれていた。
凶器は、私が握っていた刃物だ。
心臓が跳ね上がり、血相を変えて駆け寄る。
「裕太、見せて!母さん、わざとじゃないの!」
だがそれより先に、明の平手が私の頬を打った。
「彩香、よくも裕太に……このイカレた女が、さっさと失せろ!」
裕太も泣きじゃくりながら叫んだ。
「出ていってよ!母さんなんかいらない!悪い人だ!」
その場に立ち尽くす私を、親子は警戒と嫌悪の目で見つめている。
私は、ふっと笑ってしまった。
「出ていけって……じゃあ、私、どこに行けばいいの」
笑い声がどんどん大きくなる。明が異変を察し、目を据えて私を凝視した。
私が刃物を逆手に、自分の首めがけて突き立てようとした——その寸前、明が刃を素手で掴んだ。
彼の目に、一瞬、明らかな怯えが走る。
「狂った……本気で、狂ったのか」
私は思い切り彼を突き飛ばした。
「離婚したいんでしょう?なら放っといてよ!」
私につきまとわれるのは嫌。でも、私が死ぬのは怖い。
あなたは、いったい何をそんなに怖がってるの。
涙がまた溢れてきた。口を開きかける。まだ少しでも私を愛しているのか、そう問おうとしたその時、恵さんが飛び込んできた。
真っ赤な目で、明と裕太をかばうように私の前に立ちはだかる。まるで私が恐ろしい化け物で、あの三人こそが本当の家族だとでも言うように。
「彩香さん、全部私が悪いんです。ぶっても蹴っても構いません。どうかこれ以上、ご家族には……」
虚ろに見つめる私が何かを言うより先に、明と裕太は一斉に彼女を背後へかばい、警戒した目を私に向けた。
「恵のせいじゃない。彩香、何をやれば気が済む。言え。何でもする。
もし離婚を望まないなら、それでも構わない。ただ、恵が産んだ子は俺が引き取る」
明はもう完全に仮面を脱ぎ捨てていた。私の気持ちなどこれぽっちも気にしない。
——知っているくせに。
私がどれだけ、隠し子を憎んでいるか。
父は、隠し子のために母と私を家から追い出した。街中で殴られ、大勢の前で笑いものにされた。
お金も住む場所もなく、路頭で身を寄せ合い、飢えてもう骨と皮だけになった。
母はレストランでウエイトレスをして、客にセクハラされてもじっと耐えた。すべては、私に雨風をしのげる居場所を作ってやるためだった。
この過去を知った日、明はひどく胸を痛めて、何度も私を抱きしめて誓ったのだ。
「彩香、もう二度とお前に苦労はさせない。絶対に、お前だけだ。誰にも、お前を虐げさせない」
結局、明は裕太と恵さんを連れて出て行った。
あの誓いは嘘になった。誰より私を虐げているのは、あなたなのに。
正気を失った私は、何度も電話をかけた。着信拒否されれば、メッセージを浴びせた。
怒鳴り散らす罵倒から、謝って粘る言葉まで。
この何年も、私は彼に依存しすぎていた。
だから、真実をこれでもかと突きつけられた今の私には、耐えるすべなどなかった。
【明、クソ野郎……死んでも許さない】
【あなたもあの女も、一緒に車に轢かれて死んでしまえ】
【明……ごめん、私が間違ってた。裕太と帰ってきて。私、全部なかったことにするから……】
第4話
気がつけば夜中だった。泣いて、笑って、感情を吐き出し続けていた。
精神に強い刺激を受けたせいか、あるいは胃腸が弱っていたのか、突然、嘔吐が止まらなくなった。
そして、自分の体を抱きしめるようにして泣いた。
三日間、ほぼ何も食べず、ただただ昏々と過ごした。
それでも、力を振り絞って身支度を整え、自分を少しだけ繕い、まだ夫と話がしたかった。
冷静に、たとえ望みがほとんどなくても。
けれど、車に乗り込もうとしたその瞬間、明が突然、飛び出してきて私を引きずり出した。
「キャッ!何するの!」
あまりに乱暴な手つきに、地面に倒れた私は痛みに声をあげた。
明の目は血走り、怒りで今にも爆発しそうな形相だった。
「恵が消えた。おまえがやったんだろう」
私は呆然とした。あまりにも馬鹿げた話だ。
でも、否定する間もなく、明の視線が車の後部座席に釘付けになる。
瞳孔が縮まり、素早く中から服を一枚掴み出した。
その布を私の頭に叩きつけ、怒鳴りつける。
「どうしておまえの車に恵の服がある!しかも、なんで血がついてるんだ!」
血のついた服を握らされ、私は顔をこわばらせた。
「わからない、ここ数日、私はずっと家にいて、一度も——」
「もういい!」
明の目は嫌悪で満ちていた。
「彩香、もっと早く離婚しなかったことを後悔している。俺がお前に情けをかけたせいで、恵を危険な目に遭わせてしまった」
言い終え、彼は私の襟を乱暴に掴み、両手を縄で縛りつけた。
恐怖で必死に抵抗する私をよそに、明は縄の端を手にしたまま車に乗り込んだ。嫌な予感が全身を駆け抜ける。
「な、なにをする気!離して!警察に行けばいいでしょう!」
「もう行った!でも恵はいまだに行方不明だ!」
彼の目に陰惨な光がよぎり、低く恐ろしい声で言い放つ。
「まだしらを切るつもりか。なら、いつまでその減らず口が叩けるか、見せてみろ!」
そして、ゆっくりとアクセルが踏み込まれた。
車が動き出す。私は引きずられるように走り出し、次第に脚が追いつかなくなり、駆けるしかなくなった。
三日間、何も食べていない体では、二分ももつはずがなく、あっけなく力尽きた。
無様に地面に倒れ込んだ。
「ああっ!止まって、やめて!」
粗いアスファルトが皮膚を削り、私は声にならない悲鳴をあげた。その時、太ももの間に生温い液体が広がるのを感じた。
それでも、明の車は止まらなかった。
やがて私は、声も出せず、ぐったりと動かなくなった。
ふと、明の背筋に冷たいものが走る。
バックミラーに映った私は、まるで息絶えた人形のように地面に伏していた。
彼の心臓がドクリと重く落ちる。だが、すぐに鼻で笑った。
「死んだふりか?こんなにゆっくり走って、追いつけないわけがない。どうせ同情を引こうと——」
言葉は、最後まで続かなかった。車を降りた明は、その場に凍りついた。
私の体の下から広がる赤黒い血だまりが彼の目を刺し、その両目を恐怖で赤く染め上げたからだ。