夫が心を入れ替えたと思ったのに、結局嘘だった

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夫が心を入れ替えたと思ったのに、結局嘘だった

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3年前、神谷汐里(かみや しおり)はついに神谷陸(かみや りく)への想いを断つ決意をしたのだが、空港に向かう途中で事故に遭ってしまった。 ...

Chương (1)

第1章

3年前、神谷汐里(かみや しおり)はついに神谷陸(かみや りく)への想いを断つ決意をしたのだが、空港に向かう途中で事故に遭ってしまった。 汐里が目を覚ますと、ベッドの横で陸が膝をついていた。彼は涙ながらに、汐里に誓った。 「汐里、俺の腎臓を使って生きろ。これからは、もう二度と馬鹿なことはしないから」 後になって誰もが口を揃えて言った。愛する人を失いかけた恐怖が、あのいつも享楽的で不真面目だった神谷家の御曹司を、完全に変えたのだと。 汐里もそう信じていた。 汐里は10年も陸を想い続けてきたし、陸も汐里を救うために、自分の臓器まで差し出してくれたのだから。 それからの3年間、それまでは毎晩派手に遊び歩いていた陸だったが、まるで別人のようになったのだ。 煙草も酒もやめ、仲間たちとの縁も切り、毎日決まった時間に帰宅するようになった。 さらには、傾きかけていた神谷グループの事業も立て直し、今や業界の誰もが一目置く社長になっている。 汐里に対しても、非の打ち所がないほど完璧に向き合ってくれた。 寒がりな汐里のために、家中の至るところにカーペットを敷き詰め、汐里が夜眠れないと言えば、ベランダで一緒に夜空を眺めてくれた。 汐里の友人たちは言った。「汐里、あの大事故も無駄じゃなかったんじゃない?だって、あんな遊び人だった人を、ここまで一途な人間に変えたんだから」 汐里もそう思っていた。彼が本当に心を入れ替えてくれて、そしてこの先もずっと、二人で一緒に生きていけると。 だが、あの雨の夜、その幻想は打ち砕かれたのだった。 第1話 3年前、神谷汐里(かみや しおり)はついに神谷陸(かみや りく)への想いを断つ決意をしたのだが、空港に向かう途中で事故に遭ってしまった。 汐里が目を覚ますと、ベッドの横で陸が膝をついていた。彼は涙ながらに、汐里に誓った。 「汐里、俺の腎臓を使って生きろ。これからは、もう二度と馬鹿なことはしないから」 後になって誰もが口を揃えて言った。愛する人を失いかけた恐怖が、あのいつも享楽的で不真面目だった神谷家の御曹司を、完全に変えたのだと。 汐里もそう信じていた。 汐里は10年も陸を想い続けてきたし、陸も汐里を救うために、自分の臓器まで差し出してくれたのだから。 それからの3年間、それまでは毎晩派手に遊び歩いていた陸だったが、まるで別人のようになったのだ。 煙草も酒もやめ、仲間たちとの縁も切り、毎日決まった時間に帰宅するようになった。 さらには、傾きかけていた神谷グループの事業も立て直し、今や業界の誰もが一目置く社長になっている。 汐里に対しても、非の打ち所がないほど完璧に向き合ってくれた。 寒がりな汐里のために、家中の至るところにカーペットを敷き詰め、汐里が夜眠れないと言えば、ベランダで一緒に夜空を眺めてくれた。 汐里の友人たちは言った。「汐里、あの大事故も無駄じゃなかったんじゃない?だって、あんな遊び人だった人を、ここまで一途な人間に変えたんだから」 汐里もそう思っていた。彼が本当に心を入れ替えてくれて、そしてこの先もずっと、二人で一緒に生きていけると。 だが、あの雨の夜、その幻想は打ち砕かれたのだった。 汐里が仕事の接待でクライアントと共にバーを訪れたとき、ふと視線が廊下の突き当たりに向く―― すると、そこには女の腰に手を回しながら、VIPルームへと入っていく陸の姿があった。 振り返った女の顔を見た瞬間、汐里はその場に凍りついた。 なぜなら、見知った顔だったから。 島袋玲(しまぶくろ れい)。3年前、南表島での土砂崩れから自分たちを救い出してくれた、あの伝統集落の娘だった。 当時、玲が陸からの謝礼を断っていた姿を、汐里は今でも覚えている。 「人を救うのは当たり前だから」と言い捨て、玲は颯爽と原始林の中に消えていったのだ。 「申し訳ありません、木下社長。少し急ぎの用事ができてしまいましたので、私はこれで失礼させていただきます」 汐里はクライアントにそう告げ、返事も聞かずに彼らを追った。 VIPルームの厚いドアがわずかに開いていたので、近寄ってみると、中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「やあ、陸。ここでお前に会うなんて久しぶりだな」 陸の昔馴染みである新田嵐(にった あらし)が茶化すように笑う。 「最近また飲みの席に顔を出すようになったと思ったら……なるほどな。美人さんを見つけてたのかよ。 前までは、汐里さんにべったりで、離れたら死ぬみたいな勢いだったくせに。挙げ句の果てには『遊び人の改心』だの『妻のために腎臓を提供』だの、大芝居まで打ってさ。 で、今はその茶番も終わって、本来の自分に戻ったってわけか?」 汐里はドアの隙間越しに、陸がゆっくりと煙草を吸い込み、ふっと笑うのを見た。 それは、もう長い間見ていなかった、昔の彼らしい……少し不敵で、危険な香りがする笑みだった。 陸が静かに口を開く。「汐里が死ぬかもしれないってなった時、俺は本当に怖かったんだ。 もし本当にあいつが死んだら、一生自分が追い詰めたという罪悪感を背負って生きることになるって思ってさ」 陸は煙草の灰を落とすと、どこか遠くを見つめているような目で続けた。「あの時は、本気で自分を変えようと思ったよ。 それまでの生活で、汐里の命まで奪ってしまいそうになったんだから。だから、汐里を大事にしよう、これからは償っていこうって」 嵐が眉を吊り上げる。「それで?」 陸はふっと鼻で笑い、煙草を灰皿で押し潰した。 「でも、そんなの無理だって分かったんだ。気が滅入るぐらいにな。 朝起きたら書類を確認して、夜は接待。家に帰れば『愛妻家』をして、汐里の機嫌を取る生活。 極め付きは、汐里の顔を見るたび、頭の中で誰かが『陸、お前のせいでこいつは死にかけたんだ。一生かけてその罪を償え』って囁くのが聞こえるんだよ」 廊下に立つ汐里は、爪が深く食い込むほど、手のひらを握りしめていた。 この3年間、彼が与えてくれた優しさ、気遣い――そして、自分のために変わってくれたと思っていたことも、ただの長い『罪滅ぼし』に過ぎなかったなんて。 だが、自分はそんなことには微塵も気づかず、真実の愛だと信じ込んでいた。 「でも、玲と会ってから、俺は変われた」と陸が話を続ける。その声は、汐里が聞いたこともないほど晴れやかだった。 「玲はそれまでの俺を思い出させてくれたんだ。自由に生きて、やりたいことをして……無理をしたり、求められる人物像を演じなくてもいいんだって思えた。 だから、玲の前にいるときだけ、俺は『神谷社長』でも、『汐里の夫』でもなく、『神谷陸』っていうただの人間でいられる」 嵐が冷やかし半分に、にやっと笑う。「じゃあ、なんだ……前のお前に戻ったってことでいいのか?」 「戻ったなんてもんじゃないさ」そう言いながら、陸は玲の額にそっと口付けをした。「玲は俺に新しい人生をくれたんだよ」 嵐が面白がるように聞いた。「じゃあ、汐里さんはどうするんだよ?まだ愛妻家を続けるのか?」 陸が答える前に、玲がふっと顔を上げ、彼女の澄んだ声がBGMに重なる。 「続けるわけないでしょ、そんな面倒なこと」 玲は陸の首に腕を回し、きらきらとした都会育ちにはない、無邪気さと奔放さが入り混じった瞳で見つめた。 「陸くん、うちと一緒に南表島へ帰ろうよ。あそこなら、すっごい自由だよ?それに、汐里さんのせいでこんなになっちゃったんでしょ?もう、気にしなきゃいいじゃん!」 玲は何かを思い出したように、もっともらしく続けた。 「それにさ、汐里さんが事故に遭った時も、陸くんは汐里さんに腎臓を用意してあげたじゃん。だから、もう恩返しなんて十分じゃない? まあ、その腎臓もお金を積んで他の人から手に入れたものらしいけど……でも助けたのは本当なんだからさ」 「玲」陸が顔色をさっと変え、慌てて玲の口を塞ぐ。「そのことはあんまり言うなよ」 第2話 汐里はその場に凍りついた。 腎臓を移植したあたりを、反射的に押さえる。 この3年間、汐里はその「陸のもの」だと信じていた臓器を、大事に守ってきた。 それを二人の愛の証だとも思っていたし、彼が命まで懸けて自分を愛してくれた証拠だと信じていた。 だから、父親の前で涙を流しながら懇願したこともある。 「お父さん、陸にもう一度だけチャンスをあげて。陸は本当に反省してるの。だって、私に彼の臓器までくれたんだよ?」 それに、たとえ一族から「恩知らずな男に騙されている」と嘲笑されても、実家の持つすべての人脈と資金を注ぎ込み、陸を今の地位まで押し上げた。 だが結局……汐里が愛だと思っていたものも、改心したと信じていた姿も、全て最初から仕組まれた嘘だったのだ! 底知れぬ寒気が足元からせり上がり、汐里の全身を侵食していく。 汐里はゆっくりと腹部から手を離した。 個室の中からは、陸が玲を優しくなだめる声がまだ聞こえてくる。 それ以上聞いていることはできなかったので、汐里はその場を離れた。 バーを出ると、すぐさま秘書に電話をかける。 「美波。今すぐに、神谷グループへの投資をすべて引き揚げて。あと……」汐里は一旦言葉を区切った。「離婚協議書を用意してくれる? 用意できたら、明日の朝9時までに私のオフィスへ持ってきてちょうだい」 電話を切ると、汐里はそのまま車を走らせ家路についた。 玄関を開けると、人感センサーライトが静かに灯る。 ハイヒールを脱ぐと、真っ白な毛の塊が足元に擦り寄ってきた。 「にゃー」子猫のミルキーが大きな瞳で汐里を見つめる。 かがみ込んで抱き上げると、ミルキーは満足げに喉をゴロゴロと鳴らした。 「汐里、これからはミルキーを自分たちの子供だと思って大切にしような」 そんな記憶が、閉ざしたはずの心に遠慮なく飛び込んでくる。 交通事故から3ヶ月後、医師からもう子供が望めない体だと宣告された。 汐里はまるで枯れた植物であるかのように、何も喋らなくなってしまった。 陸がミルキーを連れて帰ったのはそんな時だった。バスケットの中で小さく震えて鳴いていたミルキー。 「俺がパパで、お前がママだ」彼は車椅子の前にしゃがみ込み、必死に汐里を笑わせようとしてくれた。 そんな陸に、自分は掠れた声でこう言ったのだ。「陸って猫アレルギーでしょ?」 しかし、陸は無邪気に笑っていた。「そんなもん、薬を飲めばいいんだよ。それに、お前が喜んでくれるのが一番だからさ」 そして本当に、陸は抗アレルギー薬を飲み始めたのだった。 夜中にリビングから咳き込む音が聞こえることもあった。 心配で見に行くと、彼はいつも笑って「大丈夫だから、寝てて」と言ってくれた。 腕の中で動いたミルキーが、汐里を記憶の世界から現実に引き戻す。 ミルキーを下ろした後の手に残るぬくもりに、少し頭がぼんやりした。 あの寄り添ってくれた日々や、不器用な慰めの中に、いったいどれほどの真実があったのだろう。 汐里は目を閉じ、深く息を吐き出した。 再び開かれた瞳には、微かな揺らぎすらない。 コートを脱ぎ、階段を上ろうとしたその時…… 「汐里?」 入り口から陸の声がし、足音が近づいてくる。 振り返ると、雨に濡れ、髪が少し乱れた陸が立っていた。 陸はそのまま汐里に近づいてきて、抱き上げると、甘い口づけを落とした。 「遅くなってごめん。残業でさ」彼が甘えるような声で囁く。「木下社長の相手、お疲れ様」 その帰宅が遅れた理由を聞いて、汐里は思わず笑いそうになった。 2時間前、この男が玲の腰に手を回しているのを、自分は確かにこの目で見たのに。 それは、彼にとっての残業らしい。 胃が締め付けられるように痛んだが、そんなことを表情には微塵も表さない。 「うん、大丈夫。お仕事お疲れ様」 陸は汐里を下ろすと、床にいた子猫を持ち上げてキスをした。「いい子にしてたか?」 それから、陸はポケットからシルクの箱を取り出して、汐里に手渡す。 「はい、これ。遅くなっちゃったから、そのお詫び」 第3話 汐里が箱を開けると、中には一対の指輪が入っていた。 その素材は独特で、木のようでもあり石のようでもあった。女性用の指輪には、銀細工で作られた花と蔦の模様が繊細に絡み合っている。 「結婚5周年記念日だよ」陸が汐里の手を取り、薬指に指輪を通す。 「俺が作ったんだ。素材からこだわって、半年以上もかかったんだから」 そう言って陸は彼自身の左手を差し出し、二つの指輪を並べて見せた。 「これ、ある島特有の木の化石で、知り合いにお願いして、やっと手に入れたんだ」 陸は満足げに指輪を撫でながら、目を輝かせる。「銀細工のデザインから模様付けまで、全部俺がやったんだよ」 それから彼は作り方について話し続けた。材料探しのことや、職人に弟子入りした時のこと…… 汐里はその様子をただ見つめていた。 照明に照らされる陸の表情は生き生きとしていて、目尻の笑い皺までがくっきりと見える。 いつもは人を惑わせるような色気を帯びた目が、今は隠しようもない喜びでいっぱいになっていた。 これさえも……全部、演技なのだろうか。 「汐里?」陸が彼女の目の前で手を振る。「そんな不満そうな顔をして。もしかして、気に入らなかった?」 汐里ははっとして、笑みを浮かべた。「ううん、そんなことないよ。とっても素敵。ありがとう、陸」 ほっと胸をなでおろした陸が、笑顔で言った。「気に入ってくれたならよかった!南表島の集落で1か月も修行した甲斐があったよ。現地の師匠に弟子入りをしてから、山の中で2週間も粘って、やっと納得のいく化石を見つけたんだ……」 汐里の表情が一瞬、凍りつく。 南表島、伝統集落、玲…… つまりこの愛情の証である指輪も、玲の元へ行くための言い訳に過ぎなかったというのか? ふと顔を上げた汐里の視線が、陸の首元に止まった。 そこには、隠しきれていないキスマーク。 胃が急にひっくり返るような不快感が込み上げ、酸っぱい液体が喉までせり上がった。 手の中の指輪も、これがただの舞台小道具に過ぎないことを汐里に突きつけてくる。 もう震えが抑えきれなくなった汐里は、勢いよく立ち上がると、掠れた声で言った。 「私のためにありがとう。すごく気に入った。 でも、今日はすごく疲れちゃったから、先に休むね」 去っていく汐里の背中を見つめながら、陸はその場で少し眉をひそめる。 汐里の様子に違和感を覚えたものの、接待で疲れているのだろうと思い、陸はあまり深く考えないことにした。 翌朝、汐里が目を覚ました時には、ベッドの隣にもう人はいなかった。 身体を起こし、指輪を外してケースの中にしまう。 もう愛情がないというのに、こんなものをはめていて何の意味があるのだ。 階段を降りると、既に朝食が用意されていた。 それどころか、先週何気なく食べたいと言っただけなのに、その店の料理まで置いてある。 その店は東区にあって、朝6時から並ばないと買えないような店なのに。 テーブルの上にはメモまで置いてあり、陸の字でこう書かれていた。 【おはよう。ちゃんと朝ごはん食べるんだぞ】 そして、空いているスペースには、下手くそなスマイルマークまで書かれている。 汐里はその場所に立って、かつては心温まる光景だと思っていた食卓を見つめた。 結婚した当初、陸は目玉焼きさえも焦がしてしまうような人だった。 だから、自分は手取り足取り教え、彼も一生懸命できるようになろうとしていた。さらには、目を輝かせて、「これからは、一生汐里に朝ごはんを作ってあげるからな」と言ってくれ、それを冗談では終わらせず、本当にそうしてくれたのだ。 毎日どんなに早く家を出る時でも、必ず朝食を用意し、メモを残してくれた。 おそらくあの時は、陸も本気で変わろうとしたのかもしれない。 だが、彼の愛はあまりにも脆かった。人が生まれ変わるほどの痛みに、耐え切れるほどの強さはなかったようだから。 汐里は朝食には手を付けず、鞄を手に家を出た。 神谷グループ本社ビル、28階の社長室。 ガラスドアを押し開けた汐里だったが、その場で一瞬足を止めた。 部屋の中、陸のすぐそばに一人の女性が立っていた。 玲だ。 同じ書類を、今にも肩が触れそうなほどの距離で見ている二人。 玲が指先で書類を指し、何かを言ったのか、陸が笑い声を漏らす。 その笑い声はとても自然で、玲に対する愛おしささえ滲んでいた。 第4話 ドアの開く音に気づいた陸が、顔を上げた。 自分のオフィスにやってきたのが汐里だとわかると、陸はすっと横に移動し、玲との距離を少し置いた。 「汐里?どうした?」そう言いながら、自然な口調で汐里に歩み寄る。 汐里は視線を玲に移した。 昨晩のバーの薄暗い明かりの下とは違って、今の玲には、まだあどけなさが感じられた。 「玲だよ」陸は汐里の視線を追うと、笑みを浮かべながら玲を紹介する。「覚えてる? 3年前、南表島で俺たちを助けてくれた子。最近こっちに出てきたんだけど、いい仕事が見つからないっていうから、とりあえず俺の会社で秘書でもやってもらおうと思って」 すると、玲が汐里に屈託のない笑顔を見せた。 「汐里さん、陸くんのことは、安心して私に任せてくださいね。ちゃんとサポートしますので」 汐里は無表情のまま頷くと、手に持っていたファイルを陸に差し出した。「この契約書にサインしてほしいの」 ファイルには、既に準備していた離婚協議書が入っている。 だが、陸はファイルを受け取ると、中身を確認することもなく、そのままサインをした。 「お前が確認してくれているんだろ?だったら、問題ないよ」そう言いながら、陸はファイルを閉じて汐里に返し、笑って付け加える。 「そうそう、汐里。今夜の食事会に、玲も連れて行こうと思ってるんだけど、彼女はそういう場に慣れていないから、少し気にかけてやってほしいんだ」 汐里はファイルを受け取り、淡々と答えた。「今夜は別の予定があるから、他の人を探してくれる?」 「他の人じゃ心配なんだよ」陸はすっと汐里に近寄り、声を少し和らげる。 「玲は命の恩人でもあるんだ。だから、ちょっと社会勉強させてやるって思ってさ、な?」 汐里の目を見つめている陸は、さも当然のことのようにそう言った。 汐里は数秒沈黙してから、小さく頷いた。「分かった」 その夜の食事会は、人目につきにくい、会員制の高級レストランで開かれた。 順調に始まり、酒も回ると、その場の雰囲気も盛り上がってくる。 ぐるっとその場を見渡した、プロジェクトの出資者である佐藤社長の視線が、玲に留まった。 「見慣れない顔だけど、こちらは?」 陸が笑みを浮かべて紹介した。「新しく入った秘書の島袋です。実は、私と汐里を助けてくれた命の恩人でもあるんです。 3年前、南表島の伝統集落では、彼女に救われました」 伝統集落と聞いた佐藤社長は、興味深そうに身を乗り出した。「その集落の女性は、みんな踊りや歌が上手いって聞くぞ。 島袋くん。せっかく場も盛り上がってることだし、ひとつ披露してもらえないかな?」 テーブルの横に座っていた他の幹部も調子を合わせる。「ああ、ぜひ見せてほしいな」 「僕らを楽しませておくれ!」 すると、玲が箸を置いた。その顔からは、一切の愛想笑いが消えている。 「佐藤社長。私は仕事をしに来ているのであって、芸を見せにきたわけではありません」 「まあ、そう硬いこと言わないでおくれよ」佐藤社長は上機嫌で立ち上がり、グラスを片手に玲へ近づいた。 「ここは一つ、俺の顔を立ててくれないか?少しだけだっていいんだ」 佐藤社長がそう言い終わるや否や…… バシャッ。 なみなみと注がれた赤ワインが、佐藤社長の顔面に勢いよく浴びせられた。 玲は空のグラスを握りしめて立ち上がり、毅然と顎を上げると、真っすぐな視線を佐藤社長に向ける。 「やらない、と言ったはずですが?」 佐藤社長の顔をワインが伝って滴り落ちている。その場にいた全員が、呆気にとられ凍りついていた。 「玲!」陸が猛烈な勢いで立ち上がり、彼女の手首を掴んだ。「何をやっているんだ!」 それからすぐに、怒りで肩を震わせている佐藤社長へと振り返る。「佐藤社長、大変申し訳ございませんでした!何せ、田舎から出てきたばかりで、まだ何も分かっていないんです」 陸は玲を強引に引き寄せ、声を低くして命じた。「玲、佐藤社長に謝れ」 だが、玲はじっと陸を見つめたかと思うと、そのまま背を向けて、部屋を出て行った。 「玲!」陸が玲を追いかけていく。 汐里はすぐに立ち上がり、佐藤社長の前に出た。「佐藤社長、先ほどの無礼、大変申し訳ございませんでした。神谷グループは……」 しかし、佐藤社長は手を挙げてそれを遮り、怒りで顔を真っ赤にしながら吐き捨てた。「もう何も言わなくていい。もう出資はしないから」 第5話 佐藤社長は上着を掴むと、部下を連れて席を立った。 会場に残された面々は、困惑した表情で互いに見つめ合う。 汐里は周囲に頭を下げた。「皆さま、申し訳ありません。すぐに、神谷グループのほうで対処いたします」 会社に戻ると、すでに夜11時近かった。 汐里がデスクに着こうとした矢先、扉が開けられた。 玲を連れた陸が入ってくる。玲は目を赤く腫らし、唇を噛みしめながら陸の後ろに立っていた。 「汐里」陸の声は掠れていた。「玲はわざとじゃなくて、まだああいう席のことが分かっていなかっただけなんだ」 汐里は陸に視線を向ける。「謝るべき相手は、佐藤社長なんじゃないの?」 すると、玲が弾かれたように顔を上げ、震える声で言った。「自分にあんなことをやらせようとした人なんかに、絶対に謝りません!」 陸の顔が曇った。「玲、いい加減にしろ」 玲がぽろぽろと涙を流し、肩を震わせて泣きじゃくる。「陸くんがあんな場所に連れて行ったくせに、今さらうちが頭を下げろって言うの?」 陸が何か言う前に、汐里の秘書である小林美波(こばやし みなみ)が慌ただしく部屋に駆け込んできた。 「社長!佐藤社長が出資をやめるとおっしゃっています。これだと、資金繰りがまずいです」 陸はすぐに腰を上げ、汐里に視線を送る。「会議室に。会議だ」 まだ泣き続けている玲をちらりと見た陸だったが、それ以上彼女を構うことはしなかった。 会議は3時間にも及んだ。 汐里は冷静に対策を練っていたが、陸のほうはどこか上の空だった。 3度目の着信を受けた時、陸は声を抑えて電話に出た。「もしもし?」 電話の向こうからは、鼻を啜る玲の声が漏れてくる。 すると、陸は顔色をさっと変え、急いで立ち上がった。「汐里。急用ができたから、俺は先に行くよ」 汐里の返事すら待たずに、陸は上着を掴むと足早に去っていった。 会議室に数秒の沈黙が流れる。 プロジェクトリーダーが控えめに尋ねた。「汐里さん、代替案は……」 汐里は視線を戻し、ペンを手に取った。「続けるわ。データは明日の朝10時までに出して」 声はいたって冷静だったが、そのペンを握りしめる指の関節は、白くこわばっていた。 深夜2時、やっと一段落がついた。 すると、携帯が光る。陸からのメッセージだった。 【急な出張で出かけることになったから、しばらくは戻れない。体調に気をつけて】 汐里は画面を消し、返信はしなかった。 翌日、汐里は自宅に戻ると、自分の荷物をまとめた。 それからミルキーを抱き上げ、5年間暮らした家を出る。 新しい家は2年前に購入していて、窓からは川が見えた。 猫に餌をやった後、ソファに座り街の明かりをぼんやりと眺めていた。 携帯は静かなまま。 今までなら出張中で、どれだけ忙しくても、朝晩には必ず安否の連絡をくれたのに。 「着いた」とか「もう寝る」というものや、夜景の写真の時もあった。 だが今回は、3日経っても何一つ連絡がない。 その夜、汐里はあるインスタの投稿を見つけた。 海辺で撮られた写真。その中の陸はアロハシャツに身を包み、彼の隣では玲がココナッツジュースを飲んでいる。 別の写真では、二人が肩を寄せ合い、額をくっつけるようにして写っていた。 キャプション欄にはこう書かれていた。【やっぱり南表島の海に来ると、生き返る】 汐里はプロポーズされた日の夜を、ふと思い出した。あの時の彼もそこにいて、海を指差しながら自分にこう言ったっけ…… 「汐里、これからは毎年二人でここに来ような」 だが、その約束が果たされることは一度もなかった。 愛の誓いなど、砂浜に書いた文字のように潮が満ちれば一瞬で消えてしまうもの。 汐里は画面を消し、携帯を机に伏せて置いた。 別に胸は痛まない。ただ、麻痺したように痺れるだけ。 汐里は足元の猫を抱き上げ、その温かな毛の中に顔を埋めた。 「もう私たちだけになっちゃった。これからは、ママが幸せにしてあげるからね」 1週間後、陸が戻ってきた。 汐里のオフィスにやってきた陸は、少し疲れた様子で紙袋を手に提げている。 「汐里、通りかかった店でこのスカーフを見かけて。お前に似合いそうだから買ってきたんだ」 汐里はそれを受け取り、中も見ずに横に置いた。「ありがとう」 「ここ最近、大変だっただろ?」陸が近づいてきて、汐里の頬に触れようとした。 だが、汐里はさりげなく身をかわす。陸は行き場を失った手を、何事もなかったかのように下ろした。 「今度、山にでも行ってゆっくりしないか?最近、無理しすぎみたいだからさ」 第6話 汐里はデスクに山積みされた書類に目を向けた。 このところ、確かに疲れが溜まっていたから、少し息抜きするのも悪くない。 「うん」彼女は小さく頷いた。 汐里が助手席に乗り込むと、後部座席に誰かが乗っていることに気づいた。 それはシンプルな麻のロングワンピースを着た玲で、汐里と目が合うと「汐里さん、こんにちは」と微笑んだ。 陸はバックミラー越しにちらりと見る。「玲は山に慣れてるから、一緒に来てもらったほうが安全だと思って」 汐里はシートベルトを締め、窓の外を次々と流れる景色を眺めた。 「うん」それきり、汐里は何も話さなかった。 もうどうでもいい。ただ、少し息をつける場所が欲しかった。 霧雨の中にぼんやりと浮かぶ宿泊施設。 チェックインを済ませると、玲がすでに長靴に履き替えていた。「雨も上がったし、今なら森にきのこがたくさん出ているはず。 汐里さん、一緒に行きませんか?」 そう言うや否や、玲は強引に汐里の手首をつかんで森へと駆け出した。 陸が背後から声をかける。「気をつけろよ!早く戻ってくるんだぞ!」 玲は振り返りもせず、手を振った。 森の中は湿っており、泥の匂いや草木の香りが混ざっている。 足取りの軽い玲に対し、汐里はその背を追うようにゆっくりと歩いた。 険しい坂に差し掛かった時、玲が急に立ち止まり、その顔からはさっと笑みが消えた。 「汐里さん、いい加減にしてくれません?いつまで陸くんを縛りつける気なんですか?」 汐里は淡々と彼女を見つめ返す。「それは私と彼の問題だから」 玲がふっと笑った。その笑顔には、険しい場所で育った者特有の、剥き出しの鋭さが滲んでいた。 「彼を3年間もそばにいさせたんだから、もう十分ですよね?それに、陸くんがあなたに向ける目には、罪悪感しかないんですから。なのに、まだ気づかないふりをしてるんですか?」 「あなたには関係のないこと」と汐里は静かに返した。 だが、玲は構わず一歩踏み出し、「もう諦めてください」と言い放つ。 「陸くんも、そして自分自身ももう自由にしたらどうですか?」 これ以上関わりたくなかった汐里は、背を向けて立ち去ろうとした。 しかしその瞬間、玲に突如手首を掴まれ、後ろへと倒れ込んでしまった。 「な、何……」まだ状況が理解できていない汐里を、さらに強い力が引っ張る。 視界がぐるりと反転した。 二人はそのまま坂を転げ落ち、洞穴の中へと入っていった。 汐里は上体を起こし、玲を睨みつける。「頭おかしいんじゃないの?」 ゆっくりと座り込んだ玲は、にやりと笑った。「正気ですよ。ただ、陸くんにとって大切な人が誰なのか、分からせてあげようと思いましてね」 すると、玲はぱっと顔を上げ、悲鳴にも似た声で叫んだ。「陸くん!助けて!」 玲の声が洞穴の中でこだまする。 5分もしないうちに、洞穴の上から焦るような足音が聞こえてきた。「玲!玲、この下にいるのか!?」 「陸くん!」玲はすぐに泣き出しそうな声で訴えた。「ここにいる!助けて!怖いの……」 懐中電灯の光が、玲の顔を照らす。 陸は洞穴の縁に伏せ、「玲、大丈夫だ。すぐに助けてやるからな」と、必死の形相で叫んだ。 その瞬間、懐中電灯の光がずれ、汐里が照らされた。「汐里?大丈夫か!?」 「足を挫いちゃったみたい」汐里は淡々と答えた。 「少し待っててくれ。引き上げるものを探してくるから!」陸が駆け出す。 陸はすぐに戻ってきたが、垂らした蔦は短く、穴の底までは届かなかった。 「一人ずつしか引き上げられない!」陸の声が響いた。 洞穴の中が静まり返り、懐中電灯の光が交互に二人を照らす。 揺れる光の隙間から、汐里は彼の固く結ばれた唇と、こめかみに滲む細かな汗を目にした。 数秒の沈黙ののち、陸が言いにくそうに口を開いた。「汐里、先に玲をあげてもいいか?すごく怖がってるだろ?すぐにお前のことも引き上げてやるから」 汐里は顔を上げた。懐中電灯の光が眩しく、目を細める。 だが、陸の顔に浮かぶ焦りだけは、はっきりと見て取れた。 山奥で育ち、木登りでさえ難なくこなす玲が、本気でこの洞穴を怖がっていると、信じ切っているらしい。 なんて馬鹿げた話だ。 汐里は皮肉に唇を歪める。「好きにすれば」 陸はほっとして胸を撫で下ろすと、蔦をさらに下へと下ろした。「玲、掴まれ!」 玲が蔦に掴まり、陸が力を込めて引き上げる。 引きずり上げられた玲は、すぐさま陸に抱きついた。「陸くん、怖かったよ……」 「もう大丈夫だからな」と玲の背を撫でつつも、陸の目はまだ洞穴の底に向いていた。 「汐里、もう少し頑張れ、もうお前を……」 陸の言葉が終わる前に、彼の腕の中にいた玲の意識がふっと失われた。 第7話 「玲?玲!」陸は狼狽した様子で膝をつき、玲の頬を叩いた。 「おい、どうしたんだよ?しっかりしろ、玲!」 だが、玲からは何の反応もない。 陸は洞穴の底にさっと視線を移すと、早口で言った。「汐里、少しここで待っててくれ!玲を病院へ運んだら、すぐに戻ってくるから」 洞穴内に再び静寂が訪れる。 陸の足音は次第に遠ざかっていき、ついには完全に聞こえなくなった。 汐里は腫れた自分の足首を見つめ、ふっと笑い声を漏らした。 その笑い声が静かな洞穴に響く。低く、何とも形容しがたい悲しみを帯びた響き。 結局、極限状態になればその人の本性が明らかになるらしい。 彼は躊躇うこともなく、玲を救うことを選んだ。 汐里が怪我をしていたにもかかわらず…… 空はますます暗さを増していく。汐里は胸を締めつける悲しみを押し込み、蔓を掴んで上へとよじ登った。 家へ戻った頃には、すでに深夜3時を回っていた。 ドアを開けると、不機嫌そうな顔をした陸が、ソファに座っていた。 「どうして玲を押したりなんかしたんだよ?」陸が静かに口を開く。 汐里は立ち止まり、彼をじっと見つめた。 「玲は妊娠していたんだぞ」陸も汐里を見つめながら言った。「お前のせいで、玲の子供は駄目になった」 足首の痛みが、神経を這うようにじわじわと上へ広がってくる。 だが、胸の痛みはそれ以上だった。思わず笑ってしまいそうなくらいに。 かつて汐里が医者から「もう子供は望めない」と宣言された時、陸は目を赤くしながら汐里を抱きしめ、こう言っていた。 「大丈夫だよ、汐里。俺にはお前がいれば十分だから。子供なんて、一生できなくたっていい」 その「一生」とは、こんなにも短かったようだ。 たった一度の選択で使い果たされてしまうほどに。 陸が汐里の肩を掴み、問い詰める。「お前が玲を押したのか?」 充血した彼の瞳を見つめ、汐里は静かに言った。「やってない」 「やってない?」陸が冷たく鼻で笑った。「汐里……この数年間、俺がどれだけお前に尽くしてきたと思ってるんだ? お前が変われと言えば、変わった。関係を断てと言われれば断った。俺は毎日あほみたいに、いい夫を演じてお前の機嫌を取ってきたんだぞ!」 陸が声を荒げる。「なのに、どうだ?玲のことすら認めてくれない! あいつは俺たちの命を救ってくれたんだぞ?それなのに嫉妬でこんな惨い真似をするなんて」 「私は彼女を押してなんかない」汐里はもう一度言った。 「じゃあなんで、子供が駄目になった?玲が自分の子供を自ら危険に晒したっていうのか?」 汐里は目の前の男を見つめる。 自分ではなくあの女を守る言葉と、隠すこともない自分への嫌悪を感じ、ふいにひどい疲れを感じた。 「陸」汐里は自分でも驚くほど、静かな声で彼を呼んだ。 「私を責める時間があるなら、その話が本当かどうか調べたら?」 汐里がそう言うや否や、陸の顔色が一変し、眼が恐ろしく真っ赤になった。「汐里、こんなことになってるっていうのに、まだそんなこと言うのか? 病院にいる玲は今も、子供を失った悲しみでずっと泣いているんだぞ!なのに、何を調べるっていうんだよ?まさか、玲が嘘をついているとでも?」 彼は首を振りながら後ずさり、まるで他人を見るような視線で、汐里を見た。 「お前が反省しないっていうなら、俺だってもう容赦はしないからな」 汐里が状況を理解するより早く、陸はリビングの端にあるキャットハウスへと歩み寄った。 眠っていたミルキーは、乱暴に抱き上げられると「にゃあ」と一声鳴いた。 「お前は玲の子供を奪ったんだ」陸はミルキーを抱え、開け放たれた窓へと近づく。夜風が勢いよく吹き込んできた。 「なら、お前の猫も同じ目に遭わせてやる」 「陸!」汐里は叫んで、彼に飛びついた。しかし、間に合わなかった…… 陸が手を離す。 小さな白い塊が夜空に弧を描く。鳴き声すら聞こえなかった。 ドンッ。 下から聞こえてきた鈍い音が、そのまま汐里の心にも叩きつけられる。 その場で固まった。全身から血の気が引き、耳鳴りがする。ずっと、先ほどの鈍い音が頭の中で繰り返された。 陸は振り向き、冷たく言った。「受けて当然の罰だから」 汐里ははっと正気を取り戻すと、一気に階段を駆け下りた。 ふらつく足で駆け寄るが、光景を見た瞬間、その場で立ちすくんでしまった。 植木が並べられているそばに、血に塗れたミルキーが横たわっている…… 第8話 汐里はその場に膝をつき、震える手でミルキーを抱き上げた。 ミルキーの体はぐったりとしていて、その頭も力なく傾く。 汐里はその体に顔をうずめ、自分の額をその血で濡れた毛並みに押し当てた。 涙が零れ落ち、血だまりの中にポタポタと染み込んでいく。 この子は私の子供だったのに…… この3年間、夜中に目が覚めればブランケットをかけてやり、仕事中もペットカメラでずっと見守っていた。 陸と喧嘩をした時も、ずっとこの子を抱きしめて弱音を吐いていた。 なのに、この子を連れてきた張本人が、他の女のために、この子を18階から突き落としたなんて。 汐里はその場に膝をついたまま、冷たくなっていくミルキーの体を抱きしめ、ずっと動かなかった。 次第に辺りが白み、車のエンジンの音で汐里ははっと我に返った。 固まった指先を動かし、ミルキーを胸に抱いて立ち上がる。 汐里はそのまま、一番近くのペット葬儀場へと向かった。 小さな金属のトレイに乗せられたミルキーは、そのまま炉の中へと送られた。 火が灯った瞬間、汐里は静かに目を閉じた。 ミルキーが病気になった時、陸は誰よりも慌てて、街中の病院を駆け回ってくれたっけ。 それに、出張へ行けば、何度も自分に連絡をよこして、「ミルキーにオヤツをあげることを忘れるなよ」と、しつこいぐらいだった。 そんなささやかな優しさのひとつひとつを、自分はずっと、心の底から愛されている証だと信じていた。 かつての温かい記憶のすべてが、今は突き刺さるナイフとなって胸を切り刻む。 温もりをくれた手は、同じようにすべてを破壊することもできるらしい。 葬儀場を出るとすぐに、ポケットの中の携帯が激しく鳴った。 電話に出ると、美波の慌てふためく声がする。「汐里さん!大変です!ニュースを見てください!」 美波から送られてきたURLを開くと、信じがたい見出しが目に飛び込んできた。 【江藤グループ社長・神谷汐里、部下の流産に関与か】 その下には、病院の一室で撮影された動画があった。 入院着を着た玲が、真っ白な顔でカメラの前で泣き崩れている。 「汐里さんは、私と神谷社長の関係をずっと誤解していました。 そしてあの夜、汐里さんは私に佐藤社長と酒を飲むようにと強要してきて……それを拒んだら、彼女は私の子供を……」 過呼吸になるほど玲が泣き叫ぶと、動画はそこで終わった。 世論は一気に爆発し、汐里と江藤グループには心ない非難が殺到した。 【悪女】【自分が産めないからって他人の子供を狙うなんて】【江藤グループなんて消えてしまえ】 すべてが鋭いナイフとなって汐里の心臓に突き刺さる。 携帯を見つめる汐里の瞳から、少しずつ光が消えていった。 撮影のアングルや展開の速さ、世論誘導……全てが手慣れている。 玲一人で、ここまでのことができるはずがない。 汐里はタクシーを停めた。「神谷グループまでお願いします」 社長室のドアを力任せに押し開ける。 汐里はじっと陸を睨みつけた。「今すぐ訂正報道をして」 「断る」陸が迷いもせずに拒絶した。 立ち上がり近づいてくる彼の声は、冷徹そのものだった。「子供を失ったことで、玲は重度のうつ状態だと診断された。 だからな、汐里。これはお前が受けるべき対価なんだよ」 「だからって私の名誉と、会社の名前を傷つけるわけ?陸、どうかしてるよ」 陸は冷たい眼差しを汐里に向ける。「いいか?世の中には、していいことと悪いことがあるんだよ」 これ以上話すのは無駄だと思った汐里は、ライブ配信を始めようと携帯を取り出した。 だが、それも陸に奪い取られ、内線で警備員を呼ばれた。 陸は汐里を見つめながら、有無を言わせない口調で言う。「今、玲は精神的に不安定だから、これ以上のストレスは与えたくない。 お前はしばらくの間、俺の別荘で休んでろ。ほとぼりが冷めたら、俺がなんとかするからさ」 抵抗する暇もなく、汐里は北区にある陸の別荘へと軟禁されてしまった。 ここでは、外界とのつながりが完全に絶たれていた。 部屋から出ることは許されず、食事も無口な家政婦が届けるだけ。 ここに連れてこられてから、何日経ったのだろう。ついに閉ざされていたドアが開けられた。 そこに立っていたのは、もう何日も見ていない美波の姿だった。 彼女の目はひどく腫れ上がり、その奥に滲む痛みは今にも溢れ出しそうだった。 「汐里さん……」その声は掠れていて、ほとんど聞こえない。 汐里の胸がずんと沈み込み、なぜだか激しい不安が喉元を締めつけて、息すらまともにできなくなった。 「……江藤会長が、昨日の午後に亡くなられました」 第9話 美波が寝室に入ると、汐里はベッドの脇に座っていた。 汐里の目は虚ろで、まるで魂が抜け落ちているようだった。 部屋のカーテンは固く閉ざされ、サイドテーブルの小さなライトだけが灯っている。 「汐里さん……」美波は、今にも消えそうな声で言った。「江藤会長のことですが……」 汐里の声は、恐ろしいほど落ち着いていた。 「知ってる。 ネットの誹謗中傷、それに煽られて家に押しかけてきた連中のことも」 美波は目元を赤くした。 「江藤会長が亡くなられたのは突然のことでした。心臓発作で、病院に搬送された時にはもう……」 「私のせいよ」汐里は美波の言葉を遮る。「あの時、陸を許すべきじゃなかった。 3年前、あんな甘い嘘に騙されないで、あのまま彼を捨てていれば、お父さんは死なずに済んだんだから……」 ゆっくりと立ち上がった汐里は、窓の方へ向かった。 カーテンの隙間からは、外を監視する二人のボディーガードの姿が見える。 「陸はなんで私を軟禁してるんだろうね」汐里は振り向いた。「陸が私の父を追い詰めたから?それとも私を悪人に仕立て上げたからかな?」 「汐里さん、そんな風に思わないでください……」 「ここから出るわ」汐里は美波を見つめた。「父の葬儀だけは、絶対に出るから」 すると美波は深呼吸をし、バッグから小さな袋を取り出した。 「汐里さん、これは睡眠薬です。明日夜7時、いつも通り食事が届けられると思います。 その時、なんでもいいので理由をつけて、お水の入ったグラスをもらってください。 お水をもらったら、あらかじめ飲み物に、その薬を混ぜておいてください。食後、ボディーガードたちが点検を終えたら、彼らに飲ませてください」 汐里は袋を受け取り、黙って頷いた。 美波が言葉を続ける。「8時半、裏口に車を停めて待っていますから。 セキュリティーシステムにも細工をしておきました。15分間は何も映りません」 美波が出て行った後、汐里は暗闇の中に独り座っていた。 軟禁される3日前、父からかかってきた電話を思い出す。 声には疲れが滲んでいたが、父は精一杯明るく励ましてくれた。 「汐里、ネットのことなんか気にするなよ。 お父さんはお前のことを信じてる。あいつらが何を言おうと、お前がどんな子か、俺が一番よく分かってるからね」 「お父さん。ごめんなさい」その時、汐里は声を詰まらせた。 父がため息をつく。「馬鹿だな、そんなこと気にしなくていい。 もし、あの陸とかいう男といて辛いんだったら、帰ってこい。俺はいつでもここにいるからな」 だが今はもう、父はいない。 汐里は顔を両手で覆い、肩を震わせた。 涙はすでに枯れ果てていたが、胸の奥では鈍い痛みが繰り返される。 翌日の夜7時、食事が届けられた。 汐里は、部屋が乾燥しているから、少し多めに水が欲しいと言って、家政婦に水の入ったグラスを持って来させる。 家政婦が出ていったのを確認して、錠剤を取り出すと、水の中にそっと落とした。 夜8時。ボディーガードが部屋の点検に来る時間。 これは陸の指示によるもので、汐里が脱走の道具を隠し持っていないか、徹底的にチェックするためだった。 汐里はベッドに座り、彼らが引き出しやクローゼット、窓の施錠を確認するのを見ていた。 すると、机の横まできた小柄なボディーガードが、置かれたグラスに目を止める。 「最近乾燥するから、家政婦さんにお水を用意してもらったの」汐里は聞いた。「これもチェックするの?」 ボディーガードはグラスを手に取り、鼻を近づけ匂いを嗅いだが、異常は特になかったので、元に戻した。 「では、俺たちはこれで」大柄なボディーガードがそう言い、二人は去ろうとする。 「ちょっと待って」 汐里は彼らを呼び止めた。 「今夜はあなたたち二人が当番なの?本当にご苦労様。でも私、退屈で寝付けないから、少し入ってお喋りにでも付き合ってくれないかしら?」 汐里は、小柄なボディーガードを真っ直ぐに見つめながら言った。 それはかつて、陸が何より好きだった眼差し。儚げで、少しだけ甘えるような色を帯びている。 ボディーガードの心が一瞬揺れた。 汐里はグラスを彼の方へ押し出す。「まあ、水でも飲んで。ここにずっと一人で、すごく退屈なの。ちょっと話すぐらいいいでしょ?」 ボディーガードはグラスを受け取ると、ごくりと一口飲んだ。 もう一人の体格の良い方はまだ渋っていたが、小柄な男がグラスを渡した。「汐里さんがせっかく勧めてくれてるんだ、いいから飲めよ」 彼は少し躊躇った後、何口か口に含んだ。 汐里は天気や食事の話など、当たり障りのない話題を続ける。 15分ほど経った頃、小柄な方が欠伸を始めた。 「おかしいな、すごく眠い……」 もう一人もふらりと身体を揺らす。「俺も……」 その瞬間、二人は音を立ててその場に崩れ落ちた。 汐里はすぐに立ち上がり、小柄な方の腰から鍵を奪い取った。 寝室を抜け、リビングを通り過ぎ、勝手口へと走る。 扉を開くと、冬の冷たい夜風が容赦なく流れ込んできた。 路地には明かりひとつなかったが、遠くにハザードを点滅させた一台の車が見える。 汐里はそこまで走って向かい、ドアを開けると中に乗り込んだ。 「行こう」ハンドルを握る美波に声をかける。 エンジン音とともに、車は暗闇へと走り出した。