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俺が去った日、元妻はすべてを失った
会社の資金調達が成功したあと、社長である妻――畑結衣(はた ゆい)は、全社会議で俺――長谷川蒼(はせがわ そう)との関係を公表するはずだ...
Chương (1)
第1章
会社の資金調達が成功したあと、社長である妻――畑結衣(はた ゆい)は、全社会議で俺――長谷川蒼(はせがわ そう)との関係を公表するはずだった。
それなのに、新入社員として入ってきた彼女の大学の後輩、木戸明人(きど あきと)が突然その場に現れ、得意げにこう言い放った。
「こんなに早く僕との関係を公にするなんて、社長は僕のことを甘やかしすぎじゃないですか?」
結衣はそれを否定するどころか、微笑みながら明人を会社の重要プロジェクトにねじ込んで、箔をつけようとした。
その場にいた全社員から割れんばかりの拍手が巻き起こって、二人はお似合いだと褒めそやした。
長年の同僚が、無言の俺を見てわざわざ小声で耳打ちしてくる。
「お前、いつも上手く立ち回るだろ。ここは早く気の利いたことでも言っとけよ」
俺は騒ぐことも怒ることもなく、プロジェクト責任者の社員証を明人に渡した。
「ただプロジェクトに参加するだけじゃ、君の立場に合わないだろ。この『プロジェクト責任者』のポジション、二人への交際祝いとして譲ってやる」
第1話
会社の資金調達が成功したあと、社長である妻――畑結衣(はた ゆい)は、全社会議で俺――長谷川蒼(はせがわ そう)との関係を公表するはずだった。
それなのに、新入社員として入ってきた彼女の大学の後輩、木戸明人(きど あきと)が突然その場に現れ、得意げにこう言い放った。
「こんなに早く僕との関係を公にするなんて、社長は僕のことを甘やかしすぎじゃないですか?」
結衣はそれを否定するどころか、微笑みながら明人を会社の重要プロジェクトにねじ込んで、箔をつけようとした。
その場にいた全社員から割れんばかりの拍手が巻き起こって、二人はお似合いだと褒めそやした。
長年の同僚が、無言の俺を見てわざわざ小声で耳打ちしてくる。
「お前、いつも上手く立ち回るだろ。ここは早く気の利いたことでも言っとけよ」
俺は騒ぐことも怒ることもなく、プロジェクト責任者の社員証を明人に渡した。
「ただプロジェクトに参加するだけじゃ、君の立場に合わないだろ。この『プロジェクト責任者』のポジション、二人への交際祝いとして譲ってやる」
俺が社員証を明人に渡すのを見て、会議室での全員が驚きで目を丸くした。
無理もない。ここ数年、俺はこのプロジェクトのために寝食を忘れ、低血糖で何度か倒れそうになるまで働き詰めていたからだ。
だがすぐに、同僚たちが拍手し始めると、室内の熱気は最高潮に達した。「太っ腹!」、「さすが社長を長年支えてきたベテラン!」と歓声が上がる。
ただ一人、結衣だけは険しい顔つきで、唇を真一文字に結んで、俺をじっと睨みつけている。
その気まずそうな様子が、俺にはただ滑稽に見えた。
結衣は社内恋愛を極端に嫌っていた。極秘結婚して7年、俺がずっと公表しようと頼み込んでも、彼女は頑なに拒み続けてきた。
今回の資金調達で、ようやく彼女が折れてくれたというのに、まさか最後にあっさりと明人に横取りされるとは。
今となっては、彼女が公表したがっていようがいまいが、俺にはもうどうでもいい。
「それじゃ、他に用がないなら俺はこれで。みんな、楽しんでください」
結衣の返事を待たず、さっさと会議室を後にした。
今回の資金調達が成功したのは、俺が手掛けるプロジェクトが順調で将来性があり、提携先から追加投資を引き出せたからだ。このプロジェクトのコア特許は俺の持ち物で、会社に尽くしてきたからこそ、今の成果がある。
これほど俺を失望させたんだ。もう二度と、馬鹿みたいに結衣を助けたりはしない。
気づけば、エレベーターで地下駐車場に降りていた。車に乗り込むと、助手席には99本の真っ赤なバラの花束が横たわっている。
今日、結衣が俺との関係を公表してくれると思っていた。それがどれほど嬉しかったか。バラを買って、ミシュラン三ツ星レストランまで予約していた。
待ちに待った結果が、結衣の明人に対する底なしの溺愛だなんて、笑える話だ。
俺の目はすっかり冷めきり、エンジンをかけようとした、その時。
ヘッドライトの光の先に、突然、明人の姿がぬっと現れた。
明人は得意そうに、社員証を指でくるくると回しながら、大声で見せびらかす。
「今日本当は結衣さん、長谷川さんとの関係を公表するつもりだったんですよね。でも、僕がたった一言口出ししただけで、彼女はあっさり考えを変えちゃったんですよ。
このプロジェクトでしばらくやっていけば、昇進させて給料も上げてくれるって言ってました。そういえば、長谷川さんってここ3、4年ずっと昇進してないらしいですね。大丈夫ですか?」
眉を吊り上げ、その青白く痩せこけた顔には悪意が満ちている。
その小悪党みたいな面構えを見ると、滑稽で仕方ない。
以前は、こういう裏での挑発に乗ってしまうこともあった。結衣に「明人を目の敵にしている」と誤解され、そのせいで何度も口論になった。
でも今は、相手をするのすら面倒くさい。
案の定、カツカツというハイヒールの足音が近づいてきた。
明人は一瞬で表情を切り替えて、社員証を握りしめると、俺の車の窓にすがりついて必死な声を上げた。
「長谷川さん、怒らないでください!結衣さんがしたことは、決して公私混同なんかじゃありません。僕から先輩の下で学びたいってお願いしたんです。もし不満があるなら、僕、このプロジェクトを降りますから!
責任者なんて重要なポジションは当然、長谷川さんのようなキャリアの長い先輩にしか務まりませんよ!」
第2話
明人は卑屈な口調で、まるで俺に怒鳴られたかのように、ビクビクしながら社員証をこちらへ差し出した。
すると結衣が小走りで近づいてきて、持っていたバッグをフロントガラスに叩きつけた。
ガンッ、と鈍い音が響く。彼女は声を荒げて怒鳴りつけた。
「明人が話しかけてるのに、車から降りようともしないの?万が一轢いちゃったらどうするつもり?これ、立派なパワハラよ!」
俺は口元を歪めて鼻で笑う。車の窓を開けて、責任者のポジションはもういらないからあいつにくれてやる、と言おうとした。
明人は俺が本気で社員証を取り返すと思ったのか、目に焦りの色を浮かべ、ストラップを指にきつく絡ませてぐいっと引っ込めた。
次の瞬間、明人は突然腰をかがめてみぞおちを押さえ、青ざめた顔で「胃が痛い……」と虫の息でつぶやいた。
なんとも大げさな三文芝居だが、あいにく、これがドンピシャで効く相手がいる。
結衣は俺を責め立てるのも忘れて、慌てて明人に駆け寄って体を支えながら、バッグから胃薬を取り出して飲ませている。
彼女はパニックになりながら、俺に向かって叫んだ。
「ぼーっとしてないで手伝ってよ!車出して、明人を病院へ連れて行くの」
心の中で盛大に呆れながら、そのまま車を出して立ち去ろうとした。
だが、結衣は車の前に立ちはだかり、俺を睨みつける。彼女の言うことを聞かないなら、車に轢かれても構わないというような態度だ。
笑わせるな。俺が接待の酒で胃潰瘍になり、トイレにこもって吐血していた時、結衣は気にも留めず「胃薬でも飲んでおけば」と言い放ったのに。
今、明人が仮病を使っているだけで、いつもは冷静な彼女が取り乱して、命がけで庇っている。
仕方なく二人を病院へ送り届けた。
病院で、医者から明人に異常はないと聞いて、結衣はホッと胸をなでおろして深い安堵のため息をついた。
二人のお涙頂戴の茶番を見ているのも馬鹿らしくなり、踵を返して帰ろうとする。
すると結衣が急いで廊下まで追いかけてきて、俺の腕を掴んだ。
思わず眉を寄せた。また、可愛い明人を病気にさせたって文句を言われるのかと思った。
だが次の瞬間、結衣はその社員証を俺の首にかけ直し、スーツのシワまで直してきた。そして、小さな声でこう言う。
「明人が冗談好きなのは知ってるでしょ。関係を公表するチャンスなんていくらでもあるんだから、もう少し待ってて。
責任者なんて大事なポジション、意地張って手放しちゃダメよ。今回のことは水に流してあげるから」
「ああ」と生返事をした。
結衣は俺の顔をじっと見つめ、仕方なく妥協したように、少し潰れた箱を差し出してきた。
「もういいでしょ。助手席のバラ、見たわ。すごく嬉しかった。後で家の花瓶に飾っておいてね。実は、私も蒼にプレゼントを用意してたのよ」
これが結衣のいつものやり方だ。見事なアメとムチの使い分け。
彼女が持っているその箱、どこかで見覚えがある。半月ほど前、明人がSNSに載せていたものだ。
あの時、明人は結衣からもらったネクタイにうっかり油ジミをつけてしまい、箱ごとゴミ箱に捨てた。
大げさに落ち込んだフリをしながら、実のところ自慢げに投稿していたのだ。結衣はそのコメント欄で【また新しいのを10本買ってあげる】と返していた。
箱を受け取り、中を開ける。
入っていたのは、ブランド物の偽物のネクタイだった。端を少し触っただけで色が手に移り、ご丁寧にもレシートまで入っている。
明人には高級ブランドのネクタイをポンと買い与えるのに、俺にはこんな偽物でごまかそうとするのか。
わざわざ問い詰める気にもならず、適当に返事をした。
「分かった。用がないなら帰る」
廊下の角を曲がって、ゴミ箱が目に入った瞬間、迷うことなくその箱を放り捨てた。
それからスマホを取り出して、以前から熱心にスカウトしてくれていたIT企業に電話をかける。
「御社の誘い、お受けします」
その会社は世界トップ500に名を連ねる大企業で、ここ数年、ずっと俺を引き抜こうと声をかけ続けていたのだ。
第3話
でも、結衣のそばにいて、当時の夢を叶えるために、ずっとその誘いを断り続けていた。
電話の向こうで、人事担当者は自社の福利厚生や給与の良さ、そして俺のような人材をどれほど歓迎しているかを熱く語っている。
話しているうちに、いつの間にか車は自宅の前に着いていた。一時間にも及ぶ通話履歴を見て、スマホを握る手にぐっと力が入る。
あの頃、結衣のために、手の届くところにあった役員の座を捨て、彼女と一緒にゼロから起業した。
長年会社のために駆け回り、心身ともにとっくに限界は超えていた。
何もないところから二人で頑張って、ようやくすべてを手に入れたというのに、結衣の心はいつの間にかどこかへ行ってしまった。
これからは、自分のためだけに生きたい。
少し考えたあと、プロジェクトの提携先にもメッセージを送って、責任者が変わることを伝えた。
先方は俺を信頼してこのプロジェクトに投資し、今回の大規模な資金調達にも手を貸してくれたのだ。俺が辞める以上、当然伝えておく義務がある。
メッセージを送信し終えると、明日の航空券を予約して荷造りを始めた。
クローゼットの一番下からコートを取り出したとき、その下敷きになっていたアルバムが偶然開いて、結衣と撮ったツーショットが目に飛び込んできた。
それはちょうど8年前、結衣と付き合い始めたばかりの頃の写真だった。二人ともまだ幼さが残って、肩を寄せるだけで照れくさそうにしている。
アルバムを拾い上げてページをめくった。
そういえば、これらの写真はすべて結衣が「日々の記録を残したい」、「苦労したことも全部写真に残して、後でちゃんとお返しするから」と言って、自ら進んで撮りたがったものだ。
俺と結衣は苦楽を共にして、カツカツの生活を送ってきた。狭いアパートで身を寄せ合いながら、海賊版の映画を見たこともあった。大晦日の夜、たった一切れの肉を譲り合ったこともあった。
だが、そんな貧しい日々も、当時の俺にとっては幸せそのもので、前に進む原動力だった。
次第に、写真に写る服は高価になり、背景も豪華になっていったが、写真の数自体はどんどん減っていった。
数日に一枚から、月に一枚、そして一年に一枚へ。明人が現れてからは、新しい写真は一枚も増えていない。
結衣と俺の接点は、次第に上司と部下の業務連絡だけになっていった。
いつからだろうか。俺がご飯を抜いても、接待で胃を壊して吐血しても、実験中にケガをしても、結衣は気にも留めなくなった。
なのに明人のことだけは過保護なほど大切に扱っている。
軽い胃弱の明人と食事するためだけに、大事な接待をキャンセルするなど、何か埋め合わせでもするかのように、彼を徹底的に甘やかしている。
俺も納得がいかず、「どうしてだ」と問い詰めたことがある。
しかし彼女は冷ややかな目で、「私たちはずっと苦労してきたじゃない。いい年してそんなに拗ねるなんて、明人より子供ね」と言い放った。
「明人のピュアで優しいところが好き。彼には私たちと同じような苦労はさせたくないの」と。
結衣との思い出が詰まっていたはずのこのアルバムを見ても、今はただ虚しさしか感じず、ためらうことなくゴミ箱に投げ捨てた。
服を畳み続けていると、ズボンのポケットに入れていたスマホが突然鳴った。予約したレストランの支配人からの電話だ。
「長谷川様、ご予約の時間を30分過ぎております。あと10分以内にお越しいただけない場合、お席を他のお客様にお譲りすることになりますが……」
俺は和食が好きなのだが、結衣はフレンチが好きだった。おしゃれでロマンチックだからと。思えば、プロポーズしたのもフレンチレストランだった。
今日、関係を公表できたらお祝いしようと、わざわざ彼女のために市内で一番のレストランを予約していたのに、結局彼女は約束をすっぽかした。
俺は淡々と答えた。「もう行かないから、他の人に譲ってあげてください」
第4話
電話を切ってすぐ、結衣からメッセージが届く。
【接待があるから、夕飯は一緒に食べられない】
その短い一言が、やけに珍しく感じる。結衣はこれまでわざわざ報告なんてせず、いつも平気ですっぽかしていたからだ。
だが、その理由はすぐにわかることになる。
ついさっき、明人がインスタのストーリーを更新していたのだ。
写真の中では、結衣がうつむき加減でステーキを切り分けている。背景を見ると、まさに俺が予約していたあのレストランだ。
添えられたコメントはこうだ。【社長は美人で優しくて、切り分けてくれたステーキは格別の味!】
偶然とは恐ろしい。支配人が言っていた「他のお客様」というのは、この二人のことだったらしい。
なぜ接待だと嘘をついたのか問いただす気にもなれないし、少しも悲しいとは思わない。
今の俺は驚くほど凪いでいて、ただぐっすり眠りたかった。
シャワーを浴びてベッドに入って、そのままここ数年で一番深い眠りに落ちた。
しかし真夜中、寝室の電気が突然パッと点いて、その眩しさで目が覚める。
まばたきをしてようやく強い光に目が慣れると、ベッドの脇に結衣が立っている。
彼女は目を丸くして、信じられないという顔で声を荒げた。
「蒼、寝てたわけ?」
寝ぼけ眼でスマホの画面を見ると、もう深夜3時。こんな時間に帰ってきたのか。
以前なら、明人が少しでも胃が痛いと言えば、結衣は一晩中看病していたはずだが、今の彼女はひどく機嫌が悪そうで、仏頂面で文句を言ってくる。
「蒼、私がこんなに遅く帰ってきたのに、心配のメッセージもなければ起きて待ってもいないなんて、あんまりじゃない?」
俺があんまりだって?心の中で呆れ返る。
以前、結衣の身を案じて電話をかけた時は、「監視してるの?信用してないわけね」とキレられた。
夜中に帰りを待ち、夜食を作り、風呂の準備までしたときには、「暇だから眠れないのね、もっと仕事を増やしてあげる」と言われた。
こうして世話を焼くのをやめても、結局文句を言われる。女心と秋の空とはよく言ったものだ。
適当に返事した。電気を消して再び寝ようとする。すると結衣が俺を小突いて、骨抜きになったみたいに寄りかかってきた。
「蒼、今日すごく疲れたの。お風呂の準備、してくれないの?」
結衣から、明人が愛用しているメンズ香水の匂いがふわりと漂ってくる。吐き気がする。
以前なら、結衣に言われるまでもなく甲斐甲斐しく世話して、眠りにつくまで見守っていたはずだが、今はただただうっとうしい。
結衣を軽く払いのける。眉をひそめて、起こされたせいで少しぶっきらぼうな口調になる。
「俺は眠いんだ。自分のことくらい自分でやれ」
結衣はポカンとして、突き飛ばされたという事実をまだ理解できていないようだ。
しばらくして、バッグのチェーンを握りしめる手が白くなるほど力を込めながら、歯を食いしばって言う。
「一回ご飯を一緒に食べなかったくらいで、その態度は何よ。大したもんね!
私が喜んで帰ってきたとでも思ってるわけ!?」
そう言い捨てると、結衣は怒り心頭で部屋を飛び出して、ドアを鼓膜が破れるほどの勢いで叩きつけた。鍵を掴んで外へ出て行く音が聞こえる。
以前なら間違いなく追いかけて、行かないでくれと引き留めていただろう。今の俺は迷うことなく電気を消して、そのまま眠りについた。
翌朝、自然に目が覚めると気分は爽やかだった。朝ご飯でも作ろうかと思ったが、意外なことに結衣が家にいる。
いつもなら、俺が機嫌を取らない限り冷戦状態になって、早々に会社へ向かっていたはずだ。
結衣はリビングのソファにきちんと座って、太ももの上に置いた上品なギフトボックスの紐を器用にリボン結びにしている。
こちらの気配に気づいたのか、結衣は振り返る。
そして一歩近づくと、俺の手首を掴んで、箱から取り出した腕時計をカチャリと巻きつける。ヒヤリとした感触に、思わず手首がビクッと震える。
第05話
結衣は俺の手首を両手で包み込むようにして、しげしげと眺めてから、とても満足そうに言う。
「いいわね、サイズもぴったり。落ち着いた雰囲気で上品だわ」
その時計は雑誌で見たことがある。今年の新作で、数千万は下らない代物だ。
手を引っ込めようとする前に、結衣はあっさりと時計を外して、ハンカチで念入りに拭き始めた。箱に戻しながら、ぼそっと呟く。
「蒼と明人の手首の太さが同じくらいで良かった。あんたに合うなら、きっと明人も気に入るはずよ」
うつむく結衣のつむじを見下ろしながら、皮肉な気分になる。そりゃそうだ、高級時計が好きなのは明人の方だし、結衣が今さら俺を気にかけるはずがない。
結衣はコートを羽織って、箱を手にすると、足取り軽く外へ向かおうとする。
俺はスッと腕を伸ばして行く手を遮った。昨日プリントアウトしておいた書類を差し出す。
「結衣、この書類にサインしてくれ」
結衣は眉をひそめて不機嫌そうに言う。「会社に着いてからにしてよ」
さらに書類を彼女の前に突き出す。
「仕事じゃない。大事な話だ。時間は取らせないから」
結衣は大きく息をついて、不満げな顔で書類をひったくる。
「面倒なことばっかり押し付けて……」
そうぼやきながら書類に視線を落とした瞬間、言葉がピタリと止まる。それは離婚届なのだ。
一瞬呆然としたあと、結衣は離婚届を靴箱の上に叩きつけた。鼻で笑った。
「蒼、何かと思えば離婚?
プロジェクトを一つこなしたくらいで、随分と偉くなったつもり?
こっちは忙しいの。あんたのちっぽけなワガママに付き合ってる暇はないわ」
もう一度、離婚届を差し出して冷静に告げる。
「ワガママじゃない。結衣、お前を自由にしてやるよ。これで明人と堂々と付き合えるだろ」
結衣は険しい顔つきになって、俺の手から離婚届をひったくってグシャグシャに丸めた。
それでも気が済まないのか、ビリビリと破り捨てる。紙切れが雪のように床に舞い散る。結衣は俺を指差して、冷ややかな目を向ける。
「ヤキモチじゃないって、よく言えるわね。警告しておくけど、二度と離婚なんて騒ぐんじゃないわよ。
私が明人の世話を焼くのは、昔の私たちに似てるからよ。才能を伸ばしてあげたいだけ。あんたが色眼鏡で人を見るから、何でも下品に見えるのよ。
折を見て私たちの関係を公表しようと思ってたのに……本当にがっかりだわ」
言うだけ言うと、俺の返事も待たずに外へ出て行った。ハイヒールの音が、床を激しく打ち鳴らす。
こんな結果になることは予想していたから、別に落胆はしない。円満に別れられないなら仕方ない。弁護士に依頼して離婚訴訟の手続きを進めることにした。
それから人事部に退職届を送る。すぐに人事から電話があり、会社へ来て直接退職手続きをするよう言われる。
だが、オフィスに足を踏み入れた途端、同僚たちのお世辞が聞こえてきた。
「部長、その腕時計、パテック・フィリップの今年の新作ですよね!社長、本当に部長のこと気にかけてらっしゃるんですね!」
「社長と部長はお似合いですよね。まさに理想のカップルです!お二人が引っ張ってくれれば、うちの会社はもっと成長しますよ!」
明人はわざとらしく頭を掻きながら、手首の真新しい時計を見せびらかしている。
俺に気づくと、足早に近づいてきて、愛想よく手を握った。
「長谷川さん、やっと来ましたね!結衣さんが、これから僕がプロジェクトを任されて大変だろうからって、みんなにスタバ奢ってサポートしてあげてって言ってくれたんです。何飲みます?」
その手をバシッと振り払う。俺が何か言うより先に、少し離れた場所で見ていた結衣が一歩前に出て、明人を背中に庇うようにして立った。
「長谷川、遅刻したんだから、コーヒー飲んでる暇なんてないでしょ。
人事には遅刻扱いで減給するように言っておくわ。それから、そんなに時間にルーズな人間に、責任者は務まらないと思うけど、このプロジェクトからは外れてもらうわ」
第06話
「インターンからやり直して、会社の規則でも一から学び直しなさい!」
明人はわざとらしくふりをして、結衣の袖を引っ張って小声でなだめる。
「社長、それはちょっと……プロジェクトももうすぐ終わりますし、長谷川さんだっていろいろ苦労してきたんですから」
結衣は俺を上から下までジロリと見て、傲慢に鼻で笑う。
「こんな器の小さい男、君の足元にも及ばないわ。ただこいつがだらしないだけよ!
これからは明人がそのプロジェクトを引き継ぎなさい。君こそがの責任者よ」
明人は強欲な顔を隠しきれないまま、口先だけで辞退する。
「社長、やっぱりマズいですよ。僕なんてまだ若いですし、経験も浅いのに……」
その場にいた古参社員たちは、結衣の俺への不満を察して、次々と同調する。
「さすが社長、お見事です。長谷川くんはちょっと調子に乗ってましたからね。昨日は残業もしないし、今日は遅刻ですし。ここはきっちり指導しないと!」
「私も木戸部長は才能があると思ってましたよ。長谷川くんも経験はあるでしょうが、やっぱり若手の勢いには敵いませんね」
結衣は眉をわずかに吊り上げ、不本意そうな顔を作りながら高慢に言い放つ。
「もし心を入れ替えて頑張るなら、仕方なく会社に残してあげても……」
こいつらの茶番にはもう付き合いきれない。結衣の言葉を遮って、淡々と告げる。
「悪いが社長、何か勘違いしてるようです。俺は退職手続きをしに会社に来たんです」
結衣は呆然として、素っ頓狂な声を上げる。「は?」
人事の担当者が近づいて、彼女の耳元で何かを囁く。結衣の顔色はますます険しくなって、眉間に深いシワが刻まれる。
「長谷川、あんたって本当に面倒な男ね!
退職だのなんだのって騒いで、嫌味まで言って。忘れてないよね?会社は資金調達に成功して、もうすぐ上場するのよ!
上場したら全社員に特別ボーナスを出すつもりよ。ここは誰もが喉から手が出るほど入りたい優良企業なんだから!」
俺はただ、冷めた目で結衣を見つめる。
「わかってますよ、社長。とにかく早く退職届を受理してください。じゃないと、労基に訴えますから」
周りは顔を見合わせて、状況が飲み込めずにざわついている。
結衣は両手を強く握りしめて、爪が手のひらに深く食い込んでいる。痛みなど感じていないかのように、首をすくめず強気を装う。
「いいわよ、辞めなさい。私が直々にサインしてあげるわ!あんたが消えたら、すぐに明人を責任者に引き上げてやるんだから!」
彼女は人事の手から書類をひったくって、ペンを取ってサインしようとするが、その目は俺をキツく睨みつけて、俺の反応を細かく観察している。
俺が依然として無表情なのを見ると、さらに言葉を重ねた。
「会社が上場したら、明人を昇進させて給料も上げる。それだけじゃない、車も家も買ってあげる。これが功労者への待遇よ!」
思わず吹き出しそうになる。わざと明人を引き合いに出し、俺を揺さぶろうとしているのが見え見えだ。
だが彼女は知らない。ついさっき、取引先から連絡があって、損害賠償の件ですでにこのビルの下まで来ていることを。
結衣は俺の口元のわずかな笑みを見て、苛立ったように言う。「何がおかしいのよ?」
俺は冷たく返した。「こちらの方に説明してもらえばいいです」
そう言って身を引くと、次の瞬間、取引先の代表が入ってきた。厳しい表情で告げる。
「畑社長、御社は契約違反を犯し、独断でプロジェクト責任者を変更しました。これにより、当社は出資を引き揚げ、御社の上場計画には今後一切関与しません」