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流産した日、夫は元カノに会いに行った
佐伯晴臣(さえき はるおみ)と入籍して、6年が過ぎた。佐伯詩音(さえき しおん)は、孤独な暮らしにすっかり慣れていた。 一人で食事をし、一...
Chương (1)
第1章
佐伯晴臣(さえき はるおみ)と入籍して、6年が過ぎた。佐伯詩音(さえき しおん)は、孤独な暮らしにすっかり慣れていた。
一人で食事をし、一人で映画に行く。それだけならまだしも、急性虫垂炎で生死を彷徨うような痛みに襲われた時ですら、手術の手続きから術後の目覚めるまで、すべてを一人で乗り切ってきた。
術後3日目の午後、病室のドアが開いた。晴臣が制服に身を包み、大股で入ってきた。
「詩音、術後の経過はどうだ?そんなに痛むのか?手術という一大事を俺に知らせないで、一人でどうするつもりだった?万が一ということもあるだろ……」
「別に、気にしないで」詩音は静かに言い放った。「一人でなんとかなるし。それより、杉原さんの電球を替えるのにお忙しいのでしょ?」
晴臣の顔色が、さっと凍りついた。
彼は、3日前の夕方、演習を締めくくり帰宅しようとした時、杉原怜奈(すぎはら れな)が涙ながら自分を待ち伏せしていたことを思い出したのだ。
その時、怜奈は部屋の電球が切れて暗いから怖い、替えてほしいと縋り付いたのだ。
何度も断ったが、怜奈が泣きじゃくるので、なんとかして早く終わらせて追い払いたかったから、つい引き受けてしまったのだ。
第1話
佐伯晴臣(さえき はるおみ)と結婚して6年。佐伯詩音(さえき しおん)は、一人でいることに慣れてしまっていた。
一人で食事をし、一人で映画に行く。それだけならまだしも、急性虫垂炎で生死を彷徨うような痛みに襲われた時ですら、手術の手続きから術後の目覚めるまで、すべてを一人で乗り切ってきた。
術後3日目の午後、病室のドアが開いた。晴臣が制服に身を包み、大股で入ってきた。
「詩音、術後の経過はどうだ?そんなに痛むのか?手術という一大事を俺に知らせないで、一人でどうするつもりだった?万が一ということもあるだろ……」
「別に、気にしないで」詩音は静かに言い放った。「一人でなんとかなるし。それより、杉原さんの電球を替えるのにお忙しいのでしょ?」
晴臣の顔色が、さっと凍りついた。
彼は、3日前の夕方、演習を締めくくり帰宅しようとした時、杉原怜奈(すぎはら れな)が涙ながら自分を待ち伏せしていたことを思い出したのだ。
その時、怜奈は部屋の電球が切れて暗いから怖い、替えてほしいと縋り付いたのだ。
何度も断ったが、怜奈が泣きじゃくるので、なんとかして早く終わらせて追い払いたかったから、つい引き受けてしまったのだ。
交換中に怜奈が足を滑らせて前に倒れ込み、あろうことか彼女の唇が、晴臣の下半身のデリケートな位置をかすめてしまったのだ。
そんな場面を、激痛で気を失いかけながら隣人に運ばれていく詩音が見ていたとは、彼にとって思いがけない展開だった。
「詩音、誤解しないでくれ」晴臣は喉を上下させながら、かすれた声で言った。「あいつがしつこく頼んできたから断れなかったんだ……安心しろ、次どんなことを頼まれても、たとえ命を理由に縋ってきても、もう二度とあいつとは関わらない!」
「そう」詩音は少しだけ唇を動かした。それ以上は何も言わなかった。
だがその眼差しは「それができるの?」と語っているようだった。
そんな目で見られて胸を刺されるような感覚を覚えた晴臣が言い訳をしようとした時、再び病室のドアが叩かれた。
「晴臣?そこにいるの?」怜奈の声だ。
晴臣の顔色が一気に曇り、扉を開けると、そこには案の定、青ざめた表情の怜奈が立っていた。
「まだ何か用?」晴臣はドアの隙間に立ちふさがって言った。「用もないのに顔を出すな、と伝えたはずだ」
そう言われ、怜奈はすぐさま目を赤くした。「用があるに決まってるでしょ!風邪で熱があるの。医者にも誰か付き添いが必要だと言われて……」
すると、詩音には、晴臣の瞳の中にわずかな不安の色が走ったのがはっきりと見えた。
しかし、すぐに彼はそれを押し殺して冷たく言った。「だから?」
「だから……」怜奈は涙をこぼした。「知ってるでしょ?私には頼れる人がいないの。私たちこれでも前は付き合っていたんじゃない?なんでそんな風に冷たくするのよ」
「怜奈!」晴臣は怒りで声を荒げた。「一体どこまで図々しいんだ?あの時別れを切り出したのはお前だろう?俺はもう詩音と結婚したんだ。今は彼女を一番大事に思っている。なのに、お前は事あるごとに近づいてきて!俺の生活をめちゃくちゃにしないと気が済まないのか!?」
その叱責は冷酷で、一言一言が刃のように冷たく、鋭かった。
顔を真っ白にしてよろめく怜奈を見て、晴臣は背を向けた。一方、怜奈は唇を震わせて、苦笑いを浮かべた。
「そう……分かった。もう私を構ってくれないってことね」彼女は震える声で言う。「私に消えてほしいなら……いっそ死んでやるわ!あなたがいなければ、どのみち生きていく価値なんてないんだから!」
そう言って、怜奈は死のうとして、駆け出してしまった。
「怜奈!」晴臣の顔色が変わり、とっさに追いかけてその腕を掴んだ。「やめろ、やけをおこすな!」
「離して!死なせてよ!」怜奈が叫んで抵抗する。
「やめろって言ってるだろう!」晴臣は彼女を引き戻し、観念したように目を閉じた。
「わかった」絞り出すような声。「診察の間だけ付き合ってやる。これが最後だ。これ以上付き纏うな!」
そう言って、晴臣は踵を返して病室に戻り、詩音のベッドのそばへ行った。
「詩音、あんな調子だからな……」彼は言い訳を探すように続けた。「何かあっても困るから、落ち着くまで少し様子を見てくる。お前は……一人でも大丈夫か?」
一方、そう聞かれた詩音は晴臣を見たが、その瞳からは感情の起伏が何一つ見られなかった。
「いいわ」彼女は言った。「行ってきて」
晴臣は呆然とした。
詩音が怒ったり、悲しんだり、詰問したり、泣き叫んだりするのを覚悟していたのに。
彼女は何もしなかった。
ただ淡々と「いいわ、行ってきて」と言っただけだ。
以前なら、自分が少し怜奈に構うなら、詩音はひどく心を痛めていたはずなのに。
だけど今、詩音からは悲しみの色一つ見えない。その冷静さに、彼はなぜか無性に不安を感じた。
言いようのない胸騒ぎが湧きあがった。
そういえば最近、詩音は自分に何かを頼むことが一切なくなっていた。
家の水漏れも一人で修理していたし、重い荷物も黙々と運んでいた。今回の入院も隠し通していたのだ。
詩音はもう……自分を必要としていないのかもしれない。
「詩音、あのな……」晴臣は言葉を探すが、出てこない。
そして、詩音はもう彼を見ていなかった。彼女は、サイドテーブルのコップに手を伸ばしたが、その拍子に傷口が引きつり、そのままベッドから落ちそうになった。
「詩音!」晴臣が慌てて駆け寄る。
「晴臣!」それと同時に入口で怜奈が弱々しく呻いた。「めまいがして……寒いの……お願い、診察室まで連れて行ってくれない?」
すると、晴臣の差し伸べた手が、空中で止まった。
一方、詩音の傷口から、じわりと温かい湿り気を感じた。おそらくまた傷が開いたのだろう。激痛を感じたが、彼女は表情を変えなかった。
「行って」詩音はさっきより穏やかな声で、晴臣に言った。「私は大丈夫」
あまりに平静な詩音の顔を見ながら、怜奈の苦しげな吐息が耳元で響き、晴臣は決心したかのように言った。
「じゃあ、お前は少し休んでて……看護師を呼んでくるから」晴臣はそう告げると、背を向けて怜奈に駆け寄り、彼女の肩を支えながら「行くぞ」と言った。
こうして、二人の足音が廊下の先へと消えていった。
それを見届けて、詩音はようやく痛みで眉を寄せ、ナースコールを押した。
すぐに、看護師が駆けつけ、テキパキと処置を始めた。
消毒液が傷口にしみて、詩音は唇を噛み締めながら、痛みに耐えた。
「ご主人はどうされたんですか?こんな大変な時に一人にして……傷が開いてしまってますよ」と看護師がつぶやく。
詩音は返事をせず、ただ天井を見つめていた。
晴臣は、愛していると言う。
だが、その愛情はいつだって怜奈を優先する。
晴臣は、怜奈を憎んでいると言う。
だがその行動は、文句を言いながらも結局は彼女のために妥協をしたり、彼女を気に掛けずにはいられないのだ。
では、自分の方はどうだろう?
おそらく自分の中で愛する気持ちは、とうに冷めてしまっているのだろう。
晴臣があからさまに偏った行動をとっても、もう胸を痛めることはなくなった。残されたのは、ただどうしようもない倦怠感だけだった。
それでいいのかもしれない。
心が痛まなくなれば、やっと晴臣から離れられる。
第2話
そう思っていると、処置を終えた看護師は床に散らばったガラスの破片を片付けると、安静をするように伝え、部屋を出た。
それから間もなく、病室のドアが再び叩かれた。
今度入ってきたのは、灰色のスーツに身を包んだ中年の男性だった。
「佐伯さんですね?」男性は低く落ち着いた声で言った。
詩音は上体を起こし、「はい、そうです」と答えた。
男性はベッドサイドに歩み寄ると、鞄から公印が押された書類を取り出し、手渡した。「おめでとうございます。申請いただいた件、厳正なる審査を経て正式に通過しました。今日からあなたは、国家機密暗号解読局の一員です」
詩音は書類を受け取った。その瞬間、ずっと胸にのしかかっていた大きな石が、ようやく外れたような気がした。
「ありがとうございます。必ずご期待に添えられるよう頑張ります!」
男性は頷き、口調を改めた。「ですが、うちの組織は特殊です。加入した時点で特定秘密保護法に基づき身元情報はすべて『特定秘密』扱いとなりますので、今後は婚姻関係も含め、あなたの社会存在性を証明するすべての情報が開示不可となることをご理解ください」
男性は一呼吸おくと、詩音の蒼白で穏やかな顔を見つめて続けた。「それで、ご主人におかれましても、今後は接触を制限されます。そのことについて彼は受け入れられるのでしょうか?もしかして……彼にとって少し……」
「過酷」という言葉を、男性は最後まで口にしなかった。
それを聞いて、詩音は顔を上げ、澄んだ瞳で男性を見た。「これについては伝えてあります。夫も……承知のはずですから」
だが、男性の表情にわずかな疑念が浮かんだ。
彼は事前に調べていた。晴臣は基地が誇る将来有望な隊長であり、詩音に対してもかなり良くしてきた。そんな彼は、妻が自分との接触を制限されるような任務に就くのを、本当に受け入れられるのだろうか?
だが、詩音の表情は至って平然としていて、嘘をついているようには見えず、男性の疑念も次第に消えていった。
おそらくは、晴臣はすごい覚悟の持ち主だから、妻が安保関連の仕事に身を捧げるのも心から応援できるのだろう。
「ご主人が、納得しているなら問題ありません。優秀な人材を迎えられることをこちらとして嬉しく思います。着任は月末です。その際、迎えを出しますので、今のうちに怪我を癒し、身の回りの整理を済ませておいてください」
「承知いたしました」と詩音は応えた。
それから、男性は守秘義務についていくつか念押しすると、足早に去っていった。
こうして、病室には再び詩音が一人だけ残された。彼女は書類を握りしめ、そっと目を閉じた。
本当は嘘をついた。
自分が国家機密暗号解読局へ入ることを、晴臣は何も知らない。
自分が彼から永遠に去ろうとしていることを、晴臣は何も知らずにいるのだ。
でも、晴臣が怜奈のことばかり気にしている様子を考えれば、自分という存在がいなくなったことに気づいても、ただ肩の荷が下りると思うだけだろう。そして……そのまま怜奈と結ばれるはずだ。
それならそれで、望む通りと言える。
5年前、自分も内輪の中で晴臣に想いを寄せる一人に過ぎなかった。
当時の晴臣には、付き合っている彼女がいた。それが怜奈だ。
怜奈はひどくあざとく、騒ぎを起こすことで有名だった。
晴臣が任務のため連絡を絶った時も、彼女は不安だからという理由だけで晴臣の所属機関まで押しかけ、任務の邪魔をしてしまうところだった。
訓練で疲れ切った晴臣に対しても、映画が見たいと言って電話一本で呼び出して、無理に夜通しで駆けつけてもらった。
そのようなことは絶えなかった。
それでも晴臣は自分の信念まで投げうっても、怜奈に愛情をこよなく注いでいた。
怜奈の願いはほぼ無条件で叶え、彼女の機嫌一つで晴臣はあらゆる手段でなだめようと必死だった。
そして怜奈が38回目の破局騒動を起こした時、あの大雪の日、怜奈は雪の中で冷ややかに言い放った。
「もし本気でやり直したいなら、ここに3日間立ったまま誠意を見せてよ。そしたらやり直してあげてもいいわよ」
そう言われた晴臣は反論もせず、誠意をみせるために寒空の下、3日間立ち続けた。氷点下の気温で彼の唇は紫に変わり、体は凍りつき、まさに雪に覆われてしまっていたのだった。
それから、3日目の晩、限界を迎えた晴臣は感覚のない足を引きずり、怜奈に会いに行った。
ところが、部屋の階段の下で、怜奈とその友人の楽しげな笑い声を聞いてしまった。
「怜奈ったら、さすがね!あの厳しい佐伯隊長を、まるで手駒のように従わせて、3日間立って誠意を見せてなんていう要求まで飲んでもらえるなんて!」
それに続いて、怜奈の得意気な声が響いた。「当然よ!晴臣に私を逆らおうなんて度胸、あるわけないでしょ?私が謝れと言えば跪いてだってくれるはずよ」
「まさか、あの佐伯隊長がそんなことする?」
「信じられないの?なら実際に見せつけてあげようか」そう言って、怜奈は誇らしげに言った。「彼はいつだって私のいいなりなの。私が大好きだから、仕方ないでしょ!」
そんな言葉を陰で立ち尽くしたまま聞いていた晴臣は、まるで全身が凍り付くような感覚に陥った。
確かに晴臣は怜奈のことを心から愛していた。だが、どれほど愛そうとそれでも自分なりの誇りがある。その尊厳をここまで踏みにじられることには耐えられなかった。
あの日を境に、晴臣は怜奈とよりを戻すのを止めた。
そして、その数日後、縁があって穏やかな性格の詩音と見合いし、すぐさまプロポーズした。
だが、詩音は分かっていた。晴臣が怜奈へのあてつけで自分を選んだことを。それでも詩音は晴臣が大好きだったから、少しずつでも冷え切った心を温められたらと思って、賭けに出たのだ。
結婚してからは、詩音は懸命に晴臣に尽くした。
気温が下がれば防寒着を用意したり、彼の帰りが遅い時は必ず明かりをつけて待っていた。それから、晴臣の胃腸に気遣った健康的な手作りの食事を用意した。
ただ、怜奈からの付き纏いが絶えず、晴臣も表向きは冷たく突き放していたが、それでも詩音にはわかっていた、彼は未だに怜奈を忘れずにいるのだ。
そしてある日、詩音と晴臣がボートデートに行った時のことだ。
湖の真ん中で風に煽られ、晴臣のボートに置いたジャケットが冷たい水中へ滑り落ちた。
彼は迷うことなく、冷たい湖へと飛び込んだ。
深く冷たい湖の中へ必死に潜っていく晴臣を見て、詩音は恐怖で血の気をなくしながら、彼を呼び続けた。
しばらくした後、ようやく戻ってきた晴臣は、ずぶ濡れのジャケットを固く握りしめていた。
そして戻って早々、震える手でジャケットの内側を焦るように探した。
やがて、その中からパウチされた一枚の写真を取り出し、安堵の表情を浮かべた。
写真に写っていたのは、怜奈の眩い笑顔だった。
一方、晴臣がジャケットを取り戻そうと飛び込んだ際、詩音がお参りをして彼のために祈願したお守りは虚しく湖底奥深くへと沈んでいったのに彼は気が付いていなかった。
彼にとって大事なのは怜奈の写真だけで、詩音がいかに思いを込めてあげたお守りであろうと、彼は全く気に留めていないのだ。
その瞬間、寒風の中にいた詩音の、晴臣を想い続けていた心も、氷水で洗われたように跡形もなく冷めきってしまった。
帰宅後、晴臣が最初に行ったのは、濡れた写真を修復するよう誰かに頼むことだった。
そして、詩音が最初に行ったのは、国家機密暗号解読局への加入を秘密裏に申請することだった。
晴臣が、自分を愛したりするようになることはない。
そして自分自身も、もうこれ以上待つことはしたくなかった。
第3話
それからの日々、詩音は一人で傷の療養した。
退院当日。詩音が荷物をまとめて一人で事務手続きを済ませ、病院から外に出たときのことだ。廊下の向こうから、晴臣が急ぎ足でやって来るのが見えた。
彼はいくぶんやつれた様子で、目の下には薄っすらと青い影がある。それでも、ぴしっとした制服姿で、背筋は真っすぐに伸びていた。
「詩音?退院するなら連絡してくれないと。迎えに来たのに」
詩音は手荷物を持ち直すと、晴臣が伸ばしかけた手をそれとなくかわした。
「大丈夫。自分一人でできるから」と、淡々と返す。
晴臣は眉をひそめた。「詩音、お前が強がりなのは知ってる。だけど俺はお前の夫だ。少しは頼ってくれよ。何でも自分一人で背負い込まないでくれ」
詩音は顔を上げて彼を見つめる。
頼る?
今までだって、頼ろうと思わなかったわけではない。
結婚1年目、40度の熱を出したあの日、ふらふらになりながら、駆けつけてほしい一心で晴臣の所属機関に電話した。「佐伯隊長なら、今杉原さんの誕生日のお祝いで不在です。何かあれば明日また」警備の隊員からそう言われ、言葉に詰まった。
2年目に父を亡くした時もそうだった。葬儀の準備に追われてボロボロの時、電話で晴臣の声が聞きたくてかけたのに、彼は任務中と嘘をつき、実際には気落ちしている怜奈とどこかへ遊びに行っていた。
3年目も、4年目も。そんなことが数えきれないほど続いた。
自分が晴臣を必要としている時、彼はいつも怜奈の側にいたのだ。
今さらそんなことを、詩音は口にする気力さえ湧かなかった。
「いつかあなたを頼る人はできるはずだから……」とただそう言って、そっと自分の手を引き抜いた。
だが、詩音が静かに放ったその言葉に晴臣はなぜかなんとも言いようのない胸騒ぎを感じたのだった。
さらに尋ねようとした晴臣を横目に、詩音は荷物を持って病院の正面ゲートへ足を進めた。
その華奢だが凛とした背中を見て、胸をかき乱すような焦燥感がまた湧きあがってきたようで、晴臣は感情を抑え込み、大股で詩音の後を追った。
二人は官舎へと帰宅した。
青ざめた詩音の顔色を見て、珍しく罪悪感に駆られたのか、晴臣は言った。「昼飯を作ってやる。退院したばかりだし、栄養をつけないとな」
それから、詩音が答える間もなく、隣室の大野幸子(おおの さちこ)が慌てて駆け込んできては、詩音の手をガシッと掴んだ。
「詩音ちゃん!やっと戻ってきたのね!ねえ、こないだ河川敷で溺れてた子を助けたでしょ?あの子が気を失った時に人工呼吸して、そのまま診療所まで抱えて運んだって、みんな見てたわよ!」
詩音は頷く。「ええ、確かにそうでした。それがどうかしたのですか?」
「大変なのよ!」幸子は腿を叩いて憤慨した様子で言った。
「その子、新しく着任した市川課長の息子さんなのよ!市川課長がね、多額の御礼とお金、さらには就職先まで用意しようとしてるの。なのに……
杉原さんがどこで嗅ぎつけたのか、市川課長のところへ行って自分が助けたって嘘をついたらしいのよ!お礼の品も金銭も、ちゃっかりあの女が全部受け取って、仕事のポストまで占領したって噂よ!」
幸子は怒りに声を震わせる。「なんて厚かましいんでしょ!詩音ちゃん、そんな馬鹿な真似をさせちゃだめよ!すぐに突き止めて、全部取り返してきなさい!」
詩音が口を開く前に、そばにいた晴臣の表情が急激に険しくなり、その目に激しい炎が宿った。
「怜奈が!?」晴臣は奥歯を噛み締め、怒りで目を燃やす。「あいつがそんなことをしたのか!」
そう言って、彼はそのまま強く詩音の手首を引いた。「行くぞ詩音、あいつを問い詰めよう。お前の功績を泥棒するなど、絶対に許さない!」
晴臣に手を引かれながら、怒りに歪む彼の横顔をぼんやりと見ていた詩音は内心少しも波風が立たなかった。
こうして公の場で自分の味方をするのは、自分が受けた被害を心底案じてのことか?それとも、怜奈がそんなにも卑しい手口を使ったという事実に、ただ耐えがたいだけなのか?
第4話
そう思いながら、二人が怜奈の住まいまで来ると、晴臣はそのままドアを押し開けた。
ちょうど、怜奈が部屋で、新しく買ったシャツを試着しようとしていて、二人の姿を見ると一瞬驚いたが、すぐにもとの様子に戻った。
「晴臣、どうしてここに?」
「怜奈!」晴臣は厳しく言い放った。「お前は市川課長の息子さんを助けたって嘘をついて、命の恩人の座を横取りしたのか?お礼の金や品物を受け取り、仕事の枠まで奪ったのか!?」
怜奈は一瞬表情を強張らせたが、すぐに太々しい態度に戻って言った。「そうよ、何が悪いの?」
彼女は一歩踏み出し、晴臣を上目遣いに見つめると、すぐに瞳を潤ませた。
「晴臣、私は最近劇団をクビになったの。今は安定した収入源の仕事がどうしても必要なのよ。あなたも前は私を大切にしてくれたじゃない?
願いはなんでも叶えてくれたし、私のためなら命だって惜しまなかったのに。なら、仕事の枠一つくらい譲ってくれたっていいじゃない?別れた手付金だと思ってくれればいいでしょ?」
「手付金だと?」晴臣はその言葉に突き刺されたような表情で、さらに怒りを露わにした。
「お前は俺の真心を踏みにじって、俺を道化にしたのだろう?詩音は俺と結婚してから、ずっと俺を支えてくれた。それは誰しもが認めることだ。俺にとって詩音こそが愛する人だ!なのに、お前はそんなことまでつけこんで、本当に胸糞がわるいよ!」
そう言いながら、晴臣は次第に口調を強めていった。「今すぐ市川課長の家に行ってすべてを白状しろ!金と品物を返し、詩音に仕事枠を返してやれ!さもなければ、こっちだって容赦しないぞ!」
晴臣の冷徹な言葉に、怜奈は真っ青になって涙を溢れさせた。
彼女は詩音を指差し、鋭い声で叫んだ。「容赦?晴臣、よくそんな口が利けるわね?あなたは私を愛してくれてたんじゃないの?生涯私だけを愛すって誓ったでしょ?なのに、この女のために私を貶すの?分かったわ……死んでやる!私がいなくなれば二人ともすっきりするんでしょ!」
そう言うと、怜奈は本当にベランダへ走り出すと、手すりによじ登り、まるで飛び降りるような姿勢をとった。
「怜奈!何をするんだ!降りろ!」晴臣は目を見開き、絶叫に近い声を上げながら駆け寄った。
一方、手すりに登り、今にも飛び降りそうな体勢を取った怜奈は泣きながら叫んだ。「来ないで!死なせてよ!」
下の階の人々も騒ぎに気づき、悲鳴が上がった。
それを見た晴臣は荒い息を吐き、額には青筋を浮かばせた。そして、怜奈をこれ以上刺激しないよう声のトーンを落として、手を伸ばした。「やめろ!無茶をするな。降りて話し合おう!」
「何を話せって言うの!」怜奈は涙を流した。「あなたはもう彼女しか思っていないんでしょ?もう私なんて、生きていたって意味がないの!」
そう言いながら、怜奈の体がぐらつき、まさに転落しかけた瞬間、晴臣は我を忘れて飛び込み、決死の覚悟で彼女の手首を掴み取った。
すると、怜奈の体の大部分は空中に投げ出され、晴臣が腕一本で支えている状態だった。
「離して!死なせてよ!」怜奈はもがいた。
「いい加減にしろ!しっかり掴まれ!」晴臣は吠えるように叫び、全身の力を使って引き寄せた。
その拍子、かつての任務で負った腕の傷がひらいたせいで、痛みと共に彼の制服の袖は瞬く間に血で赤く染まった。しかし、晴臣はそれでも手を緩めることなく、歯を食いしばって、冷や汗をかきながら必死に怜奈をすこしずつ引き上げた。
それを見た周囲もどよめいた。
ついに、晴臣はやっとの思いで渾身の力を振り絞り、怜奈を手すりの内側へと引き戻した。
だが、その倒れ込んだ勢いで晴臣はとっさに怜奈を庇おうとして、後頭部を突き出した水道管に強打し、大量な出血をしてしまったのだ。
一方、怜奈はそんな晴臣に構うことなく、相変わらず彼の上に覆いかぶさり、泣き叫びながら叩いた。「どうして私を放っておかないの?どうして助けたのよ!どうして!」
それから、間もなくして、サイレンを響かせて救急車が到着した。
詩音はその場に佇み、血だらけで意識を失った晴臣が担架に乗せられるのを見守っていたが、気持ちが揺らぐことはなかった。
詩音は病院に行きたくなかったが、周りの人々に強引に押され、救急車に乗せられてしまったのだった。
病院に着いてからはまたひと悶着だった。
診察費の支払い、事務手続き、晴臣の上司への連絡とすべてを終えた時、詩音は疲れ果てていた。
晴臣が運ばれた救急処置室の前まで行くと、看護師が駆け寄ってきた。「怜奈さんですよね?中の佐伯さんが意識の混濁したまま、ずっとあなたを呼んで心配しています。中で声をかけてあげてください。そうすれば彼も安心しますから」
そこへ、涙の跡を残しながらも身なりを整えた怜奈がやってきて言った。「看護師さん、人違いです。私こそが怜奈です」
そう言いながら、怜奈は得意げに詩音を横目に見て、そのまま救急処置室へと入っていった。
看護師は一瞬きょとんとしたが、気まずそうに詩音を見ながら言った。「あ……申し訳ありません。お世話をされているのを見て、奥さんかと勘違いしてしまって……」
だが、詩音は穏やかに首を振った。「気にしないでください。もうすぐ、そうでもなくなりますから」
第5話
そう言い放つと、詩音は看護師の驚いた顔を見ることなく、そのまま病院をあとにした。
その後2日間、詩音は官舎へ戻り、黙々と自分の荷物を片付け始めた。
彼女の持ち物は多くなかった。服が数枚と、本やノートだけ。晴臣との思い出の品には、指一本触れなかった。
そこへ、退院した晴臣が包帯の巻かれた手をかばい、青ざめたままドアを開けると、詩音が本棚を整理しているのが目に入ったので、彼は思わずきょとんとした。
「詩音、ただいま」低い声で、彼は様子を窺うように言った。
「おかえり」詩音は顔を上げることなく、いくつか海外の本を淡々と段ボールに詰めていった。
晴臣は詩音のそばへ歩み寄ったが、その感情の読めない横顔を見て、彼の胸に得体の知れない不安が込み上げてきた。
彼は言葉を選びながら口を開いた。
「この数日……家で何をしていたんだ?」
「片付けだよ」
「そうか……疲れただろ?」
「疲れてないわ」詩音は手に持っていた本を置き、まっすぐに晴臣を見た。「言いたいことがあるなら、はっきり言って」
あまりの単刀直入さに晴臣は戸惑い、沈黙のあとでこう続けた。「どうして病院に来なかったんだ?」
詩音は静かに彼を見つめたまま、少し黙ったあと、ゆっくりと口を開く。
「あなたが意識を失っている間、ずっと杉原さんの名前を呼んでいたから。彼女の方にいてほしいのかと思ったの」
晴臣の顔色が一瞬で変わる。「そんなことはない!誤解だ!意識が朦朧としていただけで、俺はお前しか思っていない!誓って怜奈とはもう一切関わらない。今回が本当に最後なんだ!」
必死に弁解する彼の言葉は、焦燥に駆られて支離滅裂になっていた。
それでも詩音はただ穏やかに晴臣を見つめたまま最後まで聞くと、静かにこう返した。「そう、分かったわ」
晴臣はその言葉に呆然と立ち尽くす。
長い静寂の後、彼はしぼり出すように言葉を繋いだ。「あとひとつ、相談したいことがあるんだ」
詩音は何も言わず、続きを促した。
「あの……怜奈がお前の功績を奪った件についてなんだけど」晴臣は言葉を選びながら続けた。「仕事は教育委員会でのポジションで、お前にあたえられたチャンスだと分かってる。でも……それを先に、怜奈に譲ってやってくれないか?」
そして、晴臣はすぐに言い訳を付け加えた。「あいつを助けるつもりはない。でも、仕事がないとあいつは生きていけないんだ。この間の自殺騒動でも思ったが……
あいつは少し極端なところがある。落ち着いた仕事を与えてやれば、もう俺たちを巻き込む理由もなくなるはずだ。お前の仕事ならまた別のところを確保するから、どうか了承してくれないか?」
いつものように、彼はまたしてももっともらしい理由を並べ、「傷つけて申し訳ない」、「後で必ず倍にして返すから」などというセリフを繰り返して、説得しようとしてきた。
それを聞いて、詩音は淡々とした表情のままだった。怒りも落胆もなく、まるで反応がないのだ。
彼女は軽く頷いた。「いいわよ、杉原さんにあげて」
すると、逆に晴臣は言葉に詰まった。無反応な詩音を見て、言いようのない焦燥感が彼に押し寄せた。
いつからだろう?詩音が変わってしまったのは。
以前の詩音は、自分に対して良すぎた。すべてが当たり前だと思っていたのだ。
深夜の帰宅時には温かい食事が用意され、服は丁寧にアイロンがけされ、欲しいと口にしたものをいつも覚えてくれて、用意しようとしてくれてた……
だが今、彼女のその激変ぶりは、誰の目にも明らかだった。
怜奈との関係がずっとハッキリしないから、詩音の心を傷つけてしまったのだろう。
そう思ってどうにか取り繕うと、彼は深く息を吸い、宥めるかのように言った。「詩音、すまない。年休をとったから、午後は湖上スケートにでも行こうか。ずっと行きたがっていただろ?」
「必要ないわ」
「行こうよ」晴臣は構わず詩音の手を取った。「俺と一緒に、お願いだから」
午後、結局二人はスケート場へやってきた。
それから、晴臣は詩音に対して特に優しく振る舞った。気遣い、見守り、彼はここぞとばかりに、詩音に渾身の気持ちを込めた。
一方、詩音の方はどこか上の空で、ただされるがままに従っているだけだった。
30分ほど滑った時、晴臣が唐突に足を止め、その視線は入り口にじっと向けられた。
詩音もつられてそちらを向いた。
怜奈が来ていたのだ。
薄手のコートに身を包んだ怜奈は、凍えそうな姿で小刻みに震えていた。
こちらに気づいた怜奈が、戸惑いながらも近づいてきた。
「晴臣、偶然ね」
第6話
そう声をかけられたが、晴臣は顔色を曇らせて、怜奈を無視した。
だが、怜奈は気にすることなく、自分から話し続けた。「家にずっといるのも退屈だし、ちょっと気分転換しようと思ってきたの。ねえ晴臣、覚えてる?前によくここで一緒に滑ったじゃない?あなたがいつも、私がペンギンみたいに下手だってからかったわよね……」
晴臣は言葉を遮り、冷たく言い放った。「そんな薄着でスケート場に来て、風邪でもひく気か?」
「だ、だって……手当を使い切っちゃって、厚手のコートを買うお金がなくて……」
晴臣は黙り込み、きつく唇を引き結んだ。
しばらくすると、突然彼は詩音に聞いた。「詩音、喉は渇いてないか?飲み物を買ってきてやる」
そして詩音の返事も待たずにして、晴臣は売店の方へと滑っていった。
その背中を眺めながら、怜奈はクスクスと笑うと、詩音に近づいてきて勝ち誇ったように言った。
「教えてあげようか。晴臣、飲み物なんて買いに行ったんじゃないわよ。私のために羽織を取りに行ったのよ。だから、詩音さん、あなたもいい加減夢から覚めたらどうなの?晴臣はずっと私しか思っていないんだから。あなたと結婚したのだって、ただの当て付けよ。
だって晴臣が以前、どれほど私を愛していたか知ってるでしょ?私ちょっとでも気がある様子をみせれば、晴臣はすぐにでも戻ってくるわ。あんたも傷が深くなるまえに、現実を見たほうがいいわね」
そう言って、怜奈は一気にまくし立て、詩音が悲しんだり怒ったり、少なくとも狼狽する様子を見せるんじゃないかと思った。
だが、詩音は穏やかな表情で怜奈を一度見ただけだった。その後、真っ白なリンクへ目を向けて、淡々と言った。「そう。よかったわね」
怜奈は手応えのないまま拍子抜けしてしまい、その苛立ちに顔をこわばらせた。
何かを言い返そうとしたその時、突然だった。
バキッ!
氷が割れる乾いた音が響き渡り、二人のすぐ近くから厚くて頑丈だったはずの湖面の氷がクモの巣状に亀裂が入り、急速に広がった。
「割れたぞ!逃げろ!」
「誰か助けて!」
周囲はパニックになり、叫び声が辺りを鳴り響いた。
ちょうど、亀裂の真上にいた怜奈と詩音の足元では氷が無残にも崩れ、悲鳴と共に、二人は氷の下の冷たい湖へ落ちてしまったのだ。
突き刺すような寒さが詩音を包み込む。泳げない彼女は慌てて足をばたつかせるが、冷たい水が容赦なく口と鼻に入り込み、窒息感と恐怖が彼女を捕らえた。
水を含んだ厚手のコートが重くのしかかり、体を深い湖底へと引きずり込んでいく。
必死に抗うが、体力が急速に奪われ、意識が遠のいていく。
朦朧とする中、遠くの方から晴臣の焦り狂った声が聞こえてきた。
冷たい水で目がしみる視界の中、晴臣が飛び込み、自分に向かって必死に泳いでくる姿が見えた。
だがその瞬間、詩音は晴臣の声を聞いた。それは今まで聞いたことのない、恐怖と焦燥に満ちた叫びだった――
「怜奈!怜奈!どこだ!」
晴臣はすごい勢いで泳ぎ、詩音の目の前を通り過ぎて、少し先でもがく怜奈の元へ一直線に向かった。
そして、彼は腕の怪我をも顧みず怜奈を抱きかかえると、力を振り絞って彼女を水面へ持ち上げ、岸へと運んでいった。
岸に上がると、息つく間もなく、持ってきたばかりの厚手の上着を震える怜奈に掛けてやり、これほどにない優しい声で語りかけた。「大丈夫だ、怜奈。大丈夫、怖がるな、俺がついてる……」
一方、二人の目と鼻の先で、詩音は少しずつ沈んでいった。冷たい湖の水が彼女の口、鼻、そして頭の上を完全に覆い尽くしていった。
……
再び、意識を取り戻したとき、詩音は自宅のベッドで寝かされていた。
厚手の布団を被せられ、暖炉の火が赤々と燃える部屋は温かかった。
枕元には充血した目をした晴臣が座っていた。詩音が目を開けると、彼はすぐさま顔を近寄ってきて、しゃがれた声で言った。「詩音!気がついたのか?体調はどうだ?どこか苦しいところはないか?」
そう言いながら、彼は詩音の額に触れようと手を伸ばした。
だが、詩音は顔を背け、その手を避けたので、晴臣の手は空中で固まってしまった。
すると、彼の顔に一瞬気まずさが過り、すぐに心配と申し訳なさへと変わった。「怒ってるのか?すまない、俺はお前を守れなかった。あの時、すごく混乱していて……探し回ったがお前を見つけるまで時間が掛かったんだよ。本当にすまない……」
晴臣は、あえて真っ先に怜奈を救った事実に触れず、「探し回るのに時間がかかったから」と言葉を濁した。
そんな言い訳を聞きながら、詩音はそっと目を閉じた。
もう疲れた。晴臣を問い詰める力すら残っていなかった。
「怒ってなんていないわ」と詩音はかすれた声で呟く。「ただ、少し疲れただけ。一人にさせて」
それを聞いて、晴臣は少し安堵した様子で、布団の端を直しながら答えた。「ああ、分かった。少し休むといい、ここで見守っててあげるから」
第7話
それからの数日間、晴臣は言葉通りずっと付き添ってあげてた。お茶を入れたり、家事を手伝ったりと、その姿は驚くほど献身的だった。
さらに、詩音の誕生日には自宅で小規模なパーティーまで開いてあげて、親しい同僚やその家族も招き、賑やかに祝ってあげてた。
彼が用意したプレゼントは、上質なウールのストールと、詩音がずっと欲しがっていたのになかなか手が出せなかった万年筆だった。
パーティーの最中、詩音の表情は終始穏やかで、礼儀正しく客をもてなしていた。
少し酒が回ったのか、管理官が感慨深げに晴臣の肩を叩いてこう言った。
「佐伯、あの人騒がせの元カノと別れて本当によかったな。あの女のせいで、君の未来は台無しにされるところだったよ。やはり今の奥さんみたいに穏やかで慎ましくて、心から君のことを支えている方がいいよ。
そういえば以前、君が任務で大けがをして意識不明になったとき、病院の輸血用の血が底をついたことがあっただろう。その時も、奥さんが誰にも言わずにこっそりと何度も献血して、貧血で倒れそうになったんだぞ……
これほどまでに心から愛してくれる女性は、そうそういない。せっかくお前も目が覚めたようだから、しっかり大切にして、奥さんと幸せになるんだぞ!」
それを聞いて、晴臣は呆然と立ち尽くし、信じられないという目で詩音を見つめた。
そんな事実は、詩音から一度も聞いたことがなかった。
詩音はただ微笑んで管理官に答えた。「もう過ぎたことです。まだ覚えてらしたんですね」
かつてはあんなにも情熱的に彼を愛し、命がけで献身的な愛を捧げてきたが、今となってはそのすべてが、まるで他人事のように聞こえるのだ。
あのときめきも心痛も、数え切れない絶望の中で、全てが消えていったのだ。
パーティーの途中、少し息抜きしようと詩音はトイレに行くふりをして外に出た。
冬の夜風は身に沁みるように冷たく、薄いニット一枚で回廊に立った彼女は、漆黒の空を見上げた。
すぐに後ろから足音が聞こえ、晴臣が上着を持って追いかけてきた。
「外は寒いのに、なんでそんな格好なんだ?」叱るような、でも愛情の詰まった口調で、晴臣は詩音にコートを羽織らせた。
詩音は服を整えて言った。「ありがとう」
「俺たちは夫婦だ。礼を言う必要なんてないさ」距離を置くような詩音の横顔を見て、晴臣の表情が曇った。
そして、何も言わずに屋内に戻ろうとした詩音を後ろから、晴臣はいきなり抱き着いたのだ。
彼は腕に有無を言わさない力を込めて抱きしめながら、詩音の耳元に熱い吐息を吹きかけた。
「詩音、やり直そう。お前を愛している。本当だ。お前だけを愛しているんだ」
それを聞いて、詩音の体はかすかに強張った。
「杉原さんを愛するよりも……私を愛してるの?」詩音は小さく声を上げた。まるですでに分かり切った答えを改めて確かめるかのように。
すると、晴臣の動きは明らかに固まった。
長い沈黙の後、彼は重苦しい声で答えた。「あいつとはもう過ぎたことだ。お前との未来こそが俺のすべてなんだ」
「そう」と、詩音は淡々と言った。
この反応の薄さに、晴臣は狼狽した。
彼は詩音の体を引き寄せ、無理やり顔を見合わせた。「信じてくれないのか?俺は本気だ!頼む、信じてくれよ、詩音」
そう言いながら、詩音の蒼ざめた唇を見て、何かに突き動かされたように、晴臣は顔を近づけキスを落とした。
予期せぬ行動に動揺した詩音は、反射的に彼の胸に手を当てて拒んだ。
その時だった。近くで何かが地面に落ちる音が響いた。
二人は顔を上げ、音のした方を見た。
そこにはいつの間にか立ち尽くしている怜奈の姿があった。彼女は顔を青ざめて、目を赤らめながら、手に持った贈り物らしき箱はその足元に落ちていた。
怜奈の大きな瞳から涙をボロボロとこぼれ落ち、彼女は震える声で叫んだ。
「晴臣……ずっと私だけを愛してるって……言ったじゃない?」
そう言い残して、彼女は泣きじゃくりながら走り去った。
「怜奈!」晴臣は顔色を変え、躊躇することなく詩音を突き放すと、怜奈の後を追って走っていった。
一方、その場に取り残された詩音は、迷いなく追いかけていく晴臣の背中をただ見つめて、少しも驚いた様子がなかった。
彼女はただポケットからハンカチを取り出し、今さっき晴臣に奪われた唇を、赤くヒリつくほど何度も擦った。
それから、パーティーは途中で解散し、客を送った後、詩音はようやくベッドに倒れ込んだ。
ところが休む暇もなく、晴臣の部下が焦った様子で駆け込んできた。「すみません、隊長が至急病院に来るよう仰っています!」
何が起きたか分からなかったが、詩音はそれでもついて行った。
それから、病院に着いて初めて状況が分かった。
走り去った怜奈が傷心のあまり道端で倒れ、搬送された病院で白血病が発覚し、骨髄移植をしなければ命が危ないという事態だという。
しかも、骨髄配当がうまくいったのが、こともあろうに晴臣だった。
それで、今は家族の同意がなければ手術できない状況らしい。
「詩音……」憔悴しきった様子の晴臣は、詩音の手を強く握った。
「怜奈とは何もない!ただ彼女の両親の死に際、最後に見捨てないでくれと託されたんだ。人道的な責任として無視できない。約束する、これが最後だ。その後は絶対に何があっても連絡も断つ!俺たち二人の未来のために、手術の許可をくれないか?」
晴臣の必死の願いを聞いても、詩音の心にさざ波ひとつ立つことはなかった。
何度目だろう?
言葉、保証、誓い。
そのたびに晴臣は怜奈のために健康をも差し出して、わが身を挺してきた。
職業柄、晴臣にとって骨髄提供は、今後の活動に支障が出るほどの重い決断であるはずだ。
なのに晴臣は、怜奈のためなら迷いすらしなかった。
そんな晴臣を見ながら、詩音はもう怒ることさえ無駄だと感じるようになった。
「あなたがそう選んだなら」詩音は晴臣の手を払い、ペンを取って同意書にサインした。「尊重するわ」
第8話
それを見て、晴臣は明らかにほっとして、すぐに医師に言った。「早く!手術の準備をお願いします!」
手術室に入る前、晴臣は詩音の手を握り、これまでになく真剣な眼差しで言った。「詩音、誓うよ。手術が終わったら、今度こそ二人でちゃんとやっていこう。怜奈のことは、これ以上関わらないつもりだから」
それから、晴臣が手術室に運ばれていき、手術中のランプが点灯するのを、詩音はただ見つめていた。
思い返せば、さっき晴臣が言った台詞は、飽き飽きするほど何度も聞かされてきた。
こうして、詩音は外で待つこともなく、背を向けて病院をあとにし、冷え切った我が家へと戻った。
帰宅してまもなく、リビングの電話が急かされるように鳴り出した。
詩音は受話器を取った。
電話の主は、暗号解読局の課長だった。「佐伯さん、1時間後に迎えに行く。準備はいいか?」
詩音は受話器を握りしめ、自分が6年過ごしたが、決して自分の居場所とは感じられなかった部屋を見渡した。
「はい」と彼女は力強くハッキリとした声で答えた。「いつでも出発できます」
電話を切ると、すでに荷造りの済んだトランクを提げ、扉を閉めて振り返ることなく彼女は部屋を出た。
夜気は重く、冷たい風が吹き荒れていた。
詩音は闇の中へと消えていき、一度も振り向くことはなかった。
一方、手術は無事に終わった。
晴臣が目を覚ました時、麻酔がまだ抜けきらない朦朧とした意識の中で、ふと隣を見た。そこには見慣れた詩音の姿があって、彼女は温かい飲み物を用意したりタオルを持ったりして、自分の目覚めを待っているはずだと思った。
しかし、そこには誰もいなかった。
すると、晴臣は思わずドキッとした。
それでもすぐに「彼女は怒って先に家に帰ったのだろう」と思い直した。
彼も今回の手術は、さすがに少し自分勝手すぎたと自覚していた。
でも詩音は自分を愛しているから、きっと今に理解してくれるはずだ。
しかし予想外なことに、その後1週間、詩音は一度も病室に顔を見せなかった。
心に不安がよぎるが、「退院したら謝って、倍以上に優しくしよう。そうすれば戻ってきてくれる」と晴臣は自分に言い聞かせた。だって、これから先、二人には共に過ごす未来があるから。
1週間後、ついに退院が許可された後、晴臣はまず、隣の病室へ怜奈の様子を見に行った。
彼女はすでに目を覚ましていて、容態も落ち着いていた。そして、晴臣を見るとまた彼女は涙を浮かべ、手を握ろうと差し出してきた。
しかし、晴臣は一歩下がった。「しっかり病気を治せ。治療費はすでに支払ってある」
そう告げると、怜奈の返事を待たずに部屋を後にした。
病院を出ると、彼はデパートへ足を運び、以前詩音が欲しがっていた服と、好物のお菓子を買って帰宅した。
この時晴臣はまだ、どうやって詩音のご機嫌を取ろうかと思案していた。
今度こそとことんへりくだって、いくら叩かれようと、罵られようと、彼女の気が済むまで好きにさせてあげよう。
そう考えながら、官舎に戻り、期待を胸に扉を開けたが、中はがらんとしていて人影すらなかった。
その瞬間、晴臣の微笑みは凍りついた。すると、ちょうど買い物帰りの隣の幸子と出くわした。晴臣は駆け寄り、幸子の腕をつかんだ。「大野さん、詩音を見ませんでしたか?どこへ行ったか分かりませんか?」
「あら佐伯隊長?ちょうどお話ししようと思っていたところですよ。詩音ちゃん、何日も見かけないし、ドアもずっと鍵をかけられたままです。誰に聞いても姿を見た人はいないのですよ!」
それを聞いて、晴臣の胸はドキッとしたが、それでも彼は顔に出さないと、何とか落ち着きを装った。「友達を訪ねたのかもしれません。ちょっと聞いて回ってみます」
「友達?彼女にこの辺りで仲のいい友達なんていたでしょうか?佐伯隊長、余計なこと言いたくないけど、最近この辺りは怪しい人間が多いのですよ。若い女の人が次々消えてるのですよ!早く警察に行ったほうがいいでしょう!万が一のことがあったらどうするんですか!」
怪しい人間だと?
晴臣の眉間に深い皺が寄り、言いようのない不安が急速に膨らんでいく。
詩音には親も親友もいない。彼女がもし腹を立てて家を飛び出したなら、行くあてなどどこにある?
警察へ……それが一番早いかもしれない。
そう思うと、晴臣は手に持った荷物をドアの横に置いて、「分かりました、ちょっと行ってきます」と言って、大股で警察署へと向かった。
それから、彼は警察署で状況を説明すると、警察官から調書の記入をするように促された。
調書を提出した後、晴臣はベンチに腰を下ろし、無意識に指先で膝を叩いていた。
しばらくして、警察が出てきたが、その顔はどことなく困惑している。
「あの、本当に奥さんのお名前は『佐伯詩音』で間違いありませんか?」
「間違いありません」晴臣は立ち上がった。「どうかしましたか?」
警察官は調書を晴臣に返して言った。「戸籍記録、住民登録、ここ最近の移動履歴を調べましたが……奥様の名前にはアクセス制限が掛かっていましたので、検索不可となっています」
晴臣は唖然とした。「そんなはずはないです。俺たちは6年間も結婚している夫婦なんです。アクセス制限なんて、なにかの間違いじゃないですか?」
警察は首を横に振った。「間違いありません。全ての情報を照合した結果、あらゆるツールでアクセス制限がかかっています」
そこまで言って、警察官は一呼吸置き、同情に困惑を混じった眼差しで晴臣を見つめた。「佐伯さん、奥さんは本当に一般市民でしょうか?これほどのアクセス制限は普通では考えられませんので」