愛の終わりは空虚だった

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愛の終わりは空虚だった

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翔悟の叔母が帰ってくる前夜、彼はこれまでになく静野をホテルへ連れて行った。 その夜、彼は彼女を極限の眩惑の中へと追い込み、完全に我を失...

Chương (1)

第1章

翔悟の叔母が帰ってくる前夜、彼はこれまでになく静野をホテルへ連れて行った。 その夜、彼は彼女を極限の眩惑の中へと追い込み、完全に我を失わせてしまった。 それは、翔悟にとってほとんど前例のないほどの激しさだった。 「翔悟、どうしたの......今夜、すごく激しい......」 終わった瞬間、静野は視線を上げる力すら残っていなかった。 「別に。休んでろ、一服してくる」 彼は椅子に掛けてあった上着を無造作に手に取り、バルコニーへ出て煙草に火をつけた。 その物寂しい背中を見つめながら、静野は思わず抱きしめに行きたくなる。 だが近づこうとしたその時、彼がビデオ通話をかけているのが目に入った。 ――その一本の電話で、彼女は気づいてしまう。 彼がずっと愛していたのは、自分より10歳も年上のあの女性だったのだと。 そして、この数年、自分は彼にとってただの「慣れるための道具」に過ぎなかったのだと。 第1話 結城翔悟(ゆうき しょうご)の叔母が帰ってくる前夜、彼はこれまでになく砂川静野(すながわ しずの)をラブホテルへ連れて行った。 その夜、二人はあらゆる体位や道具を試し尽くした。 最後の一度、静野の指先は男の引き締まった背中に深く食い込んでいた。 彼の巧みな技に、彼女は極限の眩暈の中で完全に我を失ってしまう。 それは翔悟にとって最も狂った一夜ではなかったが、回数という意味では間違いなく最多だった。 まるでこの一晩で、これまでのすべてを復習しようとしているかのように...... 「翔悟、どうしたの......今夜、すごく激しい......」 彼が身体を離したとき、静野はもう視線を上げる力すら残っていなかった。 「別に。休んでろ、一服してくる」 彼は椅子に掛けてあった上着を無造作に手に取り、バルコニーへ出て煙草に火をつけた。 その物寂しい背中を見つめながら、静野は思わず抱きしめに行きたくなる。 だが近づこうとしたその時、彼がビデオ通話をかけているのが目に入った。 通話がつながると、画面に映ったのは、セクシーな赤いドレスをまとった女性だった。 彼女は空港のVIPラウンジに座り、手にワイングラスを持ち、全身から優雅で知的な雰囲気を漂わせている。 「翔悟くん、こんな遅い時間におばに電話?あの可愛い彼女とは一緒じゃないの?」 静野は、この女性のことを翔悟から聞いたことがあった。 彼より10歳年上で、母親の友人。 しかも小さい頃によく面倒を見てもらっていたせいで、彼は彼女を今でも「おばさん」と呼んでいる。 だが実際のところ、その女性はとても若々しく、美しかった。 翔悟は煙草に火をつけ、薄い唇から煙の輪を吐き出してから、低い声で言った。 「おばさん、この3年で俺はちゃんと成長したんだ。ベッドの上でももう大人の男になる自信がある。だから一度だけチャンスをくれない?もう昔みたいな子ども扱いはやめてくれ。俺があんたを本気で想ってるって、わかってるだろ」 「バカね、何を言ってるの。もうすぐ結婚する人がそんなこと言わないの。彼女が拗ねちゃうわよ。早く休みなさい、明日会いましょう」 通話はそこで切れたが、翔悟はその場から動かなかった。 そしてその背後で、静野は完全に凍りついていた。 全身の血が一瞬で冷え切り、呼吸をするたびに胸が痛む。 3年も一緒にいながら、彼が自分と付き合っていたのは、ただの練習相手としてだったなんて、考えたこともなかった。 今夜の一晩中の歓びさえも、あの女性に会うための準備に過ぎなかったのだろうか。 ――そう思った瞬間、吐き気が込み上げてくる。 彼女は慌てて口を押さえ、振り返って洗面所へ駆け込んだ。 激しく吐き続ける音に、翔悟も気づいた。 彼は煙草を揉み消して近づき、優しく彼女の背を撫でる。 「大丈夫か?」 その口調はいつも通りだったが、静野にはただ冷たく感じられた。 触れられることさえ、もう受け入れられない。 「用事があるの。先に帰る――」 「その前に、俺と一緒におばさんを迎えに行こう?彼女、今日夜が明ける時に帰るって言ってた」 翔悟は彼女に断る隙も与えず、そのままバスルームに入り、シャワーを浴び始めた。 シャワーを出すと、彼は静野に手を差し伸べる。 「一緒に入るか?」 目の前の整った顔を見つめながら、静野は胸が締めつけられ、息もできないほどだった。 「いい......私は......」 彼女の意思など意に介さず、彼は手を伸ばして彼女をバスルームへ引き込む。 熱い湯が全身を打つと同時に、彼の大きな手が落ち着きを失ったように動き出す。 静野はそれを拒むように彼の手を掴んだ。 「やめて、翔悟......もう疲れたの、したくない」 「もう疲れたの?今夜、満足できなかったのか?さっきは気持ちよさそうだったのに......」 彼は顔を寄せ、彼女の耳たぶに噛みつき、欲情を呼び覚まそうとした。 だが、静野の瞳には、もう微塵も欲望は残っていなかった。 逃れられないと悟り、彼女はただ彼に身を委ねた――最後の一度だけ、彼の衝動のままに。 第2話 空港。 二時間も待って、ようやく翔悟が口にしていた「おば」、豊島和歌奈(とよしま わかな)の姿が見えた。 彼女は静野の想像以上に若々しく、赤いベルベットのロングドレスをまとい、しなやかな曲線を描く体つきに、ブラウンの大きなウェーブヘアを耳の後ろに流している。 その姿はひときわ華やかで、歳月を重ねたからこその魅力も漂わせていた。 翔悟の姿を見つけると、彼女は腕を振って呼びかける。 「翔悟くん!」 翔悟は我を忘れたように、静野の手を離して駆け寄った。 女性はスーツケースを手放し、そのまま彼の胸に飛び込む。 彼も彼女を抱きとめ、その場で何度もくるくると回った。 「翔悟くん、大きくなったわね。すごく格好よくなった。私なんてもう歳よ」 翔悟は抑えきれない喜びをにじませて言う。 「おばさんこそ、全然老けてない。昔と同じくらい綺麗だ」 「もう、褒め上手なんだから。彼女さんのほうがきっと私よりずっと綺麗なんでしょ?」 「彼女なんて......おばさんの髪の一本すら敵わないよ」 「この子ったら、ますます甘いこと言うようになったわね」 二人は名残惜しそうに抱き合ったまま離れない。 その様子を見つめながら、静野は翔悟の瞳に浮かぶ優しさと愛情を見て、ふと笑ってしまった。 翔悟に恋をしたのは、雨の夜だった。 泥酔して雨の中に倒れていた彼を、通りかかった静野が助け起こしたのがきっかけだ。 目を覚ました彼は彼女に連絡先を求め、食事をご馳走したいと言った。 そうして何度か会ううちに、二人は自然と親しくなっていった。 彼はただの一般人だと思っていた。 だが実際、彼は結城グループの御曹司――あの結城翔悟だった。 まだ25歳で、すでにグループの後継者となっている。 外では常に冷たい態度を崩さない彼が、静野に対してだけは優しく、気遣いに満ちていた。 やがて再び会ったとき、彼は彼女に告白し、彼女もそれを受け入れた。 こうして二人は正式に付き合い始め、3年が過ぎた。 この3年間、翔悟は彼女にとても優しかった。 みかんの皮を剥くときでさえ、白い筋を丁寧に取り除くほどに――彼女が気にしないと言っても。 体にいいからと、朝はいつも、蜂蜜を半さじ入れた温かいミルクを差し出してくれた。 車に乗る前には、彼女が座りやすいようにシートの角度まで調整してくれる。 先月には、結婚しようと突然プロポーズまでした。 あまりの嬉しさに、彼女は何日も眠れなかった。 ようやく自分の幸せが訪れたのだと思っていた。 ――なのに今、自分は一体何なのだろう。 ただの笑いものじゃないか。 「この子が、翔悟くんの彼女?名前は......しずのさん、だったかしら?」 和歌奈は翔悟の腕から離れ、静野に歩み寄って自ら挨拶した。 「はじめまして、静野さん。私は翔悟くんの母の友人よ。彼と同じように『おばさん』って呼んでくれていいからね」 静野は彼女を見つめたまま、何も言わない。 その沈黙に、女性はわずかに気まずそうな表情を浮かべた。 翔悟が眉をひそめる。 「静野、おばさんが話しかけてるの、聞こえてるだろ?」 「うん。でも、そんなに若いのに『おばさん』なんて呼んだら、逆に年寄り扱いみたいじゃない。見た感じ、私たちと同じくらいにしか見えないし......知らない人が見たら、翔悟の彼女だと思うかもね」 「え?何か誤解してない?」 和歌奈は笑みを引きつらせながら、慌てて説明する。 「この子は昔からこういう呼び方が好きなのよ。前からよくハグもしてたし......あの頃は、私のほうから抱きしめてたくらいで――」 第3話 「もう疲れたの」 静野は二人を相手にする気にもなれず、そのまま背を向けて歩き出した。 翔悟が追いかけてくる。 「どこ行く。千裕たちが『緋色』でおばさんの歓迎会を開いてる。静野も来るんだ」 彼女は冷たく笑った。 「歓迎するのは彼女でしょ?私じゃないのに、なんで行かなきゃいけないの?」 「静野!今までずっと聞き分けがいいのにどうしてそんなことを言うんだ。 おばさんだって俺たちの結婚式に出るために仕事を置いて戻ってきたんだぞ。それなのにその態度は何だ!」 翔悟が静野に怒鳴ったのは、これが初めてだった。 彼女は彼を見つめる。涙が今にも溢れそうになった、そのとき―― 和歌奈がしなやかな足取りで歩み寄り、翔悟の腕に手を絡めた。 「そんな言い方しないで。女の子には優しくしなきゃ。 ね、静野さん、一緒に行きましょう?」 ―― 静野は半ば強引に駐車場まで連れて行かれた。 車に乗ろうとしたところで、翔悟は助手席のドアを開け、和歌奈を先に座らせる。 「おばさんは車酔いするから、静野は後ろに」 静野は何も言わず、そのまま後部座席へ回った。 どうせ、もうすぐ全部終わる――そう思えば、どうでもよかった。 「おばさん、ちょっと待って」 和歌奈が乗り込む前に、翔悟はわざわざシートの角度を調整した。 和歌奈は驚いたように笑う。 「こんなに時間が経ってるのに、まだ私の好み覚えてるのね」 翔悟の声は、やけに柔らかかった。 「当然だろ。おばさんの好きなものは、全部覚えてる。それと、好きなみかんも用意してあるよ」 彼は収納ボックスを開け、中から一番良さそうなみかんを取り出し、手慣れた様子で皮を剥き始めた。 和歌奈は甘えるように笑う。 「こんなことまで覚えてるの?あの白い筋、翔悟くんは毎回私のためにちゃんと取ってくれるのよね。本当に優しいんだから」 その光景を見て、静野はまるで冷水を浴びせられたようだった。 ずっと、自分にだけしてくれていることだと思っていた。 けれど、違った。 彼の優しさは、すべて偽物だったのだ。 この3年間、自分が感じてきた愛情は、一度たりとも自分のものではなかったのか。 涙が頬を伝う。 静野は唇を強く噛み、声を漏らさないように必死に堪えた。 そのとき、スマホが震える。 以前訪れたウェディングドレスショップの店長からだった。 何着ものドレスの写真が送られてくる。 【砂川様、以前ご覧になっていたドレスです。挙式ではどれをお選びになりますか?】 ――結婚式。 そういえば、自分と翔悟の挙式日程は、すでに決まっていた。 けれど今は、もう結婚する気にはなれない。 【結婚式はキャンセルするつもりなので、ドレスは不要です。今までありがとうございました】 「この子ったら、結婚するのにまだこんなに軽口ばかり!静野さんはいい子よ。ちゃんと大事にしなさい」 「おばさん、今回はどれくらいいるんだ?」 「どれくらい?翔悟くんの結婚式が終わったら帰るわよ。もしかしておばさんに会えなくなるの、寂しいの?」 前の席では、二人が軽口を叩き合いながらじゃれ合っている。 静野の存在など、まるで意識していないかのように。 彼女は何も言わず、ただ静かに翔悟の祖母――洋子(ようこ)の連絡先を開き、メッセージを送った。 【申し訳ありません、洋子さん。私、翔悟との結婚を取りやめたい】 次の瞬間、すぐに電話がかかってきた。 「どうしたの、静野ちゃん?どうして急に結婚を取りやめるなんて......翔悟は?あの子に代わりなさい」 「ごめんなさい、これは私の意思です。彼には聞かないでください。今は少し用事があるので、あとで直接お話しに伺います」 電話を切った直後、翔悟が振り返った。 「誰と電話してた?何を取りやめるって?」 「別に。大したことじゃないものを、取りやめるだけだから」 第4話 「そう。そうだ、おばさんが帰ってきてる間は、できるだけどこにも行かないで、そばにいてあげな」 「そんなに気が利くなら、ご褒美あげないとね。ほら、口開けて」 和歌奈は身を寄せ、みかんを一房、翔悟の口に運んだ。 唇がふと彼女の指先に触れる。 静野は、彼が名残惜しそうに唇をわずかに開き、まるでその指先に口づけしようとしているかのように見えた。 和歌奈も一瞬固まり、すぐに頬を赤らめる。 翔悟は彼女を見つめ、やわらかな声で言った。 「おばさんが食べさせてくれるみかん、すごく甘いよ」 女は軽く彼の肩を叩き、甘えるように耳元の髪をかき上げる。 「もう、何言ってるの、みかんは同じでしょ」 その瞬間、静野の胸の奥に、抑えきれない嫌悪感が湧き上がった。 あれほど愛していた男が、ここまで気持ち悪く感じるなんて――思いもしなかった。 ―― 幸い、ほどなくして「緋色」に到着した。 中に入ると、個室はすでに人でいっぱいだった。 翔悟と和歌奈の姿を見るや、皆が騒ぎ立て、罰ゲームだと酒を勧めてくる。 「久しぶり、和歌奈さん!やっと帰ってきたな!」 「和歌奈さん、遅刻だぞ!罰として酒な!」 「そうだそうだ、飲め飲め!」 周囲の煽りに乗せられ、ウイスキーのグラスが和歌奈の前に差し出された。 彼女は微笑み、あっさりと受け取る。 「わかった、罰なら受けるわ」 「ダメだ。おばさんは胃が弱いんだろ。酒は俺が飲む」 翔悟は彼女の手からグラスを奪い、そのまま一気にあおろうとする。 静野は思わず止めた。 「翔悟も胃痛、やっと治ったばかりでしょ。もう忘れたの?」 「一杯くらい平気だ」 彼はそのまま飲み干し、周囲はさらに盛り上がる。 「相変わらずいい格好しやがって!」 「3年経ってもまだ和歌奈さんのこと守ってるのかよ!」 「そういや3年前のこと覚えてるか?和歌奈さんが急に海外行ったとき、翔悟めちゃくちゃ落ち込んでさ、酔い潰れて大雨の中に飛び出して、俺らが止めても全然聞かなくて、そのあと――」 その先の言葉は、静野の耳にはもう届かなかった。 目の前の男の顔を見つめながら、意識が遠のくような感覚に襲われる。 3年前の、あの雨の夜。 彼があそこまで酔っていたのは――和歌奈が海外へ行ったから? 静野はふっと笑った。 出会いさえも、結局は和歌奈がきっかけだったのだ。 「なあ翔悟、和歌奈さんのこと、まさかまだ諦めてないんじゃないだろうな?」 話がどんどん行き過ぎるのを見て、和歌奈が慌てて止めに入る。 「その話はもうやめて、みんな。今回帰ってきたのは、翔悟くんの結婚があるからよ。休みを取って早めに戻ってきただけ。これ以上言うと、静野さんが嫌な気持ちになるでしょ?」 和歌奈が口に出さなければ、その場にいる誰も――翔悟ですら、静野の存在を忘れていたかもしれない。 一人が慌てて取り繕う。 「静野さん、今のは冗談だよ、いつもこういうノリなんだって!」 「誰だよ彼女連れてきたの。今日は身内だけの集まりなのに、これじゃ気軽に冗談も言えないじゃん」 「おい、声デカいって。静野さん、結婚おめでとうな!」 その場しのぎの言葉を浴びせられても、静野は何も言わなかった。 ただそこに立ち尽くし、胸の奥が締めつけられるように痛む。 「座ろう」 彼女の様子に気づいたのか、翔悟が手を取ってソファへ連れて行こうとする。 だが彼女はその手を振り払い、無理に笑みを作った。 「ごめん、ちょっとトイレ」 第5話 洗面所のドアを押し開け、静野は中へ入ると蛇口をひねり、顔を洗った。 刺すような冷たさが全身を駆け巡った瞬間、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻す。 顔を上げたとき、鏡の中にもう一人の姿が映り込んだ。 ――和歌奈だった。 「大丈夫?」 彼女は微笑みながらハンカチを差し出す。 「どうぞ」 「ありがとうございます、でも結構です」 静野は受け取らず、冷たい視線のまま彼女を避けて通り過ぎようとする。 すると背後から、女の声がふいに響いた。 「本当にごめんなさいね。3年も経ってるのに、翔悟くんがまだこんなに私のこと好きだなんて思わなかったわ」 静野は足を止めたが、振り返らない。 「何が言いたい?」 「別に。ただ......あなたたちが結婚した後も、あの子はこんなふうに私に夢中でいられるのかしらって、気になるだけよ」 その声には、かすかな挑発が滲んでいた。 静野はようやく確信する―― 自分の感じていた違和感は間違いではなかった。 この女は、見た目ほど単純じゃない。 そして翔悟に対して、明らかに好意を抱いている。 彼女は振り返り、低く言い放つ。 「あなたは、翔悟のこと好きですよね?」 「好きよ。若くて格好よくて、優しくて気が利く。好きにならない理由がある?」 和歌奈は肩をすくめ、続けた。 「でも、見てみたいの。あの子が私のために、どこまでできるのか。ねえ、もしあなたたちの結婚式で私に何かあったら......あの子は私を助けに来ると思う?それとも、そのままあなたと結婚するかしら?」 ようやく落ち着きかけていた感情が、その一言で一気にかき乱された。 静野は顔を上げ、胸の奥に溜まっていた怒りをぶつける。 「最低ですね、あなた」 パシッ。 言い終わるより早く、和歌奈の手が振り上げられ、頬に平手打ちが叩き込まれた。 「よくもそんな口が利けるわね?翔悟くんが選んだのはこんな女? 言っておくけど、私から男を奪おうなんて思わないことね。あの子とは10歳のときからの付き合いなの。あなたなんて、何様のつもり?」 突然の一撃に静野はよろめいたが、黙ってやられるつもりはなかった。 足元にあった汚水の入ったバケツを掴み、そのまま女にぶちまける。 「きゃあっ!!」 和歌奈は普段から身なりに気を使い、潔癖気味ですらある。 そんな彼女に、トイレ掃除の汚水が頭から浴びせられた。 取り乱し、叫び、怒り狂う姿を見て、静野は冷ややかに笑う。 「ごめんなさいね。私、見た目ほど大人しくないの。あと、残念だけど、私はもう翔悟と結婚しないわ」 「あなた――」 和歌奈が飛びかかろうとした、その瞬間。 背後で物音が響いた。 洗面所のドアが「バンッ」と激しく開かれ、翔悟が数人を引き連れて飛び込んでくる。 「何があった?」 びしょ濡れの和歌奈を見た瞬間、彼の表情が一変した。 「誰がやった?」 汚れたバケツは、まだ静野の手に握られている。 問い詰める視線を受けながら、彼女は冷たく答えた。 「私よ。彼女に平手打ちされたから、こっちは汚水をかけただけ。これでおあいこでしょ」 「翔悟くん......」 和歌奈はゆっくりと顔を上げ、涙をにじませる。 「見たでしょ......みんな、私たちが会うの嫌がってるのよ。あなたのお母さんも、おばあさんも、それに彼女も......ちゃんと説明したの、私たちは何の関係もないって。でも信じてくれなくて、こんなことまで......」 男は彼女の苦しげな表情を見つめると、すぐに上着を脱ぎ、そっと肩にかけた。 そして手を伸ばし、優しく彼女の涙を拭う。 「おばさん、安心して。俺が、ちゃんとけじめをつけさせるから」 そう言い終えるや否や、彼はもう一つの汚水の入ったバケツを手に取り――静野の頭上から、そのままぶちまけた。 第6話 冷たい汚水が一気に降り注ぎ、襟元から流れ込み、全身の隅々まで濡らしていく。 冷たい――けれど、その冷たさは、彼女の心には到底及ばなかった。 「もうすぐ俺の妻になるからって、おばさんに手を出していいと思うな。次があったら、水なんかじゃ済まさないぞ」 男の警告を前に、彼女はゆっくりと顔を上げる。 その瞳は、凍りつくように冷えていた。 「彼女のために......私にこんなことをするの?」 彼は答えなかった。 そのまま身をかがめ、和歌奈を抱き上げて歩き出す。 「おばさん、安心して。家まで送るから」 すれ違いざま、彼はちらりと彼女を一瞥した。 その無情で遠い眼差しに、静野の胸は一瞬で締めつけられる。 痛みはさらに深く、重く広がっていった。 「静野さん、大丈夫か?翔悟もわざとじゃないんだ。あいつ、昔からそうなんだよ。和歌奈さんに何かあると、見境がなくなる。たぶん家に帰ったら、もう忘れてるさ」 翔悟の友人が彼女を慰める。 その目には、同情の色が浮かんでいた。 「そうそう。次はもう和歌奈さんに手を出さないでよ。あの人は翔悟にとって特別なんだ。誰にも触れさせない存在。これからは気をつけたほうがいい」 静野は深く息を吸い、顔を上げて彼らを見た。 「どうして翔悟は、あんなに彼女を大事にするの? そういえばあなたたちは『さん』って呼ぶのに、どうして彼だけ『おばさん』?」 「若いからだよ。『おばさん』なんて呼び方、どうしても違和感あるだろ?でも確か......翔悟も最初は俺たちと同じ呼び方をしたがってたっけ。けど和歌奈さんが『私は翔悟の母親の友達なんだから、ちゃんとおばさんって呼びなさい』ってさ。 多分和歌奈さんは、呼び方を通じて世代とか立場とかの違いを強調したかったんじゃないのかな。 それとあいつがあんなに大事にしてる理由だけど......母親が早くに亡くなってさ。その頃、和歌奈さんは隣に住んでいて、よく家に来て面倒見てくれてたんだ。あいつの一番つらい時期を、一緒に乗り越えたのが彼女なんだよ...... 翔悟、昔は本気で和歌奈さんのこと好きだったな。それが結城のばあさんに知られて、大騒ぎになってさ。彼女が海外に行ったあと、あいつはボロボロだった。 そのあとで静野さんに会ったから、やっと吹っ切れたのかと思ってたんだけどな」 「その話はもういいだろ」 誰かが話を遮る。 「静野さん、とにかく早く帰って着替えたほうがいい。風邪ひくぞ」 ―― 静野が外に出ると、土砂降りの雨が降っていた。 タクシーを捕まえようとするが、ずぶ濡れで惨めな姿を見てか、一台も止まってくれない。 歩いて帰るには遠すぎる。 仕方なく、彼女は翔悟に電話をかけた。 「翔悟、迎えに来てくれない?私......」 「よくそんな顔で電話してこられるな。君のせいでおばさんは熱を出したんだぞ。自分で帰れ」 冷たい声。 そして通話はすぐに切れた。 暗くなっていく画面を見つめながら、静野は付き合い始めた頃のことを思い出す。 最初の一年。 雨の日になると、どこにいても彼女が連絡する前に、彼は必ず迎えに来てくれた。 「静野、俺たちは雨の日に出会ったんだ。だからこれから先、雨が降る日は全部、君と一緒にいたい。どこにいても、必ず迎えに行くよ」 ――なのに今は、これほどまでに冷たい。 彼女は連絡先を開き、洋子の番号を探し出した。 すぐに電話は繋がる。 「もしもし?静野ちゃん?やっと連絡くれたのね......」 「おばあさま......迎えに来ていただけませんか......?」 洋子の声を聞いた瞬間、静野は堪えきれず泣き出した。 この数年、洋子だけは本当に自分を大切にしてくれていたと、彼女は信じていた。 ...... 結城家の屋敷。 静野は着替えを済ませ、ソファに座って温かいお茶を飲みながら、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。 第7話 洋子は彼女の手を握り、やさしく言った。 「この件は、翔悟が申し訳ないことをした。でも、信じてほしいの。あの子は本当にあなたのことが好きなのよ。わざと傷つけたわけじゃないの。自分の気持ちにまだ気づいていないだけだから......もう少し、彼に時間をあげてくれない?」 静野は問いかける。 「おばあさまも知ってるんですよね。あの人が豊島さんのことを好きだって」 「好きなんてそんなものじゃないわ」 洋子はため息をついた。 「あれは、男の子が年上の女性に抱く、未熟で曖昧な感情にすぎないの。本物の愛というものを理解していないから、あなたを傷つけてしまうのよ。 結婚式まで、あと5日よ。あと5日だけ、あの子に時間をあげてくれない?もしその5日で変わらなかったら、婚約を解消すると約束するわ。 そのあとは......静野ちゃん、前から留学したいって言ってたでしょう?私が送り出してあげる」 「でも......」 静野は断ろうとした。 たった一日で、もう完全に失望していたから。 この先の5日間で、何が起こるかも分からない。 「おばあさんのためにも、あなたたちのためにも、お願い」 その慈しみに満ちた顔を見て、静野は結局うなずいた。 「......分かりました。5日、ですね」 「よかった。じゃあ今日はもう休みなさい。明日の朝、車を出させて送らせるわ。あの子と、ちゃんと話し合うのよ」 ―― 翌日。 静野が家に送り届けられたとき、ふとスマホを見下ろした。 一晩のあいだに、翔悟からの連絡は一通もない。 和歌奈と一緒にいるせいで、自分の存在なんて忘れているのだろう。 深く息を吸い込み、彼女は足を踏み入れた。 リビングに二人の姿はなかった。 気に留めることもなく、そのまま二階へ上がろうとする。 客室の前を通りかかったとき――ドアの隙間から中が見えた。 ベッドに横たわる和歌奈。 その傍らで、身をかがめて薬を飲ませている翔悟。 「翔悟くん、覚えてる?あなたが15歳のときも、こうやって薬を飲ませてあげたわよね」 「ああ、覚えてる。和歌奈、あんたがしてくれたことは、全部忘れない」 翔悟は彼女の手を取り、目いっぱいの愛情を込めて見つめる。 「あんたがいなかったら、俺はとっくに死んでた......」 「そんなこと言わないの。もうすぐ結婚する人が」 和歌奈は弱々しく彼の口を押さえる。 「それに、私のこと『おばさん』って呼ぶんじゃなかったの?」 彼はその手を握り返した。 「和歌奈って呼びたいんだ。今回、どれくらいこっちにいる予定なんだ?」 「あなたの結婚式が終わったら帰るつもりよ」 「そんなに早く?」 「翔悟くん、昔からそう。機嫌が悪いとすぐ眉を寄せる。これからは、もうそばでその顔をほぐしてあげられないのね......」 「行かないでくれ、和歌奈!」 翔悟は突然感情を爆発させ、彼女に覆いかぶさるようにして唇を奪った。 女は拒むように身をよじる。 「翔悟くん......だめ......やめて......」 和歌奈がふと目を上げる。 その視線は、ドアの前に立つ静野を捉えていた。 彼女は眉をわずかに上げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。 その光景を見た静野は、冷笑を浮かべたまま、ドアを勢いよく押し開けた。 「何してるの?」 声を聞いた瞬間、翔悟は慌てて女を突き放す。 「静野......俺は......」 「ち、違うの静野さん、誤解しないで。翔悟くんは酔ってたの、それで......」 唇の乱れた口紅を見つめながら、静野は笑った。 「酔ってた?朝からお酒でも飲んでたの?ねえ、翔悟」 そしてそのまま、まっすぐ彼を見据える。 「彼女のことが好きなんでしょ?私と結婚したくないんでしょ?」 第8話 彼女の立て続けの問いに対し、彼は厚顔無恥にもこう答えた。 「いや違う。俺が好きなのは静野だし、結婚したいのも静野だけだ。さっきのはただの勢いっていうか......とにかく許してくれないか?もう二度としないって誓うから!」 そう言うと、翔悟はその場で膝をついた。 目元はすぐに赤く染まる。 まさか自分に跪いて謝るとは思わず、静野の心はわずかに揺らいだ。 「......もし、また同じことをしたら?」 「そのときは......一生静野に会えなくてもいい!」 静野はうなずいた。 「そこまで言うなら許してあげる。ただし今日の言葉、忘れないで」 ――もしまた裏切ったら、自分から消える。二度と戻らない。 その後の二日間、翔悟は本当に彼女に優しくした。 何もかも彼女の望む通りにし、何度もサプライズを用意してくる。 和歌奈のことも、ほとんど会いに行こうとしなかった。 静野は、彼が本当に改心したのだと思い始めていた。 自分と結婚し、穏やかな生活を築こうとしているのだと。 ――結婚式前日までは。 その日、静野は突然ひどい吐き気に襲われた。 検査してみると、自分が妊娠していることに気づく。 その知らせを、どうしてもすぐに翔悟に伝えたくなった。 階下に降りると、翔悟はエプロンをつけ、キッチンで夕食を作っていた。 ここ数日、彼は毎日自ら料理をしていた。 どれも彼女の好物ではなかったが、「君のために作った」と言われれば、彼女はすべて口にしていた。 真剣な横顔を見つめながら、静野は後ろからそっと抱きつく。 「翔悟、サプライズがあるんだけど、いい?」 男は振り返る。 「どんなサプライズだ?」 「これ、見て」 妊娠検査薬を差し出すと、翔悟は信じられないというように彼女を見た。 「妊娠......?本当に?」 「うん......嬉しくないの?」 その表情の奥を読み取れず、彼女はわずかに不安になる。 「嬉しくないわけないだろ。この子は俺たちの子どもだ。 それに明日には結婚式だ。こんなタイミングで授かるなんて、最高じゃないか!父親になるんだぞ、嬉しくないわけがない」 彼は静かに彼女を抱きしめ、その腹部に手を添えた。 だがそのとき、彼の瞳の奥に一瞬だけよぎった冷酷さに、彼女は気づかなかった。 その夜、翔悟は自ら温かいミルクを持ってきた。 飲み終えると、静野はすぐに眠気に襲われる。 意識が朦朧とする中、耳元で誰かの泣き声が聞こえた。 「翔悟くん、おめでとう。明日は結婚式ね。もうすぐパパにもなるのね......私は式が終わったら帰るわ。これで、あなたと私は完全に終わり、もう二度と関わることもないでしょう......お幸せに」 ――和歌奈の声だった。 「和歌奈、もし俺が、あんたのためなら何でもするって言ったら......信じるか?」 翔悟は彼女を抱きしめ、深く愛情を込めて言う。 「静野はまだ若い。子どもなんて......またできる......」 そこまで聞いたところで、静野の意識は完全に途切れた。 次に目を覚ましたとき、彼女は病院にいた。 消毒薬の匂いが鼻を突き、白い天井がまぶしくて目を開けていられない。 身体を動かし、誰かを呼ぼうとしたとき、翔悟が誰かと電話で話している声が聞こえてきた。 「翔悟、お前......やりすぎだろ」 彼の声は、驚くほど冷静だった。 「和歌奈が戻ってきたのは、俺が結婚するからだ。結婚が終われば、あいつはまた行ってしまう。俺は......彼女を行かせたくない」 「じゃあ子どもはどうするんだ?お前の実の子だぞ。それを黙って流したなんて......静野が知ったらきっと......」 第9話 「タイミングが悪かっただけだ。あとでちゃんと償う。彼女とは結婚するし、『結城家の妻』という肩書きも与える」 「じゃあ和歌奈さんとは?このままずっとこの関係を続けるつもりか?」 翔悟は一瞬言葉に詰まり、それから続けた。 「彼女はもう俺を受け入れてる。もう付き合い始めてる。肩書きなんて気にしないって彼女が言ってた。 それに、ばあさんだって絶対に和歌奈を認めないだろうから......だからこの形が一番いいんだ、誰にとっても」 ――ドン。 雷が耳元で炸裂したようだった。 静野の目から涙があふれ出す。 信じられないという思いで、少し離れた場所にいる男を見つめる。 ――今、何を言った? 自分たちの子どもを――堕ろした? それに和歌奈と、もう付き合い始めてる? 全身が震え止まらない。 指先は掌に食い込むほど握りしめられ、目は真っ赤に染まる。 胸が引き裂かれるように痛む。 あの女のために、本当にここまでするのか。 昨日まで、あんなに嬉しそうだったのに。 あんなに優しくて、子どもの誕生を楽しみにしていると言っていたのに。 たった一晩で、自分の腹の中から命を奪ったのか。 「翔悟――」 「目が覚めたか?」 彼女が起きたのを見ると、顔色の異変にも気づいたのか、翔悟はすぐに電話を切って歩み寄る。 「静野......子どもはもういない。今朝、急に出血して倒れたから、病院に運んだんだ。医者は、もうダメだったって......」 彼は彼女の手を強く握り、心底心配しているような表情を浮かべる。 「でも安心して。先はまだ長い。またいくらでも子どもはできる」 静野は何も言わず、ただ彼を見つめた。 その視線は刃のように冷たく、彼を突き刺す。 ――自分を馬鹿だと思っているのか。 こんな嘘までつくなんて。 「それと結婚式のことだけど、君の体調が戻ったら再開しよう。すでに連絡して、数日延期してある......お腹空いただろ?何か買ってくるよ」 それ以上視線を受け止められないのか、彼はそう言い残して足早に部屋を出て行った。 静野はそっと腹部に手を当てる。 ――そこには確かに命があったが、もういない。 どうしてこんなにも愚かだったのか。 どうして、彼が変わると信じたのか。 どうして、彼が本気で自分と結婚しようとしていると信じたのか。 「あら、かわいそうに」 病室のドアが開き、和歌奈が腰をくねらせながら入ってきた。 「ごめんなさいね。まさか翔悟が私のためにここまでやるなんて。気の毒なことね。たった一つの命が、こんなふうに消えちゃうなんて」 「全部、あなたのせいよ......!」 静野はふらつく体を引きずりながら駆け寄り、その偽善に満ちた顔を引き裂こうとする。 だが、逆に強く突き飛ばされ、床に倒れ込んだ。 「その状態で、まだ私に逆らうの?」 和歌奈は冷たく見下ろす。 「言ったでしょ、あなたじゃ私には勝てないって。あの人とは何年一緒にいたと思ってるの?たった3年の分際で、何様のつもり?翔悟があなたと結婚するのは、私たちの関係を隠すためよ。最初から最後まで、あなたはただのカモフラージュなの」 彼女はかがみ込み、静野の顎を強く掴む。 「そうそう、まだ知らないこでしょう?翔悟、結婚式はしてあげるけど、籍は入れないの。だって、私たちはもう入籍してるもの。今朝、あなたが中絶手術を受けている間にね」 婚姻届を取り出した瞬間、静野の涙は堰を切ったように溢れ出した。 ――自分は一体、何をしたというのか。 どうしてここまで踏みにじられなければならないのか。 「この数日、翔悟が優しかったの、本気だと思ってたの?あれは全部、あなたをなだめるためよ。あの人が毎日作ってた料理、全部私の好物なの。あなたのためじゃないわよ。 それにね、あの人、毎晩あなたが寝たあと、こっそり私の部屋に来てたのよ」 その言葉を聞いた瞬間、静野は理性を失ったように、彼女に向かって拳を振り上げる。 「消えて......!今すぐ出ていって!」 第10話 和歌奈は反撃しようとしたが、視界の端にドアの外に立つ翔悟の姿が映ると、すぐに態度を変え、わざとらしく静野を支えにいった。 「ちょっと、何してるの?落ち着いて。あなた、さっき子どもを失ったばかりなのよ?そんなに興奮しちゃダメでしょう?」 「消えてって言ってるでしょ!気持ち悪い......あんたたち、全員気持ちが悪いよ!」 静野は手を振り上げ、再び和歌奈の頬を何度も強く叩いた。 「静野!」 ドアを押し開けて入ってきた翔悟は、その光景を見るなり激昂し、彼女に向かって思いきり平手打ちを浴びせた。 「何を騒いでいるんだ!言っただろ、和歌奈とはそういう関係じゃないって!それなのにまだ彼女に手を出すのか!?」 その一撃が、静野の心に残っていた最後の支えを完全に打ち砕いた。 彼女はその場に立ち尽くし、ただ呆然と目の前の男を見つめる。 もう何の反応もできなかった。 「きっとショックが大きいからよ......さっき子どもを失ったばかりだもの。翔悟、私は大丈夫だから、そんなに怒らないであげて」 和歌奈が取り繕うように言うと、翔悟もすぐに気を取り直し、声を和らげて彼女をなだめた。 「......ごめん、ちょっと言い過ぎた。でも言っただろ?もう彼女を叩くなって」 静野は何も答えず、ただ彼を見つめるだけだった。 その視線に、翔悟は一瞬胸を痛めたような表情を見せ、彼女を抱き上げてベッドに戻す。 「祖母にはもう話してある。3日後に退院したら、そのまま結婚しよう。この数日、俺は用事あるから来てやれないが、ゆっくり休め」 布団をかけ終えると、翔悟は和歌奈を連れて部屋を出ていった。 去り際、和歌奈は振り返り、挑発するような視線を静野に向ける。 涙が頬を伝い落ちる。 静野は体を起こし、スマホを手に取って洋子に電話をかけた。 「おばあさま......もう3日です。私はもう、翔悟と結婚したくない......以前おっしゃっていた留学の件、まだ有効でしょうか」 「どういうこと?翔悟からは仲直りしたと聞いていたけれど......」 「彼はあの女のために、私の子どもを奪いました。もう許せません。だからおばあさま......どうか、私を助けてください」 「なんてことを......!泣かないで、静野ちゃん。結婚は取り消すわ。留学もすぐに手配する。もともと結婚後に行かせるつもりだったけど......今すぐ準備するから」 「明日、出発できますか?できるだけ早く行きたいんです」 「分かったわ。パスポートや必要な書類は、すぐに病院へ届けさせるから」 その夜、静野は一睡もできなかった。 スマホは鳴り続けていた。 翔悟からの着信やメッセージだろう。 だが、彼女は一切確認しなかった。 翌朝早く、洋子の手配した人が迎えに来た。 病院の入口に立つ静野のやつれた姿を見て、運転手は思わず声をかける。 「砂川様、お荷物はお持ちにならなくてよろしいのですか?」 「大丈夫です」 彼女は首を振った。 あの家に戻る気など、微塵もなかった。 「では、参りましょう。こちらがパスポートと書類になります」 車に乗る前、彼女はスマホを取り出し、そのまま病院の前のゴミ箱に投げ捨てた。 空港。 静野は搭乗ゲートに立ち、行き交う人々を一瞥することもなく、そのまま飛行機に乗り込む。 機体が滑走路を離れた瞬間、彼女は静かに目を閉じた。 「さようなら、翔悟。お望み通り、消えてやるわ」