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流産した私より教え子を選ぶ夫、さようなら
諏訪美優(すわ みゆ)が諏訪琉生(すわ るい)と結婚した年、琉生は市内の時代広場の大型ビジョンを貸し切り、3日間ずっと二人の馴れ初めを綴...
Chương (1)
第1章
諏訪美優(すわ みゆ)が諏訪琉生(すわ るい)と結婚した年、琉生は市内の時代広場の大型ビジョンを貸し切り、3日間ずっと二人の馴れ初めを綴ったシルエット映像を流し続けた。その時集まった999万ものお祝いのコメントが、美優にとっての「絶対に揺るがない愛の証」となったのだ。
しかし、その愛の証は、結婚5年目にして静かに崩れ去った。
この時美優はふらつく体を引きずり、産婦人科から帰宅した。そしてピアノのトロフィーが並ぶ壁を空虚な瞳で見つめながら、健診結果の用紙を握りしめたままの手をまだ下ろせずにいると、琉生から着信があった。
「ここんとこ、ピアノの練習で忙しいんだ。健診には一緒に行けないから、とりあえず家でゆっくり休んでいてくれ」
電話に出ると、琉生の穏やかな声が聞こえてきた。返事をする間もなく、通話はすぐに切れた。
しかし昨日、琉生の予定を確認していた。本来なら、練習など入っていないはずの時間だ。
美優がすぐにかけ直すと、相手の電源は切られていた。琉生にここまで拒絶され、生活に踏み込まれたくないのだと察し、彼女の胸はひどく痛んだ。
自分はただ、二人の子供が流産してしまったことを伝えたかっただけなのに。
美優は深く息を吸い込み、健診結果の用紙を写真に撮って琉生に送った。その後、アドレス帳からある番号を探し出して電話をかけた。
「離婚の手続きをお願い。もう、琉生とは別れるから。
子供は……もう亡くなったの。私にはもう、何も思い残すものはないから」
第1話
諏訪美優(すわ みゆ)が諏訪琉生(すわ るい)と結婚した年、琉生は市内の時代広場の大型ビジョンを貸し切り、3日間ずっと二人の馴れ初めを綴ったシルエット映像を流し続けた。その時集まった999万ものお祝いのコメントが、美優にとっての「絶対に揺るがない愛の証」となったのだ。
しかし、その愛の証は、結婚5年目にして静かに崩れ去った。
この時美優はふらつく体を引きずり、産婦人科から帰宅した。そしてピアノのトロフィーが並ぶ壁を空虚な瞳で見つめながら、健診結果の用紙を握りしめたままの手をまだ下ろせずにいると、琉生から着信があった。
「ここんとこ、ピアノの練習で忙しいんだ。健診には一緒に行けないから、とりあえず家でゆっくり休んでいてくれ」
美優が応答ボタンを押すと、穏やかな琉生の声が耳に届いたが、彼女が何かを聞き返すよりも先に、電話は切れた。
昨日確認したばかりだ。琉生にトレーニングの予定はなく、時間は空いているはずなのに。
美優がすぐにかけ直すと、相手の電源は切られていた。琉生にここまで拒絶され、生活に踏み込まれたくないのだと察し、彼女の胸はひどく痛んだ。
自分はただ、二人の子供が流産してしまったことを伝えたかっただけなのに。
美優は深く息を吸い込み、健診結果の用紙を写真に撮って琉生に送った。その後、アドレス帳からある番号を探し出して電話をかけた。
「離婚の手続きをお願い。もう、琉生とは別れるから。
子供は……もう亡くなったの。私にはもう、何も思い残すものはないから」
美優は健診結果の用紙から目をそらし、声を詰まらせて言った。「この結婚を続ける理由が、もうなくなったの」
すると電話の相手、美優の長年の友、内田洋子(うちだ ようこ)が悲痛な声で訴えた。
「美優、あなたは長年こんなにも琉生さんのために尽くしてきたのに。友達とも離れ離れになってこんな遠い街まで嫁いで、結婚してからも彼の生活ばかりを気にかけてきた。それに、琉生さんの持病を治すために安全性の高い薬を探すのだって一苦労したんだから。
あなたがこうして、みんなが羨むキャリアを捨ててまで、自分から専業主婦になってあげて、毎日食事や家事を全部背負って……それは見ていて私が、誰よりもよく知ってるわ!」と洋子はなんとも悔しくて堪らない様子だった。
そして洋子はさらに切なげに続けた。「あなたは琉生さんのためにここまで尽くしてきたわけだし。結婚した時だって、愛する人と結婚するから役所に駆け込むほどだったのに……あんなに幸せそうに愛し合ったあなたたちが、どうしてこうなってしまったの?」
一方、洋子の涙声を聞きながら、美優は胸に鋭い痛みを覚えた。喉が塞がったように苦しく、呼吸さえままならなくなった。
美優はしゃくり上げ、部屋を埋め尽くすトロフィーに目を落とした。結婚生活の5年が脳裏をよぎり、琉生との出来事が次々に蘇る。
琉生は若き天才ピアニストだ。30歳を待たずに大御所の名を冠し、整った顔立ちと上品な気品で、多くの少女を夢中にさせた。美優もその一人で、初めて見た瞬間から、琉生と人生を共にすると決めていた。
プロポーズの際、琉生は演奏ホールを貸し切り、美優のためだけに演奏してくれた。そのロマンティックなメロディに心奪われ、美優は未来への憧れでいっぱいだった。
そして入籍直前、琉生は美優に尋ねた。「本当にいいんだな?僕と家庭を築く覚悟は?」
その時、美優は恥じらって頷き、琉生を促した。「早くしないと、窓口が閉まっちゃう」
だが、結婚3日後、琉生はコンサートを優先して美優の両親への挨拶に来なかった。「芸術を第一に考え、聴衆を裏切るわけにはいかないから」と言い訳をして。
その日から、美優の我慢が始まった。琉生のために言い訳をし、親戚から何か言われても笑って流し、理想の妻であり続けようと努めていた。
あの時は、彼女は琉生をただ、仕事熱心な人なのだと思っていたのだ。
だが次第に記念日、お正月の挨拶、しまいには美優の祖母の臨終まで、全て「仕事」を理由に琉生は欠席するようになった。ついに美優は気づいたのだ、男が仕事にのめり込みすぎるのも、考えものだと。
祖母を看取った後、美優は外で何度も琉生のスマホを鳴らした。しかし冷たい呼び出し音が鳴り響くだけで、結局彼が電話に出ることは一度もなかった。
美優は諦めきれず何度もかけた。家族が一人、また一人と帰る中、繋がるはずのない電話をひたすらかけ続けた。だが結局、最後には電源オフのアナウンスが響くだけだった。
その瞬間、美優は「愛情」という毒薬を盛られたように、全身が凍えた。
後日、ようやく帰宅した琉生は美優の問い詰めに呆れ顔で言った。「僕の時間は貴重なんだ。無駄なことに使いたくない。演奏に集中させてくれ」
その言葉は、美優の心に雷のように打ち付けられた。喉まで出かかった怒りや悲しみは、胸の中に詰まり吐き出すことさえできなかった。
ふと、琉生にとってピアノがすべてで、それ以外は何も目に入らないのだということに、美優は気づいた。
冷戦状態が続いた後、妊娠というニュースで二人の状況は一時期だけ変わった。
あの一時だけは、琉生が変わったのかと思えた。彼もまた、家庭のために時間を作ろうとしているようだった。
しかし1週間もしないうちに琉生はまた以前に戻り、大喧嘩の末に家を出てしまった。そして、子供は流れてしまった。
母親の伊藤恵(いとう めぐみ)には離婚を勧められた。しかし美優は、結婚した年に琉生が街中の大型ビジョンを貸し切ってまで示してくれた、あの情熱的な愛の証がどうしても忘れられず、心を開ききれなかったのだ。流産はたまたま体が弱かったせいだと、恵に説明して頑なに拒んだのだ。
そして琉生が振り返ってくれるのを、美優はただ待ち続けていた。
こうして待っているうちに、長い5年の月日が流れた。
琉生の評判はうなぎ登りで、賞を取り、個人のスタジオまで構えた。テレビで彼は芸術論を語りながらも、家庭については「素人の妻」がいると言って話を流していた。おそらく琉生にとって、それは自らの価値を下げる話題だと思っただろう。
だって、琉生の世界では、ピアノこそがかけがえのないものなのだから。
そのために琉生は、情愛も家族さえも切り捨てることができる。
洋子の言葉を聞きながら、美優は気を取り直して言った。「いいの、全部自分が選んだ道だもの。もう十分よ。愛し尽くして、燃え尽きたの。
子供もいなくなったし、もう琉生に関係することもなくなったわ。洋子、離婚手続きを手伝って。私がいてもいなくても、彼の人生は何一つ変わらないのだから。私なんて、最初からその程度の存在だったのよ」
そう言うと、美優の目から雫がこぼれ落ち、健診結果の用紙にポツリと跡を残した。
これが、二人の間で授かった2人目の子だ。しかしわずか2ヶ月で、またしても流産してしまった。
洋子は数秒間沈黙してから、溜息をついて答えた。「わかったわ。すぐに準備を進めるから」
通話が終わると、美優はソファに倒れ込み、声を殺して泣き続けた。そして次第に泣き声は大きくなっていき、彼女は喉が枯れ果てるまで泣き続け、ようやく力の抜けた体を支えながら起き上がった。
視線の先には、準備していた机の角のガードと、整理もされなかった赤ちゃん用品が散乱していた。
全て、愛する琉生との子供を迎えるために、自分で準備したものだった。
妊娠を告げた時の琉生を思い出す。冷ややかな目線で、トレーニングを邪魔するなという態度だった。
子供は二人で育てるもののはずなのに、悲しんでいるのは自分だけだった。
多分子供もこんな愛のない場所になど、生まれたくなかったのだろう。
そう思って美優は胸の痛みを抑え、そっと健診結果の用紙を片付けた。
そして、スマホに届いたメールの通知音が、がらんとしたリビングに響き渡った。
第2話
【この度弊社の採用試験に合格されましたことをお知らせさせて頂きます。お仕事をご一緒にできることを心よりお待ちしております……】
それは、声優オーディションに合格したという通知だった。
通知を見た美優は、胸を詰まらせ、ただ呆然と立ち尽くしていた。
琉生との結婚以来、声優業からは遠ざかっていた。彼が「こういうのは趣味なら構わないが、本業にするのはやはり主婦としてあるまじき行為だ」と言っていたからだ。
だから、今回は彼女が5年ぶりの再挑戦で勝ち取った合格だった。しかも、業界でも名の通った声優事務所からのオファーだ。
乾いていた瞳から再び涙があふれ出した。それは、自分自身をようやく認められたという確かな実感が伴っていた。
琉生に否定され続けてきた夢が、別の形でその価値を証明されたようだ。
ここからが再出発だ。5年前の自分を取り戻し、今度こそ夢を叶える。
そう思って美優は涙を拭い、こみ上げる悔しさを抑え込みながら、すぐさま必要な書類をカバンに詰め込んだ。
そして入社に必要な書類を揃えると、郵送した。
書類を郵便局の職員に手渡すと、美優は深く息を吸い込んだ。
もう少しで自由になれるの。そう思うと張り詰めていた気持ちも、少しずつほどけていくように思えた。
それから、帰宅すると、リビングでピアノを弾く琉生の姿があった。美優は驚きのあまり、目を見開いた。
だって、彼は普段、この時間には決して家にいないからだ。
一方、一曲弾き終えた琉生は、美優の姿を見ると、病院の検診から帰ってきたとでも思ったのか、「そんなとこ突っ立ってないで、座って休みなよ」と淡々と言い放った。
一方美優はその思いがけない優しい言葉に驚いた。しかし、琉生は美優が動かないのを見て、自ら近づいて肩を支えようとしてきた。
彼女が彼の行動に困惑していると、その後の言葉で全てが明らかになった。
やはり、この優しさには別の目的があったのだ。
「凪がまたコンクールで優勝してさ。師匠として、祝うパーティーを開くべきだと思うんだ。傲慢にさせてはならないが、これまでの努力も讃えてやらないとな」琉生は美優を座らせると、矢継ぎ早に語り出した。
美優はきょとんとした。琉生があまりにも嬉しそうに話すものだから、彼女はすぐに反応できなかったのだ。
だが、琉生は美優の不快感には気づかず、さらに続けた。「凪はこれまで教えた中で一番の才能だよ。熱心だし、深夜まで練習を欠かさないで努力してきた。本当に稀に見る逸材だよ……」
そう言われ、美優はただ、琉生が愛弟子である武田凪(たけだ なぎ)を惜しみなく称えるのを聞いていた。
そしてそのありきたりの賛辞を、琉生の口から聞くとなんだかとても珍しく思えた。ああ、彼も人を褒めたりするものなんだな。
長年一緒に暮らしてきたが、「なかなかいいんじゃない?」以外で自分を褒めたことなど、一度たりともなかった。
いつもは無関心で冷たい態度ばかりだったのに、今の彼はそれと打って変わったような表情だ。
琉生の口にする「稀に見る逸材」とは、彼が出資して支援していた貧困学生の凪のことだった。その子は都会に出て成功を収め、今や琉生の弟子になった。美優は凪の家庭環境を哀れみ、琉生から最初に紹介された時に、この街で生活できるだけの金銭を援助したことさえあった。
しかし、金を受け取った凪は礼を言うどころか「これが当然」という態度を取り、さらに美優へ千万近い高級バッグを要求してきた。
その時美優は、琉生の前でいい妻というイメージを崩したくなくて友人を通じてバッグを贈ったのに、凪からは「こんな偽物で私を誤魔化すつもり?」と逆に詰め寄られたのだ。
それ以来、美優は凪のことには深く関わらないようにした。だが、凪は度々「演奏の相談」を口実に、琉生に距離を詰めてくるのだった。
そして琉生も、「才能があるから」と言って凪を厚遇していた。
一緒に食事をし、誕生日を祝い、凪が「気分が晴れない」と言えば旅行に連れ出すまでに至った。
美優が問いただすと、琉生は必ず決まった答えを返した。「凪は稀に見る逸材だ。才能のある人間に特別な配慮をするのは当然だろう?それにやきもちを焼くことなんてないだろ」
こうして、琉生は凪の誕生日ばかり覚えるようになり、逆に結婚記念日や美優の誕生日は忘れ去られていった。
そして、その度に朝まで待ち続け、テーブルいっぱいに用意した料理が冷めていき、美しい記念日のケーキが目の前で溶けていくのを見つめたまま、美優の期待に満ちた心は奈落の底へと落ちていくのだった。
そんな光景が脳裏をよぎり、彼女は思わず遮るように口を開いた。「お願い、もうそんな話はしないで。そんなお祝いなんてやるつもりないから」
一方美優の言葉を聞いて、高揚していた気持ちが冷めるのを感じた琉生はきょとんとした顔で、不快げに尋ねる。「なぜ?」
そして以前のように、また美優がやきもちを焼いているのだと誤解した琉生は、平静を装って諭した。「凪の性格は少し率直すぎるところがあるが、彼女の境遇も理解してやれ。君は既婚者だろう?子供を相手にムキになるのはやめておけ。
店も予約済みだ。プレゼントも準備しておいたから。何も用意しなくていい、君はただ挨拶回りに顔を出せばそれでいいんだから」と、彼は美優の返答すら待たずに一方的に告げた。
琉生は美優が目の前で女性に妬いて機嫌を損ねるのを慣れっこに思っており、むしろそれで少し気分良くなったか、彼は付け加えるかのように彼女を宥めた。「凪は良い学生なんだ。彼女とはただそれだけの関係。誓って君を裏切ることはないから、安心してくれ」
しかし、美優は表情を強張らせたまま席を立ち、言い切った。「私は行かない」
琉生はその背中に向かって眉をひそめた。これほど美優が強硬に拒むのは、これが初めてだった。
彼は慌てて追いかけ、階段の前で美優の歩みを阻んだ。
そして有無を言わせない口調で命令した。「わがままを言うな。凪だって君と会いたがっている。行くんだ」
それから琉生が一瞥を向けると、執事の松尾哲平(まつお てっぺい)が持ってきた大量の荷物を美優に強引に押し付けてきた。その重みに、美優の足がもつれた。
慌てて救いを求めるように彼女は琉生の腕を掴もうとしたが、琉生は美優の体を引き寄せることもせず、さっと体を避けた。そして彼女が転がり落ちていく姿を、彼は無関心に眺めていた。
一方、伸びきった腕は何もつかめず、美優はぶつけた衝撃を一身に受けると、最後に「ポキリ」と、何かが砕ける音を聞いた。
それを見た、琉生は慌てて降りてきた。「大丈夫か?」
そして、美優が顔面蒼白になって息も絶え絶えになっていたのだろう、はたまた彼女の膝の擦り傷が目についたのだろう、彼は気まずそうに言い訳をした。
「昨日手の治療をしたばかりで、力が入らないんだ。わざと避けたんじゃなくて、こんな低い所から落ちても大したことないと思ったんだが……」
一方、視界がぼやける中でその言葉を聞き、痛みなど比にならないほどの絶望に襲われた美優には、彼の言葉がまるで体を切り刻む毒のついた刃のように思えた。
この時、美優は琉生の心に、自分は本当にいないのだと身に染みて感じながら、静かに目を閉じた。
ほんの少しだけ支えてくれればよかった。たったそれだけで彼女は転がり落ちることはなかった。
だけど、彼はそれすらしたくなかった。なによりも自分が大事だったから。
美優が次に目を覚ますと、すぐそばにメモ書きが残されていた。
第3話
病室の中。
看護師が美優の診察に来た。伝言を預かっていると言う。「ご主人からで、『急用ができた』と。あと、小突起の骨にヒビが入っています。1週間は絶対安静だそうです」
美優は包帯の巻かれた腕や、あちこちにできた痣を見つめ、傍らに置かれた紙切れを手に取った。
【ゆっくり休め。治療費は払っておいた。もう、凪のお祝いにも出席しなくていいから】
その筆跡も琉生らしい冷たさを醸し出していた。美優はその紙切れをクシャクシャに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
そして、スマホのロックを解除すると、通知がいくつも入っていた。
洋子からの面白動画の共有だった。
美優は動画を一つずつチェックし、少し返信してからスマホを閉じようとした。すると、凪が更新したばかりのインスタが目に留まった。その更新の通知が、今の美優にはやけに眩しく見えた。
琉生と同じテイストのアイコンを見て、美優は何かに操られるように、思わずタップしてしまった。
凪は9枚の写真を投稿していた。どれも琉生の影がちらつき、中央の集合写真には琉生と楽しそうに寄り添う、熱愛中のカップルのような姿があった。
そして意味深なコメントが添えられ、投稿から3分も経たないうちにコメント欄は盛り上がっていた。
【人生の節目に、いつもそばにいてくれてありがとう】
美優は画面越しに指が少し震えたが、数秒迷ってから「いいね」を押し、ページを閉じた。
かつてなら激しい嫉妬に身を焦がしていただろう。だが、今の胸に感じる突き刺さる痛みは耐えられないほどではなくなった。
おそらく、もうどうでもいいのだろう。再びそんな写真を見ても、かつてほど傷つかない自分に安堵した。
思い出せば、初めて凪があざとい写真をアップしたとき、自分は琉生のスタジオに殴り込みに行った。説明を求めただけで凪に笑われ、琉生には嫌われ、スタジオへの入室権すら剥奪されたのだ。
だけど、今の自分には、昔のようにヤキモチを焼くことはなくなったから、この手のやり口は、もう通じないのだ。
その時、新しい転職先からメッセージが入った。1年間Z国に派遣される仕事の話で、給料は2倍、手当も出るもので、オファーを受ける興味はあるかと問われていた。
美優は少し迷ったが、返信欄に【参加します】と打ち込んだ。
琉生との思い出に溢れるこの街で暮らすより、新しい場所でゼロから始める方がずっといい。
離婚届さえ受理されれば、すぐにでも離れようと彼女は決めていた。
そう思って彼女は転職先の書類を書き進め、「現在の婚姻状態」という欄には、迷わず「離婚」と記入した。
転職先からの連絡では手続きに約1ヶ月かかり、それまでは待機。その間は出勤の必要もなく、手続きが済み次第、Z国へ飛べば良いという。
美優は二つ返事で了承をすると、自分の身の回りの整理に集中することにした。
そして、話がまとまったところで、恵に電話をして再就職の報告をした。
「ずっと家で悶々としてたものね。外の空気を吸いに行くのはいいことよ」と恵は理解を示し、その場でお祝い金を振り込んであげた。
「困った時は遠慮せず言いなさい。私たちはいつもあなたを一番に応援しているから。無理しないで」そう言われて、美優の目からは熱いものがこぼれた。
そんな優しい言葉を聞くと、もう一つ抱えていた「流産」の辛いニュースは切り出せなかった。ただ、恵には「元気でやっている」と嘘をついた。
こうして美優は1週間の入院生活を経て、ようやく退院の日を迎えた。
この1週間、琉生は一度も見舞いに来なかった。逆に凪が泥酔したことで、わざわざ薬を取りに病院に立ち寄ったそうだ。
そして帰宅すると、居間では凪と琉生が連弾でピアノを弾いていた。
そんな中、美優がまるで侵入者のように、彼ら二人の和やかなムードを壊してしまったようだった。
そう思って、美優はまるで絵に描いたような二人の見事なセッションを見つめていた。
以前なら、彼女はなんとしても割り込もうとしたのだろう。だが今は、ただ冷静にその光景を見つめるだけだった。
やがて彼女に気づいた凪は、少しだけ驚いた表情を浮かべて、慌てて立ち上がった。
「あら、美優さん、おかえりなさい。誤解しないで、私はただ琉生さんに楽譜の編成を手伝ってもらってただけだから」
しかし、美優が黙っていると、凪は気まずそうに、琉生に縋るような視線を送った。
一方、琉生は彼女を見やって眉をひそめた。「退院するならそう言ってくれてもいいだろ?迎えを寄こしたのに」
そう言われ、美優はスマホをかざし、冷静に中へと歩きながら言った。「そう?何度電話しても、あなたは出てくれなかったけど?」
入院中、着替えを送ってほしいと何度電話しても、常に話し中か不在着信。返事一つなかったのだ。
だから、退院するからって連絡しても、きっとなんの意味もないだろう。
すると、琉生は電波のせいだろうと言い訳をし、そのまま流そうとした。
一方凪は、哲平から受け取ったサプリをいそいそと美優の元へ持っていった。
「これね、私が弱っているって言ったら、琉生さんが特別に探してくれたサプリなのよ。退院のお祝いにどうぞ。美優さんもこれを飲んで栄養をつけて」
そう言って、凪は隠そうともせず、これ見よがしに笑顔でサプリを差し出した。
一方、その勝ち誇った表情に、美優は何とも言えない気持ちになった。琉生がここまで気遣いができる人だったなんて。だって、彼はこれまで自分には「サプリなんてどうせ気休めだから、飲まない方がいいんだよ」と言っていたくらいだったから。
「いらない」美優はそんな憐れみなんて欲しくないと思い、断った。
だが、階段に向かおうとした美優を引き止め、凪は困った顔で尋ねてきた。「美優さん、私のことが嫌いなの?」
「別にそんなことないわ」美優は冷淡に答える。
「そんな、せっかく琉生さんが探してくれたサプリなんだから、受け取ってくれてもいいじゃない?変なものじゃないから、安心して飲めるはずよ」
そう言いながら、凪の瞳が潤み始める。
面倒な茶番だ。美優が去ろうと背を向けたその瞬間、凪はあざとく美優の袖を引っ張った。
そして手にしていたサプリが、派手に中空へ飛ぶと、ピアノの蓋の上に無惨に叩きつけられ、瓶が粉々に砕け、黒鍵と白鍵の隙間に、サプリの粒が転がっていった。
第4話
「ああっ……美優さん!いくら私を馬鹿にして、身の程知らずって毛嫌いしてても、そこまで嫌がらせをすることはないじゃない?ピアノが大変なことになったでしょ!」
凪は弱々しく美優を指さして訴えると、涙をボロボロとこぼした。
そう言って、凪がわざとらしく崩れ落ちると、琉生は慌てて駆け寄り、彼女を支え起こした。
「あなたが投げたんでしょ?何でも私のせいにするのはやめて」と美優は凪の演技などに付き合うつもりはなく、冷たく言い放った。
ところが、琉生は凪を抱き起こすなり、見たこともないほど険しい表情で美優を睨んだ。
「君が凪の手を叩きつけたから、瓶が飛んだのをこの目で見たんだ。自分のやったことを凪になすりつけるなんて、美優、いい加減にしろ!人の気持ちを考えろ!
凪は苦労してここまでやってきたんだ。君のような、ただ親のすねをかじって生きてきただけの人間とは違うんだ。彼女は健気に頑張ってきたんだ。謝れ、すぐに謝れ!」
琉生の言葉は、ボロボロになっていた美優の心にナイフのように突き刺さった。胸が裂けそうな痛みに襲われ、息も絶え絶えだった。
目の前の見知らぬ人のような琉生を見つめながら、美優は理解した。自分はずっと、琉生にとってお金だけをせびるお荷物でしかなかったのだと。
それで、濡れ衣を着せられるのはあんまりだ。自分は凪の手なんて叩きつけていなかったんだから。
声を震わせながら、美優は必死に否定した。「私のせいじゃない。謝らないわ。リビングの防犯カメラを見ればわかるはず――」
しかし、彼女に最後まで言わせぬよう、琉生が遮った。「君の言うことなんて信じられない。自分の目で見たことを信じる。君がやったんだ、もう黙れ」
だけど、彼はさっき背後にいたのだから、実際の手元は見ていなかったはずだ。それでも彼は美優が自分と凪の関係に嫉妬して、逆上していると決めつけた。
だって、か弱く優しいはずの凪が美優に濡れ衣を着せるなんて姑息な真似をするわけがないのだから、悪いのはきっと美優に違いないのだ。
そう思った琉生の眼差しは、いっそう冷淡なものになっていた。
「やったなら、新しいピアノを弁償して凪に謝れ」
そう言われ、美優は言葉を失った。そして、琉生が凪の足をくじいたんじゃないかと気遣って、薬を探しにいく後ろ姿をただ茫然と見ていた。
そして、1階から琉生の姿が見えなくなると、凪は先ほどまでの可憐な泣き顔を一変させた。
彼女は美優の耳元に身を寄せ、嘲笑うように囁いた。「ねえ、まだしがみついてるの?琉生さんはあなたを愛してなんていなくて、ただ家政婦として扱っているだけでしょ。だって彼、私と一緒にいる時間の方がずっと長いのよ。
私たちは共通の趣味があるから話が合うし、魂の共感を得られるの。あなたは琉生さんと最後にいつゆっくり話したか思い出せる?あなたは育ちがいいこと以外で、何一つ私に勝てるところなんてないよ」
そう言って凪は誇らしげに美優を冷たく見下ろした。どうやら彼女は美優を踏みつけにすることが楽しくて仕方がないようだった。
お嬢様だといっても、結局今の自分には敵わないということだ。
「琉生さんのそばにいれば愛されるなんて夢を見てるの?彼にとってピアノが全てなのだから、あなたなんて眼中にないわよ」
美優は答えた。「家政婦の私より、都合のいい女であるあなたがよっぽど哀れじゃない?」
突然の反撃に、凪は絶句した。
いつもの美優と様子が違う。挑発に反応しないなんて。
普段ならちょっと突っつくですぐにヒステリックに暴れていたのに。
今はなぜこれほど冷めて、淡々としているのか?
「何を気取っているのよ」そう思って、凪は苛立ちを露わにして叫びながら美優の頬を打とうと手を上げたが、その手首を強く掴まれた。
そして振り払おうとすると、凪はふと琉生の戻ってくる姿に気づいた。すると彼女は、口角を上げると、わざと美優の手を引っ張ってピアノのそばへよろめいた。
さらに自分の手のひらを割れたガラス瓶の破片の上に叩きつけた。
一方、美優が事態を察知した時にはもう遅く、破片が凪の手のひらに深く突き刺さり、血が溢れ出していた。
それから凪が悲鳴を上げるのと同時に、駆けつけた琉生によって美優は突き飛ばされた。
耳に一瞬風が掠めたあと、大きな音が響いた。
第5話
それとともに、美優はテーブルの角に腰を強く打ち付けられ、あまりの鋭い痛みに、冷や汗が噴き出た。
顔面蒼白になった美優を見て琉生は一瞬たじろいだが、すぐに凪の泣き声に気を取られた。凪が手のひらから血を流しているのを見ると、さっき抱いたはずの後悔などどこへやら、消えてなくなっていた。
琉生は激怒し、怒鳴りつけた。「美優!いつになったら分別のつく大人になるんだ!ピアニストの命である手を傷つけるなんて、君は嫉妬で人の未来を奪おうとするほど、心が鬼なのか!
凪はこれまで見てきた中で最も才能がある子なんだ。未来ある彼女の人生を、君の薄汚い嫉妬心で台無しにする気なのか?これじゃ、彼女の命を絶とうとするのと変わらないんだぞ!」
琉生は美優に弁解の隙も与えず罵り続けると、そのまま彼女の前で凪を抱きかかえて部屋を出て行った。
去っていく二人を呆然と見送った美優は、自分の手を見て息をのんだ。そこには、凪の血がこびりついていた。
ふと近くの監視カメラに視線をやり、自嘲気味に微笑んだ。
結局、琉生は自分を嫉妬深い女としか思っていないのだ。
洗面所へ向かおうとした美優だったが、哲平に行く手を阻まれた。
「奥様、旦那様からのご指示です。今日の行いに対する罪滅ぼしとして、庭で跪いて反省するようにとのことです」
美優はきっぱりと言い放った。「やっていないことに反省なんてしないわ」
そう言って哲平を追い抜き、階段を上ろうとした。
しかしすぐに使用人たちが現れ、力ずくで引きずり戻されると、彼女は庭の地面に跪かされた。
美優は必死に立ち上がろうとし、叫んだ。「放して!私は何もしていない!なぜ私が凪のために膝をつかなきゃいけないの!」
だが哲平が合図すると、使用人たちは美優の両腕を背後からしっかりと押さえつけ、身動きひとつできないようにした。
「奥様、私どもは旦那様に従うだけです。指示があるまで立ってはなりませぬ」哲平は冷たくそう言うと、離れた場所から見張った。
そして美優が抵抗するほど腕にかかる力は増し、骨が折れそうな激痛で冷や汗が止まらなくなった。
やがて抵抗する気力さえ消え失せ、泥のように崩れ落ちた美優は、激痛に耐えながら荒い息をついた。
抵抗をやめた美優は、ただ静かに跪き、瞳からは一切の感情が消えていた。
どのくらい時間が経っただろうか。哲平が台所で生姜スープを詰めて出かける姿や、別の使用人たちが洗濯物を病院へ運ぶ姿がぼんやりと目に入った。
意識が朦朧とし、目の前が霞み始めた頃、哲平がクッションを持ってやってきた。
「奥様、旦那様より、お腹のお子様のためにこれを使うようにと」
美優は何も答えない。もともと虚弱体質の上、丸一日何も口にしていない身体は、限界を迎えていた。
使用人たちの手を借りてクッションの上に移動しても、跪く姿勢を維持するのがやっとだった。
程なくして、ついに意識が途切れ、美優はその場に倒れ込んだ。
だが、駆け寄ろうとした哲平をある使用人が止めた。「どうせ仮病ですよ。旦那様を騙した前科があるでしょう?それに武田様を傷つけた罰なんだから、下手に手を出さないでください」
すると哲平は悩んだ末、その言葉を受け入れ、見て見ぬふりをすることに決めた。
それから3日が経った。病院から戻った哲平が、庭で一向に動かない美優を見つけて異変を察した。
美優の体が凍りつき、青白い顔をして呼吸さえ止まっているのを見て、哲平は顔を青ざめさせ、慌てて他の者たちを呼んで美優を病院へと運んだ。
一方、知らせを受けた琉生は心臓が止まるかと一瞬思った。だが、凪の容態もあって離れられず、哲平に監視と報告を命じるしかなかった。
そして、それを聞いた凪は手を強く握りしめ、いつもながらの優しい目元に一瞬冷徹な笑みを浮かべた。
まさか美優、そんな姑息な真似で琉生の気を引こうとするなんて。
そう思って凪も気分が悪いと演技を続け、琉生に全身検査につき添うよう求めた。
自分がこれほどまで大切にされているという事実に、凪は悦に浸った。
美優なんて、家柄がいいだけの何ひとつ取り柄のない女なのだ。
片や、丸一日眠り続けた美優は、わずかに腕を動かしただけで身体中に走る激痛に目覚めた。
痛みで顔をしかめながら身を起こそうとした時、巡回に来た看護師が部屋に入り、美優を支えてくれた。
「目を覚まされたんですね!すぐにご主人に知らせてきます!」と看護師は嬉しそうに駆け出した。
美優は無意識に引き留めた。今の琉生にはどうしても会いたくなかったのだ。何か適当な理由をつけて看護師を下がらせた。
そしてふらつく足取りで、美優はトイレへと向かった。
途中の病室の前を通ったとき、見慣れた後ろ姿が目に入り、足が止まった。
琉生が、熱い料理を丁寧にふーふーと冷まし、「熱くないよ」と優しく言いながら、スプーンを凪の口元へ運んでいた。
器の温もりで真っ赤になった琉生の手を見て、美優は目が逸らせなかった。
昔、自分がうっかり熱いスープを出して琉生の手にほんの少し熱いのが触れた時、彼は豹変して怒鳴りつけた。「これくらい気遣いができないのか?この手は命以上に大事なんだ」と。
それ以来、美優は琉生の手を誰よりも徹底的に気遣ってきた。
今の彼を見れば、あの大事な手も、凪のために火傷するのはなんともないらしい。
美優は淡々と視線を外し、再びトイレの方へ歩き出した。
部屋に戻る途中、病室から出てきた琉生とすれ違った。彼の手はまだかすかに赤くなっていた。
琉生が、感情のこもっていない美優の冷ややかな目を見て、喉の奥が引き締まるのを感じた。そして、「いつ目が覚めたんだ、なぜ教えてくれなかった?」と声を枯らした。
第6話
美優はもう一度琉生の手に目を落とし、短く切り捨てた。「さっきよ」
「何か用?さっき何か見たのか?」美優の冷ややかな視線に気づいた琉生は、無意識に手を隠しながら尋ねた。
「何を見たって言いたいの?」美優は言い返した。
言葉に詰まった琉生は、眉間にしわを寄せた。「なんでもない。君は妊娠中だろう?凪のケアを代わりにしてあげて、罪滅ぼしをしているだけだ。あまり深く考えるな」
妊娠中という言葉を耳にして、美優の胸に刺さった。琉生の言葉を反芻する。妊娠中、だと?
続いて美優は鼻で笑った。自分が送った健診結果のメッセージを見ていないのだろうか?今は凪をかばうために、子供のことまで言い訳に使うなんて。
「だってそうだろ?誰のせいでこうなったと思ってるんだ。君が凪の手を負傷させたんじゃないか。僕はただ君の代わりに罪を償っているだけだ」自分の言葉にあざ笑いを見せる美優を見て、琉生は苛立った様子で、凪の怪我のことを持ち出した。
今回のことは全部美優のせいだ。じゃなかったら、凪がこんな災難に遭うはずがなかった。
懸命に痛みをこらえようとする凪の健気な姿を思い出し、琉生はたまらなく心を痛めた。
琉生のいかにも辛そうな表情を見た美優は、嘲笑いながら言い返した。「それならプロの介護士を頼めばいい。あなた自身がずっと付きっきりになる必要はないでしょ?」
「そうはいかない。凪は他人を嫌うし、第一、他人の介護よりも自分がやった方が丁寧に決まっている。凪の手を絶対に元通りに回復させないと」琉生は即座に言い返した。
美優は言葉を続けた。「専門の介護士を呼ぼう。そうすれば凪の手もきっと回復するはずよ。あなたは自分の手を何よりも大切にしてきたじゃない。付きっきりの介護なんて手が一番荒れるし、演奏に差し支えてもいいの?」
美優の指摘に言葉を失った琉生は、戸惑いの表情を浮かべた。
しばらくして彼は言い切った。
「僕が直接ケアするのが最適なんだ。罪滅ぼしにもなるし、騒ぎを最小限に抑えられる。君のやったことは本来傷害罪になるから、法的に見れば警察に突き出されるレベルなんだぞ。僕は君のためにやっているんだ。
それで凪は君の罪を問わないと約束してくれた。この話はここまでだ」
そこまで言って、彼はさらに続けた。「それに、2週間後には公演がある。そんなくだらないことで出演に穴を開けたくない。ゲストとして共演する凪には、万全の状態でステージに立ってもらいたいんだ」
美優はそれを聞き、一瞬動かされかけた心を自分で嘲笑った。やはり琉生はキャリアのことしか考えていないのだ。
会話が終わると、琉生は度重なる気性の荒さで凪を追い詰めた美優に対し、冷たい声で注意を促した。
「気配りができるようになってほしいとは言わないが、少しはその短気な性格をどうにかできないのか?凪を見習って、教養でも身につけてくれ。いつも家で何もしないでぶらついて、見ていてうんざりするんだよ」
しかしその言葉を聞いて、怒りを爆発させた美優は、琉生を強く張り倒した。
彼女はかすれた声で、絞り出すように言い放った。「琉生、あなたこそ私に偉そうなことを言う資格なんてない!」
一方、そう怒鳴られた琉生はようやく、事の重大さに気づき、少し後悔の念に駆られた。あんなことを言うべきではなかった。
確かに今は専業主婦だが、美優は家事の一切を取り仕切り、自分の親戚たちにも礼儀正しく振る舞ってくれている。
音楽の才能も知識もない美優に対して、どうしてあれほど才色兼備で気が利く凪と同じレベルを求めてしまったのだろう?
そう思って、改めて説明しようと顔を上げた琉生だったが、そこに美優の姿は既になかった。
彼が追いかけようとして数歩進んだところで、背後から声をかけられ止められた。
「琉生さん、看護師から手のレントゲン撮影へ……」
第7話
一方、美優は病室に戻ると、深呼吸をして気持ちを整えた。薬箱から錠剤を取り出し、水で飲み込んだ。
ちょうどその時、転職先からメールが届いた。来週の月曜日からZ国へ派遣されることが正式に決まったらしい。
返信を済ませてから美優はまた洋子に連絡したが、一向に既読がつかなかった。
美優も特に急ぎではなかったから、気に留めるのをやめ、看護師に膝のガーゼを替えてもらってから食堂へ向かった。
病院の食事は栄養バランスが良く、味付けもさっぱりしていて、久しぶりに食欲が湧いてきた。
どんぶりいっぱいの肉を食べ終えたところで、近くに座っていた看護師たちの話し声が聞こえてきた。
「諏訪さんが武田さんにべた惚れなのよ。毎日の食事も献立指定してるし、つきっきりで世話をしてて。生理用品まで自分で買いに行ってるからね」
「ほんと、新婚夫婦よりもアツアツだよね。まあ、諏訪さん既婚者なんだけど……」
近くで聞いていた美優は、思わず持っていた箸を止めた。あの琉生が、そんな献身的なことをするなんて。
この瞬間、美優は改めて、自分の診察のたびに「医者に診てもらえ」としか言わなかった琉生が、凪には随分と手厚いんだと思い知らされたのだった。
食後の満腹感は少々不快だったが、ここ数日の飢えを思えば、これ以上ない充足感だった。
食堂を出て裏庭を散歩しようとした時、曲がり角で琉生と凪の姿が見えた。美優はすぐさま踵を返し、足早に病室へ戻っていった。
それから3日間、美優は静かに療養を続け、膝の腫れも引いたので退院することにした。
出発間近になって、準備がまだ整っていなかったので、彼女は自宅に戻ると、すぐに自分の部屋へ荷造りをしに行った。
そして日用品をまとめていく中で、琉生から贈られた宝石類はクローゼットに残した。部屋に飾っていた写真もすべて片付けた。
その時、琉生から突然の着信があった。「デスクの上に書類がある。それをスタジオまで届けてくれ」
「無理」美優は即答した。
すると、電話越しに琉生が急ぎの口調で言った。「大切な書類なんだ。他の人だと安心できないから」
そのひどく疲れ切った声に、美優はつい魔が差して引き受けてしまった。
そしてスタジオに急ぎ、琉生のアシスタントに渡せばそれで終わりだと思っていた。
ところが、インターホンを押すと中から凪が現れた。二人はガラス越しに見つめ合った。
凪は口角を歪め、何かを呟いた。その口元から、決して褒め言葉ではないことは見て取れた。
かつて美優がスタジオへ押し掛けた一件以来、琉生は美優の登録指紋を削除していたのだ。
だが、美優は気にすることなく冷めた態度でドアを開けさせ、凪を見て見ぬふりをしてデスクの上に書類を置いた。
しかし、彼女が部屋から出ようとすると凪に道を塞がれた。
「何なの?」美優は冷ややかな目を向けた。
美優はまだ荷造りをしないといけないから、今は一分一秒が惜しいくらいなのだ。
「美優さん、久しぶりに来たのになんでそんなに急いでるの?リニューアルしたスタジオを案内させてよ」そう言って、凪は強引に美優の腕を引いた。
二人がたどり着いた壁には、琉生と凪のツーショット写真が飾られ、琉生の自筆メッセージが添えられていた。
「これ全部、私のための名誉の壁なの。頂点を目指そうって約束してるのよ。裏にサインがあるから見て」そう言って凪は写真立てを突きつけてきた。
そこにはこう書かれてあった。【凪へ。努力は報われる。一緒に頂点を目指そう】
しかし美優は一瞥するだけで、特に興味を示さず、壁全体をぼんやりと眺めた。
素っ気ない態度の美優に、凪はイライラを隠しきれなくなっていた。
「ねえ、いつまできづかないフリしてるの?琉生さんはあなたなんて愛してないのよ!輝かしい将来がある琉生さんの足手まといになっているのがわからないの?
彼に相応しいのは私、私たちこそが最高のパートナーなの!」凪は感情を爆発させ、美優の手元にあった写真立てを奪い取った。
ここまで必死に這い上がってきたのに、なぜ美優という凡人に負けなければならないのか?そう思って凪は悔しかった。
しかし、美優は静かに言い放った。「最高のパートナー?私が琉生の戸籍上の妻だってこと忘れたの?彼が誰を愛していようと、その事実は変わらないわ」
淡々と論破する美優の姿に、凪は驚きを隠せないでいた。先日の件から、どうも美優の様子が別人のように思えたから。
凪は写真立てを強く握りしめ、強気に言い返した。「恋愛に後先なんてないのよ。大事なのは愛されているかどうかでしょ?
それでもあなたは引かないというなら……」凪はどこからか楽譜を取り出すと、美優の前でそれに火をつけ、意地悪な笑みを浮かべた。
「美優さん、ごめんなさい!返して、それ私が必死に書いた楽譜なの!」
美優は顔をしかめて身を引いたが、距離を取ろうとした隙を突かれた。
人がいないのを見計らって、凪は自分を叩いて頬を赤らめると、大声でわめいた。「私のことが気に入らないんでしょ?なら、私さえいなくなれば済む話よね?楽譜まで焼く必要はないじゃない?」
すると、美優が何かを言い返す前に、入り口から琉生の声が響いた。
「美優、何をしてるんだ!」
第8話
琉生は凪の元へ駆け寄ると、どこか怪我をしていないかと心配そうに声をかけた。
一方凪が床の灰を指さして、声を詰まらせながら訴えた。「美優さんがまた私のことをバカにして……育ちが悪いとか言ってきたの。でも、いくら何でも、楽譜を燃やすなんてひどすぎるわ。これは何ヶ月もかけて書き上げた大切な作品なのよ!」
涙で濡れた顔でそう語る凪の白い頬には、赤く晴れ上がった平手打ちの跡があった。それを見た琉生の胸は痛んだ。
「彼らみんな見てたわ。彼女が自分で楽譜を燃やして。私は何もしていない」美優は周囲を取り囲む人々を指さした。この人たちの立ち位置なら、自分がやっていないことくらいハッキリと見えたはずだから。
これだけ人がいるのだから、見ていた人がいないなんていうはずはないのだと、美優は思った。
しかし、周囲の人々は声を揃えて偽証した。「彼女が凪さんの譜面を燃やしたのは間違いありません。はっきりと見ましたから!」
そう聞くと、琉生は一瞬にして不機嫌になった。「美優、本当に分からず屋だな!
おい、すぐにこいつを物置にぶち込め。自分の間違いを認めるまで出すな!」
こうして美優はそのまま物置へ押し込められた。一方、物置の中から美優の叫び声が響く中、凪はまた切なげに言った。
「美優さんが書類を届けに来てくれた。迷わないよう案内してあげようと思ったら、この壁を見て突然激昂して。平手打ちまでされた。この壁は後輩たちへの激励のためにあるものだって説明したのに、信じてもらえなくて。あげくの果てに、大事な楽譜まで燃やされてしまって」
そう言うと、凪の目からは大きな涙の雫が零れ落ちた。
琉生が壁を一瞥した。それは生徒たちを激励するための飾りで、まさか美優がこれを見て癇癪を起こすほど器が小さいとは思わなかった。
その瞬間彼は、美優に書類を届けさせたことを悔やんだ。
「この件はしっかり対処するから安心しろ。美優もわざとやったわけじゃないんだ。僕が厳しく言っておく。楽譜の件は、こっちが作り直すのを手伝ってやる」
それを聞いて、凪は手のひらを密かに握りしめた。心の中ではこの程度じゃ不満だったが、表情は素直で、控えめな女のふりを続けた。
それから、琉生が用事でオフィスを離れた隙に、凪はそっと物置の扉を押した。
震えながらうずくまる美優の姿を見て、凪は鼻で笑った。「お嬢様育ちの甘ちゃんね。暗闇くらいで震えるなんて。
こっちは楽譜まで燃やしたのに、琉生さんはあなたを物置に入れる程度の処分しかしないなんて。そんなの大した罰にならないから、私がちゃんと懲らしめてあげなくちゃね」
一方、暗所恐怖症の美優は、その言葉を聞いて顔を上げ、怯えた様子で聞いた。「何をしようとしているの!」
だが、凪は彼女を無視して扉を閉めた。すると閉まる間際、美優の耳にカサカサと何かが這いずる音が聞こえた。
そして扉の外で蛇の尻尾が隙間から入っていくのを見届けて、凪はクスクスと笑った。「贈り物よ。毒はないわ」
しかし、美優は恐怖のあまり心臓が止まりそうになり、琉生の名前を叫び続けた。
だが、美優に残されたのは果てしない闇だった。そんな中、膝に頭をうずめて縮こまる美優の五感は冴え渡り、ネズミたちが床を這い回る音、物を齧る音がすぐそばで聞こえた。
その瞬間、美優は恐怖で鳥肌が立ち、背中を何かが這いずり、首筋に冷たい感触を感じ、それはある生物特有の質感だった。
それが何なのかを理解した瞬間、美優の緊張は限界に達し、気を失ってしまった。
ふと気づいた時、自宅のベッドで目覚めていた。
まるでさっきまで蛇が体に這い上がり、ネズミの咀嚼音が鳴り止まない長い悪夢をまだ見ているかのようだった。
彼女は首を大きく横に振って、その嫌な感覚を追い払おうとした。
そして、サイドテーブルのスマホを開くと、昨日送られていた洋子からのメッセージが目に入った。【荷物を送ったよ。確認してね】
すぐさま「了解」のスタンプを返すと、美優は立ち上がり、玄関先に届いていた書類を取り出した。
そして、中に入っていた離婚協議書を見て、彼女は手から伝わるその冷たい感触を噛み締めた。
興奮を抑え、深く息を吸い込んで、これでやっと自由になれるのだと思った。
それから、彼女は部屋に戻り荷造りを進めた。幸い荷物は多くない。最後に離婚協議書をサイドテーブルの引き出しに入れると、琉生から電話がかかってきた。
「いい加減にしろ。あの壁なんて、ただみんなを激励するための飾りだ。君が勘違いしているようなものではない。凪と僕はただの師弟関係だ」
電話越しに聞こえる声は以前と同じ温厚そうな声色だが、苛立ちが含まれていた。
そして、沈黙する美優に対し、琉生は言い続けた。
「公演の件で少し予定が変わった。先に現地へ向かう。家で大人しくしてろ。医者も静養が必要だと言っている。何かあれば松尾を呼べ。数日で帰る。
約束する。今回の公演が終わったら、海外へ旅行に連れて行ってやるよ。海で夕焼けを見たがっていただろ?手配は済ませているから」そう告げると、琉生は話題を変えて旅行の話を持ち出した。
しかし残念ながら、海での夕焼けを、美優はもう去年独りで見てきたのだ。あの頃、琉生はピアノの猛特訓で閉じこもっていたから。
そう思って、玄関に置かれたスーツケースを一瞥し、断ろうとした矢先、相手が電話を切ってしまったのだった。
こうして、彼女はまたしても自分の意思を伝え損ねた。
まあいいか。帰ってきて引き出しの離婚協議書を見れば、何もかも伝わるだろう。
こうして、美優はスマホをポケットに突っ込み、スーツケースを持って家を出て空港へ向かった。
待ちに待った新しい人生の始まりだ。