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これから、私は夫を捨てデザイナーを目指す
結婚して3年目。夫・神谷朔弥(かみや さくや)がシャワーを浴びている間、二宮琴音(にのみや ことね)は思いがけず、彼の携帯に届いたメッセ...
Chương (1)
第1章
結婚して3年目。夫・神谷朔弥(かみや さくや)がシャワーを浴びている間、二宮琴音(にのみや ことね)は思いがけず、彼の携帯に届いたメッセージを目にしてしまった。
【朔弥。あなたと別れてから、私はずっと幸せになれなかった。毎日あなたのことばかり考えちゃう。
でもね、朔弥。私、明日結婚するんだ。だから、最後にどうしても一度だけ、あなたに会いたいの。私の初めてを、朔弥に捧げたい。30分だけ待ってる。もし来てくれなかったら、私はこの世を去ろうと思う】
そのメッセージを読んだ瞬間、琴音は激しい衝撃を受け、しばらく言葉を失った。
第1話
結婚して3年目。夫・神谷朔弥(かみや さくや)がシャワーを浴びている間、二宮琴音(にのみや ことね)は思いがけず、彼の携帯に届いたメッセージを目にしてしまった。
【朔弥。あなたと別れてから、私はずっと幸せになれなかった。毎日あなたのことばかり考えちゃう。
でもね、朔弥。私、明日結婚するんだ。だから、最後にどうしても一度だけ、あなたに会いたいの。私の初めてを、朔弥に捧げたい。30分だけ待ってる。もし来てくれなかったら、私はこの世を去ろうと思う】
そのメッセージを読んだ瞬間、琴音は激しい衝撃を受け、しばらく言葉を失った。
やがて、シャワーを浴び終えた朔弥が戻ってきて、携帯を手に取った。そのメッセージを見るや否や、彼はすぐに玄関へと向かう。
その急ぐ背中を見て、胸が締め付けられた琴音は、思わず引き止めた。
「ねえ、朔弥。男の人って、最後は家庭を選んだとしても、妻より不倫相手に対して罪悪感を抱くんだって。あなたも……そうなの?」
震える琴音の声を聞き、朔弥は足を止めた。眉をひそめ、苛立ちと疲労が混ざったような声で言った。
「琴音。俺はお前のとこに戻ってきただろ?それなのに、これ以上俺にどうしろっていうんだ?」
冷え切ったその言葉が琴音の胸に突き刺さり、目からは涙があふれ出してきた。
名目上は自分が妻であっても、心は今もまだ白川紗良(しらかわ さら)のところにあるんじゃないのか、そう聞きたくてたまらなかった。
しかし朔弥は琴音の返事も聞かず、ドアを強く閉めて出て行ってしまった。
琴音は目を閉じ、静かに涙を流す。
琴音と朔弥は幼馴染で、誰もが認めるお似合いの二人だった。
琴音が「西区のケーキが食べたい」と言えば、朔弥は嫌な顔をせず、すぐに買いに行き、琴音が追試になれば、朔弥は徹夜してまで、琴音の勉強に付き合ってくれた。琴音が生理痛で辛かった時は、朔弥は不器用ながらも、蜂蜜レモンティーを作ってくれた……
琴音は朔弥に大切に守られる、まるでお姫様みたいだ、と皆が口を揃えて言ったし、両家の親が二人の結婚を決めた時も、誰も驚きはしなかった。
しかし、紗良という後輩が現れ、全てが変わってしまったのだ。
琴音が紗良に初めて会ったのは、朔弥の卒業式の日。
朔弥はポニーテールにした紗良と並んで立ち、笑いながら話していた。それに、紗良が親しげに朔弥の袖を掴んでも、彼は拒まなかった。
その瞬間、琴音の心に小さな棘が刺さった。
それからというもの、朔弥の口から「紗良」という名前を頻繁に聞くようになる。
「今日、もう絶版になっている本を、紗良が図書館で探してくれて……」
「紗良と映画の趣味が合うみたいでさ、一晩中盛り上がったんだ……」
「紗良が日の出を見に行きたいって言うから、週末に一緒に見に……」
朔弥が目を輝かせながら、紗良のことを話すのを見て、琴音は胸を握りつぶされるような痛みを覚えた。
その輝く目の意味を、琴音はよく知っていた。
なぜならその瞳は、かつて自分に向けられていたものだったから。
ラインでは紗良がピン留めに設定され、日々の些細な出来事まで紗良と共有しているのを知った時、琴音は我慢の限界に達した。
永遠に自分だけを愛してくれると言っていた朔弥が、他の女に気持ちが浮ついているのが許せなかったのだ。
たとえ体の関係がなくても、朔弥が紗良に惹かれている事実は変わらない。
その上、この現実が受け入れられないほど苦しいのに、朔弥を捨てきれない自分にも嫌気が差した。
琴音は苦渋の決断として、朔弥に婚約を解消するか、それとも紗良との関係を完全に断ち切るかの二択を迫った。
散々葛藤した末、朔弥は紗良との別れを選んだ。
それからしばらくして、結婚式が執り行われたのだが、結婚後の朔弥はまるで魂を抜かれたような状態で、二人の間に、以前のような幸せな日々は戻ってこなかった。
二人で出かけても、朔弥は急にどこか一点を見つめては、上の空になり、時折書斎に閉じこもっては、浴びるように酒を飲んで現実を忘れようとしていた。
記念日や誕生日のサプライズもなくなり、事務的に花やプレゼントを贈るだけになった。
琴音は、自分が努力し、深い愛情を与え続ければ、いつかは以前のように戻ってくれると信じていた。
だが、今日になってようやく分かった。どうあがいても、もう以前の朔弥は戻ってこないのだ、と。
この数年、自分が必死になって温もりを与え続けてきた男は結局のところ……心のない抜け殻に過ぎなかったらしい。
朔弥の心と感情はとっくに紗良のところへ行ってしまい、もう自分のものではなかったのだから。
こんな冷めきった結婚生活を、これ以上続ける意味などどこにもないだろう。
その夜、琴音は一睡もできぬまま夜を明かした。離婚手続きを調べようと携帯を開くと、偶然にも朔弥が花嫁を連れ去っている動画が目に飛び込んできた。
画面の中の朔弥はスーツ姿で、人目も憚らずに結婚式場へと駆け込み、紗良の手を引くと連れ去っていった。
画質は悪かったが、あふれるほどの情熱ははっきりと見てとれた。それは、高校のグラウンドで自信たっぷりに告白してきた、あの時の朔弥と重なる。
琴音は手が震えるのを抑えながら、その10秒ほどの動画を7回も繰り返し再生した。
そしてもう一度動画を再生しようとしたのだが、その動画はすでに消されていた。まるで、最初から何もなかったかのように。
だがその光景は、琴音の網膜に焼き付いていた。
朔弥のなびくスーツの裾、紗良の嬉しそうな表情、そしてしっかりと握り合う手に見えた、彼の手の甲にある小さなホクロまでも……
胸の中がごっそり抜け落ち、冷たい風が吹き荒れる。
琴音は涙を拭うと、躊躇うことなく全ての必要書類を準備し、離婚届をもらいに役所へと向かった。
だが、役所の窓口で思いもよらぬ真実を知らされた。
「離婚届をご要望とのことですが、ご本人様用ですか?只今調べたところ、二宮様は戸籍上未婚となっておりますが……」
思考が真っ白になる。琴音は自分の耳を疑った。
3年前、自分たちは11月22日「良い夫婦の日」に婚姻届を出しに行った。そんな日なので、人がかなり多かった。すると、朔弥が「ずっと並んでるのは辛いから、お前は座って休んでて」と言って、一人で届けに行ってくれた。
だが、この事実を知った今、自分がいかに滑稽だったかを思い知らされる。
朔弥は紗良との関係を完全に断ち切り、自分を選んで籍を入れてくれたのだと信じていたのに。
潮のように押し寄せてくる絶望が、全身の感覚を麻痺させていった。
血が出るほど唇を噛み締める。しかし、ふと思った。
法的な婚姻関係が結ばれていないということは、今の自分にとっては、むしろ救いなのかもしれない。
琴音は真っ青な顔で役所を後にし、タクシーを捕まえようと思い手を上げたところで、急に意識を失い、その場に崩れ落ちた。
次に目を開けると、琴音のカルテを持った看護師が、眉間に深いしわを寄せていた。
「ご主人に連絡して、今すぐにここに来るよう言ってください」
険しい表情をしている看護師を見た琴音は、自分が何か重い病気なのではと心配になる。
携帯を取り出し朔弥に7回ほど電話をしたが、一向に繋がらない。
諦めかけた頃、ようやく受話器越しに冷めた声が聞こえた。
「会議中なんだ、邪魔するな」
電話がつながり、切れるまでたった3秒。だが、その背後で、紗良が甘い声で朔弥の名前を呼ぶのがはっきりと聞こえてきた。
琴音は爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。看護師に急かされる中、琴音は自嘲的な笑みを浮かべる。
「私に夫なんていません。なので、病状などは私に直接言ってください」
看護師は少し驚いた表情を浮かべ、一枚の検査結果を琴音に差し出した。
「ご結婚されていないんですか?もう妊娠3ヶ月目なのに?胎児の器官も作られ始めています。でも、栄養状態が悪いようなので、お相手の方に連絡を取っていただきたいですが……」
「妊娠」の二文字を聞いた瞬間、琴音の瞳は見開かれ、頭の中が真っ白になった。
複雑な想いで、平らな腹部を見つめたが、すぐに頭を切り替え、あることを決断する。
「その必要はありません。このまま中絶手術をお願いします。子供なんて……いらないんです」
1時間後。琴音は冷たい手術台の上で、今までのことを思い出していた。
生理でお腹が痛いと言えば、朔弥は蜂蜜レモンティーを用意してくれ、ずっとお腹をさすり続けてくれていたこと。
自分が可愛いスカートが好きだと知れば、朔弥が専用のデザイナーを雇ってくれ、スカートを仕立ててくれたこと。
自分が盛大な結婚式に憧れがあると聞いた朔弥は、18の頃から自分の趣味嗜好をノートにまとめてくれていたこと……
これほどまでにときめきをくれた朔弥だが、今日を境に、過去の人となるのだ。
手術を終え、琴音は衰弱しきった体を引きずって看護師に、エコー写真が欲しい旨を伝えた。
朔弥への最後の贈り物として、彼に贈ってあげようと考えたのだ。
第2話
退院してすぐ、琴音はビザ申請の手続きを終えた。
申請を出してから、受理まで約15営業日かかると、係員から告げられた。
家に帰った琴音は2日休みを取り、朔弥に関係する物をすべて整理することにした。
一緒に旅行へ行った時の写真、朔弥からのプレゼント、お揃いのコップや部屋着……
琴音は躊躇うことなく、庭ですべてを燃やした。
ちょうど帰ってきた朔弥が、灰の山を見て怪訝そうな表情を浮かべる。
「何を燃やしたんだ?」
「別に。要らなくなったものを燃やしただけ」
そう聞いた朔弥は、深くは追及してこず、手に持っていたプレゼントを差し出してきた。口調が数日前より幾分か柔らかくなっている。
「体調でも悪いのか?顔色が悪いけど。それに、ずいぶん痩せたな」
突然自分を気遣ってくる朔弥に、琴音は一瞬たじろいだが、プレゼントを受け取ろうとはしなかった。
「私は大丈夫だから」
琴音のそっけない返答に、朔弥は違和感を覚える。
前回、険悪な雰囲気のまま家を出て行ったことを思い出し、雅也は少し言い訳を口にした。
「仕事でトラブルがあって、余裕がなかったんだ。これ、お前が前から欲しがってた鞄。秘書に買って来させたから、もう怒らないでくれよ」
琴音はちらりと鞄に目を向けた。このシリーズが出たばかりの頃、確かに好きだと甘えて話したことがある。
だが朔弥は特に聞いていない様子だったので、琴音はもう自分で購入していた。
あれから、もう2ヶ月も経っているというのに、今さら買ってくるなんて。
「あれから結構経つのに、どうして今さら?」
喜んでくれると思っていた朔弥は、琴音の反応に調子が狂った。「お前が好きなものは、なんだって買うよ。前だって、よく買ってあげて……」
そう言いながら、朔弥は自分が最近、琴音にプレゼントを贈っていないことを思い出した。
前回何をプレゼントしたのかさえ、はっきりと思い出せない。
その事実に気づいた朔弥は黙り込み、複雑な表情を浮かべる。
朔弥の目に一瞬よぎった気まずさに気づいたが、琴音は何も言わなかった。
部屋へ戻ると、ラインに友だち申請が来ていた。
見覚えのあるアイコンに、琴音の瞳がふっと暗くなる。追加ボタンを押すと、すぐに相手からある住所が送られてきた。
【時間ある?一度会おうよ。あなたが興味がありそうなもの、たくさん持っているから】
それは紗良だった。
大体の目的は察しがついたが、朔弥との関係を終わらせる前に、一度彼女とは会っておきたいと思った。
紗良のどこが、こんなにも朔弥を惹きつけるのか、どうしても知りたかったから。
琴音は服を着替え、送られてきた住所へと向かった。
カフェに着くと、紗良がすぐに多くの写真を取り出した。
多くは朔弥が紗良の結婚式に割り込んできた時の写真で、残りは二人がここ最近したデートのもの。
これを見れば、琴音はひどく驚き傷つくと、紗良は思っていた。
だから、得意げな様子で琴音を見上げた紗良だったが、目に入ったのは、とても静かな琴音の表情だった。
紗良は少し焦りを感じ、自ら話を続ける。
「3年経っても、朔弥はまだ私を忘れていない。あなたは彼を手に入れたつもりかもしれないけど、それに何の意味があるの?あなたが手にしたのは、ただ『夫』という立場だけ。朔弥の心はずっと私のところにあるんだから。
私がひと言『会いたい』って言ったら、あの人は何の迷いもなく私の結婚式に乗り込んできて、私を連れ去ろうとした。そのうえ、私のために別荘まで買ってくれたの。それに、毎週必ず会いに来るって約束してくれたし、専属秘書まで私につけてくれて。
手に入らなかった女ほど、いつまでも忘れられない……男なんてそんなものじゃない?だから、あなたがどれだけ頑張ったところで、私には勝てないの」
本当に、手に入らなかった女ほど、忘れられないものなのだろうか?
まあ、そうなのかもしれない。
なにしろ、朔弥自身が証明してくれたのだから。
琴音は手の力を緩め、少し掠れた声で問い返す。「だとしたら、何なの?もしあなたが朔弥にとって唯一無二の存在なら、3年前、彼はどうしてあなたと関係を切ってまで、私と結婚したのかしら?」
その言葉で紗良は言葉を詰まらせたが、しばらくしてからまた口を開いた。
「あの時、朔弥の私に対する愛情が、あなたたちの幼馴染の絆に及ばなかったことは、認める。でも、あなたが朔弥に私との関係を断つように迫った時から、朔弥の中からあなたという女はもういなくなったの」
琴音は今、はっきりと理解できた。朔弥と紗良がどうしてここまで関係を続けてこられたのかを。
そうだ。
朔弥に自分か紗良かと選ばせた瞬間、自分は朔弥の愛する人から、離れたくても離れられない、ただの鬱陶しい存在になってしまったのだろう。
そして紗良も、朔弥の中で忘れられない存在となってしまった。
琴音は深呼吸をし、溢れる感情を抑え込んで、静かに微笑んだ。「あなたの言う通りね。朔弥の中に、私はもういないのかも。でもね、白川さん。一つだけ忠告してあげる。他人の家庭を壊して奪った愛なんて、結局は幸せにはなれないんだよ」
そう言うと、琴音は立ち上がって会計を済ませ、立ち去ろうとした。
しかし、琴音の言葉の意味が理解できなかった紗良は、挑発されたと思い、追いかけて琴音の手首を強く掴んだ。
「まだ朔弥を離さないっていうの?朔弥があなたのもとへ帰ってくると思う?笑わせないで。朔弥の中で、誰が一番大切なのか、今この場で見せてあげるんだから!」
第3話
紗良の言葉が終わるや否や、琴音は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
すると、反応する間もなく、紗良が琴音の手首を掴み、車道へと引き摺り込んだ。
耳をつんざくブレーキ音が響く。はっと顔を上げると、制御を失った車が自分たちに向かって猛スピードで突っ込んできていた。
全てがスローモーションとなる。
そして、琴音にははっきりと見えた。道の反対側から必死の形相で走り寄ってくる朔弥の姿が。彼の瞳には絶望が浮かび、かつて見たこともないほど、慌てている。
「紗良!」
次の瞬間、朔弥が腕を伸ばし、紗良だけを引き寄せた。
そして、琴音は――
ドンッ。
鈍い音がした。琴音の体はまるで重力を失ったように宙を舞い、10メートルほど先の路上に叩きつけられた。
激痛が全身を襲う。五臓六腑がすべて破裂したようだった。
口からは血を吐き、視界も霞んでいく。それでも琴音は力を振り絞って顔を上げた。
しかし、そう遠くないところでは、朔弥が紗良を力強く抱きしめ、「大丈夫、大丈夫だから。俺がいる……」と優しく背中をさすっていた。
意識が闇に飲まれる直前、琴音はふと18歳の頃を思い出した。高熱を出した時、朔弥もあんな風に自分を抱きしめ、一晩中眠らずに見守ってくれたっけ……
どうして、こうなってしまったんだろう?
気がつくと、琴音は病院のベッドの上にいた。
重い瞼を開くと、朔弥が隣に座っていた。
目が合った瞬間、朔弥の険しかった表情がわずかに和らいだが、すぐに冷酷な色へと変わった。
「琴音、お前は何がしたかったんだ?」氷のような冷たい朔弥の声が響く。「俺は、お前に言われた通り、紗良とは距離を置いた。なのに、どうして紗良の生活を邪魔する?」
琴音の瞳孔がきゅっと締まった。
死の淵から目覚めたばかりの自分にかける言葉が、心配の一言ではなく、詰問であるとは。
琴音はかすれた声を絞り出す。「あなたが言う距離を置くって……白川さんの結婚式場に乱入して。彼女を連れ出すこと?」
朔弥の体が明らかに硬直し、瞳には冷気が宿った。「俺のことを調べたのか?
紗良は親に、一回り以上も上の男との政略結婚を無理強いされたんだ。それに、俺は一度あいつを裏切ってるんだから、もうこれ以上あいつを見過ごすことなんてできないに決まってるだろ?」
朔弥の声が大きくなり、最後にはほぼ叫んでいるくらいになった。「なのにお前はこんなことまでして!人の心ってものがないのか?」
琴音は爪が手のひらに食い込むほど、シーツを強く握りしめた。
朔弥にとって、自分は彼を追い詰める存在であり、人の心がない人間だったらしい。
「そんなに白川さんが大切なら……」琴音の声は掠れ、もうほとんど言葉になっていなかった。「なんで、最初からそう言ってくれなかったの?」
その言葉が、朔弥の逆鱗に触れた。
朔弥は身を乗り出し、琴音に覆い被さるように、彼女を見下ろす。「言ったところで何になる?それに、お前が俺にこうさせたんだろ?
琴音、俺たちはあれだけ長い時間を一緒に過ごしてきた。お前が欲しいと言ったものは、できる限り全部与えてきたし、お前に苦労をさせたことだって、一度もない。
俺はただ、少しだけ息抜きがしたかっただけで、道を踏み外したって、お前のところにちゃんと戻っただろ?なのに、何でそんなに紗良のことが許せないんだよ?俺を追い詰めたいのか?」
琴音の瞳から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
琴音は聞きたかった。あなたは忘れてしまったの、と。14歳のあの日、飴を握りしめながら、「大きくなったら俺のお嫁さんになって」と言ったのは、朔弥だったのに。14歳のあの日、全校生徒の前で「琴音は俺のものだ」と宣言し、ほかの男子に近づくなと牽制したのも、朔弥だった。
そして18歳のあの日。夜空いっぱいに花火が打ち上がる中、自分を見つめながら、「琴音、好きだ」そう想いを告げてくれたのも、朔弥だったのだから。
だが今となっては、それら全てが、自分に追い詰められたという記憶に変わってしまっているらしい。
唇を強く噛みしめ、激しくなる鼓動を押し殺し、泣き声をあげまいと我慢する。
琴音のあまりに悲痛な涙に、朔弥の燃え盛る怒りがふっと消えた。
彼は怒りに震えていた手を放すと、眉間を揉んで目をそらした。
「お前に安心感を与えてやれなかったことは、分かった。でも、俺だって、それなりにやってきたつもりだ。これからは、お前とちゃんと向き合うし、紗良とだってただの友人として付き合う。それ以上のことは絶対にない。俺を信じてくれるか?」
琴音にはわかっていた。朔弥がこういうふうに言う時は、とっくに我慢の限界にきているということを。
だからこれ以上言っても、事態は悪くなる一方で、自分が辛い思いをするだけ。
もう何も言いたくなくて、琴音はそっと目を閉じた。
病室が静まり返る中、朔弥は琴音が受け入れたと思い込んだのか、用意していたサプライズを告げた。
「前からずっとオーロラを見たいって言ってただろ?もう旅行の予定も立ててあるんだ。結婚3周年の記念に、一緒に南極へ行こう。欲しいものがあるなら何でも言ってくれ。プレゼントだって、お前が望むものを全部用意するから」
琴音は笑った。それはとても痛々しい笑みだった。
自分たちはそもそも形だけの夫婦だ。記念日なんて最初からどこにもない。
口を開こうとしたその時、朔弥の携帯が鳴った。
画面を見た彼は、すぐに立ち上がり、一言残してすぐに去っていった。
「ゆっくり休め。急ぎの会議が入ったから、会社に戻る。何かあれば連絡して。すぐに戻ってくるから」
携帯の画面に表示された、紗良の名前が目に入る。また嘘をつかれた。
だが、もう今の琴音にしたら、どうでもいいことだった。
どうせ、あと数日でここからいなくなるのだから。
今日からは、朔弥が何をして、誰を好きになろうと、もう自分には何も関係ない。
第4話
病院で数日間療養し、琴音は一人で退院した。
医者からは鬱の兆候があるから、気分転換をするように勧められた。ちょうど天気が良かったので、琴音はそのまま散歩に出かけることにした。
南区まで歩いて疲れた琴音は、ふらりと静かなバーに入った。腰を下ろし、ふと窓の外に目を向けると、見慣れた二人の姿がそこにはあった。
朔弥と紗良。
人混みの中で、紗良の顔に付いたクリームを朔弥がハンカチで拭ってやったり、ほどけた靴紐をかがんで結んであげたりしていた。
琴音はそれを黙って見ていた。まだ仲が良かった頃の、自分たちの昔を思い出す。かつての朔弥は、自分にも同じようにしてくれたっけ。
時間が流れれば、人の心は簡単に変わる。もう、自分を苦しめるのはやめようと、琴音は思った。
もう彼らのことを考えるのはやめよう、と二人から視線を外したその時、紗良が朔弥を引っ張って、偶然にも後ろの席に座った。
琴音に気がついていない彼らの会話は、丸聞こえだ。
「朔弥。あんなことがあったから、結婚の話がなくなったでしょ?だから、怒った親が別の見合いを無理強いしてきて、しかも断ったら親子関係を切るなんて言うんだよ?でも、朔弥以外考えられないの……ねえ、朔弥。籍なんて入れられなくてもいいから、あなたのそばにいさせて」
一瞬の沈黙の後、朔弥の低い声が聞こえてきた。
「俺と籍を入れるって、ご両親に言え」
その言葉に、紗良は一瞬固まり、驚きの声を上げる。
「何を言っているの?琴音さんと籍を入れているでしょ?」
「琴音とは式を挙げただけで、籍は入れていない。数日後、結婚記念日だと言って、旅行で彼女を海外へ送り出すから、その隙に入籍しよう」
琴音は爪が手のひらに食い込むほど、手を強く握りしめた。
そういうことだったのか。
あの記念日のサプライズが、すべてが自分を遠ざけるための嘘だったなんて。
その瞬間、琴音の胸がナイフで切り裂かれたように痛んだ。
彼女は口角をわずかに上げ、引きつった笑みを浮かべた。
後ろから入籍について楽しそうに話す声がずっと聞こえ、耐えられなくなった琴音は鞄を掴むと、逃げるようにトイレへ駆け込んだ。
鏡に映る顔は真っ青で、目も充血している。蛇口をひねり、震える指を冷たい水で洗うが、心に込み上げる痛みを押し流すことはできなかった。
どれくらいの時間が過ぎた頃か、耳障りな火災報知器の音が鳴り響いた。
「火事だ!逃げろ!」
慌てふためく叫び声の中、琴音がドアを開けると、真っ黒な煙が一気に流れ込んできた。
口をハンカチで押さえ、人の流れと共に非常口へと向かう。
その時、人混みに逆らって走っている朔弥が見えた。
汗だくのシャツ、見たこともないほど必死な顔で叫んでいる。「紗良!紗良!どこにいるんだ!?」
知らない人が必死で朔弥を止めた。「入るな!中は火の海だぞ!」
しかし朔弥は聞く耳を持たず、火の中へ迷わず飛び込んでいった。
その瞳は決意に満ち、いくら火に飲まれようとも、必ず紗良を助け出すという執念を感じさせた。
その場で立ち尽くし、琴音は16歳の時の土砂崩れの事故を思い出していた。
廃墟の下敷きになり、息絶え絶えだったあの時。
朔弥は指の肉が裂けるのも構わず、一晩中素手で土を掘り続け、死の淵から自分を引き戻してくれた。
その瞬間、この命を救ってくれた少年に、一生を捧げようと思ったのだ。
しかし今、朔弥は他の女のために、迷いなく火の中へ飛び込んだ。
朔弥から愛というものが消えたわけではない。
ただ、その対象が自分ではなくなったというだけ。
琴音は波のような人の流れに押され、安全な場所まで避難した。
遠くからは消防車のサイレンが近づいてくる。
燃え盛るビルを見上げ、胸が締め付けられるように苦しかった。
どれくらい経っただろうか、火の中から今にも倒れそうな影が飛び出してきた。
ボロボロになった朔弥の腕の中に、紗良が抱かれている。
全身が血にまみれていた朔弥だったが、紗良はかすり傷ひとつなかった。
脱出した途端、朔弥は力尽き膝をついたが、それでも紗良を抱える腕の力は緩まない。
救助隊員たちがすぐさま二人を担架に乗せる。
琴音はその場に立ち尽くし、遠ざかる救急車を見送っていたが、背を向けるとそのまま夜の闇へと消えていった。
帰宅し、全ての通知をオフにする。病院にいる朔弥のもとへは行かず、それからの数日間は、淡々と荷造りをした。
すべてを片付け終え、5日後のチケットを予約する。
航空会社からの日程確認の電話で、一つ一つ答えた。
「はい、5日後のチケットで間違いないです……」
そう言い終わるや否や、ドアが乱暴に叩き開けられた。
そこに立っていたのは、包帯を巻いた激怒した顔の朔弥だった。「5日後、どこへ行く気だ?」
第5話
琴音の指先がわずかに震えた。朔弥が突然戻ってくるなど、予想もしていなかった。
心の中で波立つ感情を必死に抑え、努めて冷静を装って答える。「オーロラを見に行くんでしょ?さっき、旅行会社から確認の電話があったの」
朔弥は一瞬、呆気に取られていた。どうやら旅行のことを完全に忘れていたらしい。
額にはまだガーゼが貼られ、顔色はいくらか青白かったが、それでもやはり顔立ちは整っている。
「数日前、怪我をして入院したから、何回もメッセージや電話をしたのに、どうして無視したんだ?」朔弥はじっと琴音の目を見つめた。
琴音は視線を伏せ、いつも通りの淡々とした声で答える。「携帯を失くしちゃったの」
そう言って、そのまま部屋を出ようとした。
琴音の冷たい態度に朔弥は眉をひそめ、たまらず琴音を呼び止めた。
「それだけか?怪我の具合とか、病気のことは気にならないのか?」
琴音は足を止める。
もちろん、朔弥が何を期待しているのか理解していた。
以前の自分のように、彼の怪我を心配し、心を痛めながら薬を塗り、甲斐甲斐しく尽くしてほしいのだろう。
今までの琴音は、朔弥が胃を痛めれば、大雪の中でも薬を買いに走り、朔弥が酔い潰れれば、一晩中眠らずに介抱した。
朔弥が肉親を亡くした時も、片時も離れずそばで見守った……
だが、自分は馬鹿じゃない。
かつて、自分が彼を愛していたのは、朔弥も同じく誠実な愛を返してくれていたからだ。
今、彼の心の中には別の誰かがいて、自分への愛が泥で汚されてしまったのなら、もう終わらせるべきだ。
「私があなたに関わりすぎるのが嫌だって言ってなかった?」琴音は振り返り、静かな笑みを浮かべる。「だからね、これからは適度な距離を保つから。あなたが話したくないなら無理には聞かないし、やりたくないことを強要もしないよ」
まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃が、朔弥に走った。
何か言いたかったが、何も言葉が出てこない。
なぜなら、琴音が放った言葉は、かつて自分が琴音に投げつけた言葉そのものだったから。
張り詰めた空気を、沈黙が支配する。
その後、自分でもなぜかわからないまま、朔弥は琴音を追って寝室に入った。
朔弥はドアの前で立ち尽くし、黙々と荷造りをする琴音の背中を見つめながら、胸が押し潰されるような苦しさに襲われていた。
「2ヶ月前、お前の誕生日だったよな」朔弥は無理やり話題を変える。「出張に行ってて、一緒に過ごしてやれなくてごめんな。お前の好きそうなアクセサリーが、オークションハウスに入ったから、一緒に選びに行こう。誕生日プレゼントってことでさ」
琴音は頭も上げずに答えた。「要らない」
それでも朔弥は引き下がらず、強引に彼女を連れ出した。
オークションハウスに着き、以前好きだったジュエリーを並べられても、琴音は一向に気分が乗らなかった。
朔弥は琴音があまり乗り気ではないことを察すると、特に理由は問わず、片っ端から札を上げていった。
「6億」
「10億」
「16億」
朔弥は次々と札を上げ、ほとんどのものを買い占めた。
落札するたび、琴音の顔に喜色が浮かぶことを期待して振り向く。
だが、琴音は無表情のまま。
周囲でひそひそと話す声が、絶えず耳に入ってくる。
「あれって神谷グループの神谷社長と奥様?噂通りの仲の良さね」
「でも、結婚前に神谷社長には親しい女性がいて、破局寸前だったって聞いたけど?」
「まあ、男なら誰だって一度や二度羽目を外すこともあるんじゃない?でも、結局は家庭を選んだんだからさ」
第6話
周囲の心ない噂話が、琴音の心に深く刺さる。
自分の隣で、自信に満ち溢れる朔弥の横顔を見上げ、琴音は自分が何だかとても滑稽に思えた。
世間から見れば、自分たち二人は憧れの夫婦なのかもしれない。
だが、この結婚自体が嘘で塗り固められていたことを知っているのは、琴音しかいないのだ。
朔弥は紗良の存在を忘れてなどいなかったし、自分たち二人の間には、一生埋まることのない溝があるのだから。
一度離れた心は戻らない。ましてや、壊れた家庭が再び幸せを取り戻すことなどあり得ないのだ。
オークションが終わり、朔弥が電話をとるため、席を立った。
スタッフが丁寧に包装されたジュエリーボックスを琴音の手に渡す。ずっしりとした重みで手首がじんと痛んだ。彼女は途方もない価値を持つジュエリーを抱えて外へ向かったが、角を曲がったところで、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
個室のドアの隙間から、涙目で朔弥の手を振り払う紗良の姿が見えた。
「残業って嘘までついて、結局琴音さんをオークションに連れてきてたの?」紗良が泣きそうな声で訴える。「もし、私が結婚指輪をここに選びにこなかったら、そのまま隠し通すつもりだったの?!」
朔弥がため息をつき、その濡れた瞳を指で優しく拭った。「残業なのは本当だよ。会社にはこの後すぐ戻るから。琴音を連れてきたのは、誕生日祝いがまだだっただけ。怒らないで」
琴音は、ドアの隙間から紗良の表情が、次第に穏やかになっていくのを眺めていた。
「じゃあ、どうして先に言ってくれなかったの?」紗良は朔弥の袖を掴んで揺さぶる。「私が欲しかった結婚指輪まであなたが入札した。もう、本当むかつくんだけど」
「俺が悪かったって」朔弥は愛しそうに紗良の頭を撫でた。「その指輪は、また後でお前にやるから」
「それに、あのサファイアのネックレスも……」
「ああ」
「ヒスイのブレスレットも素敵だった……」
「全部お前にやるよ」
琴音は重たいジュエリーボックスを手に、口角を歪めた。
紗良が些細なことで機嫌を損ねても、朔弥は理解を示し、受け入れ、自分から謝る。なのに、それが自分になると、ただ一言聞いただけなのに、「無理難題を押しつけている」「わがままを言っている」と片付けられてしまうのだ。
紗良が欲しがるものは何でも即座に用意する。自分のための誕生日プレゼントですらも、迷わずに。
一体、自分のどこが「束縛しすぎ」だというのだろう?
結局のところ、朔弥がもう自分を愛していないだけだった。だから自分が何をしても、かつてのように気遣われることも、理解されることもない。
もう聞いていられなくなった琴音は、黙ってその場から離れた。
外に出てタクシーを止めようとしたとき、朔弥が追いかけてきた。
「琴音、急ぎの仕事ができたんだ。一人で帰れるか?」
琴音が小さく頷くと、朔弥は彼女の手にあるジュエリーボックスを見つめながら、考え込むように言った。
「さっき取引先の人たちに会った時に、そこの奥さんたちも今日競り落とした宝飾品を見てたらしくて、譲ってほしいって言われたんだ。お前もそんなに気に入っている感じじゃなかったし、譲るって約束しちゃってさ。また今度、お前の好きなものを買ってやるから、な?」
琴音はその嘘を責めることはせず、ジュエリーを朔弥に渡した。
「大丈夫。もう今度なんてないから」
朔弥が一瞬固まった。「何を言っているんだ?」
琴音はただ首を振り、彼を仕事に向かわせる。
遠ざかっていく背中を見つめながら、琴音は心の中で呟いた。
自分たちの関係は間もなく終わるのだから、今度なんてないのだ、と。
帰宅後、琴音は高熱を出し、そのまま数日間寝込んだ。
朦朧とする意識の中で何度も夢を見た。16歳の朔弥が側にいて、優しく薬を飲ませてくれる夢。汗をかいた肌を拭い、自分を心配そうに見つめる彼の姿……
しかし、目を覚ませば、そこには誰の気配もなく、空のグラスと散らばった錠剤が転がっているだけ。
水を飲もうと、熱でだるい体を引き摺りながら、一階へ向かう。しかし、階段を踏み外し、転げ落ちてしまった。
全身を打ち、額からは血が流れ出し、衣服までが真っ赤に染まっていく。
血の中に横たわったまま、体中の骨が砕けたような痛みに襲われ、指一本すら動かせなくなっていた。
物音を聞いて駆けつけた家政婦は悲鳴を上げ、すぐ救急車を呼んだ。
救急車の中、家政婦は何度も朔弥の携帯へと電話をかけていた。
「おかけになった電話は、ただいま……」
その機械的な女の声が聞こえたのも、これで37回目。
琴音は弱々しく家政婦の腕を押さえる。「もういいよ。どうせ出ないから」
幼い頃から琴音のそばにいた家政婦は、朔弥の深い愛情を見てきたからこそ、この現状に瞳を潤ませた。
「そんな……きっと何かトラブルがあったんですよ。奥様、心配しないでください。仕事が終われば、旦那様はすぐに飛んできてくれるはずですから。奥様の指先のささくれひとつで病院に連れて行こうとする方ですよ?それに、奥様の生理の時は、ずっとそばにいてくれる方なんですから……」
琴音が瞳を閉じると、一筋の涙がすーっとこぼれ落ちた。
かつて自分を心配して右往左往していた朔弥は、もう思い出の中にしかいない……
第7話
2日後、ようやく琴音の熱は下がった。
退院のための荷物をまとめていたとき、突然携帯が震えた。
紗良から長文が送られてきた。
【あなたって、本当に可哀想。あなたと朔弥は入籍なんてしてなかったのよ。知ってた?朔弥はそもそもあなたと結婚するつもりなんてなかったから、ずっと嘘をつき続けていた。大好きだった夫に裏切られるなんて、惨めだと思わない?
私のこと、あなたたちの家庭を壊した浮気相手だって思ってるんでしょ?だったら、教えてあげるよ。朔弥はね、私と正式に入籍するって決めてくれたの。明日の朝、朔弥は私と役所に行ってくれるんだって。だから、これからは私こそが朔弥の妻で、あなたこそが愛人なんだから!】
紗良からの挑発に対し、琴音は冷静に携帯をしまい込んだ。その瞳には、もう何の感情も映っていない。
琴音は堕胎手術をしてくれた担当医の元を訪ね、頼んでいたエコー写真を受け取ると、業者に依頼して役所へ届けさせるよう手配した。
すべてを済ませ、琴音は退院の手続きをとった。
自宅に戻ると、すでに朔弥が帰宅しており、テーブルの上には自分へのプレゼントだという品々が積み上げられていた。
以前なら、大切にされていると喜んでいただろう。
だが、今はもう分かっていた。朔弥はただ罪悪感を、プレゼントという形で、誤魔化しているだけなのだと。
琴音はちらりと目を向けただけで、特に気にすることもなく、「ありがとう」とだけ伝えて寝室へ向かった。
朔弥が琴音を呼び止めた。
「琴音、最近いろんなプロジェクトでトラブルが起きてて、ずっと会社にいなくちゃいけないんだ。だから、一人で先に南極に行っててくれないか?向こうの滞在の手配は全部済ませてあるし、世話係も同行させる。会社のことが落ち着いたら、俺もすぐに合流するから。いいかな?」
朔弥に背を向けながら、琴音は力なく笑った。
仕事を言い訳にして、実際は紗良と婚姻届を出すつもりなんでしょ?
ねえ朔弥。16歳のあなたは、26歳になった自分がこんなふうに私を裏切るなんて想像したかしら?
「いいよ」琴音は振り返りもせずに、静かに答えた。
朔弥は固まった。
用意していた言い訳や甘い慰めの言葉が喉につかえ、何も言葉が出てこない。
素直に受け入れた琴音の態度が、どこか他人みたいで不安に襲われる。
朔弥が何か言おうとしたその時、紗良から【足を捻挫した】とメッセージが届いた。
朔弥は琴音の後ろ姿を見てから、「急ぎの仕事ができた」と短く伝え、上着を手に取って部屋を出ていった。
翌朝のこと。
役所へ向かう道中、ハンドルを握る朔弥の心中は穏やかではなく、嫌な予感で胸が押しつぶされそうだった。
信号待ちの際、眉をひそめて携帯を取り出し、思わず琴音へメッセージを送った。
【琴音、もう出発した?】
役所に着いた頃、ようやく琴音からの返信が来た。
空港の写真と、短いメッセージ。
【今、空港。あと5分で離陸する。朔弥、あなたへのプレゼントを用意したから、忘れずに受け取ってね】
そのメッセージを読んだ途端、朔弥の鼓動は急速に速まり、心の中がざわついてたまらなかった。
電話をかけて、プレゼントが何か確かめようとしたのだが、隣で紗良が「早く並ばないと」と腕にしがみついてくる。
「もうすぐ私たちの順番だよ?朔弥、携帯なんて見てないでよ」
数秒迷ったが、結局朔弥は通話ボタンを押さず、携帯をポケットに戻した。
30分後、役所の玄関を背にする二人の手元には、婚姻届受理証明書が握られていた。
車に乗り込もうとした時、いきなり宅配業者が現れ、荷物を差し出してきた。
「神谷さんでしょうか?奥さんからのお届け物です。こちら、ご本人への手渡しということで……」
琴音からのプレゼント?なぜここに?
琴音はどうして自分が役所にいると知っているんだ?
朔弥は頭の中が真っ白になり、心臓が今にも破裂しそうなほど早鐘を打っていた。
訳も分からないまま、業者に促されるまま署名をする。
震える手で、厳重に梱包された箱の封を切った……