山村の風と愛しい日常

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山村の風と愛しい日常

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「俺が一番後悔しているのは……結空と結婚するって約束した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまったことだ」 個室はしばらく静まり返ってい...

Chương (1)

第1章

「俺が一番後悔しているのは……結空と結婚するって約束した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまったことだ」 個室はしばらく静まり返っていたが、やがて友人の一人が口を開いた。「圭馬さん、なんでだよ。結空さんともう十二年も付き合ってるじゃないか」 「長すぎたからだ。長すぎて、結空への気持ちがただの慣れなのか、それとも愛情なのか、もう分からなくなってしまったんだ」 新井圭馬(あらい けいま)は酒を一口飲んだ。 「会社が倒産して一番どん底だった時、結空は俺を置いて勝手に出て行った。俺のそばにいてくれたのは美波だったんだ」 第1話 異動通知が出る一週間前、星野結空(ほしの ゆあ)は新井圭馬(あらい けいま)にサプライズを仕掛けようと、こっそり都心へ戻る新幹線に乗り込んだ。 雨の中を急いでバーに駆けつけると、個室のドアの外で、圭馬が友人たちに「これまでの人生で一番後悔していることは何か」と聞かれているのを耳にした。 「俺に言わせれば、圭馬さんの人生に後悔なんてあるわけない」 すぐさま別の声が同調した。「当たり前だろ!来週には結空さんも帰ってきて、めでたくゴールインなんだ。これ以上、圭馬さんに何の悔いがあるんだよ」 圭馬はしばらく黙り込んでいたが、やがてこう口にした。 「あるさ」 個室の中が一瞬にして静まり返る。 「俺が一番後悔しているのは……結空と結婚するって約束した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまったことだ」 個室はしばらく静まり返っていたが、やがて友人の一人が口を開いた。「圭馬さん、なんでだよ。結空さんともう12年も付き合ってるじゃないか」 「長すぎたからだ。長すぎて、結空への気持ちがただの慣れなのか、それとも愛情なのか、もう分からなくなってしまったんだ」 圭馬は酒を一口飲んだ。 「会社が潰れて、人生で一番どん底だった時、結空は俺を置いて勝手に出て行った。俺のそばにいてくれたのは美波だったんだ。 美波は『ちゃんとご飯食べてね』っていつもまめに連絡してくれたり、俺が胃を痛めた時は温かいうどんを作ってくれた。気分が沈んでいる時も、不器用ながら冗談を言って俺を笑わせてくれるんだ。 結空は俺を12年も待ってくれた。約束通り彼女とは結婚する。美波へのこの好意は胸の奥にしまって、これきりにするつもりだ」 ドアの外でそれを聞いていた結空は目頭がツンと熱くなるのを感じた。 吉川美波(よしかわ みなみ)は、結空が以前勤めていた病院の看護師だ。 三年前、圭馬は起業に失敗し、多額の借金を背負い込んだ。 当時、圭馬の父親である新井大輝(あらい だいき)も体調を崩し、圭馬は金銭的な重圧に押しつぶされそうになっていた。 そんな時、結空は偶然、病院が主催する僻地医療支援プロジェクトを知った。三年間の特別手当は二百万円だった。 結空はそのお金のために迷わず自ら志願し、最も辺鄙な山村へ医師として赴任した。 この三年間、彼女は雨漏りするお粗末な土壁の家に寝泊まりし、濁流に足を取られながら村人たちの診察に向かった。一日の歩数が二万歩を下回ることはないほど過酷な日々だった。 一番辛かった時期、圭馬とのビデオ通話だけが心の支えで、一ヶ月の通話料が一万円近くに達したこともあった。 圭馬は何度も彼女にこう告げていた。「結空、お前が帰ってきたら結婚しよう」 その後、彼は仕事に追われ、電話の回数も次第に減っていった。 彼女は自分が送ったそのお金で彼が再び立ち直ったのだと思っていた。 まさか、彼が一番誰かを必要としていた時期に、別の女が自分の空席を埋めていたなんて。 ゼロからやり直す彼に寄り添い、立ち直るのを励ましていたなんて。 結空は涙をこぼすまいと下唇を強く噛み締めた。 ちょうどその時、一人の人影が彼女のすぐ脇を通り抜け、真っ直ぐに個室のドアを押し開けた。 中から、「美波さん、どうしてここに?」という声が聞こえる。 圭馬のもう一人の友人が冗談めかして笑った。「そんなの決まってるだろ!結婚する前に、圭馬さんが彼女のことをみんなに正式に紹介するつもりなんだよ」 中に立つ美波は頬を赤らめた。「誤解だよ。SNSを見たら、圭馬が数日前に胃痛で入院したって書いてあったから、心配になって様子を見に来ただけなの。 ついでに、大輝さんの回復具合についても話そうと思って。 お邪魔じゃなかったかしら?」 友人が圭馬を小突いて、笑いながら代わりに答えた。「そんなわけない!美波さんが来てくれて、圭馬さん、大喜びだよ」 圭馬は軽く笑った。「からかうな、美波が恥ずかしがるよ」 その口調に滲む親密さと庇うような態度は誰の目にも明らかだった。 結空は心臓が握り潰されるように痛んだ。 圭馬は他人との距離感を厳格に保つ人間で、親しくない相手には見向きもしない。 だからこそ、今日彼が見せたあの露骨なまでの庇い立ては、美波が彼の心の中でどれほど大きな存在になっているかを如実に物語っていた。 彼を責めるべきなのだろうか。結空には分からなかった。 彼が人生のどん底にいた最も暗い時期、そばに寄り添い、彼を立ち直らせてくれる人がいた。それは、自分にとっても喜ぶべきことのはずだった。 でも、自分は?自分はこれからどうすればいいのだろう…… 結空がそんなとりとめもない考えに耽っていると、突然個室のドアが開け放たれ、反応する間もなく、結空は圭馬と真っ正面から視線を交わすことになった。 全員が、まさかここで結空に出くわすとは思っていなかったようで、一瞬呆気にとられた。 先に我に返ったのは圭馬の仲間だった。慌ててその場を取り繕うように言った。「結空さん、いつからそこにいたんだ?俺たち、ちょっと飲みすぎてバカなこと言ってただけだからさ、誤解しないでくれ!」 圭馬の目にも明らかな動揺が走り、低い声で何かを言いかけた。「結空、俺……」 結空は深く息を吸い込み、何事もなかったかのように彼の言葉を遮った。「今着いたところ。次は飲みすぎないようにね、体に悪いから」 圭馬はホッと息をつき、彼女を隅に引き寄せると、コート越しにその体を抱きしめた。 「帰るなら教えてくれれば迎えに行ったのに。長旅、疲れただろ」 彼の手は温かかったが、結空にとってその温もりはかえって刃のように心を刺した。 彼女は最後の一縷の望みを抱いて尋ねた。「さっき……何を話していたの?」 圭馬は微笑んで答えた。「いつお前をお嫁にもらうかって……話してたんだ。 もう12年だ。そろそろ結婚しないとな」 これが二度目のチャンスだったにもかかわらず、圭馬はやはり嘘をつくことを選んだ。 結空は苦笑した。ああ、彼だってちゃんと分かっていたのね。もう12年も経ったんだって。 学生時代から社会人になり、倦怠期も乗り越えてきた。このまま一生、共に寄り添い合って生きていくのだと、結空は信じて疑わなかった。 それなのに、12年かけて積み上げてきた絆が、離れていたわずか三年の間に、こうもあっけなく崩れ去ってしまうなんて。 圭馬が口を開いたあの瞬間、結空はこんなことすら考えていた。もし彼が正直に真実を話してくれれば、許したかもしれないと。 圭馬が一番苦しんでいた時に、自分がそばにいられなかったのだから、誰かが彼に寄り添っていたとしても怒るつもりはなかった。 彼が心変わりしそうになったことも、理解できたはずだ。 でも、嘘だけはついてほしくなかった。 結空がさらに何かを聞こうとした時、少し離れた場所に立っていた美波が声を潜めて言った。「圭馬、もういいかしら?大輝さんの件だけど……」 圭馬はほとんど無意識のうちに、結空を抱きしめていた手をぱっと離した。 「結空、お前は先に帰って休んでてくれ。俺は病院にお父さんの様子を見に行ってくる。容体が落ち着いたら、結婚式のことを相談しよう」 そう言い残し、彼は背を向けて美波の方へ歩き出した。 美波の視線が結空に向けられ、小さな声で尋ねた。「こちらの方は……?」 数歩離れた場所から、圭馬が一瞬ためらった後、こう答えるのが結空の耳にはっきりと届いた。 「ただの友達だ」 ただの友達だ。 12年もの歳月を共にし、彼のために僻地で身を削るようにして働いた三年間の日々が、最終的には「ただの友達だ」という一言で片付けられてしまうなんて。 ついに涙が堰を切ったように溢れ出し、視界を滲ませた。 しばらくして、結空は震える手でスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。 「杉本院長、申し訳ありません。異動の申請……取り消していただけませんか。私、残りたいんです」 第2話 電話の向こうで、杉本晃成(すぎもと こうせい)の口調には困惑が滲んでいた。 「結空さん、よく考えなさい。この異動枠は君が三年も待ったものだし、病院側も君の個人的な事情を考慮して優先的に許可したんだよ。 戻ってきたらすぐに結婚の準備をするって言っていたじゃないか?それがどうして、急にやめるなんて言い出したんだ?」 結空は声を詰まらせた。 「結婚はもうしないことにしました。なんだか……私たち、合わないみたいなんです。 それに、村の人たちの方が私を必要としてくれていますし、私も……やっぱり、あそこを離れるのが名残惜しいんです」 晃成は小さくため息をつき、それ以上は追及しなかった。「分かった。君がそう決めたのなら、申請は取り消しておこう。今週はゆっくり体を休めて、来週また診療所へ出勤しなさい」 「ありがとうございます」 電話を切った後、結空は心ここにあらずの状態で家へと帰った。 家に着くとすぐに、圭馬からメッセージが届いた。 【結空、お父さんの容体が急変して、俺は病院に残らなきゃいけなくなった。帰ってきたばかりで疲れてるだろうから、俺のことは待たずに早く休んでくれ】 結空は【分かった】と一言だけ返信した。それ以上の文字を打つ気力すらなかった。 画面を閉じようとしたその瞬間、おすすめタイムラインの動画付きのSNS投稿が、突然スマホに表示された。 画面に表示された見覚えのあるアカウント名に、結空は何かに取り憑かれたかのように、引き寄せられるままその投稿をタップした。 それは、小さな花火大会の様子を収めた写真の数々だった。 その中の一枚は、こっそりと隠し撮りされた男性の後ろ姿だった。 夜空に花火が打ち上がる中、男性の後ろ姿は少しぼやけていたが、彼がわずかに顔を傾け、隣で花火を見上げる女性の横顔に向けた視線だけは、はっきりと捉えられていた。 添えられたキャプションにはこう書かれていた。【花火なんて儚いものだって彼は言うけれど、今、私の目に入る景色は温もりで満たされている】 コメント欄は、どれも例外なく二人の仲を羨む言葉ばかりだった。 【なるほどね、花火大会ってこういう風に楽しむものだったんだ?ごちそうさま!】 【ちょっと待って、彼氏さんの視線が熱すぎて花火が完全に霞んでるよ!早く振り返って気づいてあげて!】 結空の全身の血が一瞬にして凍りついた。 その後ろ姿、そのコート――間違いなく圭馬だった。 そして、彼が愛おしそうにじっと見つめているのは、幸せそうに笑みを浮かべる美波の姿だった。 結空は美波のSNSのプロフィール画面を開いた。 投稿を下へ下へとスクロールするたび、心臓をじわじわと切り刻まれていくような激痛が襲った。 二ヶ月前。スキー場で、二つの手がしっかりと握り合わされている写真。そのうちの一人の腕には腕時計が光っていた。 【スキーに行ったことがないって言ったら、彼が有休を取って連れてきてくれたの】 結空はその腕時計をよく知っていた。彼女が社会人一年目のボーナスで圭馬にプレゼントしたものだ。 三ヶ月前。映画の半券の写真。【こっそり一枚。彼が初めて恋愛映画に付き合ってくれた記念】 半年前。使い込まれたライターの写真。【彼の忘れ物、もらっちゃった】 そのライターは大輝からの贈り物で、圭馬が肌身離さず持ち歩いていたものだった。 一つ一つの出来事が、時間軸に沿ってはっきりと線で繋がっていく。 彼女が照りつける太陽や激しい雨に耐えながら、田舎の泥道を歩き回っていた時。 彼女が深夜、彼の「会いたい」という一言を聞くためだけに愛おしそうにスマホを抱きしめていた時。 彼女が生活費を切り詰め、二百万円の特別手当を一円も残さず彼の起業資金として送金した時…… 圭馬は彼女が血を吐くような思いで稼いだお金を使って、別の女とロマンチックな時間を楽しんでいたのだ。 涙で画面が滲み、彼女はもう感情を抑えきれず、声を上げて泣き崩れた。 どれくらい泣いたか分からない。やがて力尽き、泥のように眠りに落ちた。 翌朝目を覚ました結空は簡単に身支度を整え、栄養ドリンクなどの差し入れを買って病院へ向かった。 病院に着くやいなや、圭馬がしゃがみ込み、美波の赤く腫れた足首を優しく揉み解しているのが目に入った。 「どうして気をつけて歩かないんだ。痛むか?」 美波は顔を赤らめて恥じらいながら首を振った。「痛くないわ、私は大丈夫よ。こんなにたくさんの人が見ているのに……」 通りかかった別の看護師たちまでもが、その光景にニヤニヤしながらからかいの声をかけてくる。 「吉川さん、彼氏さん本当に優しいわね」 美波が何か言い返す前に、圭馬は弾かれたように慌てて距離を取った。 傍らに立っている結空に気がついたからだ。「結空、どうしてここに……?」 結空は無表情のまま二人を通り過ぎようとした。「大輝さんの様子を見たら帰るわ」 だが、圭馬は結空の手首を強く掴み、かすれた声で弁解した。 「美波はお父さんの世話をしていて足を捻ったんだ。だから俺は…… 怒らないでくれ。数日したらウェディングドレスを選びに行こう、な?」 結空はただ、静かな声で告げた。「必要ないわ。結婚式はキャンセルして」 第3話 圭馬は一瞬言葉を詰まらせ、苛立ちを滲ませた口調になったが、それでも無理に怒りを抑え込んで言った。「たかがそんなことで怒ってるのか? 三年見ないうちに、ずいぶんと意地っ張りになったな」 結空はふっと自嘲気味に笑った。「圭馬、もし本当に彼女のことが好きなら、愛人になんて甘んじさせるべきじゃないわ」 「結空!」 圭馬の顔が怒りで一気に引きつった。「何度も言ってるだろ!俺と美波はお前が思っているような関係じゃない!」 こちらの不穏な空気に気づいたのか、周囲にいた他の看護師や患者たちが遠巻きにこちらを窺い始めていた。 ひそひそと囁き合う声が微かに聞こえてくる。 「あの吉川さん……まさか、本当に愛人なの?」 「吉川さんと一緒にいるあの男の人、彼女さんと12年も付き合ってて、もうすぐ結婚するらしいわよ」 「もし本当なら、いくらなんでも酷すぎるわね……」 美波の顔がサッと青ざめた。「結空さん、お二人の話は聞いているの。本当に誤解だよ。私と圭馬はそんなやましい関係じゃない。私はただ……自分の仕事をしていただけ。もし勘違いさせちゃったんなら、謝るから……」 圭馬は苛立たしげに眉をひそめた。「いい加減にしろ。 この三年間、俺が辛かった数え切れないほどの日々を、美波がそばで支えてくれたんだ。もし俺たちに本当にやましい関係があるなら、わざわざ今まで隠す必要なんてないだろ?今すぐ美波に謝れ!」 結空はただ、冷ややかな瞳で静かに彼を見つめていた。 人の心は、いつだって不公平に傾くもの。とりわけ、自分の好きな人の前では。 12年もの歳月を捧げて愛してきた男が、今、別の女を守るために自分を敵のように睨みつけている。 結空は静かにかぶりを振った。「圭馬、肉体的な繋がりを持つことだけが裏切りというわけではない。 心の繋がりを絶たれること、感情が他の誰かに移ってしまうこと……それも浮気よ。むしろ、その方がずっと残酷だわ」 圭馬は雷に打たれたように全身をビクッと震わせた。その言葉に図星を突かれたのか、無意識のうちに結空の腕を掴んでいた手をふっと緩める。 何か言い返そうと口を半開きにしていたが、言葉が出ない。 ちょうどその時、病室のドアが内側から乱暴に開け放たれた。 病室から姿を現した大輝は、怒りで顔を真っ青にしていた。 次の瞬間、周囲の人間が息を呑んで見守る中、大輝は腕を振り上げると、圭馬の頬を渾身の力で張り飛ばした。 「この馬鹿息子がっ!」大輝は怒りのあまり、胸を激しく上下させていた。 「お前が腹の中で何を企んでるか、俺が気付いていないとでも思ったか! お前を小さい頃からどう育ててきたと思ってるんだ!他所の女と結託して、自分の婚約者を虐め抜くような情けない男にするために育てた覚えはないぞ!」 圭馬はビンタの衝撃で顔を横に弾かれ、ヒリヒリと焼けるような痛みが走る頬を押さえながら、信じられないといった表情で大輝を見つめ返した。 大輝はもう圭馬を一瞥することもせず、結空の腕を引いて病室へと促した。「外は騒がしいから、中に入って話そう」 病室に入ると、大輝は結空をベッドの傍らに座らせた。「結空。圭馬はお前と三年も離れていたから、まだ距離感が掴めなくて魔が差したんだ。 だがな、俺にとってもあいつはたった一人の息子だ。あいつが胸の奥で何を考えているかは、この俺が一番よく分かっている。 お前たちは12年も連れ添ってきた仲じゃないか。たった一度の過ちで、今まで二人で築き上げてきたものをすべて無かったことにはできないはずだ。 どんなことがあっても、あいつの心の中にはいつだってお前がいるんだ。俺の顔に免じて、今回だけはあいつを許してやってくれないか。それでも気が済まないなら、後で俺が厳しくあいつを説教してやるから」 結空の胸の奥に、切ない思いがこみ上げた。 大輝は確かに自分のことをとても可愛がってくれている。けれど、実の息子である圭馬の存在には、どうしても敵わない。 圭馬なら、責任感や罪悪感から自分と結婚することを選ぶかもしれない。けれど、そんな義務感だけで縛られた結婚に、幸せなんてあるはずがない。 あと五日もすれば、自分はあの村へと戻る。もうこれ以上、何も言い訳したり説明したりする気にはなれなかった。 結空は大輝の言葉には答えず、ただ静かに言った。「大輝さん、今はそれよりもご自身の体調の方が大切です」 大輝は手を振りながら深くため息をついた。「昔からの持病だからね。良くなったり悪くなったりを繰り返していて、どうにもすっきり完治せんのだ。病院暮らしなんて、身体が鈍って息が詰まるよ」 結空はふと違和感を覚えた。大輝の病状なら、そう何度もぶり返すはずがないのだ。 彼女はベッドサイドのキャビネットに置かれていた薬瓶を手に取り、手のひらに数粒の錠剤を出した。見つめるほどに、その眉間のシワが深く刻まれていく。 「大輝さん、入院中の薬の管理はずっと誰が担当しているの?」 大輝は不思議そうに首を傾げた。「基本的には吉川さんだ。圭馬も仕事で忙しいからね、身の回りの世話はほとんど彼女がやってくれているんだ」 結空の表情がすっと険しくなった。 「あなたの体の状態は、私が一番よく分かっています。本来の治療方針と適切な投薬を行っていれば、とっくに完治して退院できているはずなんです。 でも、この薬は違います。もしかすると……誰かが意図的に治療を長引かせ、あなたを退院させないように仕向けているのかもしれません」 第4話 大輝はきょとんとした顔をした。「結空、心配してくれるのは嬉しいがね。でも、俺のような年寄りを、わざわざ目の敵にする人間なんていないだろう? それにこの薬も、思い出した時にしか飲んでいないんだ。飲み忘れも多いから、効き目が悪いのも無理はないさ」 結空は手のひらの錠剤を見つめた。確かに、成分の配合量が減らされているだけのようだ。彼女は胸の奥にざわついた違和感をどうにか呑み込んだ。 それからもしばらく大輝と他愛のない会話を交わし、結空はようやく席を立って病室を後にした。 病院を出ると、圭馬がすでに車を回して外で待っていた。 彼は丁寧に助手席のドアを開けた。「結空、帰ろう」 車に乗り込むと、圭馬はいつもの癖で身を乗り出し、彼女のシートベルトを締めようとした。 だが、結空は彼よりも一足早く、自分でさっとシートベルトを引き出してカチッと留めた。「出して」 圭馬の手が空中でピタリと止まる。 以前の結空なら、わざとシートベルトを締めずに彼に甘えていたはずだった。 彼はここに来てようやく気付いた。自分の前ではいつも甘えん坊だった彼女が、あの辺鄙な山村から戻ってきて以来、一度も「辛い」や「疲れた」といった泣き言を口にしていないことに。 そのあまりにも不気味なほどの落ち着きに、圭馬は眉を深くひそめた。「結空、一体どうしたんだ?もしかして……まだ美波のことで怒っているのか?」 彼は声を落とし、謝罪の言葉を口にする。「今日のことは、俺が悪かった。 この三年間の美波の献身に感謝するあまり、お前の気持ちをないがしろにしてしまった。お父さんに殴られたのも当然だ、俺がけじめをつけられていなかった。 明日、一緒にウェディングドレスを選びに行こう。結婚式の準備もちゃんと進めるから。な?」 結空が口を開きかけたその時、圭馬のスマホが短く鳴った。 彼は素早く画面に目を落とし、その瞳に一瞬だけ柔らかな光を宿らせると、【今は立て込んでいるから、後で連絡する】と手早く返信を打った。 結空には分かっていた。相手が美波だということを。 恋という盲目なフィルターが外れてしまった今、彼の心がどれほど露骨に別の場所へ向いているのか、痛いほどよく見えた。 この一年、圭馬はいつも「仕事が忙しい」「時間がない」と口実を作って、長期間にわたり結空に連絡をしてこなかった。 けれど、本当に相手を大切に想っているのなら、どんなに忙しくてもスタンプ一つ、気遣う言葉の一つくらい送れるはずなのだ。 彼はただ、あぐらをかいていただけだった。 自分の浮気が絶対にバレない、12年も付き合った結空が自分から離れていくはずがないと、高を括っていたのだ。 だから結空はふっと微笑み、物分かりの良い女を演じてみせた。「怒ってなんかないわ。ただ、少し疲れただけ。 あなたも今忙しいんでしょ。結婚式のことは、また後回しで構わないから」 圭馬は言葉に詰まった。彼の記憶の中では、結婚の話を持ち出すたびに、結空は子供のように無邪気に喜び、彼の胸に飛び込んできたはずだ。 目をキラキラと輝かせながら未来の計画を語る彼女が、こんな冷めた態度を取るはずがなかった。 無意識に彼女の名前を呼ぼうとしたが、結空はすでに会話を拒むように目を閉じていた。 その後の車内には、重苦しい沈黙だけが続いた。 家に着くと、圭馬も苛立ちを隠そうとせず、乱暴にドアを閉めてベランダへタバコを吸いに出て行った。 結空は以前のように彼をなだめに行くことはしなかった。 ただ真っ直ぐに二階の寝室へ向かい、自分がこの家から持っていく荷物の整理を始めた。 最後のノートをキャリーケースに押し込んだその瞬間、寝室のドアがバンッと乱暴に蹴破るような勢いで開かれた。 ベランダから戻ってきた圭馬の顔には、見る者が恐怖を覚えるほどの怒りが張り付いていた。 彼は有無を言わさず大股で歩み寄ると、結空の手首を強く握りしめた。 「来い!」 「ちょっと、何するの!」 圭馬は無言のまま彼女を引きずり、強引に車に押し込むと、猛スピードで病院へと車を走らせた。 病院の正面玄関に、激しいブレーキ音を響かせて車を急停車させる。 結空は圭馬に力任せに引っ張られ、救急処置室の前まで引きずられていった。そこには、ベンチに座り込んで泣きじゃくる美波の姿があった。 処置室の扉は固く閉ざされている。 結空の胸に不吉な予感が走った。「一体何があったの?大輝さんはどうしたの?」 圭馬は結空の手を乱暴に振り払い、怒鳴りつけた。「お父さんが自分の病状にまったく合わない薬を飲んで、薬物中毒を起こしたんだ!今、中で救命処置を受けている。 防犯カメラを確認した。最後にお父さんの病室に入って、薬をすり替えたのは……お前だ」 第5話 結空は反射的に言い返した。「私じゃない!私はただ、あの薬を確認したの。用量が減らされていたくらいで、薬物中毒なんて深刻な事態になるわけがないわ! 大輝さんの投薬を担当していたのはずっと吉川さんよ。何があったか、彼女が一番よく分かっているに決まってる!」 「結空!」 圭馬はこめかみに青筋を立てて怒鳴りつけた。「この期に及んでまだ嘘をつく気か!俺が美波をかばったからって、そこまで彼女を恨んでいるのか?お父さんの命を危険に晒してまで、彼女を陥れたいのか! 防犯カメラにはっきりと映っていた!あの時間帯に病室へ入り、薬に触れたのはお前だけだ。お前以外に誰もいない!」 彼の凄まじい怒りを前に、結空は必死に冷静さを保とうとした。 けれど、胸の奥がチクリと刺すように痛む。 「圭馬、もう一度だけ言うわ。私はただ、薬の量がおかしいことに気づいて疑問に思っただけ。私が大輝さんを傷つけるようなことなんて、絶対にしない。 私たちは12年も一緒にいるのよ。私の性格くらい分かってるでしょ。今まで実の娘のように可愛がってくれた大輝さんに、恩を仇で返すような真似、絶対にできるわけがない!」 圭馬の瞳に、一瞬だけためらいの色がよぎった。 ちょうどその時、美波は涙に濡れた顔を上げた。「結空さん、確かに私が薬に手を加えたわ……でも、薬の成分を減らしたのは、大輝さんがいつも薬を飲むのが辛いっておっしゃっていたからなの。 検査の数値も安定していたし、これ以上強いお薬を飲み続けたら、かえって体に負担がかかるんじゃないかって心配で……それで、私の独断で少し減らしちゃったの。 私のことが憎いからって、私の仕事を侮辱しないで。この三年間、私が大輝さんを一生懸命にお世話してきたことまで踏みにじらないで。 それどころか、一人の命をダシにして、私に濡れ衣を着せるなんて…… 結空さんがどうしても納得いかないって言うなら、私、病院を辞める。あなたたちの前から消えるから」 結空が口を開くより早く、圭馬が遮った。 「もういい!」 圭馬の声は低く、冷酷に響いた。 「お前がいくら騒ぎ立てようと、俺と美波がこの三年間、共に過ごしてきた事実は変えられない。 それなのに俺は、『結空の帰りを待たなきゃいけない』『結空との約束を守るんだ』って、何度も自分に言い聞かせてきた。 医療従事者としてのモラルを捨て、人の命を弄ぶような悪魔に成り下がるくらいなら、いっそ……あの村で死んで、二度と帰ってこなければよかったんだ。 お前の両親が離婚した時、どちらもお前を引き取らなかったのは、きっとお前のその醜い本性を知っていたからだろうな。俺が今一番後悔しているのは、あの時、お前をこの家に連れ帰ってしまったことだ!」 その言葉は、一瞬にして結空の心の防壁を粉々に打ち砕いた。 彼女は信じられないものを見るように彼を見つめ、顔からサッと血の気が引いていく。 「……今、なんて言ったの?」 この瞬間、彼女があの村で耐え抜いた三年間の苦難はすべてただの滑稽な笑い話になってしまった。 結空と圭馬は幼馴染であり、親同士も旧知の仲だった。 かつて誰よりも彼女に寄り添い、家の前でうずくまって泣いていた彼女に手を差し伸べ、「僕と一緒に帰るか?」と聞いてくれた人。 一生守り抜くと誓ってくれた人。彼女をほんの少しでも泣かせたくないと、誰よりも大切にしてくれたあの人。 その彼が今、彼女の心の一番深い傷口に、一切の容赦もなく鋭い刃を突き立てている。 あまりの酷い言葉に、横で泣き真似をしていた美波すら呆然と立ち尽くしていた。 圭馬も自分の言葉が過ぎたと気づいたのか、深く息を吸い込み、少しだけ口調を和らげた。 「結空……俺たちが一緒に過ごしてきたこの12年、俺はお前にやましいことなんて何一つしていない。 お前が拗ねているだけだと思っていた。でも、今回ばかりは……本当に度が過ぎているぞ。 あの人は俺のお父さんだ!一人の人間の命なんだ!お前が嫉妬に駆られて他人を陥れるための道具じゃないんだ! 今回はお前を甘やかすわけにはいかない。過ちを犯したなら、相応の代償を払うべきだ」 彼が言い終わるか終わらないかのうちに、制服を着た二人の警察官がこちらへ歩み寄ってきた。 「星野さん。薬物を故意にすり替え、殺人未遂の疑いで通報がありました。署までご同行願います」 第6話 警察官の言葉が響き渡ると、廊下は水を打ったように静まり返った。 誰も声を発しなかったが、その場にいる全員の視線が結空へと注がれていた。 警察官が彼女の前に歩み寄り、事務的な手つきで手錠を取り出す。手首にはめられた金属の冷たさが、皮膚を通じて心臓まで一気に凍りつかせるようだった。 結空は何かを言おうと口を開きかけたが、喉が震えて声にならなかった。 彼女は一切の抵抗を見せず、ただ淡々と頷き、彼らの後に続いた。 その後ろ姿を見送る圭馬の口から、無意識のうちに声がこぼれ落ちた。「結空……」 結空が振り返ることはなかった。 けたたましいサイレンの音とともに、パトカーが走り去っていく。 取調室の照明は、冷たく無機質な白一色だった。 結空は知っている事実をありのままに供述した。しかし、圭馬との関係を問われた時だけは少し沈黙し、やがて静かにこう答えた。 「ただの隣人です。私は、そんなこと絶対にしていません」 記録を取っていた若い警察官が、ふと顔を上げて彼女を見た。「星野さん、安心してください。我々も徹底的に調べますから、無実の人間に罪を着せるような真似は絶対にしません」 結空は小さく頷いた。警察官が席を外し、取調室には彼女一人だけが残された。 窓のない狭い空間が、彼女の息を詰まらせる。この息苦しさは、彼女を遠い日の忌まわしい記憶へと引きずり込んでいった。 あの年、両親はまたしても激しい夫婦喧嘩の末、彼女を薄暗い屋根裏部屋に閉じ込めて外から鍵をかけた。 彼女は声が枯れるまで泣き叫び、何度も扉を叩いたが、誰からの返事もなかった。 絶望に打ちひしがれ、部屋の隅で小さく丸くなっていたその時。下から圭馬の焦ったような声が聞こえてきた。 「結空、泣くな!僕がここにいる!」 圭馬は幼い体でどうやって登ってきたのか、屋根裏部屋の窓のガラスを叩き割って現れた。 「もう怖くないぞ、僕が来たからな!」 彼はガラスの破片で自分の腕が傷つくのも構わず、冷え切って震える彼女の体を力強く抱きしめてくれた。 彼は彼女の手を引いて屋根裏部屋から連れ出すと、結空の両親の前に立ち塞がってこう叫んだ。「あなたたちが結空を要らないって言うなら、僕が引き取る!これから僕の家が結空の家だ! もうこれ以上、誰も結空をいじめさせない!」 帰り道、彼は結空を背負いながら、絶対に守り抜くというように固く誓ってくれた。 「結空、あなたがどこにいようと、何度閉じ込められようと、僕が絶対にあなたを見つけ出して、助け出してやるからな」 あの時、彼女は泣きじゃくりながら尋ねた。「もし、いつか私のことが嫌いになって、私のこと要らなくなっちゃったらどうするの?」 少年はカラカラと笑い、横顔を向けて、真剣な眼差しで言い切った。「そんなわけないだろ?僕があなたを捨てるなんてあり得ない!もしそんなことしたら、針千本でも何でも飲んでやるよ!」 まさにその瞬間から、彼女は自分の心をすべて彼に委ねた。この温もりが本当に一生続くのだと信じて疑わなかった。 それなのに今、彼女をこの冷たい「牢獄」へと自らの手で突き落としたのは、他ならぬその彼自身だ。 手に残るしもやけの跡がじわじわと疼き始める。まるで、二人のこの関係そのもののように。 結空は警察署で一晩を明かした。翌日、面会に現れた圭馬は、彼女の向かい側に座り、複雑な表情を浮かべていた。 「お父さん、なんとか一命を取り留めた。 医者が言うには、あと少し発見が遅れていたら手遅れだったと……それでもお父さんは目を覚ました瞬間、一番最初にお前のことを心配して聞いてきたんだぞ。 結空、これだけのことが起きても、まだ自分は悪くないって言い張る気か?まだ罪を認めないのか? お前、狭い場所がトラウマで苦手だっただろ。こんな所にずっと閉じ込められて、怖くないのか?」 結空はハッとした。彼にもまだ、彼女のそんなことを覚えている記憶があったのだと。 彼女の口元に、自嘲するような笑みが浮かんだ。「やっていないのに、どうやって罪を認めろって言うの? 圭馬。どうしてそこまで、私が犯人だって決めつけるの?どうして、他の誰かかもしれないって疑わないの?」 圭馬は考えるより先に口走っていた。「美波はお前とは違う!彼女はそんな事をするような人間じゃない」 その言葉が口から出た瞬間、彼自身も一瞬、呆然としていた。 その一言で、結空の心の中にわずかに残っていた情さえもが、無残に引き裂かれた。 「そう。なら、もう私から言うことは何もないわ。警察が私の身の潔白を証明してくれると信じているから」 そう言い残し、彼女はもう二度と圭馬に視線を向けることはなかった。 圭馬は何かを言いかけ、しかし言葉はすべて喉の奥に引っかかったように出てこなかった。結空を深く見つめた後、眉をひそめながら面会室を後にした。 彼と入れ替わるように、一人の女性警察官が入ってきた。「星野さん、さっき面会に来た方、本当はあなたのことをすごく大切に思っているんですよ。 さっきも外で長い間、あなたの様子を気にしていました。星野さんをよろしくお願いしますって、私たちに何度も頭を下げていました」 結空は心の中で否定した。 違う。 それは罪悪感や、責任感や、単なる慣れかもしれない。けれど、それだけは絶対に「愛」なんかじゃない。 第7話 結空は少なくともあと数日はこの冷え切った取調室に閉じ込められるのだろうと思っていた。 しかし三日目の朝早く、事件を担当する警察官がやって来て、釈放の知らせを告げた。 「星野さん。調査の結果、あなたが故意に患者を中毒症状に陥らせる薬にすり替えたという十分な証拠は得られませんでした。 それに、被害者のご家族から……被害者側から処罰を望まないという申し出もあり、現時点では刑事事件としての立件は見送られました。 ですが、今後は十分に注意してください。医療従事者にとって、薬の扱いは一歩間違えれば大惨事になります。万が一、取り返しのつかない事態になれば、あなたの一生が台無しになりますよ」 結空は複雑な思いを抱えながら、警察署の入り口を出た。 そこには、圭馬がすでに待っていた。 結空は少し足を止め、たまらず口を開いた。「どうして?」 どうして警察に通報して私を捕まえておきながら、今になって……許すなんて。 圭馬は手を伸ばして彼女の手を取ろうとし、困ったような笑みを浮かべた。「決まってるだろ、馬鹿だな。俺がお前を追い詰められるわけない。お父さんも、目を覚まして真っ先に『結空を迎えに行ってやれ』って言ってたんだ。 結空、家に帰ろう。もう誰も、お前のことを責めたりしないから」 彼の指先が手の甲に触れそうになった瞬間、結空は思わず手を引いて避けた。 その時初めて、圭馬は彼女の左手にある酷いしもやけに気がついた。 彼は眉をひそめた。「その手、どうしたんだ?あの山村に三年いただけで、どうして、こんなになるまで無理をしたんだ? ……どうして俺に言わなかったんだ?」 彼は有無を言わさず彼女を車に乗せると、その手を引き寄せ、薬を塗ろうとした。 あかぎれだらけの手のひらを見つめ、彼は小声で尋ねた。「痛むか?」 結空が口を開きかけたその時、彼女のスマートフォンが振動した。 見知らぬ番号からの画像付きメッセージ。 画面に映し出されていたのは、圭馬と美波が裸でベッドに横たわる写真だった。 【結空さん、昨日の夜、圭馬がひどく酔っ払っていて、私たち…… ごめんなさい、私、もう彼を手放すことなんてできない】 美波のその言葉を裏付けるかのように、次の瞬間、圭馬のスマートフォンが鳴った。 彼は薬を塗る手を止め、画面をチラリと見ると、一瞬ためらうような表情を見せたが、結局電話に出た。 「どうした……熱が出た?無理して動くな、今すぐ行くから」 電話を切ると、彼は気まずそうに結空を見た。 「結空、病院の方でちょっと急用ができて、すぐに行かなくちゃならなくなった。悪いけど、先に一人で帰っててくれるか?」 結空の頭の中は真っ白になった。 そうか。私が警察に閉じ込められていたこの三日間の間に、あの二人はとっくに一線を越えていた。 圭馬が被害届を取り下げた理由も、ただ単に自分が過ちを犯したという後ろめたさからだった。 結空は掠れた声で尋ねた。「吉川さんなの?」 圭馬は喉を詰まらせ、認めた。 「ああ。彼女、たぶん……お父さんの看病の疲れが出て倒れちゃったみたいで。結空、俺……」 彼が言い訳をしようとするのを、結空は静かな声で遮った。「行って」 理由はもう何だってよかった。自分はもうすぐこの街を出る。彼とはもう何の関係もなくなるのだから。 圭馬は彼女の腕を押さえた。「結空、お前が嫌なら、俺は行かない」 結空は首を横に振った。「怒ってないわ。行ってあげて、後悔を残さないようにね」 無理に引き留めたところで何になるというのか。彼の心はとっくに自分から離れている。 そんなことに何の意味もない。 そう言って、結空は彼の手を振り払い、ドアを開けて車を降りた。 彼女の遠ざかる後ろ姿を見て、圭馬の胸の奥が言い知れぬ不安に襲われた。だが、彼はすぐに気を取り直した。 そんなはずはない。 近いうちに結婚式の話も進めるつもりだ。俺と結空には、これから先一緒に過ごす残りの人生がたっぷりとある。 彼女のご機嫌をとる時間なら、一生分あるのだから。 結空は家に戻った。 圭馬に中途半端に薬を塗られた左手を持ち上げ、先ほどの彼の問いかけを思い出し、彼女の瞳に自嘲の色が浮かんだ。 痛くないわけがない。 けれど、彼女はすでに、これの何万倍も痛い思いを味わい尽くしてきた。 結空はあらかじめ荷物をまとめておいたキャリーケースを引き、タクシーを呼んで駅へと向かった。 電車に乗り込む前、彼女はスマートフォンを取り出し、圭馬宛てに短いメッセージを打ち込んだ。 【圭馬、私たち、別れましょう】