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十年の恋を捨てて、私は海の向こうで咲く
第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)...
Chương (1)
第1章
第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)を待っていた。
彼は空輸で取り寄せたブルースローズの花束を抱え、ベルベットの箱の中ではダイヤの指輪がきらきらと輝いている。彼が膝をついた瞬間、周囲から信じられないというように息をのむ音が上がった。
付き合って十年。彼が私と結婚したいと言ったのは、これが初めてだった。
私は平静を装いながら、指輪をはめてもらい、震える声で言った。
「修司、私たち……」
けれど彼は、ふっと笑った。
そしてそばにいる誰かへ視線を向け、軽く眉を上げる。
「言っただろ。こいつなら絶対うなずくって。賭けは俺の勝ちだ。絵を寄こせ」
私はその場で固まった。
背後で、悪意のこもった笑い声がどっと起こる。
育ちのよさそうな若い男女の一団が、私の前までやって来た。
先頭にいたのは佐伯伊織(さえき いおり)だった。
修司の、かつての縁談相手。
彼女は涙が出るほど笑っていた。
「だから言ったでしょう?夏希がどうしてこんなに長くあなたのそばにいられるのか不思議だったけど、ここまで言いなりになる犬なら、私だって簡単には手放せないわ」
第1話
第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)を待っていた。
彼は空輸で取り寄せたブルースローズの花束を抱え、ベルベットの箱の中ではダイヤの指輪がきらきらと輝いている。彼が膝をついた瞬間、周囲から信じられないというように息をのむ音が上がった。
付き合って十年。彼が私と結婚したいと言ったのは、これが初めてだった。
私は平静を装いながら、指輪をはめてもらい、震える声で言った。
「修司、私たち……」
けれど彼は、ふっと笑った。
そしてそばにいる誰かへ視線を向け、軽く眉を上げる。
「言っただろ。こいつなら絶対うなずくって。賭けは俺の勝ちだ。絵を寄こせ」
私はその場で固まった。
背後で、悪意のこもった笑い声がどっと起こる。
育ちのよさそうな若い男女の一団が、私の前までやって来た。
先頭にいたのは佐伯伊織(さえき いおり)だった。
修司の、かつての縁談相手。
彼女は涙が出るほど笑っていた。
「だから言ったでしょう?夏希がどうしてこんなに長くあなたのそばにいられるのか不思議だったけど、ここまで言いなりになる犬なら、私だって簡単には手放せないわ。
今回の喧嘩ではずいぶん意地を張ったそうじゃない。澄香邸を出ていったくせに、修司がちょっと手招きしただけで戻ってくるなんてね」
若い男のひとりが、手にしたカメラをほとんど私の顔に押しつけてきた。
「見ろよ。こいつ、本気にしてるぞ。感動して泣きそうじゃん」
「修司さん、これ絶対しがみついてくるって。責任取ってとか言い出すぞ、ははは!」
修司が横目でひと睨みすると、皆はようやく黙った。
彼は珍しく、事情を説明した。
「じいさんの傘寿の祝いに、ちょうどいい贈り物が見つからなかった。
伊織が先週、『青嶺図』を落札したばかりでな。知ってるだろ、じいさんはああいうものが好きだ。だから賭けをした。
お前が俺のプロポーズを受けたら、この絵は俺のものになる」
つまり、ただの賭けだったのだ。
指の付け根がじんじんと痺れていた。
少し大きいその指輪は、薬指に力を入れていなければ、今にも滑り落ちそうだった。
まるで、私と修司の関係そのものだ。
私は力を抜いた。
指輪は床に落ち、乾いた音を立てて、取り繕われた平穏を切り裂いた。
「次に落札できない絵があったら、私に言って。そのくらいのお金なら、私が出せるから。人をからかうために、こんな茶番をする必要はないわ」
手元の絵を弄んでいた修司が、ようやく動きを止めた。
明らかに不機嫌そうだった。
以前なら、彼が少し眉をひそめただけで、私はすぐ感情を引っ込めた。
ほどほどのところで折れて、下手に出た。
けれど今回は、譲らなかった。
重い沈黙の中、伊織が鼻で笑うように言った。
「冗談が通じないなら、そう言えばいいのに。まるで私が悪者みたいじゃない。ちょっとからかっただけで、そんなに大げさにする?
修司、行きましょう。レストラン、予約してあるんでしょう。食事に行くわよ。
みんな、何見てるの。夏希はどうせいつもみたいに自分からすり寄ってくるわ」
初めてそんなことを言われたとき、私はすっかり怯えてしまった。
クリームまみれになった顔で謝り、自分が大げさに受け止めすぎたのだと思った。
怒るべきではなかったのだ、と。
彼らは修司の友人で、誕生日だから私に冗談を言っただけなのだ、と。
たとえそのあと、髪にこびりついたアイシングがあまりにひどくて、仕方なく長い髪を切ることになったとしても。
一行が私のそばを通り過ぎていく。
私は身をかがめて荷物を持ち上げ、彼らとは反対の方向へ歩いた。
澄香邸へ戻ると、前回持ち出せなかったものをすべて荷造りし、執事に発送を頼んだ。
それから修司に、別れのメッセージを送った。
顔を上げると、執事がためらうような顔でこちらを見ていた。
「藤原様……もう、お戻りにはならないのですか。
私には分かります。修司様は、藤原様にだけは、ほかの方とは違うお気持ちをお持ちです。
佐伯伊織様とは、幼い頃からのご縁があるだけでございます」
執事は、今日空港で何があったのかを知らない。
私が前に澄香邸を出たことについて、まだ腹を立てているのだと思っているのだろう。
本当は、もうとっくに怒ってなどいなかった。
修司と過ごした十年。
私たちが喧嘩になるきっかけは、ほとんどいつも伊織だった。
言い合いがこじれると、彼は決まって「好きに思えばいい」とだけ言い残して姿を消した。
メッセージには返事をせず、電話にも出ない。
私が彼の近況を知れる唯一の手段は、伊織のSNSだけだった。
そんな状態は、いつも私が折れて終わった。
今日は、喧嘩のあと、彼が初めて自分から私に会いに来てくれた日だった。
だから、もう何も感じないと思っていた心が、それでも少しだけ揺れた。
それなのに、結局は……
私はその話には触れず、ただ言った。
「この荷物のこと、よろしくお願いします」
澄香邸を出ると、回廊の下にあるブランコが目に入った。
歪んだ木の板からは、思わず苦笑してしまいそうなほど、不器用さがにじんでいた。
その瞬間、私はこらえきれずに涙をこぼした。
あれは、付き合って三年目に、彼が私のために作ってくれたものだった。
修司は意地っ張りで、好きだなんて絶対に素直には言わない。
アプローチするのも、告白するのも、いつも私のほうだった。
それが長く続けば、私だって寂しくなる。
ちょうどその頃、彼は毎日何をしているのか分からないほど忙しく、ほとんど顔も見せなかった。
私は長いこと一人で思い詰め、ある夜、とうとう感情が決壊した。
いつも冷静な彼が、そのときだけは珍しくうろたえていた。
最後に彼は私を澄香邸へ連れていき、自分の手で作ったこのブランコを見せてくれた。
私は彼の帰りを玄関先で待つのが好きだった。
よくしゃがみ込んで待っては足を痺れさせ、数日前には急に立ち上がったせいで転んでしまったこともあった。
そのとき彼は、慰めの言葉ひとつくれなかった。
ただ冷たい顔で、もう待たなくていい、と言っただけだった。
けれど、木工作業で傷だらけになった彼の手を見たとき、私は初めて、彼が滅多に見せない本心をのぞいた気がした。
私は手を伸ばし、右側の結び目に触れた。
あのとき私は、左の縄が短くて右の縄が長いから、座ったら転ぶよ、と彼を笑った。
その後いつの間にか、彼はこっそり右の縄にもうひとつ結び目を作っていた。
それでブランコは、ちゃんと安定するようになった。
執事の言葉は、間違っていない。
最初の頃の修司は、確かに私にだけ、ほかの人とは違っていた。
でもそれは、伊織が帰国する前の話だ。
スマホが震えた。
修司が、ようやく別れのメッセージに返事をしてきたのだ。
【好きにしろ】
第2話
その短い返事を見つめているうちに、私の中から未練はきれいに消えていた。
上司から電話が入った。
「夏希、海外赴任の件だけど、今日中にメンバーを確定することになってる。君の枠はまだ空けてあるよ。
三年は少し長いかもしれないが、君にとってはいいキャリアになる。もう一度考えてみないか」
私はもう断らず、了承した。
手続きと引き継ぎで、その日は朝から晩まで慌ただしかった。
書類を出して、署名して、押印する。
残念がってくれる人もいれば、祝ってくれる人もいた。こっそり、修司と喧嘩したのかと聞いてくる人もいた。
私は落ち着いて言った。
「喧嘩したわけじゃないよ。別れたの」
最後の判が押されたとき、私は窓の外の鉛色の空に目をやった。
高層ビルの隙間から、遠くに澄香邸のドームの端が少しだけ見える。
私は視線を戻し、航空券の情報を親友の向井美咲(むかい みさき)に送った。
【半月後に出発する。行く前に一度会える?】
美咲からはすぐに返事が来た。
【やっと私のこと思い出した?ちょうど白金倶楽部に新しいスヌーカールームができたの。付き合って、何ゲームか打とうよ】
白金倶楽部は東区でも屈指の会員制クラブで、修司たちがよく集まる場所でもある。
私が着いたとき、美咲はもう準備運動代わりに打ち始めていた。
見事なブレイクショットだった。
「来た?」彼女は髪をかき上げ、私を上から下まで眺めた。「顔色、思ったより悪くないじゃない。泣き暮らして、もう生きていけないとか言ってるんじゃないかと思ってたのに」
私はバッグを置き、壁に並んだキューの中から一本を選んだ。
「期待に添えなくてごめんね」
一球をポケットに沈めると、美咲が口笛を吹いた。
「やるじゃない。こんなに久しぶりなのに、まだ感覚残ってるんだ」
私は少し笑った。
スヌーカーは父に教わった。
この競技に必要なのは、徹底した冷静さと集中力だと父は言っていた。心の中がどれほど荒れていても、手だけは震わせてはいけない、と。
だから私は長い時間をかけて練習した。
市大会から県大会まで勝ち上がり、賞も数えきれないほど取った。
けれどその後、修司が、キューを握っている私は冷たくきつく見えると言った。
それから、私はもう打たなくなった。
私が身をかがめ、イエローボールを狙おうとしたそのとき、背後で自動ドアが開いた。
笑い声と話し声が流れ込んでくる。
「修司さん、この前のクッションショット、マジで見事だったよな。今度教えてくれよ」
「無理無理。お前の腕じゃ、教わったところでどうにもならないって。それに、佐伯のお嬢様以外に、修司さんが直々に教えた相手なんていたか?」
声は少しずつ近づいてくる。
修司の名前が聞こえた瞬間、私の手はわずかに止まった。
けれどすぐに、迷いなくキューを出す。
イエローボールは乾いた音を立てて、ポケットに沈んだ。
「お、あれ彼女さんじゃね?」
だらしなく間延びした声で、空港でカメラを私の顔に押しつけてきた、あの男だった。
「いや、違うか。元カノさんって呼ばなきゃな」
「口では別れたって言ってるくせに、行動は正直だよな。一日我慢しただけで、修司さんが白金倶楽部に来るって知った途端、しっぽ振って追いかけてきたんだろ」
下卑た野次が、あちこちから飛んでくる。
美咲が我慢できずに言い返そうとしたので、私は手を上げて止めた。
そのまま、次の球に狙いを定める。
私が無視していると分かると、彼らはますます調子に乗り、わざと声を大きくした。
「元カノさん、もういいって。ここまで追いかけてきておいて、見えないふり?」
「修司さんはこっちだぞ。こっち来て座れよ」
また、笑い声が起こった。
修司がその人だかりの中にいることは分かっていた。
きっといつもの顔をしているのだろう。
淡々としていて、笑うでもなく、怒るでもなく、まるで自分には関係のないことみたいに。
けれど彼は待っている。
私がこれまで何度もそうしてきたように、自分から歩み寄って、笑いながら「偶然ね、あなたたちも来てたんだ」と言うのを。
そして、そのまま自然に彼の隣へ座るのを。
昔の私なら、たしかにそうしていた。
無視される時間に耐えられなくて、失うのが怖くて、私が折れさえすれば、すべては最初の頃に戻るのだと思っていたから。
でも、これからはもうしない。
私は最後のレッドボールをポケットに沈め、体を起こすと、そばにいたスタッフにキューを渡した。
「行こう」
美咲は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐについてきた。
修司のそばを通り過ぎるとき、伊織が小さく笑う声が聞こえた。
「心配しなくていいわ。夏希、いつもそうでしょう。ただ拗ねてるだけ。二、三日もすれば、また自分から戻ってくるわ」
第3話
私は振り返り、伊織をまっすぐ見た。
彼女はビリヤード台にもたれ、首をかしげてこちらを見ていた。口元には、いつもの笑みが浮かんでいる。
その笑顔を、私はもう何度も見てきた。
私と修司の間がぎくしゃくしたときも、言い争ったときも、もう終わりだと思うほどこじれたときも、彼女はいつもその顔をしていた。
「夏希、いつもそうでしょう」
そんな軽いひと言で、私の悔しさも、苦しさも、全部ただの笑い話にされてしまう。
視線がぶつかった。
彼女は目をそらさなかった。それどころか、ほんの少し顎を上げた。大事に甘やかされて育った人間だけが持つ、余裕と気高さを全身にまとっていた。
修司が身をずらし、伊織をかばうように半歩前へ出た。
それだけで、彼が本当に気にかけているのが誰なのか、はっきり分かってしまった。
伊織の口元の笑みが、少し深くなる。
私も笑った。
彼女は勝ったつもりでいるのだろう。
けれど、知らないのだ。
修司への想いなど、あの夜、睡眠薬を飲み込んだときに、とっくに消えてしまっていたことを。
翌日、一本の記事が東区の経済ニュースを騒がせた。
【匿名告発で佐伯グループの闇が発覚――三十年にわたる血塗られた成長と、壊された家族たち】
告発文には、佐伯家に追い詰められ、一家離散にまで追い込まれた人々のことが数多く記されていた。
その中には、かつての藤原家もあった。
藤原家の一人娘である夏希もまた、その一件で、一時は夜の世界へ身を落とすしかなかったという。
ただ、その後の消息をたどっても、彼女の行方は分からなくなっていた……
その騒ぎが広がっている頃、私は両親の墓参りに来ていた。
墓石に刻まれた二人の名前を、指先でそっとなぞる。
母の遺影は、何度も洗って少し色の抜けた白衣姿だった。父は濃紺のスーツを着ていた。
写真の中の二人は肩を並べ、カメラに向かって穏やかに微笑んでいた。
その笑顔には、研究者らしい真面目さと、あの頃の二人が抱いていた、まっすぐすぎるほどの理想がにじんでいた。
「お父さん、お母さん」
私は墓前に供花を供えた。
花びらには、まだ朝露が残っていた。
十年前の今日も、こんなふうに湿って冷たい日だった。
けれど私は、あの火事が二人を奪っていくのを、ただ見ているしかなかった。
三日後、債権者たちが自宅に押しかけてきた。
彼らが吐き捨てるように口にした言葉の端々から、私は少しずつ真相をつなぎ合わせていった。
会社の重要データが持ち出され、巨額の資金も行方が分からなくなっていた。
父は取締役会で責任を追及される直前、不審な死を遂げていたのだ。
十九歳の私は、両親が人生をかけて築いた藤原製薬を、自分の手で守ろうとした。
八か月、必死に踏ん張った。
けれど、守りきれなかった。
残されたのは、他人に買い取られた負債だけだった。
そして私自身にも、値段がつけられた。
修司に出会ったあの日、私は人生でいちばん追い詰められていた。
私は遺影に向かって、少しだけ笑った。
「お父さん、お母さんは、恩も情も忘れない人間でいなさいって教えてくれたよね。あの人は、そんな私を地獄から連れ出してくれた。
だからこの十年、私は彼に青春も、命も、尊厳も、真心も返してきた。
私は、何ひとつ恥じることはしていないよ」
山道の両側に並ぶ杉の木が、さわさわと音を立てた。
まるで、返事をしてくれているみたいだった。
私は立ち上がり、階段をゆっくり下りていった。ポケットの中でスマートフォンが震え、美咲からのメッセージが次々に届く。
【夏希、ニュース見て!】
【佐伯家、ほんと最低。あの女の親があなたのご両親を死に追いやって、あの女はあなたと修司の間に割り込んできたんでしょ。佐伯家の人間、みんなおかしいんじゃないの!】
私は階段の途中で立ち止まり、その記事を一字一句、最後まで読んだ。
告発文に書かれていた細かな内容の多くが、両親が亡くなる前の記憶と重なっていた。だから分かった。この告発文に書かれていることは、決して根も葉もない話ではない。
頭の中が混乱し、足元もふらついたまま、私は階段を下りていく。
階段を下りきろうとしたところで、街灯の下にひとりの影が見えた。
すらりとした立ち姿で、指先の煙草の火だけが、暗がりの中で赤く明滅していた。
光と影の中で、修司の顔が少しずつはっきりしていった。
彼は電話をしていた。
「……佐伯家の記事を抑えろ。伊織?彼女は親のしたこととは関係ない。ああ、俺が守る」
私に気づくと、修司はこちらへ歩いてきた。
「ニュース、見ただろ。佐伯家の件がかなり大ごとになっている。ネットでは今、何もかも伊織のせいにして叩かれている。彼女は相当参っている」
彼は私を見た。
その目には、後ろめたさなど少しもなかった。
「だから、お前から説明してほしい。藤原家が破産したのは佐伯グループとは関係ない。お前の父親の経営判断の失敗が原因だった、と」
山道から吹き下ろす風が、体を貫いた。
全身の血が、すうっと冷えていった。
第4話
私は修司をじっと見つめた。
その言葉が彼の口から出たものだなんて、どうしても信じられなかった。
あの年、彼に連れ出されてからしばらく、私はずっと現実感のないまま生きていた。
目の前で両親が炎に吞まれていったことが、私にとってどれほど越えられない傷になったのか、彼はよく知っていたはずだ。
あの頃、彼は私を無理に慰めようとはしなかった。
ただ毎日、黙って霊園まで付き添ってくれた。
当時、世間では両親を「自業自得」だとする噂がひどく広まっていた。
父が会社の金を不正に流用したとか、母が違法な実験に関わっていたとか。
私は何度も壊れそうになった。
その言葉は両親を侮辱するだけではなく、私の中にかろうじて残っていた信じる力まで、根元から揺さぶったからだ。
両親のような人たちまで「自業自得」だと言われるのなら、この世に信じられるものなんてあるのだろうか。
そのとき、修司は私の隣に立って言ってくれた。
「お父さんに会ったことがある。立派な経営者だった。お母さんも、尊敬すべき研究者だった」
私は、その言葉を信じた。
それなのに今、彼は私の前に立ち、父を貶める嘘を私自身の口から言わせようとしている。
父の無能がすべての不幸を招いたのだと、私に認めさせようとしている。
伊織に逃げ道を作るために。
ようやく我に返ったとき、もう失望すら残っていなかった。
「それをしたら、私は何をもらえるの?」
私が応じることを、修司は少しも意外に思っていなかった。
彼にとって私は、いつだって求めれば応じる女だったのだ。
「埋め合わせとして」
彼は条件を出した。
「別れると言ったことは、聞かなかったことにしてやる。お前は今までどおり、俺の彼女でいればいい」
少し間を置いて、それでは足りないと思ったのか、彼はさらに付け加えた。
「婚約者でもいい」
彼は私を見ていた。
私の反応を待っているようだった。
「婚約者」という肩書きを、昔の私はあれほど望んでいたから。
私は小さく笑った。
自分でも驚くほど、冷たい笑いだった。
「断ったら?」
修司の目がかすかに動いた。
けれど声は変わらなかった。脅すつもりさえないように、ただ淡々と言った。
「そのときは、偽物の藤原夏希を用意するだけだ。俺が本物だと言えば、それが本物になる」
私は目を閉じた。
暗闇の中で、いくつもの場面が走馬灯のように過ぎていく。
十九歳の私。夜の店で、どれだけ殴られても頭を下げなかった私。
救世主のように現れて、私を連れ出してくれた彼。
その後の十年、霊園に付き添ってくれたときの、黙って立つ彼の背中。
「修司」
私は目を開けた。
「この告発文に書かれていることは、私が自分で確かめる。
佐伯家が本当にあんなことをしたのなら、私はかばわない。佐伯家と関係がないのなら、誰かを陥れることもしない。
だから、あなたの頼みは」
私は彼を見て、一語ずつはっきりと言った。
「応じられない」
家の前で、勝ち誇ったような顔をした伊織を見ても、私は驚かなかった。
五年前、彼女がどれほど演技がうまい人間か、嫌というほど思い知らされていたからだ。
か弱いふりをして修司を騙すことなど、彼女にとっては造作もないのだろう。
あの頃、彼女は帰国して間もなかった。
東区では、佐伯家のお嬢様が戻ってきた、高城家の跡取りとよりを戻すのではないかと、誰もが噂していた。
そのとき修司の恋人だった私のことなど、誰も気に留めなかった。
それでも私は、不安に思っていなかった。
彼と過ごしてきた年月なら、五年前に式の前から逃げ出した女にだって負けないと、本気で信じていた。
高城家のパーティーまでは。
彼女は私の手を取り、イヤリングが緩んだみたいだから見てほしいと言った。
私が身をかがめた、その瞬間、彼女は螺旋階段から転げ落ちた。
それ以来、彼女は二度とバレエを踊ることができなくなった。
そして目を覚ました彼女のその一言で、私は何も言えなくなった。
「藤原さん、どうして私を突き落としたんですか」
周囲の責めるような視線に、私は押しつぶされそうになった。
最後の頼みの綱にすがるように、修司の袖をつかんだ。
けれど彼は言った。
「伊織に謝れ」
そして今、彼女は言った。
「夏希、取引しましょう。説明動画を撮ってくれたら、1億6000万円出すわ。どう?」
取引、という言葉さえ、彼女の口から出ると、当然のような施しのように聞こえた。
私は顔を上げ、彼女を見た。
「五年前、身に覚えのない罪で謝らせようと、玄関先で三日間、ボディガードに押さえつけられても、私は謝らなかった。
それなのに五年経った今、たった1億6000万円で、私の両親の名誉が金で買えると本気で思っているの?」
すれ違った瞬間、彼女の声が聞こえた。
「後悔しないことね」
第5話
佐伯家の記事は、数日もしないうちに沈静化した。
誰が裏で手を回したのかなんて、考えるまでもない。
けれど私は構わなかった。調べれば調べるほど、背筋が冷えていったからだ。
あの告発文に書かれていたことは、すべて本当だった。
佐伯家こそが、私の家族を壊した張本人だった。
私が動くより先に、美咲から電話がかかってきた。
「夏希、今夜、嘉堂オークションにアンティークのチェスセットが出るの。藤原のおじさまが昔、あなたにチェスを教えるときに使っていた、あの『雲霞』よ。行く?」
私は目を閉じた。
記憶がふっとよみがえった。
あの年の春、父が私の手を取り、楠でできたチェスボードの上に白い駒を置いたときのように。
「負けることは当たり前にある。だから、負けたときに何を学ぶかが大事なんだ」
破産したあの夜、裁判所の人たちはあまりにも早く来た。
私はあの書斎を、最後に一目見ることさえできなかった。
この数年、昔の品々の行方をずっと探していた。
まさか最初に行方が分かったのが、このセットだとは思わなかった。
「うん。今夜、行く」
夜になると、嘉堂オークションは眩しいほどの明かりに包まれていた。
出品物はどれも目を引くものばかりで、「雲霞」はその中に混じると、かえってひっそりとして見えた。
私は順調に入札を重ねた。
視線はずっと、駒箱の角に向いていた。
そこには、ごく細い擦り傷がある。
幼い頃の私がぶつけてつけた跡だった。
三度目のハンマーが下ろされようとした、そのとき。
二階から女の声がした。
「待って」
声のしたほうを見ると、シャンデリアの光の中に、伊織が立っていた。
その後ろには修司がいる。
私は視線を戻し、もう一度札を上げた。
何度か競り合ったあと、修司のひと言で、私がこのチェスセットを手に入れる可能性は完全になくなった。
「上限なしで」
「藤原さん」
伊織は笑みを浮かべて言った。
「私にお願いできるなら、この品、あんたに譲ってあげてもいいわ」
その目に浮かぶ得意げな光は、隠しきれていなかった。
私は握りしめていた手をほどき、入札札を座席に置いて立ち上がった。
「佐伯さんがそこまで気に入っているなら、私は遠慮しておくわ」
伊織は一瞬、固まった。
私がこんなにあっさり諦めるとは思っていなかったのだろう。
オークション会場を出ると、夜風が正面から吹きつけてきた。
骨まで冷えるような風だった。
私は顔を上げ、真っ暗な空を見た。それでも、涙は出なかった。
あのチェスセットには、父と私の思い出があまりにも多く詰まっている。
一つ一つの駒に、父の指先の温もりが残っている気がした。
夢に見るほど、取り戻したかった。
けれど、それ以上にはっきり分かっていた。
父は、たかが物のために、私が誰かの手のひらで転がされることなど、決して望まない。
その夜の競りが、伊織の仕返しなのだとばかり思っていた。
母の論文がトレンド入りするまでは。
見出しは、目を疑うようなものだった。
【著名な創薬研究者・藤原由紀子(ふじわら ゆきこ)の特効薬で肝腎不全が発生。データを隠蔽し、強引に承認を通した疑い】
父の慈善基金も、金と権力を使った利益供与だと決めつけられた。
一夜にして、十年前に亡くなった二人が、ネット上で一斉に叩かれた。
【ご両親の名誉がいちばん大事なんでしょう?だったら私は、それを踏みにじってやる】
匿名のメッセージだった。
誰の仕業かなんて、考えるまでもなかった。
私はスマホに保存していた、まだ公開していない調査資料を開いた。
十年前、両親が汚名を着せられたとき、私は何もできなかった。
でも今度は、すべての真実を世に出す。
記者会見は、私が発つ前日に開くことにした。
開始は午前九時。午前八時半には、会場はすでに満席になっていた。
USBメモリをパソコンに差し込み、私は深く息を吸って口を開いた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。近頃、ネット上で拡散されている私の両親および藤原製薬に関する事実無根の情報について、これから証拠を提示します。これらが組織的な誹謗中傷であることを証明します……」
私はファイルをクリックした。
中は空だった。
一瞬、頭が真っ白になった。
すべての証拠を入れて、何度も確認したはずのフォルダが、空になっている。
会場がざわつき始めた。
シャッター音。
ひそひそ声。
嘲るような笑い。
それらが一斉に押し寄せてきた。