スキンシップ恐怖症が治った彼氏の遅すぎた後悔

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スキンシップ恐怖症が治った彼氏の遅すぎた後悔

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交際してからの五年間、五十嵐海吏(いがらし かいり)は水瀬珠羽(みなせ みう)をこの上なく大切に扱ってきた。 あらゆる記念日を記憶し、彼...

Chương (1)

第1章

交際してからの五年間、五十嵐海吏(いがらし かいり)は水瀬珠羽(みなせ みう)をこの上なく大切に扱ってきた。 あらゆる記念日を記憶し、彼女の小さな心の機微にも細やかに気を配り、物質面でも決して出し惜しむことはなかった。 だからこそ海吏の誕生日の夜、珠羽は一週間の出張予定を無理やり五日間に圧縮し、サプライズで彼を喜ばせようと、予定を早めて帰途についた。 彼女がプレゼントを手に、個室の扉の前に立った時のことだ。 個室の中から、海吏の友人の笑い声が聞こえてきた。 「海吏、新星テクノロジーのあの融資案件だけどさ、本当に珠羽の名義で20パーセントも持たせるつもりかよ?さすが、太っ腹なお前らしいな!」 「本当だよな。今日は主役のお前が、どうして逆に彼女へプレゼントを用意してるんだ?」 ほどなくして、彼女を安らがせる海吏の声が響いた。 「珠羽は俺の愛する女だ。俺たちの資産やリソースを共有するのは当然のことだろう」 珠羽の口角は無意識に上がり、心の奥底に温かいものが広がっていく。 第1話 交際してからの五年間、五十嵐海吏(いがらし かいり)は水瀬珠羽(みなせ みう)をこの上なく大切に扱ってきた。 あらゆる記念日を記憶し、彼女の小さな心の機微にも細やかに気を配り、物質面でも決して出し惜しむことはなかった。 だからこそ海吏の誕生日の夜、珠羽は一週間の出張予定を無理やり五日間に圧縮し、サプライズで彼を喜ばせようと、予定を早めて帰途についた。 彼女がプレゼントを手に、個室の扉の前に立った時のことだ。 個室の中から、海吏の友人の笑い声が聞こえてきた。 「海吏、新星テクノロジーのあの融資案件だけどさ、本当に珠羽の名義で20パーセントも持たせるつもりかよ?さすが、太っ腹なお前らしいな!」 「本当だよな。今日は主役のお前が、どうして逆に彼女へプレゼントを用意してるんだ?」 ほどなくして、彼女を安らがせる海吏の声が響いた。 「珠羽は俺の愛する女だ。俺たちの資産やリソースを共有するのは当然のことだろう」 珠羽の口角は無意識に上がり、心の奥底に温かいものが広がっていく。 海吏はいつもそうだった。私生活でも仕事でも、いつだって無条件で珠羽を支えてくれた。 だが次の瞬間、海吏は突然こう言った。 「それに、俺と絵凛は今夜、初めて体を重ねるつもりだ。 あれは、俺から珠羽への埋め合わせなんだ」 ドアを押しかけていた珠羽の手がピタリと止まる。あまりの言葉に、幻聴を疑うほどだった。 個室の中も水を打ったように静まり返った。直後、信じられないといった風に、いくつかの驚きの声が上がった。 「おい待てよ!お前、スキンシップ恐怖症じゃなかったのか?珠羽にすら指一本触れられないのに!桜井絵凛(さくらい えりん)っていう心理カウンセラーは、そんなにすごい腕なのか?」 友人の声には隠しきれない動揺が混じっていた。 海吏は酒を一口あおり、低く笑い声を漏らした。 「ああ、俺自身も驚いている。ここ数年、この病気のせいで珠羽に触れることも抱きしめることもできず、近づくだけで吐き気を催しそうになっていたからな。 絵凛との最初のカウンセリングの時も、正直全く期待していなかったんだ。 彼女が『生理的療法』を提案してくるまでは。生理的な欲望を利用して、心理的な認知反応を再構築するというやり方だ。 最初は指先が触れ合うだけの基礎的な段階だったが、次第に抱き合い、キスもできるようになった。それは珠羽からは決して得られなかった、骨の髄まで痺れるような悦楽だった。俺はすっかり……やみつきになってしまった」 珠羽は全身を強張らせてドアの外に立ち尽くしていた。握りしめたプレゼントの箱の角が、手のひらに痛いほど食い込んでいる。 それは彼女が丸三年もの歳月を費やし、彼のスキンシップ恐怖症に効くようにと特別に調合したお香だった。 彼にあと一センチ近づこうと必死に努力していたその裏で、彼が別の女の体に溺れていたなんて、思いもしなかった。 かつて彼の病気が原因で、珠羽も腹立たしさと悔しさから彼を問い詰めたことがあった。 「海吏、本当は私のことなんて好きじゃないんでしょ?だから触れたくないのね?」 あの時、海吏は長い沈黙の末、ついに一部のカルテを彼女の前に差し出した。 幼い頃、父が母以外の女を家に連れ込むのを目撃したトラウマが原因で、彼はそれ以来他者とのスキンシップを激しく拒絶するようになった。 物心ついた頃から誰とも親密な関係を築けなかった彼が、珠羽に出会い、体の本能に逆らってでも彼女に近づきたいと願うようになった。 真実を知った瞬間、珠羽の心の中では、悔しさよりも彼への愛おしさが勝った。 彼女は彼の治療を全力でサポートすると決心し、あらゆる方法を試したが、その道のりは絶望的なほど緩慢だった。 二人が手を繋いでいられた最長記録は、わずか一分二十五秒だった。 その後、珠羽はようやく絵凛の存在にたどり着いた。 絵凛が七年にわたり研究してきたテーマが海吏の症状に合致すると聞き、居場所を突き止めるや否や、珠羽は真っ先に彼女の診察を予約した。 幸運なことに、わずか最初の治療クールを終えただけで、海吏は「桜井先生の接触には不思議と拒絶反応が起きないみたいだ」と報告してくれた。 治療が深まるにつれ、海吏の症状が少しずつ改善していくのを、珠羽は確かにこの目で見ていた。 だが同時に、彼の口から「絵凛」の名前が出る回数も次第に増え、その響きはごく自然で親しげなものへと変わっていった。 珠羽の誕生日にすら、彼は絵凛に付き添って遊園地へ行ったきり、約束をすっぽかした。 深夜になってようやく帰宅した彼を待ち受けていたのは、すっかり冷めきった手料理と、涙目で立ち尽くす珠羽の姿だった。 だが海吏は少し疲れたような顔でこう弁明した。「すまない、珠羽。今日は新しいアプローチの治療を試していて、予想外に時間がかかってしまったんだ」 彼は赤く腫れた珠羽の目元を見つめ、たまらず彼女を抱きしめようと腕を伸ばした。 「一秒でも早く完治させれば、一秒でも早くお前とちゃんと結ばれるようになる。珠羽、俺の気持ち、分かってくれるよな?」 あの時、彼の瞳に宿っていた愛はあまりにも深く、これまでの献身的な優しさも相まって、珠羽は少しずつ心の疑念を消し去っていった。 彼が完全に病を克服する日を、二人が本当の意味で結ばれる日を、ただひたすらに待ち続けていたのだ。 今日この瞬間、彼と絵凛の間で一体どんな「治療」が行われていたのかを知るまでは。 友人たちもまた、この想定外の展開に言葉を失った。しばしの沈黙の後、一人が口を開いた。 「普通の女なら、自分の婚約者が他の女と寝るなんて絶対に受け入れられないぞ。たとえそれが治療って名目でもな。もし珠羽が知ったら……彼女の性格じゃ、到底許さないだろうな」 海吏のいささかの揺らぎもない声が響いた。 「なら、知らせなければいい。 俺がやってることはすべて珠羽のためだ。もしこれを知って俺を責めるようなら、俺が彼女を見損なっていたってことさ」 ここまで聞いた珠羽は力なく壁に背を預けた。血の味が滲むほど唇を強く噛み締め、辛うじて喉から漏れそうになる嗚咽を飲み込む。 もう一欠片の未練もなかった。彼女は一切の躊躇なくきびすを返し、その場を離れた。 クラブの外に出ると、夜風に混じる霧雨が容赦なく肌を叩き、珠羽の心の芯まで凍えさせていく。 すぐにスマートフォンが振動した。海吏からの着信だったが、彼女は迷わず通話拒否のボタンを押した。 間髪入れずに彼からメッセージが届く。そこには、相変わらず甘く親しげな言葉が綴られていた。 【珠羽、今日俺が一番会いたいのはお前だけだよ。ずっと仕事にかまけて俺を放置したんだから、帰ってきたらたっぷり埋め合わせしてもらうからね】 画面の文字を見つめているうちに、珠羽の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。 彼女は一切返信しなかった。十分後に涙を乱暴に拭い去ると、大学のシステムを開き、専攻変更の申請書を送信した。「メンタルヘルス・行動研究」から「臨床医学」への転籍申請だ。 その後、彼女は五年間一度も連絡を取っていなかった番号に、静かに発信ボタンを押した。 「前の約束、まだ有効かしら?」 第2話 かつて海吏と交際を始めようとした時、藤堂悠河(とうどう ゆうが)は何度も珠羽を思いとどまらせようとした。 珠羽が愛を語り、魂の結びつきを信じたのに対し、悠河は冷静に現実を分析してみせた。 「海吏には深刻な心理的トラウマがある。それはつまり、彼が君と健全な親密さを築けないということだ。 珠羽、君に必要なのは欠落のない完全な愛であって、自己犠牲じゃない」 当時の珠羽はそれをまともに受け止めず、「完全な愛?あなたがくれるような愛のこと?」と言い返した。 悠河はその問いに直接は答えず、ただ彼女を見つめ返した。 「五年以内に君は彼に失望する。俺はそう賭ける。もし俺の賭けが勝ったら――」 彼は少し間を置き、真剣な声音で告げた。「俺に一度チャンスをくれないか」 今、悠河の聞き慣れた声は相変わらず低く落ち着いていた。「俺が言った言葉は、いつだって有効だ」 珠羽は唇を噛み締め、再び涙がこぼれ落ちるのを堪えた。「分かったわ。じゃあ、半月後に私を迎えに来て。一秒でも遅れたら許さないから……」 電話を切ると、珠羽はマンションに戻った。 室内は真っ暗で、海吏の姿はない。 彼女は真っ直ぐウォークインクローゼットに向かい、スーツケースを取り出して自分の荷物をまとめ始めた。 ふと、ドレッサーの上に置かれたベルベットの箱が目に留まる。 去年、海吏が贈ってくれたダイヤモンドのブレスレットだ。 海吏が彼女の素肌に触れないよう、細心の注意を払いながら手首に着けてくれた時のことを、珠羽は今でも鮮明に覚えている。あの時の彼の声には、言いようのない切なさが滲んでいた。 「この手で直接、お前を抱きしめられたらよかったのに」 当時の珠羽はただ彼の苦しみを思って胸を痛めていたが、今思えば、あれは自制などではなく純粋な拒絶だったのかもしれない。 それから、彼が知人に頼んで海外から取り寄せてくれた限定品の香水。「この香りはお前のようで安心する」と彼は言っていた。 しかし後になって、珠羽は絵凛からそれと全く同じ香りがするのに気づいた。 珠羽は自嘲気味に口角を上げ、一切の躊躇なく、それらの物をすべて傍らのゴミ袋に放り込んだ。 綺麗に片付けてしまえば、過去の五年間をごっそり心の中から抉り出したような気分になった。 彼女はベッドに横たわり、目を開けたまま天井を見つめていた。夜中の三時になっても、海吏は帰ってこない。 今頃、彼はまだあの女と「初めての行為」に夢中になっているのだろう。 珠羽は静かに目を閉じた。心の底にわずかに残っていた最後のかすかな期待すらも、完全に消え去った。 翌朝早く、珠羽は転籍の申請書類を持って大学へ向かった。 心理学部の研究棟を通りかかった時、珠羽の視線に海吏と絵凛の姿が飛び込んできた。 二人は見慣れた桜並木を肩を並べて歩いており、その様子は親密そのものだった。 昨年の桜が満開だった頃、彼がその木の下で約束してくれたのを珠羽は覚えている。 「これから毎年花が咲いたら、二人でここへ来よう」 だが今、桜はまだ散りきっていないというのに、彼の隣に立っているのはもう彼女ではなかった。 絵凛は口元を覆って笑いながら彼に何かを語りかけている。 海吏の普段は冷ややかな目元が今は穏やかに和らぎ、彼は少し首を傾けて話を聞きながら、口元にリラックスした笑みを浮かべていた。 そこへ、快活な学生たちが何人か通りかかり、二人の姿を見るなり一斉に囃し立てた。 「桜井先生、彼氏さんですか?超イケメンですね!」 「本当本当、お二人ともすごくお似合いですよ!」 海吏は少し足を止め、視線を泳がせたが、結局否定の言葉を口にすることはなかった。 「珠羽さん?」絵凛が先に彼女を見つけ、親しげな笑みを浮かべた。 「気にしないでね。学生たちの他愛のない冗談だから」 海吏はここでようやく彼女の存在に気づき、ほんのわずかに眉をひそめた。 「珠羽、もう出張から帰ってたのか?なぜ俺に言わなかった?昨日は俺の誕生日だったのに、お前は来もしないし、メッセージの一通も返してくれないなんて」 珠羽の視線は彼の首筋にある、ファンデーションで辛うじて隠された生々しい赤い痕に向けられていた。 かつて自分だけを真っ直ぐに選んでくれた彼の確固たる意志は、今や別の女に対する黙認と底なしの甘やかしへと完全に成り下がっていた。 珠羽は軽く笑った。その微笑みには、隠そうともしない嘲りの色が混じっている。 「あなたこそ、今日ここへ来ることを私に言ってなかったじゃない?」 海吏の顔に一瞬の動揺が走り、無意識に言い訳しようとした。「俺は……」 「私が海吏を連れてきたの」絵凛が自然に言葉を引き取った。 「今日、大学でとても重要な心理学の講演会があってね、彼の症状の回復に役立つから」 絵凛はそう言いながらバッグから二枚のチケットを取り出し、しとやかに微笑んだ。 「珠羽さんも一緒に聞きに行く?でもあいにく、主催者からは二枚しかチケットをもらえなくて」 同じ女として、珠羽は絵凛の目にある明らかな挑発を見て取り、淡く微笑んだ。 「あなたたちの独自の『療法』のお邪魔はしないよ」 珠羽はそう言い残し、きびすを返してその場を去った。 結局、海吏が追いかけてくることはなかった。 書類を提出し終えた後、珠羽はキャンパスのベンチに座り、スマートフォンを取り出してSNSのタイムラインを開いた。 すると、昨夜、海吏の親友がアップした投稿が目に留まった。 【主役の誕生日祝いで海辺へドライブ。見ろよこの二人、一晩中イチャイチャしやがって!】 数枚の写真が添えられていた。 中の一枚には、焚き火のそばで絵凛と海吏が親密に寄り添う姿が写っていた。 背景は漆黒の海岸と色鮮やかな花火だった。 珠羽が「いいね」を押し、もう一度更新すると、その投稿はすでに削除されていた。 恐らく、本人が彼女に見られるのを恐れたのだろう。 珠羽は自嘲気味に笑い、静かにスマートフォンを置いた。 臨床医学部へ転籍するという決定は、これ以上ないほど正しいことだったと彼女はふと思った。 少なくともあそこでは、目に見える病気を治し、救う価値のある人を救うことができるのだから。 第3話 珠羽の申請を知り、指導教官はわざわざ彼女を研究室に呼び出した。 彼は彼女の成績表をめくり、ほぼ満点が並ぶ専門科目の成績にしばらく目を留めて言った。 「本当に覚悟はできているのか?これは大きな方向転換だ。それに医学部となれば、一から六年間学び直した上で、さらに臨床研修にも何年もかかるんだぞ」 それはつまり、ここ数年で積み上げてきたすべてを捨て去り、完全にゼロからやり直すことを意味している。 だが、珠羽の返答に一分の迷いもなかった。「先生、ありがとうございます。でも、決心はついています」 指導教官は何か言いたげだったが、結局は深くため息をついただけだった。 ガシャンと音が鳴り、申請書に鮮やかな朱印が押された。 珠羽はその薄い紙を受け取り、四年間没頭してきた研究分野に別れを告げた。 当初、彼女は海吏の心に少しでも寄り添い、彼の抱える痛みを理解するためだけに、迷うことなく心理学を選んだ。 幼い頃から抱いていた医学への憧れを心の奥底に封印した。 だが今は、ただ自分の夢だけを追いかけたかった。 研究棟の外へ出ると、そこで待っている海吏の姿が見えた。 彼は車の傍らに寄りかかり、白いシャツの袖を無造作にまくり上げていた。その気怠げな佇まいには、彼特有のどこか浮世離れした気品が漂っていた。 彼女の姿を認めるなり、海吏は弾かれたように背筋を伸ばした。その顔には心配と緊張の色が浮かんでいる。 「珠羽」彼は歩み寄り、穏やかな声で呼びかけた。 「用事は終わった?何度電話しても出なかったから」 珠羽は彼を見つめ、その瞳の奥に一瞬だけよぎった後ろめたさを見逃さなかった。 彼女は何も言わず、ただ静かに彼の次の言葉を待った。 海吏は彼女のまっすぐな視線に少し居心地が悪そうに軽く咳払いをすると、ポケットから二枚の招待状を取り出した。 「怒らないでくれ、俺が悪かった。今夜、面白そうなプライベートの仮面舞踏会があるんだ。 気晴らしに連れて行くよ。昨日の埋め合わせをさせてほしいんだ。どう?」 彼は彼女の手を取ろうと手を伸ばしたが、珠羽は表情を変えずに身をかわしてそれを避けた。 ちょうどその時、どこからともなく絵凛が現れ、いつものしとやかな笑みを浮かべて口を挟んだ。 「それって、あの仮面舞踏会の招待状?よければ、私が付き添って行ってもいいけれど」 海吏はほとんど気づかれない程度に眉をひそめ、冷ややかな声で言った。「今日の治療時間はもう終わったはずだ。俺たちの邪魔をしないでくれないか」 絵凛の笑顔が一瞬だけ引きつったが、すぐにまた自然な表情を取り繕った。「ええ、もちろん分かっているわ」 だが彼女はすぐに視線を珠羽に向けた。 「もしかして、珠羽さんが嫌がってるのかしら?ごめんなさい、私ったら、こういうパーティーならストレスを発散できて海吏の回復にも劇的な効果があるかもしれないとばかり考えてしまって……珠羽さんの気分を害しちゃったみたいで反省してるわ」 珠羽はそれを聞いて吹き出しそうになった。あそこまで海吏の体を気遣う素振りを見せられては、まるで自分の方が理不尽に嫉妬してわがままを言っている悪者のようだった。 珠羽はふと頷いた。「いいわよ、じゃあ一緒に行きましょう」 珠羽は思った。海吏がこの先、さらにどうやって私を傷つけてくれるのか、とことんまで見届けてやろう。 彼女自身がそう口にした以上、海吏には断る理由がなくなった。 パーティー会場のホールは照明がきらめき、様々な精巧な仮面をつけた男女が行き交っていた。 会場に入った当初、海吏は珠羽のそばに寄り添おうとしていた。 だが珠羽は彼を相手にせず、自らソーダ水のグラスを手に取ると、一人で壁際の静かなコーナーへと歩いて行った。 すぐに海吏は何人かに囲まれて挨拶を交わすことになり、絵凛はごく自然に彼の傍らへと寄り添った。 珠羽は揺れ動く人影の隙間から、その光景を静かに見つめていた。 やがてゲームの時間が始まった。 場を盛り上げるための、たわいもないお遊びのゲームだ。 そして司会者が、ひどく煽り立てるような口調で次のプログラムを告げた―― 「皆様!この後の時間は息を潜めてお待ちください。ホールの照明が、完全に一分間消灯いたします!」 人混みの中から小さなどよめきと、興奮に満ちた低い笑い声が上がった。 「この一分間、どうか今一番愛している人にキスをしてください!」 その声と共に、ホール全体が瞬時に純粋な漆黒に包まれた。 音楽が男女の情欲をそそるような、甘く煽情的な旋律へと切り替わる。 珠羽はその場に立ったまま、身動き一つしなかった。 目が暗闇に慣れるにつれ、かろうじて周囲のぼんやりとした輪郭が捉えられるようになる。 彼女は無意識のうちに、海吏が先ほどまでいた方向へと視線を巡らせた。 心臓を冷たい手で直に掴まれたかのように、息が止まった。 わずかに顔を伏せる海吏と、その胸にすっぽりと収まるように体を密着させている絵凛のシルエット。 彼の腕は絵凛の腰に回され、二人はきつく抱き合いながら、唇を重ねていた。 第4話 胸の奥から一瞬にして血の気が引き、代わりに鋭い氷の破片をぎっしりと詰め込まれたかのような衝撃が走った。 珠羽はその場に立ち尽くし、暗闇の中で激しく求め合う二つのシルエットを見つめたまま、自分の呼吸すらほとんど感じられなくなっていた。 パッと、不意に照明が点灯した。 先ほどまで密かに愛を確かめ合っていたはずの海吏が、いつの間にか彼女のそばに戻ってきていた。 それどころか、彼の方から自ら珠羽の手首を握ってきた。 「どうしてこんなに手が冷たいんだ?」 彼はすぐに手を離したが、その声には明らかな罪悪感が混じっていた。 さらに彼は言い訳のように続ける。「すまない。暗闇の中だとしても、やっぱりお前を抱きしめたり、キスしたりすることはできなかった。こんな場でお前に寂しい思いをさせて……」 珠羽は自分の視力がこれほどまでに優れていることを恨んだ。優れすぎているせいで、彼の薄い唇に、艶やかな水気を帯びた紅の跡が残っているのがはっきりと見えてしまったからだ。 彼の瞳に浮かぶ気遣わしげな表情と、彼が先ほど犯した裏切り。その残酷なまでの乖離が彼女の心をも真っ二つに引き裂いていく。 けれど幸いなことに、彼女はすでに底知れぬ苦痛を味わい尽くしていた。だからこそ、今はまだどうにか表情を崩さずに保つことができていた。 「悪いのはあなたじゃないのかもしれない。私が思い上がって……」 ――私が思い上がっていた。私たちの絆を過信し、あなたを救えるなどと自惚れていた。 彼女が言葉を言い終えるより早く、頭上から突如として凄まじい亀裂の音が響き渡った。 巨大なクリスタルのシャンデリアが激しく揺れ、会場は一瞬にしてパニックに陥った。 「危ない!」 海吏は猛烈な勢いで彼女をその腕の中に引き寄せ、自らの背中を盾にして、降り注ぐ破片を遮った。 抗う間もなくその胸へと力任せに引き込まれた珠羽は、自分を抱きしめる両腕の力強さをはっきりと感じ取った。 彼が私を抱きしめている――その事実に、彼女は一瞬だけ意識が遠のくような錯覚を覚えた。 しかしその直後、人混みの中から別の騒ぎ声が上がった。 「あっちだ!女の人が下敷きになってる!早く来てくれ!」 海吏の身体がビクッと硬直し、珠羽を抱え込んでいた腕の力が無意識のうちに緩んだ。 「海吏!痛いっ!」涙声で助けを求める絵凛の声が、はっきりと耳に届いた。 その瞬間、海吏の瞳から最後の一筋の迷いが完全に消え去った。 「ここにいて、動くな。すぐに戻る!」彼は切羽詰まった声で言い残し、素早く珠羽を太い柱の陰へと押しやった。 そして、一度も振り返ることなく、声のした方向へと駆け出していった。 珠羽はその後ろ髪を引かれる様子すらない決然とした背中を、ただじっと見つめていた。 彼は自分の危険を顧みず、とっさの危機から私を救ってくれた。 しかし同時に、私を置き去りにして、躊躇いもなく絵凛の元へ向かうこともできる。 彼が絵凛に抱いているのは、本当に彼自身が言うような、ただの「生理的な欲求」なのだろうか? おそらく、彼自身すら分かっていないのかもしれない。 あの無意識の焦燥と思いやりに満ちた行動は、とうの昔に「治療」という言い訳の境界線を越えてしまっている。 その時、さらに大規模な崩落が起きた。 頭上から崩れ落ちてくる装飾ドームを前に、珠羽は無意識のうちに助けを求めていた。「海吏……」 だが、その弱々しい声は人々の悲鳴と喧騒に掻き消された。パニックになって逃げ惑う人波の中で必死に身をかわす彼女の目に映ったのは、絵凛をしっかりと抱きかかえて去っていく海吏の後ろ姿だけだった。 ガシャン! 重い金属製の骨組みが彼女の左脚に激しく叩きつけられ、身を裂くような激痛が一瞬にして全身を駆け巡った。 彼女の意識は、そのまま深い闇へと沈んでいった。 …… ツンとした消毒液の匂いが鼻を突く。 誰かが自分の手を強く握りしめているのを感じながら、珠羽は重い瞼をゆっくりと押し上げた。 「珠羽ちゃん!目が覚めたのね?」心配に震える、泣き出しそうな声が響いた。 首を巡らせると、目を真っ赤に腫らした海吏の母親、五十嵐明音(いがらし あかね)がベッドの傍らに座っていた。 「明音さん……」口を開くと、喉はひどく干からびてしゃがれた音しか出なかった。 「無理に喋らなくていいのよ。目が覚めて本当によかった……心臓が止まるかと思ったわ」明音は慌てて珠羽を宥めながら、再びボロボロと涙をこぼした。 「あの馬鹿息子、あなたを守りきれないなんて!話は全部聞いたわよ!彼が来たら、絶対にただじゃ……」 言葉が終わるより早く、病室のドアが静かに押し開かれ、海吏が部屋に入ってきた。 蛍光灯の光に照らされた彼の顔面は蒼白で、目の下には濃いくまを作り、白いシャツにはまだ少し灰の汚れがこびりついていた。 「母さん……珠羽」 明音は弾かれたように立ち上がると、彼の顔を真っ直ぐに指差し、怒りのあまり全身を激しく震わせた。 「よくもノコノコと顔を出せたわね!見なさいよ、あなたが珠羽ちゃんをどんな目に遭わせたか!左足は骨折、全身傷だらけじゃない! 海吏、あなた頭がおかしくなったの?この子を一人であんな場所に置き去りにするなんて!」 海吏は明音の怒りを一身に浴びながらも、その視線は珠羽の血の気を失った顔に釘付けになっていた。 「すまない、珠羽」彼の声はひどく掠れていた。 「あの時はあまりに混乱していて……絵凛の方が崩落箇所に近かったから、俺はただ……」 彼は言葉を切り、喉仏を上下させた。「彼女の方が、危険だと判断したんだ」 珠羽は静かに彼を見つめていた。その顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。 「海吏」彼女は彼の弁解を遮った。その声はひどく淡々としていた。「もう、言い訳はしなくていいわ。 あなたはただ、あの瞬間、絵凛の命の方が私の命よりも重いと思った。それだけでしょう?」 海吏の目が驚愕に見開かれ、まるでその言葉に焼かれたかのように、その場に縫い止められた。 珠羽はもう彼を見ることはなく、ゆっくりと目を閉じた。 「出て行って」深い疲労を滲ませた声で、静かに言い放った。 「聞こえなかったの!ここにいては目障りよ!」 明音がすぐさま歩み寄り、涙を拭いながら、立ち尽くす彼を力任せに病室の外へと押し出した。 バタンと背後でドアが閉まり、外の世界のすべてが遮断された。 珠羽は目を閉じたまま、左脚から伝わる鈍い痛みを感じ取っていた。 奇妙なことに、この五年間、ずっと胸の奥にくすぶり続けていたあの締め付けられるような切なさは、彼が別の女を抱き抱えて去っていくのを目にしたあの瞬間に、完全に焼き尽くされてしまったようだった。 今やここには、冷え切った灰だけが残されている。 しばらくして目を開けた珠羽は、スマートフォンを手に取ると、不動産アプリでいくつかの賃貸物件を絞り込み、退院の日に合わせて一括で内見の予約を入れた。 今、彼女の心にはただ一つの思いだけが残っていた。 ――もう、去るべき時だ。 第5話 退院の日。珠羽が松葉杖をつきながら病院の正面玄関を出ると、道端にはすでに海吏の車が停まっていた。 彼は落ち着いた足取りでこちらへ向かってくると、彼女の手から荷物を引き取ろうとした。 「送っていく」 珠羽はその手をすっと避け、ひどく冷ややかな声で返した。「結構よ」 海吏は助手席のドアを開けた。その声音は穏やかだったが、同時に拒絶を許さない響きを含んでいた。 「足の怪我がまだ治ってないんだ、強がるな。ちょうどいい、俺たち少し話そう」 彼女はその場から一歩も動かなかった。「あなたと話すことなんて、何もないわ」 海吏は小さくため息をつき、彼女を支えようと手を伸ばしたが、それも身をかわして避けられてしまう。 彼の顔色が一瞬不機嫌そうに曇ったが、すぐにまた元の平静さを取り戻した。 「あの日のことは意外な事故だったんだ。絵凛もお前にすごく申し訳なく思っていて……」 「もういいわ」珠羽は彼の言葉を冷たく遮った。「そんなこと、もう私には何の関係もないから」 言い捨てるや否や、彼女は迷いのない動作でサッと手を挙げ、通りかかったタクシーを拾った。 それを見た海吏は、お手上げだというように再びため息をついた。 「お前がそう言うなら……わかった。お互い、少し冷静になる時間を持とう」 タクシーのドアを閉めた瞬間、心身をすり減らすあの外の世界は完全に遮断された。 後部座席に寄りかかり、窓の外を飛ぶように過ぎ去っていく景色を静かに見つめる珠羽の顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。 新しく借りたマンションに着き、珠羽は丸一日かけて荷物の片付けを済ませた。 ちょうど宅配便の手配をしようとしていたその時、海吏から着信が入った。 画面に点滅する名前を一瞥し、そのまま通話を切る。 しかし彼は執拗に二度、三度と鳴らしてくる。根負けして電話に出ると、珠羽はよそよそしい声で言った。 「お互い冷静になるために、しばらく連絡は絶つって話じゃなかったの?」 「珠羽、そんな態度はよしてくれ」電話の向こうから聞こえる海吏の声は、彼女を宥めるようにわざとらしくトーンを落としていた。 「お前が辛い思いをしているのは分かってる。あの日は俺の配慮が足りなかった。 だけど、俺の病気を治せるのは絵凛だけなんだ。あの非常時に、彼女に何かあったら困る状況だった」 彼はそこで言葉を切り、さらに声を潜めた。「お前がそのせいで、こんな大怪我をすることになるとは俺も思っていなかったんだ」 珠羽は鼻でふっと嘲笑した。 「なるほどね。あなたの主治医のためなら、私が怪我をするのは当然だってことね」 電話の向こうが一瞬沈黙し、彼の苛立ったような荒い呼吸音が微かに漏れ聞こえてくる。 「そういう意味で言ったんじゃない」彼の声には、抑えきれない焦燥が混じっていた。 「お互い冷静になろう。お前には後でちゃんと埋め合わせをする。ただ、今はもっと重要な、解決しなきゃいけない問題があるんだ」 彼はすぐさま話題を本筋へと切り替え、反論を許さない強い口調になった。 「今日、絵凛の重要な成果発表会があって、業界の権威も大勢来ているんだ。ただ、最近変な噂が流れていてな…… お前に、俺の恋人として出席してもらいたい。そうすれば、そんなくだらない噂はすぐに消え去る」 珠羽は静かに視線を落とした。結局のところ、彼がこの電話をかけてきた本当の目的も、絵凛のためだったのだ。 「行かないわ」彼女はきっぱりと拒絶した。 「お前の勝手にはさせないぞ」海吏の声が、冷酷な響きを帯びて低く沈んだ。 まさか彼が、自分を力ずくで連れ出すためにボディガードまで差し向けるとは思いもしなかった。珠羽は無理やり、イベント会場である国際会議センターへと連行された。 ステージの上では、絵凛が笑顔でプレゼンテーションを行っていた。 背後の巨大スクリーンには様々な専門資格や治療の成功事例が映し出され、客席からは時折拍手が沸き起こる。 「系統的脱感作療法を用いることで、患者が段階的に心理的障害を克服するサポートが可能となります」 絵凛はよどみなく語りながら、時折客席の最前列に座る海吏へと視線を送る。二人の間には、言葉にするまでもない親密な空気が漂っていた。 ――だがその時、巨大スクリーンが突然チカッと点滅した。 次の瞬間、一枚の生々しい写真が会場中の全員の目に飛び込んできた。 絵凛が海吏の膝の上に跨るように座り、自らの豊かな胸を持ち上げて、彼の唇へと押し当てている写真だ。 会場がどよめきに包まれる。 しかしそれにとどまらず、さらに過激な写真が次々と映し出された。 プライベートシアターで深く抱き合う二人。絵凛の手は、海吏のシャツの裾から内側へと滑り込んでいる。 「こ、これは治療に必要な処置なんです!」絵凛は顔から血の気を失い、パニックになりながらマイクで弁解し、スタッフに大声でスクリーンの電源を落とすよう指示した。 しかし、客席はすでに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。 「キスが必要な治療って何だよ?」 「ただの誘惑じゃないか!治療っていう名目を隠れ蓑にして、裏でコソコソ不倫してた泥棒猫よ!」 海吏は即座にステージへと駆け上がり、ガタガタと震える絵凛を素早く自分の背後に庇った。 彼は青筋を立てた顔で、ボディガードたちに鋭く怒鳴りつける。 「この場を収拾しろ!そして、写真の出所を今すぐ調べ上げろ!」 そして片手で絵凛を庇いながら、もう一方の手で珠羽の腕を引こうとした。 「ここは混乱しすぎている、ひとまず控え室へ移動するぞ」 珠羽は半歩後ろに下がり、彼が伸ばしてきた手を避けた。 海吏が何か慰めの言葉をかけようとしたその時、彼の秘書が血相を変えて駆け寄ってくると、彼の耳元で数言囁いた。 その瞬間、海吏の顔色が劇的に変わった。彼は猛然と振り返り、珠羽を鋭く睨みつけた。 「珠羽!」彼の声は、信じられないという驚愕と沸き立つような怒りで激しく震えていた。「お前がここまで悪辣な真似をする女だったとはな!」 第6話 控え室に入るなり、海吏はスマートフォンを乱暴に珠羽の目の前へと突き出した。 画面には、あっという間に炎上したネットの反応が広がり、絵凛に対する見るに堪えない誹謗中傷が溢れかえっている。 「表向きは寛大なフリをしておいて、裏でこんな卑劣な手段を使って彼女を陥れたのか?」 海吏の放つ一言一言に、激しい怒りがこもっていた。 「彼女の評判とキャリアをぶち壊して、お前はそれで満足か!」 珠羽はふっと鼻で笑った。「そんな下らないこと、する気にもならないわ」 彼女は海吏を見て、ただただ滑稽に思えた。他人の適当な言葉を鵜呑みにして、背後で糸を引いているのは自分だと決めつけている。 五年間という月日を共に過ごしてきたのに、これっぽっちの信頼すら築けていなかった。 そのまま視線を絵凛へと移す。 「そっちこそ、慌てて私を身代わりにして罪を擦りつけようとしているところを見ると……よっぽどやましいことでもあるんじゃないの?」 海吏はその場に硬直した。顔に浮かんでいた怒りの表情が明らかに強張る。 珠羽の言葉を聞いた絵凛の目からは、瞬時に涙が溢れ出した。 「海吏、もういいの……私のために珠羽さんと喧嘩しないで。たとえ本当に彼女がやったことだとしても、私は恨まないわ」 彼女は真っ青な顔を上げ、健気に無理な笑顔を作ってみせる。 「わかるの。彼女はあなたの恋人なんだから、治療のプロセスを誤解してしまうのも無理はないわ。 私が少し理不尽な思いをするくらい、どうってことない。あなたの病気を治せるなら、私はどんなことだって受け入れるから」 その言葉に、海吏の瞳には今にも溢れ出んばかりの痛ましさと同情が浮かんだ。 彼は絵凛を強く抱き寄せると、一切の感情を失った珠羽の顔を再び見つめた。その瞳の奥にあった失望は、すでに露骨な非難の色へと変わっていた。 まるで赤の他人でも見るかのような冷ややかな目で、海吏は反論を許さない口調で彼女を追い詰めた。 「珠羽。お前はこれほどの大騒動を起こして、絵凛に全くいわれのない非難を浴びせたんだぞ。 彼女は今でもお前を庇ってくれているというのに。今すぐ噂を否定する声明を出して、彼女に謝罪しろ!」 彼が自分の釈明などまったく聞く耳を持たないのを見て、珠羽はこれ以上何を言っても無駄だと悟った。 だから彼女はもう二人を見ることをやめ、静かにスマートフォンを取り出して電話をかけようとした。 「言葉で通じないなら、警察を呼んで解決してもらうしかないわね」 「警察は呼ばないで!」絵凛が悲鳴のような声を上げ、その顔から一瞬にして血の気が引いた。 「怖い、海吏……さっきのあの恐ろしい光景、もう思い出したくもないの。お願い……!」 しかし珠羽には分かっていた。絵凛は単に、警察に介入されて真相を暴かれるのが怖いだけなのだ。 海吏はすぐさま絵凛をかばうように強く抱きしめた。「珠羽、お前はそうやって、どこまで執拗に彼女を追い詰めるつもりだ!」 見知らぬ他人を見るような氷のように冷たい目で、彼は珠羽を睨みつける。 「絵凛はこんな目に遭ってもお前を責めていないんだぞ。お前には少しの罪悪感もないのか?」 そう吐き捨てると、彼はもう珠羽を一瞥することもなく、絵凛を大事に抱き上げて控え室を出て行った。 バタンとドアが重苦しい音を立てて閉まる。 珠羽はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく足音を聞いていた。 ゆっくりと窓辺に歩み寄り、海吏が再びためらいなく別の女を選び取るのを見つめた。 胸の奥に残っていたわずかな温もりすらも、ついに完全に冷え切ってしまった。 三日後の夕方。珠羽が新居のマンションで荷物を整理していると、スマートフォンの画面に突然ニュース速報がポップアップした。 【五十嵐グループCEO、桜井絵凛医師のために自ら声明を発表。不適切な治療という噂を真っ向から否定】 添付されていたのは、海吏が絵凛を庇いながらあの会場を後にする瞬間の写真だった。 スマートフォンを握る珠羽の指がわずかにこわばる。付き合い始めた頃のことを、彼女はふと思い出していた。 一度、海吏が大切なデートをすっぽかし、彼女が本気で怒ったことがあった。彼は一晩中マンションの下に立ち尽くし、翌日目の下に酷い隈を作ってこう言った。 「珠羽、俺は絶対に、お前を一人で置き去りになんてしない」 だが今、彼はとうの昔にその約束を忘れてしまっている。 唐突に鳴り響いた着信音が彼女の思考を断ち切った。 「水瀬さん、今すぐ大学の研究室に来てくれ」電話の向こうの指導教官の声はいつになく厳しさを帯びていた。 珠羽が急いで研究室に駆けつけると、部屋の空気は異様なほど重苦しかった。 指導教官は一冊の最新の学術誌を彼女の前に突き出した。「これはどういうことだ? 桜井さんが発表したばかりの論文なんだが……研究の方向性も、記載されているデータも、君が今進めているテーマと完全に一致している」 珠羽は学術誌を手に取り、素早くページをめくった。読み進めるほどに、全身の血の気が引いていく。 着眼点が酷似しているだけではない。いくつかのあるはずのない極秘の独自データまでが、堂々と記載されていたのだ。 「そんな、あり得ません……」全身の血が瞬時に凍りついたようだった。 「この研究データは、私の個人用のパソコンにしか保存していません。クラウドへのバックアップすら、取っていませんでした」 彼女のパソコンに物理的に触れることができ、なおかつ彼女に一切警戒されることなく、すべてのコアデータを盗み出せる人間。 ――海吏をおいて、他に誰がいるというのか? 第7話 その考えが頭をよぎった瞬間、まるで頭から氷水を浴びせられたかのように、珠羽は背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。 海吏はあろうことか、彼女が四年間も血の滲むような思いで積み上げてきた努力の結晶を、いともたやすく絵凛にくれてやった。 彼女はその学術誌をひったくるように掴むと、研究室を飛び出した。 五十嵐グループ本社の最上階にある会議室まで駆け上がり、珠羽は勢いよくドアを押し開けた。 「珠羽様……」慌てて制止しようとする秘書を冷たく振り払い、珠羽は居並ぶ役員たちの目の前で、その学術誌を海吏の目の前へと叩きつけた。 「どういうつもり?」 海吏は背もたれに深く寄りかかり、デスクに投げ出された学術誌へ酷く冷淡な視線を落とした。 「お前の代わりに、俺が絵凛に謝罪しておいた。これは彼女への埋め合わせだ」 珠羽はあまりの理不尽さに思わず吹き出しそうになったが、その声は氷のように冷え切っていた。 「海吏。一体誰の許可を得て、私の研究成果を勝手に持ち出したの? ここに載っているデータの一つ一つが、私が何百回も実験を繰り返してようやく手に入れたものなのよ!」 彼女はその場に立ち尽くし、爪が手のひらに深く食い込むほど拳を握りしめた。 数千件に及ぶ症例を集めるために徹夜した日々や、明け方まで何度もデータを照合した記憶が脳裏をよぎる。 この研究テーマが彼女の学位取得にかかっているだけでなく、亡き母が最期に残した「立派な医者になってね」という約束そのものであることを、海吏は誰よりもよく知っていたはずだ。 それなのに彼は何のためらいもなくそのすべてを絵凛に捧げてしまった。 「だからなんだ」海吏は冷淡に珠羽の言葉を遮った。「あの発表会は絵凛にとって非常に重要だった。それをぶち壊したのはお前だろう? 彼女がネットで叩かれ、家から一歩も出られないほどに追い詰めたんだ。これくらいの代償を払うのは当然じゃないか」 珠羽は五年間愛し続けた目の前の男が、突然ひどく見知らぬ他人のように思えた。 彼が隠そうともしない絵凛への偏愛はあまりにあからさまで、もはや言い返す気力さえ失いそうだった。 彼女は静かに頷き、一歩後ずさった。「……そう。分かったわ」 その日の夜、マンションに戻った珠羽はパソコンに入っているすべての生データと実験記録をプリントアウトした。 分厚い一束の資料がローテーブルを埋め尽くす。その一枚一枚に、彼女が費やしてきた二年間の血の滲むような努力が刻まれていた。 彼女はライブ配信のプラットフォームを開き、カメラの位置を調整した。 「皆様、こんばんは。水瀬珠羽です。 本日は桜井絵凛の学術的な不正行為、および私の研究成果の盗用について、実名で告発いたします」 珠羽の声はどこまでも冷静で、凛と響いていた。彼女はすべての証拠を一つずつカメラの前に提示していく。 初期のテーマ構想から、各データの出処と収集プロセスに至るまで、タイムラインには一点の矛盾もない。 さらに彼女は、指導教官との間で交わされた何通ものメールも提示した。それらの送信日時は絵凛が論文を発表するより遥か昔のものだった。 ライブ配信が終了して一時間も経たないうちに、「桜井絵凛の論文盗用」というキーワードがトレンドのトップに躍り出た。ネットの世論は完全に逆転していた。 深夜、珠羽が休もうとしていたその時、マンションのドアが轟音を立てて蹴破られた。 玄関には、シャツの胸元をはだけさせ、目を血走らせた海吏が立っていた。 彼は一歩、また一歩と彼女に詰め寄り、背筋が凍るほど低い声で凄んだ。 「お前は絵凛を死に追いやらないと気が済まないのか?彼女が手首を切ったぞ!」 珠羽が状況を飲み込む間もなく、海吏は猛然と彼女の手首を押さえつけた。 「俺が何度大目に見ても、お前は図に乗るばかりだな。珠羽、お前には心底失望した!」 その腕力は尋常ではなく、珠羽は腕の骨が今にもパキパキと砕け散るのではないかという錯覚に襲われた。 必死に振り払おうとするが、彼の圧倒的な力の前に、到底抗うことなどできなかった。 「連れて行け」海吏は背後に控えるボディガードたちに冷酷に命じた。 「郊外の別荘の地下室にぶち込め。俺の許可が下りるまで、絶対に外へ出すな!」 別荘の地下室は底冷えがして湿っぽく、空気には強いカビの臭いが充満していた。 珠羽の背後で、重厚な鉄の扉が鈍い音を立てて閉ざされる。 暗闇。果てしなく続く、絶対的な暗闇。 珠羽には重度の閉所恐怖症があった。そして、海吏はそのことをずっと前から知っていたのだ。 幼い頃、酒に酔った父親によって物置に一晩中閉じ込められたというトラウマが、彼女の心に密閉空間への骨の髄まで凍るような恐怖を植え付けていた。 彼女は地下室の隅にうずくまり、呼吸が制御できないほどに荒くなり始めた。 冷や汗が瞬く間に衣服を濡らし、心臓が胸を突き破りそうなほど激しく打ち鳴る。 暗闇の中で、彼女はまるで再びあの狭い物置へと引き戻されたかのようだった。耳元で、父親の怒号がガンガンと響き渡る。 「出して……」小刻みに震える声で懇願しても、何の返答も返してはくれない。 闇の中では、時間という概念すら意味を失っていた。どれほどの時が流れたのかも分からない。 激しい飢えと喉の渇きが彼女を苛み、恐怖がまるで押し寄せる波のように何度も何度も襲いかかる。 やがて、珠羽は幻覚を見るようになった。母親が自分を呼ぶ声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には海吏が目の前に立ち、あの冷酷な眼差しで自分を見下ろしている。 地下室のネズミが足元をかすめて走っていっても、悲鳴を上げる気力すら残っていなかった。 「私は……やってない……」 珠羽は冷たい床に丸まり、次第に意識が遠のいていく。 限界を迎えた意識の糸がぷつりと途切れる、まさにその直前だった。 強烈な光が地下室に差し込み、ひどく聞き馴染みのある声が、ため息混じりに耳元へ降ってきた。 「俺がいない間に、なんだってこんなボロボロになっているんだ」