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あなたの後悔に、私は署名しない
久我言司(くが げんじ)のために八年間、日陰の存在として、部下として、身を粉にして尽くし続けてきた。 私をそんな夢物語から現実に引き戻...
Chương (1)
第1章
久我言司(くが げんじ)のために八年間、日陰の存在として、部下として、身を粉にして尽くし続けてきた。
私をそんな夢物語から現実に引き戻したのは、会社の清掃員のおばさんだった。
深夜の残業中。私は温かい海鮮粥と胃薬を、言司のデスクにそっと置いた。
「久我社長、冷めないうちに召し上がってください。また胃が痛くなりますから」
言司はモニターの財務報告書から目を離そうともせず、「ああ」という空返事すら寄越さない。
粥の器を少しでも彼の手元へ近づけようとした、そのときだった。
傍らでゴミ箱を片付けていた清掃のおばさんが、ふと作業の手を止めた。
「お嬢さん、もういいんじゃないですか。社長なら、別の子が持ってきたお弁当をもう召し上がりましたよ。あのきれいなお弁当箱は、まだうちのカートに捨ててあるんですから」
私の手が、宙で凍りついた。
言司がキーボードを叩く音も一瞬途切れ、わずかに眉間が寄せられる。
五十代の清掃員。ただ黙々と社内を清掃しているだけのおばさんにすら、とっくに見抜かれていたのだ。
――この男は、私のことなどこれっぽっちも愛していないのだと。
立ち上る海鮮粥の湯気を見つめていると、ふと、そんな思いが頭をよぎった。青春のすべてを捧げたこの八年間が、まるで滑稽な茶番劇のように思えてきたのだ。
私は静かに手を伸ばし、粥を容器ごとゴミ箱へ落とした。
「そうですね。社長のお口に合う味も、どうやら変わってしまったみたいですから」
それが、彼を人生の最優先事項にしてきた私にとって、最後の夜となった。
第1話
久我言司(くが げんじ)のために八年間、日陰の存在として、部下として、身を粉にして尽くし続けてきた。
私をそんな夢物語から現実に引き戻したのは、会社の清掃員のおばさんだった。
深夜の残業中。私は温かい海鮮粥と胃薬を、言司のデスクにそっと置いた。
「久我社長、冷めないうちに召し上がってください。また胃が痛くなりますから」
言司はモニターの財務報告書から目を離そうともせず、「ああ」という空返事すら寄越さない。
粥の器を少しでも彼の手元へ近づけようとした、そのときだった。
傍らでゴミ箱を片付けていた清掃のおばさんが、ふと作業の手を止めた。
「お嬢さん、もういいんじゃないですか。社長なら、別の子が持ってきたお弁当をもう召し上がりましたよ。あのきれいなお弁当箱は、まだうちのカートに捨ててあるんですから」
私の手が、宙で凍りついた。
言司がキーボードを叩く音も一瞬途切れ、わずかに眉間が寄せられる。
五十代の清掃員。ただ黙々と社内を清掃しているだけのおばさんにすら、とっくに見抜かれていたのだ。
――この男は、私のことなどこれっぽっちも愛していないのだと。
立ち上る海鮮粥の湯気を見つめていると、ふと、そんな思いが頭をよぎった。青春のすべてを捧げたこの八年間が、まるで滑稽な茶番劇のように思えてきたのだ。
私は静かに手を伸ばし、粥を容器ごとゴミ箱へ落とした。
「そうですね。社長のお口に合う味も、どうやら変わってしまったみたいですから」
言司の瞳に、明らかな不快感が走る。
「詩音、いい加減にしてくれ。残業中にこんなものを持ち込まれても、邪魔なだけだ」
今までの私なら、そんな言葉を聞いた瞬間、すぐに頭を下げて謝っていただろう。恐縮しながら粥を置き、彼が食べ終えるまで部屋の隅で息を潜めていたはずだ。
でも今日、私はその場に立ち尽くしたまま、清掃カートに載ったままの弁当箱をじっと見つめていた。
ピンクの包みに、小花柄のリボン。誰かが時間をかけ、心を込めて用意したものだと、一目でわかった。
清掃のおばさんが小さくため息をつき、カートを押しながら立ち去っていく。去り際、一度だけこちらを振り返ったその目に浮かんでいたのは、紛れもない同情の色だった。
「詩音、何をぼーっとしているんだ」
言司がようやくこちらへ顔を向けた。むろん、心配してのことではない。苛立ちからだった。
私は無言でランチバッグを手に取って、そのままドアへと向かった。
「おい、詩音」
その声には、警告の響きが滲んでいた。
かつての私なら、これで必ず足が止まっていた。振り返り、無理に笑顔を作って「ごめんなさい、仕事の邪魔をして」などと優しく声をかけていた。
しかし今日、その足は止まらなかった。
自分のデスクに戻り、USBメモリを抜き、パソコンを閉じる。タイムカードを切って、エレベーターへ乗り込んだ。
バッグの中のスマホが一度だけ震えた。
言司からのメッセージだ。
【戻ったら、デスクの上を片付けておけ。あと、明日の会議資料も印刷しておくように】
無表情で文字を目で追い、画面を暗くする。
会社のエントランスを出ると、冷たい夜風が強く吹きつけてきた。
信号待ちをしながら、再びスマホの連絡先を開く。
「久我言司」という名前の横にはお気に入りの星マークがつけられており、メモ欄には【胃薬は水曜日に補充】と書き込まれていた。
名前に付けていたお気に入りの星マークを外した。
メモを消去した。
特別通知をオフにした。
トークのピン留めも解除した。
たったそれだけのことなのに、手の中のスマホが少しだけ軽くなったような気がした。
彼と同棲しているマンションへ帰ると、リビングは真っ暗だった。
私はまっすぐゲストルームへと向かい、内側からしっかりと鍵をかけた。
以前は毎日、主寝室で布団を温めながら彼の帰りを待っていた。
帰りが遅い夜には湯たんぽを用意し、彼の寝る位置にそっと忍ばせた。メッセージの返信が遅ければ、十分おきにスマホの画面をチェックしていた。
今夜は、ベッドに横になって三分で目を閉じた。
メッセージを待つこともなく、翌朝の朝食作りのためのアラームをセットすることもなく。
眠りは、拍子抜けするほどに深かった。
深夜二時、スマホの画面が着信で何度も明滅した。しかし私は寝返りを打って見ないことにした。
朝の六時十五分、いつものアラームが鳴る。
以前なら、この時間にはもうキッチンに立ち、彼のための手作りサンドイッチを用意していた。
全粒粉のパンに、レタス、目玉焼き、低脂肪チーズ。ハムは両面に薄く焼き色がつくまで丁寧に焼く。
八年間作り続けて、ただの一度も「おいしい」と言われたことはなかった。少し塩気が強いというだけで、その日一日中、不機嫌な顔をされたものだ。
今日の私は、マグカップの牛乳を温め、ダイニングチェアに腰を下ろし、ゆっくりと時間をかけて味わった。
第2話
スーツにアイロンをかけてやる人間は、もういない。
ネクタイを選んでやる人間も、いない。
革靴を磨いてやる人間も、いない。
午前七時、主寝室のドアが開く。パジャマ姿で現れた言司は、寝癖のついた頭のまま、がらんとした食卓を目の当たりにして眉をひそめた。
「朝ごはんは?」
私は最後の一口を飲み干し、静かにカップを食洗機へと片付ける。
「私、お腹空いてないから」
「俺の飯はどうしたって聞いてるんだ」
まるで部下を詰問するような口調だった。いや、実際の部下に対しては、もう少し丁寧に接しているかもしれない。
私は口元を拭うだけで、何も答えなかった。
言司はしばらく私を見つめていたが、やがて苛立たしげに寝室の扉をバタンと閉めた。
十分後。スーツに着替えた言司がブリーフケースを手に取り、玄関へと向かう。私の傍らを通り過ぎる瞬間、その足がぴたりと止まった。
きっと、以前のように追いかけてきてネクタイの曲がりを直し、バッグにミネラルウォーターを入れてくれるのを待っているのだろう。
しかし私はソファに腰を下ろしてスマホを眺めたまま、視線すら上げなかった。
彼の方から、低く鼻で笑う音が聞こえた。苛立ちを無理やり抑え込んだような、棘のある冷たい笑い声だった。
次の瞬間、玄関のドアが乱暴に閉められ、その強烈な音が室内に響き渡った。
言司は怒っている。このまま放っておけば、またいつもの冷戦状態に突入するだろう。
けれど、アプローチするのに二年、機嫌を取るのにさらに八年を費やしてきたのだ。今度こそ、自分自身を甘やかしてやりたかった。
……
思えば、自分をないがしろにしてきた年月は、あまりにも長すぎた。
大学時代、言司は経済学部で誰よりも眩い光を放っていた。
家柄も良く、容姿端麗で、成績も優秀。
どこにいても、自然と周囲の視線を集める存在だった。
私もまた、彼に目を奪われる大勢の中のひとりだった。
ディベート大会で堂々と持論を展開する姿を覚えている。
白いシャツ姿で並木道を歩く姿も。
落とした教科書を何気なく拾い上げ、振り返りもせずに去っていった姿も。
ただそれだけで、私は彼にどうしようもなく惹かれてしまったのだ。
そこから二年にわたる、一方的でひたむきな日々が始まった。
毎朝六時に起きて教室の席を確保した。彼がいつも座る列の、ちょうど一つ後ろの席を。
彼がブラックコーヒーを好むと知れば、毎日二十分早く家を出て、校門前のカフェの列に並んだ。
凍えるような冬の日も、土砂降りの雨の日も。
大雪の朝、いつものカフェが閉まっていたときは、三ブロック先まで走って買いに行った。
手渡したとき、コーヒーはまだ温かかった。けれど私の手は、とうに感覚を失っていた。
受け取った言司は一口だけ飲み、「味はまあまあだな」とだけ呟いた。
たったその一言で、私は丸一週間も宙に浮くような心地で過ごせた。
それからはサークルの書類整理を手伝い、論文の印刷をこなし、課題の提出列にも並んだ。
彼は一度も拒まなかった。しかし、彼の方から声をかけてくることもなかった。
ルームメイトに「彼にアプローチしてるの」と打ち明けたとき、「向こうも気があるの?」と尋ねられた。
しばらく考えた末、「断られていないから、きっとそうだと思う」と答えた。
今にして思えば、滑稽で笑ってしまう。
卒業の年。言司は花城グループの総合職の座を射止め、私のもとには三つの大手投資銀行からオファーが届いていた。
本当は、ゴールドマン・サックスに行くはずだった。
厳しい面接を突破し、すでにオファーも受諾していたのだ。
だが、言司の放った一言がすべてを変えた。
「詩音、花城に来い。俺の傍には、信頼できる右腕が必要なんだ」
たったその一言で、私はすべてのオファーを辞退した。
指導教官は研究室の机を叩いて激怒し、「今回の選択は、あまりにも無鉄砲だ」と吐き捨てた。
それでも、馬鹿だとは思わなかった。
あのときの私にとって、「必要だ」というその言葉は、世界で最も甘美な告白に思えたのだから。
花城に入社すると、まずは投資運用部に配属された。しかし三ヶ月後には、言司の専属秘書へと異動になった。
異動命令書には、言司の直筆サインが記されていた。
これが信頼の証拠なのだと思った。特別な存在として認めてもらえたのだと。二年間追いかけ続けた末に、ようやく想いが報われたのだと信じて疑わなかった。
一年目。毎日朝食を作り、書類を整理しながら、その合間を縫って分析レポートを書き上げた。
提出者名は言司のものになったが、当時はそれが当然だと思っていた。彼はトップであり、自分は秘書なのだから、レポートに使われる名前は彼のものであるべきだと。
第3話
二年目。私は彼のマンションへと引っ越した。
プロポーズの言葉も、特別な儀式もなかった。ただ、「俺の家へ越して来い。飯や洗濯を任せられるからな」という一言だけがあった。
一緒に暮らすこと自体が、彼に受け入れられた証なのだと思った。
母から電話があり、「いつ挨拶に来るのか」と尋ねられた。私はとっさに、いくつもの言い訳をひねり出した。忙しいから、出張中だから、プロジェクトが佳境だから、と。
「私に会う時間さえ作れないの?」と母は言った。
「お母さん、彼は本当に忙しいのよ」と私は答えた。
電話を切ったとき、言司はソファに寝転がったままゲームに興じていた。
こうした瞬間に胸をよぎる違和感を、私はいつも手早く飲み込んできた。
「愛していないわけじゃない。ただ、愛情表現が不器用なだけなんだ」と自分に言い聞かせて。
三年目。彼の母親がマンションの掃除が行き届いているかチェックしに訪れ、、私が選んだカーテンを指差して「安っぽくて恥ずかしい」と吐き捨てた。
彼女の気に入るものに買い換えた。七万円近い、高級なカーテンだった。
その月、私は二十日間もカップ麺だけをすすって過ごした。
四年目。社内表彰が行われ、私の影の業績は全部署の中でトップだった。
しかし、優秀社員として壇上に名前を呼ばれたのは、言司だった。
その輝かしい業績は最初から、すべて彼の名前で積み上げてきたものだったからだ。
五年目。ヘッドハンターから連絡が入った。新設された投資銀行が、パートナーとして私を招きたいという打診だった。
一晩中迷い抜いた末、最後に言司へそっと打ち明けた。
スマホを置き、私を見つめた彼は言った。「お前が行ったら、誰が俺を助けるんだ」
私はそのオファーを断った。
六年目。彼の母親が、一枚の合意書を私の目の前に突きつけた。
【第一条:白瀬詩音は久我言司との間に婚姻関係が存在しないことを確認し、本同居は自発的なものであり、いかなる法的拘束力も生じないことを認める。
第二条:関係解消後、白瀬詩音は久我家に対していかなる金銭的補償、慰謝料、財産分与も請求しない】
言司は隣に立ったまま、ただの一言も発しなかった。
サインを済ませて廊下に出た私は、階段の踊り場にしゃがみ込んだまま、三十分ものあいだ動けなかった。
やがて涙を拭い、キッチンへと戻り、彼の大好きな肉じゃがを作った。
七年目、そして八年目。気がつけば、私は本来どんな人間であったのかすら、すっかり忘れてしまっていた。
朝六時に起きて食事を作り、昼は秘書として書類を書き、夜は彼の帰りを待ちわびて、深夜には彼のスケジュールを細かく確認する。
すべての時間を、「久我言司」という存在で埋め尽くしてきたのだ。
いつの間にか、「白瀬詩音」が誰なのかさえ、わからなくなりかけていた。
……
私は静かに立ち上がり、クローゼットの前へと歩み寄る。クローゼットの奥底から、カバーの掛かった古い黒のスーツを引っ張り出した。
八年前、入社初日に買った最初の正装だ。
あの頃の私は経済学部でトップの成績を収め、書いた分析レポートは教授によって模範解答として学科の掲示板に貼り出されるほどだった。
スーツを引きずり出し、丁寧に埃を払う。
サイズはまだぴったりと合っていた。ほんの少し、古いだけで。
会社に着くと、社長室のドアの前に人だかりができていた。
白い花柄のワンピースを着た小林七海(こばやし ななみ)が、淹れたてのドリップコーヒーを手に持っている。
彼女は私の姿を見つけると、ぱっと目を輝かせ、甘ったるい笑みを浮かべた。
「詩音さん、おはようございます」
そして、わざとらしくコーヒーのカップを私の目の前で揺らしてみせる。
「これ、久我社長専用の豆で淹れたの。私の淹れ方が一番お口に合うって言ってくださって。外で買ったものじゃ、もう物足りないって」
少し間を置いて、彼女はあざとく首を傾げた。
「あ、そうだ詩音さん。彼、もうオフィスのコーヒーメーカーのコーヒーは飲まないって言ってたよ。もったいないから、もう買わなくていいそうよ」
周りを囲む同僚たちが、静かに視線を交わし合う。同情する顔、野次馬根性丸出しの顔、そして嘲笑する顔。
私はちらりと、七海のトートバッグから半分覗いているランチバッグに目を落とした。
ピンク地に、小花柄のリボン。
昨夜、清掃カートの上に乗せられていたものと、まったく同じデザインだった。
私は手に持っていたタスクリストを、七海の胸元へぱっと押しつけた。
「そんなに甲斐甲斐しくお世話ができるなら、久我社長の身の回りのことは全部、あなたにお任せするわ」
七海が、その場で固まった。
彼女が何かを言いかけたそのとき、社長室のドアが内側から開いた。
第4話
社長室の入り口には、言司が立っていた。シャツの襟ボタンは外れ、ネクタイはまだ曲がったままだ。
彼はその場を一瞥し、私が七海の胸元へ書類を押しつけている光景を見て、すっと目を細めた。
「白瀬詩音、何をしているんだ。小林七海は新入りのインターン生だ。お前はベテランなんだから、後輩の指導は適切に行え。私情を仕事に持ち込むな」
声のトーンこそ穏やかだったが、その一言一言が、明らかに七海を庇うためのものだった。
社長室の前で、十数人の社員が見守る中で。
かつての私であれば、目を赤くして頭を下げ、「すみません、気をつけます」と謝罪していただろう。
しかし今日の私は、ただ静かに頷いただけだった。
「おっしゃる通りです。私には確かに能力が不足しており、インターン生ひとりを満足に指導することもできませんでした」
そう言ってバッグから一枚の書類を取り出し、傍らのデスクへぱっと置いた。
「異動申請書です。サインをお願いします。私は投資運用部へ戻ります」
言司の表情が、目に見えて変わった。
申請書に目を落とすと、その口の端がわずかに引きつる。
「馬鹿なことを言うな」
彼は申請書を押し返した。
「社長室に八年もいて、誰よりも業務に通じているお前が、なんで異動する必要があるんだ」
「久我社長。私がここにいた八年間でやってきたことは、ただひとつだけです。あなたのために、分析レポートを書き続けることでした」
私の声は決して大きくなかったが、その場にいる全員の耳に真っ直ぐに届いた。
「昨年の海通M&A案件、その核心となるリスク管理モデルは私が作りました。一昨年の中遠投資案件、財務分析フレームワークを構築したのも私です。三年前の譲豊再編案件では、最終的な発表用スライドを私が徹夜で仕上げました」
私は、言司の目を真っ直ぐに見据えた。
「ですが、それらのレポートに署名されていた名前は、すべて『久我言司』でした」
周囲の誰かが、小さく息を呑む音がした。
言司の顔が、怒りと焦りで赤みを帯びる。
七海は、コーヒーカップを持つ手を小刻みに震わせていた。
「お前……っ」
歯を食いしばり、喉の奥から声を絞り出すように彼が言った。
「白瀬詩音、自分が今、何を言っているのかわかっているのか」
「一から十まで、すべてバックアップを取ってあります」
自分でも驚くほど、私の声は静かで落ち着き払っていた。
「メールの送信記録、ドキュメントの更新ログ、システムのログイン履歴、そのすべてが残っています。もしサインしていただけないというのなら、これらのデータを役員全員のメールボックスへ一斉送信しても構いません」
室内が、まるで水を打ったように静まり返る。
言司がペンを握る手は、かすかに震えていた。
まるで見知らぬ他人を観察するような目で、彼は長い間、ただ私を見つめていた。
それでも最後には、ペンを走らせてサインをした。
私は申請書を手に取ると、踵を返して歩き出した。
ドアのところまで差し掛かったとき、背後から声が響いた。
「……詩音」
ただ一言、名前を呼んだだけ。それでもその声には、彼自身すら気づいていないような、かすかな動揺が滲んでいた。
私の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
それは未練や迷いからではなく、純粋な意外さからだった。
八年間。
この男が、自分に背を向けて歩き去る私の名前を呼んだのは、これが初めてのことだったのだ。
私は心の中で自嘲気味に笑い、そのまま振り向くことなくドアの外へと踏み出した。
……
投資運用部への異動は、拍子抜けするほどスムーズに進んだ。
部長自らがチームメンバーを紹介してくれ、その日の午後には、さっそく江海グループの国際M&A案件の資料が私の手元に届いた。
忙しいというのは、いいものだ。
データとモデルで頭がいっぱいになっている間は、余計な感傷に浸る隙など与えられないのだから。
夜。マンションに帰ると、言司がリビングのソファでテレビを眺めていた。
ドアの開く音を聞いて、リモコンを操作する彼の手が一瞬だけ止まる。
私は無言でスリッパに履き替え、ゲストルームへ入り、静かにドアを閉めた。
「ただいま」の挨拶はしなかった。
彼もまた、私を呼び止めようとはしなかった。
気がつけば、二人はただ同じ屋根の下にいるだけの、無関係な同居人になっていた。
しかし、気のせいだろうか。
ゲストルームから水を飲むためにリビングへ出るたびに、視界の端で、慌ててテレビの方へ向き直る彼の不自然な横顔が映ったような気がした。
会社でも同じだった。
投資運用部のあるフロアは十二階で、社長室は二十六階。
業務上、一日に一度たりとも顔を合わせるはずがない。
それなのに、給湯室でも、印刷室でも、一階へ荷物を取りに降りるエレベーターの中でさえ、なぜか偶然出くわすのだ。
第5話
ただの偶然だろう。
深く考えることもなく、私は目の前のプロジェクトに没頭し続けた。
江海グループのM&A案件は、予想よりもずっと早く進展した。中核となるレポートは三稿まで推敲を重ね、その最終版を提出した日のうちに、相手側は意向書にサインをした。
案件は、無事に成立した。
異例なことに、言司が花城グループ名義で打ち上げを主催した。
この八年間、私が十数件もの重要な案件を成功に導いてきた中で、彼が労いの席を設けたことなど一度もなかったというのに。
私は長机の中ほどに腰掛け、資産運用部の同僚たちと静かにグラスを合わせた。
一方の七海は言司の隣に陣取り、満面の笑みで甲斐甲斐しく料理を取り分けている。まるで、花から花へと舞う幸せそうな蝶のようにせっせと動き回っていた。
「久我社長、このガーリックシュリンプ、すごく美味しいですよ。ぜひ召し上がってみてください」
グラスを持つ私の手が、ピタリと止まった。
ニンニク?
言司は重度のニンニクアレルギーを持っている。
ほんの少し口にしただけでも全身に発疹ができ、ひどいときには喉が腫れ上がって呼吸困難に陥る。
思わず、視線を上げた。
しかし、すぐに手元へ目を戻す。
声には出さなかった。
見間違いだろうか。
微かに潤んでいた言司の瞳が、すっと冷たく翳ったのだ。
彼は箸を置き、苛立ちを隠そうともしない声で言った。
「俺はニンニクアレルギーだ。自分で取った料理は自分で食べなさい。俺の取り皿には乗せないように」
七海の満面の笑みが引きつり、耳の先まで真っ赤に染まった。
宴席で、言司は相当なペースで酒をあおっていた。
お開きになる頃には、一人でまともに立っていられないほど泥酔していた。
運転代行を二度呼んでも捕まらず、見かねた七海が慌てて支えようとしたものの、彼はその手を冷たく払いのけた。
結局、私が彼をマンションまで連れ帰ることになった。
玄関まで肩を貸して支え、リビングのソファに放り込み、ブランケットを一枚無造作に掛けた。
靴は脱がさなかった。温めたタオルで顔を拭いてやることも、酔い覚ましのゆず茶を作ってやることも、しなかった。
踵を返そうとした瞬間、手首を強く掴まれた。
「詩音」
薄く開かれた言司の目は、充血して真っ赤だった。
「まだ、七海のことで怒っているのか」
私は、自分の手首を掴む彼の手を静かに見下ろした。
「考えすぎよ。もう寝てください。駄々をこねないで」
手首を握る力がふっと抜け、言司は呆然とした表情のまま固まった。
「駄々をこねる」――その言葉を、彼はかつて私に向かって百回以上も投げつけてきた。
私が傷ついたとき、理不尽に責められたとき、泣きながら「あなたは私のことを少しも大切にしてくれない」と訴えたとき。そのたびに返ってきたのは、決まってその一言だった。
「いい加減、駄々をこねるのはやめてくれないか」
……
それからの日々、私は毎日遅くまで会社に残り、残業を続けた。
仕事が忙しいから、という理由だけではなかった。
マンションの中で、何かが確実に変わり始めていたからだ。
ゴミ箱はいつも空になっていた。誰かが定期的に捨てているのだ。
シンクに前日のカップが放置されることもなくなった。
冷蔵庫には私のお気に入りの牛乳が補充され、しかも常に最新の消費期限のものに替わっていた。
深夜に帰宅したある夜には、靴箱の上に新しいスリッパが置かれていた。以前のものよりずっと底が厚く、ふかふかとしたスリッパが。
かつての私なら、嬉しさのあまり一晩中眠れなかっただろう。
でも今は、そういった些細な変化のすべてが、ただただ煩わしかった。
むしろ会社に残って残業しているほうが、ずっと息がしやすく、気が楽だったのだ。
言司がなぜ、あれほどまでに仕事へと逃げ込んでいたのか。私はそのとき初めて、少しだけ理解できたような気がした。
ある夜、私はデスクに突っ伏したまま寝落ちしてしまっていた。
ふと目を覚ますと、肩に誰かのジャケットが掛けられている。
傍らには言司が立っていた。
その顔色は、ぞっとするほど青ざめていた。
私はぼんやりとした頭のまま上体を起こし、彼の視線と交差した。
言司は、パソコンのモニターをじっと見つめていた。
画面は、真っ暗なままだった。
「お前は、全然残業なんかしていなかったんだな」
声はひどく低かったが、絞り出すようなその響きはかすかに震えていた。
「……っ、ずっと、嘘をついていたんだな」
私は真っ暗な画面をちらりと見やり、ふと全身の力が抜けるのを感じた。
それでもいい。
もう、何も取り繕う必要なんてないのだから。
引き出しから二通の封筒を取り出し、デスクの上に並べた。
それが目に入った瞬間、言司は全身をこわばらせ、その場に固まった。