後悔の果て、永遠の夢に抱かれて

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後悔の果て、永遠の夢に抱かれて

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藤城蓮司(ふじしろ れんじ)と連れ添って十年目、私、星野遥香(ほしの はるか)は末期の肺がんに冒された。がん細胞はすでに全身へと転移して...

Chương (1)

第1章

藤城蓮司(ふじしろ れんじ)と連れ添って十年目、私、星野遥香(ほしの はるか)は末期の肺がんに冒された。がん細胞はすでに全身へと転移している。 医者によれば、私の余命はわずかで、いつ死が訪れてもおかしくないという。 愛憎がもつれ合った十年の果てに、蓮司がまたしても若い愛人を抱き寄せて私の前に現れた時、私は泣き喚き、騒ぎ立てることはしなかった。 すべての治療を放棄し、離婚協議書を残して、私はA国の海辺のリゾート地へ向かう航空券を予約した。そして、かつての私なら決してしなかったであろうことを、一つまた一つと実行に移していった。 その後、私が跡形もなく姿を消すと、彼は絶望のあまり見る影もなくやつれてしまった。 第1話 「星野さん、本当に治療を放棄して、退院するつもりですか?」 眼鏡のブリッジを指で押し上げ、医師は厳しい面持ちで星野遥香(ほしの はるか)を真っ直ぐに見つめた。 「今の病状で退院して自宅に戻れば、長く見積もっても一ヶ月の命です。医師として、私はこのまま治療を継続されることをお勧めします。ところで、ご主人はまだ同意書のサインに来られないのですか?」 遥香が答えようとした瞬間、喉の奥から血の匂いがせり上がり、彼女は思わず激しく咳き込んだ。 慌ててバッグからティッシュを取り出して口元を覆い、顔を背けて咳を続ける。 白いティッシュは、またたく間に目を刺すような鮮血に染まった。 咳の刺激で涙が滲み、もともと霞んでいた視界がさらに歪み始める。 よく見れば、彼女の片方の目は普通の人とは異なっていた。 漆黒に沈み、焦点も光も一切ない。それどころか、眼球そのものが少し陥没し、変形している。そう、この目は何も見えない。失明していたのだ。 本来の整った顔立ちがその異様な瞳をカバーしていなければ、誰の目にも不気味に映ったことだろう。 「星野さん!」医師は慌てて遥香の前に駆け寄り、気遣うように声をかけた。「すぐに救急で処置をしましょうか?」 「いいえ、大丈夫です」 遥香は手を振り、無理に微笑みを作った。「木村先生、前にも言ったはずです。夫なら、もう死にましたから」 医師はなおも心配を拭いきれない様子で言った。「分かりました。ですが、少しでも具合が悪くなったら、いつでも治療に来てください」 「はい、ありがとうございます」 そう言い残し、遥香は医師の哀れむような視線に耐えきれず、逃げるように病室へ戻って荷物をまとめ始めた。 その頃、テレビではあるニュースが流れていた。 「輝星テクノロジーグループが、海外の技術封鎖をついに突破しました。世界初のAIアンドロイド執事は、発売開始からわずか数分で完売となりました。 関係者によりますと、このAIアンドロイド執事は、人間の執事としての基本機能を備えているだけでなく、独自のチップを搭載しているため、単身者のニーズに合わせたカスタマイズや情緒的なサポートの提供も可能とのことです」 遥香は片目しか見えないため、画面に限界まで顔を近づけ、必死に目を凝らして見ようとした。 続いて、アナウンサーが現場の記者に中継を繋ぐ。 画面に映し出された輝星テクノロジーの社長であり、遥香の夫である藤城蓮司(ふじしろ れんじ)は、相変わらず端正で気高く、そして冷静で余裕に満ちていた。 記者の質問に対し、彼は微笑みを浮かべながら簡潔に答える。その振る舞いからは、IT業界のトップに立つ者としての自信と教養が滲み出ていた。 「妻が十年前、この構想を提案してくれました。彼女が信じ続け、背中を押してくれなければ、今の私はありません」 彼の一言は、現場の記者たちの間に大きな反響と推測を呼んだ。 コメント欄にも、ネットユーザーからの羨望と祝福の言葉が次々と流れていく。 しかし、突然あるコメントが目に飛び込んできた。 【羨ましがる必要なんてないぞ!聞くところによると、藤城社長の奥さんは片目がない不細工なんだぞ。お前ら見たことあるか?片方の目が潰れてて、マジで化け物みたいに醜いんだぜ】 遥香はその文字がやけに目に刺さり、慌ててテレビの電源を切った。 十年前、遥香は蓮司のプロポーズを受け入れた。 彼女はなけなしの全財産を持ち寄り、結婚式もウェディングドレスもなしで、たった六百円の指輪をはめ、迷うことなく彼と籍を入れた。 新婚生活が始まって間もなくのこと。 立ち上げたばかりの会社のために、遥香は志を同じくする大学の先輩たちを呼び寄せ、研究室で不眠不休の努力を重ねた。 輝星テクノロジー専用の独自チップも、遥香がある半導体業界の巨頭のもとへ何度も足を運び、冷たくあしらわれながらも必死に頼み込み、ついにはなりふり構わず土下座までしてようやく勝ち取った長期提携の成果だった。 蓮司は言った。「遥香、事業が安定したら、A国へ行ってウェディングフォトを撮ろう。いいだろう?」 かつて蓮司を守るために、彼に恨みを持つ者の手によって片目を奪われるほどの代償を払ったというのに、遥香は今もなお、彼の約束が果たされる日を待ち続けている。 遥香は疲れ果てた重い体を引きずり、家へと帰った。 邸宅の前に着くと、一台の高級車が目に飛び込んできた。 車窓は半分開いている。 中から甘えきった女の声が漏れ聞こえてきた。「蓮司、ひどい!痛くて死んじゃいそう」 続いて、男の低い吐息と車体がきしんで揺れる音が響く。 遥香にとって、誰よりも聞き慣れた声だった。 しばらくして、運転席のドアが開いた。 すらりとした長い脚が地面に降り立ち、続いて、凛とした佇まいの男が姿を現す。 蓮司だった。 第2話 蓮司は車のドアを閉め、遥香の姿を視界に捉えた瞬間、わずかに動きを止めた。だが、すぐにいつもの冷徹で余裕のある表情を取り繕う。まるで、今しがたの出来事など何もなかったかのように。 唯一の動かぬ証拠は彼の首筋に残された、生々しく赤いキスマークだけだ。 この三年で嫌というほど見慣れた光景のはずなのに、それでも遥香の胸には息が詰まるほどの痛みが走った。 車の中にいる女の正体など、当然知っている。 蓮司が三年前から外で囲っている愛人、佐伯詩織(さえき しおり)だ。 蓮司と遥香が恋に落ちたのは大学四年の時だった。 当時の彼は貧しい学生に過ぎず、一方の遥香はすでに数々のITコンテストで賞を総なめにし、才女として名を馳せていた。 彼の起業当初、遥香は自身が設計したAIプロダクトの特許権を、無条件で彼に譲渡した。 当時、複数の大手IT企業から破格の条件で提携を持ちかけられていたが、彼女はすべて断った。 そして蓮司もまた、遥香の特許を元手に、人生で最初の大金を掴み取った。 愛と忠誠の証として、輝星テクノロジーが飛躍し始めた頃、彼は自身の持ち株の大部分を遥香に贈与した。これにより、遥香は一躍会社の筆頭株主となり、絶対的な発言権を持つに至った。 だが、遥香は彼を愛しすぎていた。 ここ数年、彼の事業を支えるため、彼女は完全に裏方に回り、彼の身の回りの世話に専念してきた。会社の業務には一切口出しせず、共に苦難を乗り越える伴侶として寄り添い続けたのだ。 しかし三年前のある日、遥香は蓮司の仇敵に拉致された。 命からがら逃げ出し、這うようにして自宅に戻った彼女が目にしたのはかつて二人が何度も睦み合ったベッドで、裸のまま別の女を抱き寄せる蓮司の姿だった。 それからも、不貞の現場を何度も押さえた。 そのたびに彼は床に膝をつき、許しを乞うた。何を言われても決して離婚には応じず、「お前を失うくらいなら死んでやる」とさえ口にした。 遥香の心は当初の失望や絶望から、やがて冷めた諦念へと変わり、痛みさえ麻痺していった。 長年の情に加え、夫婦の利害関係はあまりに深く絡み合っている。遥香自身も、心血を注いだ会社をやすやすと他人に明け渡すことなど、到底受け入れられなかった。 それが、今日まで離婚に踏み切れなかった理由だ。 だが今、遥香はすべてを吹っ切った。 彼女はもうすぐ死ぬ。死んでしまえば、財産も地位もあの世へは持っていけない。 私を失えば死ぬと言っていた? 馬鹿馬鹿しい。 つい昨日、遥香は弁護士を通じて二通の離婚協議書を作成し、迷いもなく署名を済ませた。 遺言書も書き上げた。死後、名義上の全財産は慈善団体や児童養護施設へ寄付する。輝星テクノロジーの持ち株はすべて無条件で国へ譲渡すると明記した。 一ヶ月後に発つ、A国のリゾート地への航空券も手配済みだ。 最悪の事態も覚悟している。 もし一ヶ月生きられなかったら、葬儀社に金を払い、遺影だけでもあのリゾート地へ連れて行ってもらえばいい。 蓮司は遥香から視線を外すと、再び車窓に身をかがめ、中の女と何か言葉を交わした。 しばらくして、身なりを整えた詩織が車から降りてきた。その整った顔に不満げな色を浮かべ、遥香を忌々しそうにひと睨みしてから、足早に立ち去っていく。 蓮司は遥香の前に歩み寄り、自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。その声は低く、ひどく優しかった。「中に入ろう。外は冷える」 「あなたが不倫を始めて、もう三年になるわね、蓮司」遥香は冷たい笑みを漏らした。 蓮司は一瞬身体を強張らせた。すぐにその瞳から光が失われると、遥香の手を引いて家の中へと促した。 「彼女とは遊びだ。本気じゃない」彼女と共にソファに腰を下ろし、彼は静かに言った。 遥香は眉を上げ、皮肉たっぷりに言い放つ。「じゃあ、私たちの結婚も、あなたにとってはそんなものなのね」 蓮司の端正な顔に笑みが浮かんだ。彼は子供をあやすような低い声で囁く。 「よしなよ。他の女がどうあろうと、俺が本当に愛しているのはお前だけだ」 遥香は彼をまっすぐに見据えて問い詰めた。「今日が何の日か、覚えている?」 第3話 「もちろん。俺たちの結婚十周年の記念日だろう」 言い終わるや否や、蓮司は懐から精巧を極めたジュエリーボックスを取り出し、遥香の目の前で開いてみせた。 中に入っていたのは、遥香が以前から目を付けていたサファイアのネックレスだった。 オークションの開始価格だけでも、六千万円は下らない代物だ。 今の遥香はもう彼の出費を惜しむことはなく、遠慮もせずにその箱を受け取った。 彼女が受け取って当然の報酬だ。 かつて彼を気遣って節約したところで、何の意味があっただろうか。 この三年間、彼があの愛人に一体どれほどの金を注ぎ込んできたか知れたものではない。 「お前のお気に入りだと知っていたからね。だから競り落としたんだ」 そう甘く囁きながら、蓮司は身をかがめて遥香の唇を塞ごうとした。 遥香が体を引いてかわそうとすると、蓮司は強引に彼女を抱き寄せた。無理やり唇を奪い、その手は執拗に彼女の体を撫で回し、情欲を煽り立てようとする。 以前の遥香なら、この愛を失うことを恐れるあまり、込み上げる嫌悪感や惨めさを必死に堪え、自分を納得させて妥協していただろう。 肌を重ねる際も、せいぜい彼に避妊具を着けさせるのが精一杯の妥協だった。 しかし今日、遥香は彼が汚らわしいと感じた。自分の体に指一本触れさせたくない。 遥香はすかさず彼の腕から抜け出し、冷たく拒絶した。「今日は具合が悪いの。またにして」 その後、遥香はそそくさと寝室へ戻り、ベッドに横になった。 蓮司もすぐに後を追い、彼女を背後から抱きしめるようにして目を閉じた。 微睡みの中、ふと、微かな物音が遥香の耳に届いた。 彼女はそっと目を開ける。 ぼんやりとした視界の先で、蓮司がヘッドボードに背を預けていた。彼は片手でスマホを持ち、過去に撮った遥香との生々しい情事の動画を流しながら、独りで欲を処理している。 彼は性欲が強い。遥香が身体を許さない夜は、決まってこうして自らを慰める。 だが、外で別の女といる時は…… 遥香はこれ以上心を乱されたくなくて、思考を無理やり打ち切った。 しばらくして、蓮司が低く短い吐息を漏らし、絶頂を迎えた。 彼は身を起こして手早く後始末を済ませると、再び遥香を抱き寄せて深い眠りに落ちた。 翌日、遥香が目を覚ますと、すでに昼を回っていた。 転移した癌細胞が食道や胃を圧迫しており、食欲はまったく湧かない。 インターホンが鳴った。 モニター越しに見えたのは、蓮司の愛人である詩織の姿だった。 詩織は若く、人形のように整った顔立ちをしていた。まるで十年前の遥香そのものだった。 服装やメイクの趣味まで、当時の遥香に瓜二つだ。 詩織は中から反応がないことに苛立ったのか、モニターに向かって声を張り上げた。「遥香!いるんでしょ!さっさと開けてよ!あなたに話があるの!」 これまでの詩織の挑発といえば、蓮司との生々しい情事の写真を送りつけてくる程度だった。 こうして自宅にまで乗り込んできたのは初めてだ。 一体、何が目的なのか。 遥香は少し考えた末、玄関へ向かいドアを開けた。 詩織は踏み込むなり、手に持っていた妊娠検査の報告書を遥香の目の前に突きつけた。「教えに来てあげたの。私、蓮司の子供を授かったわ」 遥香は軽蔑を含んだ笑みを浮かべた。「それで?」 「蓮司はずっと子供を欲しがっていたのよ!子供の一人も産めないあなたは、身の程をわきまえてさっさと彼と離婚しなさい!」 詩織の言葉は、遥香の心の傷を深く抉った。 事実、三年前のあの拉致事件で、遥香はお腹にいた二つの命を失っている。 双子の女の子だった。 それは、彼女にとって一生癒えることのない深い傷だ。 「なら、本人をここに呼べばいいじゃない」遥香は意に介さない様子で言い放った。 詩織は憎々しげに彼女を睨みつける。「あなたって人は……!」 二人が火花を散らしているその時、不意に、玄関の方から蓮司の声が響いた。「どうしたんだ?」 遥香が反応するより早く、詩織は遥香の体をドンッと突き飛ばすと、その反動を利用して自ら床に尻もちをついた。 「蓮司……痛いっ!」 詩織は途端にか弱く哀れな表情を作り、涙をこぼしてみせた。 蓮司は慌てて駆け寄り、詩織を抱き起こしながら、どこか痛むところはないかと必死に気遣っている。 遥香はその茶番を、ただ冷ややかな目で見つめていた。 詩織は遥香を凝視して、その瞳の奥に狡猾な光を閃かせながら、涙ながらに訴えた。「遥香……私はただ、蓮司の子を授かったって伝えただけなのに。そんな風に突き飛ばすなんて、あんまりだよ……」 その一言で、遥香は完全に加害者に仕立て上げられた。 遥香は反論する気すら起きなかった。 この三年間、詩織が仕掛けてくるこんな見え透いた罠は、一度や二度ではない。 以前の遥香なら、死に物狂いで食い下がり、蓮司に離婚を突きつけては詩織を屈服させ、謝罪を絞り出していた。 だが、今回は違った。 蓮司は遥香の前に歩み寄ると、腕を振り上げた。乾いた音を立てて、彼女の頬を二度、力任せに張り飛ばした。 「遥香!いい加減にしろ!」 第4話 詩織は蓮司の胸に顔を埋め、勝ち誇ったような笑みを浮かべて遥香を横目で見やった。 遥香は怒りを滲ませた蓮司の端正な顔をじっと見据えた。 「何?彼女が妊娠したから、今度は妻の座にでも据えるつもり?」 蓮司は遥香を睨みつけたまま、唇を引き結んで黙り込んだ。 その時、遥香の胸の奥で一瞬何かが詰まったかと思うと、血の味が再びせり上がってきた。 自分の身体が限界であることを悟った遥香は、背を向けて洗面所へと駆け込み、口を開けるなり鮮血を吐き出した。 続いて、激しい咳の発作が容赦なく襲いかかる。 ドアの外で騒がしい物音がした。 口元を拭い、半開きのドアの隙間から覗き見ると、蓮司が焦った様子で詩織を抱きかかえ、大股で家を出て行くところだった。 病院へ向かう道中、蓮司から電話がかかってきて、詩織に謝れと要求してきた。 遥香は冷笑した。「謝る?どうして私が愛人なんかに頭を下げなきゃいけないの?」 「いい度胸だな!」 蓮司は荒々しく電話を切った。 彼が怒りにまかせて歯を食いしばっている顔が目に浮かび、遥香の心は少しだけ晴れやかになった。 しばらくして、病院にて。 「各種の検査数値が思わしくありません。それと、もう一つ……妊娠されています」 医師は眼鏡を外し、レンズを拭いてから再び掛け直した。 遥香は言葉を失った。 医師は深く溜息をついた。「星野さん、ご自身でもお分かりでしょうが、今のあなたのお身体では出産は不可能です。無痛中絶手術もリスクが大きすぎます。八週間を過ぎるのを待ってから、薬で流す処置をするしかありません」 医師が「八週間」と言った際、明らかに一瞬の間があった。 おそらく、彼女が八週間後まで生きていない可能性を危惧したのだろう。 「……分かりました」 返事をすると同時に、遥香の目尻から涙がこぼれ落ちた。 三年になる。彼女と蓮司は寝室を別にするか、必ず避妊具を使用していた。 今回の予期せぬ妊娠は、おそらく先月、蓮司が泥酔した夜に誤って避妊具を破ってしまった時のものだろう。 遥香はまだ平らな下腹部をそっと撫で、身を切られるような痛みに顔を歪めた。 この子は、来るタイミングを間違えてしまった。 どう足掻いても、この世に産み落としてやることはできない。 遥香は医師からの入院治療の勧めを断り、簡単な点滴だけを受けることにした。 点滴の量は多く、終わったのは翌日の午前中だった。 その間、蓮司から何度か着信があったが、彼女は一切出なかった。 メッセージアプリを開けば、彼からの執拗な通知が画面を埋め尽くしている。 【どこだ?】 【遥香、また何の真似だ?】 【いい加減にしろ、どこにいるんだ!】 【遥香!謝らないならそれでいい!一体どうしたいんだ!】 点滴を終え、病院を出た遥香は自宅には帰らなかった。向かったのは、輝星テクノロジーのオフィスだった。 一階の受付を通りかかった時、社員たちがひそひそと噂話をしているのが耳に入った。 「社長もお人好しすぎるよね。あんな奥さんにいつまでも尽くしちゃって。私なら、あんな女さっさと離婚するよ!」 「本当よね。片目が潰れてるなんて、見てるこっちが辛いわ」 遥香は彼女たちの前に歩み寄り、晴れやかな笑みを浮かべた。「ええ、片目が潰れてるなんて見苦しいわよね。あなたたちから、社長に早く離婚してって伝えておいてよ」 社員たちは遥香の姿に気づくや否や慌てて頭を下げ、震え声で謝罪の言葉を口にした。 遥香は彼女たちを相手にする気すら起きなかった。 彼女がここへ来たのは、ある一つの目的を果たすためだ。 今、蓮司は会社にいない。おそらく詩織との逢瀬を楽しんでいるのだろう。 遥香は長年表舞台から退いていたとはいえ、会社のナンバーツーであり筆頭株主として、社長の代理権と意思決定権を有している。 彼女はその権限をすぐさま行使し、緊急の株主総会を招集した。 会議の筆頭議題は、蓮司の腹心である安田昭夫(やすだ あきお)の解雇決議だった。 昭夫は詩織の従兄にあたる男だ。 そして三年前、詩織を蓮司のベッドへ直々に送り込んだ張本人でもあった。 昭夫は蓮司の側近であることを鼻にかけ、社内で横暴を極めていたため、多くの古参役員たちはとうの昔から彼を疎ましく思っていた。 それゆえ、遥香が解雇を提案すると、その場の過半数が迷うことなく賛成に回った。 昭夫は怒り心頭で、遥香に向かって激しく机を叩きつけた。「遥香!俺は仕事で一度だってミスをした覚えはないぞ!お前に俺をクビにする資格なんかあるのか?」 第5話 「私がこの会社を立ち上げた創設メンバーであり、筆頭株主だからよ!蓮司と共にカビ臭い地下室で寝泊まりし、安いパンだけで飢えを凌ぎながら、この会社を上場まで漕ぎ着けた実績があるからよ!」 遥香の声が、室内に響き渡った。 会議室は水を打ったように静まり返った。 昭夫もまた、彼女の気迫に圧倒されていた。 長い沈黙の後、彼はなおも恨みがましい表情を浮かべて言った。 「納得できるか!社長に直訴してやる!」 遥香は鼻で笑い、冷ややかに告げた。 「今すぐ出て行くなら、体面くらいは保たせてあげるわ。もしここにしがみつくつもりなら、あなたに関してあの卑劣な性接待の証拠を、業界中の人間に一斉送信してもいいのよ」 「お前!わかった、辞めればいいんだろ!」 昭夫は屈辱に震えながら吐き捨てると、会議室を飛び出していった。 遥香の予想通り。彼はすぐさまこの一件を蓮司に報告した。 「どういうつもりだ。昭夫を勝手にクビにするなんて」 遥香が帰宅するなり、蓮司が問い詰めてきた。 「私の家庭を壊した張本人で、今やあなたの『義兄』になりそうな男でしょう?何、私が自分の権限で決断を下しちゃいけないわけ?」遥香は冷ややかに言い放った。 蓮司は一瞬黙り込み、やがて口を開いた。「……まあいい、お前の気が済むなら」 気が済む? 遥香は心底滑稽に感じた。 彼女はもうすぐ死ぬ。 今はただ、死ぬ前に、かつてなら絶対にやらなかったことをやりたいだけだ。 何しろ、彼らの身勝手さを長く我慢しすぎた。 死んでから後悔も未練も残したくない。 そして、大学の先輩たちと共に心血を注いで築き上げたこの会社を、昭夫に壊されるのだけは絶対に許せなかった。 遥香は蓮司を見据えて言った。「それから、今後は私も会社の経営に介入するわ。これ以上放っておいたら、詩織に関係があるというだけで、どこの馬の骨ともしれない連中を片っ端から役員に据えかねないもの」 蓮司はひどく不自然な笑みを浮かべた。 「……好きにするといい」 翌日。遥香は再び会社へ出向いた。 足取りはふらつき、体が宙に浮いているような感覚があったが、それでも気力を振り絞って仕事に向き合った。 人事部の担当者を呼び出し、協議の末、二千通近い履歴書の中から、学歴や能力などあらゆる面で昭夫を凌駕する優秀な人材を選び出した。即座に彼を抜擢し、昭夫の後任に据えた。 有能な右腕を得たことで、新規プロジェクトの進行は驚くほどスムーズになった。 ある日、遥香は深夜まで仕事に追われていた。 抜擢したばかりの部下が、自ら彼女を車で自宅まで送り届けてくれた。 玄関のドアを開けた途端、がっしりとした腕の中に引き込まれ、乱暴に唇を塞がれた。 鼻をつく強烈なアルコールの臭いに目が眩む。 蓮司はまた酒を飲んでいた。 遥香はありったけの力を振り絞り、ようやく彼の腕から抜け出した。 「蓮司!」彼女は掠れた声で怒鳴りつけた。 「お前を送ってきたあの男は誰だ?」蓮司は冷たい声で問い詰める。 「新しく入った社員よ」遥香は淡々と答えた。 「調べはついてる。お前が引き上げたあの男だろ。そういう関係なんじゃないのか?」 蓮司の顔色がみるみる険しくなっていく。 「勝手に妄想してればいいわ。私には関係ないことよ」 「遥香!最近随分と図に乗っているようだな!」 彼は力任せに彼女を腕の中に引き戻した。「答えろ!」 遥香は滑稽に感じ、冷ややかに言い返した。「蓮司、あなたが外で女を作るのは許されて、私が外で男を作るのは許されないわけ?」 「お前!」彼は怒りで頭に血が上ったのか、遥香の身体を横抱きにして寝室へと乱暴に歩き出した。 「拒否はさせない。嫌だと言っても無理やり抱いてやる!さもなければ、あの男を今すぐ会社から叩き出してやるからな!」 彼は遥香の上に重くのしかかり、そう脅しをかけた。 対する遥香の心は、ただひたすらに冷え切っていた。 事が終わった後。蓮司は満足しきった様子で深い眠りに落ちた。 つわりのせいか、あるいは彼に対する猛烈な嫌悪感のせいか、遥香は慌ててトイレへ駆け込み、激しく嘔吐した。 便器も、純白のタイルも、すべてが目に刺さるような鮮血で真っ赤に染まっていく。 息を整える間もなかった。 不意に、下腹部から引き裂かれるような痛みが波のように押し寄せ、両足の間から生温かい液体がドクドクと流れ出し、下着を濡らしていった。 むせ返るような濃い血の匂いが、トイレに充満する。 子供が……! 遥香は鏡に映る、青白くやせ細った自分の姿を見つめ、目を見開いた。 そして、震える手で壁にすがりつき、崩れ落ちそうになる体を必死に支えながら、一歩、また一歩と寝室へ這うように戻った。 蓮司はちょうど電話をしているところだった。その口調は、吐き気がするほど甘く、淫らだ。「可愛い小悪魔め、また俺に会いたくなったのか?待ってろ、すぐに行く」 「蓮司……蓮司、病院へ連れてって……」 大量の血を吐いたせいで、遥香の声は今にも消え入りそうなほど弱々しい。 死が恐ろしいわけではない。 ただ、まだやり遂げていないことがある。こんなにあっさりと死ぬわけにはいかないのだ。 蓮司は遥香に視線を向けるなり、その瞳から一切の温度が消え去った。 彼は立ち上がって遥香の前に歩み寄り、彼女をほんの軽く押す。それだけで、遥香は糸の切れた操り人形のように床へ崩れ落ちた。 彼は冷酷に見下ろし、吐き捨てた。「また随分と安っぽい芝居を打つんだな」 遥香は無意識のうちに彼のズボンの裾を掴んだ。「蓮司、私、もう駄目……」 第6話 喉に込み上げた血が、遥香の口元を赤く染めた。 しかし蓮司の瞳には嘲弄の色が浮かぶばかりで、彼はそのまま大股で立ち去ろうとした。 バランスを崩した遥香は、床に激しく叩きつけられる。 彼女が吐き出した血が、淡い色の絨毯をまたたく間に無惨な赤に染め上げていく。 「遥香、芝居もいい加減にしろ。そんな見え透いた真似で俺の気を引けると思うな!」 そう吐き捨てると、蓮司は一度も振り返ることなく立ち去っていった。 遥香はそのまま意識を失った。 彼女のスマートフォンだけが、絶え間なく着信音を響かせていた。 …… 「遥香さん!遥香さん、しっかりしてください!」 遥香は重い瞼をこじ開けた。視界はまだひどく霞んでいる。 だが、覗き込んでいる顔が新しく抜擢した部下、瀬戸勇人(せと ゆうと)であることは分かった。 勇人は彼女より数歳年下で、彫りの深い端正な顔立ちをしていた。 彼の温かい手に包み込まれていることに気づき、遥香は気後れして、慌てて自分の痩せ細った手を引き抜いた。 勇人は彼女が目を覚ましたのを見て、ようやく安堵の息を吐いた。 その時、遥香は自分の頬に何か熱いものが落ちてきたのを感じた。 彼が私のために泣いているのだろうか。 「勇人さん……」遥香は口を開いたが、その先をどう言えばいいのか分からなかった。 「気がついて本当によかったです。いくら電話しても出ないから、スマホの位置情報で家まで押しかけたんです。遥香さん……」 勇人が言葉を詰まらせ、むせび泣いていた。 「勇人さん、ありがとう」遥香は泣いているのか笑っているのか分からないような表情で、掠れた声で尋ねた。「私の子は駄目だったの?」 「……はい」 彼女は静かに目を閉じ、あふれ落ちる涙が頬を濡らすのに任せた。 この子は生まれてくるべきではなかった。これでよかった。 勇人は彼女の涙を拭いながら、低い声で慰めた。「遥香さん、僕が最高の専門医を探し出します。国内が駄目なら海外へ行きましょう。がん治療なら、海外の方が進んでいますから」 遥香は自分と勇人がそこまで親密な間柄ではないと思っていた。 おそらく、自分の過酷な病状に同情してそう言ってくれているのかもしれない。 「ううん、いいの!」遥香は首を振った。「明日、退院の手続きをしてくれるかしら」 勇人は焦ったように声を荒らげた。「駄目です!命の危機を脱したばかりじゃないですか!しかも流産までして、体も回復していないのに、退院なんてできるわけありません!」 「自分の身体のことは、私が一番よく分かってる」 結局、誰も遥香の強情さを折ることはできなかった。 一方、遥香がスマートフォンの電源を入れると、蓮司からの着信履歴でたちまち画面が埋め尽くされた。 彼女が弱り切った体を引きずって帰宅するなり、待ち受けていたのは、怒りに燃える黒い瞳だった。 「あの男と逢引きに出かけていたのか?」蓮司は冷徹な声で言った。「丸一週間もだ。随分と楽しんできたようだな」 遥香も負けじと言い放った。「ええ、そうよ。あなたが外で愛人と逢引きしていいのに、どうして私には許されない?」 蓮司は言葉に詰まった。 次の瞬間、彼は怒りで我を忘れ、遥香の顎を乱暴に掴み上げて問い詰めた。「お前と勇人、一体どういう関係だ!」 「あなたが想像している通りの関係よ!」 蓮司の指先にさらに力が込められる。その目からは今にも怒りの炎が噴き出しそうだった。 遥香は、顎の骨が砕けてしまうのではないかと感じた。 彼女は痛みを堪えながら彼の手を力強く掴み返し、嘲るような口調で言い放った。「ええ、彼はあなたより若くて格好いいわ。あなた自身が他の女の誘惑に勝てないのに、どうして私が我慢できるっていうの?」 蓮司は手を離した。「遥香!よくもそんな口を……いい度胸だな!」 その時、蓮司のスマートフォンが鳴った。 彼が電話に出ようとした時、画面に表示された名前が遥香の目に入った。――「愛しの詩織」。 彼は少し離れた場所へ移動して電話に出たが、その内容は遥香の耳にもはっきりと聞こえた。 片方の視力を失ってからというもの、それを補うかのように彼女の聴覚は鋭敏に研ぎ澄まされている。 電話越しの詩織はひどく甘えた声を出していた。「蓮司、お腹の子のためにお医者様に入院して安静にするよう言われちゃった。お願い、一緒にいてくれない?」 「分かった! 今すぐ行く!」 蓮司が詩織とそのお腹の中にいる子供をどれほど溺愛しているか、嫌というほど伝わってくる。 彼が背を向けたのを見て、遥香は呼び止めた。「蓮司、待って!」 蓮司が足を止める。 遥香はすぐさま寝室から、「離婚協議書」という表題部分を伏せた書類と、あらかじめ用意してあったペンを取り出し、彼に突き出した。 蓮司はそれを受け取る。 遥香の心臓は緊張のあまり、激しく脈打っていた。 「……遥香、どういう意味だ?」 第7話 「他意はないわ。海外派遣プロジェクトの書類よ。あなたのサインが必要なの」 遥香は落ち着き払って答えた。 蓮司はそれでようやくペンを取り、さらさらとサインをした。 彼が出て行くと、遥香はようやく安堵の息をつき、荷造りを始めた。 A国へ旅立つ日が、刻一刻と近づいていたからだ。 遥香はふと気がついた。蓮司に嫁いでからのこの十年間、彼女はまともなジュエリー一つ、高級な服一着すら持っていなかった。 数少ないウェディングドレスの写真でさえ、街角の小さな写真館で撮ったものだ。 とても安上がりで、粗末なものだった。 けれど、あの頃の二人は眩いばかりの笑顔を輝かせ、互いの瞳には溢れんばかりの愛が宿っていた。 遥香はがん検査の結果報告書と、彼がサインした離婚協議書を木製の裁縫箱に収めた。 裁縫箱には小さな南京錠がついており、すでに赤錆が浮いている。相当に古びているのが一目で見て取れた。 この裁縫箱は、かつて二人が貧しいながらも寄り添い、慈しみ合って生きた日々……そして、いつしか傷だらけになってしまった歳月の証だった。 その夜。蓮司が帰宅したとき、遥香はすでに眠りについていた。 彼は彼女の頬を優しく撫でながら、何度も何度も「遥香、すまない……」と囁いていた。 その声に、遥香はふと目を覚ました。 彼女はあの裁縫箱を探し出し、彼に手渡した。「あなたへのサプライズよ。でも、今はまだ開けちゃ駄目。来週の週末になったら開けて」 遥香は内心で自嘲した。私は来週末まで生きていられるかしら。 蓮司は微塵も疑うことなく裁縫箱を受け取った。「分かった」 その夜、蓮司は彼女をきつく抱きしめて眠った。 彼は深い眠りに落ちていたが、遥香は一睡もできなかった。 翌日。遥香はいつものように、蓮司の好物の朝食を用意した。 彼が出かける間際、彼女は甲斐甲斐しくネクタイを結んでやった。 蓮司は昔から、ネクタイの結び目を綺麗に整えるのが苦手だったからだ。 彼が出かけて間もなく、驚いたことに、詩織が家の中に入ってきた。 「蓮司が、私の指紋を登録してくれたの」詩織は得意げに笑った。「遥香、ここにあるすべては、もうすぐあなたのものじゃなくなるわ」 遥香は足早に歩み寄るなり、振りかぶって詩織の頬を平手打ちした。 ところが、詩織はわざとらしく後ろに仰け反り、床に倒れ込んだ。 そして彼女の両足の間から、「鮮血」がドクドクと流れ出してきた。 遥香ははっきりと見た。詩織の顔に、不気味な笑みが浮かんだのを。 「遥香、私のお腹の赤ちゃんを殺すなんて、本当に最低!」詩織は白々しい口調でわめき立てた。 遥香はすべてを悟り、詩織を指差した。「そういうことね!あなた、最初から妊娠なんてしてなかった!」 詩織はさらに狂ったように笑い出した。「あはは!あなたも馬鹿じゃないのね!でも残念。蓮司はもうあなたのことなんて愛してない。彼が私とあなた、どっちを信じると思う?あははは! 私が蓮司と結婚すれば、遅かれ早かれ本当に妊娠するんだから!」 やがて、蓮司が戻ってきた。 詩織は再びその演技力を発揮し、涙を流して弱々しく泣きじゃくった。「蓮司、私……すごく痛い……」 蓮司は彼女の足元の「鮮血」を見るなり、一気に血の気が引いた。 「詩織!」 蓮司は慌てて詩織を抱き起こした。 詩織は彼の胸にすがりつき、「蓮司、本当に痛いよ……」と咽び泣く。 「遥香がやったのか!そうなんだな!」蓮司は目を血走らせて尋ねた。 詩織は何も答えない。 だが遥香が冷笑を浮かべて先回りして口を開いた。「ええ、そうよ!私が彼女を突き飛ばしてやったわ」 突然、蓮司は大股で遥香に詰め寄るなり、容赦なく彼女を蹴り飛ばした。 遥香はただでさえ痩せ細っている。彼に力任せに蹴られ、床に激しく叩きつけられた。 遥香が何が起きたか理解する間もなく、蓮司はさらに追撃の蹴りを見舞った。 彼は遥香を睨みつけ、冷徹な声で言い捨てた。「覚悟しておけ。この落とし前は、後できっちりつけさせてやるからな!」 そして、彼は詩織を横抱きにし、足早に家を飛び出していった。 遥香が口を開いた瞬間、おびただしい量の鮮血がどっと吐き出された。 第8話 遥香は力なくソファに横たわっていた。 ゴミ箱の中は、赤く染まったティッシュで溢れている。 彼女自身、自分が一体あとどれくらい、この命を長らえることができるのか分からなかった。 再び重い瞼を開けた時、視界に入ってきたのは、少し焦ったような蓮司の顔だった。 「鼻血でも出したのか?随分な出血じゃないか」 遥香は淡々と答えた。「ええ」 少し間を置いてから、彼女は問い返す。「落とし前をつけに来るんじゃなかったの?」 蓮司は唇を真一文字に結んだまま、黙り込んだ。 遥香の顔に自嘲の笑みが浮かぶ。 蓮司が何か言いたげにためらっているのを見て、遥香はさらに尋ねた。「何が言いたいの?」 蓮司は彼女を見つめ、どこか機嫌を伺うような口調で切り出した。「詩織の体調が今あまり良くないんだ。彼女をこの家に迎え入れて、家政婦を雇って面倒を見させようと思う」 「蓮司、愛人を家に引き入れて子供を産ませるなんて。あなたの心の中で、私は一体何なの?」 遥香は無理に身体を起こし、冷ややかな声で問い詰めた。 実のところ、もうどうでもよかったのだ。 ただ、ほんの少し未練と悔しさが残っているだけ。 何しろ、十年間も連れ添った情があるのだから。 蓮司は言った。「遥香、俺はお前を捨てる気なんて一度もない。だが今回は、彼女が妊娠してしまったんだ。無事に子供を産んだら、まとまった金を渡して追い出す。そうしたら、また俺たち二人で元通りに暮らそう。な?」 「随分と白々しい綺麗事ね」遥香は冷たく皮肉った。 「今回だけだ!」蓮司はしゃあしゃあと言ってのけた。「俺の妻は、永遠にお前一人だけだ」 最後に、遥香は彼に尋ねた。「蓮司、十年前、私に何て言ったか覚えてる?」 「……ん?」 「『もしお前を裏切るようなことがあれば、俺は死んで地獄に落ちるだろう』……そう言ったわよね」 二人の間に、長い沈黙が落ちた。 蓮司は目尻を微かに赤くして、彼女の隣に腰を下ろすと、その腕に遥香を抱き寄せた。 「もういい、その話はやめよう」 翌朝、蓮司は待ちきれない様子で、詩織を家へと迎え入れた。 詩織は手に持っていた海老のパックを掲げ、遥香に向かって言った。「遥香、お料理がお上手なんですってね。私、結構好き嫌いが多くて、エビなら食べられるの。エビフライを作ってくれない?」 遥香が拒絶しようとしたその時、傍らで蓮司が口を挟んだ。「詩織は今、体の具合が悪いんだ。頼まれたなら作ってやってくれ!」 遥香は蓮司を睨みつけた。「何、私を家政婦代わりにこき使うつもり?」 次の瞬間、パァンという甲高い音が響いた。 蓮司が、遥香の青白い頬を思い切り平手打ちした。 「四の五の言わずにやれ!詩織はお前の作った料理が食べたいと言ってるんだ、少しの間我慢したところで、減るもんじゃあるまいし!」 料理を作り終えた遥香が、ふとスマートフォンに目を落とすと、そこには明日出発の航空券の予約画面が表示されていた。 本当によかった。 今日一日さえ耐え抜けば、明日にはここを去ることができる。 彼女の視線の先では、詩織が当たり前のような顔をして、遥香の作った料理を食べていた。 蓮司は甲斐甲斐しく詩織の皿におかずを取り分けてやっている。 その睦まじい様子は、まるで彼らこそが深く愛し合う本物の夫婦で、自分はただの透明人間に過ぎないかのようにさえ見えた。 やがて、詩織が遥香に向かって声をかけた。「遥香、早く一緒に食べましょうよ!」 そこでようやく、蓮司も遥香の存在に気づいた。「腹減ってないのか?」 遥香は彼に冷ややかな目を向けた。「蓮司、まさか忘れたの?私はエビのアレルギーよ」 蓮司は押し黙り、ただうつむいて詩織に料理を取り分け続けた。 詩織はそれを美味しそうに頬張りながら、これ見よがしに勝ち誇った視線を遥香へと突き刺す。 遥香はふと口を開いた。「その時が来たら、あの裁縫箱を開けるのを忘れないでね」 「分かってる」と、蓮司は短く答えた。 食事が終わると、詩織はまた具合が悪いと騒ぎ立て、病院で再検査を受けると言い出した。 蓮司は彼女を抱き寄せるようにして連れ立って出かけていった。 そして結局、その夜も彼が戻ってくることはなかった。 翌日、遥香は朝早く起きた。 空港へ向かうタクシーに乗り込むと、彼女はスマートフォンのSIMカードを抜き捨て、蓮司に関するすべての写真と連絡先を消去した。 SNSのアカウントも、一つ残らず削除した。 蓮司、もう永遠にお別れよ。