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結婚して五年。 歳月が滝沢藍里(たきざわ あいり)に教えたのは、ただ一つの真実だった—— どれほど深く愛し合った二人でも、いつかは別々の...

Chương (1)

第1章

結婚して五年。 歳月が滝沢藍里(たきざわ あいり)に教えたのは、ただ一つの真実だった—— どれほど深く愛し合った二人でも、いつかは別々の道を歩むことがあるのだ。 結婚一年目、滝沢一聖(たきざわ いっせい)はどこへ行くにも藍里を伴い、まるで「彼女は俺のものだ」と世界中に見せびらかしたいかのようだった。 結婚二年目、一聖は滝沢グループの後継者となり、藍里もその傍らで、怒涛の日々を共に駆け抜けた。 やがて疲弊が限界を超え、お腹の子を失ってしまった。一聖の涙を見たのは、あの時が初めてだった。真っ赤な目で藍里をそっと抱き寄せ、生涯、決して彼女を悲しませないと誓ってくれた。 結婚三年目、仕事が急激に忙しくなり、一聖が帰らない夜が続くようになった。顔を合わせる時間も、少しずつ減っていった。 結婚四年目、一聖の体から微かに見知らぬ香水の香りが漂うようになり、二人で向かい合っても、言葉はなく、ただ沈黙だけが降り積もるようになった。 そして結婚五年目——一聖はとうとう、結婚記念日を忘れていた。 第1話 結婚して五年。 歳月が滝沢藍里(たきざわ あいり)に教えたのは、ただ一つの真実だった—— どれほど深く愛し合った二人でも、いつかは別々の道を歩むことがあるのだ。 結婚一年目、滝沢一聖(たきざわ いっせい)はどこへ行くにも藍里を伴い、まるで「彼女は俺のものだ」と世界中に見せびらかしたいかのようだった。 結婚二年目、一聖は滝沢グループの後継者となり、藍里もその傍らで、怒涛の日々を共に駆け抜けた。 やがて疲弊が限界を超え、お腹の子を失ってしまった。一聖の涙を見たのは、あの時が初めてだった。真っ赤な目で藍里をそっと抱き寄せ、生涯、決して彼女を悲しませないと誓ってくれた。 結婚三年目、仕事が急激に忙しくなり、一聖が帰らない夜が続くようになった。顔を合わせる時間も、少しずつ減っていった。 結婚四年目、一聖の体から微かに見知らぬ香水の香りが漂うようになり、二人で向かい合っても、言葉はなく、ただ沈黙だけが降り積もるようになった。 そして結婚五年目——一聖はとうとう、結婚記念日を忘れていた。 …… 藍里は一人リビングに座り、ケーキと手料理が並ぶテーブルを前にして、ただ待ち続けた。夜の十時を過ぎても、一聖は帰ってこなかった。 深夜の十二時を回ったころ、ようやく玄関の扉が開いた。仕立てのいい黒いスーツを身にまとった一聖だった。夜の冷気をまとったままリビングに足を踏み入れ、ロウソクの灯るケーキを目にして、彼は明らかに息を呑んだ。 藍里は顔を上げた。 ——分かっていた。一聖がこの日を完全に失念していたことを。 「今日で、結婚五周年よ。一緒にケーキを食べましょう」 胸に込み上げる苦しさをすべて飲み込んで、藍里はできるかぎり穏やかに言った。 一聖は拒むことなく、無言で歩み寄り、まるで課せられた義務を果たすかのように、隣に腰を下ろした。 藍里は丁寧にラッピングされた箱を差し出した。「プレゼントよ。気に入ってくれるといいんだけど」 一聖はそれを受け取り、包みを開けた。中に入っているのは、繊細なデザインのカフリンクスだった。一聖は一瞥しただけで、「ありがとう」と短い言葉を返した。 沈黙が、数秒間を満たした。 藍里は心の中で苦く笑う。記念日さえ忘れていた一聖に、昔みたいなサプライズを期待するなんて、我ながらどうかしている。 案の定、一聖は淡々とした口調で口を開いた。「最近ずっと忙しくてさ。プレゼントは次の機会にする。ロウソク、吹いて」 藍里は静かにうなずき、目を閉じた。瞼の裏に、心の奥の寂しさをそっと押し隠すように。 何か話題を探そうとしたその瞬間、一聖のスマホが立て続けに震えた。誰かからメッセージが届いたのだ。 画面を見た一聖の表情が、ふと変わった。迷いのない動作で立ち上がり、「会社で急ぎの用件ができた。先に行く」と言い残した。 ケーキを切ろうとしていた藍里の手が、空中で止まった。 急ぎ足で遠ざかっていくその背中を見つめながら、胸の奥がじくじくと痛んだ。 しばらく呆然としたあと、藍里の瞳にじわりと涙が滲んだ。 かつて、十九歳だった一聖は、嵐の中を街の半分を横断してまで藍里に会いに来てくれた。 今、二十七歳になった一聖は、すぐ隣にいながら、ケーキひとつ一緒に食べる時間すら持てなくなっていた。 広くて静かなリビングに、藍里だけが取り残された。無意識にスプーンを持ち、ケーキをひとくちすくって口に運ぶ。 甘さが口いっぱいに広がるのに、心の苦さだけは少しも溶けてくれなかった。 三年の交際期間と、五年の結婚生活。合わせて八年という歳月を、ふたりは愛し合ってきた。なのにいつからか、この関係は静かに色あせていたのだ。 あまりにも悲しい現実だったけれど、どうすることもできなかった。 深夜一時。藍里は目を閉じてベッドに横たわっていた。頭の中だけがひどく冴えわたったまま、眠れずにいた。 やがて、鍵を開ける音が聞こえた。一聖が帰ってきたのだ。 目を開けないまま、藍里はただ眠ったふりをした。 一聖の動作は静かだった。けれど目を閉じていても——見知らぬ香りが、ふと鼻先をかすめた。 胸の奥がきゅっと締め付けられる。脳裏に、残酷な想像がいくつも浮かんでは消えた。 一聖はシャワーを済ませると、静かにベッドへ入り、電気を消した。二十分ほどして、隣から穏やかな寝息が聞こえてきた。 眠ってしまったのだ。 でも、あの見知らぬ香水の残り香は、もう藍里の頭の中から離れなかった。 藍里はそっと目を開け、枕元のスマホに視線を落とした。深く息を吸い、ゆっくりと吐いてから、そっと手を伸ばす。 一聖のスマホのロック解除パスワードは変わっていなかった。かつて教えてもらったままだった。 何もかも、あの頃と同じ。ただひとつだけ――トーク画面の最上段にピン留めされた、見知らぬアイコンが増えていた。 あの頃、一聖のピン留めには藍里しかいなかったのに。 パンドラの箱を開ける鍵を見つけてしまったような感覚。開けてはいけないと、直感が静かに囁いていた。 この先に何があるのか、それが自分を奈落の底へと突き落とすであろうことは、痛いほどわかっていた。 それでも、藍里は画面をタップした。 その女性の名前は梅田夏奈子(うめだ かなこ)、滝沢グループの社員だった。 二人の最後のやりとりは、数時間前で止まっていた。 夏奈子から届いたメッセージ。 【停電しちゃって。怖くて……】 そのタイムスタンプを目にした瞬間、藍里の胸が震えた。 それはちょうど、藍里がケーキを切ろうとしていた、あの時間だった。 先ほど、一聖が何度もぼんやりしていたことを思い出す。あの十数秒間、一聖の心の中にいたのは、誰だったのだろう。 一緒に記念日を過ごしていた藍里だったのか。 それとも、停電を怖がっていた夏奈子だったのか。 答えはもう、出ていた。 一聖はあんなにも急いで、去っていったのだから。 藍里の胸が、鋭い痛みに引き裂かれた。震える指で、夏奈子のSNSを開いた。 そこには一聖の痕跡が、あちこちに刻み込まれていた。 【残業中にこっそり撮った一枚。ボスの横顔、かっこよすぎ!】 【深夜便で出張!ファーストクラスにアップグレードしてもらってハッピー♡】 【遅くまで残ってたら、助手席に乗せて送ってもらっちゃった〜】 …… 帰らなかった夜の数々。あの深夜の時間を、一聖はずっとこの夏奈子と過ごしていたのだ。 暗闇の中、冷たいものが頬を伝い落ちた。藍里は夏奈子の自撮り写真をタップした。 一瞬、息が止まった。 その顔は、若い頃の藍里に、酷似していた。 第2話 自分に似ているのに、自分よりずっと若い顔。それなら一聖が特別扱いするのも、無理はないのかもしれない…… しばらく呆然としていた藍里の頬を、気づけばとめどなく涙が伝い落ちていた。痛みを必死に押さえ込み、震える手でスマホの画面を消す。 暗闇の中、いくら目を閉じても眠りは訪れなかった。 結局、夜が明けるまで一睡もできなかった。 翌朝、一聖が目を覚ましたとき、藍里はまだ背を向けたまま横たわっていた。 彼は少し意外そうにした。ここ数年、藍里は誰よりも早起きだったのだから、無理もない。 それでも一聖は何も言わず、身支度を済ませてそのまま家を出ていった。 玄関のドアが閉まるのを確認してから、藍里はそっと目を開けた。まぶたは泣きはらして真っ赤に腫れていた。 それから数日間、一聖は相変わらず深夜にならないと帰らなかった。以前の藍里なら、一聖を疑うことなど決してなかった。 滝沢グループという重荷を一人で背負い、会社が一番苦しい時期をふたりで乗り越えてきたし、彼が仕事にどれほど心血を注いでいるかも、誰よりも知っていたからだ。 でも今は、どうしても考えてしまう。本当に残業しているのか、それとも夏奈子と一緒にいるのか、と。 週末、藍里と一聖は滝沢の本家へと足を運んだ。 食卓で、義母の滝沢瑛子(たきざわ えいこ)は藍里の細すぎる体に目を留め、不満をあからさまに顔に浮かべた。 「もう結婚して五年でしょう。いつになったら子どもを産むつもりなの?」 藍里の顔からさっと血の気が引いた。子どものことは、一聖との間でずっと触れてはいけないタブーだった。 三年前、父が亡くなり滝沢グループが最も揺れていたあの頃、一聖は昼夜を問わず仕事に駆け回り、藍里もその傍らで休む間もなく彼を支え続けた。 そして体調を著しく崩した末に、お腹の子を失ったのだ。 病院で、一聖は藍里の手を固く握りしめ、初めて涙を流しながら言ってくれた。「藍里、また必ずふたりで子どもを迎えよう」と。 けれどあの日以来、藍里の体には後遺症が残り、何年養生しても妊娠には至らなかった。 瑛子はそんな事情を知らない。以前は催促されるたびに、一聖が必ず藍里の前に出て庇ってくれていた。でも今日、彼は何も言わなかった。 胸が締め付けられながらも、藍里は絞り出すように答えた。「頑張ります……」 瑛子はとうにその言葉に聞き飽きていた。もともと平凡な家柄の藍里を気に入っていなかったし、取るに足らない両親のことも見下していたのだ。 一聖が親の反対を押し切り、本家の仏間で三日三晩、勘当も覚悟で頭を下げ続け、「どうしても妻に迎える」と譲らなかったからこそ、滝沢家のような名家に嫁ぐことが許された娘だった。 「もういい、聞きたくないわ!」 食事が終わると、瑛子は大きな袋を突き出してきた。「妊活のお薬よ。ちゃんと飲みなさい」 藍里が困った顔を見せると、一聖はちらりと一瞥しただけで、淡々と言った。「母さんが持って帰れって言ってるんだから、もらっておけよ」 それでようやく瑛子は満足し、最後にきつく言い添えた。「ともかく、三ヶ月以内に、必ず身ごもりなさい!」 家に戻ったのは、昼近くだった。 藍里は水を用意し、薬の袋をしばらく眺めた後、意を決して薬箱を取り出した。 そのとき、寝室から出てきた一聖が、薬を飲もうとしている藍里の姿に気づいた。 「相変わらず従順だな」 一聖は、何気ない口調で言い放った。 その無関心な響きに、藍里の手が止まった。目に涙を滲ませながら顔を上げ、問いかけた。 「一聖……あなたは、まだ私との子どもが欲しいの?」 一聖は一瞬、目を見開いたものの、何も答えなかった。表情が微妙に翳り、そのまま一言も発せずに家を出ていった。 しばらくして、コップの水がすっかりぬるくなった頃、藍里はようやく薬を飲み込んだ。しかし、一週間飲み続けても、体に変化はなかった。 気づけば季節は移ろい、街には冬が訪れていた。滝沢グループが毎年主催する年末のチャリティーパーティーも、間近に迫っている。 そのパーティーでは例年、ダンスタイムが設けられており、藍里はいつも一聖のパートナーとして参加してきた。今年も当然そうなるものだと思っていた。 その日のために、深いブルーのベルベットドレスも前もって用意していた。そのドレスを眺めながら、記憶があの日へと飛んでいった。 ——五年前、卒業を祝う謝恩会の夜。 藍里は同じ色のドレスをまとい、一聖にエスコートされて会場に立っていた。 大勢の視線が見守る中、一聖は片膝をつき、彼女にプロポーズしてくれたのだ。「藍里、これからの長い人生、君だけが俺の唯一のパートナーだ。俺と結婚してくれないか」 卒業と同時に、二人は結婚した。 若かりしあの頃、二人の愛情はこぼれ落ちそうなほどに満ちていた。だから、今の藍里にはどうしても信じられなかった。あの愛が消え去ってしまうなんて、信じたくなかった。 なのにチャリティーパーティー当日、藍里は朝から晩まで一人で待ち続けた。 一聖が迎えに来ることは、なかった。 精一杯美しく装ったドレスを着たまま、誰も来ない玄関をじっと見つめて、心が少しずつ凍りついていった。 そのとき、スマホが震えた。 第3話 二通のメッセージが届いていた。一つは画像、もう一つは短いテキストだった。 写真の中の一聖は燕尾服姿で、若い女性の手を取ってダンスを踊っていた。その女性の顔は、かつての藍里の生き写しだった。 全身が凍りついた。震える指でスクロールすると、残酷な文章が目に飛び込んできた。 【彼、毎年のパートナーは私にするって約束してくれたよ】 深夜、一聖が帰宅した。藍里はパジャマ姿でベッドの端に腰かけ、静かに一聖を見上げた。 「今日、会社のチャリティーパーティーがあったんでしょう? どうして私を連れて行ってくれなかったの?」 一聖はジャケットを脱ぎながら、藍里をろくに見もせずに答えた。「別に連れて行く必要もないだろ。家で休んでいればいい」 そのまま、ためらいもなく浴室へ向かう。まるで何でもないことのように。 ——それは、一聖がかつて立ててくれた、若き日に彼がくれた、最も真摯な約束だったはずなのに。 胸が痛みと切なさでいっぱいになった。あのメッセージを突きつけて問い質したかった。けれど、みじめなことに、自分には勇気がないと気づいてしまった。 怖かったのだ。隠していたすべてを明るみに出してしまえば、もう二度と元には戻れなくなることが。 シャワーを終えた一聖が出てきたとき、藍里はすでに背を向けて横たわっていた。これ以上話すつもりはないという、無言の意思表示だった。一聖の目に、何か複雑な感情がよぎった。 目が覚めると、隣に誰もいなかった。 黙ってベッドを降りると、突然スマホが鳴り響いた。 電話に出ると、母・宮園幸恵(みやぞの ゆきえ)の焦燥の混じった声が聞こえてきた。「藍里、おばあちゃんが心臓発作を起こして危篤なの。早く顔を見に来なさい。それと、後の手配はあんたがやりなさいよ」 藍里の頭の中で、雷が落ちたような衝撃が走った。まだ状況を飲み込めないうちに、母はもう電話を切っていた。 子どもの頃からずっと、両親は弟ばかりを可愛がった。そんな中で、祖母だけがいつも藍里を深く愛してくれた。宮園家でただ一人、藍里の味方でいてくれた人だった。 この前会ったとき、祖母は「一聖を連れて会いに来てね」と笑っていた。でも、一聖が忙しいからと言い訳をして、ずるずると先延ばしにしてしまったのだ。まさかあれが最後になるなんて、思いもしなかった。 手が震えた。藍里は急いで一聖に電話をかけた。 何度もコールが続いて、ようやく繋がった。電話口から、冷ややかな声が返ってきた。「なんだ?」 冷たさを気にしている余裕はなかった。涙声で、必死に訴えた。「おばあちゃんが病院で……もう長くないって……」 少しの沈黙があった。「先に行ってくれ。すぐ来る」 電話を切り、藍里は急いで病院へ向かった。 一方その頃、一聖は秘書を呼んでいた。「今日の午後の予定をキャンセルして、三日後に延ばせ」 秘書が驚愕に目を見張った。「しかし社長、あのお相手は……」 「言われた通りにしろ」静かに、しかし有無を言わせない口調で一聖は遮った。 父も母も来ていなかった。弟の食事の支度があるからと、病院に顔を出そうともしなかったのだ。 でも今は、両親のことを責める余裕すらなかった。ベッドの傍に立った瞬間、骨と皮だけになった祖母の姿を目にして、涙が止まらなくなった。 ベッドの脇に膝をつき、その細い手を握りしめた。「おばあちゃん、藍里だよ。会いに来たよ」 祖母はもう長くなかった。言葉はほとんど出てこなかったけれど、藍里の顔を見た途端にほっとしたように涙をこぼした。皺だらけの手が、力の限り握り返してくる。 喉の奥から、絞り出すように言葉が漏れた。「……藍里……一聖は……ふたりで……仲良く……ね……ちゃんと……仲良く……」 藍里は涙を流しながらうなずいた。祖母がいちばん心配しているのは、藍里自身の幸せだということ、痛いほどわかっていた。 「おばあちゃん、大丈夫。私たち、ちゃんと仲良くやってるよ。一聖もすぐ来るから」 第4話 「すぐ来る」という一聖の言葉を、藍里は信じていた。十数分も待てば駆けつけてくれると思っていた。 けれど一時間が過ぎ、三時間が過ぎ、五時間が経っても、一聖の姿は見えなかった。 祖母はもう限界を迎えていた。藍里と一聖が寄り添っているところを見届けてこそ、安心して旅立てるはずだったのに。 藍里はスマホを取り出し、何度も何度も一聖の番号を押した。でも、今度は繋がらなかった。 一度、二度、三度…… ……やはり、出ない。 祖母は藍里がひたすら電話をかけているのを見て、その手を握り、かすれた声で絞り出すように言った。「藍里……あの人は……あなたに……優しくして……くれてる?」 胸の苦しさを必死に押さえ込んで、藍里は答えた。「おばあちゃん、大丈夫。ずっと優しくしてもらってるよ」 体がどんなに弱り果てていても、祖母の心だけは澄みきっていた。涙をたたえた目で、途切れ途切れに言葉を紡いだ。 「藍里……自分に……我慢ばかりさせちゃ……だめよ……私がいなくなったら……あなたには一聖しか……いないんだから……仲良く……ね……」 最後の一言を言い終えると、祖母の手からゆっくりと力が抜け、その瞼が静かに閉じられた。 藍里は奈落の底へ突き落とされたような感覚に襲われ、スマホが手からこぼれ落ちた。 「おばあちゃんッ!」 祖母は、逝ってしまった。 それからのことは、よく覚えていない。抜け殻になったように、白い布をかけられていく祖母をただ呆然と見つめ、霊安室へと運ばれていく姿を見送った。 父も母も弟も、祖母の死を告げられても平然としていた。まるで、見知らぬ他人の訃報を耳にしたかのように。 残されたのは、藍里ひとりだった。押し潰されそうな絶望の中で、それでも藍里は葬儀の手配を一手に引き受けた。 一聖は電話にも出ず、姿を現すこともなかった。 仕事が忙しくてまた約束をすっぽかしたのだと、ずっと自分に言い聞かせようとしていた。 だが通夜の夜、遺影の前で黙って手を合わせていた藍里のスマホに、見知らぬ番号から一通のメッセージが届いた。 【どうして彼が来なかったか、教えてあげようか?私が体調を崩しちゃって、一聖がずっと付き添ってくれてたの】 メッセージには写真が添付されていた。病室のベッドの傍で、一聖が優しく丁寧にリンゴを剥いている写真だった。 その瞬間、頭の中で何かがぷつりと切れた。 祖母の最期にも来なかった理由が——夏奈子の看病だったのだ。 写真を見つめたまま、呼吸が乱れた。目の前が白く霞み、世界がぐるりと歪んで、藍里は霊前でそのまま意識を手放した。 気づいたとき、見えたのは天井だった。病院の天井だった。 ずっと姿を見せなかった一聖が、ベッドの傍に座っていた。目が覚めた藍里に気づくと、コップに水を注いで差し出した。「頭はまだ痛む?」 こんなに穏やかな一聖を、久しく見ていなかった。 でも藍里はその水を受け取らなかった。ただじっと、一聖の整った顔を見つめた。かつてこんなに深く愛した人なのに、今はまるで、見知らぬ他人を見ているようだった。 差し出された一聖の手が、空中でわずかに止まった。彼は静かに水をテーブルに置いた。 この数日の音信不通だったことについては何も触れず、淡々と言った。「医者が疲労がたまっていると言っていた。ゆっくり休め。おばあちゃんの葬儀は済ませてある。少し落ち着いたら家に連れて帰る」 藍里はずっと黙っていた。泣き腫らした目で、ただ一聖を見つめながら。 どうして…… どうして、こんなに平然としていられるの? ゆっくりと目を閉じて、目が覚めてから初めて口を開いた。 「……一聖、離婚しよう」 第5話 一聖の漆黒の瞳がにわかに翳り、勢いよく振り返った。「今、なんて言った?」 「離婚しよう。弁護士に協議書を作ってもらうわ」藍里は静かに繰り返した。その瞳には、底知れぬ疲労だけが宿っていた。「数日中に荷物をまとめて出ていくから」 一聖の目に怒りの色が滲んだ。突然藍里の手を強く掴み、「なんでいきなり離婚したくなったんだ?」と問い詰めてくる。 なんでって? 藍里は、その問いが滑稽でならなかった。 夏奈子から送りつけられた写真をすべて突きつけて、感情をぶちまけて大喧嘩し、こう言ってやりたかった。誓いを裏切ったのはあなたでしょう。私たちの愛を壊したのはあなたでしょう。なのに、どうしてそんなに堂々と『なんで』なんて言えるの、と。 でも、藍里はあまりにも疲れ果てていた。声を荒らげる気力も、激情すらも、もう残っていなかった。 彼女はそっと目を閉じ、掴まれた手を引き抜いた。「もう限界なの。いろいろあったけれど、せめて最後くらいは綺麗なまま終わりにしたい。離婚しよう。もう続けていけないから」 病室が、水を打ったように静まり返った。一聖は漆黒の瞳でじっと藍里を見つめ、やがて絞り出すように言った。 「……認めない」 こらえきれずに藍里は口を開いた。 「あなたにそれを拒む権利があるの。私が一番つらくて、一番どうしようもなかったとき、あなたはどこにいたの?おばあちゃんが最後に会いたがっていたとき、あなたは?」 その言葉に、一聖の体がわずかに強張った。 胸の痛みがまた少し増した。一聖が答えられないことはわかっていた。藍里自身も、もう答えなど必要としていなかった。 「これでいいの。未練がましいことはやめて、綺麗に別れましょう」 結局、藍里はまだ弱りきっている体を奮い立たせて退院し、そのまま実家へ向かった。 家に着くと、母の幸恵は藍里の体を心配する言葉一つかけず、ただ不満げに顔をしかめた。「また一人で帰ってきたの?一聖くんは?」 葬儀の数日間、一聖が一度も姿を見せなかったことで、幸恵の中では危機感がとっくに芽生えていた——大切な婿を手放したくない、その一心だった。 「喧嘩でもしたの?一聖くんはお坊ちゃまなんだから、少しくらいわがままなのは当たり前よ。あなたがもっと我慢しなきゃ」 どうせわかってもらえないとわかっていても、藍里は静かに問いかけた。「お母さん……もし私が一聖といて幸せじゃなかったら、離婚してもいいかな」 「離婚」という言葉が逆鱗に触れたように、幸恵は即座に怒鳴り声を上げた。 「離婚!?何を馬鹿なことを言ってるの!あなたね、滝沢家の奥さんでいられて何が不満なのよ!ただのわがままでしょう! 離婚なんてしてみなさい、弟の結納金だって、あなたに出してもらうんだからね。足りない分は、一聖くんに頭を下げてでも出してもらいなさいよ!」 打算的すぎる家族の態度を前に、藍里はこれまでずっと我慢してきた。でも今日は、珍しく引かなかった。 「でも私、もう離婚を切り出してしまったの」 幸恵は目を見開き、怒りに任せて手を振り上げると、藍里の頬を思い切り平手打ちした。 乾いた音が、部屋に響き渡った。 物音に驚いてやってきた父の宮園和智(みやぞの かずとも)は、藍里の頬についた赤い手形を見て呆気にとられた。「どうしたんだ?」 幸恵が苛立たしげに吐き捨てる。「この子、一聖くんと離婚するって言い出したのよ!こんないい暮らしをさせてもらって、一体何を考えてるのかしら!」 案の定、和智も険しい顔になった。「藍里、冗談でもそんなことを言うんじゃない。何だって離婚なんかするんだ?」 右頬に焼けつくような痛みが広がった。でもその痛みは、胸の奥の痛みに比べればどうということはなかった。目の前の両親を見つめながら、藍里は全身の血が冷えていくのを感じた。 なぜ離婚したいのかさえ、彼らは聞こうとしない。滝沢家という金庫を失いたくないから、ただひたすら娘をねじ伏せようとするだけなのだ。 藍里は何も言わずに自分の部屋へ戻り、静かに鍵をかけた。 その晩、夕食に呼ばれることはなかった。 ぼんやりとベッドに横たわる。右頬はもう赤く熱を持って腫れ上がっていた。それでも静かに涙を流し続け、やがて枕は冷たく濡れていった。 結局、一睡もできなかった。 翌朝、突然義母の瑛子から電話がかかってきた。電話口の声は、激しい怒りに満ちていた。 「藍里!あなたの両親は正気なの!?これまで一聖がどれだけお金を払ってきたと思ってるの?今日は会社まで乗り込んで騒ぎを起こして……まったく、うちの息子は、あなたと結婚してとんだ貧乏くじを引いたものよ!」 第6話 藍里は嫌な予感がして、慌てて寝室のドアを開けた。案の定、両親の姿はどこにもなかった。 昨日の反対ぶりを思い出した瞬間、居たたまれなさが胸に込み上げた。藍里は急いで滝沢グループの本社へ向かった。 会社に到着すると、社内には異様な空気が漂っていた。想像していたような騒ぎの気配はなかったけれど、すれ違う社員たちがみな、どこか好奇の目を藍里に向けていた。その隠しきれない眼差しが、両親がここで何かをやらかしたことを雄弁に物語っていた。 頬が燃えるように熱かった。藍里は両手を握りしめたまま、黙ってエレベーターへ向かった。 背後から、小声の囁き声が聞こえてくる。 「社長の奥様も来たのね。ご両親が騒いだこと、知ったのかな」 「まさかあんなご両親だとは……さっき社長の顔、氷のようだったよ」 「カードを渡したら大人しくなったって聞いた。結局お金目当てでしょ……」 藍里は爪が手のひらに食い込むほど強く手を握りしめ、エレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押した。 社長室に入ると、無表情の一聖が目に入った。静かな目でこちらを見返してくる。藍里はその目をうまく見つめ返すことができなかった。 両親はソファに笑顔で座っていた。藍里が来たのを見ると、幸恵がわざとらしく声を上げた。「ちょうどよかった。藍里、誤解があるならちゃんと一聖くんに話しなさい。私たちに尻拭いさせないでちょうだい」 尻拭い?お金をせびることが尻拭いだというの? 藍里の血の気が引いた。「誰がここに来いって言ったの?」 「あなたのためじゃない。離婚なんて言い出すから。ね、一聖くん、誤解しないでね。この子、本気じゃないのよ。こんなに長く一緒にいたのに、別れたいわけないでしょ?」 幸恵はあっさりと離婚の話題を打ち消し、わざわざ一聖からもらった銀行カードを藍里に見せつけた。 そのカードが、まるでこの結婚という名の檻に藍里を縛り付ける鎖のように見えた。この鎖がある限り、一生逃げ出すことはできない。 もう何も言えなかった。全身から力が抜けていく。 目的を果たした幸恵は、和智と共に立ち上がった。「じゃあ私たちは先に失礼するから。あとは二人でゆっくり話しなさいね」 両親が出ていくと、社長室には藍里と一聖だけが残された。 さっき幸恵が握りしめていた銀行カードが脳裏をよぎり、喉に何かが詰まったように息苦しくなった。しばらくして、絞り出すように言った。「……ごめんなさい」 一聖は何かを思ったのか、淡々と返した。「別に。初めてじゃないから」 藍里は唇を噛み締めた。昨日頬を叩かれたときよりも、顔が熱かった。 何か言おうとした瞬間、社長室のドアが開いた。 白いブラウスを着た若い女性が、コーヒーを二つ持って入ってきたのだ。 「奥様、どうぞ」 その甘い声に、藍里は顔を上げ、そのまま固まった。 若かりし頃の自分に似ている顔。この数日間、何度も何度も見せられてきた写真の中の顔。 梅田夏奈子だった。 夏奈子は柔らかく微笑みながらコーヒーをテーブルに置き、今度は一聖のほうへ向かった。 「社長、こちらどうぞ。今日は少し甘めにしてみました。いかがですか」 一聖は口にするものへのこだわりが強く、コーヒーは苦いものしか飲まなかった。なのに夏奈子の勝手なアレンジに、何の文句も言わなかった。 それどころか一口飲んで、穏やかな声で「悪くない」と言った。 藍里はもう見ていられなかった。椅子から立ち上がり、一言も発さずに社長室を後にした。 足早に去っていくその背中を見つめながら、一聖は引き止めなかった。その瞳には、底知れぬ感情が宿っていた。 帰り道、小雨が降り始めた。藍里は雨粒など感じないかのように無我夢中で駆け出した。実家が近づいた頃には、霧のような雨はいつの間にか土砂降りに変わっていた。 ずぶ濡れで実家の玄関の前に立つと、ドアは固く閉ざされていた。そして、藍里の荷物が外に放り出されていた。 慌てて駆け寄り、ドアを叩いた。「お父さん、お母さん!」 どれだけ叩いても、全身が雨に濡れ切っても、ドアは開かなかった。 中から、幸恵の計算高い声がドア越しに響いてきた。 「さっさと滝沢家に帰りなさい。一聖くんと離婚するなら、この家にも二度と帰ってこないでいいから!」 その瞬間、足元の地面が裂け、頭上の空が崩れ落ちたような気がした。 藍里はゆっくりと膝から崩れ落ち、ついに声を出して泣き崩れた。 かつて、宮園家が自分の家だと思っていた。でも、そうじゃなかった。 結婚してからは、滝沢家が自分の家だと思った。でも、それも違った。 自分にはずっと、帰る場所なんてどこにもなかったのだ。 どれくらい時間が経ったのか、やがて一聖の車が横付けされた。彼は有無を言わせず藍里を抱き上げ、車に乗せて家へ連れ帰った。 滝沢家の別邸で、藍里はガタガタと震えていた。頬は涙と雨で濡れたまま、冷え切っていた。 一聖は藍里の前に膝をついて、柔らかいタオルを手に取った。そっと顔を拭い、濡れた髪を何度も丁寧に拭いていく。 二人とも、一言も発さなかった。 でも藍里の瞳がじわりと滲んで、ぼんやりとした視界の中に、昔の一聖の姿が重なって見えた。 一聖はまるで、二人の人間に引き裂かれてしまったかのようだった。片方はあの頃のまま、変わらず藍里を大切にしてくれる人。もう片方は、冷淡に藍里を遠ざけながら、藍里に似た女を傍に囲っている人。 胸の奥に再び、静かな悲しみが広がった。一粒の涙が、頬をひっそりと伝い落ちた。 第7話 「……っ。一聖、離婚したくないの?」かすれた声で、藍里はふいに問いかけた。 タオルを握る一聖の手が止まった。顔を上げて、「ああ」と短く答えた。 静寂が長く続いた。やがて藍里は、何かを諦めたように小さく息を吐いた。 この結婚の主導権は、最初から最後まで一聖が握っていた。終わりにできるのも、一聖だけだ。 たとえ彼に別の女性がいても、離婚を拒まれる限り、藍里には出ていく道がないのだ。 「……わかった」虚ろな声で言った。 その日以来、藍里は離婚という言葉を口にしなくなった。表向きはまた元通り、大人しく家で過ごすようになった。 ただ、日に日に顔色が悪くなっていった。ふさぎ込んで笑わなくなり、一聖と交わす言葉も日を追うごとに減っていった。 そんな日々がしばらく続いたある昼下がり、家政婦が作ってくれた鶏のスープを口にした瞬間、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。激しい吐き気が込み上げ、家政婦が慌てて洗面器を差し出した。 青ざめた顔の藍里を見て、家政婦が遠慮がちに言った。「奥様……もしかして、おめでたではないでしょうか」 藍里はどきりとした。何年も妊娠できなかったから、そんな可能性はすっかり頭から消え去っていた。でも考えてみれば、今月の生理は遅れていた。 その日の午後、藍里は一人で総合病院へ向かった。 病院のロビーで、思いがけない二人と目が合った。 一聖と、夏奈子だった。 「どうしてここに?」一聖が藍里を見て言った。 体の横に垂らした藍里の手が、かすかに震えた。「あなたこそ、どうしてここに?」 夏奈子が藍里の青白い顔を見て、笑顔で説明した。「誤解しないでくださいね。仕事中に頭が少し痛くなってしまって。社長が心配して付き添ってくださったんです」 目の前の光景に、胸がひどく締め付けられた。 自分は一人で、妊娠しているかもしれない体を確かめに来ている。なのに夫は、別の女の体を気にかけているのだ。 深く息を吸い、苦渋を胸の奥に押し込めた。「胃の調子が悪くて、検査に来ただけ」 夏奈子は一聖の後ろでひっそりと得意げな笑みを浮かべると、弱々しいふりをして一聖の袖を引いた。「社長、私の順番が来たみたいです。行きましょう」 一聖はもう一度だけ藍里に目を向け、それから夏奈子に付き添って歩き出した。 藍里はしばらく立ち尽くしたままだった。ふたりの姿が完全に消えてから、ようやく産婦人科へと足を向けた。まるで魂が抜け落ちたように。 診察後、検査結果が出た。 廊下のベンチに腰かけ、藍里は看護師から渡された検査結果の紙をじっと見つめた。 そこには、はっきりと記されていた。 【妊娠反応陽性】 そして、その下に小さく、【妊娠4週相当】と。 ずっと待ち望んでいた子どもが、ようやく来てくれた。なのに、手にした報告書が焼けるように熱くて、まともに持っていられなかった。 なぜ、よりによって今なの……? 一聖との結婚は、もうここまで壊れてしまった。この子を、本当に産んでいいのだろうか。 しばらく呆然としていた後、藍里はゆっくりと手を伸ばし、そっと自分のお腹に当てた。まだ何も感じられないのに、胸の奥の強張りがするりと溶けていくのがわかった。 「藍里?」 背後から声がした。 振り返ると、白衣を着た男性が立っていた。高校時代の先輩である伊東卓弥(いとう たくや)だった。今はこの病院で医師として働いているらしかった。 「先輩」 卓弥は歩み寄ってきて、心配そうに声をかけた。「どうしたんだ?体の具合でも悪い?」 藍里は立ち上がった。「妊娠していて、検査に来たんです。これから薬をもらいに行くところで」 卓弥は一瞬驚いたように藍里の手元の報告書に目を落とした。そして、彼女のすぐれない顔色を見て、医師としての本能が働いたのか、気遣うように腕を支えた。 「一人で来たのか?顔色が悪そうだし、一緒についていくよ」 藍里は小さくうなずいた。二人で廊下を歩いていると、突然看護師がストレッチャーを押しながら急ぎ足で通り過ぎた。卓弥が咄嗟に藍里の肩を抱き寄せて、ぶつからないようにかばってくれた。 藍里は卓弥の腕に軽く手を添え、「ありがとうございます」と礼を言った。 その瞬間、少し離れた場所にいた一聖と夏奈子の目に、その親しげな場面が映った。 夏奈子はさらりと微笑んだ。「あの男の先生と、随分と親しそうですね」 第8話 一聖は無言で藍里の背中を見送ると、表情がすっと消え、顔つきが完全に冷えきった。 数秒後、夏奈子に視線を移し、静かに告げた。「お前がここにいる目的を忘れるな」 夏奈子の顔がさっと青ざめた。何か言いかけた瞬間、一聖はカードを一枚押しつけ、検査が終わったかどうかも確認せずにその場を立ち去った。 一聖の後ろ姿を悔しげに見送った夏奈子は、ふと藍里が消えた廊下の先へ目を向けた。そして何かを思いついたように、冷たく口の端を歪めて笑った。 妊娠を確認してからというもの、藍里はずっと迷い続けていた。一聖にこのことを打ち明けるべきかどうか、と。 子どもの父親として、一聖には知る権利がある。でも、夏奈子と並んで病院にいた一聖の姿が、喉の奥に刺さった小骨のように、深く突き刺さって抜けなかった。 けれどその迷いは、すぐに意味を失った。あの日以来、一聖は何日も家に帰らなくなってしまったから。 三日後、藍里はがらんとしたリビングで、ただ一人座っていた。外はいつの間にか暗くなっていた。 今日も帰らないのだろう。そう思って立ち上がりかけたとき、スマホが震えた。 またあの見知らぬ番号からだった。 今度は挑発的なメッセージの代わりに、一枚の画像だけが届いていた。 タップして開いた瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。 それは、夏奈子が産婦人科で受け取った検査結果の写真だった。 画面には、彼女の名前とともに、【妊娠反応陽性】の文字がはっきりと写っている。 そのとき、ガチャリと、玄関の鍵が開く音が響いた。藍里はこわばった体のまま振り返った。何日も姿を見せなかった一聖が戻ってきたのだ。 視線が交差した。藍里はゆっくりとスマホを伏せ、体の震えを隠すように、ぎゅっと両手を握りしめた。 一聖は藍里の目の前まで歩み寄り、氷のように冷ややかな声で言った。「離婚しよう」 藍里の胸が、もう一度激しく跳ね上がった。 一聖の無機質な表情を見た瞬間、先ほどの夏奈子のメッセージが脳裏に浮かんだ。 すべての辻褄が合ったのだ。 なぜ夏奈子と一緒に病院へ行ったのか。なぜ何日も帰らなかったのか。なぜ頑なに離婚を拒んでいたのに、今になって自分から切り出してきたのか。 夏奈子もまた、一聖の子を身ごもっていたのだ。 かつての自分に似た、若い女性。 一聖の心はとっくに、彼女へと移っていたのだ。 藍里の心は、鈍い刃でじわじわと抉り取られるようだった。それでも瞳は虚ろに静まり返ったまま、長い沈黙ののち、血の気を失った唇から、静かに答えた。 「……わかった」 けれど、そのあっさりとした答えを聞いた一聖の表情は、決して穏やかなものではなかった。瞳の奥に、何か暗い感情が揺れていた。 数秒の沈黙の後、一聖は冷たく続けた。「財産は相応に分ける。君の両親の件も、俺が手を打っておく」 藍里は静かに首を横に振った。「あなたの財産は、いらない」 滝沢家に嫁いだのは、決してお金のためではなかった。ただ、相手が一聖だったから。それだけが理由だった。 なのに、一聖はその誓いを裏切ったのだ。 藍里はゆっくりと顔を上げ、一聖を真っ直ぐに見据えた。「一つだけお願いがあるの。三十日間、離婚旅行に付き合ってほしい。それが終わったら、離婚に応じるわ」 一聖は少し驚いたように、しばらく藍里の顔を見つめた。その瞳に浮かぶ感情は、まるで読めなかった。 やがて、静かにうなずいた。「わかった」 藍里は口の端に微かな笑みを浮かべた。でも瞳には、何の光も宿っていなかった。「旅行が終わったら、離婚届を出しましょう」 それだけを言い残し、寝室へ戻った。 一聖の目が届かない場所まで来て、ようやく堪えていた涙が溢れ出した。 この三十日間を、最後のひとときにしよう。自分への、最後の甘い嘘として。それが終わったら、八年間育んできたこの愛を手放すのだ。 出発はすぐだった。旅程を立てる必要などなかった。行き先はもう決まっていたから。一聖とかつて一緒に訪れた思い出の場所を、ひとつひとつ辿り直すだけなのだから。 第9話 最初に向かったのは、白嶺山だった。 純白の雪に覆われた山頂で、かつてふたりはきつく抱き合い、口づけを交わして、この先ずっと一緒にいると誓い合った。 次に訪れたのは、星蓮の都だった。 神聖な星蓮宮も、かつてのふたりの愛を見守ってくれていた。再び一聖とここならではの山塩茶を口にしながら、藍里は初めてここを訪れた日を思い出していた。 慣れない味に顔をしかめ、飲み残しをこっそり一聖のカップに注ぎ、ついでにひとつまみの塩を足していたずらをした。 一聖はそれに気づきながらも、笑って藍里を抱き寄せ、優しく口づけをしながら「まったく、懲りない悪戯っ子だな」とからかうように囁いてくれた。 その次に足を運んだのは、奥澄高原だった。 前回来たとき、藍里はひどい高山病にかかってしまった。意識が朦朧とする中、無意識に一聖の手にすり寄って「苦しい」と甘えた。一聖は心配そうに藍里をそっと抱きしめ、背中をゆっくりと撫で続けてくれた。 それから、水乃郷を訪れた。 いつか年を取ったら、こんな静かな場所でふたりで暮らしたい。そう言ったのは藍里だった。あの頃は目を輝かせて、老後の生活プランを細かく語っていた。 最後に訪れたのは、霧氷ヶ原だった。 ここで一聖がスキーを教えてくれた。藍里は何度も転んで、泣きべそをかきながら一聖の胸に顔を埋めて「もう嫌だ」と拗ねた。一聖は藍里を優しくあやしながらも、最後まで根気強く教え続けてくれた。 …… 思い出の場所をなぞるように巡るうちに、三十日間は飛ぶように過ぎていった。 最終日、二人が向かったのは、家の近くにある紅葉山だった。さほど高くはないが、見晴らしのいい美しい山だった。頂上まで登ったふたりは、並んで眼下に広がる景色を見下ろした。 「覚えてる?」藍里がふいに口を開いた。「付き合い始めてから、最初のデートがここだったね」 「離婚の前に来られてよかった。始まりの場所で最後を迎えるのも、けじめになっていいかもしれないわね」 この三十日間の旅で、藍里が初めて離婚という言葉を口にした瞬間だった。 一聖は少し驚いたように、隣に立つ藍里の横顔をじっと見つめた。その胸の奥には、複雑な感情が渦巻いているようだった。 一聖が何か言いかけようとしたとき、また藍里の声が続いた。「一聖、あなたはまだ、私を愛してる?」 一聖はゆっくりと手を握りしめた。しばらく沈黙が落ちて、結局、何も答えなかった。 藍里は目を赤くしながらも静かに笑い、代わりに言葉を続けた。 「十九歳の一聖は、永遠に私を愛すると言ってくれた。二十七歳の一聖は、もう私を愛していない。ねえ、今のあなたを、十九歳だった頃の自分が見たら、一体どう思うのかな」 場の空気が、重く沈み込んだ。一聖は苛立たしげにネクタイを緩めると、何も言わずに踵を返し、近くの売店へ水を買いに行ってしまった。 売店から出てきたとき、顔面蒼白のカップルが胸を撫で下ろしながら近づいてきた。その声には、九死に一生を得たような響きがあった。 「怖かった……山頂からそのまま飛び降りるのを、目の前で見てしまって」 「失恋して、身を投げたらしいよ」 一聖の瞳が、ぎゅっと細められた。なぜか、反射的に藍里のことが頭をよぎったのだ。 喉がぎりりと締め付けられる。一聖はそのカップルの腕を強く掴んだ。「飛び降りたのは、どこからだッ!?」 血走った目を見て、カップルが怯えながら後ろを指差した。「あっちです!」 手にしていたペットボトルが、乾いた音を立てて地面に落ちた。一聖の心臓が、痛いほど激しく跳ね上がった。そこはたった今まで、藍里と並んで立っていた場所だった。 一聖は走った。狂ったように藍里の名前を叫びながら、頂上へ向かって駆け出した。 「藍里!藍里!」 でも、どこにも藍里の姿はなかった。 眼下に広がる、深く暗い谷底を見つめながら、一聖は完全に青ざめた。心臓が破裂しそうなほど激しく鳴り続けている。 そのとき、背後からふいに、穏やかな声が聞こえた。 「ここにいるよ」 一聖は勢いよく振り返った。藍里が無事にそこに立っていた。張り詰めていた全身から、ようやく力が抜けていくのがわかった。 藍里は静かに言った。「飛び降りたのは私じゃないよ。恋に絶望して命を絶つほど馬鹿じゃないわ」 ゆっくりと歩み寄り、一聖の目を見つめる。「安心して。離婚するって約束したんだから、今日からはもうあなたを追いかけたりしない。一人でちゃんと生きていくから。あなたと梅田夏奈子さん、幸せにね」 その言葉を聞いた一聖の瞳が、すっと暗く翳った。 握りしめた拳が、わずかに震えていた。眉間に深い皺が寄り、やがて堪えきれなくなったように、突然藍里の手を強く掴んだ。 「俺と離婚して、君はそんなに未練がないのか?」 藍里は目を瞬かせ、苦く笑った。「『別れたくない』って言ったら、離婚しないでいてくれるの?」 第10話 一聖の胸の奥で、何かが軋んだ。それでも、ゆっくりと藍里の手を離した。 その手が離れた瞬間、藍里の胸に引き裂かれるような痛みが走った。 一聖はやはり、まだ自分を愛しているのだろう。そう、愛さずにはいられなかった。あれほど若い頃から、二人で深く愛し合ってきたのだから。 だが今は、夏奈子に心が傾いている。 だから、夏奈子のために自分の手を離したのだ。 黙って背を向け、藍里は静かに告げた。 「三日後、区役所で会いましょう」 三日後。 長年、雪など降らなかったこの街に、突然今年初めての雪が舞い始めた。 藍里は早起きして着替えを済ませ、薄くメイクをして、マフラーをしっかりと巻き、家を出た。 信号待ちをしながら、そっと手のひらを広げた。一枚の雪の結晶が、舞い降りてくる。冷たい感触が肌に触れた瞬間、古い記憶がよみがえった。 五年前、一聖と婚姻届を出しに行った日も、こんなふうに雪が降っていた。 あの頃の藍里は、幸せに胸を膨らませて一聖に飛びついた。 「ねえ、一聖、雪よ!一緒に雪を被って頭が真っ白になれば、白髪になるまで連れ添えるって外国の言い伝えがあるみたいよ。早く出てきて、一緒に雪を浴びよう!」 一聖はそんな迷信を信じてはいなかっただろう。それでも雪の中へ足を踏み入れ、二人で抱き合い、口づけを交わしてくれた。 共に雪を浴びれば、この先も添い遂げられる…… 藍里はふいに全身を震わせ、我に返った。気づけば、頬は涙で濡れていた。 あの誓いは叶わなかった。この結婚生活は、とうとう終わりを迎えたのだ。もう二人で、白髪になるまで共にいることはない。 自嘲気味に微笑み、虚ろな足取りで横断歩道を渡り始めた。 彼女は気づいていなかった。 左側から、制御を失った車が猛スピードで突っ込んでくることに。 三秒後。 鈍い衝突音が響き、凄まじい衝撃が空気を切り裂いた。 藍里の体は宙に高く舞い上がり、そしてアスファルトに激しく叩きつけられた。 どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。意識が体から抜け出していくように目の前は真っ暗なのに、聴覚だけが異常に研ぎ澄まされ、様々な音が流れ込んできた。 人々の悲鳴、ざわめき、救急車の甲高いサイレン…… やがて、その音たちも遠く遠くへと消えていった。 静まり返った意識の中で、走馬灯のように光景が次々と浮かんでは流れた。心の奥底に刻まれた、一番大切な記憶たちだった。 月明かりの下、照れて耳まで赤くして口づけてくれた一聖。 嵐の中を駆け抜け、街の半分を横断して花火を打ち上げてくれた一聖。 熱でうなされる藍里の傍らで、目を真っ赤にしたまま夜通し寄り添ってくれた一聖。 涙を流しながらきつく抱きしめ、絶対に裏切らないと誓ってくれた一聖。 どの記憶にも、一聖がいた。 最後に、五年前の夜に戻った。 全員の前で片膝をつき、こちらを見上げている一聖が見えた。 「藍里、俺と結婚してくれないか?」 五年前、藍里は嬉し涙とともに深く頷いた。 五年後の今、血に染まった手を伸ばし、泣きながらその手を掴もうとして…… いや。 もう、あなたとは結婚しない。 一聖、あなたを愛することは……こんなにも、痛すぎるから。 その瞬間、世界は完全な暗闇に呑み込まれた。 区役所の前。約束の時間が過ぎても、藍里は現れなかった。 一聖は薄く積もった雪を見つめながら、何を考えているのか、その瞳は暗く沈んでいた。 雪はどんどん強くなり、一聖の肩に降り積もっていく。眉をひそめてスマホを取り出した。 次の瞬間、先に着信が鳴った。 藍里からだろうと思い、ためらいなく通話ボタンを押した。 だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、見知らぬ女性の声だった。 「あの、滝沢藍里様のご主人でいらっしゃいますか?」 胸の中に、静かな不安が広がった。低く答える。「……どなたですか」 一瞬の沈黙の後、その声が再び聞こえた。 「市内第一病院でございます。大変申し訳ないご連絡となりますが、滝沢藍里様は本日十二時八分、交通事故によりお亡くなりになりました。母子ともに、お助けすることができませんでした。つきましては、ご遺体の引き取りにお越しいただけますでしょうか」