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7年の愛は灰に、偽装死から始まる真実の愛
私、葉山杏(はやま あん)が7年もの月日を捧げた愛は、残酷な裏切りによってあっけなく崩れ去った。 婚約者である瀬崎朔也(せざき さくや)と...
Chương (1)
第1章
私、葉山杏(はやま あん)が7年もの月日を捧げた愛は、残酷な裏切りによってあっけなく崩れ去った。
婚約者である瀬崎朔也(せざき さくや)と、蝶野栞奈(ちょうの かんな)の生々しい裏切りの現場を目の当たりにした日、私の心は完全に死んだ。
「その薄汚い化けの皮、私の手で全部ひっぺがしてあげる」
手始めに、私と彼が永遠を誓うはずだった結婚式場を、最悪の『不倫暴露パーティー』へとすり替えてやった。
何も知らずに遅れて駆けつけた彼を出迎えたのは、巨大スクリーンに大々的に映し出された浮気の決定的な証拠映像。参列者を震撼させた、前代未聞の復讐劇だ。
すべてを捨てて海を渡り、異国へ飛び立った私の前に現れたのは、久我千晃(くが ちあき)だった。
何年もの間、ただ静かに私を見守り続けてくれた彼。その深く不器用な優しさが、ボロボロになった心を少しずつ温めていく。
しかし、財産と執着に狂った因縁はまだ終わっていなかった。
迫り来る暗殺者からの身の危険。過去の亡霊たちを完全に断ち切り、奴らからすべてを奪い取るため――私は千晃の協力を得て、自らの「死」を完璧に偽装した。
すべてを失った絶望の中、朔也が私の葬儀で遺影に向かって土下座までして懺悔している頃……私はすでに新しい人生を手に入れ、光の中を歩み始めていた。
7年にわたる愛憎は、すべて灰となって風に消えた。
そして私は、やっと気づいたのだ。
この世界で本当に私を愛し、守ってくれる人が誰なのかを――
第1話
「葉山様、会社の名義変更手続きが完了するまで、およそ半月ほどかかる見込みです」
スマートフォン越しに聞こえる事務的な声に短く応え、通話を切る。
当てもなくジュエリーショップのショーケースに視線を滑らせていた私・葉山杏(はやま あん)は、やがて、ひとつの純金の指輪に目を留めた。
店員に軽く頷き、包んでほしいと合図を送る。
商品を受け取ろうと振り返った瞬間、背後から若い女性店員たちの浮かれたひそひそ声が耳に飛び込んできた。
「ねえ、瀬崎グループの社長、瀬崎朔也(せざき さくや)さんが婚約者のためにデザインしたっていう指輪、見た?もう、息を呑むくらい綺麗でさ!」
「知ってる!結婚披露宴のサプライズのために何十億円もぽんと出して、街中貸し切って三日三晩ぶっ通しで花火を打ち上げる気らしいよ。イケメンでお金持ちなうえに、あんなに一途だなんて……今時あんな完璧な男の人、奇跡だよね」
「葉山さんがちょっと体調崩しただけでも、すぐに国内トップクラスの医療チームを呼びつけるくらい溺愛してるんでしょ?ああもう、羨ましすぎる」
私は静かに、自嘲気味な笑みをこぼした。
ええ、そうね。朔也の底知れぬ愛情の深さは、誰もが知っている。
十四歳で、私に初めて生理が来たとき。
あの日の午後、朔也は耳まで真っ赤にしながら、生理用品がぎっしり詰まった大きな袋を抱えて私の前に立った。そして、照れ隠しのように真面目ぶった顔で「俺の杏も、少し大人になったんだな」と言ったのだ。
十八歳のとき、私の両親は事件に巻き込まれた朔也を庇って命を落とした。
顔をくしゃくしゃにして泣き腫らした朔也は、私に向かって固く誓った。
「杏、これからは瀬崎家が君の家だ。俺がずっと、君を守る騎士になるから」
その誓い通り、朔也は仕事の付き合いを制限してまで、空いた時間をすべて私に捧げてくれた。
告白してくれた夜も、目を潤ませて「絶対に離れない」と約束してくれた。
――なのに。
世間から見れば私を溺愛する完璧な男であるはずの朔也は、裏では蝶野栞奈(ちょうの かんな)という女とこっそり関係を持っていたのだ。
最初は、画面に残された生々しいメッセージのやり取り。それでも私は、信じたくなかった。
次に、親しげに寄り添う親密な写真。それでもまだ、現実から目を背けていた。
けれど、一週間前の深夜。
自宅の外に停まっていた見慣れた車が、暗闇の中で不自然に揺れているのをこの目で見てしまった。
少しだけ下りた窓ガラスの向こう。
朔也と栞奈が激しく体を絡ませ合っているその光景は、鋭い刃となって私の両目を容赦なく刺し貫いたのだ。
「杏、仕事が終わるまで待ってて、一緒に七周年のプレゼントを選ぼうって約束だっただろ?」
不意に掛けられた朔也の声で、私は凍りついていた記憶の底から現実に引き戻された。
「家にいても退屈だったから、少しぶらぶらしてたの」
必死に震えを抑え、少しも異常を悟られないよう、いつも通りの声色を取り繕う。
朔也は私が持っていたショッピングバッグを当然のように優しく受け取ると、ごく自然な動作で私の腰に腕を回した。
けれど、その体が密着した瞬間――ふわりと、微かに甘い香水が鼻を掠める。
途端に胃袋が激しく波打ち、吐き気がこみ上げてきた。
駐車場に停めてあった彼の車に乗り込むと、ふと助手席の足元に反射するものが目に入った。シートの影から、避妊具のアルミパッケージの切れ端がわずかに覗いている。
そのとき、タイミングを計ったかのように私のスマートフォンが短く震えた。
まただ。栞奈からのメッセージ。
画面に表示された写真には、あざといメイド服を着た栞奈が、朔也の膝の上に跨がっている姿が写っていた。朔也の大きな手は、露わになった太ももをねっとりと撫で回している。
【朔也、お仕事終わるなりもう待ちきれないみたい。杏さん、お待たせしちゃってごめんなさぁい♡】
白く関節が浮き出るほど、私はスマートフォンを強く握りしめた。
「杏?」
運転席に座る朔也が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「なんだか顔色が悪いよ。どこか具合でも悪いのか?」
私は咄嗟に画面を暗くし、引きつりそうになる頬を必死に緩めて笑みを作った。
「ううん、お昼を食べすぎちゃったかも。少し胃がムカムカするだけ」
そう言って窓の外へ顔を向ける。
少し開いた窓から入り込む夜風が頬を撫でたが、心臓の奥底までどろりと侵食した冷たい悪寒を吹き飛ばしてはくれなかった。
「俺の杏は、相変わらず子どもなんだから」
朔也は愛おしそうに目を細めると、私の頭をポンポンと優しく撫で、車を発進させた。
流れていく夜の街並みを見つめながら、私はそっと瞼を閉じる。
誰にも気づかれないように、一筋の涙が頬を伝い落ちた。
私に永遠を誓い、一生守ると言ってくれたはずの騎士様は――もはや引き返せない裏切りの道を、どこまでも堕ちていっているのだ。
第2話
夜はすっかり更けていたが、瀬崎家の邸宅は煌びやかな光に包まれていた。
ダイニングテーブルには、家政婦の松本早苗(まつもと さなえ)さんが腕によりをかけた豪勢な料理が並んでいる。
私は食卓についていたものの、心ここにあらずといった有様で、箸は一向に進まなかった。
ふいに、テーブルに置かれていた朔也のスマートフォンが明るく点灯した。
チラリと画面に目を落とした朔也の瞳が、何か見てはいけないものを見たように、一瞬だけスッと暗く沈む。
先ほどまでの穏やかな気配はすっかり消え失せた。あからさまに上の空になった彼は、無意識のまま手ぐせで魚のソテーを取り分けると、私の皿に置いた。
ピタリと、私の箸が止まる。
そばで給仕をしていた松本さんも目をぱちくりとさせ、たまらず口を挟んだ。
「朔也様、杏様が重度の魚介アレルギーだということをお忘れですか?」
ハッとして我に返った朔也は、顔を引きつらせて慌ててその皿を下げ、新しい取り皿をごまかすように私の前に置いた。
「ご、ごめん杏。会社で少し急ぎのトラブルがあったみたいで、考え事をしてたよ。君は先に食べててくれ。俺は処理が終わったらすぐに戻るから」
その謝罪の響きは、ひどく白々しかった。
言うが早いか、朔也は逃げるように足早にダイニングから出て行く。
残された私は自分の皿を見つめた。喉の奥に鉛のような塊が詰まったようで、何を口に入れても吐き出してしまいそうだ。
そのとき、今度は私のスマートフォンが短い通知音を鳴らした。
画面をタップすると、またしても目を背けたくなるようなトーク履歴のスクリーンショットが送りつけられていた。
【朔也、新しいゴム届いたよ。試してみない?】
【悪い子だな。すぐ行くから待ってろ】
私はバシッとスマートフォンを裏返した。そうすれば、脳裏にこびりつくおぞましい生々しい想像まで一緒に消し去れる気がしたから。
けれど、毒のようなあの文字は無数の細い針となって私の心臓を滅多刺しにし、呼吸すら苦しくなるほどの痛みを撒き散らした。
朔也の乗った車のエンジン音が遠ざかっていくのを聞き届けた瞬間、ギリギリで堪えていた私の涙腺はとうとう決壊した。
誰もいなくなった広いダイニングで、一人声を殺して泣き続ける。
ポロポロとあふれた涙が真っ白なテーブルクロスに落ち、冷たい染みを広げていく。
テーブルの中央には、華やかなホールケーキが手つかずのまま置かれている。「交際七周年おめでとう」と書かれたチョコレートのプレートが、今はただ痛烈な皮肉にしか見えなかった。
私はフォークを握りしめ、そのプレートを何度も何度も苛立たしげに突き刺した。
ぐしゃぐしゃに砕け散る甘いチョコレートと一緒に、この胸を切り裂くような痛みまで、全部粉々に粉砕してしまえたらいいのにと願いながら。
夜の十時を回っても、やはり朔也は帰ってこなかった。
何度電話をかけても、空虚なコール音が鳴り続けるだけで誰も出ない。
私はベッドにうずくまり、捨てられた子猫のようにただ一人、孤独と無力感に震えていた。
そんな私をあざ笑うかのように、栞奈からのメッセージが次々と届く。画像や動画の通知は、私の最後の防衛線を切り裂く鋭いナイフそのものだった。
見てはいけないと分かっているのに、自虐的な衝動に抗えず、私は震える指で届いたばかりの動画を再生してしまった。
画面に映し出されたのは、ひどく乱れたベッドのシーツ。そこには無残に破かれた黒のストッキングと、使用済みの避妊具が生々しく転がっている。
「朔也ってば……杏さんとも、いつもこんな激しいことしてるの?」
甘ったるく、あからさまな挑発を含んだ栞奈の声。それに答えるのは、情欲にまみれて荒い息を吐く朔也の、低くしゃがれた声だった。
「まさか。あいつとは……こんなこと、するわけないだろ」
私は弾かれたように画面を伏せた。限界を迎えていた涙がどっと溢れ出し、視界を滲ませる。
ぼやけた目で、壁に飾られた婚約記念の写真を見上げた。
写真の中の朔也は、まるでこの世界に私しか存在していないかのような、底なしに優しく深い愛情をたたえた瞳で私を見つめている。
かつて私の支えだったその一枚は、今や私を嘲笑う最大の皮肉に成り下がっていた。
なおも鳴り続ける着信音。私にはもう、それを確かめる気力すら残っていない。
頭からすっぽりと布団を被り、声にならない嗚咽を漏らす。そうやって自分を外界から遮断すれば、この身を引き裂くような痛みからも逃れられるような気がした。
あと半月……あと半月だけ耐えれば、私はこの人から永遠に離れられる。
それだけが、今の私に残された唯一の救いだった。呪文のように、何度も何度も心の中でそう唱え続けた。
翌朝、重い体を引きずって寝室を出ると、リビングにはすでに朔也の姿があった。
私に気づくやいなや、慌てて立ち上がる。その顔には、痛々しいほどの心配と自責の念が浮かんでいた。
「杏、本当にごめん。昨日は仕事のトラブルのせいで、君を一人にしてしまって」
目の前に立つ彼の、誰もが惹きつけられる整った顔立ち。
そこには私を心底案じる色が浮かんでいるのに――本当の意味での「罪悪感」など、微塵も存在していなかった。
私はただ無言のまま、ダイニングテーブルへと向かう。
すると朔也は甲斐甲斐しく朝食の準備を始め、炊きたてのご飯とお味噌汁をよそい、湯気の立つおかずを私の前に並べてくれた。
「さあ、食べて。お腹が空いてるだろ?」
胸が締めつけられるほど、甘く優しい声だった。
そのとき、ようやく私の赤く腫れ上がった瞼に気づいたのだろう。
朔也は息を呑み、目に見えて狼狽し始めた。
「杏、その目どうしたんだ!?泣いたのか……?それともどこか具合が悪いのか!?だめだ、すぐに病院へ連れて行く!」
「……昨日の夜、ひどい悪夢を見て、泣いただけ。食欲もないから」
私は顔を背け、彼のその嘘くさい心配顔を視界から閉め出した。無理に絞り出した声は、ひどく掠れて疲弊しきっていた。
「悪夢?どんな夢を見たんだ?」
朔也は眉をひそめ、焦ったように問い詰めてくる。
「あなたは……きっと知りたくない内容よ」
真っ赤に充血した目でそう返すと、声の端が微かに震えてしまった。
朔也はたまらず私を抱きしめようと手を伸ばしてきたが、私は反射的に体を引いてそれを避けてしまった。
誤魔化すように乱暴に目元を擦り、低く呟く。
「……気にしないで。ただ、私とあなたが結婚できなくなる夢だったの」
私のその言葉に、朔也は胸を痛めたような顔をして私を引き寄せ、今度こそ強く肩を抱きしめた。そして、私の額にそっと優しいキスを落とす。
「杏、君は俺の命よりも大切な存在だ。もし君と結婚できないなんてことになったら、俺は生きていけない。死んだほうがマシだよ。あと半月で、俺たちは本当の夫婦になるんだ。だから変な心配なんてしないでくれ」
断言するような、どこまでも甘く優しい口調。
朔也の胸に顔を埋めると、彼のシャツから微かに、あの忌まわしい甘い香水の匂いが漂ってきた。
口の中いっぱいに、どうしようもない苦い味が広がる。
私はそっと目を閉じ、心の中で静かに問いかけた。
――そう?
なら、半月後。私が永遠に目の前から消え去ったとき……あなたは本当に死んでくれるの?
第3話
静かな朝の空気を切り裂くように、けたたましい着信音が鳴り響いた。
電話に出た朔也の表情が、見る見るうちに険しく引き締まっていく。
通話を終えると、彼は私の手をそっと握り、どこか言い訳がましい口調で言った。
「杏、今アシスタントから連絡があったんだ。大事な取引先の方が交通事故に遭って、かなり危険な状態らしい。俺、今すぐ病院に駆けつけないといけない」
顔を上げた私の目に、彼の顔に一瞬だけ走った「期待」と「興奋」の色がはっきりと映り込んだ。
心臓が重く冷たく沈んでいくのを感じながら、私は心の中で冷笑した。
取引先が交通事故で危篤だなんて、そんな雑な嘘までついて。そんなにも早く、あの女に会いに行きたいのね。
もう問い詰める気力すら湧かず、私はただ短く「そう」とだけ頷き、二階へと向かう階段を上り始めた。
寝室の大きな窓際まで来たとき、ふと足が止まった。
窓から見下ろす邸宅のゲート前には、見覚えのあるピンク色のベンツが停まっていた。
二階からでは表情までは見えない。しかし、運転席の窓から乗り込んだ朔也に、車内の女が艶めかしく絡みついている下品なシルエットは、はっきりと確認できた。
その時、私のスマートフォンが短く震えた。
また栞奈からだ。送られてきた短い動画をタップすると、信じられないほど生々しい会話が流れ出した。
「朔也、これ……あなたのために穿いてきたの。こういうの、好きでしょ?」
動画の中の栞奈は、黒いストッキングに包まれた脚を艶めかしく見せつけ、朔也を誘惑している。
それを前にした朔也の、狂わんばかりの欲望に満ちた声が続いた。
「場所を変えよう。お前、海辺が好きだろ」
「ふふっ……」
動画の再生が終わると同時に、眼下のピンクのベンツが静かに発進し、あっという間に私の視界から姿を消した。
直後、再びスマートフォンが短く震える。
どういう意図か、続いて送られてきたのは『マリン・ビーチ』のGPS位置情報だった。
わずかに震える指を見つめながら、私は迷うことなく踵を返し、タクシーを拾ってその後を追った。
三十分後。
私はタクシーの車内から、少し離れた場所に停まっているあのピンク色のベンツを見つめていた。
サンルーフは全開になり、車内からは生々しい音が漏れ聞こえ、車体自体もリズムに合わせて不自然に揺れている。
近くを通りかかったサーファーや海辺を散歩している人たちが足を止め、呆れたようにひそひそと笑い合っていた。
「おいおい、どこの金持ちか知らないけど派手な遊び方をするもんだ。海辺に停めたベンツでずいぶんお盛んなこって、刺激的だねぇ」
頬を伝う涙はもう音すら立てなかった。スマートフォンを握る指先は、感覚がないほどに冷え切っている。
私は震える手で、そのおぞましい光景を五分間きっちりと動画に収めた。
そして、あらかじめ手配していた信頼できる秘書に電話をかけ、掠れきった、しかし冷たく決然とした声で命じた。
「……結婚披露宴の当日、招待客が一番集まっているタイミングで、この動画を会場の巨大スクリーンで大々的に流して」
皆が寝静まった深夜、朔也はようやく泥酔状態で帰宅した。
ドタバタと無遠慮な物音を立てて寝室に入ってきた彼は、眠っていた私を強引に起こした。
「……杏、愛してるよ……」
朔也は私の顔を両手で包み込み、酷い酒の匂いをさせながら何度も何度もキスを落とした。そして、呂律の回らない口で縋るように呟いた。
「俺に怒ってもいい、罵っても殴ってもいい……でも、一生俺から離れないでくれ……いいだろう……?」
彼を見つめ返す私の目は、少しの同情も熱も持っていなかった。
至近距離にある彼の首筋に、血のように赤く生々しいキスマークがべったりと付けられているのを見て、私の心はすでに氷のように冷え切っていた。
翌朝。
昨日のことでよほど機嫌を取りたいのか、朔也の過剰な優しさはさらにエスカレートしていた。
昨朝に引き続き、家政婦任せにせず自ら朝食のテーブルを整えたばかりか、私が今日着るための服まで甲斐甲斐しく選んで見せたのだ。
しかし、向かい合って朝の食卓についている最中、彼のスマートフォンがまた短く震えた。
チラリとメッセージの画面を一瞥した朔也は、今度はほんの少し申し訳なさそうな顔を作って私を見た。
「ごめん杏。会社の財務関係で少しトラブルがあったみたいで、今から急いで確認に行かなきゃならなくなった。でも昼には必ず戻ってきて君と一緒に過ごすから、いいかい?」
私はただ静かに頷き、慌ただしく家を出て行く彼の背中を見送った。
朔也の車が完全に見えなくなったのを確認してから、私も外出の準備を整えた。
向かったのは法務局や関係各所だ。例の、会社を譲り受けるための名義変更書類をすべて提出し終えた。
帰宅後は、自分の荷物をひとつひとつ整理し始めた。
朔也から過去にもらったブランド品や高価なプレゼントの数々を写真に撮り、フリマアプリで安値で出品し、すべて売り払うことにした。
夜の八時。案の定、朔也は昼になっても夜になっても帰ってこなかった。
代わりに私の電話を鳴らしたのは、地元の警察署だった。
朔也が他人と諍いを起こして乱闘騒ぎになり、どうしても家族が身元引受人として迎えに来る必要があるというのだ。
私が急いで警察署のロビーに駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。
パイプ椅子に座る朔也の胸に、栞奈がすがりつくようにして泣きじゃくっているではないか。
私が入ってきたことに気づいた瞬間、朔也の顔に明らかなパニックが走った。
彼は慌てて栞奈を乱暴に突き飛ばすと、血相を変えて私に駆け寄ってきた。
「あ、杏!?どうして君がここに来るんだ!俺はボディーガードに、顧問弁護士を呼べと指示したはずなのに!」
朔也の背後に立っていたボディーガードが、恐縮したように頭を下げて説明した。
「申し訳ありません、社長。警察の方から、身元引受人はどうしてもご家族の方でなければならないと言われまして……」
私は朔也の顔にできた痛々しい青痣に目をやり、短く問いかけた。
「どういうこと?」
朔也が弁明の口を開くより早く、そばにいた女性警官が事務的に説明してくれた。
「ホテルで蝶野さんが柄の悪い男たちに絡まれていたところを、通りかかった瀬崎さんが助けに入って乱闘騒ぎになったんです。双方、事情聴取のためにこちらへ同行していただきました」
すると朔也は、慌てふためいた様子で私に言い訳を並べ立てた。
「あ、杏、聞いてくれ!蝶野さんは大事な取引先のご令嬢でね、どうしても見過ごすわけにはいかなかったんだ。ホテルへは商談で行っていて、本当にたまたま出くわしただけで――」
私は女性警官に向かって軽く微笑み、必死に取り繕う朔也の手をそっと押さえて遮った。
「事情は分かりました。大した問題じゃありません」
その私の言葉に、朔也は目に見えて安堵の息を吐いた。しかし、私があまりにもあっさりと引き下がったことに拍子抜けしたのか、どこか釈然としない表情を浮かべていた。
保釈の手続きを終えて署のロビーを歩き出したとき、栞奈が小走りで追いかけてきた。
「瀬崎さん……あの、私、怖くて一人じゃ帰れません。送っていただけませんか?」
さもか弱い被害者を装うような、甘ったるい声だった。
朔也はためらいがちに、私の顔色をうかがう。
「杏、とりあえず三人で蝶野さんを家まで送ってから、一緒に帰ろうか?」
私は彼を真っ直ぐに見つめ返し、静かに首を振った。
「ボディーガードか、誰か他の人に送らせればいいじゃない」
「でも杏、蝶野さんは怖い思いをしたばかりでショックを受けているんだ。関係ない他人に任せるのはちょっと……」
「だったら、あなたが送ってあげればいいわ。私は疲れたから、一人で帰って休む」
私は感情の読めない平坦な声で、きっぱりと彼の言葉を遮った。
朔也は一瞬呆然とし、まだ何かを言い募ろうと口を開きかけた。だがそのとき、横から栞奈がこっそりと彼の袖を引っ張った。
結局、彼は小さく頷き、妥協した。
「わかった。じゃあ……君は先に帰って休んでてくれ。俺が彼女を送っていくよ」
私は何も言わずに踵を返し、迷うことなく警察署の出口へ向かった。
後ろ髪を引かれることもなく、冷酷なまでに決然と背中を向けて。
朔也はその遠ざかる背中を見つめながら、胸の奥底に言い知れぬ焦燥と不安を覚えていたが……それが一体何に対する危機感なのか、今の彼には微塵も理解できていなかった。
第4話
警察署を出た車が走り出してすぐ、栞奈は待ってましたとばかりに朔也に飛びついた。
その首元に細い腕をぐるりと回し、艶めかしい声で耳元に囁く。
「朔也、やっぱりこのままホテルに行こ?」
しかし――次の瞬間、朔也の顔は氷のように冷徹なものへと豹変した。
彼は自身の首に絡みつく栞奈の腕を乱暴に引き剥がし、そのまま彼女の華奢な首を片手でギリリと締め上げた。
「……杏の前に姿を見せるなと、俺は言ったはずだ。なぜ言いつけを守らない?」
その声は、先ほどの甘い声音とは似ても似つかない、酷薄で危険な殺気を帯びていた。
栞奈の顔はみるみるうちに朱に染まり、苦しげに喘ぐ。窒息する寸前になって、ようやく朔也は冷酷に指の力を緩めた。
咳き込み、貪るように空気を吸い込んだ栞奈の瞳に一瞬だけ不満の色がよぎったが、彼女はすぐに上目遣いになり、媚びるような甘い声で謝罪した。
「ご、ごめんなさい……ただ、怖くてパニックになっちゃったの。もう勝手なまねはしないから」
朔也は張り詰めた見下すような視線を向け、低く警告する。
「もし杏に何かがバレるような真似をしたら……お前がどうなるか、言わなくても分かっているな?」
栞奈は怯えたように唇を噛み締めた。
だがその瞳の奥には、決して屈しない狡猾な光がチラついていた。
彼女は朔也の大きな手を両手で包み込むと、ストッキングに包まれた自分の太ももへとゆっくり這わせた。
「……朔也、栞奈のこと、許してくれるでしょ?」
あからさまな誘惑。その声を聞いた朔也の瞳がねっとりと暗く沈み、顔に張り付いていた殺気めいた冷たさが、徐々に情欲へと溶けていった。
――深夜。
静まり返ったベッドルームで、私のスマートフォンにまた栞奈からのメッセージが立て続けに送られてきた。
【杏さん、朔也たらね、私が海を好きだって言ったら小さな島をまるごと買ってくれたの!】
【ごめんなさい杏さん!朔也が一晩中激しく求めてくるから、ベッドから落ちた拍子に、杏さんが手作りしたペアの花瓶をうっかり割っちゃった。怒ってないよねぇ?】
添付された画像を開くと、フローリングの床に無残に散らばった陶器の欠片が写っていた。
それを見た瞬間、胸の奥がチクりと鋭く痛む。
あれは昔、私が土を捏ねて苦労して焼き上げたものだった。朔也はそれを宝物のように大切に扱い、絶対に壊れないようにと、わざわざあの海辺の別荘の安全な場所に飾っていたはずなのだ。
それが今や、あの女が私を煽り、マウントを取るためのただの道具に成り果てている。
「……粉々に壊れたのなら、いっそ好都合ね」
私は真っ暗な部屋の中で、自分に言い聞かせるようにポツリと呟いた。
どうせ、あと七日。
残りの一週間さえ耐え抜けば、私はここから永遠に消え去るのだから。
翌日、私は朔也に連れられてウェディングドレスのサロンを訪れていた。
スタッフが奥から慎重にドレスを運び出し、ハンガーにかけて丁寧にスチームアイロンを当て始める。
すでに朔也への想いは冷え切っていたはずなのに、完成したばかりのドレスを目にした瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
息を呑むほど美しい仕上がりだった。繊細なレースや刺繍の細部に至るまで、朔也の異常なほどのこだわりと、愛に溢れた情熱が窺えたからだ。
何度考えても、わからない。
これほどまでに私を愛しているような素振りをみせておきながら、どうして平気で裏切ることができるのだろう。
その時、手元のスマホが短く震えた。
ロックを解除すると、栞奈のトーク画面に新しい通知が溜まっている。無言で送りつけられてきたのは、数枚の画像と一つの動画だった。
タップした指先が小刻みに震え、気付けば涙で視界が歪んでいた。
画像に写っていたのは、今まさに目の前でスタッフがアイロンをかけている私のためのウェディングドレスを身に纏い、得意げにポーズをとる栞奈の姿。
そしてその左手の薬指には、朔也が私のためにデザインしたはずの婚約指輪が誇らしげに光っていた。
続けて、動画が自動再生される。
画面の中央では、朔也が恭しく片膝をついていた。大きなバラの花束と、見覚えのある指輪のケースを掲げながら、とろけるような甘い声で囁いている。
「前からウェディングフォトを撮りたいって言ってたよな。でも、その前にちゃんとプロポーズのけじめをつけたくてさ。気を遣って『プロポーズなんていらない』って言ってくれたけど……可愛いお前を我慢させるわけにはいかない。俺と、結婚してくれないか?」
栞奈は感極まったように目を赤くして、嬉々として頷いた。
「うんっ……!喜んで!絶対、絶対に朔也のお嫁さんになりたい!」
周囲を取り囲む取り巻きたちから、「キスしろ!」「いいぞ、キス!キス!」と楽しげな野次が飛ぶ。
液晶越しにその狂った光景を見つめながら、全身の血液が凍りつき、深い氷の底に突き落とされたような感覚に襲われた。
七年前。
朔也が私に想いを告げてきたあの日も、これとまったく同じだった。
仕立てのいい黒のスーツに身を包み、色鮮やかなバラの花束と小さな指輪の箱を握りしめて。彼は声を詰まらせながら、必死に訴えかけてきたのだ。
「杏、一生お前だけを愛する。他の女なんて絶対に目に入らない。お願いだ、俺と付き合ってほしい。誓っていい、もし俺が浮気するようなことがあったら……その時は死んで詫びるから」
ふっ、と乾いた冷笑がこぼれ落ちた。
笑っているのに、ただただ涙だけが止めどなく頬を伝っていく。
なんだ、全部嘘だったんじゃないか。
一生の誓いも、海よりも深い愛情も。
永遠の真心なんてものは、ほんの一瞬で色褪せてしまう、ひどく薄っぺらい代物だったのだ。
再びスマホが震えた。栞奈からの追撃メッセージだ。
【杏さん、朔也が『サイズが合うか代わりに着てみて』って言うから、先に試着しちゃった。♡あ、そうそう。あの指輪、朔也が私にくれるって約束してくれたんだぁ。だから杏さんは、また別のを選び直してね?】
私は乱暴に涙を拭い、顔を上げて目の前のウェディングドレスを見やった。
その時だ。ドレスの裾のあたりに、うっすらと黄色いシミのようなものがこびりついているのに気づいたのは。
直後、猛烈な吐き気が胃の底からせり上がり、私は口元を押さえて激しくえずいた。
朔也はひどく顔色を変え、すぐさま私を抱きかかえて病院へと急行した。
「杏、どうした!?なんだって急に……頼むから、俺を怖がらせないでくれ!」
耳元で聞こえる声は、パニックに陥ったように慌てふためいていた。
医師の診察が終わり、極度の精神的ストレスによる一時的な吐き気だと診断されて、ようやく朔也は安堵の息をついた。
ベッドの傍らに座る朔也は、私の蒼白な顔と虚ろな瞳を見つめ、ひどく痛ましそうな表情を浮かべている。
ふと視線を逸らすと、窓ガラスに自分の姿が映っていた。私はいったいいつの間に、こんなにも生気のない、抜け殻のような顔になってしまったのだろうか。
第5話
「……杏。何か隠し事をしてないか?なあ、俺に話してくれよ。心配で気が狂いそうなんだ」
朔也の声は甘く優しく、そして切実だった。私を見つめる瞳には、本物の愛情が揺らめいているようにすら見える。
私は少しの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「ただの、マリッジブルーかもしれない」
朔也は私の手を力強く握り込むと、熱を帯びた声で断言した。
「不安になんてなる必要ないよ。君を妻にできるなんて、俺は世界一の幸せ者だ。五日後の結婚式が、本当に楽しみで仕方ないんだ」
私はうつむき、皮肉な笑みをごまかした。
ええ、私もその日が待ち遠しくて仕方ないわ。
「……ねえ朔也。あなたがデザインしてくれた指輪、もう完成したの?見てみたいな」
静かな声で尋ねると、朔也の体がわずかに強張るのがわかった。
次の瞬間、彼はさも残念そうに眉を下げてみせた。
「ごめん、杏。実は完成した指輪を見たら、ダイヤに傷が入ってたんだよ。一生に一度の指輪に傷物は縁起が悪いだろ?だから、思い切って捨てちゃったんだ。一緒に新しいのを選び直そう。式が終わったら、今度はもっといいデザインのやつを作ってあげるからさ」
私は薄く微笑んだ。ひどく冷めきった感情とは裏腹に、声だけは穏やかに響く。
「そう。傷がついてたんじゃ、もうただのゴミね。捨てて正解だったわ」
ちょうどその時、救命救急室の前がにわかに騒がしくなった。
血まみれの女性がストレッチャーで慌ただしく運び込まれていく。付き添っていた女性の両親らしき人たちは完全に泣き崩れており、一人の男に掴みかかっては殴る蹴るの暴行を加えていた。
「一生娘を大事にするって誓ったのはお前だろうが!まだ結婚して間もないのによくも浮気なんか!娘が自殺して生死の境をさまよってる今……これでお前は満足なのか!!」
男は救急室のドアの前にへたり込み、ただ涙を流しながら呆然としていた。
私はその光景を横目に見ながら、朔也に向かって風のように軽い声で尋ねた。
「ねえ……朔也は、浮気して私を裏切ったりする?」
朔也は私の手をぎゅっと握り込み、真剣そのものの瞳で私を見つめた。
「杏、俺が世界中で一番君を愛してること、知ってるだろ?もし俺が君を裏切るようなことがあったら、その時は車に轢かれて無惨に死んでもいい」
とっくに死に絶えた私の心には、さざ波一つ立たない。ただ薄く口角を上げて笑ってみせた。
「そう。なら、その言葉が現実にならないように祈ることね」
退院後、朔也から久我千晃(くが ちあき)が帰国したと聞かされた。
千晃は朔也の幼馴染だが、家族で海外へ移住したため、こちらに戻ってくるのは珍しい。数日前に彼が帰ってきた際、私は体調不良で顔を出せなかった。
そこで今日、改めて彼を食事に誘うことにしたのだ。
レストランに到着した私は、朔也たちがいつも使っている個室へとまっすぐ向かった。
ドアの前に差し掛かったちょうどその時、中から男友達の品のない笑い声が漏れ聞こえてきた。
「いやー、朔也は本当いい思いしてるよな。栞奈ちゃん、ベッドじゃ相当すごいんだろ?お前、体力もつのかよ」
続いて、信じられないと言わんばかりの千晃の声が響く。
「朔也、お前……浮気、してるのか?」
一方の朔也は悪びれる様子もなく、あっけらかんと答えた。
「お前にはわかんねーよ。もちろん俺は、命にかけても杏を愛してる。でもさ、あいつの脚にある傷跡を見ると……正直、萎えるんだよな。俺だって男だぜ?欲情もするし、発散もしたいだろ」
ガシャン!!
グラスが激しく叩き割られる音が響き、抑えきれない千晃の怒声が爆発した。
「朔也っ!!お前それで、杏さんに顔向けできるのか!?亡くなったご両親に対して恥ずかしくないのかよ!?この最低のクズ野郎!」
ドアの外で立ち尽くす私は、顔面蒼白のまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
爪が手のひらに深く食い込んでいるのに、痛みすら感じない。
十八歳の年、朔也は人身売買の組織に拉致され、海外へ連れ去られた。
国際警察官だった私の両親は、身を呈して彼を凶刃から庇い、命がけで朔也を救い出した。
そして私も、彼を無事に国内へ連れ帰る過程で、脚に一生消えない無数の傷跡を負ったのだ。
その事件を境に両親を完全に失い、私はこの世界で天涯孤独の身となった。
二十一歳の夜。私たちは互いの想いを伝え合い、恋人同士になった。
お祝いに少しだけお酒を飲み、雰囲気に流されるまま、朔也は私をベッドに押し倒し、その手をゆっくりと下へ這わせた。
けれど――私の脚の醜い傷跡に触れた瞬間、彼の体はビクッと硬直した。そして弾かれたように起き上がると、トイレへ駆け込んだのだ。
戻ってきた彼は泣きそうな顔で、「飲みすぎて吐いただけだ、君の傷は関係ない」と必死に弁解した。
私は自分に嘘をつき、その言葉を信じ込んだふりをした。
だがそれ以来、私たちが交わすスキンシップは、軽い口づけと、夜に抱えて眠ることだけになっていた。
第6話
個室の中では言い争う声がどんどん大きくなっていたが、私の頭にあるのは「ここから逃げ出したい」という感情だけだった。
魂が抜けたようにレストランから飛び出した私は、足元の段差に気づかず、路上で激しく転倒してしまった。
土砂降りの雨の中、擦りむいた膝から血が滲み、雨水と混ざって流れ落ちる。
ちょうどタバコを吸おうと外に出てきた千晃が、その光景を偶然目撃した。
「杏さん!」
彼は慌てて駆け寄ると、私を抱き抱えて自分の車に乗せた。
「すぐに病院へ行こう」
私は力なく首を振った。
「……久我さん、いいの。それより、家に送ってください」
千晃は眉をひそめ、痛ましそうな声を出した。
「……杏さん、さっきの朔也の話、聞いてたんだろ。本当に、あいつと結婚する気なのか?」
私は顔を背けたまま、何も答えなかった。
家に着くと、私は汚れた服を脱ぎ捨ててバスルームへ向かった。
身なりを整えてリビングに戻ると、千晃がまだそこに立ち尽くしている。
「久我さん、まだいたんですか?」
「心配で。また何か危ない目に遭うんじゃないかと思って」
彼が深くため息をつきながら言った言葉に、私はただ力なく微笑んでみせた。
千晃は救急箱を見つけ出し、私の膝の傷を丁寧に手当てしてくれた後、静かに帰っていった。
一人残された私はスマホを取り出し、手元の資産を計算した。
朔也から送られた高価なプレゼントを売り払って作ったお金が、およそ10億円。
これをすべて、伯母から譲り受けた会社の運転資金に充てるつもりだ。
資金の確認を終えた私は、ベッドに丸くうずくまった。胸の中には、空っぽの虚無感だけが広がっている。
朔也が帰宅したのは、深夜の二時を回った頃だった。
私が起きているのを見て、彼は少し驚いたような顔をした。
「杏、まだ起きてたのか?」
私は手元の譲渡契約書を隠しながら、抑揚のない声で答えた。
「……眠れなくて」
朔也はバスルームでシャワーを浴び、タバコや酒の匂いを完璧に消してから私のもとへやってきた。そして、私を腕の中に抱きしめる。
「じゃあ、俺が寝かしつけてあげるよ」
――うとうとし始めた頃、玄関のチャイムが微かに鳴った。
朔也は寝室のドアを静かに閉め、玄関へ向かった。
「お前、なんで来たんだよ!早く帰れ!」
声を押し殺した朔也の怒鳴り声に、あざとく甘ったるい栞奈の声が続く。
「朔也……怖い夢見ちゃって、一人じゃ眠れなぁい……」
やがて、家の中に微かな喘ぎ声が響き始めた。
足音が乱れ、ゲストルームのドアが静かに閉まる。
私はベッドに横たわったまま、暗い天井をぼんやりと見つめていた。
目がひどく痛むのに、自嘲する気力すら湧かず、涙一滴こぼれない。
壁越しに微かに聞こえてくる栞奈の声は、空が白むまで続いた。
朝方、シャワーを浴び直した朔也が布団をめくり、何事もなかったかのように私を背後から抱きしめて、深い眠りにつくのを感じた。
朝八時、朔也は時間通りに起床し、私のために朝食を作ってくれた。
私がお味噌汁を一口だけ啜り、すぐに箸を置いたのを見て、朔也は顔色をうかがうように声をかけてきた。
「もういらない?口に合わなかったか?……そういえば昨日、松本さんから聞いたんだけど、俺が昔あげたプレゼントが部屋からなくなってるって。杏がどこかに片付けたのか?」
私は淡々と答えた。
「全部売ったわ。気に入らなかったから」
朔也は少し戸惑ったように苦笑しながらも、優しい声を作った。
「そっか。わかった、じゃあ今度はもっと杏の好みに合うものを買ってくるよ」
私が冷たく微笑んだだけなのを見て、朔也はごまかすように微かに視線を泳がせた。
「……きっとマリッジブルーなんだよな。大丈夫、結婚して夫婦になれば、ずっと俺のそばにいられるんだから」
わざとらしく明るい声でそう呟く彼を見て、私は内心で嘲笑した。そうやって自分自身に言い聞かせ、必死に安心しようとしているのが痛いほど伝わってくる。
ここ数日、私がずっと塞ぎ込んでいると思ったのか、朔也は気分転換にと友人たちを交えたグループ旅行を提案してきた。
リゾート地に到着し、レストランで朔也が料理を注文している間、取り巻きの男友達が冷やかすように言ってきた。
「いやー、朔也の杏ちゃんへの溺愛っぷりはマジで俺らの手本だよなー!」
「だよな!何年経っても、お前の隣にはずっと杏ちゃんしかいないもんな」
以前の私なら、顔を赤らめて照れ笑いしていただろう。だが今の私は、手元のスマホに目を落としたまま全くの無反応を貫いた。胸の内でただ冷たい嘲笑が渦巻いている。
私の反応がないことに気まずくなったのか、友人たちはそそくさと話題を変えた。
その直後だった。
腰をくねらせながら栞奈が現れ、甘ったるい声を上げた。
「もうっ、みんなで旅行行くなら私にも声かけてよねぇ!」
第7話
朔也の背中がビクッと強張った。彼は顔を上げることもなく、聞こえないふりをしてメニューの端を見つめ続けている。
その様子を見た男友達の一人が、慌てて取り繕った。
「何言ってんだよ、俺がちゃんとお前のことも呼んだだろ?」
この白々しい猿芝居に、私は思わず自嘲の笑みを浮かべた。
栞奈は遠慮する素振りもなく、空いていた私のすぐそばの席に腰を下ろすと、「杏さーん」と馴れ馴れしく声をかけてきた。
私は彼女に返事をしなかった。ただ、一箇所からどうしても目が離せなかったのだ。
彼女の指先――そこには、本来なら私が身につけるはずだったあの指輪が、これみよがしにキラキラと光っていた。
栞奈はわざと男友達に体をすり寄せ、キャアキャアと声をあげてイチャつき始めた。
見ているうちに朔也の顔色はみるみる険しくなり、ついには荒々しく箸をテーブルに投げ捨てた。
「……ちょっと、トイレ行ってくる」
凍りつくような低い声で言い残し、足早に席を立つ。
彼が離席してすぐ、栞奈もまた笑顔で立ち上がった。私へ向けて勝ち誇ったような視線をチラリと投げかけてから、後を追うように歩き出す。
日が沈みかけた頃、朔也はようやく戻ってきた。心なしか、その顔には欲求を満たしたあとのような気だるい色気が漂っている。
それから十数分後、今度は栞奈がゆっくりと戻ってきた。
その唇は微かに腫れ上がり、首筋には真新しい赤黒いキスマークがいくつも咲いている。ただ、先ほどまで見せびらかしていた指輪は、なぜか外されていた。
そのあからさまな姿を見た男友達の一人が、引きつった笑いを浮かべて慌てて取り繕うとした。
「い、いやー!この辺はやっぱり自然が多いから、蚊もすごいな!栞奈ちゃん、首めちゃくちゃ刺されてんじゃん!」
すかさず別の友人が肘で小突き、小声で突っ込む。
「バカ、真冬に蚊なんかいるわけないだろ……」
だが、私がスマホに視線を落としたまま何も気づいていないように振る舞うと、彼らはホッとしたように胸を撫で下ろし、それ以上は追及してこなかった。
彼らが「私は落ち込んでいる」と勘違いしている間、実際には、私はスマホで故郷である遠く離れた異国・ヴァルモントの物件探しに没頭していたのだ。
だって、あと三日。あと三日もすれば、私はここから完全に消え去るのだ。
ホテルに戻ると、朔也はすぐにバスルームへと向かった。
その隙を狙ったように、また栞奈からメッセージが届く。今度は動画だった。
薄暗い木立の中で、栞奈が木に背を預け、朔也の腰に腕を回している。
朔也は彼女の首筋に貪るようにキスをしながら、憎々しげに吐き捨てた。
「俺の目の前で他の男を誘惑するなんて、いい度胸だな。たっぷりお仕置きしてやる」
「ああっ……朔也、ちょっと、痛いよぉ……っ」
「わざと痛くしてやってんだよ!痛い目みないとわかんないだろ。お前は俺だけのものだ!」
続いて、テキストメッセージが表示された。
【杏さん、朔也が本当に愛してるのは私なの。いい加減空気読んで、さっさと荷物まとめて消えてくれない?】
それを見つめる私の心は、見事なまでに麻痺していた。
【お望み通りにしてあげるわ】
たった一言だけそう返信し、栞奈のアカウントをブロックする。
もうじき永遠にお別れだというのに、これ以上こんな汚らしいもので目を塞がれたくない。
そんなに二人の熱い交尾を見せびらかしたいのなら、最高の舞台で手伝ってあげる。
私はこれまでのチャット履歴や送られてきた動画をきれいに一つのファイルにまとめ、USBメモリにエクスポートした。
そこでバスルームのドアが開き、髪を拭きながら出てきた朔也が、不意に後ろから私を抱きしめた。甘い石鹸の香りが鼻を突く。
「杏、そんな真剣な顔して何してるの?」
私は表情一つ変えることなくUSBメモリを引き抜き、ノートパソコンをパタンと閉じた。
そして、凪いだ声で淡々と答える。
「なんでもないわ。……結婚式であなたに贈る、特別なプレゼントの準備をしてただけ」
私の髪に軽く口づけを落とすと、朔也は期待に満ちた声を弾ませた。
「実は、俺も杏へのプレゼントを用意してるんだ。あと三日で結婚式だなんて……なんだかまだ夢を見ているみたいだよ」
そう。なら、あなたは一生その甘い夢から醒めない方がいいわ。
私は内心で冷たく嘲笑した。
翌朝。
私が目を覚ましたとき、すでに朔也の部屋に姿はなかった。
私は特に気に留めることもなく、自分の荷物をまとめてホテルを後にした。
だが、ホテルのエントランスを抜けて外へ出た、まさにその瞬間だった。
コントロールを失った黒いセダンが、猛スピードでこちらへ突っ込んできたのだ。
耳をつんざくブレーキ音と、激しい衝撃。
避ける間もなかった。私は呆気なく撥ね飛ばされ、数メートル先のアスファルトに直接叩きつけられた。
――どれくらいの時間が経ったのだろう。
重い瞼を開けると、鼻を突く消毒液の匂いと、無機質で真っ白な病室の天井が視界に飛び込んできた。
私が目を覚ましたことに気づき、ベッドの傍らにいた朔也が慌てて身を乗り出してきた。
「杏、気がついたか!?どこか痛むところはないか?」
ゆっくりと首を巡らせ、彼を見つめる。
朔也の目は真っ赤に充血していた。その表情は不安と恐怖に染まり、まるで自分が代わってやりたいとでも言わんばかりの痛々しさに満ちている。
そんな彼を見て、私はただ猛烈な吐き気を覚えた。
ねえ、朔也。いったいどっちのあなたが本物なの?
「どうした、どこか苦しいのか?待ってて、すぐに先生を呼んでくるから!」
私が無言でいることに焦ったのか、朔也が慌てて立ち上がろうとする。私は力のない手で彼の服を掴み、引き留めた。
「……どうして、ここにいるの?」
掠れた声で小さく尋ねる。
第8話
「夜、取引先と食事をしてたら、病院から君が事故に遭ったって連絡が来て……慌てて飛んできたんだ」
低く優しい声には、果てしない愛情と気遣いがこもっているように聞こえる。
私はわずかに視線を上げ、彼の目をまっすぐに見つめ返した。
「……取引先から、そのまま直行してきたの?」
「ああ、そうだよ」
そう答えた朔也の眉が微かに動き、声にほんの少しだけ隠しきれない動揺が混じった。
私はゆっくりと目を閉じ、それ以上は何も言わなかった。
朔也はそのままベッド脇に座り、私に付き添っていた。だが少し経つと、彼のポケットの中でスマホが震え始めた。
彼は画面を見てすぐに通話を切ったが、相手はしつこく何度もかけ直してくる。
ついにスマホをマナーモードに切り替えると、彼はうつむいたまま、ものすごい早さでメッセージを打ち始めた。
そして一分後。スマホの画面を見た朔也は、突然興奮したようにパッと顔を輝かせた。
「杏、ごめん。急な仕事のトラブルが入って……すぐ戻るから!」
それだけ言い残し、彼は逃げるように足早に病室を出て行った。
朔也が飛び出していったのとほぼ入れ違いに、ひどく険しい顔をした千晃が病室に入ってきた。
「杏さん、今のぼってくる途中、誰に会ったと思う?」
私がゆっくりと上体を起こし、「朔也?」と小さな声で尋ねると、千晃はあからさまに嫌悪感を込めた顔で頷いた。
「この病院の三階、産婦人科なんだけどね。エレベーターのドアが開いた瞬間、そこに朔也と栞奈がいたんだよ。
さすがに見過ごせなくて後をつけてみたら、栞奈のやつ、妊娠検査薬の陽性反応かエコー写真か何かを持っててさ。それを見た朔也が、耳まで裂けそうなほどデレデレに笑いながら『俺もついにパパか!』なんてはしゃいでたんだよ」
私はふっと動きを止め、視線を落とした。胸の奥がチクリとも痛まないことに自分で驚きながら、抑揚のない声で呟く。
「そう……彼女、妊娠したんだ」
私のあまりに淡々とした反応に、千晃は眉をひそめた。訝しげに顔を覗き込み、私の額にポンと手を当てる。
「……怒らないのか?それとも、熱で頭でもやられたか?」
私は力なく微笑み、血の気のない唇を開いた。
「久我さん、知らなかったんですね。……朔也は、子どもが作れない体質なんです。お医者さんからそう診断されてるんですよ」
一年前。結婚を前提としたブライダルチェックで、朔也は重度の無精子症だと診断された。
あの日、私は一睡もできずに泣き明かし、それでも「朔也が私を愛してくれているなら、一生子どもがいなくてもいい」と必死に自分を納得させたのだ。
朔也のプライドが傷つかないように、そして社長としての彼の立場が悪くならないように。私は医師に頼み込んで彼の診断結果を伏せてもらい、周囲には「私の体が弱く、妊娠できるよう体質改善の治療中」だと嘘をついて庇い続けてきた。
この三年間、私が一人で泥を被り、彼の自尊心を守るためにあれほど細心の注意を払ってきたというのに。
別の女が孕んだ「自分の子供ではない命」を前にして、あんなにも無邪気に喜んでいるだなんて。滑稽すぎて反吐が出る。
私の話を聞いた千晃は、面白そうに片眉を吊り上げ、いたずらっぽい目を向けた。
「杏さん。おれ、朔也に復讐する最高の方法を思いついちゃったかも。聞きたい?」
私が小さく頷くと、彼はニヤリと笑って続けた。
「栞奈がその正体不明のガキを無事に出産した直後に、朔也の『本当の検査結果』を送りつけてやるんだ。他人のガキだと知らずに浮かれてるアイツが、真実を知ってどう発狂するのか……見ものだと思わない?」
……
翌朝、朔也は病院に姿を見せなかった。
午後になって私の病室へやってきた秘書は、会社名義の譲渡手続きについての報告を終えた後、どこかためらいがちな視線を向けてきた。
「何かあるなら、はっきり言って」
少し眉をひそめて急かすと、秘書は恐る恐る口を開いた。
「実は……手続きに必要な書類を取りにご自宅へ伺った際、寝室から蝶野栞奈が、葉山様のパジャマを着て出てくるのを見てしまったんです。葉山様には普段から大変お世話になっておりますし、どうしても見過ごすわけにはいかず……」
足元からぞくりと冷気が這い上がり、私の表情は瞬時に凍りついた。
私が事故で入院している間に、栞奈はもう待ちきれずに私たちの家へ上がり込み、あろうことか私の寝室で寝泊まりしているというの?
どうりで事前の連絡で、朔也が「退院する時は絶対に前もって教えてくれ、必ず迎えに行くから」としつこく念を押してきたわけだ。鉢合わせを避けるための時間稼ぎだったのだろう。
「そう……教えてくれて、ありがとう」
私はテーブルに置いてあったスマホを取り上げ、自宅の監視カメラのアプリを開いた。
だが、画面は真っ暗だった。朔也のやつ、前もって監視カメラのレンズを塞いでいたのだ。
私は小さく舌打ちし、傍らに立つ秘書を見上げた。
「今日の夜、私が朔也を病院に呼び出すわ。蝶野さんのほうは、あなたが適当な人を手配して家から連れ出してちょうだい。二人が完全にいなくなった隙に、業者を入れて新しい監視カメラを見つからないように設置するの。絶対にバレないようにね」
「はい、承知いたしました」
深夜十時。すっかり遅い時間になってから、朔也が慌てた様子で病室にやってきた。
ベッドにいる私を見て安堵したように息をつき、わざとらしく申し訳なさそうな声を出した。
「杏、急に呼び出したりして……俺に会いたくなったのか?ごめんな、今日はどうしても忙しくて……」
「わかってるわ。結婚式の準備に追われてるんでしょ? だからこんな時間になっちゃったのよね」
私が淡々と遮るように言うと、朔也は一瞬きょとんとした後、嬉しそうに私の手を握って優しく撫でた。
「ははっ、やっぱり杏だな。俺のこと、本当によくわかってる」
ええ、わかってるわ。あなたが裏で何をしているのか、そのすべてをね。
目の前で愛をささやく彼を見つめながら、私は心の中でひんやりと吐き捨てた。
第9話
翌日。私がここから去るまで、残り三日。
朝早くに、朔也が保温ジャーを持って病室を訪れた。
「松本さんに頼んで作ってもらったんだ。君の好きな、かぼちゃのポタージュだよ。熱いうちに飲んで」
「ありがとう」
私は拒むこともなく受け取り、スプーンで少しずつポタージュを口に運んだ。
朔也が満足げに帰っていった後、今度は木村弁護士が病室を訪ねてきた。
「葉山さん、会社名義の譲渡契約が正式に発効いたしました。これで手続きはすべて完了となります」
「ありがとうございます」
手渡された書類を見つめながら、私はぽつりと呟いた。
「七年続いた身を切るような腐れ縁も……これでようやく終わりね」
タイムリミットまで、あと二日。
朔也は小さな花束と、安っぽいパワーストーンのブレスレットを持って病室へやってきた。
順調に回復している私を見て、彼は嬉しそうにそのブレスレットを私の手首に着けた。
「明日には退院できるね。昨日の夜、有名な神社でご祈祷してもらったんだ。厄除けのお守り代わりになるから」
手首の石を見つめ、私は微かに目を伏せた。
昨夜、栞奈が急な腹痛を訴え、朔也は慌てて彼女を病院へ連れて行ったはずだ。そしてその足で、わざわざ彼女のために「安産祈願のお守り」を買いに走ったのである。
このブレスレットは、そのついでに買われた適当な代物にすぎないのだ。
それを渡すと、彼はそそくさと病室を後にした。
タイムリミット最終日。
朔也が退院の迎えに来た。
車に乗り込むと、彼は甲斐甲斐しく私のシートベルトを締め、甘い声で囁いた。
「杏、今日が終われば、君は正式に俺の妻になるんだ。披露宴の準備はもう完璧だよ。今日の夕方六時から、時間通りに開くからね」
「ええ」
黒いセダンが高級住宅街へと入っていく。
三日ぶりに自分の家へと帰ってきた。家の中は私が入院した日と何一つ変わっておらず、栞奈が入り浸っていた痕跡など微塵も残っていない。
だが、寝室に入ると、ドレッサーの上に一本のリップが置かれているのが見えた。
何気なく視線を落とす。高級ブランドのそのリップは、すでに誰かが使用した形跡があった。わざとらしく置き忘れられたそれは、私に対する無言の宣戦布告のようなものだ。
寝室に長居する気にもなれず、使用人に食事の準備ができたと声をかけられて一階へ降りた。
ダイニングテーブルに着くと、朔也は自分の皿のステーキを細かく切り分け、フォークに刺して私の口元へと運んできた。
その所作はひどく甘く、優しさに満ちている。二日前に、栞奈の口に食事を運んでやった時のように。
私は自嘲気味に笑った。そして、深い愛情をたたえた朔也の瞳を見つめ、唐突に尋ねた。
「もしも……ただの、もしもの話だけど。私があなたの元から去っていく夢を見たら、悲しい?」
朔也はピタリと動きを止め、ひどく焦った様子で私の手を握りしめた。
「杏、悲しいどころの話じゃない。俺は生きていけなくなる。だから……絶対に俺から離れないでくれ」
私が口を開きかけた時、テーブルに置かれていた朔也のスマホが震えた。
ふと視線をやると、ポップアップ画面には栞奈からのメッセージが表示されていた。
【どうしよう、流産しちゃうかも……お腹がすごく痛い、赤ちゃんに何かあったら……】
朔也の目に明らかな焦りの色が走り、彼は慌てて席を立った。
「杏、ごめん。式場の設営でちょっとトラブルがあったみたいで、今すぐ行かなきゃならなくなった。後で必ず迎えに来るから!」
背を向けて立ち去ろうとする彼の手を、私はふいに引き留めた。
そして、真っ直ぐに彼を見つめ、静かに微笑みかけた。
「……さようなら」
朔也はビクッと体を震わせ、勢いよく振り返った。
かつての私なら、彼を見つめる瞳にはあふれんばかりの熱い愛が宿っていたはずだ。だが今の私の目は、ただ荒涼とした冷たさだけを映している。
その静けさに、彼は何か嫌な予感を感じ取ったようだった。
「杏、君……」
朔也が言いかけた瞬間、ポケットに突っ込んだスマホが再びけたたましく震え始めた。
彼は一瞬だけ迷ったものの、焦燥感に勝てなかったのか、急き立てられるように足早に家を出ていった。その後ろ姿はひどく狼狽していた。
私は寝室に戻り、用意しておいたパスポートと必要な書類をすべてバッグに詰め込んだ。あの安っぽいブレスレットは迷うことなく外し、ゴミ箱へ放り捨てる。
そして、秘書に電話をかけた。
「朔也は蝶野さんのところへ行ったわ。夜は予定通りに決行して。……ああ、それから。必ず蝶野さんにも『彼女のための結婚式』の招待状を送ること、忘れないでね」
「はい、承知いたしました」
一時間後。私は移動中のタクシーの中から、朔也にメッセージを送った。
【迎えには来なくていいわ。私一人で式場に向かうから】
もちろん、行くはずなどない。
だが、私が式場に向かっていると朔也に思い込ませ、彼を祭壇の前で待たせておかなければならない。そうしてはじめて、秘書が栞奈を呼び出し、予定通りあの『不倫暴露パーティー』を幕開けさせることができるからだ。
それから三十分後。
私は、伯母の会社を引き継ぐため、海外へと向かう飛行機の搭乗待合室にいた。
搭乗ゲートへ向かう前、私はスマホからSIMカードを抜き取り、ゴミ箱へと落とした。
「永遠にさようなら、朔也」
今日から私の新しい人生が始まる。そして――あなたが私を見つけることは、もう二度とない。