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叶わない結婚式
婚約者の皆川貴也(みながわ たかなり)は、確実に会社の筆頭株主になれるよう、私に候補者から身を引き、手元にある5%の持ち株を譲るよう求め...
Chương (1)
第1章
婚約者の皆川貴也(みながわ たかなり)は、確実に会社の筆頭株主になれるよう、私に候補者から身を引き、手元にある5%の持ち株を譲るよう求めてきた。その代わり、事が済んだら最高の結婚式を挙げると約束してくれた。
私は受け入れた。けれど翌日、彼がずっと憧れている女・小林由美(こばやし ゆみ)が、一通の株式譲渡書をSNSに載せているのを目にした。
譲渡人の欄に記されているのは、間違いなく貴也の名前だ。
二秒ほど呆然とした後、【プロポーズされたみたいだね。式はいつかしら】と、何気なくコメントを残した。
由美はすっかり取り乱し、22階から飛び降りると騒ぎ出した。
貴也は彼女をなだめるために、私にすぐさまコメントを削除し、彼女への謝罪をSNSに投稿するよう迫った。おまけに、私の給料三ヶ月分を彼女への慰謝料として差し出せという。
職場の人たちはひそひそと囁き合い、私が笑いものになるのを手ぐすね引いて待っている。
私は冷ややかに笑い、SNSで謝罪しただけでなく、手掛けていたプロジェクトまで自ら進んで由美に譲り渡した。
貴也は私の物分かりの良さに満足したようで、嬉しそうに言った。
「半月後の結婚式では、君を誰よりも幸せな花嫁にしてみせる。ご褒美に、世界一周の新婚旅行にも連れて行ってあげる」
けれど彼は知らない。あの5%の株を求めた瞬間から、もうこの結婚式は存在しないのだということを。
第1話
婚約者の皆川貴也(みながわ たかなり)は、確実に会社の筆頭株主になれるよう、私に候補者から身を引き、手元にある5%の持ち株を譲るよう求めてきた。その代わり、事が済んだら最高の結婚式を挙げると約束してくれた。
私は受け入れた。けれど翌日、彼がずっと憧れている女・小林由美(こばやし ゆみ)が、一通の株式譲渡書をSNSに載せているのを目にした。
譲渡人の欄に記されているのは、間違いなく貴也の名前だ。
二秒ほど呆然とした後、【プロポーズされたみたいだね。式はいつかしら】と、何気なくコメントを残した。
由美はすっかり取り乱し、22階から飛び降りると騒ぎ出した。
貴也は彼女をなだめるために、私にすぐさまコメントを削除し、彼女への謝罪をSNSに投稿するよう迫った。おまけに、私の給料三ヶ月分を彼女への慰謝料として差し出せという。
職場の人たちはひそひそと囁き合い、私が笑いものになるのを手ぐすね引いて待っている。
私は冷ややかに笑い、SNSで謝罪しただけでなく、手掛けていたプロジェクトまで自ら進んで由美に譲り渡した。
貴也は私の物分かりの良さに満足したようで、嬉しそうに言った。
「半月後の結婚式では、君を誰よりも幸せな花嫁にしてみせる。ご褒美に、世界一周の新婚旅行にも連れて行ってあげる」
けれど彼は知らない。あの5%の株を求めた瞬間から、もうこの結婚式は存在しないのだということを。
……
謝罪文を投稿してから三分も経たないうちに、コメントは99件を超えた。
由美からDMが届き、私を嘲笑ってきた。
【洲本、あなたが私より勝ってるのは、運良く私より先に貴也に出会えたことくらい。それ以外、何一つ私には敵わないわ。
私がちょっと泣きついただけで、彼はすぐにあなたに謝らせたでしょう?
婚約していようがいまいが関係ない。私が嫌だと言えば、あなたたちは絶対に結婚なんてできないんだから】
言い終えると、彼女は自慢げに貴也が気晴らしに連れ出してくれるという報告と共に、一枚の写真を送ってきた。それはパリ行きの航空券だ。
スマホの画面を消そうとした時、通知欄に由美のコメントが表示された。
【皆さん、どうか洲本部長を責めないでください。私にも至らない点がありましたので……】
一分も経たないうちに、貴也がそのコメントに返信した。
【何でも自分のせいにするのはおよし。今回の件は、どう考えてもせりなに非があるんだから】
職場の人たちも口々に私を非難し始めた。私の謝罪文は形だけで、行間から由美への不満と皮肉が透けて見えるというのだ。
誰かが私をメンションしてきたが、無視した。
しばらくすると、貴也から問い詰めるような電話が何度もかかってきた。
由美をどこまでも甘やかす彼に呆れ、私は静かにスマホの電源を切り、鳴り止まない着信音を遮断した。
貴也とは幼い頃に婚約を交わし、皆川グループの株式5%を譲渡してもらう代わりに、私が皆川家に嫁ぐことが決まっていた。
けれど、彼がずっと憧れている由美が会社に入ってきてからというもの、彼の視線は完全に彼女に奪われてしまった。
由美が欲しがるものは何でも、貴也は惜しみなく彼女に捧げた。たとえそれが、私が何ヶ月も心血を注いできたプロジェクトであっても、彼女の機嫌を取るための贈り物にされてしまうのだ。
ほどなくして貴也が急に帰宅し、部屋に入るなり「出張に行くから着替えを数着用意してくれ」と私に言いつけた。
由美が送ってきたパリ行きの航空券を思い出し、私は思わず皮肉を口にした。
「それはお仕事?それともお遊びかしら」
貴也は私の口調に棘があるのを感じ取り、由美への謝罪の件で拗ねているのだと思い込んだ。
彼は眉をひそめて言った。
「洲本せりな(すもと せりな)、もともと君が悪かったんだろう。怒るなんて筋違いだ!俺が間に入って取りなしてやらなければ、君は今頃社員たちに会社を追い出されてた。
今回は会社にとって非常に重要なプロジェクトだ。俺が直々に行かなければならない。安心してくれ、用が済み次第すぐに戻る。結婚式には絶対に間に合わせるから」
私が黙っていると、彼は自分の言い分が理解され納得されたと勝手に解釈し、機嫌を取るように今回のお土産は何がいいかと尋ねてきた。
以前の出張では、彼はいつも現地の特産品を買ってきてくれた。お土産を受け取るたび、私は心の底から喜んでいた。
けれど後に偶然知ってしまったのだ。彼が持ち帰るお土産はすべて、まず由美に渡し、彼女がいらないと言ったものや、気に入らなかったものの残り物だったということを。
そこまで思い至り、私は淡々と答えた。
「何でもいいわ」
私が興味なさそうにしているのを見て、貴也は使用人に着替えの用意を任せると、執事から差し出されたギフトボックスを受け取った。
第2話
貴也はそのギフトボックスを私に差し出した。
「株を譲ってくれたお礼だ。ご褒美だぞ」
ちらりと目をやると、それは真珠のブレスレットだ。めったに見られない高品質な真珠が連なっている。
けれど、そのブレスレットは数日前に由美の手首で光っていたものと同じだ。
つまり彼は、偽物を「ご褒美」として私に与え、お茶を濁そうとしているのだ。
私がふと笑みをこぼすと、贈り物を気に入ったと勘違いした貴也は、その場で私の手首にそれをはめようとした。
彼がブレスレットを手に取った瞬間、私は無意識にその手を避けた。
彼は一瞬呆然とし、どこか落ち着かない様子で言った。
「……気に入らなかったかい?」
私は彼の瞳の奥に潜む後ろめたさを見逃さなかった。しばらくして、静かに一言だけ返した。
「高すぎるわ」
それを聞くと、貴也は目に見えて安堵した。私を慰めようとしたその時、彼のスマホがけたたましく鳴り響いた。
画面を確認した彼は慌ててファミリークロゼットを出て、電話に出た。
繋がった瞬間、由美の急かすような声が聞こえてきた。
「貴也、早く降りてきて。待ちくたびれちゃった……」
その様子を見届けた私は、ブレスレットを無造作に引き出しの中へ放り込んだ。
それを見ていた執事の真鍋功一(まなべ こういち)は、息を呑んだ。
「洲本様、あんなに旦那様からの贈り物を大切にされていたのに、今はどうして……」
大切にしていたどころではない。貴也から贈られたものは、まるで壊れ物のように扱い、誰にも触らせないほどの宝物にしていた。
けれど、彼が由美を家に連れてくるようになってから、私に贈ったものを彼女に好きなだけ選ばせるようになった。
そのことで言い争ったこともあるけれど、彼は私を「心が狭くてわがままだ」と責め立て、由美にはもっと高価なものを買い与えていた。
貴也はすぐに電話を切り、功一から荷物を受け取ると、足早に立ち去った。
「急いでるんだ。それと、前に注文したウェディングドレスの確認を忘れないでくれ。式の準備に支障が出ないように」
去り際、彼は私を抱きしめようとしたが、私は一歩下がってそれをかわした。
彼は驚いた表情で私を見ると、何か言いかけた。だが、外で待っている由美のことが気になっているのだろう。気まずそうに手を下ろすと、使用人から受け取った上着を羽織り、慌てて家を出て行った。
私は窓辺に立ち、彼が甲斐甲斐しく由美のために車のドアを開け、満面の笑みを浮かべて車の中に乗り込む姿を眺めている。
あの車は、貴也が私にくれた初めての贈り物だった。
彼の真心を踏みにじりたくなくて、私はもったいなくて乗れず、ずっとガレージに眠らせていたものだ。
ところが、それを見つけた由美が欲しがると、貴也は二つ返事で彼女に与えてしまった。
その時、彼は私にこう言った。
「君はどうせ免許を持ってないから、宝の持ち腐れだろう。由美にあげたほうがいい。彼女の家は会社から遠いし、ちょうど通勤に使えるから。
彼女が活躍すれば、会社のためにもなるんだ。君が免許を取ったら、もっといい車を贈る」
私は、由美が車のキーを受け取り、貴也に甘えてドライブに誘う様子を黙って見つめていた。
ため息を漏らしながら、自嘲気味な笑みがこぼれた。本当は、運転免許ならずっと前に取得しており、枕元の引き出しの中にしまってあったのだ。
ただ、貴也は私に関心がないから、一度もその引き出しを開けることはなかった。
屋敷から遠ざかる車を見送った後、私はスマホを取り出し、ある場所に電話をかけた。
「以前注文していたペアリングですが、キャンセルをお願いします。
……ええ、承知しています。手数料はきちんと支払いますから」
それは元々、結婚式当日に貴也を喜ばせるために用意していたサプライズの贈り物だった。
けれど、もう必要なくなるだろう。
翌日、私は退職願を用意して会社へ向かった。
出社するとすぐに、社員たちの冷ややかな視線が突き刺さった。
それにはもう慣れていたので、平然と自分の席に着いた。
周囲のあからさまに悪い態度を見ると、由美がまた何か吹き込んだに違いない。
普段から由美は陰で私の悪口を言いふらしている。最初は放っておけばいいと思っていたが、誤解はますます深まり、下手に弁明すれば言い訳と受け取られた。今ではもう説明するのも馬鹿らしくなり、好きなように言わせている。
お茶を淹れている間に、スマホの通知が由美からのメッセージで埋め尽くされた。ゆうに99件は超えている。
中身を見なくても察しがつく。彼女と貴也の仲睦まじいツーショット写真のオンパレードに違いない。
写真の右下にあるタイムスタンプは、日付と時刻を表示している。彼女がよくもまあ一日中欠かさずに写真を撮りまくれるものだ。
第3話
貴也にあれほど我慢強い一面があったなんて、今まで一度も気づかなかった。彼と何年も一緒にいたが、私にはそんな一面を一度も見せてくれなかったからだ。
あんなに心の底から笑う彼も、見たことがなかった。
どの写真の中でも、彼は明るく笑っている。私が知らない彼の姿だ。
以前、私は吟味して選んだカメラを手に、数ヶ月かけて写真を学んだことがあった。彼の誕生日にサプライズを贈ろうと思ったのだ。
それなのに、彼はその場で顔をこわばらせ、厳しい口調で言い放った。
「俺は昔から写真を撮られるのが大嫌いだ。俺の婚約者なら、そんなことくらい分かってるだろう?
せりな、俺のことを理解してるふりはやめてくれ。吐き気がする」
そのせいで、彼は一ヶ月もの間、私を無視し続けた。
その後、私が二ヶ月間休みなく彼のプロジェクトをこなし、彼の副社長昇進を支えたことで、ようやく話をしてくれるようになった。
愛しているかどうかは、本当にはっきりしている。
愛していれば、相手の好みや嫌いなものもすべて覚えており、たとえ気に入らなくても相手の真心を大切にするものだ。
そう思い、私はスマホをしまい、そのまま人事部に退職願を提出した。
手元の仕事を引き継ぐために書類に目を通したが、残っている量はそれほど多くない。
元々いくつかのプロジェクトを抱えていたが、少し前に貴也が由美の機嫌を取るために、それらを彼女に渡してしまったからだ。
おかげで、引き継ぎ作業に時間はかからなかった。
書類を整理していると、企画部の係長がボツになった入札書を手にして詰め寄ってきた。
「洲本部長、このプロジェクトの入札はずっと君が担当していたはずです。クライアントから不備を指摘されたんですが、納得のいく説明をお願いします」
周囲の社員たちは、日頃から由美がいかに私にいじめられているかを聞かされていた。彼らは正義を振りかざす絶好の機会だとばかりに、私を追い詰めたくてたまらない様子だ。
「部長、こんな大事なプロジェクトを台無しにしていいんですか?皆川社長がどれほどこれを重視していたか、ご存じないのですか?」
「どうして部長に入札を任せたのでしょうか。小林係長が担当していれば、きっとこんな結果にはなりませんわ」
「部長の給料で損失を賠償しきれると思います?」
「賠償ですか?払えるわけがありません。さっさと辞めていただくのが一番です」
私は周囲の言葉を無視し、入札書の表題に目を向けて冷笑した。
「この入札の担当は私ではなく、小林さんです」
日頃から由美にへつらっている取り巻きの作左部彩(さくさべ あや)が言った。
「あら、しらばっくれるつもりですか?部長はどこまで恥知らずなんでしょう。
これは間違いなく部長が担当しました。今さら小林係長に罪をなすりつけようだなんて、私たちを節穴だと思っているのですか?」
他の社員たちも口々に同調した。
そこへ人事担当の荒木洋子(あらき ようこ)がやってきて、退職願が受理されたことを告げた。
彩は勝ち誇ったような表情で吐き捨てた。
「今さら辞めるなんて、もう遅いです。会社の損失をどう償いますか?皆川社長にどう落とし前をつけますか?じっくり考えたほうがいいですよ!
部長みたいな厄病神は、もっと早く追い出すべきでした。小林係長が優しくて、部長がクビにならないようずっと社長の前で庇っていたから、今まで居座れただけなんです」
彼女が言い終えるとすぐに、他の社員たちも、厄病神に会社の空気を汚されてはたまらないと、私を追い出すことを提案した。
数分もしないうちに、私の荷物は黒いゴミ袋に雑に詰め込まれ、ゴミのように会社の入り口に放り出された。
先頭を切る彩は、私がまだその場に立ち尽くしているのを見て、蔑むように言った。
「部長、ここまでされて、まだ私たちに手を出そうというのですか?」
得意げな彩の顔を見つめた。こんな日和見主義の女が、私の前で威張り散らすなんて。
彼女の頬を二度打ち、呆然とする社員たちを後にして、会社を去った。
……
数日後、再び由美からツーショット写真が送られてきた。自慢げなメッセージも添えられている。
【そういえば、貴也とずっと一緒にいて、写真を撮ったことはあるの?
でも、彼のところで洲本との写真を一枚も見たことがないわ。まさか、普通のツーショットすら一枚も撮ったことがないなんて言わないよね】
第4話
由美を相手にするのも馬鹿らしくてブロックしようとしたが、うっかり送られてきた写真を開いてしまった。
驚いたことに、彼らが撮影していたのはウェディングフォトだ。
視界が暗くなった。つまり、貴也が結婚しようとしている相手は、由美だというのか。
ふと思い出した。結婚式が間近に迫っているのに、私と貴也のウェディングフォトはまだ目処が立っていなかった。
以前から彼に相談していたが、彼はいつも仕事が忙しいと言って、撮影に行く時間を渋っていた。
けれど実際には、その忙しいはずの時間を使って、由美を連れ出し、気晴らしをさせていた。
そこへ母から、式の準備の進み具合を確認する電話がかかってきた。
「せりな、いいかい。隅々までしっかり確認するのよ。手落ちがあって皆川家に恥をかかせるようなことがあってはならないわ。
何か手伝いが必要なら言ってちょうだい。一人で抱え込まないでね。うちは落ちぶれたとはいえ、誰かに馬鹿にされていい家柄ではないのだから」
母の声を聞きながら、由美の隣で高級タキシードに身を包み、満面の笑みを浮かべる貴也の姿が頭に浮かんだ。私は淡々と告げた。
「お母さん、私、この結婚はやめるわ」
母はまた私が貴也と喧嘩でもしたのだと思い、なだめるように言った。
「せりな、貴也さんはいい人よ。少しは彼の気持ちを考えてあげたらどう?もうすぐ夫婦になるっていうのに、不機嫌な顔をして式に臨むつもりなの?」
――気持ちを考えてあげる?
この数年、私がどれほど彼の気持ちを考えてきただろうか。彼は何度も由美の機嫌を取るために、私のプロジェクトを奪い、さらに何度も由美と二人きりで旅行に出かけた。
私がもっと彼の気持ちを考え、思いやりを持っていれば、いつか彼は変わると信じていた。けれど、結果はどうだ。彼はますます図に乗り、あろうことか由美とウェディングフォトまで撮った。
今度こそ、自分の気持ちを優先する。
私が黙り込んでいると、母は適当に諭して電話を切った。
しばらくして、功一がやって来て、以前注文したウェディングドレスとタキシードが届いたと告げた。貴也は一足先に店へ向かっており、私にもすぐ来るようにと言っているらしい。
私は少し驚いた。貴也は式の当日まで戻らないだろうと思っていた。普段、出張に行くと二週間は帰ってこないからだ。
まさか、彼はこの結婚式を大切にしているのだろうか。
けれど本当に大切にしているのなら、なぜ少しも協力せず、すべてを私に丸投げしたのか。
自嘲気味にその考えを振り払うと、ガレージから車を出してドレスショップへと向かった。
店の入り口に着くとすぐに、由美と貴也の言い争う声が聞こえてきた。
由美が貴也を問い詰めている。
「どうして洲本と結婚しなきゃいけないの?あの言葉だけの婚約に何年も縛られて、一生を彼女に捧げるつもりなの?
貴也が好きなのは私でしょう?私と一緒にいる時の貴也は、あんなに幸せそうなのに!
貴也が苦しむ姿なんて見たくない。どうしても彼女と結婚すると言うのなら、私は目の前で死んでやるわ」
貴也はそれを聞き、一瞬言葉を失った。
彼がまだ迷っているのを見て、由美は狂ったようにナイフを掴んで、自分の手首に当てた。
それを見た貴也は顔色を変え、慌ててナイフを奪い取ると、自分の服を脱いで彼女の手首を強く押さえた。
由美は貴也を突き放し、激昂して叫んだ。
「止めないで!死なせてよ!そうすれば、貴也が日々苦しむのを見なくて済むから」
彼女がまた無茶をするのを恐れた貴也は、必死に頷いた。それを見た由美は、一転して嬉し泣きを始めた。
貴也が手当てのために病院へ連れて行こうとすると、由美はそれを遮って言った。
「式の当日に、みんなの前で宣言して。本当の花嫁は私だって。洲本は貴也に執着してる狂った女だって。彼女に思い知らせてやりたいの」
貴也は、彼女の手首から溢れ出る血が止まらないのを見て、焦りながら何度も頷いた。
その光景を見届け、私は静かに店を後にした。指にはめていた指輪を外し、道端のゴミ箱に投げ捨てた。
それは、かつて付き合い始めた頃に貴也から贈られたものだった。
……
家に着くとすぐに、台所からレシピを読み上げる音声が聞こえてきた。
リビングはひどい有様で、食材があちこちに散乱している。
台所で手際悪く立ち往生している男の背中が見えた。貴也は、由美のために栄養のあるスープを作ろうと、一晩中研究していたらしい。
第5話
貴也は私に気づくと、ぱっと目を輝かせた。
「せりな、スープ作りが得意だっただろう?ちょっと教えてくれないか。由美に飲ませるスープを作りたいんだ。味にはこだわりがないから、体にいいやつだけでいい」
生き生きとした彼の表情を見て、私は思わず呆然としてしまった。
かつて、私が手元にある5%の株を譲ると受け入れた時も、彼はこんな風に私を見ていた。
まさか、あの時も今も、由美のことを考えているなんて。
私は赤く火傷した彼の手の甲を一瞥し、冷ややかに告げた。
「家にはスープ作りが得意なシェフもいるのだから、わざわざ貴也が手を下さなくてもいいでしょう」
言い終わる前に、彼は遮るように急かした。
「分かってないな。自分の手で作るからこそ、心がこもるんじゃないか」
その言葉を聞いて見上げると、彼の瞳はキラキラと輝いている。
かつて私も、彼の体を気遣い、心を込めてスープを作ったことがあった。
家の者たちに、将来の奥様らしくない、まるで使用人のようだと言われても、私は一言も漏らさなかった。
なのに貴也は少しも喜ばず、私を言葉で責め立てただけでなく、煮えたぎるスープを私の足に浴びせかけたのだ。
そこには今も、消えることのない火傷の跡が残っている。
思わず二歩ほど身を引くと、貴也は私が意地を張って教えるのを拒んでいると思い込んだ。
彼の顔色がさっと変わり、冷たい視線を向けてきた。
「せりな、まさかまだあの謝罪の件で根に持ってるのか?
式の後、世界一周に連れて行くと約束しただろう。
それに、三日後には俺たちの結婚式だ。その日は、最高に幸せな一日にしてみせるから」
私は相手にせず、背を向けて二階へ上がった。
貴也は怒りを爆発させ、手に持っていた調理用スプーンを私に向かって投げつけた。それは私の背中にまともに当たった。
その後もしばらく一人で頑張っていたようだが、結局スープは完成せず、彼はさらにひどい火傷を負ったようだ。
一階に降りると、功一が甲斐甲斐しく貴也の手当てをしている。
私を見るなり、貴也は苦虫を噛み潰したような顔で罵った。
「君はどこまでいっても由美には敵わないな。彼女なら、俺にこんな惨めな思いはさせない!
彼女は……」
言葉の途中で、私は冷たく言い放った。
「それなら結婚式なんて取りやめにしよう。どうせ、貴也が結婚したい相手は私じゃないのでしょう?」
貴也は勢いよく立ち上がったが、その拍子に包帯がずり落ち、水ぶくれだらけの腕が露わになった。彼は目に涙を浮かべて叫んだ。
「せりな、今の言葉……もう一度言ってみろ!」
由美のためにここまで自分を追い込めるのかと、私は一瞬呆然とした。深く息を吐き出し、言葉を続けた。
「別れよう。結婚も白紙に。もう一度言う必要があるかしら?」
貴也は信じられないという様子で、私が気を引こうとして駆け引きをしていると決めつけ、嘲笑った。
「せりな、そもそも結婚式を挙げたいと言い出したのは君だろう。今さら中止だなんて、そう言えば俺が少しは君を気にかけるとでも思ってるのか?夢を見るのもいい加減にしろ」
言い争う気も失せ、私はスーツケースを引きずって家を出た。その足で、今夜の便で出国するための航空券を手配した。
出発の直前、私は結婚式の冒頭で流す予定だったウェディングフォトの代わりに、自分語りのビデオを用意して功一に託した。これは、私から貴也への最後の贈り物だ。
功一はそれを私からのサプライズだと思い込み、式当日に必ず流すと約束してくれた。
彼は少し言い淀んだ後、貴也が私に物を投げつけたことを思い出したのか、心配そうに尋ねた。
「洲本様、お背中の傷は……大丈夫ですか?」
私は一瞬驚き、それから微笑みながら首を横に振った。
貴也は腹を立てると、すぐ近くにある物を投げつけてくる。手加減は一切しない。この数年で、私はそんなことにすっかり慣れてしまっていた。
それに、さっきのことなら、もう痛みすら感じないのだ。
窓の外で搭乗を待つ人々を眺めながら、貴也にボイスメッセージを送った。
「貴也、少し早いけれど、小林さんとの結婚おめでとう。
私からの贈り物、気に入ってもらえるといいわね」
送信した後、なかなか既読がつかないのを見て、ふと思い出した。彼にはとうの昔にブロックされていたのだ。
機内に離陸を告げるアナウンスが流れた。
機体がゆっくりと地面を離れていくのを眺めながら、消えゆく街並みを見つめ、私はスマホに向かって微笑んだ。
「さようなら、貴也」