元カレの義姉になりました

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神崎煌(かんざき こう)は、界隈で知らぬ者のない放蕩な御曹司だった。危険なレース、喧嘩、命知らずな遊び。無茶と呼ばれるものなら、ひと通...

Chương (1)

第1章

神崎煌(かんざき こう)は、界隈で知らぬ者のない放蕩な御曹司だった。危険なレース、喧嘩、命知らずな遊び。無茶と呼ばれるものなら、ひと通りやり尽くしていた。 だが、白川冬美(しらかわ ふゆみ)と出会ってから、暴れ馬のようだった煌は嘘のように大人しくなった。 冬美が「血が怖い」と言えば、煌は二度と喧嘩をしなくなった。冬美が「あなたに何かあったら怖い」と言えば、愛してやまなかったスピードとスリルさえ、あっさり手放した。 界隈の誰もが噂した。煌は今度こそ本気で落ちたのだと。あの清らかで無垢な冬美を、どうしようもないほど愛しているのだと。 けれど5年が経っても、煌は冬美にちゃんとした立場を与えなかった。 煌のそばに寄り添って5年目のある日、冬美のもとへ、煌の仲間から突然電話が入った。 「冬美さん!今すぐ来てくれ!煌が完全にイカれた。幻影峠を走る気だ!」 第1話 神崎煌(かんざき こう)は、界隈で知らぬ者のない放蕩な御曹司だった。危険なレース、喧嘩、命知らずな遊び。無茶と呼ばれるものなら、ひと通りやり尽くしていた。 だが、白川冬美(しらかわ ふゆみ)と出会ってから、暴れ馬のようだった煌は嘘のように大人しくなった。 冬美が「血が怖い」と言えば、煌は二度と喧嘩をしなくなった。冬美が「あなたに何かあったら怖い」と言えば、愛してやまなかったスピードとスリルさえ、あっさり手放した。 界隈の誰もが噂した。煌は今度こそ本気で落ちたのだと。あの清らかで無垢な冬美を、どうしようもないほど愛しているのだと。 けれど5年が経っても、煌は冬美にちゃんとした立場を与えなかった。 煌のそばに寄り添って5年目のある日、冬美のもとへ、煌の仲間から突然電話が入った。 「冬美さん!今すぐ来てくれ!煌が完全にイカれた。幻影峠を走る気だ!」 …… 冬美は指先を震わせ、スマホを床に落とした。 ガタン、という乾いた音が足元で跳ねた。 幻影峠の魔のコース。そこは、煌がかつて命を削るように走っていた場所だ。冬美と付き合い始めてから、煌は二度とそこへ近づかなかった。 冬美が駆けつけた時、コース脇にはすでに大勢の人だかりができていた。 冬美は人波をかき分けて前へ出た。だが、目の前の光景を見た瞬間、足がその場に縫い止められた。 白いワンピースを着た若い女性が、煌の腰にしがみついている。目元は泣きはらしたように真っ赤だった。 「あのネックレス、もういらない。だから行かないで……」 煌は彼女を見下ろし、冬美がよく知る、あの奔放で不敵な笑みを口元に浮かべた。 「いい子だ。ゴールで待ってろ」 そう言い残し、煌は振り向いてスポーツカーに乗り込んだ。 エンジンが唸りを上げた瞬間、冬美の心臓が重く沈んだ。 冬美は車へ駆け寄り、窓を叩いた。 「煌!行かないで!あのコースは……」 窓が下りた。煌は冷えきった横顔のまま、短く告げた。「どけ」 たった一言が、冬美の全身を凍りつかせた。 次の瞬間、車は放たれた矢のように飛び出した。 「狂ってる!煌のやつ、完全にイカれてる!」 「あのスピード……死ぬ気かよ!」 「ネックレス一つで、そこまでやるか!?」 周囲のどよめきが耳を刺した。 冬美は両手を固く握りしめ、いつ崖下へ消えてもおかしくない車の影を、瞬きもできずに見つめていた。 かつて煌は、冬美が「怖い」と一言こぼしただけで、愛してやまなかったスピードもスリルもあっさり手放した。 それなのに今、別の女性を笑顔にするためだけに、命すら投げ出そうとしている。 最後の急カーブ。煌は減速するどころか、さらにアクセルを踏み込んだ。タイヤが白煙を噴き、車体が横滑りしながら、真っ先にゴールラインを駆け抜けた。 「勝ったぞ!」 人々の歓声が一斉に弾けた。 しかし、凄まじい勢いを殺しきれなかった車は、そのまま制御を失った。 次の瞬間、車体がガードレールに激突した。 「煌!」 「おい、煌!」 その場にいた全員が青ざめ、事故車へ向かってなだれ込んだ。 冬美は膝から力が抜けそうになりながらも、よろめく足で人々の後を追った。 大破した運転席から、煌がどうにか這い出してきた。額から血が流れているのに、痛みなど感じていないようだった。 煌はベルベットの小箱を握りしめ、駆け寄ってきた仲間に差し出した。 「これ、凛に……早く、誰かあいつを先に送ってやれ……血を見ると倒れるから……」 言い終える前に、煌の体がぐらりと傾いた。 そのまま意識を失った。 周囲の者たちは慌てて煌を受け止めた。数人が怯えきった相沢凛(あいざわ りん)を先にその場から連れ出し、残りの大勢が煌を抱え上げ、病院へ急いだ。 冬美は一言も発さないまま、黙って車に乗り込んだ。 煌が救命処置室へ運ばれてから、時間はひどく遅く流れた。 一分一秒が、じりじりと肌を焼かれるように苦しい。 突然、処置室の扉が開いた。看護師が血相を変えて飛び出してきた。 「大変です。患者さんの出血が止まりません!Rhマイナスで、院内の血液の在庫が足りないんです!」 Rhマイナス?! 煌の仲間たちは一斉に騒然となった。誰もが慌ててスマホを取り出し、心当たりへ連絡を入れ始めた。 その時、静かで冷たい声が響いた。 「私がRhマイナスです。私の血を採ってください」 全員が驚いて振り返った。 廊下の隅に、冬美が立っていた。顔色は蛍光灯の光よりも白く、生気を失っていた。 仲間たちは顔を見合わせた。その目には、隠しきれない気まずさが浮かんでいた。 「冬美さん……」 冬美は相手の言葉を遮った。 「採ってください。人命が最優先です」 その声に迷いはなかった。 冬美はそのまま看護師の後について、採血室へ向かった。 針が血管に入った瞬間も、冬美は眉ひとつ動かさなかった。 看護師が心配そうに冬美の顔を覗き込んだ。 「すでに600cc抜いています。これ以上の採血は危険です」 冬美の声はかすれていた。それでも、はっきりとしていた。 「続けてください。彼に必要な分だけ……採ってください」 赤い血がチューブを伝って流れていく。 冬美の視界は少しずつぼやけた。 1000ccに達したところで、ようやく煌に必要な血液が確保された。 同時に、冬美も限界を迎え、そのまま意識を失った。 再び目を覚ました時、冬美は病室のベッドに横たわっていた。 窓の外はすでに暗い。煌がどうなったのか、まだ分からない。 冬美は無理やり体を起こした。壁に手をつきながら、ゆっくりと煌の病室へ向かった。 病室の扉の前まで来たところで、中から話し声が聞こえた。 「煌、前は冬美さんのこと、かなり気に入ってたじゃねえか。なのに、どうして急に凛さんのためにあんな無茶をしたんだよ。 今回、冬美さんがどれだけ血を抜かれたか知ってるか?あの人、お前のこと本気で愛してるんだぞ。もう心変わりしたなんて、俺からはとても言えねえよ」 煌は頭に包帯を巻いていた。 それでも、あの大胆不敵な雰囲気は少しも薄れていない。煌はライターを指先で弄りながら、気怠げにベッドの背へもたれていた。 「前は確かに冬美のことを気に入ってた。でも、どこか物足りなかったんだ。凛に会って、ようやくこれだと思えた」 あっけらかんとした口調だった。 けれど、その一語一語が鋭い刃となって冬美の胸を抉った。 「あんなに胸がドキドキするは初めてだ。冬美と一緒にいる時は、一度も感じたことがなかった」 仲間たちは息を呑んだ。 「でも、冬美さんは5年も一緒にいたんだぞ。本当に……捨てるのか?」 煌は短く答えた。「ああ。いらない」 その冷酷な言葉を耳にした瞬間、扉の外で冬美の手が近くの消火栓に触れた。 かすかな金属音が鳴った。 「外に誰かいるのか?」 「まさか冬美さんじゃないよな?」 「ありえねえよ。冬美さんなら、煌の話を聞いた時点で泣きながら飛び込んでくるだろ。どうせ風の音か何かだ。放っとけ」 扉の外で、冬美は口元を覆っていた手をゆっくり下ろした。 だが、彼らが想像したような苦痛の表情はどこにもなかった。 冬美の顔は不思議なほど静かだった。涙も一滴も流していなかった。 彼女は黙って背を向けた。 それからスマホを取り出し、暗記している番号へ電話をかけた。 すぐに通話が繋がった。 低く、冷ややかな男の声が耳に届いた。 「もしもし」 冬美は静かに告げた。「社長。煌さんに、もっと好きな女性ができました。私ではもう、彼を繋ぎ止めておくことはできません」 電話の向こうで、神崎迅(かんざき じん)はしばらく沈黙した。 迅ほどの情報網があれば、弟が一人の女性のために大金を使い、命がけで車を走らせたことなど、とっくに把握しているはずだ。 やがて、迅が淡々と口を開いた。 「分かった。この5年間、ご苦労だった。2億円を君の口座に振り込んでおこう」 冬美は短く礼を述べた。「ありがとうございます、社長」 通話を切ると、冬美は冷たい壁にもたれ、ゆっくり目を閉じた。 5年前、冬美は何段階もの選考をくぐり抜け、神崎グループCEOである迅の秘書になった。 だが、出社初日、迅は冬美に仕事を一つも与えなかった。 スーツ姿の迅は社長椅子に腰かけ、長い指で一枚の写真を机の上に滑らせた。 「この男を知っているか?」 写真の中の男は、挑むような目をして、自由気ままに笑っていた。 神崎家の次男。迅の実の弟、神崎煌だ。 迅の声は氷のように冷たかった。 「彼に近づき、君を愛させろ。君の愛情で彼を縛りつけ、二度と命を危険に晒すような真似をさせるな」 冬美はその時、しばらく呆然としていたことを覚えている。 神崎家の兄弟は、この界隈でよく知られていた。 兄の迅は冷徹で禁欲的。若くして神崎グループのすべてを掌握している。 弟の煌は自由奔放で、誰もが目を奪われるほどの容姿を持ちながら、性格はひどく荒い。カーレース、スカイダイビング、ロッククライミング。命が危うい遊びほど、面白がって手を出した。 つい先週も、煌はレース中の事故で集中治療室へ運ばれたばかりだった。 迅の次の言葉に、冬美は思わず顔を上げた。 「報酬は2億円だ」 2億円。 幼い頃から貧しい地区で這い上がるように生きてきた冬美にとって、それは想像もできない金額だった。 だから冬美は小切手と写真を受け取り、この馬鹿げた任務も引き受けた。 迅は冬美に教えた。煌が好きなのは、何色にも染まっていない、白紙のように純真無垢な女性だという。 そこで冬美は、鮮やかな色の服をすべて処分し、白いワンピースだけを選ぶようになった。 ゆるく波打つ髪をストレートに整え、清楚な黒髪のロングヘアに変えた。 化粧はできるだけ薄くし、何も知らない可憐な花を演じた。 冬美は煌がよく通う会員制クラブへ赴き、酔客に絡まれるという芝居を入念に仕組んだ。 そして取り乱したふりをして、涙を浮かべながら、あの不遜な男の胸へ飛び込んだ。煌の服の裾を掴み、震える声で助けを求めた。 煌は、見事に罠にかかった。 その夜、冬美は流されるように煌のベッドへ連れていかれた。 それから5年、冬美はずっと煌のそばにいた。 優しさと愛情で網を編み、煌が喧嘩をすることも、危険なレースに出ることも許さなかった。 煌もまた、その束縛を楽しんでいるように、冬美を徹底的に甘やかした。 冬美が「お腹が空いた」とこぼせば、煌は深夜でも車を出し、街を大きく回って冬美の好きな夜食を買ってきた。 冬美が生理痛で冷や汗を流す時は、煌は優しく腹をさすった。 毎朝、目を覚ますと真っ先に冬美の姿を探し、腕の中へ抱き寄せてキスをした。 けれど3ヶ月前の夜、情事の最中、煌は冬美の上に覆いかぶさったまま、見知らぬ名前を呼んだ。 「凛……」 その後、冬美は凛という女性を調べた。 凛はバーでアルバイトをしている大学生だった。清楚で、か弱く、庇護欲をそそる雰囲気を持っていた。 ある夜、客に絡まれていたところを、通りかかった煌に助けられたらしい。 凛の写真を見た瞬間、冬美は自分の出番が終わったことを悟った。 本当に清らかで無垢なのは凛だ。 冬美は、ただそう見えるように作られた偽物にすぎない。 だから煌は、冬美に「物足りなかった」と感じたのだ。 今、任務は終わった。 これからは、冬美が自分の望む人生を生きる番だ。 煌については、もう関係ない。 冬美は最後に病室の方向を一瞥し、背を向けて歩き出した。 煌には凛がいる。 そして冬美は、ようやく本当の自分に戻れたのだ。 第2話 病院を出た冬美が最初に向かったのは、渡航ビザを申請する窓口だった。 担当者は、半月ほどでビザが下りると告げた。 冬美は小さく頷き、その足で煌と暮らしていた邸宅へ向かった。自分の荷物をすべてまとめ、その家を出る。 煌が別れるつもりなら、自分から身を引いた方がいい。先に部屋を明け渡してしまえば、互いに気まずい思いをせずに済む。 冬美はスーツケースを引き、市街地で短期滞在向けの部屋を借りた。 部屋に着き、服を一着ずつクローゼットへ掛けていくうち、冬美の手はだんだん鈍くなっていった。 そこにあるのは、どれも白ばかりだった。 白いワンピース。レース、シルク、綿麻。形は違っても、どれも純白で、他の色はひとかけらも混じっていない。 全部、煌が好きだったものだ。 煌は、何色にも染まっていない、白紙のように純真無垢な女を好んだ。 だからこの5年間、冬美のクローゼットに並ぶのは、煌が好む色と形だけだった。 けれど、芝居は終わった。 なら、この衣装も脱ぎ捨てるべきだ。 翌日、冬美はこの街でいちばん賑わう商業施設へ向かった。 鏡の前に立ち、赤いドレスをまとった自分を見つめる。 冬美は毛先のゆるく巻いた黒髪にそっと触れ、その瞬間、5年前の自分がふっと重なった。 白いワンピースを着て男の好みに合わせ続けた女ではない。キャンパスで赤いドレスを着て、人目を引くほど鮮やかに咲いていた、あの頃の自分だ。 販売員が傍らで声を弾ませた。 「お客様、とてもよくお似合いです」 冬美は微笑み、そのまま迷いなくカードを切った。 こんなにも長い時間がかかったけれど、ようやく自分自身に戻れたのだ。 商業施設を出た直後、スマホが鳴った。 画面に表示された名前は、煌。 「冬美」 受話口から届いた煌の声は、ひどく低かった。 「誰が勝手に出て行っていいと言った?」 冬美は一瞬、言葉を失った。 自分が出ていけば、煌は喜ぶものだと思っていたからだ。 冬美は静かに聞き返した。「凛さんのために、部屋を空けてあげたんだけど?」 電話の向こうに、数秒の沈黙が降りた。 煌の浅い息遣いだけが、やけにはっきり聞こえる。 「今すぐノクターンに来い。話がある」 それは有無を言わせない口調だった。 通話が切れると、冬美は道端でタクシーを拾った。 クラブ「ノクターン」は、今夜も相変わらず眩しく、退廃的だった。 個室の前まで来たところで、酒に酔った男の声が飛んでくる。「待てよ。ここは煌の部屋だぞ。お前、誰だ?」 冬美が振り返ると、そこにいた速水翔(はやみ しょう)が目を見開いた。 「は?冬美さん?」 翔は手にしたグラスを落としかけ、目を丸くしたまま固まった。 「あんた……その格好……」 翔は冬美を上から下まで見つめ、言葉を探しているうちに口ごもった。 冬美は淡く笑い、そのまま扉を押し開けた。 個室の中は薄暗い照明に沈み、音楽が耳の奥まで響いている。 煌はソファに気だるげにもたれ、長い指でグラスを揺らしていた。 物音に気づいて視線を上げた瞬間、その手がぴたりと止まる。 煌の目が冬美の姿に据えられた。 ゆるく巻いた髪の先から、赤いドレスの裾、そこからのぞく細いヒールまで、煌の視線がゆっくりとなめ回すように動いていく。 最後に止まったのは、鮮やかな赤い唇だった。 いつもは何もかもを面白がっているようなあの目に、一瞬だけ驚きが走る。だが次の瞬間には、煌の眉が深く寄った。 「何だ、その格好」 煌の声はわずかに掠れていて、露骨に不機嫌だった。 「私が好きな格好よ」 冬美は煌の向かいに腰を下ろし、脚を組んだ。スリットの入った赤いドレスの隙間から、白い脚がのぞく。 煌の喉仏が上下した。 彼はそのままグラスを置き、スーツの内ポケットから一枚の小切手を取り出してテーブルへ滑らせた。 「俺と凛のことはもう知ってるんだろ。好きな額を書け」 煌の口調は冷ややかだった。 「この5年間、よく尽くしてくれた。悪いようにはしない」 冬美はすでに迅から金を受け取っていた。だから、煌の金を受け取るつもりはない。 冬美は小切手に目も落とさず、首を横に振った。 「いらないよ」 個室の空気が、一瞬で静まり返る。 翔が慌てて口を挟んだ。「冬美さん、そう意地張るなって。煌なりに筋通そうとしてるんだよ」 別の仲間もすぐに続く。「そうそう、こういうのは後腐れなく終わらせた方がいいだろ。手切れ金だと思って受け取っとけって」 煌は指先でテーブルを軽く叩いた。 「俺が一度決めたことだ」 その声は氷のように冷えきっていた。 「冬美、これ以上みっともなく縋るな」 冬美は眉をひそめた。 自分はそんな意味で断ったわけではない。そう説明しようとした、その時だった。 突然、個室の扉が開いた。 そこに立っていたのは凛だった。 凛は目を赤くし、怯えたように室内を見つめている。 「煌……退院のお迎えはいらないって言ったのは、彼女に会うためだったの?私、お邪魔だったよね。ごめんなさい、今すぐ帰るから……」 そう言い残し、凛は身を翻して出ていこうとした。 その瞬間、煌の顔色が変わる。 彼は立ち上がり、大股で凛のもとへ向かった。そしてそのまま彼女を腕の中へ引き寄せる。 その骨ばった指先が、凛の頬を伝う涙をそっと拭った。 「何言ってんだ」 彼が紡ぐ声は低く、驚くほど甘かった。 「こいつを呼んだのは、きっちりケリをつけるためだ」 凛は顔を上げ、睫毛に涙を溜めたままおずおずと尋ねた。「ケリをつけるって……?」 煌は低く笑った。 その声には、隠しきれないほどの甘さが滲んでいる。 「あいつと完全に縁を切らなきゃ、お前と付き合えないだろ」 凛の顔にぱっと喜びが広がる。 けれどすぐに、その表情はまた不安に曇った。 「煌、本当に私のこと好きなの?私も、すごく好き……でも、恋愛は初めてだから、傷つくのが怖いの……」 凛は唇を噛んだ。 声はだんだん小さくなっていく。 「それに、みんな言ってた。あなたは昔から女遊びが激しくて、誰にも縛られないし、どんな女にも『ちゃんとした立場』を与えたことがないって……」 煌は答えなかった。 代わりに、彼はそのまま顔を寄せ、凛の唇を塞ぐ。 強引で、深く絡みつくようなキスだった。 周囲の仲間たちから、一斉に冷やかしの歓声が上がる。 さらに、その場にいた全員を驚かせたのは、その次の行動だった。 煌はスマホを取り出し、キスをしている自分と凛の姿をそのまま写真に収めた。 そして、すぐその場でSNSへ投稿する。 【俺の女。@凛】 第3話 簡潔で乱暴なその投稿文に、個室の中は一気に沸き立った。 「うわ、すげえ!これ、正式発表ってことだよな?こんなの初めてだろ!」 「凛さん!」 別の仲間が凛へ身を乗り出した。 「煌が誰かに『ちゃんとした立場』を与えるなんて、今まで一度もなかったんですよ!」 「凛さん!これ、マジで初めてのことなんすから!」 煌はスマホの画面を凛の目の前へ突きつけた。 いつもは不遜なその瞳に、今だけは柔らかな色が浮かんでいた。 「確かに、俺は今までどんな女にも『ちゃんとした立場』を与えたことがない。けど、お前が初めてだ。これで信じられるか?」 凛の顔はたちまち真っ赤になった。 凛は恥ずかしそうに、煌の広い胸へ顔を埋めた。 冬美はその光景を静かに見つめていた。 やがて立ち上がり、テーブルの上にあった小切手をそっと押し戻した。 「お二人の末永いお幸せを祈ってるわ」 そう言い残し、冬美は背を向けた。 未練など、一欠片も見せなかった。 決然と去っていく冬美の背中を見つめながら、凛を抱いていた煌の腕が、わずかに強張った。 冬美が個室を出て少し歩いたところで、隣から出てきた酔っ払いの御曹司連中に行く手を塞がれた。 「おっ、どこから来た美人だ?見ない顔だな。俺たちと一杯やろうぜ」 「いい体してんじゃん。ほら、こっち来いよ。逃げんなって」 濃いアルコールの匂いが、まともに押し寄せてきた。 不躾な手が、冬美の腕へ伸びた。 冬美の顔から温度が消えた。 「離して!触らないで!」 冬美は必死に身をよじって抵抗した。 突き飛ばされた一人が逆上し、さらに強い力で冬美の腕を掴んだ。 「ふざけんなよ。下手に出てりゃ調子に乗りやがって!」 個室の中では、翔が扉の隙間から外の様子を窺っていた。 翔は少し迷いながら、煌へ声をかけた。「煌、冬美さんが隣の御曹司連中に絡まれてる。あいつら、酔うと何するか分かんねえんだよ。俺たちが止めに入っても角が立つし……お前、ちょっと見てきてやった方がいいんじゃねえか?」 煌は長い指でグラスをもてあそんでいた。その手が、ふと止まった。 彼は反射的に立ち上がりかけた。けれどその瞬間、腕の中の凛が小さく震えた。 「煌……」 凛は青ざめた顔を上げた。目元は赤いのに、無理に笑おうとしていた。 「冬美さんを助けてあげて……だって、5年も一緒にいた人でしょう……」 寛大な言葉とは裏腹に、凛の細い指は煌の服の裾を強く握りしめていた。 指の関節が白くなるほどだった。 煌の目が、たちまち柔らかく和んだ。 彼は凛の額に口づけ、信じられないほど優しい声を落とした。「馬鹿だな。初めて『ちゃんとした立場』を与えたんだ。俺だって、いい彼氏の振る舞い方くらい覚えねえとな」 煌は凛の頬を軽くつまんだ。 「他の女が当然みたいに持ってる安心感を、うちの凛だけが持てないなんてありえないだろ」 そう言ってから、煌は冷えきった目を周囲へ向けた。 「他人がどうなろうと知ったことか。扉を閉めろ」 重い個室の扉が、ゆっくりと閉ざされていった。 外の混乱も、助けを求める声も、完全に遮られた。 冬美が酔った男たちに隣の個室へ引きずり込まれた時、赤いドレスはすでに無残に裂けていた。 冷たい恐怖が全身を呑み込んだ。 絶望の中、冬美の指先が空の酒瓶に触れた。彼女はそれを掴み、覆いかぶさろうとしてきた男の頭へ、全身の力で叩きつけた。 男が痛みに悲鳴を上げた。他の者たちも一瞬、呆気に取られた。 その隙に、冬美は目の前の男を突き飛ばし、破れた服を押さえる余裕もなく、よろめきながら個室を飛び出した。 店を逃げ出すと、外はいつの間にか大雨になっていた。 冬美は全身ずぶ濡れになった。髪は乱れ、服は破れたまま。雨の中に立ち、必死にタクシーを止めようとした。 けれど通り過ぎる車は、彼女の異様な姿を見るなり速度を上げた。 あるいは、厄介事に関わりたくないと言わんばかりに目を逸らして走り去っていく。 誰一人、止まってはくれなかった。 やがて、冬美は諦めた。 ハイヒールを脱ぎ、裸足になった。 そして、一歩ずつ、自分の部屋がある方角へと歩き出した。 冷たい雨が顔を激しく打つ。それは屈辱の涙と混ざり、頬を伝って落ちていった。 足の裏は荒れたアスファルトに削られ、焼けるように痛んだ。 一歩踏み出すたび、刃の上を歩いているようだった。 どれほど歩いたのか分からない。 ようやく、あの小さな部屋へたどり着いた。 冬美は床に崩れるように座り込んだ。鏡の中には、見る影もなく傷ついた自分が映っていた。足は水ぶくれと切り傷だらけだった。 彼女は黙って傷口を洗い、薬を塗った。 それから力尽きるようにベッドへ倒れ込み、深い眠りに落ちた。 翌朝、冬美は激しい頭痛と、焼けつくような喉の痛みで目を覚ました。 体温を測ると、三十九度五分あった。 部屋に薬はなかった。あまりのつらさに、冬美は無理やり体を起こし、病院へ向かった。 受付を済ませ、順番を待ち、診察を受けた。 ようやく廊下の長椅子に座って点滴を受け始めた頃には、冬美はほとんど虚脱していた。 その時、病院の入口がにわかに騒がしくなった。 大勢の黒服のボディーガードが強引に道を開けていた。 その中央で、煌が凛を壊れ物のように抱きかかえ、焦りきった顔で救命処置室へ急いでいた。あまりに大げさなその様子に、周囲の視線が一斉に集まっていた。 第4話 ナースステーションから、低い囁き声が聞こえてきた。 「見た?さっきの、神崎家の御曹司よ」 「腕の中にいたのが、新しく公表した恋人?それにしてもあの大騒ぎ、指先をちょっと擦りむいただけでしょ?院内の専門医を総動員するなんて、どれだけ甘やかしてるのよ」 「恋人?煌さんって、今までどんな女にも絶対に『ちゃんとした立場』を与えないって有名じゃなかった?前は5年も連れ歩いていた相手がいたのに……」 「今回は違うみたいよ。あの子の機嫌を取るためなら、命だって投げ出すらしいわ。昨日もわざわざSNSで公表してたし。あんなふうに扱うなんて、本当に初めてのことみたいね……」 冬美はただ静かにその声を聞き流し、点滴のチューブを伝って落ちる液体を、うつろな目で見つめていた。 熱が下がらないため、医師は一日入院して様子を見ることを勧めたのだ。 夕方、検査を終えて処置室を出ると、ちょうど廊下の角で煌と鉢合わせた。 凛を落ち着かせた直後だったのか、煌の眉間にはまだわずかな柔らかさが残っていた。だが、冬美を見た瞬間、煌は足を止め、深く眉をひそめた。 「冬美?なんでこんな所にいる?昨日、俺ははっきり言ったはずだ。もう終わりだってな。お前がどれだけ小細工を使って俺をつけ回そうと、俺たちが元に戻ることはない。無駄な真似はやめろ」 冬美は熱で全身に力が入らず、言い返す気力すら残っていなかった。かすれた声で静かに答えた。「つけ回してなんかいないわ。高熱が出て、点滴を受けに来ただけよ」 冬美は少し間を置いてから、言葉を足した。「安心して。これからはもう二度と、あなたにつきまとったりしないわ」 そう言えば、煌は満足して立ち去るだろう。冬美はそう思っていた。 だが、その言葉を聞いた煌の眉間の皺は、むしろいっそう深くなった。 平静で、どこか他人行儀な冬美の顔を見ていると、昔の記憶がふと蘇る。冬美は具合が悪い時、いつも甘えた声で自分の腕にすり寄り、薬を飲ませてほしい、そばにいてほしいとねだっていた。 それが今は、「執着しない」と言い切っている。 これこそ自分が望んでいた結果のはずだった。なのに、なぜか理由の分からない怒りが込み上げ、胸の奥がひどく重くなった。 煌は数秒だけ冬美を睨みつけたが、結局何も言わず、冷たい顔のまま冬美の横をすり抜けていった。 翌日、少し体調が戻った冬美は、退院手続きのため会計窓口へ向かった。 だが、窓口には大勢の人が群がり、怒鳴り声が飛び交っていて、何か揉め事が起きているようだった。 その時、群衆の中から悲鳴が上がった。 「人殺しだ!逃げろ!」 一人の男が刃物を振り回し、狂ったように周囲の人間に斬りかかっていた。場は一瞬でパニックに陥った。 冬美は心臓が跳ね上がり、無意識にその場から離れようと後ずさりした。 振り向いた、その時だった。エレベーターの扉が開き、煌が凛を抱きかかえて出てきた。 ほとんど同時に、刃物を持った男も二人に気づいた。まるで新たな標的を見つけたかのように、血走った目で煌へ突進していく。 混乱の中、誰かが背後から冬美に強くぶつかった。 病み上がりで体力も戻っていない冬美は、その衝撃で完全にバランスを崩し、よろめきながら前へ倒れ込んだ。 そのまま煌の前に立ちはだかり、彼を庇うように刃物を受け止める形になった。 ズブッ、という肉を裂く鈍い音が響いた。 冷たい刃が、瞬時に冬美の腹部へ突き刺さった。 激痛が走った瞬間、冬美は煌の瞳に広がる、震えるほどの驚愕と、信じられないものを見るような色を見た。 第5話 煌は反射的に手を伸ばし、力なく崩れ落ちる冬美の体を受け止めた。 生温かい血がみるみる溢れ、煌の手を赤く染めていった。 冬美は口を開いた。けれど声は出ない。意識はあっという間に暗闇へ呑み込まれた。 再び目を覚ました時、冬美は病室のベッドに横たわっていた。 腹部を裂くような痛みが、直前に何が起きたのかを容赦なく思い出させた。 目を開けると、ベッドのそばに煌が座っていた。その顔には複雑な色が浮かび、目の奥は赤く血走っていた。冬美が目を覚ましたと分かると、煌はすぐに口を開いた。その声は、これまでにないほど重かった。 「どうして俺を庇って刺された?」 冬美は喉がひどく乾いていた。あれはただの事故で、誰かに押されただけだと、どうにか説明しようとした。 けれど煌は冬美の言葉を遮った。苛立ちと、妙な確信が混じった目をしていた。 「冬美、お前がまだ俺を好きで、俺のためなら死ねるくらいだってことはよく分かった。でも、俺はもうはっきり言ったはずだ。今の俺が好きなのは凛だけだ」 煌は何かを決めたように、ポケットから小切手帳を取り出した。新しい小切手に署名し、前の一枚と一緒にベッド脇のサイドテーブルへ置いた。 「前のは受け取らなかったな。今回はさらに2億円を上乗せする」 煌は立ち上がり、もう冬美を見なかった。 「金は持っていけ。これからは……二度と俺たちの前に現れるな。凛は純粋で、不安になりやすい。お前の存在で、あいつを不安にさせたくないんだ」 そう言い残し、煌は未練など一切ないように背を向けて出ていった。 冬美は目に刺さるほど真っ白な二枚の小切手を見つめた。腹部の痛みと重なって、苦笑する力さえ残っていなかった。 彼女は目を閉じた。ただ、果てしない疲れだけが体の奥へと沈んでいった。 それから数日が過ぎ、冬美の傷は少し落ち着き、退院できることになった。 退院手続きに向かうと、ちょうど凛の退院手続きに付き添っている煌と鉢合わせた。 凛は冬美を見るなり、すぐに歩み寄ってきた。顔には心配そうな色が浮かんでいたが、その奥にはほんのわずかな優越感が透けて見えた。 「冬美さん、傷はもう大丈夫?あの日、煌を庇ってくれてありがとう。5年も一緒にいた気持ちをすぐに手放せないのは分かる。でも、今の煌は私の彼氏だから。二人の間に割って入るような真似は、やっぱりよくないと思うの」 冬美には、あれはただの偶然の事故だったと説明できなかった。迅との契約のことも、口にできない。 彼女は青ざめた顔で、ただ一言だけ答えた。「安心して。これからはもう、絶対に邪魔なんてしないから」 そばに立っていた煌は、その言葉を聞いていた。感情の波ひとつ見せず、まるで本当にすべてを手放したような冬美の顔を見ていると、煌の胸にまた名のつけようのない苛立ちが込み上げた。ひどく息苦しい。 冬美は先に手続きを済ませ、背を向けて去ろうとした。 「冬美さん!」 その時、凛が冬美の腕を掴んだ。声は明るく、親切そうだった。 「家に帰るんでしょう?私たちもちょうど帰るところなの。ついでに送っていくよ。この辺り、タクシーが捕まりにくいし、外はまた雨が降ってるから。一人じゃ危ないよ」 冬美は反射的に手を引き抜こうとした。 「大丈夫よ。ありがとう」 「遠慮しないで。どうせ同じ方向だし……」 軽く揉み合いになった拍子に、冬美の腕に掛かっていたバッグが床へ落ちた。中身がばらばらと散らばった。 その中から、冬美が大切にしまっていた迅との「監督契約書」が滑り出た。 契約書は、ちょうど煌の足元へ落ちた。 「これは何だ?」 煌の声が低く沈んだ。 彼はその契約書を拾い上げた。 冬美の心臓が、凍りついた。ほとんど反射のように身を乗り出し、煌の手から契約書を奪い返した。 「何でもない。ただの……この前買った部屋の契約書よ」 煌の眉が、一瞬で険しく寄った。 刃のように鋭い視線が、冬美の青白い顔をなぞった。 今の冬美の慌てようは、ただの部屋の契約書を見られた時の反応には到底見えなかった。 第6話 「部屋の契約書?」 煌の声は低く、冷えきっていた。冬美を探るような響きがあった。 「煌……」 そばにいた凛が、ふいに力を抜くように煌の胸へもたれかかった。細い手で煌の上着の胸元を掴み、苦しげに眉を寄せた。 「頭がくらくらするの。病院の消毒液の匂いで、気分が悪くなっちゃって……早く帰ろう?ついでに冬美さんも送ってあげて。ひとりで帰るのは大変でしょう?」 凛の言葉は、あまりにも絶妙なタイミングで煌の追及を遮った。 同時に、冬美が口を開く隙も塞いでしまった。 煌の意識は、すぐに腕の中の凛へ向いた。具合の悪そうな顔を見るなり、怪しげな「契約書」のことなど頭から抜け落ちたようだった。 「分かった。すぐ帰ろう」 声には心配が滲んでいた。 煌は有無を言わせず、凛を半ば抱えるようにして出口へ向かった。 その途中で、冬美を一瞥した。 「ついてこい」 逆らうことのできない口調だった。 冬美は手の中の契約書を強く握りしめた。 二人の背中を見つめ、結局、黙って後を追うしかなかった。 後部座席に座った冬美からは、前の席で凛を細やかに気遣う煌の姿がよく見えた。 煌はクッションの位置を丁寧に直し、冷えた凛の手を自分の手のひらで包んで息を吹きかけた。さらに、エアコンは寒くないかと、低い声で何度も尋ねていた。 その細やかな気遣いは、かつて冬美に向けられたことなど一度もないものだった。 昔の煌も、冬美を甘やかしてはくれた。 けれどそれは、もっと独占欲が強く、気まぐれで、身勝手な愛情だった。機嫌がよければ空の星さえ取ってきそうなほど尽くすのに、少し不機嫌になれば平気で冬美を放っておいた。 凛に向けるような、壊れやすい宝物を手の中で守るような慎重さは、冬美に向けられたことは一度もなかった。 冬美は黙って視線を外し、窓の外を流れていく街の景色を見た。 それでいい。 煌を繋ぎ止め、もう命を危険に晒す遊びへ戻らせない人がいるのだから。 迅も……これで安心できるはずだ。 自分の任務も、別の形で果たされたことになる。 その時、助手席からどこか様子のおかしい凛の声が漏れた。 「ん……煌……暑い……」 凛の声は妙に甘く、熱を帯びていた。何度も自分の襟元を引き、頬には不自然な赤みが差していた。 煌は異変に気づき、凛の体を支えた。 「凛?どうした?」 「分からない……ただ、すごく暑くて、苦しいの……胸の奥がむずむずして……」 凛の瞳は次第に潤み、うつろになっていった。呼吸も荒く、縋るように煌の胸へ身を寄せた。 煌の顔が一気に険しくなった。 すぐに車を路肩へ寄せた。 煌は凛の顔を両手で包み込み、様子を確かめた。次の瞬間、その目が冷たく鋭くなった。 「誰に薬を盛られた?」 凛はぼんやりと首を振った。涙が頬を伝った。 「違う……誰にも盛られてない……ただ、車に乗った時、あなたの上着のポケットからいい匂いがしたから……少しだけ、体に吹きかけたの……」 そう言いながら、凛は煌の上着の内ポケットから小さなガラス瓶を取り出し、煌に差し出した。 冬美はその瓶を一目見て、心臓が大きく跳ねた。 それは香水ではなかった。 情欲を煽るための媚薬だった。 以前、冬美と煌がまだ一緒にいた頃、煌はその手の欲が異常に深く、行為も長かった。冬美は耐えきれず、何度も意識を失ったことがある。そのたびに煌は、冬美をもっと溺れさせ、時間を引き延ばすために、その薬を使っていた。 煌もすぐに気づいたのだろう。 煌の顔色が、さっと変わった。 薬の効き目は強烈だった。 しかも……体を重ねることでしか、その火照りを鎮めることはできない。 凛はもう耐えきれないように小さく泣き始め、落ち着かない様子で体をよじっていた。 煌は窓の外を流れていく車を見た。 それから、腕の中で意識が遠のいていく凛を見つめた。 ほとんど迷いはなかった。 煌は運転席のドアを開け、後部座席の冬美に鋭い視線を向けた。 「お前が運転しろ」 冬美は一瞬、呆然とした。けれどすぐに、彼の意図を理解した。 第7話 冬美の顔から血の気が引いた。それでも言われた通りに車を降り、煌と席を替わった。 冬美は無理やり前だけを見た。エンジンをかけ直し、集中して車を本線へ戻した。 けれど、車内は狭い。後部座席の気配を無視することなどできなかった。 細かなキスの音。凛の耐えきれず押し殺した声。煌の荒い息遣い。それらが見えない針のように、冬美の耳へ細かく突き刺さってきた。 「んっ……煌……だめ……やめて……」 突然、凛が泣きそうな声で拒み始めた。 「お母さんに言われてるの……結婚するまでは、そういうことはだめだって……ちゃんと……初夜まで待たなきゃだめだって……」 その後に聞こえた煌の声は、冬美が一度も聞いたことのないものだった。 極限まで優しく、ひどく辛抱強い。押し殺したような掠れを含んでいた。 「いい子だ。分かってる。お前の気持ちは尊重する」 煌は低く宥めた。 「怖がるな。最後まではしない。手で楽にしてやる。それならいいだろ?」 「じゃあ……あなたはどうするの?あなたも、すごく苦しそう……」 凛の声は柔らかく、熱を含んでいた。 「俺はいい。お前が楽になれば、それでいい」 煌の声は、滴るほど甘かった。 それから、さらに耳を塞ぎたくなるような音が続いた。 凛は煌に慰められ、少しずつ力を抜いていった。やがて、抑えきれない甘い声が漏れ始めた。 「気持ちいいか?」煌が低く尋ねた。声には甘やかす響きがたっぷり混じっていた。 「うん……煌……すごく、気持ちいい……」 「気持ちいいならいい」 煌は小さく笑い、凛に口づけた。 「俺たちが結婚する日には、もっと気持ちよくしてやる」 冬美は、この5年間のことを思い出した。 煌はベッドの中で、自分を喜ばせることもあった。けれど多くの場合、優先されるのは彼自身の快楽だった。そこには、逆らうことを許さないような、奪う側の強引さがあった。 凛に向けるように、どこまでも辛抱強く、優しく、自分は耐えてでも相手を先に満たす。そんなことは、一度もなかった。 冬美は車を揺らさないよう、ひたすらまっすぐ走らせた。 やがて、冬美が借りている部屋の建物の前に着いた。 後部座席の音も、ようやく静まっていた。 冬美は車を停め、無意識にルームミラーへ目を上げた。 ちょうど、凛の服を整え終えた煌が顔を上げたところだった。 煌の瞳には、まだ消えきらない情欲が残っていた。 鏡越しに、冬美の少し赤くなった目を見た瞬間、そこに隠しきれない疲れと……悲しみを見つけたのだろう。煌はすぐに不快そうに眉を寄せた。 「そんな目で俺を見るな」 その声は冷たく、理由の分からない苛立ちが滲んでいた。 「俺と凛はちゃんと付き合ってる。気持ちが高まってこうなるのは、当たり前だろ。余計な気を起こすな」 冬美の胸がちくりと痛んだ。 冬美は口を開いた。目に砂が入って少し痛かっただけだと、そう説明しようとした。 二人の行為を見て悲しんでいたわけではないと。 「煌……」 けれど、凛が柔らかく声を上げた。煌に寄り添ったまま、頬にはまだ赤みが残っていた。 「私……冬美さんの部屋で洗面所を借りて、少し整えてもいい?」 煌はすぐに凛を見下ろした。その目は優しかった。 「ああ」 煌は凛を支えて車を降りた。 そして、まだ運転席に座っている冬美へ視線を向けた。案内しろ、という目だった。 冬美は説明しかけた言葉を飲み込んだ。 黙って車を降り、二人を連れて部屋へ上がった。 凛は洗面所へ入った。 煌はそこでようやく、狭いがきちんと片づいた部屋を見回した。見れば見るほど、眉間の皺が深くなっていった。 「お前、こんな所に住んでるのか?」 煌は冷たく笑い、鋭い目で冬美を見据えた。 「この道が、俺が毎日通る道だからか?そこまでして俺に会いたいのか」 冬美は何か言いかけた。 ──ここは家賃が安いからだ。 その一言を言う前に、煌が遮った。 「まだ俺を諦めきれないのは分かってる。だが、俺たちはもう終わった」 「私……」 洗面所の扉が開き、凛が出てきた。 身なりは整えられていた。それでも眉のあたりには、まだどこか気だるい熱が残っていた。 煌はすぐに言葉を止めた。 冬美に重い視線を一つ残し、それから凛を抱き寄せて部屋を出ていった。 扉が閉まった。外のすべてが、そこで遮られた。 冬美は閉ざされた扉を見つめた。もう、説明したいという気持ちは消えていた。 もういい。 煌がどう思おうと、好きにすればいい。 どうせ、これからは二度と会わないのだから。 けれど冬美の予想に反して、ようやく静かになったのは数日だけだった。 また、煌から電話がかかってきた。 第8話 「冬美、すぐ西区の廃工場に来い!凛が猛に拉致された!」 桐生猛(きりゅう たける)。煌の宿敵で、昔から何かにつけて煌とぶつかってきた男だ。 冬美が駆けつけた時、廃工場の周囲には煌の部下たちが大勢集まっていた。だが、人質を取られている以上、誰も軽率には動けなかった。 いつも人を食ったような煌の顔は、今は暗く沈んでいた。冬美を見るなり、煌はその手首を掴んだ。骨が軋みそうなほど強い力だった。 「猛がお前を指名してきた」煌の声は掠れていた。「お前が行って、凛と代われ」 冬美の胸が震えた。何か言いかける前に、煌が急いで言葉を継いだ。「安心しろ。条件はもう話してある。あいつはお前に手を出さない。ただ……三日間、あいつの話し相手をして耐えればいい」 そう言ううちに、煌の声がふいに柔らかくなった。あの人を惑わせるような目に、冬美のよく知る優しさが一瞬だけよぎった。 「お前がまだ俺を好きなのは分かってる。今回行ってくれたら、一日だけお前とデートしてやる」 冬美は煌を見つめた。 彼女は言いたかった。本当は煌のことなど好きではない。そんなことのために、身代わりになりたくもないと。 けれど……言えなかった。 あの契約が、枷のように冬美の喉を締めつけていた。 迅から与えられた任務に背くことはできなかった。真実を明かすこともできなかった。 それに、冬美は煌をよく知っていた。たとえ自分が拒んだとしても、凛のためなら、煌はどんな手を使ってでも自分を向こうへ送り込むだろう。 絶望が波のように押し寄せ、冬美を呑み込んでいった。 最後に、冬美は静かに目を伏せた。 その声は、消え入りそうだった。 「分かった。行くわ」 煌は明らかにほっとした顔をした。 冬美の頭に触れようと手を伸ばしかけた。けれどその手は途中で止まり、結局、静かな声だけが落ちた。 「三日後に迎えに来る」 冬美は煌の部下たちに連れられ、猛が指定した場所へ送られた。 中へ入った瞬間、煌の言った「手を出さない」が、どれほど馬鹿げた約束だったのかを悟った。 猛は吐き気を催すような目で、冬美を上から下まで眺め回した。 「冬美、俺は初めてお前を見た時から欲しくてたまらなかったんだよ。煌とは、お前の体には手を出さねえって約束した。 けどな、鞭で打たねえとは言ってねえ。お前のその綺麗な肌が鞭で赤く腫れたら、どれだけそそる眺めになるんだろうなあ!」 猛は冬美の抵抗などまるで気にせず、部下に命じて冬美を縛り上げた。 冷たい鞭が風を裂き、冬美の体へ容赦なく叩きつけられた。 激痛が一瞬で神経を焼いた。冬美は歯を食いしばり、悲鳴を喉の奥で押し殺した。 「そうだ!その目だよ!その強情そうな目がたまんねえ!」 猛はますます興奮し、鞭はさらに執拗に、激しく打ち下ろされた。 「昔、俺が煌にお前を寄こせって言った時、あいつは宝物みたいにお前を守りやがった。その件で俺の車に突っ込んできて、俺を何か月も寝込ませたんだぞ! それが今じゃどうだ?ははっ!新しい女のためなら、あっさりお前を差し出した。昔の女なんて、新しい女には勝てねえってことだよな。なあ、そう思うだろ?」 鞭は毒蛇のように、冬美の体と尊厳を少しずつ噛みちぎっていった。 冬美は痛みで何度も意識を失いかけた。それでも最初から最後まで唇を噛みしめ、一言も声を漏らさなかった。 三日間は、地獄の業火で三年焼かれるようだった。 ようやく解放された時、冬美の体はすでに鞭の痕だらけになっていた。 冬美は引き裂かれるような痛みを抱え、あの小さな部屋へ戻った。震える手で傷口を消毒し、薬を塗った。肌のどこもかしこも、痛みを叫んでいるようだった。 翌日、煌が来た。 冬美に目立つ外傷がないのを見ると、煌は明らかに安堵した。おそらく、猛が約束を守ったのだと思ったのだろう。 冬美は目を閉じた。 服の下に隠れた鞭の痕について、何も説明しなかった。 説明したところで、何になるというのだろう。 まさか煌が心を痛めてくれるとでも、まだ期待しているとでもいうのか。 「何の用?」 冬美の声は掠れ、疲れきっていた。 「デートの約束を果たしに来た。行くぞ。手早く済ませる」 煌は当然のように言った。 「今日は凛に、仕事だって嘘をついてきた。時間通りに帰らないといけないからな」 冬美の胸が、また鈍く痛んだ。 かつて自分と付き合っていた頃、煌が夜に帰ってこないことなど珍しくもなかった。 それなのに今は、凛のために時間を計算し、きちんと帰ろうとしていた。 煌は本当に、凛をどうしようもないほど愛しているのだ。 第9話 冬美は、そんな埋め合わせのようなデートはいらないと断ろうとした。 だがその前に、煌はもう冬美の手首を掴み、車へ乗せていた。 煌の言うデートとは、この街でいちばん大きな遊園地へ連れていくことだった。 けれど道中、煌はずっと上の空だった。スマホをほとんど手放さず、凛とメッセージをやり取りし、柔らかな言葉で相手を宥め続けていた。 【いい子にしてろ。本当に会議中だ】 【ショートケーキ、生クリームを倍にしてもらうか?】 【会いたくないわけないだろ。毎秒、お前のことを考えてる】 冬美は煌の隣を歩いていた。けれど、まるで余計な影みたいだった。煌が別の女に、ありったけの忍耐と愛情を注いでいるのを、ただ見ていることしかできなかった。 彼女は何か言いかけた。そもそもこのデートに来たかったわけではない。もうここで終わりにした方がいい。そうすれば煌も凛のところへ帰れる。 そう言おうとした、その時だった。 見覚えのある人影が、突然二人の前に現れた。 凛だった。 凛は目を泣き腫らし、震える声で言った。「会議中だって言ってたのに、本当は彼女とデートしてたの?煌、まだ彼女のことが好きなら、私たち別れよう」 そう言い残し、凛は身を翻して走り出した。 「凛!」 煌は一瞬で取り乱し、すぐに追いかけて凛を掴んだ。 「違う。お前が思ってるようなことじゃない。話を聞け。この前、あいつがお前の代わりに猛のところへ行っただろ。その埋め合わせに、一度だけデートするって約束したんだ。ただの埋め合わせだ。余計なことを考えるな」 凛は身をよじり、泣きながら信じようとしなかった。 その時、そばにあった巨大な広告看板が、なぜか突然ぐらりと傾いた。 凛が立っている方へ、勢いよく倒れてきた。 「危ない!」 煌の瞳孔がぎゅっと縮んだ。 ほとんど本能のように、煌は全身の力で凛を突き飛ばした。 次の瞬間、その重い看板が、煌の上へ激しく倒れ込み、彼はその場で血だまりの中に倒れた。 「煌――!」 凛の悲鳴が響き渡った。 現場は一瞬で混乱に包まれた。 サイレンを響かせ、救急車が駆けつけた。 冬美は大事になるのが怖くて、結局病院までついていった。 手術室の外で、凛はずっと泣いていた。 息ができなくなるほど泣き続けていた。 冬美はその泣き声を聞きながら、思わず言った。「泣かないで。泣いても何も解決しないわ」 凛はしゃくり上げながら答えた。 「分かってる……本当は、埋め合わせだって言われた時に信じたの……ただ……いつも煌が私を宥めてくれるから、それに慣れてしまって…… もう少しだけ、宥めてほしかっただけなの……こんなことになるなんて思わなかった……分かってたら、わがままなんて言わなかったのに……」 しばらくして、手術室のランプが消えた。 医師が出てきて、手術は成功したと告げた。ただし今夜が大事な観察期間であり、一晩中そばについて、薬と点滴の状態に気を配る必要があった。それが、患者が早く目を覚ませるかどうかにかかっているとのことだった。 冬美はほっと息をつき、帰ろうとした。 だが凛が冬美を掴んだ。縋るような、頼りない目をしていた。 「行かないで……私……病人の世話なんて分からないし、ちゃんとできるか怖いの……お願い。今夜だけ残って、一緒に煌を看病してくれない?」 冬美は、弱々しく怯えきった凛を見た。それから、意識のないまま眠る煌を見つめた。 結局、頷いた。 その夜、冬美はほとんど目を閉じる暇もなかった。 体温を測り、点滴を確認し、体を拭き、薬を替える。細かくて手間のかかる看護を、冬美が一人でこなした。 凛はベッドのそばに伏せ、ほどなくして眠ってしまった。 夜が明ける頃には、冬美の瞼は重く、今にも閉じてしまいそうだった。 その頃になって、ようやく凛が目を覚まし、冬美と代わった。 「休んできて。ここは私が見てるから」凛がそう言った。 冬美は本当に限界だった。 頷いて、廊下の奥にある休憩室で少し眠ろうとした。 その時、煌のカルテをナースステーションに置き忘れたことを思い出し、引き返した。 病室の前まで戻ったところで、扉のガラス越しに見えた。 煌は、もう目を覚ましていた。 第10話 凛は煌の胸に飛び込み、涙をぽろぽろこぼしていた。 「煌!やっと目が覚めたのね!ごめんなさい、全部私が悪いの……私がわがままを言わなかったら、あなたはこんなことに……私のこと、怒ってる?」 煌の顔色はまだ青白かった。それでも手を上げ、凛の髪をそっと撫でた。 その声は弱っていたが、ひどく優しかった。 「馬鹿だな。こんなに愛してるのに、お前を怒るわけないだろ」 煌は少し言葉を切った。 凛の疲れた顔と赤く腫れた目を見つめ、痛ましげに尋ねた。「それよりお前、一晩中寝ずに俺についていてくれたんだろ。疲れたか?これからは、こういう大変なことは看護スタッフに任せればいい。お前を疲れさせたくないんだ」 凛の体が、ほんのわずかに強張った。 視線が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、柔らかな声で答えた。「看護スタッフに任せるだけじゃ不安だったの。先生も、親しい人がそばでちゃんと見ていた方がいいって言ってたし……」 煌はその言葉に深く胸を打たれたようだった。瞳の奥に、濃く溶けきらない愛情と感動が揺れていた。 彼は凛の顎をそっと持ち上げ、唇に口づけた。 しばらくキスを交わしたあと、煌は甘やかすように低く笑った。吐息混じりの声が落ちた。 「何度もキスしてるのに、まだ息継ぎが下手だな。大丈夫だ。これから俺が、たっぷり教えてやる……」 冬美はそれ以上見なかった。 静かに背を向け、音もなくその場を離れた。 病院の入口まで出て、タクシーを拾おうとした時だった。 凛が後ろから慌てて追いかけてきた。 「待って!」 冬美は足を止めた。 凛は冬美の前まで駆け寄ってきた。息が少し乱れていた。顔には、気まずさと焦りがにじんでいた。 「さっき……病室の入口に人影が見えたの。やっぱり冬美さんだったんだ……昨夜は、煌のことを看病してくれてありがとう……」 凛は唇を噛んだ。 声が少し低くなった。 「煌……目が覚めた時、私が看病したんだって勘違いして……私……もっと愛してほしくて、否定できなかったの……ごめんなさい。冬美さんの手柄を横取りするつもりじゃなかったの……」 冬美は目の前の凛を見つめた。 ただ、底のない疲れだけが胸に広がっていった。 冬美は首を横に振った。 「気にしないで。あなたたちは恋人同士なんだし、それで二人の仲が深まるなら、別にいいわ」 凛は呆然とした。 信じられないという顔で冬美を見た。 「冬美さん……少しも怒らないの?そんなに煌を愛してるの?何の見返りも求めずに尽くして、手柄を取られても平気なくらい?」 冬美は何か言いかけた。 また、深い無力感が胸の底からせり上がってきた。 どうして誰も彼も、自分が煌を忘れられずに愛していると思い込むのだろう。 けれど、説明などできなかった。 結局、冬美は淡々と言った。「あなたがそう思いたいなら、好きにすればいいわ」 そう言って、冬美はもう凛を見なかった。 タクシーを拾い、この息の詰まる場所から離れた。 翌日、冬美のビザがようやく下りた。 同じ頃、迅の秘書も時間どおりに現れた。2億円が入った口座のカードを、冬美の手に差し出した。 「白川様、社長より、この5年間のご尽力に感謝いたします。今後のご多幸をお祈りしております、とのことです」 「ありがとうございます」 冬美はカードを受け取った。 胸の内は複雑だった。それでも、すべてがようやく終わったような軽さもあった。 冬美は秘書が車に乗り、去っていくのを見送った。 ちょうどその時、見慣れたスポーツカーが勢いよく走ってきて、冬美の前で止まった。 煌が車から降りてきた。 走り去った黒い車を鋭い目で見送り、眉をひそめた。 「今の男は誰だ?」 煌は冬美を見据えた。探るような目だった。 冬美の心臓が跳ねた。 それでも、表情は変えなかった。 「家賃を取りに来た大家よ」 煌の目から疑いは消えきらなかった。 だが、今はほかに大事な用があるらしく、それ以上は追及しなかった。 「明日の夜、凛の誕生日パーティーを開く。お前も来い」 煌は続けた。 「この前の遊園地のことで、凛はまだ誤解してる。俺たちがまだ切れてないと思ってるんだ。みんなの前で、お前の口からはっきり言え。俺たちはとっくに終わってるって。凛を安心させたい」 そう言い終えると、煌は冬美の反応を待った。 悲しむか、拒むか。せめて少しは迷うと思っていたのだろう。 けれど冬美は、ただ静かに頷いただけだった。 「分かったわ」 あまりにも平静なその態度に、煌の胸には得体の知れない不快感と苛立ちが湧き上がった。 力を込めて振り下ろした拳が、柔らかい綿に吸い込まれたように手ごたえがなかった。 煌は冬美を数秒見つめた。 最後に、彼は硬い声で言った。「じゃあ、また明日」 煌の車が街角を曲がり、見えなくなった。 その背中を見送りながら、冬美は思った。 行くつもりはなかった。 その時間には、この街を離れているはずだ。 それが、みんなへの答えになるだろう。 自分と彼の間は、もうとっくに終わっている。二度と戻ることはないのだと。 翌日、冬美は簡単な荷物を持って空港へ来ていた。 ターミナルの大きな発着案内を見上げた。 冬美は深く息を吸った。 久しぶりに、自由というものを感じた。 スマホが震えた。 煌からのメッセージだった。 【今どこだ?パーティーが始まるぞ】 冬美はスマホを手に取り、返信しようとした。 自分はもう空港にいる。これから国外へ発つ。これで本当に終わりだから、あなたも凛も安心していい。 そう打とうとした、その時だった。 突然、電話がかかってきた。 画面に表示されたのは、思いもよらない名前だった。 神崎迅。 冬美は一瞬ためらい、それから電話に出た。 「神崎社長?」 電話の向こうから、迅のいつもどおり低く冷ややかな声が届いた。 「今、どこにいる?」 「空港です」 冬美は搭乗口を見つめた。 「もう発つところです」 電話の向こうで、万年筆が机を軽く叩く音がした。 一度。二度…… 「行くな」 迅の声が、ふいに数段低くなった。 「君に持ちかけたい取引がある」 冬美の呼吸が止まった。 「取引、ですか?」 「5年前、私は君に任務を与え、煌に近づかせた。報酬は2億円だった」 迅の語り口はゆっくりとしていた。けれどその一語一語が、重い槌のように冬美の胸を打った。 「そして5年後の今、もう一つ、君に任務を与えたい」 迅はそこで、わざと間を置いた。 冬美がその異様な切り出しを飲み込む時間を与えるように。 そして、一字一句、はっきりと爆弾を落とした。 「報酬は、200億円だ」 200億円!? 冬美は息を呑んだ。 指に力が入り、スマホを取り落としそうになった。 あまりにも大きな金額に、頭の中が真っ白になった。聞き間違いではないかとさえ思った。 「な……何の任務ですか?」 電話の向こうの迅の声は、相変わらず低く、まっすぐ耳の奥まで届いた。 それでも、そこには言葉にしがたい複雑な響きが混じっているようだった。 「私と結婚してくれ」