帰る場所の違う私たち

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帰る場所の違う私たち

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M.Eグループ、人事部。 人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた実乃里に差し出した。 顔も上げないまま言う。 「これを津島社長に...

Chương (1)

第1章

M.Eグループ、人事部。 人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた実乃里に差し出した。 顔も上げないまま言う。 「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」 「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」 書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。 だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。 「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」 そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。 首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。 裕翔の執務室は最上階にある。 エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。 第1話 M.Eグループ、人事部。 人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた夏井実乃里(なつい みのり)に差し出した。 顔も上げないまま言う。 「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」 「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」 書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。 だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。 「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」 そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。 首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。 津島裕翔(つしま ゆうと)の執務室は最上階にある。 エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。 コンコン、とノックの音が響く。 実乃里は扉を開けた。 目に飛び込んできたのは、シャネル風のワンピースを着た女性が、スーツ姿の裕翔の膝の上に座り、熱く口づけを交わしている光景だった。 一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を平静に戻り、そのまま机の前まで歩み寄る。 「社長、こちらの......書類に、ご署名をお願いしたいのですが」 そこでようやく、絡み合っていた二人は彼女の存在に気づいた。 名残惜しそうに唇を離した後、実乃里はその女性の顔をはっきりと見た。 この一か月、社長室に頻繁に出入りしている人物。 長嶺グループの令嬢、長嶺奈々花(ながみね ななか)だった。 彼女は甘えるように裕翔へ身を寄せる。 「ハイヒールって本当に疲れるの。足が痛くてたまらないわ~」 「じゃあ誰かに揉ませようか」 裕翔は優しく応じた。 だが、その視線が実乃里へ向いた瞬間、目つきも声色も冷え切る。 「そこで突っ立って何をしている?早く奈々花の足を揉め」 「えっ?」 奈々花は口では遠慮がちに言った。 「それはさすがに......」 しかし、その顔には申し訳なさなど微塵も見えない。 実乃里も動かなかった。 彼女は裕翔の秘書だ。 だが、愛人の足を揉むことは職務内容には含まれていない。 微動だにしない彼女を見て、裕翔は何かを察したように鼻で笑った。 そして引き出しから札束を取り出し、そのまま彼女の顔へ叩きつけるように投げつけた。 咄嗟に顔を背けたものの、一枚の紙幣の縁が頬をかすめる。 瞬間、白い肌に赤い傷が走った。 「これだけあれば十分だろう?」 嫌悪に満ちた声が耳元に落ちる。 頬は焼けるように痛んだ。 何か言おうとして唇を動かしたが、結局言葉にはならない。 彼女は黙ってしゃがみ込み、奈々花の足を優しく揉み始めた。 どれほど時間が経っただろうか。 ようやく奈々花が微笑みながら足を引っ込めた。 「もういいわ。裕翔、カップル向けのフレンチレストランを予約してたでしょう?そろそろ時間よ」 「そうだな」 裕翔は甘やかな笑みを浮かべながら立ち上がり、彼女の手を取って部屋を出て行こうとする。 二人が去ろうとするのを見て、実乃里は慌てて退職届を手に追いかけた。 「津島社長!この書類にサインをお願いします!」 裕翔は眉をひそめ、内容を確認しようと書類へ手を伸ばす。 しかし奈々花が横からせがんだ。 「裕翔?早く行きましょう、お腹空いちゃった」 その言葉を聞くと、裕翔は深く考えもせず、書類の一番下に自分の名前を書き込んだ。 署名を終えると、そのまま振り返ることもなく執務室を後にする。 だからこそ彼は見なかった。 実乃里がようやく安堵の息を漏らしたことを。 ――これで、ようやく裕翔のそばを離れられる。 ちょうどその時、スマホが鳴った。 通話に出ると、穏やかな男性の声が耳に届く。 「実乃里、結婚式の準備はもう進めているよ。あとどれくらいで戻ってこられる?」 実乃里は手にした退職届を見つめた。 「退職手続きは終わった。あと一か月だけ」 答えを聞いても、相手はすぐには電話を切らなかった。 しばらく沈黙した後、ためらうように口を開く。 「実乃里......俺と結婚するの、無理をしていないかな。だって君の元恋人は裕翔だったんだろう?彼がどれほど君を愛していたか、誰もが知っている」 その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。 4年前。 彼女の恋人は、確かに裕翔だった。 まだ何者でもなかった彼と、狭い賃貸アパートで肩を寄せ合いながら暮らしていた。 大金をくれたわけではない。 だが、溢れるほどの愛をくれた。 彼と一緒にいると、果物はいつも食べやすく剥かれていた。 雨の日には必ず鞄の中に傘が入っていた。 小さなサプライズも絶えなかった。 幾度となく汗だくで愛し合った夜の後、彼は彼女を強く抱き締めて誓った。 必ずたくさん稼いで、実乃里を妻にする、と。 当時の彼はプロゲーマーを目指していた。 彼女との未来のためにゲームに集中し、睡眠時間は一日二時間ほど。 血を吐く寸前まで自分を追い込んでいた。 それなのに、彼が最も彼女を愛していたその時期に、別れを告げたのは実乃里の方だった。 あの夜は大雨だった。 自分を引き止める彼の指を一本、また一本と冷たく引き剥がしながら、彼女はその瞳に冷徹さを浮かべて言い放った。 「あなたについていっても、この狭いアパートで一生暮らすだけ。好きなワンピースひとつ買えなくて、何度も眺めては諦める生活にはもううんざりなの。お願いだから、もう私を解放して」 傘を差し、高級車へ乗り込む。 バックミラーには、よろめきながら車を追いかける彼の姿が映っていた。 ――行かないでくれ。 愛している。もう少しだけ待ってくれ。 嗚咽混じりに何度も叫ぶ声が聞こえた。 彼女は車の中で涙を流し続けた。 それでも、一度も振り返らなかった。 なぜなら―― その頃の彼女は、癌を宣告されていたからだ。 ただでさえ苦しい生活だった。 そんな時に癌まで発覚した。 まだ治療可能な段階だったとはいえ、その医療費は彼を確実に押し潰してしまう。 彼の人生を壊したくなかった。 だから彼女は、自分を守るためではなく、彼を守るために彼を捨てた。 それが彼女なりの救いだった。 その後、彼女は海外へ渡った。 働きながら治療費を稼ぎ、最も苦しい時期には客の食べ残しで空腹をしのぎ、店の薄暗く湿った物置で眠った。 治療と再発を繰り返しながら、それでもなんとか命を繋ぎ留めた。 帰国後、高給取りの秘書職に応募し、採用された。 だが、その会社こそが裕翔の企業だった。 帰宅後に彼の名前を検索して初めて知った。 彼女が海外にいた4年間で、裕翔がゲームの配信活動からスタートし、人気プロゲーマーへと駆け上がり、その後は若き実業家として成功を収め、今や巨大なeスポーツ帝国を築き上げていたことを。 実乃里がいなくなったことで、彼は確かにより良い人生を手に入れた。 だが再会した時、彼の目にあったのは驚きと――憎しみだけだった。 彼は彼女を恨んでいた。 M.Eに入社してから、実乃里は彼の専属秘書になった。 執務室とは壁一枚隔てただけ。 周囲は最高のオフィスを与えられたと羨んだが、真実を知るのは彼女だけ。 それは裕翔の意図だった。 自分に見せつけるために。 3日ごとに変わる女たちが社長室へ出入りする姿を。 彼女たちと親密に過ごす姿を。 そして自分を呼びつけ、屈辱的な要求を突きつけるために。 断れば、今日と同じように札束を顔へ投げつけて言うのだ。 「これだけあれば十分だろう?」 彼はわざと彼女に見せつけていた。 他の女との親密さも、数々の嫌がらせも。 だがその一方で、深夜に泥酔すると、赤くなった目で彼女の家の前に立ち塞がり、首筋に額を押し当てながら震える声で問いかける。 「実乃里......お前には心というものがないのか」 裕翔が彼女を苦しめているのか、それとも自分自身を苦しめているのか。 実乃里には分からなかった。 ただ、その時思った。 どちらかが本当に落ち着ける場所を見つけなければ、この腐れ縁は終わらないのだと。 だから少し前、彼女は地元へ戻って紹介で会ってみた。 相手は高校時代の同級生、逢坂竜之介(おおさか りゅうのすけ)。 大富豪ではないが、堅実に生きる誠実な男性だ。 二人は気が合い、自然な流れで婚約を決めた。 結婚式は一か月後。 これからは、彼女は裕翔を解放する。 そして彼にも、自分を解放してほしかった。 人混みの向こう側で、もう二度と交わることなく、互いに何も負わないまま。 第2話 過去の記憶から現実へと意識を引き戻し、実乃里は穏やかな声でゆっくりと言った。 「竜之介。あなたとの結婚を決めたのは、思いつきでもなければ、仕方なくでもないの。4年前に裕翔と別れた時から、私はもう彼を忘れると決めていた。だからそんなことはもう気にしないで」 電話の向こうからも、変わらぬ優しい声が返ってくる。 「わかった。こっちは実家で結婚式の準備を進めておくから、焦らなくていいよ。そっちの用事を片付けたら帰っておいで。待ってる」 実乃里は小さく頷き、通話を切った。 退職届を手に席へ戻ると、少しずつ業務の引き継ぎを始める。 帰宅した頃にはすっかり夜も更けていた。 心身ともに疲れ切っていた彼女は、シャワーを浴びるとそのままベッドへ倒れ込んだ。 だが横になった直後、スマホが鳴り出す。 通話に出ると、裕翔の声が聞こえてきた。 「奈々花が南の端にあるあの店の団子を食べたがってる。買ってホテルまで持って来い」 その一言で眠気は一気に吹き飛んだ。 あの店はここからかなり遠い。 今すぐ出発して買いに行き、さらにホテルへ届けるとなると、往復で4時間近くかかる。 しかし電話はすぐに切られた。 断る隙すら与えられない。 退職手続きは始まっているとはいえ、この一か月はまだ裕翔の秘書だ。 実乃里はため息をつき、観念して起き上がった。 着替えを済ませ、団子を買いに向かう。 4時間後。 指定されたホテルへ到着した頃には、団子はすっかり固くなっていた。 奈々花は器に軽く触れただけで、ひと口も食べないまま顔をしかめる。 「これ、冷めてカチカチじゃない......」 そう言うと、甘えるように裕翔を見上げた。 「ねえ裕翔、だったら街の東外れにあるあの有名なお店の大福を買ってきてもらったらどう?」 その言葉を聞いた裕翔は、すぐに実乃里へ視線を向けた。 「聞いたか。買ってこい」 断る余地はない。 彼女は疲れた身体を引きずりながら、再びホテルを後にした。 ようやく餅を買って戻ってきても、奈々花は一口かじっただけで嫌そうに脇へ放り出す。 「美味しくないわ。やっぱり北側のたこ焼きにして」 「これも違う。今度は西側のケーキを買ってきて」 そんな調子で何度も振り回され続けた。 ようやく奈々花のお気に召すものを見つけた時には、実乃里はほとんど限界だった。 ほっと息をつき、帰ろうとしたその時―― 裕翔が彼女を呼び止めた。 その声にはどこか意味深な響きが混じっていた。 「待て」 彼はゆっくりと言う。 「コンドームを十数箱買って来い」 その言葉に、実乃里の顔色が一瞬で強張った。 しばらく沈黙した後、ようやく絞り出すように答える。 「......ホテルに置いてあるはずです」 「ホテルのは奈々花の好きな香りじゃない」 少し間を置いてから、彼は低く続けた。 「俺のサイズくらい、お前なら知っているだろう」 実乃里の顔から血の気が引いた。 これ以上ここにいれば、もっとひどい言葉を浴びせられるだけだ。 彼女は何も言わず踵を返した。 幸い、ホテルの近くにはコンビニがあった。 急いで買い揃え、再び部屋へ届ける。 だが、それでも裕翔は帰らせてくれなかった。 「外で待機していろ」 長時間振り回されたせいで、実乃里の顔には疲労が色濃く滲んでいた。 もはや言い争う気力も残っていない。 彼女は黙って部屋の外に立ち続けた。 扉の向こうからは、途切れることなく甘い囁き声や笑い声が漏れてくる。 疲れ切った意識がぼんやりと霞んでいく。 その時、彼女はふと遠い昔を思い出した。 あの小さなアパートで。 二人は抱き合い、口づけを交わし、恋人として当たり前の時間を重ねていた。 夜ごと彼の吐息は彼女の肌をなぞり、不器用で、それでいて甘く誘うような仕草に、彼女もまたそっと応えながら、彼を強く抱き締めていた。 けれど、それはもう過去の話だ。 あの日の出来事を境に、すべては変わってしまった。 今、彼の傍らで甘く寄り添う相手は、もう自分ではない。 M.Eに入社して以来、裕翔の恋人は次々と入れ替わってきた。 どの女性も3日と続かなかった。 だが奈々花だけは違う。 気づけば、もう一か月も彼の隣にいる。 同じ名家の令嬢で、誰が見てもお似合いの二人だ。 きっと今回は違うのだろう。 きっと彼女は、特別な存在なのだ。 そして自分は―― 一か月後には故郷へ戻り、別の男性と結婚する。 だから願う。 これから先は、互いに過去を手放し、それぞれの幸せを見つけられますように。 第3話 実乃里はホテルの部屋の外で、一晩中立ち続けた。 そして、一晩中聞き続けた。 うとうとと意識が遠のきかけた頃、不意に扉が内側から開かれる。 彼女は瞬時に目を覚ました。 顔を上げると、裕翔の腕に寄り添った奈々花が部屋から出てくるのが見えた。 二人はぴたりと身を寄せ合い、その様子は親密そのものだった。 どちらもバスローブ姿で、緩く開いた襟元からは無数のキスマークが覗いている。 昨夜がどれほど激しい夜だったのか、一目で分かるほどだった。 実乃里が二人を見たのと同時に、二人もまた、まだ外で待っていた彼女の姿に気づいた。 裕翔はじっと彼女を見据える。 「ずっといたのか?」 「はい」 一晩立ち続けた後だったが、実乃里はすでに感情を整理していた。 静かに首を横に振る。 その表情には、何の動揺も浮かんでいない。 だが、そんな反応は裕翔の気に入らなかったらしい。 彼は怒りを抑え込むように低く笑った。 「お前は本当に我慢強いな」 実乃里の表情は相変わらず穏やかなままだった。 確かに以前の自分は裕翔を忘れられなかった。 けれど今は違う。 もうすぐ結婚する身だ。 彼はただの上司でしかない。 上司の私生活など、自分には関係ない。 「他にご用件がなければ失礼します」 そう言って立ち去ろうとした瞬間、何が癇に障ったのか、裕翔の顔色がさらに険しくなった。 彼は一歩踏み出し、彼女の手首を乱暴に掴む。 力が強すぎて、指の関節が白くなるほどだった。 「誰がお前に帰れと言った?」 彼の声は冷たい。 「今夜は奈々花の誕生日だ。盛大なバースデーパーティーを手配しろ」 一睡もしていないまま、さらに大仕事を押しつけられる。 本来なら断るべきだった。反発してもよかった。 だが、今にも炎を噴きそうな彼の瞳を見つめた後、実乃里はほんの少し沈黙し、無感情にその仕事を引き受けた。 「承知しました」 あと29日。それさえ耐えれば、すべて終わる。 バタン、と大きな音を立てて扉が閉まった。 突然の音に肩を震わせながらも、実乃里には彼が何に怒っているのか分からなかった。 そのまま踵を返し、エレベーターへ向かう。 会場の手配、装飾、招待客への対応―― 一日中走り回り、ようやくパーティーの準備を終えた。 そして夜。 パーティーが始まる。 最初に現れたのは、手を取り合った裕翔と奈々花だった。 二人はそのままフロアの中央へ進み、オープニングダンスを踊り始める。 耳元で囁き合いながら優雅に回り、一歩進めば一歩下がる。 息の合ったステップはまるで長年連れ添った恋人同士のようだった。 ダンスが終わると、続いてプレゼントの時間となる。 豪華な七段ケーキがワゴンに乗せられ、ゆっくりと会場へ運び込まれた。 裕翔は深い愛情を滲ませながら、用意していたプレゼントを取り出す。 それは見るからに高価なダイヤモンドネックレスだった。 ペンダントトップには丁寧に磨き上げられた蛍石があしらわれている。 深海を思わせる青緑色の輝きは、一目見ただけで人の心を奪った。 それを見た瞬間、会場から驚きの声が上がる。 「これって、この前謎の大富豪が何千万円も出して落札した『オーシャンハート』じゃないか?」 「まさか津島社長が落札していたなんて!」 「こんな高価なプレゼントを贈るなんて、本気なんだな」 「さっきのダンスを見た?あの優しい目つき。結婚も近そうだ」 会場がざわめく中、裕翔は奈々花の手を握ったまま前へ進み出た。 低く響く声がマイクを通して会場全体へ広がる。 「本日、もう一つ皆さんにご報告があります」 彼は少し間を置き、告げた。 「私と長嶺家の令嬢・奈々花は、婚約することになりました」 突然の発表だった。 しかし、誰も驚かなかった。 むしろ予想通りという空気が広がる。 会場の隅で静かに立つ実乃里は、並んで立つ二人を見つめていた。 その時―― 気のせいだろうか。 婚約を発表した瞬間、裕翔の視線がこちらへ向いたような気がした。 だが次の瞬間には、その考えを振り払う。 きっと気のせいだ。 彼は自分を憎んでいる。 そんな彼が、自分を見るはずがない。 それ以上考えるのはやめた。 すでに裕翔と奈々花の周りには大勢の人が集まり、祝福の言葉が絶え間なく飛び交っている。 乾杯を求める客も次々と押し寄せてきた。 奈々花がグラスを手に取ろうとした時だった。 裕翔がその手を制する。 「酒は飲みすぎない方がいい」 そう言うと、彼は視線を実乃里へ向けた。 「奈々花は酒が飲めない。お前が代わりに飲め」 差し出されたグラスを見ても、実乃里は何も言わなかった。 ただ静かにグラスを受け取り、作り笑いを浮かべる。 そして中身を一気に飲み干した。 祝杯を勧める客は後を絶たない。 彼女は何十杯もの酒を飲まされ続けた。 胃は焼け付くように痛む。 それでも裕翔はわざと彼女を連れ回し、会場中を歩かせた。 吐いては戻り、戻ってはまた飲む。 そんなことを繰り返しながら、一時間以上が過ぎた。 ようやくパーティーは幕を閉じる。 客たちも徐々に帰っていった。 顔色を失った実乃里はスマホを取り出し、配車アプリでタクシーを呼ぼうとする。 その時、着信音が鳴る。 竜之介からのメッセージだった。 開いてみると、何枚もの写真が送られている。 ウェディングドレスの写真と、新居の写真。 続いて電話もかかってきた。 「実乃里、ウェディングドレスを何着か選んでみたんだ。どれが好き?それと新居だけど、この物件でどうかな?」 送られてきた写真に目を通す。 だが胃の痛みがひどく、まともに考える余裕がなかった。 彼女は小さな声で答える。 「どのドレスも素敵だと思うよ。新居も問題ないわ。私は特にこだわりはないから」 そう言い終えた瞬間―― 背後から低く冷えた声が響いた。 「......新居?」 その声に、実乃里の身体がわずかに強張った。 第4話 実乃里は反射的に通話を切り、スマホを背中へ隠した。 ドクドクと激しく脈打つ心音が、自分の耳元で鳴り響いているようだった。 しばらく口ごもった末、ようやく彼の問いをごまかすための理由をひねり出す。 「後輩が結婚することになって......私の意見を聞きたかったみたいです」 幸い、裕翔はそれ以上深く追及しなかった。 ただ眉をわずかに上げ、相変わらず感情のない冷たい声で言う。 「乗れ。送ってやる。そんなところで倒れられたら目障りだ」 「いえ、私は――」 「乗れ」 有無を言わせない口調だった。 実乃里は喉元まで出かかった拒絶の言葉を飲み込み、黙って彼の後について車へ向かった。 後部座席には裕翔と奈々花が座っている。 彼女は仕方なく助手席へ腰を下ろした。 住んでいる場所がかなり郊外だったため、車が進むにつれて周囲の景色はますます寂れていく。 しばらくすると、突然後部座席から奈々花の声が上がった。 「裕翔、大変。バッグをパーティー会場に置き忘れちゃったみたい。取りに戻ってくれない?」 バックミラー越しに、実乃里の視線と裕翔の視線がぶつかる。 だが彼は火傷でもしたかのようにすぐ目を逸らし、そのまま答えた。 「わかった。一緒に取りに戻ろう」 「やっぱり裕翔は優しい!」 奈々花は嬉しそうに笑った。 しかし次の瞬間、困ったような顔で前方の実乃里を見る。 「でも、私と一緒に戻ったら夏井さんはどうするの?私たちについて来てもらうわけにもいかないでしょう?」 突然名前を出され、実乃里の胸が小さく沈んだ。 彼が何を言うのか、なんとなく予想がついてしまったのだ。 そして次の言葉で、その予感は現実になる。 「お前はここで降りろ」 裕翔は淡々と言った。 「自分でタクシーを拾って帰れ」 やっぱり。 そんな感情が胸をよぎったが、彼女は何も言わなかった。 ただ素直に頷く。 車が路肩に停まると、そのまま降車した。 ドアが閉まった次の瞬間、車は再び走り出す。 舞い上がった雪と土埃を残しながら、あっという間に遠ざかっていった。 実乃里は咳き込みながら手を振り、目の前の埃を払う。 そして辺りを見回し、思わず苦笑した。 どうしてよりによって、こんな何もない場所なのだろう。 少し前まで市街地にいたなら、まだタクシーを呼ぶこともできただろうに。 重いため息が漏れる。 配車アプリは何度更新しても反応しない。 しかも外は吹雪いている。 このまま立ち尽くしていても得策ではない。 仕方なく、自分の足で歩き始める。 だが、運の悪さはそれだけでは終わらなかった。 歩き始めて30分も経たないうちに、慣れ親しんだ胃の痛みが再び全身を襲った。 周囲には人影一つない。 実乃里は青白い顔で前へ進もうとした。 だが痛みはどんどん激しくなる。 足元はふらつき、視界も揺れた。 それでも無理に歩こうとしたが、そう遠くまで進めなかった。 不意に視界が真っ暗になる。 次の瞬間、彼女の身体は厚く積もった雪の上へ崩れ落ちた。 そして、そのまま意識を失った。 ―― 再び目を覚ました時。 実乃里は暖かな室内にいた。 傍らには顔を曇らせた裕翔が立っている。 彼女が目を開けても、その表情は少しも和らがなかった。 代わりに一枚の検査結果を放り投げる。 「若いくせに胃をこんな状態にして」 彼は不機嫌そうに言った。 「まるで俺が社員を虐待しているみたいじゃないか」 胃という言葉を聞いた瞬間、実乃里の心臓が跳ねた。 彼の言葉に返事をするより先に、慌てて検査結果を手に取る。 ページをめくりながら確認し、そこに過去の癌の病歴が記載されていないことを知ると、ようやく胸を撫で下ろした。 その後で初めて周囲を見回す。 見慣れない室内。 だがすぐに気づいた。 ここは裕翔の家だ。 彼女は慌てて身体を起こした。 「......どうして私がここに?」 裕翔は相変わらず無愛想な顔をしていたが、その問いには答えた。 「道端で倒れているところを見つけた人がいた」 彼は低い声で続ける。 「お前の緊急連絡先に電話をかけてきたんだ」 そこで言葉が途切れる。 なぜかその声には、わずかな掠れと震えが混じっていた。 「実乃里――」 彼は彼女を見つめる。 「お前の緊急連絡先は、まだ俺なのか?」 第5話 そこでようやく実乃里は思い出した。 この数年間、ずっと裕翔の連絡先を「緊急連絡先」のままにしていたことを。 彼の声があまりにも冷たかったため、責められているのだと思い込んだ彼女は、慌ててスマホを取り出し、彼の目の前で緊急連絡先の登録を削除した。 「すみません......消し忘れていただけです」 これで納得してくれると思っていた。 だが予想に反して、裕翔の顔色はさらに険しくなる。 彼は冷たい視線を向けたまま、ふっと笑った。 その笑みには温度など欠片もない。 そして何も言わず背を向けると、そのまま扉を乱暴に閉めて出て行った。 実乃里には、自分がなぜまた彼を怒らせたのか分からなかった。 ベッドから起き上がり、部屋を出ようとドアノブに手をかける。 扉を開いた、その瞬間―― 勢いよく水が顔面へ降りかかった。 あまりにも突然のことで避ける暇もない。 一瞬で全身ずぶ濡れになった。 顔の水滴を拭って前を見ると、そこに立っていたのはホースを手にした奈々花だった。 申し訳なさそうな表情を浮かべている。 だが、その瞳の奥には悪戯が成功した喜びが隠しきれていない。 「ごめんなさいね、夏井さん」 彼女は笑顔で言った。 「お花に水をあげていて、出てくるのに気づかなかったの。大丈夫?着替えを貸してあげようか?」 そう言うなり、実乃里の腕を取って寝室へ連れて行く。 だが、その部屋へ足を踏み入れた瞬間―― 実乃里はその場で立ち尽くした。 理由は単純だった。 その部屋が、かつて裕翔と二人で思い描いた新婚生活の部屋と、あまりにもそっくりだったからだ。 温かみのある色合いの内装。 家具の配置。 部屋の隅や窓辺に飾られた花々。 すべてが記憶の中の理想そのままだった。 あの頃の二人はまだ貧しかった。 家など買えるはずもなかった。 それでも裕翔はよく彼女を腕の中へ抱き寄せ、首筋へ顔を埋めながら語っていた。 「結婚したら絶対に大きな家を買うんだ。内装は実乃里の好きな薄紫色にしてさ。 大きなソファも置こう。二人で一緒にくつろげるように。そして窓辺には君の好きなオリヅルランも飾ろう」 何度も何度も聞かされた夢だった。 だから4年経った今でも、彼がその話をする時の表情を鮮明に思い出せる。 まるで昨日のことのように。 耳の奥で裕翔の声が蘇る。 だが次の瞬間、奈々花の声がその回想を断ち切った。 「裕翔が言ってたの」 彼女は部屋を見渡しながら微笑む。 「ここは私たちの新居なんですって。もうすぐ私もここへ引っ越してくるの」 そして視線を実乃里へ向けた。 「夏井さんみたいな人、私はたくさん見てきたわ。結局、玉の輿に乗りたいだけでしょう?」 その笑顔は柔らかい。 だが言葉は鋭かった。 「忠告しておくけど、変な期待は捨てた方がいいわ」 実乃里は感情を押し込み、回想から意識を引き戻す。 顔には静かな平穏しか残っていなかった。 「そんなつもりはありません」 「今さら取り繕わなくてもいいわ」 奈々花は鼻で笑う。 「知ってるもの。あなた、昔裕翔を捨てた女でしょう?貧乏だからって見限って、嫌になって出て行った。それなのに今は彼が成功したから戻ってきた。恥ずかしいと思わないの?」 言葉は容赦なく胸を刺した。 だが実乃里の表情はほとんど変わらない。 その一部は事実だからだ。 少なくとも他人から見れば、そう映るのは当然だ。 彼が最も苦しかった時に去った。 そして今、彼は若き実業家として成功している。 本来なら彼の人生に再び現れるべきではなかった。 だから病気が治った後も、復縁を望んだことは一度もない。 この会社へ入社したのだって、偶然だった。 ただの偶然。 彼を追いかけてきたわけではない。 実乃里は目を伏せる。 その声はあまりにも小さく、目の前にいる奈々花でさえ聞き取りにくいほどだった。 「......消えますから」 第6話 実乃里は一人で自宅へ戻った。 丸一日しっかり休養を取ったおかげで、翌日にはようやく体調も落ち着き、再び出社することができた。 席に着いたばかりの彼女のスマホに、一通のメッセージが届く。 送信者は裕翔だった。 【机の上にある契約書を持って来い。十分後の会議で使う】 実乃里は【承知しました】と返信し、立ち上がって社長室へ向かった。 契約書を手に取り、そのまま会議室へ向かおうとした時だった。 社長室所属の秘書たちが、慌ただしい様子で彼女のもとへ駆け寄ってくる。 「実乃里、大変なの!社員食堂の料理に問題があったみたいで、何人かお腹を壊したの。冷蔵保管庫からサンプルを取り出して調べなきゃいけないんだけど、鍵はあなたが持っているでしょう?一緒に来てくれない?」 本当は先に契約書を届けてから対応したかった。 だが彼女たちは執拗に引き止める。 「社員たちが騒ぎ始めてるの!早く対処しないと!」 時計を見る。 まだ少し余裕はある。 そう判断した実乃里は、彼女たちについて行くことにした。 冷蔵保管庫へ到着し、鍵で扉を開ける。 中へ入るよう促そうとした、その瞬間だった。 背後から突然強い力で押された。 「っ――!」 よろめきながら数歩前へ出た時には、すでに扉が閉まっている。 ガシャンという重い施錠音が響いた。 冷蔵保管庫の温度は極端に低い。 社内は暖房が効いているため、皆薄着のままだった。 当然、実乃里も例外ではない。 その服装では寒さに耐えられるはずもなく、身体は瞬く間に震え始めた。 彼女は慌てて扉へ駆け寄り、必死に叩く。 「開けて!」 鉄扉に拳を打ちつける音が冷蔵庫内に響き渡る。 「何のつもりなの!?早く出して!」 幸いにも扉の防音性は高くなかった。 だから外で笑っている声がはっきり聞こえる。 「長嶺様から、ちょっと懲らしめておけって言われてるの。中で大人しくしてなさい。安心して。本当に凍死させるつもりはないから」 言葉が終わると同時に、足音が徐々に遠ざかっていく。 助けを求める相手はいない。 実乃里はスマホを取り出し、誰かに連絡しようとした。 だが画面上部に表示された文字を見て、絶望が胸を締め付ける。 ――圏外。 骨まで凍るような寒さが、露出した肌から全身へ広がっていく。 彼女は部屋の隅へ身を寄せ、小さく身体を丸めた。 腕で自分を抱き締めながら、少しでも体温を逃がさないよう必死に耐える。 だが、それも焼け石に水だった。 時間が経つにつれ、震えさえ弱くなっていく。 どれほど経ったのだろう。 意識はぼんやりと霞み始めていた。 もう限界だと思ったその時―― 冷蔵保管庫の扉が再び開いた。 だが実乃里は動かなかった。 それすらも、凍え死ぬ直前に見る幻覚なのではないかと思ったのだ。 やがて女性の不安そうな声が聞こえてくる。 「ちょっと......扉を開けたのに出てこないよ?まさか本当に何かあったんじゃ......」 呼ばれた女性も動揺を隠せない。 「知らないわよ!早く様子を見てきなさい!」 ようやく誰かが中へ入ってきた。 そして見つけた。 まつ毛にまで白い霜が張り付き、ぐったりと座り込んでいる実乃里を。 「大変!早く運び出して!」 数人が慌てて彼女を外へ連れ出した。 暖かい空気に触れたことで、凍り付いていた身体に少しずつ感覚が戻ってくる。 実乃里が反応を示した途端、秘書たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 責任を追及されるのが怖かったのだろう。 だが実乃里には彼女たちを追う余裕などなかった。 ふとスマホを見る。 裕翔から契約書を届けるよう言われていた時間から、すでに一時間半以上が経過していた。 血の気が引く。 身体はまだ冷え切ったままなのに、それでも彼女は無理やり立ち上がった。 契約書を抱え、会議室へ向かう。 息を切らしながら辿り着いた時には、会議はすでに終わっていた。 広い会議室の中に残っていたのは二人だけ。 顔色の悪い裕翔と、面白そうに事の成り行きを眺めている奈々花だった。 彼女の姿を見た瞬間、裕翔は手元のコーヒーカップを掴み、そのまま投げつけた。 「夏井実乃里!」 怒りを隠そうともせず怒鳴る。 「今が何時だと思っている!?」 身体はまだ震えて、体温も戻り切っていない。 反応は鈍く、避けることもできない。 カップは足元で砕け散った。 飛び散った破片が脛を切り裂き、細かな傷口から血が滲む。 それでも彼女は痛みに耐えながら説明しようとした。 「申し訳ありません......わざとではないんです。長嶺さんが何人かを呼んで私を冷蔵保管庫に閉じ込めて――」 だが、その言葉は最後まで届かなかった。 裕翔の耳には、それは責任逃れの言い訳にしか聞こえなかったのだ。 彼の怒りはさらに膨れ上がる。 その声は氷のように冷たかった。 「そんな話を俺が信じると思うのか?」 彼は吐き捨てるように続ける。 「奈々花がお前みたいに陰険な真似をするとでも?」 そう言って契約書を掴み上げると、彼女へ向かって乱暴に投げつけた。 だが実乃里は避けることすら忘れていた。 彼の言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になっていたからだ。 口を開く。 けれど何も言えない。 ――そうだ。どうして忘れたのだろう。 裕翔の中で自分は昔からずっと、一番残酷で、一番薄情な女だ。 第7話 実乃里は苦笑を浮かべると、静かに視線を落とした。 もう何も弁解しなかった。 ただ黙ってしゃがみ込み、散らばった書類を拾い集める。 重苦しい沈黙が流れる中、口を開いたのは終始おとなしく裕翔の隣に座っていた奈々花だった。 もっとも、それは場を収めるためというより、実乃里を彼の側から遠ざけるための提案だった。 「夏井さん、最近あまり仕事に集中できていないみたいですし」 奈々花は柔らかく微笑む。 「ちょうど私も結婚式の準備で手伝ってほしいことがあるんです。しばらく私のところに付いてもらってはどうでしょう?」 裕翔はまだ怒りが収まっていない様子だった。 奈々花の提案を聞いても、実乃里に視線を向けることすらしない。 当然、本人の意思を確認することもなく、その場で了承した。 こうしてその日から、実乃里は奈々花の専属のような扱いになった。 そして奈々花は、彼女をいたぶることに異様な執着を見せた。 バラの茎から棘を一本一本素手で抜かせる。 深夜に買い物へ走らせ、少しでも気に入らなければ癇癪を起こす。 そんな日々が続いた。 この日も、奈々花から押し付けられた仕事をようやく終えた実乃里は、疲れ切った身体で部屋の隅に腰を下ろした。 そしてスマホを取り出し、密かに設定しているカウントダウンを見つめる。 残り7日。 その数字を確認した瞬間、ようやく胸を撫で下ろした。 あと7日。 7日経てば、すべて終わる。 だが次の瞬間―― 「何を見ている?」 低く冷たい声が背後から響いた。 振り返ると、そこには険しい表情の裕翔が立っている。 実乃里は画面を消し、首を横に振った。 「何でもありません」 裕翔は眉をひそめた。 何かがおかしい。 見間違いでなければ、先ほど画面に映っていたのはカウントダウンだった。 いったい何を数えている? 問い質そうとしたその時―― 「夏井さん!」 離れた場所から奈々花の声が響いた。 「ウェディングドレスを試着するから手伝って!」 実乃里は裕翔を一瞥する。 彼から特に指示がないことを確認すると、すぐ試着室へ向かった。 カーテンを開ける。 そこにはすでにウェディングドレスを身にまとった奈々花が立っていた。 背中のファスナーだけがまだ閉まっていない。 彼女はそれを待っていた。 実乃里は近づき、手を伸ばす。 だがファスナーに触れるより早く、突然悲鳴が上がった。 「痛っ!」 実乃里は思わず動きを止めた。 目を向けると、奈々花の背中には長く赤い傷が走っている。 まるでファスナーで強く引っ掻かれたような傷だった。 状況を理解する暇もなかった。 悲鳴を聞きつけた裕翔が勢いよく試着室へ飛び込んできたのだ。 傷を見た瞬間、彼の顔色が変わる。 「どうした!?」 慌てて奈々花のもとへ駆け寄る。 奈々花は今にも泣き出しそうな顔を作った。 「裕翔、夏井さんはわざとじゃないの......」 口では庇うようなことを言う。 だがその一言で、すべての責任は実乃里へ押し付けられた。 案の定、裕翔は冷たい目で彼女を見た。 「わざとじゃない?」 彼は吐き捨てるように言う。 「俺には故意にしか見えないな。前回は奈々花を陥れようとして、今回は怪我までさせた。奈々花はお前を責めず、処分されないよう自分の側に置いてやったのに......それがお前の恩の返し方か?」 一言一言が鋭く胸へ突き刺さる。 実乃里は知っていた。 どれだけ説明しても、彼は信じない。 だから黙って怒りを受け止めるしかない。 「出ていけ」 裕翔の声は冷酷だった。 「自分の何が悪かったのか分かるまで、戻って来るな」 彼女は何も言わず試着室を後にした。 だがどうしても理解できなかった。 なぜ奈々花はこんなことをするのだろう。 二人はもうすぐ結婚する。 そして自分も間もなくこの会社を辞める。 何もしなくても、裕翔はいずれ奈々花の夫になる。 自分たちの間に可能性など、とうの昔になくなっているのに―― 外では大雨が降っていた。 薄いスーツ姿の実乃里は、あっという間に全身ずぶ濡れになる。 冷たい雨が骨の髄まで染み込んでくる。 だが彼女はその場を離れなかった。 明かりの灯る窓越しに、部屋の中がよく見えたからだ。 裕翔が優しく奈々花の傷へ薬を塗る姿。 手当てが終わると二人で映画を選び、ソファに寄り添って座る姿。 そして物語が進むにつれ、自然に唇を重ねる姿。 そのすべてが、はっきりと見えた。 豪雨の中で立ち尽くしていた実乃里の身体は限界を迎える。 足元がふらつく。 そしてそのまま地面へ崩れ落ちた。 意識の奥から、昔の記憶が次々と浮かび上がる。 ――「俺の実乃里は、世界で一番可愛い実乃里だ」 そんなふうに笑ってくれた彼。 映画館へ行くお金がなくて、小さなソファに肩を寄せ合い、古くて動きの悪いスマホで時代遅れの映画を観た夜。 高価すぎて諦めた一本のブレスレット。 当時の二人には手の届かない品だった。 それを買うため、彼は何日も徹夜でゲームの代行プレイを続けた。 そしてようやく手に入れたブレスレットを大切そうに差し出しながら言った。 ――「実乃里、いつか必ず君に最高のものをあげる」 異国の地で働きながら病と闘っていたあの苦しい日々。 彼女はその思い出だけを支えに生きてきた。 けれど今、激しく降り続く雨の中で、実乃里は自らその記憶を心の奥底へ沈めていく。 二度と思い返さないように。 二度と縋らないように。 過去は過去のまま。 本当に終わったものとして。 これからは、もう振り返らない。 第8話 雨に打たれたせいで、翌日には実乃里は風邪をこじらせ、高熱を出してしまった。 やむを得ず数日間の休暇を取ることになる。 その間、熱が少し下がった頃を見計らい、彼女は借りていた部屋を引き払った。 そしてこれまで集めてきた裕翔にまつわる品々を、一つ残らず整理してネットへ出品した。 裕翔の知名度のおかげもあり、それらは掲載して間もなくすべて売り切れた。 かつて宝物のように大切にしていた品々が、一つ、また一つと落札されていく。 それを見つめながら、胸の奥に残っていた思い出もまた、風に吹かれるように静かに消えていった。 十分に休養を取った後、実乃里は再び会社へ向かった。 今日が最後の日だった。 だから彼女はスーツケースを引いて出勤していた。 退職手続きが終わり次第、そのまま空港へ向かうつもりだったのだ。 席に着くと、まずは残っていた業務の引き継ぎを済ませる。 社員証も入館カードも返却した。 すべての手続きが終わり、いよいよ会社を後にしようとした時だった。 スマホに裕翔からメッセージが届く。 長い買い物リストだった。 続いて送られてきたのは、命令口調の一文。 【今日中に全部揃えてうちへ届けろ】 実乃里はざっと目を通した。 リストには宝飾品、ドレス、靴、高級ブランドのバッグなど、高額な品がずらりと並んでいる。 断ろうとした時、スマホが通知音を鳴らした。 開いてみると、竜之介からのメッセージだった。 【実乃里、今日帰ってくるんだよね?迎えに行こうか?】 【大丈夫。自分で帰れるから。それより結婚式の準備はどう?】 【全部終わったよ。あとは君が帰ってくるのを待つだけだ】 結婚の話題になると、彼の返信はいつもより早い。 その文章からも嬉しさが伝わってくる。 実乃里が【いろいろありがとう。お疲れさま】と返すと、彼はすぐに返してきた。 【気にしないで。これは俺がやりたかったことだから】 少し間を置いて、さらにもう一通。 まるで誓いのような真剣な言葉だった。 【実乃里、これからの人生、よろしくお願いします】 その頃。 裕翔はなかなか返信が来ないことに苛立っていた。 不機嫌そうな顔で社長室を出る。 直接問いただすつもりだった。 だが秘書室へ向かい、そこで目にした光景に足を止める。 実乃里が席に座り、スマホを見ながら誰かと楽しそうにやり取りしていた。 さらに近づいた時、画面に映る男性のアイコンが目に入る。 その瞬間だった。 まるで炭酸飲料の瓶を激しく振った後に栓を抜いたように、胸の奥から様々な感情が噴き出した。 酸っぱいような苦しさ。 抑え込んでいた苛立ち。 そして嫉妬。 自分でも制御できない感情に突き動かされ、声が自然と大きくなる。 「夏井実乃里!」 怒鳴り声に彼女が驚いて顔を上げた。 「リストを送っただろう!今日中に全部買えと言ったのに、何を呑気に雑談している!?」 実乃里はそこでようやく思い出した。 裕翔に返信するのを忘れていたことを。 彼女は立ち上がり、退職したことを説明しようとする。 「社長、その件ですが、他の方にお願いしてください。私はもう――」 だが最後まで言わせてもらえなかった。 裕翔のスマホが鳴ったのだ。 彼は彼女を見ることさえせず、画面を確認する。 表示された名前を見た瞬間、そのまま電話に出た。 「奈々花?」 先ほどまでの険しい表情が少し和らぐ。 「今行く」 そう言い残し、足早に立ち去っていった。 彼の姿が見えなくなった途端、周囲の同僚たちがようやく実乃里のもとへ集まってくる。 驚きを隠せない様子だった。 「実乃里、どういうこと?退職するの、社長は知らなかったの?え、でも......退職届にはサインしてるんでしょう?」 その言葉に、実乃里は退職届を提出した日のことを思い出した。 思わず自嘲気味に笑う。 確かに裕翔は、自分が辞めることなど知らなかった。 あの日、彼の頭の中は奈々花とのディナーのことでいっぱいだった。 彼女が差し出した書類をろくに確認もせず、そのまま署名したのだ。 実乃里は何も説明しなかった。 同僚も深追いはせず、別の話題へ移る。 「でも、どうして急に辞めるの?」 彼女は微笑んだ。 隠すつもりはない。 「結婚するんです。実家が遠いので、披露宴には呼べませんけど。その代わり、お祝いのお菓子を用意しました」 そう言って、あらかじめ準備していたお菓子を取り出す。 一人ひとりに手渡していった。 すべて配り終えた時、最後に一袋だけ残った。 実乃里はふと、今は誰もいない社長室へ目を向ける。 少し考えた後、その袋を手に取った。 扉を開き、静かな室内へ入る。 そして最後のお菓子を、そっと彼の机の上へ置いた。 ――裕翔。これが最後の別れだ。 すべてを終えた実乃里はスーツケースの持ち手を握る。 そしてM.Eのビルを後にした。 一度も振り返ることなく、そのまま前だけを見て歩き続けた。