Đang tải thông tin quảng bá...
私は空へ、あなたは後悔の中へ
葉酸を飲み続けて2年。だが、それが避妊薬にすり替えられていたと知ったその日、神谷遥(かみや はるか)は雷に打たれたような衝撃を受けた。 ...
Chương (1)
第1章
葉酸を飲み続けて2年。だが、それが避妊薬にすり替えられていたと知ったその日、神谷遥(かみや はるか)は雷に打たれたような衝撃を受けた。
すぐさまタクシーを拾い、神谷怜(かみや れい)に真相を問いただそうとバーへ向かう。
個室の前までたどり着いたその時、中から神谷汐里(かみや しおり)の責めているような声が聞こえてきた。
「怜!どうして何の理由もなく私の彼氏を殴ったの?彼は今も病院にいるんだよ。今すぐ謝りに行って!」
第1話
葉酸を飲み続けて2年。だが、それが避妊薬にすり替えられていたと知ったその日、神谷遥(かみや はるか)は雷に打たれたような衝撃を受けた。
すぐさまタクシーを拾い、神谷怜(かみや れい)に真相を問いただそうとバーへ向かう。
個室の前までたどり着いたその時、中から神谷汐里(かみや しおり)の責めているような声が聞こえてきた。
「怜!どうして何の理由もなく私の彼氏を殴ったの?彼は今も病院にいるんだよ。今すぐ謝りに行って!」
そんな汐里を見つめながら、怜は険しい表情のまま黙り込んでいる。
気まずい空気に耐えきれなくなったのか、怜の友人がかわりに口を開いた。「その男の浮気現場を見たんだ。だから、怜はお前のためを思って……」
それでも納得できない様子の汐里は、やはり怜に対ししつこく謝罪を強要し続け、最後には悔しさのあまり目を赤く潤ませた。
汐里の泣き顔を見た瞬間、怜の心は揺らいだ。
険しい表情のまま、汐里の携帯を取る。
電話が繋がった途端、受話器の向こうからは、おどおどとした男の声が聞こえてきた。
「怜さん、すみませんでした。二度とあんな真似はしませんから」
相手の声に不快感を露わにしながらも、涙を浮かべる汐里を見て、怜は怒りを押し殺し、渋々謝罪の言葉を並べた。
「手を出して悪かったな」
「あ、え?い、いえ……骨折だけだから、すぐに退院できるって言われたので大丈夫です」
骨折していると聞いた汐里は、慌て始める。
怜の手から携帯を奪うように取り返すと、電話の相手にすぐ行くと言い、個室を飛び出していった。
汐里の姿が見えなくなるや否や、怜の友人たちは一気に不満を爆発させた。
「怜、なんで謝ったりなんかしたんだよ?浮気してたのは汐里の彼氏の方だぞ。それに、お前は汐里のために殴ったのにさ」
「ったく、汐里のやつ。お前の家に養子で迎えられたとはいえ、本当に昔から何一つ変わってないな。いつだって自分のことしか考えていない。あの頃、お前たちは確かに両想いで、お前があいつのために家に逆らった時だって、何も言わずに黙ってた。
それだけじゃない。お前が汐里を助けるために視力を失ったというのに、別れを切り出したかと思えば、あっさり別の男と海外へ行ってさ。このままあいつのわがままを聞いてたら、お前が駄目になっちまうぞ?」
「もう汐里のことなんか、ほっとけよ。それより、そばにいてくれる遥さんのことを大切にしたら?ずっと支えてくれているし、二人の子供を一番望んでいるのは彼女なんだぞ。それに2年間、お前が避妊薬を飲ませてることを知ったら、遥さん絶対に悲しむからな」
友人たちが怜のことを思っていくら言っても、怜は押し黙ったまま動かない。
すると一言、怜が静かに口を開いた。
「好きでもない相手と結婚しただけでも十分な苦痛なんだ。そこに子どもまでできれば、苦しみが増えるだけで、何一ついいことはないんだよ」
ドアに手をかけていた遥の手は激しく震え、心臓は刃物でえぐられたかのように痛み、立っているのもままならなくなった。
ふらつく足でその場から駆け出す。しかし、どこへ向かえばいいのかすら分からない。
冷たい夜風に吹かれ、記憶の奥に仕舞い込まれていた日々が蘇ってきた。
バスケットコートで一際輝いていた怜。彼を見た瞬間、遥は恋に落ちた。
その後、怜が数え切れないほどの女子から憧れの眼差しを向けられながらも、誰とも特別な関係を持たないことを知り、遥はある方法でアプローチすることに決めたのだ。
髪をショートカットにし、バスケ部に入部して怜との距離を縮める。
そうやって時を重ねるうちに、遥は怜にとって「友人」のような存在になった。
高校卒業後も、彼を追いかけ航空大学に入学し、その後も同じ航空会社に入社して養成訓練を受け、何年にも及ぶ努力の末、怜の副操縦士というポジションを掴んだ。
いつかは怜の心を自分に向かせることができると信じていた。
しかし、怜には愛する女性がいることを、ある日偶然にも知ってしまったのだ。
それは怜の家に養子として引き取られた、汐里。
怜は汐里のために、女性からの好意を一切受け入れなかった。それどころか、汐里と共にいるために家の後継者の地位さえ捨て、自ら航空業界の道へと飛び込んだ。
このことを知った時、遥は打ちのめされ、いっそもう諦めてしまおうかと考えた。
しかし、遥が怜から離れることを決意しかけた時、ある事故が起きて、怜は汐里を救うために視力を失ってしまったのだった。
それでも、怜が愛していた汐里はそんな彼を見捨て、海外へと旅立っていった。
だから、遥は怜の隣で、彼の人生で一番辛い時期を支え続けた。
ある時、酔いつぶれた怜が、遥をあろうことか汐里と勘違いして、遥に唇を重ねた。
そしてその夜、何度も耳元で繰り返される「汐里」という甘い囁きを聞きながらも、遥は幸せな夢の一部として噛み締めていた。
翌朝、後悔を浮かべた瞳でベッドに呆然と座る怜。
「ごめん、遥。昨晩は……その、勘違いしていて。この責任は、金で取るか?それとも籍を入れるか。お前はどうしたい?」
心臓の高鳴りを抑え、遥は迷わず後者を選んだ。
そうして二人は結婚し、夫婦となった。
その後、遥は名医を見つけ、怜の瞳に光を取り戻す。
怜は再びエリートの道へと返り咲き、二人の日々もようやく穏やかさを取り戻していった。怜がずっと自分を「親友」としか見ておらず、恋愛感情を抱いていないことは分かっていたが、それでも遥は不満を抱くことなく、いつか必ず彼の心を振り向かせられると信じ続けていた。
しかし、汐里が恋人を連れて帰国してから、嫌というほど思い知らされた。怜の視線は無意識に汐里を追い、彼女のためなら自分との約束だって簡単に後回しにした。
さらには、これまで怜が何より大切にしてきた信念や誇りさえも、汐里の前ではどうでもいいものらしかった。そのたびに胸を締めつけられながら、遥はようやく気づいた。怜の心には、ずっと汐里しかいなかったのだと。
それでも、遥は怜に対しての気持ちが捨てられず、諦めきれなかった。
だが今日、ようやくあきらめる決心がついた。
一晩中冷たい風に吹かれた遥は、空が白んできた頃、魂が抜けてしまったかのような姿で帰宅した。
怜は一足先に帰ってきており、遥を見て少し驚いた表情を浮かべる。「こんな時間に帰ってくるなんて珍しいな。どこ行ってたんだ?」
「友達との食事会」頭の中が整理できず、遥は適当な嘘で誤魔化した。
怜はそれを怪しむことなく、軽く遥を抱き寄せた。「お前のカレンダーを見たら、今日は排卵日だった。今晩、試してみるか?」
2年間、考えられるすべての妊活を試してきた遥だったが、一向に兆しはなかった。
自分の身体のせいかと、自責の念で泣いた日々。
でもまさか、すべて怜の仕業だったなんて。
そして今この瞬間でさえ、彼は笑顔で嘘をつき続けている!
遥は悲しく微笑むと、体調が優れないからと言って、やんわりと断った。
怜も疑うことはなく、遥の額に一度口づけを落とすと、書斎へと入っていった。
ドアが閉まると同時に、遥の携帯が震えた。
相手は運航部長で、遥の上司。
「お疲れさま。もうすぐ毎年恒例の昇進審査が始まる。遥副機長はずっと神谷機長の副操縦士としてやってきたから、実績は十分だ。今の君なら十分昇進の可能性があるし、そろそろ一人立ちを検討してみないか?」
これまでの日々を思い返しながら、遥はどうしようもない疲労感に襲われた。そして、かすれた声で口を開く。
「部長、挑戦します。でも、航路はA980でお願いできますか?」
一瞬沈黙が流れた後、驚いた部長の声が返ってきた。
「A980と神谷機長の担当するY628じゃ方向は真逆だし、海外常駐になるよ?それでも、A980を選ぶってなると、怜くんとは会えなくなると思うけど……本当にそれでいいの?」
「問題ありません」
遥の固い決意に、部長は溜息をつきつつも、それを受け入れてくれた。
「わかった。なら昇進の手続きを進めておくよ。決まり次第出発できるように、準備しておいてね」
遥は返事をすると、通話を切った。
寝室に戻り、クローゼットの奥に隠していたファイルを取り出す。
中には離婚協議書と離婚届。どちらも怜の部分は記入済みだった。
怜は視力を取り戻した日、SNSに投稿された汐里と恋人の写真を見てしまい、そのまま酒を浴びるように飲み酔いつぶれ、これを遥に突きつけてきたのだった。
今でもあの瞬間を、遥は鮮明に覚えている。酔いで意識が朦朧とし、目を赤くした怜が言った言葉……
「遥、俺は後悔してるんだ。でも、お前はこの数年間、俺のそばで支えてくれただろ?だから、せめてもの償いとして6億お前にやる。
それに、あの夜の責任としても……6億。合わせて12億お前にやるから、離婚してくれないか?お願いだよ……俺は、汐里に会いに行く。なあ、お前も知ってるだろ?俺には汐里がいないと駄目なんだよ……」
その夜、遥は一晩中泣いた。
次の日、怜は一切このことについて言ってこなかった。おそらく、完全に忘れていたのだろう。
ファイルを手に持ったまま彼女は小さく微笑む。怜、あなたの望み通りにしてあげる。
震える手でペンを走らせ、自分の欄を埋めていく。
第2話
そして、1ヶ月後はちょうど怜の誕生日。その時に、プレゼントとしてこれを渡してあげよう。それまで、自分は我慢すればいい。
そう考えると、張り詰めていた遥の心がすっと軽くなった。
一階でシャワーを浴び終え、寝室に戻ると怜はもう寝ていた。
寝ていてもなお、彼は遥を抱き寄せて寝言を言う。
そしてどの寝言も、汐里に関係するものだった。
この2年間、遥はもう慣れきっていた。
かつては、自分が諦めなければ、いつかは振り向いてもらえると信じていた。
だが、自分のそんな努力なんて、すべて無駄だった。
だからもう、無理に頑張り続ける必要なんてない。
翌日の朝9時、遥は空港へと向かった。
オフィスのホワイトボードには、今週のフライト予定が詳しく書かれている。
怜に同行する副操縦士として、今日の午後3時のフライトも、変わらず怜と同じフライトに乗務しなければならない。
準備を終え、遥は定刻通りにコクピットへ入った。
少し遅れてきた怜を一目見れば、彼が何を求めているかはすぐに分かる。遥はそっと手袋を怜に手渡した。
一緒に乗り込んできた客室乗務員が、二人の息の合った様子を見て冷やかす。
「さすが長年一緒にやってきただけありますね。お二人とも、息ぴったりです。私の弟がもうすぐ航空大学校を卒業して、目標は神谷機長なんて言ってるんですけど、当分席は回ってきそうにないですね」
怜は口元を少し上げると、隣の遥を見た。「俺と遥は最高のパートナーで、ずっと一緒さ」
前の遥なら胸をときめかせていたはずだろう。
しかし今日は、言葉を返すこともなく、黙々とシート位置を調整する。
飛行機は問題なく離陸した。
だが、着陸の30分前、突然の乱気流に見舞われ、機体が大きく揺れ始めた。
客室では物が散乱し、乗客の悲鳴が上がる。客室乗務員たちもパニックになり、手が付けられない状態だった。
そんな状況下でも、怜は冷静さを保ち、緊急着陸の準備をしつつ機内放送でアナウンスを行う。
遥も気を抜かずに、乱気流の状況を細かく確認し続けた。
乗務員を落ち着かせた後、怜はティッシュを何枚か取り、優しく遥の額の汗を拭い、軽く冗談を飛ばした。
「遥、大丈夫だよ。もし本当に何があっても、一緒に埋めてもらえれば、死ぬまで一緒だってことだろ?」
遥は視線を落とし、言葉を返す代わりに管制塔への連絡を続ける。
30分間の管制誘導の末、機体は無事最寄りの空港に着陸できた。
この神谷夫婦の完璧な対応は業界内で瞬く間に広がり、称賛の声が上がった。
フライトを終えて戻ると、一緒に乗っていた同僚たちがコーヒーを差し入れてくれ、ため息交じりに言った。
「人の本心は非常時にこそ表れるって言うけど、あんな危険な状況でも神谷機長が真っ先に心配したのは遥副機長だったね。本当に羨ましいよ」
「私だって、あんなに気が利いて、かっこいい旦那さんと結婚できたら、思い残すことなんてない!そうでしょ、遥副機長!」
遥は曖昧に笑って、そのまま休憩室へと戻る。
扉を開けると、机に置かれている怜の携帯がしきりに震えていた。
何気なく手に取ると、そこに表示されていたのは汐里の名前で、遥は少し迷ったが、電話に出ることにした。
「怜、大丈夫?無事なの?あんな遺言みたいなメッセージ突然送ってくるなんてさ……」
今にも泣きそうな汐里。遥は少し戸惑い、なんと言ったらいいか分からなかった。
いつまで経っても返事がないためか、汐里は何度か「もしもし?もしもし?」と繰り返したあと電話を切った。
通話が終わると、ラインのトーク画面へ自動的に戻った。
すると、遥の目に飛び込んできたのは、怜が30分ほど前に顧問弁護士へと送ったメッセージ。
【もし自分が事故で他界した場合、私名義の財産はすべて、妹である汐里に譲渡してください】
それと同時に、ピン留めされた汐里へのメッセージにも目が止まった。
【今日の機内トラブルが起こった時、ここで死んでも悪くないなって思ったんだ。夫婦生活を終えることはできるし、汐里が俺のために泣いてくれるって思ってさ。
俺は天国で待ってるから。もし生まれ変わったら、次は兄妹じゃない関係で会いたいな】
メッセージを読み終えた遥は、胸に何かがつかえたような、息苦しさを覚えた。
ドアの方から足音が聞こえてきたので、慌てて携帯を元に戻し、背を向け外に出る。
怜とすれ違ったとき、名前を呼ばれたが、遥は聞こえないふりをして通り過ぎた。
屋上でしばらく冷たい風に当たり、遥は次の指示を待った。
気持ちを切り替え、何事もなかったかのようにオフィスへと戻る。
フライトレポートを書き終えた怜は、真っ先に汐里の元へ向かっていった。
自分を振り返りもしない背中を見て、遥は少し俯き、そのままタクシーを止めた。
帰宅すると、段ボールを用意し、家中の不用品を片付け始める。
半分ほど片付けたところで怜が帰宅し、何をしているのかと聞かれた。
遥が「しばらくの間留守にするから片付けてるだけ」と言うと、彼は特に気にも留めず、頷いた。
自分に無関心な怜を前に、遥は少し沈黙したあと、静かに口を開く。「夏のシャツは引き出しの中に、薬箱は倉庫に移動させたから。あと、大切な書類は書斎の……」
あまりにも細かいことに、怜は違和感を覚え、話を遮った。
「なんでそんなこと俺に言うんだ?」
第3話
「私がいなくなったあと、分からなくなるんじゃないかって思って」
その言葉に怜は眉をひそめる。「数日離れるだけだろ?別になんてことないよ」
怜は遥が消え去る可能性など、微塵も考えていないようだ。
その事実に気づき、遥は唇を小さく震わせて何かを言いかけた。
しかし、結局は言葉を飲み込み、俯いて荷物の整理を続ける。
怜もワイシャツの袖をまくり、一緒に片付け始めた。
しばらく片づけていると、遥が捨てようとしているものが自分に関連する物ばかりだと気づき、思わず声をかけた。
「これ、俺の高校時代のバスケウェアだろ?なんでお前が持ってるんだ?それに、南都大の資料も溜め込んでたみたいだけど、本当はそこに進学したかったのか?このラブレターも、お前が書いたやつ?」
もう全てを手放そうと決めていたため、遥はかつての恋心についても、ありのままを平静に答えることができた。
隠し事などせず、正直にひとつひとつ答えていく。
「バスケウェアはあなたの友達から6万円で買い取ったし、元々は医学部志望だったけど、あなたと一緒にいたくて航空大学校に変えたの。その手紙は若い頃に書いたやつなんだけど、渡せなかっただけ」
怜の全身に衝撃が走った。
まさか、遥が高校時代から自分に好意を寄せていたなんて……
しかし、それほど大切に保管してきた思い出の品を、なぜ今さら捨てる必要があるのだ?
腑に落ちない思いで遥に尋ねようとしたその時、ふと彼女の左手に目が留まった。「婚約指輪はどうしたんだ?」
遥は顔色一つ変えずに嘘をつく。「飛行機が揺れた時に、無くしちゃったみたい」
何もついていない遥の薬指を見て、なぜだか怜は言いようのない違和感を覚えた。
怜は片付ける手をとめ、遥の手を取り部屋を出た。
「新しい指輪を買いに行こう」
何度か断った遥だったが、怜の意志は固く、そのまま店へ向かうことになった。
店に到着すると、店長は怜を見るなり熱烈な態度で出迎えてきた。
「神谷さん、お久しぶりです。4年前、10種類もの指輪をご注文されて、毎年ひとつずつ持ってプロポーズするんだっておっしゃっていたのに、その後連絡も取れなくなってしまったので、忘れてしまわれたのかと思っておりましたよ!」
4年前といえば、怜が視力を失う前年。
怜はあの頃から既に、汐里へのプロポーズを考えていたらしい。
たとえ家が反対しようと、汐里が決断を先延ばしにしようと、そして、どれだけの困難が待っていようと……彼はずっと汐里と一緒になる未来を諦めていなかったのだ。
遥は黙ったまま、店員から視線を外す。
一方、怜は少し焦りを滲ませた様子で遥に説明した。「過去の話だから、気にしないで」
「本当にもう過去のことなの?」逆に問い返す遥。
怜は遥の言っている意味が分からなかった。「えっ?」
遥は首を振り、そのまま俯いてケース内の指輪を眺める。
この婚姻関係を手放すことを決めた今、婚約指輪など、自分にはもう必要なかった。だから、遥はどの指輪にも難癖をつけて、空腹を言い訳に店を離れ、レストランへと向かった。
テーブルにつくと、怜は10品ほど注文した。
どれも、身内の食事会で汐里が好きだと話していたメニュー。
遥は無言で海鮮が並ぶテーブルを眺めていた。
ここ数年ずっとそうだったので、今更驚くこともない。
食事が終わると、二人は隣り合うことなく、前後になって個室を出た。
店の出口に向かって歩いていると、後ろを歩いていたカップルが、何が理由か分からないが激しい口論を始め、もみ合いになったのち、一人が遥にぶつかった。
体勢を崩した遥はよろけ、そのまま大理石のテーブルの角に額を強く打ち付けた。
傷口から血が溢れ出し、彼女の服と床を真っ赤に染めていく。
痛みで息を呑んだ遥は、とっさに怜の姿を探した。
しかし、彼はすでに出口付近まで歩みを進めており、携帯で誰かと会話をしている。
「彼氏と喧嘩したって?本当に別れるのか?分かった。今からすぐに行くよ」
怜の声には、明らかな期待が滲み出ていた。
通話を終えた怜が振り返った。笑みが浮かんでいたその瞳が、血まみれの遥を捉えた瞬間、凍りつく。
駆け寄ってきた怜だったが、何を思ったのか、急にその足を止めた。
彼が見せた一瞬の迷いに、遥は手を固く握りしめる。
遥は助けに来たスタッフに手を貸してもらい、痛みを堪えて立ち上がる。「忙しいなら、行っていいよ。私は大丈夫だから。病院くらい一人で行ける」
その一言が免罪符となったのか、怜はほっとした表情を浮かべ、車の鍵を遥に渡すと、急ぎ足で去っていった。
その遠ざかる後ろ姿を見ながら、遥は親切な人が渡してくれたハンカチで傷口を塞いだ。
ヒリヒリとした痛みが広がり、視界が涙で滲んだが、歯を食いしばり、こみ上げるつらさを飲み込む。
涙は一滴もこぼれなかった。
病院で傷を処置してもらった後、遥は薬を受け取り家に帰った。
1週間の休みを取り、部屋に籠もる。
その間、怜が戻ってくることは一度もなかった。
しかし、インスタで更新された汐里の投稿を見て、遥は彼が今も汐里に付き添っていることを知っていた。
汐里に寄り添い海岸沿いを散歩し、汐里のために花火を上げる。さらには、手料理を汐里に食べさせ、着ぐるみを着てのサプライズ。全ては汐里を笑顔にするために……
最後の一枚まで見ると、遥は携帯を閉じ、胸の前で手を合わせた。
目を閉じ、27歳になった自分自身を祝う。
「遥、誕生日おめでとう。この1年、仕事が上手くいって、全てが私の願い通りになりますように。
離婚が成立したら、もう一生、怜には会うことがありませんように……」
そして、そっと目を開け、卓上のキャンドルを吹き消した。
第4話
1週間の休暇が終わる前日、汐里が一枚の仲睦まじい写真をインスタにアップした。
それは、彼氏である浅井樹(あさい いつき)との写真。
あれだけの喧嘩をしたのに、どうやらよりを戻したらしい。
その夜、帰宅した怜の手には、プレゼントの袋が提げられていた。
遥はいつものように迎えには出ず、プレゼントを受け取ると、そのまま寝室へ向かった。
怜が戸惑ったような表情で遥を引き止める。「遥、神谷家で食事会があるんだけど、怪我はもう大丈夫?一緒に行けるか?」
静かに頷いた遥は、時間だけを確認した。
翌日の仕事終わり、遥は駐車場で怜の姿を見つけた。
神谷家までの車中、怜は絶えず遥に話を振っていたが、数日前のことについては一切触れない。
だから、遥もあえて聞かずに、気まずくならない程度に相槌を打つ。
神谷家に到着すると、すでに夕食の支度が整っていた。
食事が始まるや否や、早く孫の顔が見たいと何度も繰り返す怜の両親。
「二人ともいい年だし、結婚してもう長いでしょ?そろそろ子供のこと考えてもいいんじゃない?怜、あなたが会社を継がないとしても、誰かは神谷グループを継がないといけないの。それに、遥ちゃんも、そろそろ本気で考えないと、高齢出産は危ないから……」
怜は箸を握りしめ、視線を落としたまま小さく頷いた。
遥も口を挟めず、ひたすら料理を口に運ぶ。
食事会は、重苦しい空気に包まれたまま終わった。
食事の後も怜の母親は遥に、もう少し真剣になった方がいいと言い聞かせた。
遥は適当に受け流し、怜の母親がいなくなると、息苦しさを紛らわせるためベランダに出ようとしたのだが、窓を開ける寸前、外から汐里の泣き声が聞こえてきた。
「怜、子供なんて作っちゃ駄目」
怜はベランダの柵にもたれ、黙って煙草をふかしている。
そんな彼の沈黙を見て、汐里はさらに声を上げて泣きじゃくった。
「怜に子供ができたら、家庭ばっかになって、どうせ私のことなんかかまってくれなくなるんでしょ?」
すると、目を赤くした怜が、勢いよく汐里の手を握りしめた。
「汐里!お前、俺がお前を好きだからって、それをいいことに好き放題俺を振り回してるんじゃないのか?俺はお前と一緒になるためなら、なりふり構わず必死だった。
無茶だって散々やった。けど、お前は俺に歩み寄ろうともしなかった。その後、俺が失明した時も、お前は何の迷いもなく俺の前からいなくなった。
そんなことが何度もあったのに、俺は一度だってお前を責めたことはない。それなのに今度は、俺に子供を持つなって言うのか?じゃあ、お前はどうなんだ。お前が他の男と一緒にいるのを見て、俺がどれだけ苦しかったか、一度でも考えたことがあるのか?」
汐里は悪びれるどころか、さらに大声で泣きわめいた。
「怜、あなたのことは大好きなの。でも、その愛は私には重すぎたの。孤児だった私は、ずっと居場所を求めて生きてきた。この家に引き取られて、ようやく安らげる場所を手に入れたのよ。でも、そんな私にお父さんとお母さんは言ったの。
怜と一緒になるなら、この家の娘ではなくなるって。怖かった。せっかく手に入れた家族も、居場所も、何もかも失うのが。私には、あなたのためにすべてを捨てる覚悟なんてなかった。あなたを愛していても、世界を敵に回すほどの勇気は持てなかったの。
お願い。こんな臆病な私を許して。怜、そんなに私を愛してくれているのなら、何も言わずに私のことを見守っててよ……」
汐里の悲痛な訴えを聞き、怜の手は力なく崩れ落ちた。
喉元を動かし、長い沈黙の末に彼はこう答える。
「子供なんて作らないから。永遠に作らない」
汐里は涙を流しながら、怜の胸に飛び込んだ。
「本当に?」
「ああ」
その光景を見ていた遥はふっと鼻で笑い、ゆっくりと視線を逸らす。
きつく握りしめていた手のひらの力を緩めると、鋭い爪の跡が赤く滲んでいた。
自分たちの間に子供ができるわけなんてない。だって、彼が自分に隠して、2年間もピルを飲ませ続けているのだから。
遥は静かに踵を返し、階段を降りていった。
食事会も終わったので家に帰ろうとすると、汐里が車の後部座席に乗り込んできた。
「まだ時間も早いし、コンサートのチケットが何枚かあるの。怜、遥さん、一緒に行こうよ」
怜は少し悩みながらも、汐里の願いを断りきれず頷いた。
コンサート会場に到着すると、汐里はわざと親しげに遥の手を取って話しかけた。にこやかに会話を続けていたものの、その言葉の端々からは、自慢げな優越感がにじみ出ていた。
「ねえ遥さん、知ってた?怜はもともと音楽になんて興味なかったんだけど、私がヴァイオリンを始めたら、それに付き合って勉強し始めてくれたんだよ。
それに、私の好きな演奏家がいるんだけど、怜はわざわざ海外へ飛んでまで交渉して、私の誕生日にはお祝い動画を贈ってくれたの。コンテストがあれば、どんなに忙しくても世界中どこへでも付き添ってくれるし……」
遥は表情も変えずに、黙って聞いていた。
コンサートの途中、怜は電話を取るために席を外したのだが、彼が出ていった途端、劇場の電気が突然落ちた。
会場はたちまち大混乱に陥った。誰もが我先にと出口へ殺到し、人が人を押し合う中、ほどなくして転倒者が出る。
助けを求める叫び声、悲鳴、泣き声が一斉に響き渡り、場内は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
遥は留まろうとしたが、汐里は無理やり彼女を押して外へ向かわせた。
視界の利かない遥は足元が揺らぎ、そのまま地面へ倒れ込む。
そして次の瞬間、押し寄せる人波の中で、無数の足が容赦なく彼女の体を踏みつけた。
頭と胸を守りながら這いつくばり、痛みに耐えて立ち上がった。
闇の中で誰かの手や肘や、あるいは鋭利な鞄の角がぶつかってきて、突き刺さるような痛みが何度も全身を襲う。
体はまたたく間に無数の生傷とあざだらけ。
呼吸すら困難なほどの痛みの中、手すりを必死に掴んで出口を探した。
逃げまどう観客の中、遥は前方で怜の姿を見つけた。
彼は誰かを大切そうに庇いながら、出口へと歩みを進めている。
そこまで離れていなかったので、汐里の安堵したような声が遥かにも聞こえてきた。
「怜、ありがとう。怜が守ってくれたから、怪我一つないよ。私はもう大丈夫だから、遥さんを早く探しに行ってあげて。中で困ってるはずだから」
後ろの人だかりを一度振り返った怜だったが、そこから動こうとはしなかった。
「人が多すぎる。お前を先に出すから、そのあとでまた探しにくるよ」
寄り添い合う二人の後ろ姿を見て、遥は声もなく笑った。
疲れ果てた足を引きずりながら、彼女も人の流れに従い会場を出る。
帰宅すると、怜はすでに帰ってきていた。
自分の姿を見ると、心配そうな表情を見せて急いで近づいてくる怜。
「遥、大丈夫?人が多すぎて見つけられなかったんだ。ごめんな」
遥は彼の言い訳に言及することもなく、静かにその手を押し返す。
そのまま明るいリビングに行くと、遥の傷だらけの姿があらわになった。
その体を見た怜は、動揺を隠せなかった。
寝室へ薬箱を探しに行った怜は、引き出しを開けた。
そこに入っていたファイルを手に取り、眉を少し顰めながら、ゆっくりと振り返る。
「何の書類が入ってるんだ?」
第5話
怜が中身を確認する前に、遥は素早くそれを奪い取った。
「前の契約書の期間が切れちゃって。これは更新契約書」
一瞬の出来事で、怜はその書類が何なのか確認することはできなかったが、遥のあまりに素早い動作に、彼はふと疑念を抱いた。
「本当?」
遥は努めて冷静にうなずく。
なんとなく腑に落ちなかった怜は、さらに問い詰めようとしたが、その時、汐里からメッセージが届いた。
【怜、週末空いてる?チャリティーパーティーがあるんだけど、一緒に参加してくれないかな?】
疑問などどこかへ消え、怜は夢中で返信を打ち始めた。
汐里とのやり取りに30分を費やして、怜がようやく顔を上げると、遥はすでに自分で手当てを終えていた。
「自分でできるから、怜は怜のことをして」
その声はあまりに静かで、かえって怜の胸にどっしりとした重みを与える。
蹴られたところが赤く腫れあがっている遥の顔を見て、ようやく口を開いた。「遥、俺たちは夫婦なんだから、そんなに遠慮することなんてない」
「すぐに、夫婦じゃなくなるから」
と、遥は思わずつぶやく。しかし、怜には聞き取れなかったようで、彼女のために包帯を巻きながら、聞き返した。
「今、何か言ったか?」
優しい彼の手つきに、遥はまつ毛を伏せ、話をそらした。「何でもない。あのさ、2日後は祖父の命日だから、時間があれば最後にお墓参りに付き合ってくれる?」
怜はうなずいた。
その後の数日間、二人はいつも通り出勤し、飛行任務をこなした。
退社後は一緒に帰宅し、たびたび同僚から仲睦まじいとからかわれ、怜はいつも笑顔で応えていたが、遥は反応することはなかった。
しだいに怜もそんな遥の違和感に気づき、キャンドルディナーを用意して、彼女の機嫌をとることにした。
「父さんと母さんからの催促は今に始まったことじゃないだろ?それに、俺たち二人の問題なんだし、子供がいようといまいと俺は気にしないから、プレッシャーに思うことはないよ。運命に任せよう」
揺れるキャンドルの明かりが、彼の凛々しい顔を照らしている。
遥はふと、バスケコートで眩しく輝いていた少年の姿を思い出した。
ナイフとフォークを置き、静かに口を開く。「なら、もう産むのをやめるし、薬ももういらない」
その言葉に怜は固まり、彼の表情が引き攣った。
「そんな……諦めるなよ。薬は続けて飲んで。もしかしたら何か奇跡が起こるかもしれないだろ?」
遥は静かに彼を見つめ、力なく微笑んだ。「うん、奇跡……ね。起こるかもしれない……」
とびきり大きなサプライズを用意してあげる。
あなたに自由というプレゼントを、ね?
その夜は一睡もできなかった。
翌日、遥は朝早くに目覚め、菊の花を注文した。
怜の車で墓地に着いた直後、怜に汐里からの着信があった。
「怜、一緒に盛沢市に行く約束をしたじゃん。今どこにいるの?」
「出発は明日じゃないの?」
怜が眉を寄せると、受話器越しに苛立った不満の声が聞こえてきた。「今日行きたいの!30分以内に空港へ来て。もし、来なかったら……わかってるよね?」
その脅し文句に、怜は眉間を揉む。
遥に相談しようと横を見ると、彼女は祖父の遺品である懐中時計を黙って撫でていた。
その瞬間、遥の祖父が亡くなる前に「孫娘をよろしく頼むぞ」と何度も言っていたことを思い出した。
言い訳しようとした言葉が喉につかえる。
時計を見て、別の言い訳を絞り出した。「ちょっと仕事で急ぎの連絡があったんだ。急いで墓参りを済ませて、10分後にはすぐ出発してもいいかな?」
遥は頷いた。
しかし、墓石の前に立った時、またもや怜の携帯が鳴った。
インスタの通知音。
怜が開いた画面には、汐里のアカウントで航空券の写真が投稿されている。
「急に盛沢へ行きたくなったんだけど、誰か付き合ってくれないかな?」
その直後、樹がそれに「いいね」を押した。
怜は焦燥感に駆られ、もう後のことなど考えられず、遥に背を向けて走り出した。
「遥、悪いけど先に行くよ。あとは自分で帰れるよな?」
第6話
遥は、去っていく怜の背中を見つめるだけで、引き留めはしない。
一人で花を墓前に供えると、亡き祖父にこれまでの思いを語りかけた。
「おじいちゃん、私、別れることにしたよ。天国で見守っててくれるかな?怜が私を愛していないことを、おじいちゃんは最初から見抜いてたんでしょ?
だから亡くなる前に何度も、『孫娘をよろしく頼む』なんて言ってくれてたんだね……無理矢理作った夫婦関係なんて、やっぱり長続きしなかった。もう彼に無駄な時間を使うのは終わりにしようと思う」
そう言葉を重ねるうち、胸にこみ上げるものがあったが、それは怜への未練ではなかった。
これまで執着して、彼から離れられなかった自分自身への情けなさだった。
長々と小一時間ほど墓石の前で語った後、遥は静かに墓地を後にした。
市街地まで来て携帯の電源を入れると、通知の欄に数十件もの不在着信が並んでいた。
すべて怜の友人からの電話だった。
ラインにも、彼らから何十件ものメッセージが届いている。
【遥さん!怜が交通事故に遭ったから、すぐ病院に来て!】
その瞬間、遥に言い知れぬ不安が広がった。
タクシーを飛ばして病院へ向かい、救急治療室の前で立ち止まった時、中から医師が慌てた様子で飛び出してきた。
「出血が多すぎる。当院の在庫だけでは血液が足りない。Rhマイナスの血液型の人はいないか?」
怜の友人たちには、Rhマイナスの人は誰もいない。
彼らはパニックに陥り、遥を見つけるなり、わらにもすがる思いで詰め寄ってきた。
「遥さん!怜が言ってたけど、二人は同じ珍しい血液型なんだよね?」
遥がぽかんと立ち尽くし、小さく頷くか頷かないかのうちに、そのままスタッフによって献血ルームへ連れ込まれた。
看護師は慣れた様子で、「遺伝性の病気や、深刻な貧血はないですか?」と確認の事務作業を進める。
すぐ目の前にある採血用の注射針を見つめ、遥は少し黙ったあと、静かに返した。
「パイロットをしているので、健康状態は大丈夫だと思います」
尖った針が皮膚を突き破り、鮮やかな血が管を通って採血バッグへ流れ込んでいく。
100cc、200cc、300cc……
遥の顔色はみるみるうちに青ざめ、頭に霧がかかったようにくらりとした。
採血バッグが満たされ、看護師がようやく針を抜いた。
しかし、刺した箇所からは血が止まる気配がなく、ガーゼがすぐに血で染まる。
看護師が慌てて別の医師を呼び、手際よく止血処置を始めた。
それでも鮮血が服を染め、腕を伝ってポタポタと床へ落ちた。
下腹部にまるで鉛を飲まされたような激痛が走り、遥は体を折り曲げるようにして悶えた。
全身から噴き出した冷や汗が、空中に冷気となって立ちのぼる。
視界がかすみ、意識が沈んでいく……
次に目が覚めたとき、ベッドサイドには誰もいなかった。
一晩寝て、完全に回復したわけではないものの、なんとか歩ける程度にはなっていた。
怜のことが心配で、通りがかった看護師に様子を尋ねる。
怜の病室の前へ着いた時、扉の向こうから彼の友人たちの騒がしい会話が聞こえてきた。
「怜、今回も汐里のせいで空港まで急いだ結果だろ?それでもまだ、俺たちの言うこと聞かないのかよ!」
「オペ中だって何度も連絡したのに、あいつは一度も出なかった。それどころか、新しい彼氏と旅行の投稿までインスタに上げてやがる。お前が尽くしたって、何の意味もないぞ!」
「遥さんは献血で、危うく命を落とすところだったんだぞ?そろそろ目を覚まして、目の前の人を大切にしたらどうだ!」
責め立てる友人の言葉に、怜はただ押し黙っていた。
長い沈黙のあと、かすれた声が聞こえてくる。
「汐里は事故を知らないだけだ。連絡がつけば、きっと一番に駆けつけてくれる。遥のことは、そのうち埋め合わせをするから」
埋め合わせ?
その言葉を聞いた遥は、力なく笑みをこぼした。
自分は人生を削るほど捧げてきたというのだから、彼が一つ一つ償おうとするならば……残りの人生をすべて使ったとしても、それは埋まることがないだろう。
第7話
怜は1週間、入院生活を送っていた。
その間、怜は汐里に何度もメッセージを送り、事故の件を伝えていたのだが、形ばかりの返事が返ってくるだけで、彼女は一度も見舞いに来ることはなく、SNSには絶え間なく旅行中の写真が投稿されていた。
それを見るたび、怜の表情は険しくなる。
遥はすべてを見ていたが、何も言わず、医師の指示を守りながら病室に詰め切りで世話をしていた。
そこまでしている遥を見かねて、怜の友人たちが一度休んではどうかと勧めると、ようやく我に返った怜は、疲れ切った遥の顔を見て、初めて彼女を労る言葉をかけた。
「遥、お前も血を抜いたばかりなんだから少しは休んだ方がいい。俺の身の回りのことは、誰か別の人に任せればいいから」
遥は手に持っていたグラスを置き、淡々と答える。
「大丈夫、私はあなたの妻だから」
その言葉を聞いた怜は、わずかに目を見開いた。
妻……
2年間、わざと気づかないふりをしてきたその言葉が、今、不意に重みを伴って胸に響いた。
病室で献身的に世話をしてくれる遥の姿を見て、ずっと固く閉ざされていた怜の心に、わずかな亀裂が入る。
怜はようやく息がつけたような気がした。
退院の日になって、ようやく汐里が顔を見せにきた。
駐車場で怜を見つけるや否や、彼女は駆け寄ってきて、手に持っていた大小様々な紙袋を怜の元に押し付けた。
「怜!これ全部お土産!喜んでくれるかな?怜の病状を言って、盛沢市の名医たちに頼んで特別に用意してもらった薬もあるし、私が祈願して回ったパワーストーンも…」
それを見て、長い間落ち込んでいた怜の気分が、次第に上がっていく。
怜は愛おしそうに汐里の髪を撫で、笑みをこぼした。
「こんなにしてくれるなんて、本当に嬉しいよ。でも、これからは無理をして飛び回らなくていいからな。お前の体が心配になる」
荷物を抱えた遥は少し離れた場所で、笑い合う彼らを眺めながら、先に運転席へと乗り込んだ。
帰りの車内、汐里は旅行中の楽しいエピソードを語り続け、怜は目を細めて慈しむようにそれを聞いていた。
途中、汐里が「お腹すいた」と言い出すと、怜は躊躇うことなく車を停め、一緒に食事へ行こうと提案した。
二人が自分を見つめる中で、遥はただ疲れたと告げ、一人車で自宅へと帰った。
家に戻って荷物を整理していると、汐里の持ってきたプレゼントの袋から、一枚の紙片が落ちた。
拾い上げて見ると、それはネットショッピングの決済書だった。
携帯でその店のホームページを検索すると、すぐに見つかった。
そこには、汐里が旅行の土産物と言っていたものから、あのパワーストーンに至るまで、何でも売られている。
それを見ながら、先ほどあんなに喜んでいた怜の顔を思い浮かべ、遥は苦笑いを浮かべた。
自分がどれほど尽くそうと、あの白々しい汐里の嘘にすら勝てないらしい。
でも、よかった。今気づけたのだから、まだやり直しがきく。
結婚記念日、昼過ぎになって遥はようやく目を覚ました。
怜は以前から用意していたプレゼントを彼女に差し出す。
それは、光り輝くダイヤモンドのネックレス。
礼を言ってそのまま置こうとした遥だったが、怜が無理にでも、それをつけようとする。
首に感じる冷たい感触に違和感を覚えたが、彼があまりにしつこく褒め立てるため、外すことはできなかった。
外出して祝おうと言われて出発したが、車はレストランではなく、怜の実家へ向かっていった。
怜の実家に着くと、汐里が跳ねるように乗り込んできた。
遥がつけているネックレスを見るなり、汐里は声を上げる。
「あ!これって先月ずっと私が気になってたやつ!怜ったら、本当に買ったんだ!でもさ、私が他にも可愛いのがいっぱいあるって言ったから、遥さんにあげたの?そんなの、なんか遥さんに対して……あれじゃない?」
なんだ……汐里のいらないものを押し付けられただけだったのか。
遥はすべてを理解し、一瞬だけ目を伏せたが、すぐに平静を装う。
怜はいたたまれない表情で弁解しようとしたが、遥は先回りして言った。
「気にしないで。それで、汐里さんはどこへいくの?」
「怜とデートだよ!今日は20周年の記念日だからね。20年前の今日、怜が私を施設から引き取ってくれたんだ。それより、遥さんはなんできたの?」
第8話
怜は気まずそうに表情を歪め、二人の会話を遮った。
「今日は遥と俺の結婚記念日でもあるから、一緒にお祝いしようと思ってさ」
汐里は「へえ」と声を上げ、複雑な表情で遥を見つめる。
「結婚記念日?今までずっと結婚式も挙げなかったのに?なんだか無理やり結婚させられたみたい……」
すると、怜の表情がみるみるうちに険しくなった。
「汐里!」
汐里は渋々口を閉じた。
だが、それで機嫌を損ねたのか、それ以降は終始無言で窓の外を見つめていた。
車内の空気は、息が詰まるほど重苦しい。
やっと目的地に着き、車を降りると、怜の友人の姿が目に入った。
彼らは汐里のことなんかには目もくれず、親しげに遥に声をかけると、彼女を取り囲んで中へ連れて行った。
輪の中心になることに慣れていない遥は、隙を見て、トイレに行くふりをしてその場を抜け出す。
ところが、部屋を出た途端、いつの間にか姿を消していた怜が汐里を引き留め、困り果てた様子で言い聞かせているのが見えた。
「遥の前であんなことを言うなよ」
腹を立てた汐里が、言い返す。
「あんなことって何?怜の友達たちだって、私を見ても嫌な顔ばかりするのに、あの人たちには何も言わないの?」
「分かった。あとであいつらには厳しく言っておくから。もう怒らないで。いいな?」
ようやく納得した汐里。「次はないからね!」
そう言ってなだめる怜の表情には、優しい笑みが浮かんでいた。
遥が怜のこんなに甘い表情を見るのは、初めてだった。
愛する人の前では、怜も普通の恋する少年のようになるらしい。
遥は息を深く吐き、下の階へと向かう。
階段を数段進んだところで、追いかけてきた汐里に腕を引かれた。
「ねえ遥さん。なんで黙っていなくなったの?怜の心の中には、私しかいないって分かったから?」
勝ち誇ったような汐里を見て、遥はその腕を振り払い、冷ややかに言った。
「あなたと争うつもりはないし、もうすぐここを離れるから安心して」
だが、意味が理解できない汐里の目は、嘲りに満ちていた。
「妊活中だって聞いてるけど、はっきり言ってあげる。あなたになんか怜の子は一生産めないわ!あの時、私が海外に行っていなければ、あなたが怜のそばにいられることなんてなかったんだよ?それに、体を使ってしか怜を引き止められないあなたを、怜の妻って認めないから!」
汐里はそう言うと、力任せに遥を突き飛ばした。
遥の体は大きくよろめき、階段から落ちていく。
ガシャンッと大きな音が響き、背後のテーブルの酒瓶が割れ、周囲は瞬時にガラスまみれとなった。
いい気分で飲んでいた者たちは突然の騒ぎに憤慨し、二人に近寄ってきた。
遥は痛みに顔をゆがめたが、酔った男たちが酒瓶を片手に襲いかかってくるのが見え、息をはっと呑む。
酒瓶が振り上げられた瞬間、心臓が締め付けられ、見開いた瞳には恐怖が宿った。
背後で一部始終を見ていた汐里も、引きつった声で叫び声を上げた。
駆けつけた怜が男の一人を蹴り飛ばし、汐里を抱き寄せて庇った。
しかし次の瞬間には、鈍い音がして、遥の頭には衝撃が走り、ガラスの破片が周囲に飛び散る。
鮮血が滴り、辺りは血なまぐさい匂いに満ちた。
頭の中がかき混ぜられるような衝撃で、遥の顔は真っ青になった。
やがて怜の友人たちも加わり、激しい乱闘へと発展する。
泥酔していた男たちは劣勢に追い込まれ、悪態をつきながらも走り去っていった。
混沌とした喧騒の中、遥は頭から血を流しながら、誰かが「汐里さん!」と呼ぶ声を聞いた。
力なく頭を上げると、目に入ったのは怯える汐里を抱え、その場を離れていく怜の姿だった。
最後の最後まで、彼は自分のことを心配してくれなかった。
第9話
診察の結果、傷は浅く、大事には至らないということだった。
診察室にいた怜の友人たちはほっと胸をなでおろしたが、数針縫った遥の姿を見て、どう声をかければいいのか戸惑っていた。
結局、誰かがおずおずと進み出て、労りの言葉をかける。
「遥さん、怜にはもう言ってあるから、メッセージを見たらすぐ来るはず。もう少し待っててね」
遥は何も答えず、震える携帯を取り出した。汐里から動画が送られてきていた。
それは怜が薬を汐里にゆっくりと飲ませている動画で、彼の瞳には隠しきれない心配が宿っていた。
遥は最後まで見ることなく動画を閉じ、時刻を確認すると、静かに首を振り、静かな声でこう言った。
「来るか来ないかなんて、もうどうでもいいの」
あと少しで、すべてが終わる。
もうここを離れていくのだから。
退院の日、家に帰った遥はすぐさまスーツケースを取り出した。
服や日用品、大切な書類をすべてそこに詰め込んでいく。
詰め終えると、家政婦を呼び、残すべき伝言を一つ一つ細かく書き残させた。
メモを取っていた家政婦が、最後に聞いた。
「奥様、もしかしてどこかへ行かれるのですか?」
その瞬間、ドアが乱暴に開けられた。
3日間姿を消していた怜が笑みを浮かべて入ってきて、反射的に口を開く。「誰がどこへ行くって?」
「私」
すると怜は、遥が以前「少し家を空ける」と言っていたことを思い出し、深く追及することなく、そのまま書斎へと入っていった。
扉が閉まると、家政婦が再びおずおずと尋ねた。「旦那様と離婚なさるんですか?」
不安そうにする家政婦を見て、遥は静かに笑った。
家政婦にさえ分かる違和感に、怜だけが気づかない。
まあ、今の彼の視界には汐里しか入っていないのだから、仕方ないのだろう。
自分への関心なんてあるはずがない。
一晩休息を取った後、遥は離婚協議書を金庫へ入れ、スーツケースを引いて出社した。
すれ違う同僚たちが、口々に「おめでとう」と遥に声をかける。
遥の後ろにいた怜は不思議そうに眉をひそめ、何事かと問いただそうとしたその時、運航部長が二人を呼び止めた。
「遥副機長、この後の会議があるからね。神谷機長も家族として参加してくれよ!」
遥が頷いてオフィスへ入ろうとすると、怜に呼び止められた。
「何の会議だ?」
遥はそれが昇進に伴う表彰式だと知っていた。
会議が終われば、自分は新しい国へと飛び立ち、新しい仕事と人生を歩み出す。
そう考えると、重く沈んでいた心が少し軽くなり、ここで全てを打ち明けようという気になった。
だが彼女が切り出すより早く、怜が携帯を操作し始めた。
すぐそばにいたので、遥にも画面が見えてしまった。
プロポーズの準備をする樹を撮った汐里の投稿。
遥は喉元まで出かかっていた言葉を、すっと飲み込む。
怜をまっすぐ見つめ、心の中でカウントダウンをした。3、2、1……
ちょうど1となった時、案の定怜が顔を上げ、苛立った様子で言った。
「遥、ちょっと野暮用ができたから、会議に出られそうにない」
遥の返事を待つこともせず、怜はすぐに背を向けた。
この時、遥は彼を呼び止めた。
「あと2日で誕生日でしょ?金庫の中にプレゼントを入れておいたから、ちゃんと見てね」
今の怜は、誕生日のことなどどうでもよく、足早にその場を去っていった。
消えた怜の背中を見届け、遥は会議室へと静かに歩き出す。
10分後、昇進の表彰式が幕を開けた。
遥は堂々とした足取りで壇上に上がり、機長の任命状を受け取った。
「過去5年に及ぶ功績は素晴らしいものでした。本審査の結果、副機長から機長へと昇格させることに決定しました。以後、A980航路を専属航路とし、精進してください」
鳴り止まぬ拍手の中、遥は四方に向けて深く一礼をした。
式も終わると、遥はスーツケースを手にし、同僚たちに別れを告げて歩き出した。
怜、これまでの日々のこと、私は後悔してないよ。でも、今後はもう、私とあなたが、交わることはないから。
永遠にさようなら。