来世では、連れて帰らないで

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来世では、連れて帰らないで

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大富豪の家に引き取られてから十年後、私、今井奈緒子(いまい なおこ)は実の親があてがった雨漏りする格安アパートの冷たい床で死んだ。 そ...

Chương (1)

第1章

大富豪の家に引き取られてから十年後、私、今井奈緒子(いまい なおこ)は実の親があてがった雨漏りする格安アパートの冷たい床で死んだ。 その年、私の子どもは三歳だった。 ゲームのつもりだったのか、私たちを拉致した犯人は私に、三度の「助けを求めるチャンス」をくれた。 家族の誰かが助けてきてくれさえすれば、息子だけは解放してやると。 一度目は、十五年間も私を探し続けてくれた父にかけた。 ちょうど偽物の娘の誕生日パーティーの準備を指示しているところで、電話を受けた父は不快げに眉をひそめた。 「奈緒子、今日がお前の妹の誕生日だって分かってるのか?縁起でもないことを言いに来るな」 二度目は、私を家に引き取り、トメという卑しい名前を「奈緒子」に変えてくれた母にかけた。 母は「偽物」の娘が携帯をひったくって笑い転げるのを、目を細めて愛情深く眺めていた。 「奈緒子、嘘をつくにしてももう少し上手にやってちょうだい。逆さに振っても五百円玉一枚出てこないような貧乏人を拉致するなんて、犯人の目がどうかしてるわ」 三度目は、ととの実の父である、戸籍上の夫にかけた。 彼はただ「会議中だ」と吐き捨てた。私とゲームに興じている暇などないのだ、と。 第1話 大富豪の家に引き取られてから十年後、私、今井奈緒子(いまい なおこ)は実の親があてがった雨漏りする格安アパートの冷たい床で死んだ。 その年、私の子どもは三歳だった。 ゲームのつもりだったのか、私たちを拉致した犯人は私に、三度の「助けを求めるチャンス」をくれた。 家族の誰かが助けてきてくれさえすれば、息子だけは解放してやると。 一度目は、十五年間も私を探し続けてくれた父にかけた。 ちょうど偽物の娘の誕生日パーティーの準備を指示しているところで、電話を受けた父は不快げに眉をひそめた。 「奈緒子、今日がお前の妹の誕生日だって分かってるのか?縁起でもないことを言いに来るな」 二度目は、私を家に引き取り、トメという卑しい名前を「奈緒子」に変えてくれた母にかけた。 母は「偽物」の娘が携帯をひったくって笑い転げるのを、目を細めて愛情深く眺めていた。 「奈緒子、嘘をつくにしてももう少し上手にやってちょうだい。逆さに振っても五百円玉一枚出てこないような貧乏人を拉致するなんて、犯人の目がどうかしてるわ」 三度目は、ととの実の父である、戸籍上の夫にかけた。 彼はただ「会議中だ」と吐き捨てた。私とゲームに興じている暇などないのだ、と。 …… 電話が繋がった時、父・今井則孝(いまい のりたか)は今井絵梨子(いまい えりこ)の誕生日パーティーの準備の指揮を執っている真っ最中だった。 発信者の名前を見た途端、あからさまに眉をひそめた気配が、不快げな声色からありありと伝わってきた。 「今度はまた何の用だ?」 私は、自分を拉致した犯人の手の中で今も赤黒い血を滴らせているナイフをじっと見つめながら、恐怖に身を震わせていた。 「お父さん、私、拉致されてるんです。来てもらえますか?ととだけでも、助け出してほしいんです……」 ととは私の息子で、まだ三歳になったばかりだ。 犯人たちが踏み込んできた時、私はちょうど彼を寝かしつけているところだった。今はぐったりと私の足元に倒れ、その小さな体から流れ出た血が、じわっと冷たい床に広がっている。 「奈緒子、いい加減にしろ!しばらく大人しくしていたと思ったら、またそうやって厄介事を持ち込みやがって! 今日は絵梨子の誕生日だぞ。こっちは忙しいんだ。縁起でもないことを抜かすな! 田中、絵梨子のケーキはもう届いたか?二十段にしろと特別に頼んでおいたんだ。一段でも欠けていたら承知しないからな」 ぶつっ、と一方的に電話が切られた。 耳に残るのは、ツー、ツーという無機質な電子音だけ。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。 今日は実は、私の誕生日でもあるのだ。 二十五年前、私と絵梨子は同じ病院で生まれた。看護師の不注意で、二人のネームバンドが取り違えられた。 ただ、それだけのことで――絵梨子は京市に名高い名家のお嬢様として、富に恵まれ、溢れんばかりの愛情を一身に受けて育った。 一方の私はといえば、田舎の足の悪い男にゴミ箱から拾われた厄介者。命の重さなど、道端のゴミくずと何ら変わらなかった。 物心ついた頃から過酷な労働を強いられ、食事は二の次。一番腹を空かせていた夜には、豚の餌を奪い合い、そのまま豚小屋の中で意識を失ったこともある。 目が覚めた時には、耳の一部が食いちぎられていた。 足の悪い男は言った。「これが『ツキが削られた印』ってもんだ。足りねえ分は、死ぬまで戻ってこない」 それでも、甘い記憶がまったくなかったわけではない。 十五歳の誕生日、生まれて初めて腹の底から満たされるまでご飯を食べた。湯気を立てる熱い汁物と、ふっくらと握られた大きな塩むすびが二つ。あの日噛み締めた味は、今でもはっきりと覚えている。 男はその日、こう告げた。隣村から結納金を受け取った、四十を過ぎた少しばかり頭の弱い息子のところへ嫁に行け、と。これでお前も、ようやく人並みに幸せになれるのだ、と。 実の親が私を迎えに来たのは、ちょうどその頃だった。 二人は私を家へ連れ帰り、ずっと探していた娘だと言って、絵梨子と仲良くするよう言い含めた。 けれど翌日にはもう分かっていた。居場所が変わっただけで、私はどこへ行っても道端の雑草のままなのだと。 二十一歳の秋、絵梨子の婚約者が酔った勢いで、私の暮らしていた物置部屋に押し入ってきた。 私は身ごもり、彼と結婚した。 そして今、死のうとしている。 そう思い至った瞬間、不思議と胸の苦しさがすうっと引いていった。どうせ死ぬのだから、もう何も怖くない。 足元でうつ伏せになっていた息子が、かすかに体をびくりと動かした。 「……ママっ」 意識も混濁する中、消え入りそうな声で私を呼ぶ。 そのか細い一言で、止まっていた息が吹き返した。 私はゆっくりと苦笑いを浮かべ、事の一部始終を動画で撮り続けている犯人を真っ直ぐに見据えた。 「もう一度だけ、チャンスをください」 …… 二本目の電話は、母・今井由紀恵(いまい ゆきえ)にかけた。 彼女は社交界でも名の知れた慈善家で、年中メディアの見出しを独占し、一年間に寄付する額は札束を繋げれば京市を三周できるほどだという。 第2話 孤児院での彼女のインタビューを、私は見たことがあった。 ある子どもが描いた絵を目にした途端、華やかに着飾った貴婦人がその場で涙をこぼしたのだ。目を赤くしながら、一億円を出してこの子たちの絵の展覧会を開いてあげると約束し、将来は留学の支援もすると誓っていた。 私のととには、そんな大金は要らない。 ただ誰かに助け出してもらえれば、生き延びさえすれば、それだけで十分だった。 電話は前回よりも早く繋がった。 「お母さん、私、拉致されてるんです。今から殺されそうで……ととだけでも家に連れて帰ってくれませんか?」 少しの沈黙のあと、どっと弾けるような笑い声が広がった。「偽令嬢」である義妹の絵梨子が携帯をひったくり、おかしくて仕方がないという様子で叫んだのだ。 「ぷっ。お姉ちゃん、嘘をつくならもう少し上手にやってよ。逆さに振っても一文も出てこないような貧乏人が拉致?ははははは、笑い死にするかと思った!ねえお母さん、そう思わない?」 母は絵梨子の綺麗に手入れされた髪をやんわりと撫で、上品に微笑んだ。 「そうね、うちの絵梨子の言う通りよ」 それから、まだ繋がっている携帯をちらりと一瞥し、ひどく冷ややかに続けた。 「切ってしまいなさい。あの子のことは放っておいて。田舎でどんな育ち方をしたか、見え見えじゃないの。『トメ』なんて名前、聞いているだけで品のかけらもないわ」 凍えるような言葉が、耳の奥へと流れ込んできた。 私は唇を動かそうとしたが、口の中いっぱいに広がる錆びた鉄のような血の味が、言葉を無理やり飲み込ませた。 嘘じゃないと言いたかった。 まともに育ったと言いたかった。 そして、伝えたかった――私の名前はトメじゃない、今井奈緒子だと。 お母さん、あなたがつけてくれた名前じゃないか、と。 絵梨子は電話を切らなかった。もう少し話があると言いながら、携帯を持ってベランダへ出たようだ。 「奈緒子、聞いてる?お父さんもお母さんも、あんたに構う暇なんてないの。かわいそうぶって気を引こうとしても無駄よ。今日は私の誕生日、二人の頭の中には私しかいないんだから。 それに聖司だって、海外の大きなプロジェクトをわざわざ断って飛んで帰ってきてくれたのよ。どう?悔しいでしょ?」 その声には、勝者だけが持ち得る残酷な余裕が漂っていた。 でも私には、それを気に病む余裕すらなかった。 ととが目を覚ましたのだ。 まんまるな黒い瞳をゆっくりと開けて、私のそばへそっと這いずってくる。恐怖に怯え、今にも泣き出しそうだ。 「ママ、とと、いたい……」 胸がどすんと、暗い底まで落ちていく気がした。 抱きしめてあげたくて手を伸ばした瞬間、犯人がととの体を乱暴に引っ張っていった。こちらを振り返り、静かにしろと合図するように自らの唇に指を当て、ゲームを続けろと目で促してくる。 口の中の血の味が、またぐっと濃くなった。 どこからそんな力が出たのか、自分でも分からない。 私は縛られた椅子もろともその場に倒れ込み、どん、と鈍い音を立てた。体の痛みを感じる暇もなく、しゃがれた声で絵梨子に呼びかけた。私の人生を根こそぎ奪ったこの人に、惨めに頭を下げた。 「絵梨子……私の負けよ……私は、お父さんとお母さんに引き取られるべきじゃなかった。あなたの愛情を奪うべきじゃなかった。この世に生きているべきじゃなかった…… でも、お願い……お願いだから、ととだけでも連れて帰ってあげて……土下座するから……」 地面に這いつくばったまま、ありったけの力で頭を持ち上げ、また強く床に打ちつけた。 ドン! ドン! ドン! 涙と鮮血が混じり合ってこぼれ落ちる。目を見開きながら、自分がしているのが土下座なのか、それとも自ら尊厳を粉々に砕いているだけなのか、もう分からなかった。 絵梨子。私はもう、負けを認める。 電話の向こうで、絵梨子は明らかに固まっていた。息をのむ音がして、それからお腹を抱えて笑い出した。 「嘘でしょ、奈緒子?私がお父さんもお母さんも家も全部奪って、ゴミ拾いまでさせたのよ?あんたから全てを奪ったこんな私に……まさか……まさか土下座するの?」 声をひそめ、まるで悪魔が耳元で囁くように彼女は言った。 「奈緒子、あんたって、本当に卑しいのね」 ぷつり…… 電話が切れた。 私はぼんやりと冷たい床に倒れたまま、死んだように動けなかった。 しばらくして、犯人が退屈そうに肩をすくめ、刃物を手にしてゆっくりとこちらへ近づいてくる。 私は必死に体を起こし、血まみれの額をさらした。まるで犬のように彼に懇願した。 「もう一度だけ、チャンスをください。最後にもう一回だけ」 第3話 犯人は面白がるように眉を上げた。 「お父さんもお母さんも見捨てたのに、まだ誰に電話するつもりだ?諦めろよ」 かつて、あの足の悪い男が私を縛り上げ、見知らぬ男に売り飛ばそうとした時も、同じ言葉を聞かされた。これがお前の運命だと。 それでも私は諦めなかった。あの時、男に噛み付いて逃げ出し、村の入口まで死に物狂いで走った。そこでちょうど、娘を探しに来た父と出くわしたのだ。 私は自分の運命を、自分の力で変えた。 手首には結束バンドが深く食い込み、痛々しい痕を残していたが、痛みはもう感じなかった。ただ頑なに、犯人の目を見据えた。 「もう一度だけ、チャンスをください」 三本目の電話は、荻野聖司(おぎの せいじ)にかけた。ととの実の父親だ。 「聖司、私もうすぐ死ぬの。ととを、引き取ってもらえない?あの子ももう三歳になったよ。あなたに会いたがってる」 聖司は煩わしそうに小さくため息をついた。 「奈緒子、今度はまた何の騒ぎだ?こっちは忙しいんだよ。お前のくだらない遊びに付き合ってる暇はない。今月の養育費だってきちんと振り込んでるだろ。金を受け取ったら大人しくしてろ。いちいちまとわりつくな」 ととは父親の声を聞いた途端、犯人の手を振りほどき、泣きながら「パパに会いたい」と叫んだ。 電話口で、聖司が息をのむのが分かった。 少しは心が動いてくれたのかと思い、私は涙をためながら口を開こうとした。しかし、その言葉は男の底冷えする声に遮られた。 「言っただろ、奈緒子。大人しくしてろ。養育費は一円も削らない。でもな、子どもに変な吹き込み方をしたら、ただじゃおかないからな」 奥から、絵梨子の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。 「聖司、ケーキ切るわよ、早く来て!」 聖司はふっと軽く笑った。 「来週、お前らを家に呼んでやるから」 それだけ言って、あっさりと電話を切った。 三度目のチャンスが……露と消えた。 私は悲鳴を上げ、もう一度電話をかけようと必死にもがいた。指先がもう少しで画面に届くというところで、犯人が足で携帯を無造作に蹴り飛ばした。 そしてととの片足を掴み、私の前へずるずると引きずってきた。口元に残酷な笑みを浮かべながら。 「ほらな、諦めろって言ったろ。信じなかったのはお前だ。今度こそ、認めるか?」 ととは泣きながら私の胸に飛び込んできた。ぷっくりとした幼い頬が、恐怖で真っ赤に染まっている。 「ママ、とと、こわい……ママ……」 私はそっと、その乱れた柔らかい髪を撫でた。涙が、止めどなくあふれ落ちた。 「とと、怖くないよ。ママがいるから。ママが絶対に守るから」 犯人は鼻で笑った。 「お前ごときが?」 私は鼻をすすり、真っすぐに相手を見据え返した。 「もう一度だけ、チャンスをください。それでもだめだったら、諦めます」 犯人の顔から笑いが消えた。 「……いいだろう。最後にもう一度だけチャンスをやる。今度は条件を下げてやる。家族の誰かが電話に出さえすれば、お前と子どもを解放してやる。 ただし誰も出なかったら、お前を殺した上に、このガキをバラバラに切り刻んでお前の親に送り届ける。約束だぞ」 …… 四本目の電話は、再び母の由紀恵にかけた。 呼び出し音が七回鳴っても、誰も出ない。 犯人は口元をゆがめ、勝ち誇ったような顔で言いかけた。 「ほらな、俺が……」 「もしもし?」 電話が繋がった。でも出たのは、母ではなかった。 「どちら様でしょうか?奥様は絵梨子お嬢様のお誕生日会の最中でして、ただいまお電話をお繋ぎできない状況でございます。どのようなご用件でしょうか?」 私は口の中に広がる血の塊を飲み込み、しゃがれた声で答えた。 「奈緒子です……」 向こうが一瞬黙り、次いでひどく困惑したような声になった。 「奈緒子お嬢様……奥様から、本日はあなた様からのお電話には一本もお繋ぎしないようにと固く言いつかっておりまして。 それに、旦那様もおっしゃっていました……たとえ死人が出ようとも、パーティーの邪魔をしてはならないと」 「ぷ……っ」 犯人がたまらず吹き出した。 私は笑えなかった。 「田中さん、お願いです。電話を渡してください。出てもらえるだけでいい、ほんの一言、それだけでいいんです」 私の声があまりにも悲痛だったのか、田中は深くため息をついてから、携帯を持ったままにぎやかなパーティー会場へと足を踏み入れてくれた。 「奥様、奈緒子お嬢様からお電話です。どうしても出ていただきたいとおっしゃっていて……」 母はちょうどダンスの最中で、その声に思わず振り返ったようだった。 第4話 「お母さん、お母さんお願いしますっ、電話に出てください!もうととを迎えに来なくていい、家に連れて帰らなくていい、ただ電話に出て一言話してくれるだけでいいですから!」 「お、奥様……やはり……」 私の泣き叫ぶような声と田中のただならぬ様子に、母がわずかに動揺したのが、息遣いで分かった。長い間を置いて、観念したようにゆっくりと手が伸びてくる。 あと少しで届くというその瞬間、絵梨子が現れた。後ろには、満面の笑みを浮かべた父と聖司を連れて。 「お母さん、早く来て!家族写真を撮るの!」 絵梨子は嬉しそうに手を振り、弾むような声で呼んだ。 母がためらった。 「奈緒子が電話してるから、先に出てあげないと……みんなは少しだけ待って……」 絵梨子の目が、みるみるうちに赤く潤んだ。ひどく傷ついたような目で三人を見回してから、くるりと背を向けて泣きながら走り去っていく。 聖司がすぐさまその後を追った。 父の顔色がさっと変わった。田中から携帯をひったくるように奪い取ると、力任せに床に叩きつけた。 「奈緒子のやつ、わざとだに決まってる!今日が絵梨子の誕生日だって分かってて、こんな時にわざと面倒を起こしやがって! お前もお前だ、またあの子の安い芝居に乗りやがって!長年、絵梨子が奈緒子のせいでどれほど辛い思いをしたか、忘れたのか!」 母が弱々しく反論した。 「忘れてないわよ。でも……でも今日は、奈緒子の誕生日でもあるの……」 父は忌々しそうに顔を背けた。 「別に今日死ぬわけじゃあるまいし、来年にでもケーキを買ってやればいいだろう。いいから、早く絵梨子のところへ行け。あの子を待たせるな」 母は小さくため息をつき、高いヒールの先で容赦なく携帯の画面を踏み砕いてから、父の後を追って部屋を出ていった。 薄暗い監禁部屋に、もうすがりつくような泣き声は響かなかった。 ただ犯人だけが、心の底から気の毒そうに私を見下ろしていた。 「一体何がしたかったんだ?結末なんてとっくに分かってただろうに、なんで三度も四度も惨めにあがき続けた? 冥途の土産に正直に言うとな、俺を雇ったのはお前の大切な妹だ。しかも手付金は、妹がその場でお前の親に借りた金だ」 私は何も言わなかった。ただ黙って身をかがめ、震えるととの頬にそっと口づけをした。 「縛りを解いてもらえますか。遺言を送りたいんです」 犯人は少し驚いた顔をして、無言のままうなずいた。 私は自分の携帯を手に取り、家族のグループチャットにふたつのメッセージを送った。 全身血まみれになった私の写真、一枚。 そして、残りの命を振り絞るような、精一杯の思いを込めた短い言葉。 【本当に死ぬんです。来世では、どうか私を連れて帰らないでください】 メッセージを送信すると、私はととに向かってそっと、この世で一番優しい微笑みを向けた。 そして――残る全ての力を振り絞り、犯人に体当たりして地面に押し倒した。 「とと、逃げて!早く、逃げてッ!」 「てめえ、やりやがったな!」 「ぷつ……」 鋭いナイフが下腹部に深々と刺さり、乱暴に引き抜かれた。何度も、何度も。 痛みはもう、少しも感じなかった。ただ力の限り、犯人の体にすがりつき、執念で組み付いていた。 「とと、逃げて!」 息子はまるで瞬時に大人になったかのように、血の滲むほど唇を噛みしめて、外へ向かって全力で走り出した。 小さな足が、冷たい床に不揃いな赤い足跡を残していく。 犯人が怒鳴り声を上げながら追おうとした。私は死に物狂いでその足にしがみついた。 男は苛立ち交じりに冷ややかに笑い、向き直って、私の傷口めがけて何度も容赦なく蹴りを入れた。 下腹部から、生温かい血がどっと溢れ出した。 でも彼は知らないのだ。死に際には、人はもう痛みなど感じなくなるということを。 意識が完全に真っ暗闇へと遠ざかる直前、かつての足の悪い男の言葉が、また頭の中にぼんやりと浮かんだ。 「トメ、諦めろ。これがお前の運命だ」 あの男は間違っていた。 私はまた、自分で運命を変えてみせた。 ととは、きっと生き延びられる。 でも、あの男は正しくもあった。 足りない福は、やはり最後まで戻ってこなかったのだ。 一方その頃、華やかなパーティー会場では、両親と聖司が絵梨子を囲み、口々に優しい言葉をかけてご機嫌を取っていた。 父のポケットの中で、携帯が二回震えた。 彼は面倒くさそうに携帯を取り出した。 「どうせまた奈緒子だ。絵梨子、ちょっと待ってなさい。お父さんが代わりにきつく怒鳴ってやるから……」 言葉が、喉の奥で不自然に詰まった。 震える手で画面の写真を拡大すると、彼の頬の筋肉が小刻みに痙攣し始めた。 母が不思議そうに横へ来て画面を覗き込み、空気を引き裂くような悲鳴を上げた。 同時刻、聖司の携帯にも見知らぬ番号から着信が入った。 「もしもし、荻野聖司さんでいらっしゃいますか?こちら警察署です。血まみれの小さなお子さんを保護しまして――」