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消えゆく愛と、軽やかな心
淳人の、血のつながらない妹が、彼の結婚後に自ら命を絶った。 その日から彼は、自分と結婚した日南を心の底から憎むようになった。 そしてそ...
Chương (1)
第1章
淳人の、血のつながらない妹が、彼の結婚後に自ら命を絶った。
その日から彼は、自分と結婚した日南を心の底から憎むようになった。
そしてそのときになって初めて、彼女は知ったのだ。
彼がずっと想い続けていた相手は、その妹だったのだと。
だが二人の想いが芽生えたばかりの頃、その恋は須賀家の両親によって無残にも摘み取られた。
「許されない恋」を阻止するため、彼らは淳人に、以前から彼を慕っていた日南との結婚を強要したのだ。
それから10年。
彼は彼女を憎み続け、彼女もまたその憎しみを受け続けた。
彼は一瞬たりとも彼女から解放されたいと願わなかったことはない。
だからシャンデリアが落ちてきたあの瞬間、彼は迷うことなく彼女を突き飛ばした。
代わりに自分が血だまりの中へ倒れ込むことになっても。
息を引き取る直前、彼は最後の言葉を残した。
「日南......命を賭けて頼む。もし来世があるなら、俺を好きになるな。俺と結婚するな。俺を......自由にしてくれ」
その願いを叶えるために、日南は生涯をかけ、莫大な資金を投じてタイムマシンを完成させた。
そして再び目を開くと、彼女は淳人と結婚した初日に戻っていた。
第1話
須賀淳人(すが あつと)の、血のつながらない妹が、彼の結婚後に自ら命を絶った。
その日から彼は、自分と結婚した桑原日南(くわはら ひなみ)を心の底から憎むようになった。
そしてそのときになって初めて、彼女は知ったのだ。
彼がずっと想い続けていた相手は、その妹だったのだと。
だが二人の想いが芽生えたばかりの頃、その恋は須賀家の両親によって無残にも摘み取られた。
「許されない恋」を阻止するため、彼らは淳人に、以前から彼を慕っていた日南との結婚を強要したのだ。
それから10年。
彼は彼女を憎み続け、彼女もまたその憎しみを受け続けた。
彼は一瞬たりとも彼女から解放されたいと願わなかったことはない。
だからシャンデリアが落ちてきたあの瞬間、彼は迷うことなく彼女を突き飛ばした。
代わりに自分が血だまりの中へ倒れ込むことになっても。
息を引き取る直前、彼は最後の言葉を残した。
「日南......命を賭けて頼む。もし来世があるなら、俺を好きになるな。俺と結婚するな。俺を......自由にしてくれ」
その願いを叶えるために、日南は生涯をかけ、莫大な資金を投じてタイムマシンを完成させた。
そして再び目を開くと、彼女は淳人と結婚した初日に戻っていた。
本来ならば新婚初夜のはずだったが、淳人は泥酔していた。
両親に愛してもいない女性との結婚を強いられたからだ。
そして彼が本当に愛している相手は、今まさに別の男との見合いに向かっていた。
頬は酒で赤く染まり、潤んだ瞳には薄い靄がかかっている。
彼は彼女の手に頬を擦り寄せながら、酒に濡れたかすれ声で何度も呟いた。
「明音......他の男と見合いなんてするな。俺は、お前がいないと駄目なんだ......お前が誰かと一緒になったら......俺はきっとおかしくなる......」
酔ったときにしか口にできない本音の一つひとつが、鋭い刃となって日南の胸を切り裂いていく。
淳人を好きになることは、とても簡単なことだった。
二人は幼なじみとして育った。
彼は授業を抜け出して足を捻った彼女を背負って家まで送ってくれた。
生理痛で泣きながら甘いお菓子が食べたいと言えば、吹雪の中を買いに行ってくれた。
彼女を守るために不良たちと喧嘩し、肋骨を二本折っても構わなかった。
けれど後になって、彼女は知った。
彼があれほど気遣ってくれたのは愛情だったからではない。
ただ両家が親しい間柄だったから。
ただ彼が礼儀正しく誠実な人だったから。
そして何より――彼が根っから優しい人間だったからだ。
彼が本当に愛していたのは、須賀明音(すが あかね)だった。
淳人と明音に血のつながりはない。
7歳のとき、明音の母親が淳人の父親と再婚し、4人家族になったのだ。
だから淳人が妹を溺愛していても、日南はずっと兄が妹を可愛がっているだけだと思っていた。
だが違った。
淳人は、明音が他の男子と少し話しただけで嫉妬した。
彼女が短いスカートを穿けば、一晩中心を乱され眠れなくなった。
そして人目のない場所では彼女を抱き寄せ、唇を重ねていた。
ただ、日南がその真実を知ったのは遅すぎた。
一つの結婚が明音を死なせ、淳人を壊し、そして彼女自身も残りの人生を苦しみの中で生きることになった。
タイムマシンを起動する前、研究員はこう言っていた。
「須賀淳人の三つの後悔を解消できれば、全員の運命を変えられるかもしれません」
日南は細い指先でそっと淳人の頬をなぞり、彼の日記に書かれていた三つの後悔を思い出した。
【俺は後悔しているんだ。
日南と結婚したこと。
両親に最後まで抵抗しなかったこと。
そして、明音を救えなかったこと。】
彼女は深く息を吸い、小さく呟いた。
「淳人......今度こそ、あなたの願いを叶えてあげる」
......
深夜。
プリンターが低い音を立てながら動き続ける。
日南は離婚協議書に署名し、それを淳人の前へ差し出した。
そして明音の声色を真似て優しく囁く。
「サインして。そうしたら私、お見合いには行かないから」
彼はほとんど奪い取るようにペンを握り、ためらいなく自分の名前を書いた。
胸が張り裂けそうな痛みを抱えたまま、日南は笑った。
やはり彼は明音を骨の髄まで愛している。彼女の言葉なら、何だって従うのだ。
日南は目尻の涙を拭いながら問いかけた。
「内容も見ずにサインするなんて。私が騙していたらどうするの?」
淳人の反応はひどく鈍かった。
しばらくしてからようやく手を伸ばし、彼女の頬に触れる。
その瞳には、愛する人への深い愛だけが宿っていた。
「お前が俺のそばにいてくれるなら......俺は何だって差し出せる」
どんな女性でも胸を打たれる言葉だった。
けれどその言葉は、明音へ向けられたものだ。
目を赤くしたまま、日南は彼を見つめ続けた。
長い、長い時間。
......
翌朝。
彼女は離婚協議書を弁護士へ渡し、静かな声で告げた。
「双方のサインは揃っています。離婚手続きを進めてください」
弁護士は戸惑ったように言う。
「奥様、結婚初日で離婚だなんて......もう少し考え直されてはいかがですか?」
「考え直しません」
彼女はきっぱりと言い切った。
「この結婚は、必ず終わらせます」
そのとき、背後から低く響く男の声が聞こえた。
「離婚って、何の話?」
第2話
日南の身体がぴくりと強張った。
慌てて振り返ると、ちょうど二日酔いから目覚めた淳人が階段を下りてくるところだった。
彼女はすぐに離婚専門の弁護士へ目配せして、弁護士を帰らせた。
相手の姿が見えなくなってから、ようやく振り返って嘘をついた。
「聞き間違いよ。さっきは弁護士さんに不動産のことで相談しているの」
どう見ても穴だらけの言い訳だったが、淳人はそれ以上追及しなかった。
なぜなら彼は、彼女に興味がなかったからだ。
この時点では、まだ明音は自殺していない。
だから結婚後の淳人は彼女を憎んではおらず、ただ冷淡なだけだった。
彼は軽く頷くと、疲れたように眉間を押さえた。
「悪い。昨夜は結婚が嬉しくて飲みすぎた。必ず埋め合わせするから」
――嬉しかった?
日南の目元が、またどうしようもなく熱くなる。
結婚したあとの10年間、淳人は毎日のように泥酔していた。
酔うたびに自分を抱きしめながら明音の名前を呼び、胸が張り裂けそうなほど苦しみ、狂おしいほど悲しんでいた。
明音への想いはあまりにも深く、手に入らないまま生涯を悔い続けたその愛情は、まるで巨大な網のようだった。
淳人を縛り、そして自分の人生までも縛りつけた。
日南が何か言おうとしたその時、執事が近づいてきて恭しく口を開いた。
「淳人様、日南様。お土産とお車のご準備が整っております」
淳人は短く返事をすると、日南へ手を差し伸べた。
漆黒の瞳には何の感情も浮かんでいない。
「行こう」
日南は脇に下ろした手をぎゅっと握りしめてから、その大きな手に自分の手を重ねた。
触れ合った瞬間、温もりが全身へ広がる。
けれど凍え切った心だけは、どうしても温まらなかった。
道中は信号に何度も引っかかり、黒いマイバッハは進んでは止まりを繰り返していた。
赤信号の待ち時間。日南が目を閉じて少し休もうとした時だった。
隣からスマホの通知音が鳴る。
思わず視線を向けると、淳人の長い指が点灯した画面を滑っていた。
彼の表情は徐々に沈み込み、やがて瞳の奥は濃い墨を流し込んだような暗さへ変わっていく。
そして突然、スマホを裏返して膝の上に置くと、彼女へ視線を向けた。
「悪い。会社で急用ができた。今日は君の実家へ一緒には行けそうにない。ご両親には改めて直接謝罪するから」
返事を待つことなく、彼はドアを開けて車を降りた。
その背中に迷いはなかった。
日南は目を伏せ、自分のスマホを開く。
画面に表示されていたのは、明音のSNSだった。
9枚の写真の中で、彼女は見合い相手と遊園地ではじけるような笑顔を見せている。
中央の一枚には、手を繋ぎながら見つめ合う二人の姿。
その甘い空気は目が痛くなるほどだった。
好きな女性が他の男に向かってあんな笑顔を見せるのを、平気で見ていられる男などいない。まして淳人ならなおさらだ。
だから会社の急用など嘘だった。
彼が急いで立ち去った本当の理由は、それだった。
桑原家の前では、桑原夫婦がすでに長いこと待っていた。
娘が一人で車から降りてくるのを見て、二人はまず驚いた。
何か言いたげな様子を見せながらも言葉を飲み込む。
桑原母は諦めきれず日南の後ろの車内を覗き込んだが、本当に誰もいないと分かると口を開きかけた。
しかし娘の静かな眼差しに気づき、そのまま言葉を呑み込んだ。
......
食卓についた時、先に口を開いたのは日南だった。
「お父さん、お母さん。私、淳人と離婚するつもりなの」
その瞬間、食卓は死んだような静寂に包まれた。
桑原父が眉をひそめる。
「何があったのか?どうして急に離婚なんて」
桑原母も慌てて言葉を重ねる。
「そうよ、日南。話し合えば解決できることだってあるでしょう?淳人のことが大好きだっていつも言っていたじゃない。それにまだ結婚して一日しか――」
言葉は途中で止まった。
日南が顔を上げたからだ。
その赤く染まった瞳は、涙でいっぱいになっていた。
「お父さん、お母さん」
彼女は震える声で言った。
「彼と一緒にいても幸せじゃないの。だから離婚したい。彼のためにも、自分のためにも。お願いだから、私の決断を認めて。応援してほしいの」
声はとても静かだった。
けれど話しているうちに涙は次々と溢れ、まるでこの世のすべての悲しみを抱え込んでいるかのようだった。
何があったのかは分からない。
だが、愛娘がここまで泣いている姿を見れば、それだけで十分だった。
桑原夫婦は慌てて箸を置き、娘を抱きしめる。
それ以上問いただすことはなかった。
「分かった、分かったよ。お父さんもお母さんも賛成するから」
「離婚したいなら離婚しなさい。全力で支えるから」
日南は両親の腕の中で、止めどなく涙を流した。
二人は本当に自分を愛してくれている。
前世では、自分の結婚生活がうまくいかないことを心から心配し、数年で髪が白くなってしまった。
だから今度こそ、もう二度と両親に心配などかけない。
「お父さん、お母さん」
日南は涙声で続けた。
「離婚したら、一緒に海外へ移住しましょう」
二人は顔を見合わせ、それから優しく頷いた。
「いいとも」
「日南が行きたい場所なら、どこへだって一緒に行く」
日南は涙を拭い、ようやく微笑んだ。
今度こそ、明音を死なせない。
淳人から最愛の人を奪わない。
両親を悲しませない。
そして、自分自身も苦しみ続ける人生を歩まない。
自分は必ず、誰もが救われる結末を掴み取る。
第3話
それから数日が過ぎた。
広すぎる新居に、主人である淳人が戻ってくることはなかった。
けれど日南は毎日のように、明音のSNSで彼の姿を目にしていた。
観覧車の頂上にあるゴンドラの中では、淳人が必死に感情を抑えながら彼女を腕の中へ囲い込んでいる。
カップル向けレストランの窓際では、丁寧に海老の殻を剥いてやっていた。
海辺で花火が打ち上がる夜には、彼女の耳を守るように優しく両手で覆っていた。
どの写真にも共通していたのは、淳人が明音へ向ける眼差しだった。
そこには隠しきれない深い想いが溢れていた。
明音の投稿にはこう添えられている。
【明音、本当に幸せ♡】
すると友人がコメントした。
【こんなにイケメンで優しいのに、お見合い相手なんて目に入るの?】
明音は笑いながら返信する。
【入らないなら入らないでいいじゃない?彼が絶対付き合うなって言うし、一生養うって言ってくれてるんだもん。仕方ないからお見合い相手とはバイバイかな~】
日南は胸の奥に広がる苦さを飲み込み、静かにスマホの画面を閉じた。
この数日、淳人が帰ってこない間に、彼女は荷物の大半をまとめ終えていた。
同時に、淳人の二つ目の後悔をどう叶えるかも考えていた。
――須賀夫婦に、明音との交際を認めさせること。
母親の仁美(ひとみ)は明音の実母だ。
説得はそれほど難しくないだろう。
問題は父親の義一(よしかず)だ。
彼は須賀家の厳格な当主であり、淳人は最も誇る後継者だった。
長年手塩にかけて育て上げた、非の打ち所のない跡取り息子。
だからこそ、彼が道を踏み外すことなど決して許せなかった。
淳人と明音に血のつながりはない。
だが同じ戸籍の家族であることに変わりはない。
前世で二人の間に恋愛感情が芽生えていると知った時、義一が激怒したのもそのためだった。
そして無理やり二人を引き離し、淳人を日南と結婚させたのだ。
どうすれば義一を説得できるのか。
日南が考え込んでいた時、淳人が帰ってきた。
仕立ての良いスーツを身にまとい、手にはドレスを一着持っている。
それを彼女へ差し出した。
「今夜は家族の集まりがある。俺と一緒に来てくれ」
日南は少し驚きながらもドレスを受け取った。
「分かったわ」
彼女は目を伏せたまま素直に頷く。
結婚してから一度も夜を共に過ごさなかったことも、実家への顔出しに付き添わなかったことも、何日も家に帰らなかったことも。
どこへ行っていたのか、一言も尋ねなかった。
そんな彼女を見つめながら、淳人はふいにポケットから小さな箱を取り出した。
「オークションで見かけた。君への土産だ」
日南が箱を開ける。
中に入っていたのは一本のブレスレットだった。
最近、淳人がオークションで20億円もの大金を投じ、限定モデルのネックレスを落札したことは社交界で大きな話題になっていた。
誰もが妻への贈り物だと思っていた。
だが妻である彼女が受け取ったのは、そのジュエリーセットに付属していたブレスレットだけだった。
それでも日南は何も言わない。ただ微笑みながら腕に着ける。
「素敵ね。ありがとう」
淳人は彼女を見つめた。
瞳の奥に一瞬だけ複雑な色がよぎる。
だがすぐにそれも消え去った。
夜になり、二人はそろって集まりへ向かった。
会場では誰もが二人を褒め称えた。
「淳人くんと日南ちゃん、本当にお似合いね。小さい頃から見てきた二人だもの。ようやく結ばれたのね」
「そのうち赤ちゃんも生まれるんじゃない?」
「絶対に可愛い子になる」
淳人はこうした場が苦手だった。
適当な理由をつけて席を立つ。
「電話してくる」
そうして日南だけがその場に残された。
彼女は一人で周囲の冷やかしや祝福に応じ続けた。
ようやく解放され、ほっと息をついた時だった。
背後から聞き慣れた声が響く。
「お義姉さん、お久しぶりです。まだ結婚のお祝いを言ってませんでしたね」
振り返ると、月白色のドレスに身を包んだ明音が立っていた。
そして彼女の首元には、あの限定モデルのネックレスが輝いていた。
日南の表情が数秒だけ固まる。
しかしすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、久しぶりね、明音。そのネックレス、とても素敵よ」
明音は首元に手を添え、どこか誇らしげに笑った。
「そうですか?これ、お兄ちゃんがくれたんです。高すぎるからお義姉さんにあげたらって言ったんですけど、お兄ちゃんったら、『これが似合うのはお前だけだ』って」
そう言いながら、彼女は日南の表情を探るように観察していた。
嫉妬でも失望でもいい。何か反応を見たかったのだろう。
だが日南は終始穏やかだった。
「確かに明音によく似合っているわ」
その一言に、明音は逆に言葉を失った。
本当は怒ると思っていた。嫉妬すると思っていた。
あるいは言い争いになると思っていた。
だが日南は何一つ思い通りの反応を見せない。
明音は拍子抜けしてしまった。
日南が立ち去ろうとしたその時、明音が突然彼女の手首を掴んだ。
「お義姉さん。結婚の日、お見合いがあってプレゼントを渡せなかったんです。今日は代わりに――」
日南は断ろうとした。
だが次の瞬間、明音が突然大声を上げた。
「きゃっ!お義姉さん、何するの?!」
そう叫ぶなり、自らプールへ飛び込んだ。
日南が状況を理解するより早く、騒ぎを聞きつけた淳人が駆けつけてきた。
水の中でもがく明音を見た瞬間、彼の顔色は真っ青になる。
「明音!」
必死に名前を呼びながら、ためらいなくプールへ飛び込んだ。
あまりにも焦っていたせいで、飛び込む際にプールサイドにいた日南を強く突き飛ばしてしまう。
彼女はよろめき、そのまま額を石畳へ激しく打ちつけた。
鮮血が瞬く間に流れ落ちる。
その頃には明音がすでに救い上げられていた。
全身ずぶ濡れのまま、彼女は涙ぐんだ目で淳人を見上げる。
「お兄ちゃん......私、何かお義姉さんを怒らせるようなことしたのかな......泳げないって知ってるのに、突き落とされて......」
額を押さえながら、日南は呆然とした。
「違う、私はそんなことしていない......」
だが淳人は冷たい視線を向けただけだった。
たった一瞥。それだけで全身が凍りつく。
――彼は信じてくれない。
そう悟った瞬間だった。
明音がまた悲鳴を上げる。
「ネックレスがない!きっとプールに落ちた......探さなきゃ!」
淳人は慌てて彼女を止めた。
「そんなものはいい。また買ってやる。今は病院へ行こう」
だが明音は首を横に振り、ぽろぽろと涙を流した。
「だめだよ。あれはお兄ちゃんがくれた物だもの。早く見つけないと」
そう言って再びプールへ飛び込もうとする。
びしょ濡れになった明音を見つめ、そして少し離れた場所に立つ日南へ視線を移した淳人の胸に、怒りが一気に燃え上がった。
彼は冷え切った声で言い放つ。
「失くした原因を作った人間が取りに行けばいい」
そう言うと、傍らのボディガードへ目配せした。
ボディガードはすぐに意図を理解する。
そして前へ進み出ると、日南の腕を掴み、そのまま容赦なくプールへ突き落とした。
第4話
大きな水音とともに水しぶきが上がり、周囲から一斉に驚きの声が響いた。
「は?淳人、何を考えてるんだ?相手は新婚の奥さんだぞ!」
「聞いた話じゃ、日南さんが彼から妹さんへのプレゼントだったネックレスをプールに落としたらしい。それで拾わせてるんだって」
「淳人があの義妹を宝物みたいに可愛がってるって噂は聞いてたけど、半信半疑だったんだよな。今なら信じるよ」
日南の身体は一気に沈んだ。
冷たい水が瞬く間に彼女を飲み込み、四方八方から押し寄せる。
まるで無数の見えない手が手足を掴み、深い闇の底へ引きずり込もうとしているかのようだった。
季節は秋。しかも薄手のドレス一枚しか身につけていない。
氷のような池の水に全身を包まれ、彼女は震えながら必死に岸へ上がろうとした。
だが、ボディガードが再び彼女を水中へ押し戻す。
「や、やめて......」
必死に抵抗するものの、助けを求める声はすべて水に呑み込まれた。
「奥様。淳人様のご命令です。ネックレスを見つけるまで岸には上がれません」
意識が朦朧とする中、日南は淳人が明音を抱きかかえて去っていく背中を見つめた。
胸の奥が鈍く痛む。
結局、彼女は潜り続けるしかなかった。
何度も何度も水底を探し続ける。
そして二時間後、ようやくネックレスを見つけ出した。
びしょ濡れのまま岸へ這い上がった時には、唇は青紫色に変わり、全身は寒さで震えていた。
ネックレスを握りしめた手も小刻みに揺れている。
彼女はそのまま岸辺へ倒れ込み、打ち上げられた魚のように、激しく胸を上下させて荒い息をついた。
いつの間にか集まりは終わっていた。
人影は一つもない。
日南はネックレスを握ったまま、ふらつく足取りで会場を後にした。
途中まで歩いてから、ふとスマホを置き忘れたことに気づく。
仕方なく坂道を引き返した。
だが数歩進んだところで、遠くに激しい炎が上がっているのが目に入った。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
――どうして忘れていた。
前世でも、まさにこの時。
須賀家の本宅は火事になったのだ。
酒に酔った義一が書斎で一人眠り込み、危うく焼死しかけた。
最終的には救出されたものの、全身の三割に及ぶ重度の火傷を負い、後半生を苦痛の中で過ごした。
それを思い出した日南は急いで119番通報を済ませると、そのまま迷わず炎の中へ飛び込んだ。
猛り狂う炎が四方へ走り回る。
むき出しの肌は次々と焼かれ、真っ赤な水ぶくれが浮かび上がった。
床を這う炎が白いふくらはぎを舐めるように焼き、赤黒い火傷の痕を残していく。
激痛で視界は何度も暗くなった。
それでも彼女は立ち止まらない。
まっすぐ義一の書斎へ向かった。
扉を開けると、予想通り中には倒れた義一の姿があった。
「しっかりしてください!」
何度も呼びかける。だが返事はない。
日南は必死に彼を引きずりながら出口へ向かった。
あと少しで外へ出られる、その時だった。
燃え盛る棚が轟音とともに倒れてきた。
日南は咄嗟に義一を安全な場所へ突き飛ばす。
義一は助かった。
だが代わりに、彼女自身がその下敷きになった。
轟音が響く。背中に焼けるような激痛が走った。
視界は真っ黒に染まり、そのまま意識を失った。
......
再び目を開けた時、日南は病院のベッドに横たわっていた。
看護師が傷の手当てをしている。
彼女が目を覚ましたのを見て、ほっとしたように声を上げた。
「やっと目が覚めました。背中の火傷はかなり深いので......傷跡は残るかもしれません」
だが日南は、自分の怪我など気にしていなかった。
「一緒にいた男性は無事なんですか?」
そればかりを繰り返し尋ねる。
病室を聞くなり、彼女は慌ててベッドを降りた。
そして急いで向かった先で、病室の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
扉越しに見えた光景は、あまりにも和やかなものだった。
仁美が満面の笑みで明音の手を握っている。
「今回は本当に明音のおかげね。明音がいなかったら、お父さんがどうなっていたことか。あの人ももう若くないんだから」
明音は少し照れたように微笑んだ。
「ううん......私、当然のことをしただけだよ」
その傍らには淳人もいる。
感謝の表情を浮かべながらも、どこか心配そうだった。
「明音、あんな危険な場所に一人で飛び込むなんて。俺に電話すればよかっただろう。もし何かあったらどうするんだ」
明音は甘えるように笑う。
「そんなこと考えてる余裕なかったの。お父さんだけは絶対助けたいって、それしか頭になかったんだから。それにほら、お父さんも私も無事だったでしょう?」
その言葉に皆が微笑んだ。
いつも威厳に満ちた義一でさえ例外ではない。
義一は、淳人と明音の間に恋愛感情があると知って以来、彼女に冷たい態度を取り続けていた。
だが今は違う。
明音を見る眼差しには、以前の不満が薄れ、代わりに感謝の色が宿っていた。
病室の外でそれを見つめる日南の胸が、小さく震える。
なぜ明音が手柄を横取りしたのか。
なぜ自分が助けたことを、彼女自身の功績にしたのか。
その理由は分からない。
けれど、それでいいのかもしれない。
義一の印象が変われば、明音と淳人の未来も変わるかもしれない。
だから日南は真実を口にしなかった。ただ静かにその場を離れた。
......
それから数日。彼女は自分の病室で静かに過ごした。
見舞いに来る者は誰もいない。
彼女自身も外へ出ようとはしなかった。
そしてある日。
ようやく淳人が、自分に妻がいたことを思い出したように電話をかけてきた。
その時、日南は鏡の前で薬を塗っていた。
背中の傷は焼けるように痛み、震える指で何とか軟膏を伸ばしている。
看護師からは言われていた。
傷跡は一生消えないだろう、と。
ようやく通話ボタンを押した瞬間、受話器の向こうから氷のように冷たい声が響いた。
「今どこにいる?」
淳人だった。
「本宅が火事になって、父さんが入院していることも知らないのか?君は須賀家の嫁だろう。一度も見舞いに来ないつもりか?まさかこの前の件をまだ根に持っているのか?!」
日南の指先がわずかに震える。
「違うの。私は――」
言い終わる前に、電話の向こうから明音の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、お義姉さんは呼ばなくていいよ。お父さんなら私が付き添ってるもの」
柔らかな声だった。
だが微かな嘲りが混じっている。
「この前怒ってたんだし、きっと気晴らししたいのよ。しばらく自由に遊ばせてあげてもいいんじゃないかな」
その言葉に淳人の呼吸が荒くなる。
明らかに機嫌を損ねたのが分かった。
彼は日南の話を最後まで聞こうともせず、そのまま電話を切った。
ツーツーという無機質な音だけが残る。
日南はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
やがて小さく苦笑する。
――こんな扱いには慣れている。
それでも毎回、胸のどこかが痛んだ。
......
一週間後。
ようやく日南は退院した。
義一の怪我は彼女ほど重くなく、煙を吸った程度だったため、ずっと前に退院している。
だから退院した彼女が最初に向かったのは、義一のもとだった。
そして彼の前に跪く、声には切実な願いが滲んでいた。
「お義父さん、お願いです。明音と淳人のことを、どうか認めてあげてください」
第5話
その言葉を聞いた瞬間、義一は呆然とした。
目を大きく見開き、その瞳には驚愕が浮かんでいる。
数秒もの間言葉を失ったあと、ようやく我に返ったように日南を立ち上がらせた。
「......あの二人のことを、お前も知っていたのか?」
信じられないというような声だった。
日南は苦く微笑んだ。
「はい。あの人たちは本気で愛し合っています、だから......」
義一は眉をひそめた。
「何を言うんだ。お前は淳人の妻だろう。どうして私に二人の交際を認めろと言うんだ?」
そして首を横に振る。
「それにあの子たちは兄妹だ。認めるわけにはいかん」
その口調は断固としていた。
だが日南には分かった。
義一の気持ちは以前ほど固くない。
明音が命懸けで自分を救った――そう信じている以上、その存在は確実に彼の中で重みを増していた。
日南はその隙を逃さなかった。
「お義父さん、これからお話しすることはきっと信じられないと思います。でも本当なんです」
彼女は息を整えながら続ける。
「私は......タイムマシンで未来から戻ってきました」
義一は完全に固まった。
「タイムマシンだと?」
呆れと困惑が入り混じった表情になる。
「お前、何寝ぼけたことを......」
日南は静かに首を振った。
「冗談ではありません。実は私はすでに一度、この人生を生き終えているんです」
そして前世の出来事を語り始めた。
「前の人生で、お義父さんは淳人と明音を引き離し、私と結婚させました。明音はそれに耐えられず、私たちが結婚して間もなく自ら命を絶った。そして淳人は彼女の死から立ち直れず......最後には後を追うように亡くなったんです」
義一の顔色が変わる。
だがそれは信じたからではない。
あまりにも荒唐無稽な話に戸惑っているのだ。
日南はその反応も予想していた。
「信じられないなら証明します」
彼女は真っ直ぐ義一を見た。
「10分後、北区の大橋が崩落します。ニュースを見ていてください。本当かどうか、すぐに分かります」
義一は半信半疑のまま彼女を見つめた。
それでも最終的には黙って頷いた。
二人はリビングに座り、沈黙の中で時間が過ぎるのを待った。
そして10分後、テレビから臨時ニュースが流れた。
北区の大橋、突然の崩落。
速報の文字が画面を走る。
義一の顔から血の気が引いた。
「そんなバカな......」
震える声が漏れる。
日南はその瞬間を逃さず、再び頭を下げた。
「これで証明したんでしょう。私は嘘をついていません。今は兄妹でも、戸籍を分ければ問題はなくなります。どうかあの二人を認めてください」
声には切実な願いが込められていた。
「淳人はお義父さんが最も期待している後継者でしょう?だからこそ、若くして命を落とすような結末を迎えてほしくないはずです」
義一は額を押さえた。
頭の中が混乱しているのが見て取れる。
常識では到底受け入れられない話だった。
どれほど時間が経ったのか。ようやく彼は疲れたように手を振った。
「日南......今日はもう帰りなさい」
声はかすかに震えていた。
「この件は......もう少し考えてみる」
日南はその言葉を聞いて安堵した。
少なくとも以前のような完全な拒絶ではない。
彼の心は確実に揺らいでいる。
それ以上追い詰めることはせず、静かに頷いた。
「ありがとうございます。では」
そう言って立ち上がり、その場を後にした。
家へ戻っても淳人の姿はなかった。
日南は窓辺に腰掛け、夜空に散る星々を見上げる。
ひんやりとした夜風が髪を揺らした。
それでも心は以前より軽かった。
「淳人。二つ目の後悔も、もうすぐ叶うかもしれないね」
......
翌朝。
日南は早く起きて荷物の整理を続けようとしていた。
その時、玄関の扉が勢いよく開く。
振り返ると、淳人が険しい顔で入ってきた。
「着替えろ」
命令口調だった。
「出かけるぞ」
日南は目を瞬かせる。
「出かけるって......?」
「デートだ」
あまりにも予想外の言葉だった。
「どうして急に――」
「質問はあとだ」
淳人は苛立ったように遮る。
「早く着替えろ」
その時、スマホが通知音を鳴らした。
日南が画面を見る。送り主は義一だった。
【一晩考えたが、やはりタイムマシンの話は簡単には信じられない。
だからもう少し淳人と向き合ってみてほしい。
お前たちは小さい頃から見てきた仲だ。あいつがまったくお前に気持ちがないとは思えない。
今回は私が無理やり家へ戻らせた。数日間、一緒に出かけてみなさい。
それでも駄目なら、私はもう口を出さない。お前たち若い者同士のことは、お前たちで決めればいい】
メッセージを読み終えた日南の胸に、複雑な感情が広がった。
まだ整理がつかない。
そんな彼女に向かって、淳人が冷たく言い放つ。
「告げ口したのは君だろう。俺がわざわざ戻ってきてデートまでしてやったんだ、早くしろ」
日南は口を開いた。
「違う。それは――」
だが説明する暇すら与えられなかった。
淳人は彼女の手首を掴む。
そして有無を言わせず玄関の外へ連れ出し、そのまま車へ押し込んだ。
第6話
一日中続いたデートの間、淳人の表情が和らぐことは一度もなかった。
ショッピングモールを歩き、映画を観て、遊園地にまで足を運んだというのに、彼の眼差しは終始冷え切っている。
まるで隣にいるのが妻ではなく、憎むべき相手であるかのようだった。
そんな彼の後ろを歩きながら、日南の胸は重苦しさでいっぱいだった。
何か大きな石を抱え込んでいるようで、息苦しくて仕方がない。
夜になると、二人は高級レストランに入った。
揺れるキャンドルの灯り。静かに流れる音楽。
本来なら甘い雰囲気に包まれるはずの空間だった。
だが二人の間に流れる空気は氷のように冷たい。
淳人は料理に一切手をつけなかった。
ただ酒だけを飲み続けている。
見かねた日南が口を開いた。
「もうやめたほうが......身体に悪いよ」
淳人はグラスを置き、冷たく彼女を見た。
「父さんから、今夜は君と過ごすようにと言われてな」
その声には嫌悪が滲んでいた。
「だが俺はその気がない。酔ってしまえば、その面倒も考えずに済む」
日南の胸が重く沈んだ。
無意識にドレスの裾を握り締める。
「無理しなくてもいいのに」
かすかな苦さを滲ませながらそう答える。
だが淳人は鼻で笑った。
「ここ数日、君は妙に聞き分けが良かったから、少しは悪かったと思っていた」
その視線は鋭い。
「だが結局は演技だったらしいな。こっそり父さんに告げ口していたんだろう?俺が付き合ってくれない、とか」
胸の奥を鋭い刃で刺されたような痛みが走る。
淳人はさらに続けた。
「俺が知っていた日南は、こんな人間じゃなかった」
その声は低かった。
「君が変わったのか。それとも俺が最初から見誤っていたのか」
日南は俯いた。
何も言わなかった。
否定することも、言い返すこともせず、ただ黙って彼のそばに座り続ける。
そして淳人が完全に酔い潰れるまで付き添った。
食事を終えた頃には、彼はまともに立つこともできなくなっていた。
日南は肩を貸し、苦労しながら家まで連れ帰る。
ようやくベッドに寝かせた時には、自分も疲れ切っていた。
立ち去ろうとしたそのとき、足元がふらついた。
体勢を崩した彼女は、そのまま淳人の上へ倒れ込む。
唇が重なった。
日南は一瞬で固まった。
だが淳人は違った。
まるで抑え込んでいた感情の出口を見つけたかのように、彼女を強く引き寄せる。
そして激しく唇を奪った。
「明音......」
酒に掠れた声が耳元で響く。
「好きだ......」
苦しいほど切ない声音だった。
「俺はお前が好きだ。大好きなんだ......」
日南の胸がぎゅっと締め付けられる。
痛くて息ができない。
「んっ......」
彼女は必死に身をよじった。
「私は明音じゃない」
押し返そうとしたその時――
バンッ!
突然、部屋の入口から大きな音が響いた。
日南が顔を上げる。
そこには明音が立っていた。
顔色は真っ白で、目には衝撃と苦しみが浮かんでいる。
「明音、これは違うの。話を――」
日南が慌てて声をかけた。
しかし明音は何も聞かず、くるりと背を向けて走り去ってしまう。
追いかけようとした。
だが淳人の腕が彼女を強く拘束していた。
酔っているとは思えないほど力が強い。
日南は必死に抵抗した。
長い時間をかけ、ようやくその腕から抜け出す。
急いで外へ飛び出した時には、もう明音の姿はどこにもなかった。
胸の奥に重い石が沈む。
明日、どんな騒ぎになるのだろう。
そんな不安が消えなかった。
しかし日南はまだ知らない。その騒動が、想像以上の速さで訪れることを。
......
深夜。
突然、淳人のスマホが鳴り響いた。
彼は眠そうに電話を取る。
だが相手の話を聞いた瞬間、顔色が一変した。
血の気が引き、真っ青になる。
電話を切るなり、勢いよくベッドから身を起こした。
声が震えている。
「明音が......自殺した」
日南の頭の中で何かが弾けた。雷に打たれたような衝撃が走る。
理解が追いつかない。
淳人は青ざめたまま続ける。
「俺たちがキスしているところを見たせいだ......」
日南の脳裏が真っ白になる。
――自殺?どうして?
そんなはずはない。
前世の記憶では、明音が命を絶ったのはまだ先だった。
なぜ今?どうして予定より早まっている――
第7話
その知らせを聞いた瞬間、淳人の酔いは一気に吹き飛んだ。
彼は日南を睨みつける。
その瞳には怒りと苦痛が渦巻いていた。
「これで満足か?」
声は低く震えている。
「最初から気づいていたんじゃないのか?わざとだったんだろ!」
日南は口を開いて、説明しようとした。
だが淳人は聞こうともしない。
彼は車のキーを掴むと、コートを羽織る暇すらないまま玄関へ向かった。
日南が追いかけた時には、すでに彼は車へ乗り込み、エンジンをかけようとしていた。
彼女は慌てて駆け寄り、車の窓にしがみつく。
「私も行く!」
淳人は冷たい目で彼女を見た。
「お前が行ってどうする」
その声音には露骨な嫌悪が滲んでいる。
「また明音を傷つけるつもりか?」
彼は拳を握り締めた。
「俺が明音を好きだと分かっていたから父さんに告げ口したんだろう?キスを見せたのもわざとだろう?!」
怒りを押し殺した声が震える。
「日南。もし明音に何かあったら、俺は一生お前を許さない!」
胸が強く締め付けられた。
痛みで息が詰まりそうになる。
それでも日南は歯を食いしばった。
「私は明音を傷つけるつもりなんてない」
一語一語、はっきりと言う。
「それでも私が行きたいのは、今回の自殺未遂で彼女が大量出血するからよ」
淳人の眉が動く。
「血液が不足するの。私と彼女は同じ血液型だから、輸血できる」
前世でもそうだった。
明音は輸血用の血液が間に合わず、手術台の上で命を落とした。
だから今度こそ救わなければならない。
しかし淳人は聞き入れなかった。そのままアクセルを踏もうとする。
日南は焦って、咄嗟に車の前へ飛び出した。
ブレーキが間に合わなかった。
激しい衝撃。轟音とともに彼女の身体が宙を舞う。
そして道路へ叩きつけられた。
淳人は顔色を変えて車から飛び降りる。
思わず怒鳴った。
「お前、正気か?!」
日南は血だまりの中でよろめきながら立ち上がった。
全身が痛む。それでも彼女は譲らない。
「連れて行って......!」
淳人はしばらく彼女を見つめ、ついに折れた。
二人はそのまま病院へ向かう。
到着してすぐ、彼は愕然とした。
日南の言葉はすべて当たっていた。
明音は本当に大量出血して、血液センターのストックも不足していた。
日南はすぐに看護師へ駆け寄る。
「私の血液型は彼女と同じです。献血します」
だが看護師は彼女の姿を見て驚愕した。
「あなた、交通事故に遭ったばかりでしょう?」
服には血が滲み、顔色も悪い。
「こんな状態では無理です。身体が持ちません」
しかし日南は首を振った。
「大丈夫です」
声は弱々しかったが、意志だけは揺るがない。
「私の血を使ってください」
看護師は何度も止めた。それでも彼女は譲らなかった。
結局、採血が始まる。
時間が経つにつれ、日南の顔色はどんどん青白くなっていった。
だが一度も弱音を吐かない。
採血の途中、看護師が焦ったように声を上げた。
「もう駄目です!これ以上は危険です!」
しかし日南は赤くなった目で首を横に振る。
その声には執念にも似た強さがあった。
「続けてください。彼女には血が必要なんです」
最終的に彼女は1000ミリリットルもの血液を提供した。
終わる頃には意識も朦朧としていた。
身体が傾く。
そのまま倒れそうになった彼女を、淳人が慌てて支えた。
彼の声がかすかに震える。
「どうしてそこまでする?」
日南は力なく微笑んで、消え入りそうな声で答える。
「だってあなたは......私にとって大切な人。そして彼女は......あなたが愛している人だから......」
淳人の胸が大きく揺れた。何かが強く心を打った。
彼は腕の中の日南を見下ろす。
その瞬間、初めて彼女の想いと向き合った。
日南の愛は、いつだって真っ直ぐだった。情熱的で、隠そうともせず。
自分が愛する相手のためなら、命すら差し出せるほどに。
それでいて何一つ見返りを求めない。
これまでの年月が脳裏をよぎる。
ずっと変わらず向けられてきた好意。
無条件の愛。
淳人は唇を引き結んだ。
そしてかすかに罪悪感を滲ませながら尋ねる。
「父さんの件だが......」
声が少し低くなる。
「本当に君じゃなかったのか?」
日南は弱々しく首を振った。
「うん......私じゃないよ。私は......誰よりもあなたに幸せになってほしいから......」
その言葉に、淳人の胸が締め付けられた。何か言おうと口を開く。
だがその前に、日南の身体から力が抜けた。
彼女はそのまま彼の腕の中で意識を失った。
第8話
目を覚ますと、日南は病室のベッドに横たわっていた。
ちょうどその時、看護師が点滴の準備をしながら病室へ入ってくる。
日南は慌てて身を起こした。
「明音は......助かったんですか?」
看護師は頷いたものの、その表情には不満が浮かんでいた。
「ええ、助かりましたよ」
そう言うと、小さくため息をつく。
「でも、あなたの旦那さんもひどいですね。妹さんのためにあなたに献血させておいて、あなたが死にかけている間もずっと向こうの付き添いなんですから」
その言葉を聞いても、日南は怒らなかった。
むしろ、どこか肩の荷が下りたように微笑んだ。
彼女はスマホを手に取り、義一へメッセージを送る。
【明音の自殺未遂のことは、もうご存じですよね。この数日間私と淳人が過ごした結果もご存じだと思います。彼はやはり私を愛することはできませんでした。私は淳人と離婚します。お義父さん......いいえ、義一さん。約束してくださいましたよね。二人を認めると】
しばらくして返信が届いた。
【もういい。私も口を出さない。好きにしなさい】
その文面を見た瞬間、日南は大きく息を吐いた。
胸の奥にあった重石がようやく消えていく。
淳人の三つの後悔。
そのすべてを彼女は変えた。
皆の結末も、もう変わっている。
そして、自分も去る時が来たのだ。
入院中、淳人は一度も見舞いに来なかった。
看護師たちは口々に、彼が明音にどれほど献身的かを話していた。
けれど日南は腹を立てなかった。
むしろ穏やかな笑みを浮かべていた。
......
退院の日。
彼女は離婚届の手続きも終え、正式な書類を受け取った。
両親には先に空港へ向かうよう連絡を入れる。
そして自分は最後の荷物をまとめるため、一度家へ戻った。
......
夕暮れ時。
荷造りがほとんど終わった頃、淳人が帰宅した。
スーツ姿のまま部屋へ入ってきた彼は、積み上げられた荷物を見て驚いたように眉を上げる。
「もう知っていたのか?」
日南は首を傾げた。
「何を?」
「俺が君にしばらくここを出てもらおうと思っていたことだ」
淳人は珍しく柔らかな口調だった。
「明音が退院するんだ。でもまだ体調が万全じゃない。しばらく俺のそばで面倒を見たいと思っている。日南がここにいると、彼女を刺激するかもしれない。だから北区の別荘で暮らしてほしい」
日南は一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに頷く。
「いいよ」
あまりにもあっさりした返事だった。
淳人は逆に戸惑う。
こんなにも簡単に受け入れるとは思わなかった。
今さらながら気づき始める。
彼女はあまりにも寛容すぎるのではないか、と。
自分が明音を愛していると知っている。
それでも騒がず、責めず、明音を救うために大量の献血までした。
さらに自ら家を出ることまで受け入れている。
いったいどれほど自分を愛していたら、そこまでできるのだろう。
そんなことを考えているうちに、日南は荷物をまとめ終えていた。
彼は慌てて意識を戻し、荷物を持つ。
「送るよ」
日南は何か言いかけた。
しかし結局、言葉を飲み込む。
「......ありがとう」
道中、二人はほとんど会話をしなかった。
そんな中、明音から電話がかかってくる。
お湯で火傷したらしい。
それを聞いた瞬間、淳人の表情が変わった。
指先が焦ったようにハンドルを叩く。
その様子を見て、日南は静かに口を開いた。
「行ってあげて。私は一人で行けるから」
またしても彼女の寛容さを見せつけられた。
なのに、なぜか胸の奥が重い。
淳人自身、その理由が分からない。
彼は頷いた。
だが彼女が降りようとした時、不意に呼び止める。
「日南。もう君と結婚した以上、俺は明音を忘れる努力をする。北区の別荘にいるのは一か月だけでいい。その間は連絡しなくていい。一か月後になったら、俺が迎えに行く。その時になったら、ちゃんと夫婦としてやり直そう」
日南は何も答えなかった。ただ静かに車を降りる。
そして去り際、離婚書類のコピーをそっと車内へ置いた。
淳人は気づかない。彼は一刻も早く明音のもとへ向かいたかった。
車はすぐに走り去っていく。
遠ざかるテールランプを見つめながら、日南はふっと笑った。
薄く開いた唇から、誰にも届かない言葉が零れる。
「あなたは明音を忘れられないわ。そして私も、もう戻ってこない。
これでようやく。あなたは望みを叶えられる。私はもうあなたを愛さない。だから自由にしてあげる。これが最後よ。さようなら、淳人」
日南はタクシーを拾い、そのまま空港へ向かった。
車が橋の上を通り過ぎる。
彼女は左手の薬指から結婚指輪を外した。
そして窓を開けて、指輪を夜空へ向かって放り投げた。
銀色の軌跡を描きながら宙を舞い、やがて静かに闇の中へ消えていった。