年下彼氏に、5年も恋愛練習相手にされていた

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年下彼氏に、5年も恋愛練習相手にされていた

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江崎梓(えざき あずさ)は親友の弟・佐伯智哉(さえき ともや)と5年もの間、人目を忍んで付き合っていた。それなのに彼は、「梓さんはただの...

Chương (1)

第1章

江崎梓(えざき あずさ)は親友の弟・佐伯智哉(さえき ともや)と5年もの間、人目を忍んで付き合っていた。それなのに彼は、「梓さんはただの恋愛の練習相手だった」と平然と言ってのけたのだ。 第1話 関係を隠しながら、佐伯智哉(さえき ともや)と付き合って5年。智哉は若さと体力を持て余しているせいか、いつでもどこでも梓を激しく求めた。 トイレに行っただけの江崎梓(えざき あずさ)なのに、ふたたびその柔らかな腰を智哉に掴まれ、洗面台に押し付けられる。 梓は潤んだ瞳を細め、甘く息を漏らした。「智哉、もう少し、やさしくして……」 口角を上げた智哉は、梓に顔を寄せ、耳たぶに軽く噛みついた。その声は、梓の理性をかき乱す。 「梓さん、もう我慢できなくなっちゃったの?今、始まったばかりだよ、ん?」 押し寄せる快感に言葉も出ず、梓はただその感触に身を任せた。 この5年、数えきれない場所で愛を交わしてきたはずなのに、それでも収まることを知らない彼の欲求には、今も圧倒されるばかりだった。 「年下の男は体力が違う」そんな話を、梓は身をもって思い知らされていた。しかも智哉は妙に器用で、次から次へと梓を翻弄してくる。 智哉は細めた瞳で梓の腰をなぞり、離そうとしない。 「梓さんの腰って、なんでこんな柔らかいの?いつも、触るだけで、自分が抑えられなくなっちゃうんだ。他の男に触れさせるなんて許さないからね。梓さんは一生、俺だけのものだよ?」 独占欲を隠そうともしない智哉に、梓は微笑みかけ、キスを落とす。「分かってる。私はずっと智哉のものだから」 ひとしきり愛し合った後、智哉はついに満足したらしい。 乱れたベルトを整えるその横顔には、またいつもの自由奔放な余裕が戻っていた。 帰ろうとする智哉に、梓は声をかける。 「私、来月で30歳になるんだけど、ずっと実家から結婚はまだかってせかされてて……智哉が私たちのこと公にしたくないって知ってるから、付き合ってることは言ってない。だから、縁談とかもいっぱい持ってこられてるの。ねえ、智哉。あなたはどう考えてる?」 足を止めた智哉は、梓に軽くキスを落としてやさしく微笑んだ。「あと少し待っててくれる?今、プロポーズの準備をしてるからさ」 不安だった梓の心も、その言葉で安心を取り戻す。 智哉が廊下の奥へと消えていくのを見届けた梓は、服を整えると、再び食事会に戻るため、個室へと歩き出した。 個室の前まで戻ってくると、中の盛り上がっている笑い声が聞こえてきた。 「智哉、ずいぶん派手にやったな。声、全部こっちまで聞こえてたぞ?でも、年上の女ってやつはやっぱ違うんだな。あの声……聞いてるこっちが、我慢できなくなりそうだった」 「あの体つきで、堪えろって方が無理あるだろ?狙ってる男なんていくらでもいたのに、梓さん、今まで男に見向きもしなかったらしいけど、お前よく落としたよな。とはいえ、もう何年も付き合ってるんだろ?そろそろ経験的にも十分じゃないのか?」 ……経験? 経験って何? 梓は全身の血が凍るような感覚がした。部屋の中の会話の意味が全く分からない。 中の一人が、梓と同じように不思議に思ったらしく、質問する。「経験ってどういうこと?」 「経験って何かって?そんなの、決まってるだろ。智哉がずっと好きなのは、高校時代に出会ったあの後輩なんだよ。だから恋愛経験がない自分のままじゃ彼女に向き合えないって言ってさ。 口説き方も、付き合い方も、全部先に経験しておきたかったらしい。まあ、要するにだな、この何年かは梓さんを相手に、恋愛の予行練習をしてたってことだよ。 で、ついにその本命が帰国するらしい。なあ、智哉、梓さんとは別れるんだよな?さっきも、一発終えてきたみたいだけど、まさか本気で惚れてなんかないだろ?」 皆の視線が向けられた智哉は、けだるげにワイングラスを置いた。 「本気で惚れた?ただの練習相手にそんなことあると思うか?」 そのあまりに自然で冷酷な言葉は、ナイフのように梓の心臓を突き刺した。 一瞬にして、体内の血液が逆流する。 胸が張り裂けそうな激痛に襲われ、立っていることさえ難しかった。 智哉たちが部屋から出るため席をたったので、見つかるのが怖かった梓は、身を翻し夢中で走り去った。 もうすぐ30にもなるのに泣きじゃくるなんて。本当に情けない話だ。 激しい雨の中、目的地もなく彷徨い続ける梓の頭の中には、これまでの記憶が駆け巡っていた。 初めて智哉と出会ったのは、大学1年生のとき。 地方から盛沢市の大学へ出てきた梓は、大学で佐伯佳乃(さえき よしの)と親しくなった。 佳乃の実家によく顔を出すうち、その弟である智哉とも自然と面識ができたのだ。 第一印象は、とにかく驚くほど整った顔立ち。 だが、端正な顔立ち以外特に何も思うことはなく、4歳も年上だった梓は、ずっと智哉を可愛い弟みたいな存在として扱ってきた。 卒業後、自立したかった梓は、そのまま盛沢市で働き始めた。 容姿に恵まれていたせいで、梓は昔からさまざまな男に言い寄られてきた。ある日、仕事関係の集まりで、酒の中にこっそりと薬を仕込まれてしまい、慌ててホテルへ逃げ込んだことがある。佳乃に迎えを頼もうと電話をかけたつもりだったが、焦っていたせいで智哉に電話をかけてしまったのだ。 現れた智哉は、医者を呼んで欲しいと言った梓を、あの瞳でじっと見つめると、急にシャツを脱ぎ捨てたのだった。 そしてその夜、まだ20歳になったばかりの智哉が、梓の痛み止めとなった。 翌朝、梓の顔が赤かったのは、羞恥よりも罪悪感のせいだった。 梓が逃げるように身支度を済ませると、智哉は後ろから彼女を抱きしめ、さらに軽くキスを落として笑った。「梓さん、このまま無責任に逃げるつもり?」 それ以来、逃げる梓を智哉は徹底的に追いかけた。 結局、梓は智哉に捕まり、関係を秘密にしたまま付き合うことにしたのだ。 この5年、心と体は常に重なり合い、幸せな時間が流れていたはずだった。 それに、梓は信じていた。いつかは智哉がプロポーズしてくれる、と。 しかし智哉からそんな話は一向になかった。 だから今日、実家からも結婚をせかされていた梓は、つい確かめるように聞いてしまったのだ。 でもまさか、最初から愛など存在していなかったなんて。 自分は、智哉が本命を射止めるための、ただの練習相手に過ぎなかったのだ。 おぼつかない足取りでなんとか帰宅し、部屋の片隅で凍りつくような寒さに震えた。 どのくらいの時間が経っただろうか。突然の携帯の着信音が、重たい静寂を切り裂いた。 受話器の向こうから聞こえてきたのは、両親の諭すような声。 「梓、もう半月も経ったんだから、あの縁談の件、そろそろ返事をちょうだい」 テーブルに飾られた、5周年記念の二人の写真をちらりと見た梓は、深く息を吐き出した。 「その縁談、受けるよ」 ここから、自分は新しい人生を歩む。智哉も本命の彼女を追いかけたらいい。 自分たちの関係は、もう今日で終わりだ。 第2話 梓の両親は、自分の娘が素直に承諾したことに驚いた。 「本当なのね?それなら、いつ帰ってくるの?式はこっちで用意する?それともあなたが一度戻ってきて、お相手と相談した方がいい?」 もう考える気力も残っていなかった梓は、適当に答える。 「お母さんたちに任せる。こっちのことを片付けたらすぐに帰るから」 梓の両親は娘の疲弊を察し、必ず帰ってくるようにと釘を刺してから、電話を切った。 部屋の中に再び静寂が訪れる。 梓は身体を起こし、バスルームへと向かった。 シャワーを浴びてリビングに戻ると、ソファに座る智哉と目が合った。 「なんで何も言わずに帰ってきちゃったの?」 胸が苦しくなった梓は、視線を落とし、赤くなった目を隠す。「携帯の充電が切れちゃったから、帰ってきただけ」 適当な言い訳だったが、智哉は疑う様子もない。 彼はそのまま手を伸ばして梓を引き寄せると、さっとバスローブの紐をほどいた。 そうはさせまいと思った梓は、伸びてきた智哉の手を掴んだ。 「食事会の場所で、もうしたでしょ?まだ数時間しか経ってないんだけど?」 だが、智哉は彼女の拒絶に気づいていないらしく、梓の手を掴み返して指を絡める。 「何時間も、だよ?梓さんの顔を見ると、抑えが利かなくて。だって、俺、梓さんのこと大好きだから」 計算された甘い言葉を聞いても、梓は皮肉としか思わなかった。 大好きだって?本命のために練習してるんでしょ? もうこの5年間、数えきれないほど体を重ねてきた。それでも、まだ足りないというのか? キスをされそうになった梓は智哉から顔をそらし、淡々と言った。「そう?じゃあ、もしもう二度と私に触れられなくなったとしても、私のことを好きでいてくれるの?」 ようやく違和感を覚えた智哉が、不思議そうに問い返す。「梓さんは俺のことが好きだし、俺だって梓さんのことが好き。お互い想い合ってるんだから、触れられないなんてことないでしょ?」 お互い想い合ってる?笑わせないでほしい。 梓は何も答えず、口元をふっと歪めて話題を変えた。 「冗談。帰りに雨に降られて少し具合が悪いから、先に休ませて」 顔色が悪い梓を見て、智哉もそれ以上は強要しなかった。 梓の額に軽く口づけを落とすと、抱きかかえて寝室へ運ぼうとする。 だがその時、テーブルの上にあった智哉の携帯が鳴った。 梓の視界に「芽衣」という文字が入る。 【智哉先輩、帰ってきました!でも外がすごい雨で、タクシーが捕まらないんです。私、どうすれば……】 メッセージを読んだ智哉は、梓をソファに置くと、そのまま立ち上がった。 「梓さん、少し用事ができちゃった。俺のこと待たなくていいから、先に寝てて」 そう言い終わるや否か、智哉は足早に玄関を出て行った。 梓の瞳が静かに揺らぐ。彼女は静かに寝室へと戻った。 髪を乾かし、布団に潜り込んで電気を消す。 しかし、目をつぶっても眠れず、頭の中では智哉と共に過ごした数年間の光景が次々と流れていた。 オークションで落とした億単位のネックレスを梓にプレゼントし、これからは一生ダイヤモンドを贈ると言ってくれた智哉。 誕生日に、砂浜で三日三晩花火を打ち上げてくれ、「梓さんに俺の全てを捧げるよ」と笑っていたこと。 流れ星が降る夜には、永遠にそばにいると約束してくれた…… あの日の誓いの言葉は、今も耳の奥に残っている。けれど今になって、ようやく気づいた。あれはすべて、ただ自分を繋ぎ止めるための口先だけの言葉だったのだと。 智哉には最初から、自分と添い遂げるつもりなんてなかったのだ。 浅い眠りのなかで、彼女の体温は上がっていった。 それなのに体の芯に寒気を感じ、震えが止まらない。 朝になった頃には、汗でシーツがかなり濡れていた。 戻ってきた智哉は、高熱にうなされる梓の真っ赤な顔を見て、一気に目が覚めたようだった。 パニックのまま、彼女を抱き上げて病院へと急ぐ。 病院のロビーに着くと、朦朧とした意識の梓が目を覚ました。「ここ、どこ……?」 「熱があるんだよ。だから、病院に連れてきたの。もう!大人なのに、なんで自分の体調も管理できないんだよ!」 心配で苛立っていた智哉は、梓を椅子に座らせて受付に走ろうとした。 しかし、智哉が数歩進んだところで、彼の視界に桜井芽衣(さくらい めい)が映る。 智哉は驚いた。「芽衣?なんでここに?さっき家まで送っただろ?」 白いワンピースを着た、純粋そうで儚げな女の子。 「揚げ物をしてたら、火傷しちゃって……病院に手当てしてもらいに来たの」 赤くなった芽衣の手の甲を見ると、智哉の表情が一気に変わった。 彼は梓のことなど忘れ、すぐさま芽衣を連れて診察や処置へと走り回り、つい今しがたまで梓の心配をしていたことなど、まるで嘘のようだった。 二人の遠ざかる背中を見つめ、梓はふっと自嘲の笑みを漏らすと、重い体を持ち上げ、自ら受付に並ぶ。 医師の診察後、彼女は点滴を受けることになった。 点滴には3時間かかるというのだが、梓は疲労のあまりそのまま眠ってしまった。 誰も気づかないうちに、針から血液が逆流し、点滴パックが赤く染まっていく。 「必ず誰かに付き添ってもらってくださいって言われませんでしたか?ご家族の方やパートナーは?」 紫に変色した自分の手の甲を見ながら、梓はぼそっと答える。「家族は別の場所にいて……彼氏……彼氏はいません」 ちょうどその時、智哉が駆け込んできた。 「梓!」 点滴パックを交換していた看護師が、智哉を見て言った。「パートナーの方ですか?どうして付き添ってあげないんですか?逆流して危険だったんですよ」 浮腫んだ彼女の手を見て、智哉はさっとその手を掴む。「ごめん、梓さん。友達に偶然会って話をしていたら時間を忘れちゃって。でも、戻った時には梓さんがいなくて……ずっと探してたんだよ」 梓は彼の嘘を追及することもなく、ただ黙ってうなずいただけだった。 第3話 点滴が終わると、梓は智哉に支えられながら駐車場へと向かった。 駐車場に到着するなり、芽衣の姿を目にした。 芽衣を見るやいなや、智哉は咄嗟に梓から手を離した。 「芽衣、どうしてまだ帰ってないんだ?」 答えようとした芽衣だったが、梓の存在に気づき、さっと少し顔を曇らせた。 「相談したいことがあったんです。智哉先輩、そちらの方は……」 自分たちの関係は公にしていなかったので、智哉もいつものように答える。「姉ちゃんの親友。具合が悪くなったみたいだから、俺が送ってきたんだ」 智哉の答えを聞いた梓の胸は、何かに締め付けられるように苦しくなった。 この数年間、どうして関係を隠し続けるのか理由が分からなかった。 最初は姉の佳乃を気にしてのことだと思っていた。だが、5年間も多くの人を騙してまで隠し通していた本当の理由を、梓はこの瞬間に悟った。 彼はただ、芽衣に知られたくなかっただけらしい。 梓は唇を噛み締め、静かに言った。「はじめまして。江崎梓です」 その言葉を聞いてようやく笑顔を取り戻した芽衣が自己紹介をし、智哉に本題を切り出した。 「帰国した私のために、友達が食事会を開いてくれるんですけど、先輩もよかったらどうかなって思いまして!それに、梓さんも!この機に、仲良くできたら嬉しいです」 断ろうとした梓だったが、智哉がその隙も与えず快諾してしまった。 開けられた車のドアを見て、梓は黙って乗り込む。 道中、智哉は絶え間なく話題を見つけては、芽衣と昔の話で盛り上がった。 「先輩、未だに苺飴を常備してるんですか?高校の文化祭のとき、緊張でピアノが弾けないって私が言ったら、雨の中わざわざ買いに走ってくれましたよね。あれから会うたびに、必ず2粒くれるようになって……」 「あ、このフィギュア!前に私がラインで好きって言ったキャラクターですよね?智哉先輩も買ったんですか!」 「先輩、その香水、とっても良い香りです!男の子がつけてたらときめくって何気なく話したのを、使ってくれてたんですね……」 その横で梓は静かに聞いていた。いつもマイペースだと思っていた智哉だが、本気で惚れた相手には恋する少年のような姿を見せるらしい。 バックミラー越しにちらりと見ると、智哉は耳まで赤くなっている。 これだけ時間が経っても、まだときめくものなのか? まあ、無理もないのかもしれない。何せ本命で初恋の人なのだから。 バーに着くと、梓は端の席に腰を下ろした。 一方、智哉は迷わず芽衣の隣に座り、ジャケットを彼女の足元にかける。 ボックス席にいた芽衣の友人たちは、すぐさま冷やかし始めた。 「5年経っても相変わらず紳士ですね!今日もし芽衣が飲みゲーで負けたら、その分は智哉さんが引き受けるんですか?」 「そう決まってるでしょ!今の智哉さんには彼女もいないんだし、問題ないから!それに、芽衣のためなら、今日ここで潰れるまで飲んでくれるんじゃない?」 それを聞いた智哉は、無意識のうちに梓の方にちらりと視線を向ける。 しかし、梓は携帯の画面に視線を落としており、聞こえていないようだった。 それでも智哉は一抹の不安を覚え、梓にラインを送った。 【梓さん、みんな俺たちのことを知らないから言ってるだけだから、気にしないでね。今日は芽衣の歓迎会だから難しいけど、今度の機会があれば、みんなの前で公表しよう】 今度? 今度なんてものはない。 それから間もなくして、飲み会ゲームが始まった。 1周目、負けた梓への罰ゲームは一気飲み3杯。 智哉が助けようとしたが、それは止められた。 「智哉さん、協力する場合には、お互いの同意が必要ってルールですから!それに、梓さんも30近いんですよね?社会人になって長いんだから、3杯くらい余裕じゃないんですか?」 わざとらしく年齢を持ち出され、梓の心はちくっと痛んだ。 もう関係を断とうと決めた智哉に借りを作りたくなかった梓は、覚悟を決めてグラスを手に取る。 飲み終えると、拍手と歓声が周囲から湧き上がった。 2週目では芽衣が負けたが、彼女が智哉をちらりと見ただけで、友人たちは勝手に智哉のグラスへと酒を注いだ。 智哉も迷うことなく、一気に飲み干す。 その後も芽衣は負け続け、智哉のグラスには常に酒が注がれた。 すぐに智哉はひどく酔い潰れ、トイレへと向かった。 10分経っても戻ってこなかったので、梓が探しに行くと、階段でぐったりしている智哉を見つけた。 梓の姿を見るなり、智哉は彼女を強く抱き寄せ、朦朧とした意識の中で呟いた。 「芽衣、俺は嬉しいんだ。お前がやっと戻ってきてくれたんだからな。一生お前と一緒にいたい。他の奴が持ってる幸せは、全部お前に与えてあげる。だからこの5年間、俺はお前を喜ばせるために練習してきたんだよ。どんなプレゼントを渡すべきか、どんなキスをしたら喜ぶか。 芽衣を絶対に幸せにする……一番幸せな女の子にするから、俺の彼女になってよ……本当に、本当に芽衣が大好きなんだ……」 一言一句が、ナイフのように梓の心を引き裂く。 目の前の男の顔をじっと見つめた。その瞳からは、隠し切れない悲しみが溢れ出す。 噛み締めた唇から血が滲み、鉄の味が口に広がった。梓はこらえきれずに問いかけた。 「ねえ、智哉。じゃあ、私って何なの?」 第4話 その言葉を聞いた瞬間、朦朧としていた智哉の意識が、一瞬にしてはっきりした。 智哉がはっと目を開けると、すぐそこには梓の険しい顔があった。 自分が何かを言っていたことは覚えているが、内容を思い出せず、「梓さん、さっき言ってたこと気にしないでね。もう酔っ払って、自分でも何言ったか覚えてないからさ」と言うしかなかった。 するとすぐに、遠くから名前を呼ばれたので、智哉はなだめるように梓に何度かキスをし、おぼつかない足取りでその場から去っていった。 智哉の姿が消えるのを見届けてから、梓は静かに立ち上がり、トイレに駆け込んだ。個室の中でじっと立ち尽くす。 足が痺れるまでそうしていたとき、廊下から響いてきた足音で我に返った。 扉を開けようとした時、自分の名前が聞こえた。 「江崎さんは?急に帰っちゃうなんてさ。智哉先輩が芽衣ちゃんの代わりにお酒を飲んだのを見て、嫉妬したのかな?」 「分かんない。まあ、別にどうでもいいじゃん。だって、智哉先輩があんなおばさんに惚れるはずないんだから」 芽衣が自分を蔑んでいるのを聞いて、梓は拳を強く握りしめた。 梓が中にいることを知らない彼女たちは、無遠慮に続ける。 「てか、聞いた話なんだけど。あの人、智哉先輩のお姉さんの友達ってだけじゃなくて、今までずっと智哉先輩と付き合ってたらしいよ。 でも芽衣ちゃん、安心して。あの女はただの恋の練習相手で、遊んでるだけみたいだから。三十路前のおばさんが、あんな智哉先輩と一緒にいるなんて、恥ずかしいよね」 「そんなの知ってるよ。だって、智哉先輩、私を守るために、ナイフで刺されたこともあるんだよ?それで、死にそうだったのに、意識を取り戻したとき最初に心配したのは私のこと。自分の命を危険に晒すぐらい、私のこと大好きな智哉先輩が、あんなおばさん相手にするわけないんだから」 「じゃあ、芽衣ちゃんはどうなの?昨日も智哉先輩が空港まで迎えにきてくれたんでしょ?それに、わざわざ誕生日のパーティーも企画してるみたいだけど、もしそこで告白されたらどうするつもり?」 芽衣は勝ち誇ったように笑った。「まあ、智哉先輩次第かな」 水を流す音とともに、外の二人は笑いながら遠ざかっていった。 掌に深く刻まれた爪の跡を見て、梓は力なく皮肉な笑みを浮かべた。 バーを出た梓は、タクシーで自宅に戻った。 一晩休息を取った後、彼女は翌日会社へと退職願を出した。 上司がその理由を見て驚く。「実家に帰るの?智哉くんと盛沢市で結婚する予定だって言ってたじゃないか。なのに、なんでこんな急に?」 梓は目を伏せ、適当な理由でその場を繕ったが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。 盛沢市で過ごした大学4年間、社会人3年間、そして5年間という智哉との時間。 戻るチャンスは、これまで何度もあった。 だが智哉のそばにいたくて、ずっとその機会を捨ててきた。 しかし今、離れる時が来たようだ。 「智哉の彼女」という場所も、持ち主に返すべきだろう。 その後3日間、まるでこの世から消えてしまったかのように、智哉からは何の音沙汰もなかった。 だが、智哉の友人がSNSにあげる写真から、彼が芽衣と一緒にいることは明らかだった。 縁結びの神社へ参拝したり、人混みを離れ砂浜へ散歩に行ったり、手をしっかりと繋いでジェットコースターに乗っていたり…… どの写真を見ても、二人の体は互いに引き寄せられているかのように、肩を並べている。 恋人というほどではなかったが、二人の間には、確かな甘い空気が漂っていた。 すべての投稿に目を通した梓は、無表情のまま携帯の画面を消し、クローゼットからトランクを引っ張り出した。 身の回りの最低限のものを詰め終え、夕食でも食べに行こうかと思ったその時、智哉の友人から一本の電話が入った。 「梓さん!早く病院に来てくれ!智哉が事故に遭ったんだ!」 梓は迷った末、車の鍵を掴んだ。 智哉は佳乃の弟だ。それに、佳乃が海外旅行に行っている今、やはり無視することはできなかった。 緊急治療室へ駆け込むと、そこには血まみれになった芽衣と智哉が横たわっていて、医者たちが緊迫した面持ちで処置を行っている。 居合わせた友人たちが、うろたえながら事情を説明した。 「俺たちみんなで、山に夕日を見に行こうとしてたんだけど、芽衣ちゃんが『久しぶりに自分で運転したい』って言い出して。それで、智哉が芽衣ちゃんに運転させたんだ。 そうしたら、アクセルとブレーキを踏み間違えて……そのまま山に突っ込んだと思ったら、運悪く二人の体にはパイプか何か鉄の棒みたいなのが刺さっちゃったんだよ!だから、今それを抜いているところで…… でも、鉄の棒は心臓に近いところに刺さってて、今国内にこの手術ができる医者は一人しかいないらしいんだ。助手席にいた智哉はかなり重症で、芽衣ちゃんは軽症で命に別条はないのに……智哉は芽衣ちゃんに手術を先に受けさせるって言い張って。梓さんからも、何か言ってやってほしいんだよ」 事情を聞いて、梓の心臓が少しざわめいた。 智哉のそばへ近づき、その真っ青な顔や、血が止まらない傷口を見て、声が震える。 「智哉、すぐ手術を受けて!」 しかし智哉は、瞼を持ち上げると、わずかに首を横に振り、今にも消えてしまいそうな声で言った。 「ま、まずは……芽衣を助けて……あいつに……何かあっちゃいけないから……」 梓はもう感情が抑えられなかった。「何言ってるの!?彼女に命の危険はないけど、智哉は今すぐ手術しないと死んじゃうんだよ!あなたになにかあったら、お父さんとお母さんはどうすればいいの?佳乃はどうなるのよ!」 「お、俺なんて……いいから……芽衣さえ無事なら、俺は……大丈夫……」 すると、看護師が手術の同意書を手に現れた。 梓が立ちすくんでいる間に、智哉は残りの力を振り絞り、サインをする。 芽衣のためなら、自分自身の命すらどうでもいいというのか? 信じられなかった梓が、同意書を取り上げようとすると、智哉の血に染まった手で服の裾を掴まれた。 「梓さんは……俺の家族じゃ……ない。俺の……することに口出ししないで」 第5話 その言葉を耳にした瞬間、梓の中で何かが崩れ落ちた。 胸がえぐられるように痛み、呼吸をするだけで鋭い痛みが走る。 それからまもなくして、芽衣が緊急手術室へと運ばれた。 すると智哉の瞼がゆっくりと閉じられ、その手がベッドの横に力無く垂れ落ちた。 心拍数のモニターが耳障りなアラームを響かせる。 居合わせた友人たちは気が動転し、どうにかしてくれと梓の体を激しく揺さぶった。 一筋の望みをかけ、梓は震える手で、深津市の知人へと電話をかける。 以前、叔父が盛沢市で外科医として働いていたことを思い出したのだ。今は一線を退いているが、名医であることには変わりない。 話を聞いた知人は二つ返事で快諾し、叔父を呼び戻し手術の準備を整えておくから、今すぐに患者を移送するように、と言ってくれた。 医師や看護師が即座に動き始めた。智哉を再び救急車へ乗せ、処置を続けながら病院へと運んだ。 10分後、智哉は救急治療室へと運ばれていった。 梓は一晩中、手術室の外で立ち尽くしていた。 思考は停止し、唇は噛みしめすぎて血が滲んでいる。 夜が明けて、ようやく手術室のランプが消えた。 「成功しましたよ」 院長からその報告を受けたとき、梓は体の力がすべて抜けていくのを感じた。 長い安堵の息とともに、足から力が抜け、目の前が真っ暗になった。 翌日の昼、梓が目を覚ますと、看護師がちょうど点滴を抜いているところだった。 「お連れ様は無事ですよ。集中治療室を出ましたから、安心してくださいね」 梓は手首を押さえ、智哉の病室を確認すると、ふらつく足取りでベッドから降りる。 智哉の病室の前まで辿り着いたとき、中から言い争う声が聞こえてきた。 「智哉、芽衣ちゃんは無事だって言ってるだろ。なのに、なんでわざわざ彼女の病院に転院しようとするんだ?ようやく危篤状態から抜けたばかりなんだぞ。お前に、何かあったらどうするんだよ!」 「そうだぞ。昨晩、お前の命を救うために、梓さんがどれだけいろんなところに電話をかけてくれたか。自分勝手な真似はやめろ。芽衣ちゃんだって容態は落ち着いてるんだから、何日かしたら会いに行けばいいだろ!」 しかし、友人たちの懸命な説得は、智哉の耳には届かなかった。 「そうはいかない。事故の瞬間、俺が庇ったとはいえ、芽衣だって相当な重傷なんだよ。自分の目で見て確かめないと、気が済まないんだ」 梓はその言葉を静かに聞きながら、静かに扉を開く。 室内にいた全員が、一斉に振り返って彼女を見た。 智哉も一瞬だけ驚きの表情を浮かべたが、その顔には複雑な影が差した。 梓は智哉に話す隙を与えず、先に口を開いた。 「私はあなたの家族じゃないから、あなたをここに留まらせる権利なんてない。どうしても転院したいというなら、佳乃に電話をかけるから。多分、今日の午後には着くはずだから、数時間だけ待って」 梓の声はどこまでも淡々としていたが、智哉は何だか胸がざわついた。 彼は周りの友人を追い出すと、梓の手を掴み、必死に言い訳を並べる。 「芽衣は俺の車で事故に遭ったんだ。あいつに、もし何かあったら、俺は一生悔やみ続けることになると思った。だから、あいつをまず助けたかったんだ……梓さんは俺にとって、家族と同じくらい大切な存在だよ?あの言葉だって、わざと梓さんを傷つけようと思って言ったわけじゃないんだ」 今の梓には、彼の言葉が本心なのかどうかも、もう分からなかった。 梓は聞きたかった。自分が家族と同じくらい大切なら、芽衣はどうなのか。芽衣は一体、どれほど智哉にとって大切なのか、と。 だがそうは聞かず、別の言葉を投げかける。 「智哉、生きたい?そうね、こう言う方が分かりやすいかしら。命って大事だと思ってる?」 梓がなぜこんなことを言うのか困惑しながらも、智哉はゆっくりと頷いた。 「もちろん」 第6話 なるほど……芽衣は、彼自身の命よりも大切な存在だったらしい。 梓は欲しかった答えが聞けた。 そっと手を引き、なんとも言えない感情を飲み込むと、無理やり笑みを浮かべる。 「そうね。転院したいなら、そうすればいいよ。でも佳乃には一応電話しておくから。何かあって、彼女が悲しむのは見たくないから」 そう言い捨てると、梓は背を向け病室を出た。 ドアが閉まる直前、智哉の焦った声が聞こえた。 「転院はしない!梓さん、姉ちゃんには言わないで。姉ちゃんには、知られたくないから」 何を知られたくないというのだろう。 怪我のこと?それとも自分たち二人の関係だろうか? しかし、梓は知りたくもなかったし、もうどうでもよかった。 結局、梓は佳乃に電話をかけなかった。佳乃は海外旅行中だったし、くだらないことで邪魔をしたくなかったから。 代わりに世話係を二人雇い、智哉の身の回りの世話をさせることにした。 たまに、世話係が報告してくることがあった。 「江崎さん、佐伯さんは今日もまた江崎さんの居場所を聞いてきましたよ。それに、江崎さんが怒っているのかどうかも」 梓は「そう」とだけ返す。 昼食の後、智哉の様子を見に行ったが、病室には誰もいなかった。 ちょうど片付けを終えた看護師が教えてくれた。 「患者様は、午後手続きを済ませて、盛沢市市立病院に転院されましたよ」 誰もいなくなった部屋を見て、梓は自嘲気味に口角を上げた。 携帯を開き、ここ数日彼から送られてきていたメッセージを見つめる。 【梓さん、退屈だよ。話し相手になってよ】 【もう3日も会っていないよね。寂しい?】 【機嫌直してよ。退院したらプレゼントを買ってあげるからさ】 芽衣の存在を知らなければ、梓はこれを愛ゆえの甘えだと勘違いしていただろう。 だが、彼が本気で愛する女性に向ける眼差しを見た今となっては、もう自惚れることはない。 家に帰った梓は不動産屋に連絡し、マンションを売りに出すことにした。 それからの数日間、6、7組の買い手が内見にやってきた。 早く手放したかったので、価格を大幅に下げる。 買い手と話がつき、契約を交わしたところに、ちょうど智哉が戻ってきた。 不動産屋の担当者を見た彼の瞳に、驚きの色が浮かんだ。 「梓さん、家を売るの?」 隠す必要もないため、梓は頷く。 すると智哉は眉をあげ、気怠そうに部屋を見回した。「俺も、少し狭いと思ってたんだよ。青葉山の別荘に引っ越す?何年も前に買って、ずっと空き家になってるから」 梓は特に返事をすることもなく、業者を見送ってから話題を変えた。 「体調はどうなの?」 「良くなったよ、梓さん。やっぱり心配してくれてたんだね」 智哉は嬉しそうに梓の腰を抱き寄せ、唇を寄せようとした。 智哉の熱い吐息がかかり、梓は反射的に体をかわす。 驚く彼の瞳を前に、彼女は何食わぬ顔で言った。 「生理中なの」 智哉は小さく溜息をついた。「梓さん、俺だって年中盛ってるわけじゃないんだよ?しばらく会えなかったから、純粋にキスがしたかっただけなのに」 そんなわけないくせに、と梓は思った。 もう彼と恋人を演じる気力はなかったため、シャワーを浴びると告げてその場を去った。 その後2日間、智哉はずっと家にいた。 梓は段ボールを取り出し、智哉に関係する物をすべて片付け始める。 ペアのコップ、彼のために買った電動髭剃り、彼からもらったプレゼント、一緒に撮ったプリクラ、生活用品の数々…… 何一つ残さず、すべて段ボール箱へと詰め込んだ。 書斎から出てきた智哉が、空になった部屋を見て、少し慌てた声を上げた。 「どうして全部捨てちゃうの?」 「青葉山の別荘に行くんでしょ?この際だから、いらないものを減らしておこうって思って」 適当な言い訳を並べて、梓は智哉に疑念を抱かせないようにする。 梓の気分の沈みを感じたのか、夜になると智哉は彼女をオークションに連れ出した。 会場に着くと、智哉は立て続けに7、8点ほどのジュエリーを、全て迷わず落札する。 会場中の羨望の眼差しが梓に向けられたが、当の本人である梓は何一つ興味が持てなかった。 席を立とうとした瞬間、智哉の携帯が鳴った。 梓がちらりと見ると、芽衣の名があったが、特に何も言わずにトイレへと向かった。 第7話 会場に戻ると、人々が悲鳴を上げながら逃げ回り、カオスな状況になっていた。 胸騒ぎを覚えた梓が、人の波に逆らって会場へ戻ると、智哉が男に殴りかかっていた。 男は顔が腫れ上がるほど殴られているのに、なおも必死にわめき散らしている。 「さっきお前に電話をかけてきたあの女、俺も海外にいた頃に何度か関係を持ったことがあるぜ。派手な女でな。留学生の男たちともずいぶん噂になってたぞ?今日お前に殴り殺されたって構わない。でも、これが事実なんだよ証拠ならある。スマホの中に写真も残ってるからな」 差し出された携帯を見て、智哉は怒りで顔を真っ赤にし、額には青筋が浮かんでいた。 彼が震える手で携帯を奪おうとした時、駆け込んできた芽衣の声が響いた。 「智哉先輩!」 振り返り、芽衣を見つめる智哉の目には、複雑な感情が入り混じっている。 隠しきれない動揺と、男の言葉を信じまいとする葛藤、そして深い絶望が垣間見えた。 地面に押さえつけられたままの男は、芽衣を見て興奮した。 「こいつだ!こいつの携帯のアルバムを開いてみろ。パスワードはこいつの誕生日だ。中身を見れば、全部嘘じゃないって分かるはずだからな。ベッドの上でのこいつに、純粋なんて言葉は一番似合わねえ」 男を見た芽衣の顔から、一瞬にして血の気が引いた。 芽衣は智哉の腕にしがみつき、必死に取り繕う。 「違うんです、智哉先輩。写真は無理やり撮られたものなんです!昔しつこく言い寄られて一度付き合った時、飲み物に薬を混ぜられて……」 「馬鹿言うなよ。お前、喜んで抱かれてたんじゃねえか。動画の中の自分の姿見てみろよ。それでもまだ、無理矢理されたなんて言えるのか?」 我慢の限界に達した智哉は、椅子や酒瓶を掴み、男に投げつけた。 割れたガラスが男の目に突き刺さり、血が吹き出す。男が頭を抱えながら、悲鳴を上げた。 智哉は真っ先に芽衣を胸に抱き込み、目を隠した。 「大丈夫だよ、芽衣。あとは俺が何とかするから。こんな汚いものは二度と世に出さないから、安心して」 そう言って、智哉は男の携帯を踏み潰すと、酒をかけ、火をつけた。 火はみるみるうちに燃え広がり、携帯を跡形もなく焼き尽くす。 少し離れた場所で、梓はその光景を黙って見守っていた。 「芽衣、大丈夫だ。俺があいつを刑務所に入れてやるからな。嫌な夢だと思って忘れよう。これからはもう、二度とあんなクズをお前に近づけたりしないよ」 芽衣は智哉に縋り付き、声を上げて泣き崩れた。 「智哉先輩……本当に?私のこと、嫌いになったりしませんか?」 智哉は彼女の涙を拭い、愛に溢れる優しい眼差しを向けた。 「そんなわけないだろ?お前は俺にとって、永遠に純粋無垢な天使なんだから」 そう言って芽衣を抱きかかえ、会場から足早に立ち去った。 梓はふっと笑みを漏らし、バッグを手にとって帰り支度を始めた。 その様子に気づいた店員が、慌てて彼女を呼び止める。 「あの、佐伯様が競り落とされたアクセサリーをまだお渡しできておりません!」 断ろうとして振り返ったその時、倒れていたはずの男が勢いよく立ち上がった。 男はシャンパンボトルを掴み、梓へと叫びながら向かってくる。 「あいつは、あの女のために俺をこんな目に遭わせやがった!だったら俺も、あいつの大事な女を地獄に突き落としてやる!」 重い瓶が梓の後頭部に叩きつけられた。 温かい鮮血が溢れ出し、白いドレスの背中部分を真っ赤に染めていく。 脳内で火花が散るような衝撃を覚え、梓はその場に崩れ落ちた。 意識が遠のく中、彼女は無感情な瞳で会場の騒動を見つめていた。 「助けて!人が殺された!」 「佐伯様、お連れの方が!」 だが、そんな悲鳴も智哉には届かず、彼は芽衣を抱え、雑踏の中へと消えていく。 その背中が見えなくなるまで、智哉は梓の方を振り向くことはなかった。 第8話 盛沢市での最後の5日間、梓は病院で過ごした。 その間、智哉からは一度も連絡がなかった。 退院当日になってようやく、梓が入院していたことをどこからか聞きつけたらしく、智哉が慌ただしく駆けつけてきた。 包帯が巻かれた彼女の頭を見て、智哉は申し訳なさと心配を滲ませた表情で、すぐに言い訳を始める。 「梓さん、あの時は焦ってたから、病院に運ばれたなんて知らなくて……その怪我、どうしたの?」 詳しく説明するのも面倒だったため、梓は「逆恨みかなんかで、シャンパングラスで殴られたの」と簡潔に伝えた。 智哉は一瞬呆然とし、すぐ瞳に怒りの火を灯した。「誰にやられたの?そんな奴、俺が殺してやる!」 梓が目を伏せ、あの日彼が立ち去った後に起きた出来事を話そうとした矢先、芽衣が病室に飛び込んできた。 「梓さん、また具合が悪くなったって聞きました。大丈夫ですか?」 芽衣を見た梓は、言いかけた言葉を飲み込み、淡々と答える。 「かすり傷よ。もうすぐ退院するから」 二言三言話した後、看護師に呼び出され、智哉は退院手続きへと向かった。 梓が荷物を片付けていると、芽衣の顔から笑みがさっと消え、冷酷な眼差しで梓を睨みつけてきた。 「もう智哉先輩がいなくなったんですから、被害者ぶるのをやめたらどうですか?今日は言いたいことがあって来たんです。智哉先輩は、高校からずっと私のことを想ってくれているんです。だから、あなたが入り込む余地なんてないので、無駄なことはやめてくださいね?」 かぶっていた仮面を脱いだ芽衣を見て、梓の心もなぜだか軽くなる。 一切揺らぎのない、穏やかな梓の声。「その話なら知ってるし、あなたと争うつもりもないから」 「争うつもりもない?じゃあ、なんでいつまでも智哉先輩のそばにいるんですか?まさか、智哉先輩があなたに本気だとでも思ってるんですか?あなたみたいに、男に取り入ってのし上がろうとする女なんて、今まで何人も見てきたんですから! それに、先輩だって、もうあなたに飽き飽きしているはずですよ?」 その無遠慮な言葉を聞き、梓は思わず眉間にしわを寄せ、問い返した。 「じゃあ、海外では好き放題遊んでおきながら、帰国した途端に清純ぶってるあなたは何なの?清純派の仮面をかぶった腹黒女?それとも男を手玉に取る計算高い女?」 過去のことに触れられた芽衣は、表情を一変させる。「あなたには関係ないですから!」 「じゃあ、本当ってこと?」 堪えきれなくなった芽衣は、勢いよく梓の頬を叩いた。 「本当だとしても、それがどうしたっていうんですか?あなたには関係ないって言いましたよね?あなたみたいなおばさん、今のうちに真面目な男と結婚しておかないと、そのうち生理が止まって子供も産めないまま孤独に老いていくんですからね!」 頬に走る鋭い痛みで、梓は小さく息を呑んだ。 赤くなった自分の頬に触れ、梓は指を軽く動かす。 そして次の瞬間、持てる全ての力を込めて、芽衣の頬に一撃を叩き込んだ。 屈辱にまみれた芽衣が梓の髪を掴もうとした時、閉じられていたドアが開けられた。 智哉の姿を確認するやいなや、芽衣は涙を溢れさせ、智哉の胸へと飛び込む。 「智哉先輩……智哉先輩が出ていったあと、梓さんと先輩が付き合ってるって言われて。でも、信じられなかったから、証拠見せてってお願いしたら、急に怒って叩かれたの!」 芽衣の顔に赤々と浮かび上がった手形を見た智哉は、一気に怒りに支配され、芽衣を背にかばい、鬼の形相で梓を怒鳴りつけた。 「梓さん、いい加減にしてくれよ!」 5年間一緒にいて、智哉に怒鳴られたのは、これが初めてだった。 それも、他の女のために。 きっと、智哉が芽衣のために必死で駆け回る姿を、これまで何度も見てきたからだろう。梓の心には、もう失望も、苦しみも、怒りも……何も湧いてこなかった。 何の感情もこもっていない、冷たく淡々とした声で静かに言った。 「叩いたのは事実。でも彼女に叩かれたから、やり返しただけ。ねえ、智哉。どうして何があったのか聞こうとしないの?」 そこで初めて、智哉は梓の赤く腫れた頬に気づく。 智哉が違和感に気づいたその矢先、彼の胸の中にいた芽衣がふらりと意識を失った。 焦った智哉は、芽衣を抱きかかえて一言だけ残し、救急治療室へと走り出していった。 「先に帰ってて。この話は帰ってから聞くから」 「もう会うことはないよ」 走り去る背中に、梓は小さく微笑んだ。 アパートに戻った梓は、不動産屋に鍵を預ける。 「残っているものは、まとめて青葉山にある別荘へ郵送してください。送料は着払いで構いませんので」 梓の荷物の多さを見て、不動産業者は少し驚いた様子で尋ねた。 「江崎さん、この街を去られるんですか?戻ってはこないと?」 「ええ。戻ってはきません」 ここにはもう、梓が未練を感じるものは何も残っていない。 最後にもう一度だけ、住んでいた自分の部屋を見つめ、階段を降りた。タクシーを停めて空港へと向かう。 飛行機が飛び立つ直前、キャビンアテンダントから携帯の電源を切るようにと、アナウンスが流れた。 梓は智哉のラインを開き、最後のメッセージを送信した。 【智哉。実はね、あの日の食事会での会話、全部聞いてたの。愛していたからこそ、裏切られた痛みも大きかったし、あなたを憎みもした。でも今は、もうそこまであなたを恨んでいない。それはきっと、もうあなたを愛していないから。 年上の女のいいところは、始める覚悟もあれば、終わらせる覚悟もあること。あなたが本当に想う人と結ばれることを願ってるよ。私たち、もうこれで終わりにしよう】 そうして、智哉の連絡先を削除する。 携帯の電源を落とすと同時に、飛行機が滑走路をゆっくりと離れていった。