檻を飛び出し、羽ばたけ大空へ​

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檻を飛び出し、羽ばたけ大空へ​

GoodNovel Hoàn thành

「部長、海外への転任を申請します。これからはずっと、国際線専門で勤務させてください」 ​ 南国航空の運航本部。江本深雪(えもと みゆき)...

Chương (1)

第1章

「部長、海外への転任を申請します。これからはずっと、国際線専門で勤務させてください」 ​ 南国航空の運航本部。江本深雪(えもと みゆき)は、パリッとしたパイロットの制服に身を包み、凛々しい姿でまっすぐな視線を向けながら、手元の申請書を差し出した。 ​ 部長の進藤哲生(しんどう てつお)は顔を上げ、真顔で彼女を見つめた。 ​ 「深雪、本気なのか?行ってしまえば、もう二度と国内線には戻れないんだぞ」 ​ 深雪の唇に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。 ​ 「はい。両親はすでに亡くなりましたし、夫とも……離婚するつもりです。国内には、もう未練のある人は誰もいません。これからは、ただ空を飛ぶことだけにすべてを捧げたいのです」 ​ 彼女の固い決意を察した哲生は、それ以上引き留めるのをやめ、胸の中で深いため息をついた。 ​ 「そこまで言うなら、もう止めはしない。君は南国航空で唯一の女性機長だ。もっと広い世界へ羽ばたくべきだろうな。 ​ 深雪、広い空へと飛び立つ運命の鳥もいる。その翼は、生まれつき遠くを目指すためにあるんだからな。異動の手続きが整い次第、すぐに声をかける」 ​ 第1話 ​ 「部長、海外への転任を申請します。これからはずっと、国際線専門で勤務させてください」 ​ 南国航空の運航本部。江本深雪(えもと みゆき)は、パリッとしたパイロットの制服に身を包み、凛々しい姿でまっすぐな視線を向けながら、手元の申請書を差し出した。 ​ 部長の進藤哲生(しんどう てつお)は顔を上げ、真顔で彼女を見つめた。 ​ 「深雪、本気なのか?行ってしまえば、もう二度と国内線には戻れないんだぞ」 ​ 深雪の唇に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。 ​ 「はい。両親はすでに亡くなりましたし、夫とも……離婚するつもりです。国内には、もう未練のある人は誰もいません。これからは、ただ空を飛ぶことだけにすべてを捧げたいのです」 ​ 彼女の固い決意を察した哲生は、それ以上引き留めるのをやめ、胸の中で深いため息をついた。 ​ 「そこまで言うなら、もう止めはしない。君は南国航空で唯一の女性機長だ。もっと広い世界へ羽ばたくべきだろうな。 ​ 深雪、広い空へと飛び立つ運命の鳥もいる。その翼は、生まれつき遠くを目指すためにあるんだからな。異動の手続きが整い次第、すぐに声をかける」 ​ …… ​ 運航本部を後にした深雪は、うららかな陽気を見上げ、胸のつかえがすっと下りていくのを感じている。 ​ 家に戻ると、すぐにテーブルの上に置かれた小さなギフトボックスが目に入った。 ​ 江本武志(えもと たけし)は金縁の眼鏡をかけ、ソファに座って本を読んでいる。深雪の帰宅に気づくと、冷ややかな視線を向け、ぶっきらぼうに言った。 ​ 「テーブルの上のあれは、お前への誕生日プレゼントだ。おめでとう」 ​ 深雪は自嘲するように唇の端を歪め、力なく呟いた。 ​ 「私の誕生日は昨日よ。間違ってるわ」 ​ その言葉に武志はわずかに目を見開いたが、すぐにまた口を開いた。 ​ 「次は覚えておく」 ​ 彼はいつもそうだ。何が起きても淡々としており、まるで彼の心にさざ波一つ立てることさえできないかのようだ。 ​ 「次は覚えておく」という言葉は、深雪がこれまで何度耳にしたか分からない。 ​ なのに、武志は一度たりとも覚えていたことがないのだ。 ​ そこへ、執事が恭しく歩み寄ってきた。 ​ 「旦那様、バラが空輸で届きました。庭師に手配し、細心の注意を払って手入れをさせております。 ​ ネックレスもサザビーズのオークションで無事に落札いたしました。それから、浜田様のお気に入りのレストランも、すでに手配済みでございます」 ​ 武志は小さくうなずき、言葉を添えた。 ​ 「鈴は静かな場所を好む。誕生日当日は、店を貸し切りにするよう手配しておいてくれ」 ​ 彼が事細かに指示を出すのを聞きながら、深雪はただ、これ以上ないほどの皮肉を感じている。 ​ 浜田鈴(はまだ すず)の誕生日はまだ三ヶ月も先だというのに、武志はこれほど大げさに支度を始めている。 ​ けれど自分の誕生日が昨日というのに、彼は覚えてもいなかった。 ​ 愛しているか、愛していないか、これほど残酷な天と地の差を生む。 ​ 深雪と武志はお見合いで出会った。 ​ 最初の顔合わせの席で、彼は唐突に結婚を申し込み、彼女は迷うことなくそれを受け入れた。 ​ ずっと前から、彼に密かな恋心を抱いていたからだ。お見合いの相手がまさか想い人だなんて、神様がどれほど自分の味方をしてくれているのだろう、と当時は思った。 ​ だからこそ、結婚してからの三年間、彼が家に帰ってくるのは片手で数えられるほどしかなくても、一年間で会話する回数が百回にも満たなくても、夜を共にする時、その瞳の奥に一欠片の温もりが宿っていなくても。 ​ 彼女はそれを喜んで受け入れていた。彼は生まれつき冷淡な性格だと思い込み、それなら自分は尽くせる限りの妻でいようと心に決めたのだ。ただ彼と生涯を共にできればいい、それ以上の贅沢は望まないと。 ​ だが、それも三ヶ月前、鈴が突如として姿を現すまでのことだった。 ​ いつも氷のように冷徹だった武志の顔に、それほど狂喜の表情が浮かぶのを、深雪は初めて目にした。 ​ それはまるで、長い間よどんでいた湖に突然激しい波が立ったかのようだった。 ​ そしてその日、深雪は初めて知った。自分が出会うより前に、武志には心から愛した初恋の相手がいたことを。その相手が鈴であり、二人は若い頃に愛し合っていた。しかし、彼の愛が最も深かったその年に、彼女は「死んだ」のだと。 ​ 彼女の訃報が届いた時、誰もが羨むエリートだった武志は、迷わず手首を切って後を追おうとした。 ​ 彼の両親が間一髪で駆けつけたため、一命は取り留めたものの、彼は長い間身も心もボロボロになり、朝から晩まで酒を飲み、ただ虚ろな日々を過ごしていた。 ​ やがて、見かねた両親が死を辞さない覚悟でお見合いを迫り、なんとかその心を闇から救い出そうとしたのだ。 ​ 武志の心を最も美しく彩った人は、もうこの世にいない。これからの人生で誰と隣り合おうとも、それはただ適当に選んだ相手に過ぎない。 ​ だからこそ、初めてのお見合いの席で、彼は迷うことなく結婚を口にしたのだ。 ​ だけど、誰も予想していなかった。三年前に亡くなったはずの鈴が、まさか生き返ったかのように戻ってくる日が訪れるなんて。 ​ 鈴が現れたことで、深雪の脆く壊れやすい結婚生活は、木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。 ​ あれほど冷徹な男でも、誰かを深く愛することができるのだと、今さらながら深雪は思い知らされた。 ​ 武志は毎朝早く起き、鈴の大好物であるツナマヨサンドを丁寧に作る。車を一時間走らせ、雨の日も風の日も休まずに届けている。 ​ 鈴が好んで使う高級ブランドのカバンやジュエリーをすべて把握し、毎日欠かさず花束を贈っている。 ​ 鈴が少し機嫌を損ねてメッセージを返さないだけで、武志は一晩中眠れず、真夜中であっても彼女の機嫌を取ろうと飛び出していく。 ​ そんな光景を、深雪はこのわずか三ヶ月の間に、嫌というほど見せつけられてきた。 ​ だけど救いは、もう二度とそれを目にしなくて済むということだ。 ​ 三年間の結婚生活で、彼女が武志の心に踏み込んだことは一度もなかった。 ​ ならば、これからは彼を自由にしてあげよう。それはきっと……自分自身を救うことにもつながるから。 ​ 第2話 ​ 武志がまだ執事に熱心に指示を出している間に、深雪はそっと寝室に戻り、静かに荷物をまとめ始めた。 ​ 荷造りの途中で、彼女はふと武志との数少ないツーショット写真を見つけた。 ​ 一枚一枚めくっていく。写真の中の自分は幸せそうに微笑んでいるのに、隣に立つ武志の表情はどこまでも冷ややかで、その瞳はひどく静かだ。 ​ ウェディングフォトでも、入籍日に撮った記念写真でも、彼は笑っていない。 ​ 以前の彼女は、彼が生まれつきそういう人間で、写真を撮られるのも笑うのも苦手だと思っていた。 ​ だけど、彼と鈴のツーショット写真を見つけた時、そのすべての写真の中で、彼の瞳は優しく微笑み、隣にいる女の子を愛おしそうに、まっすぐ見つめているのだ。 ​ 深雪は胸の奥から湧き上がる感情をぐっと押し込め、ライターで写真に火をつけ、暖炉の中に放り込んだ。 ​ 炎が瞬く間に写真に映る光景を焼き尽くし、かつての記憶もまた、灰となって消え去っていく。 ​ 焦げ臭い煙の匂いを嗅ぎつけてやってきた武志は、暖炉の中で燃えている写真を見るなり、瞬時に顔色を変えた。 ​ 「お前、何を燃やしてるんだ?」 ​ 彼は荒々しい声を張り上げると、勢いよく火かき棒を掴み、暖炉の中の物を取り出そうとした。 ​ パチパチという音とともに、薪の破片が飛び散り、深雪の体に降りかかった。 ​ 熱さに思わず眉をひそめ、息を呑んだ彼女が身動き一つ取れない隙に、武志はあえて赤々と燃え盛る炎を恐れず、その手を直接突っ込んだ。 ​ 炎に焼かれた彼の手は真っ赤に変色しているが、本人はまるで気づいていないかのように、ただ手の中の写真を救い出すことだけに必死になっている。 ​ やがて、焼け残った破片に映っているのがすべて自分と深雪の姿だと分かると、彼はようやく大きく息を吐き、全身の力を抜いた。 ​ ――よかった、鈴との写真は無事だ。 ​ 手に残った煤けた破片など気にも留めずに放り捨てると、彼は慌てて立ち上がり、棚の中に大切に仕舞われている鈴との写真を確かめに行った。 ​ 幼い頃から現在に至るまでの思い出の写真が、棚の中にきれいに並べられている。一枚も欠けていない。ようやく、張り詰めていた心が解き放たれた。 ​ それらの写真を一枚ずつ丁寧に元に戻し終えると、武志は暗い表情で冷たく言い放った。 ​ 「これからは、お前のアルバムと俺のアルバムを同じ場所に置くな」 ​ 写真の破片がひらひらと舞い落ち、床に転がったそれを、彼は容赦なく足で踏みつけた。 ​ 深雪には分かっている。彼が先ほど見せたあの焦りも、取り乱した様子も、すべて鈴のためなのだと。 ​ 急に自分がひどくおかしく思えてきて、彼女は小さな声で呟いた。 ​ 「心配しないで。燃やす前にちゃんと確かめたから。武志と彼女の写真には触ってないわ」 ​ 武志はその言葉に眉をひそめ、何か言いかけた。その時、突然スマホの着信音が鳴り響いた。 ​ 鈴からの電話だ。 ​ 「武志、私って本当にだめだわ。武志に食べてもらいたくて料理の練習をしてたんだけど、さっきうっかり火傷しちゃって……すごく痛いの……」 ​ 可哀想で甘えたような声が静まり返った部屋に響き渡ると、武志は慌ててなだめた。 ​ 「今すぐ行く。待っててくれ」 ​ 彼はそう言いながらジャケットを掴み、大急ぎで部屋を飛び出していった。 ​ 深雪の脇を通り過ぎる際、彼はその傍らに置かれた荷造りの済んだスーツケースに、最後まで気づくことはなかった。 ​ バタン。 ​ ドアが閉まり、部屋にいるのは深雪ただ一人。散らかり放題の部屋に、ぽつんと取り残されている。 ​ 足の火傷がじりじりと熱く痛み、激しくその存在を主張している。 ​ 彼女は自嘲気味に微笑むと、救急箱を取り出し、ゆっくりとした手つきで火傷の手当てを始めた。 ​ それから間もなく、鈴のSNSが更新された。 ​ 添付された写真には、はっきりとした顔立ちの男が、心の底から愛おしそうに鈴の傷口に薬を塗る姿が映っている。まるで壊れやすい宝物を扱うかのようにその手を包み込み、痛ましそうな目をしながら優しく息を吹きかけている。 ​ 【どれほど深く愛していれば、私がほんの少し怪我をしただけで、こんなに大騒ぎしてくれるのでしょうか】 ​ 深雪はその数枚の写真を何度も繰り返し見つめた。 ​ やがて長い時間が流れた後、ついにスマホの画面を暗くした。 ​ 本当にそうだ。どれほど深く愛していれば、あれほど取り乱せるのだろう。 ​ そして――どれほど愛していなければ、目の前にいても平然と無視できるのだろうか。 ​ 翌日、深雪の火傷はさらに悪化していた。仕方なく、彼女は病院へと向かった。 ​ 診察と包帯の手当てを終えて帰ろうとした時、渡り廊下を通りかかった彼女の目に、見覚えのある二人の姿が飛び込んできた。 ​ 武志と、彼の親友であり、この病院の院長でもある五明聡(ごみょう さとる)だ。 ​ 「おい、武志。いくらなんでも大げさすぎないか?ほんのちょっとした火傷だろう。もし来るのがもう少し遅ければ、自然に治ってたレベルだぞ。 ​ フロアをまるごと貸し切るなんて狂ってるし、挙げ句の果てに院長であるこの俺に診察させるなんてな」 ​ 武志の声は淡々としている。 ​ 「鈴は痛がってる。俺はその千倍痛い」 ​ それを聞いた聡は呆れたように舌打ちをし、当てつけがましく言った。 ​ 「いちゃいちゃしやがって、まじで勘弁してくれ。そこまで鈴ちゃんを愛してるんなら、深雪さんとはすぐにでも離婚するんだろ?結局のところ、彼女は親を黙らせるために適当に選んだ相手で、鈴ちゃんこそが本命なんだからさ」 ​ だが今回、武志は長く沈黙した。 ​ なぜか彼はすぐに答えを出さず、長い沈黙の末、ぽつりと声を落とした。 ​ 「まだ、その時じゃない」 ​ その言葉に、聡だけでなく、陰で聞いている深雪までもが目を見張った。 ​ 愛してやまない人が戻ってきたのだ。狂喜が収まったなら、真っ先に考えるべきは離婚ではないのか。 ​ なぜ彼は黙り込んだのだろう。 ​ 「まだその時じゃないって、どういう意味だ?まさか、深雪さんのことが好きになったのか?だったら鈴ちゃんはどうするんだ?せっかく生きて戻ってこられたのに、お前をずっと待ち続けなきゃいけないのか? ​ もたもたしてると、知り合いの中で彼女を狙ってる連中が、一斉にアプローチを始めちまうぞ!」 ​ 第3話 ​ 聡が冗談めかしてそう言うと、武志の顔つきがにわかに険しくなり、冷ややかに言い放った。 ​ 「深雪とのことは早いうちに片を付ける。鈴にだけは絶対に辛い思いをさせない。あいつらにも伝えておけ。もし鈴に手を出す奴がいれば、どうなるか分かってるな、と」 ​ これまで何年もの間、深雪が見てきた武志は、いつも冷淡で、決して感情を表に出さない男だった。まるでこの世の何事も、彼の心を揺らすことができないかのように。 ​ それこそ、肌を重ねて彼が身を動かしている時でさえ、顔はいつも無表情だった。 ​ そんな彼が、焼きもちを焼く感情を抱くのを、深雪は初めて目にした。 ​ 胸の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、先ほどまでの淡い期待は一瞬にして消え去った。 ​ 彼がなぜすぐに離婚しようとしないのかは分からないが、彼が鈴を愛していることだけは、紛れもない事実だ。 ​ 深雪は静かに背を向け、その場を去った。 ​ 家に戻ると、彼女はすぐに離婚届を用意し、一文字一文字、自分の名前をはっきりと書き入れた。 ​ それ以来、武志は数日間、一度も家に帰ってこなかった。 ​ そのため、深雪は離婚の話を切り出すきっかけすら掴めずにいる。 ​ 仕方なく、彼女はメッセージを送って彼を呼び出すことにした。 ​ 【明日、空いてる?大切な話があるの。初めて二人で会ったあの店で待ってる】 ​ ずいぶん時間が経ってから、武志から一言だけ返信があった。 ​ 【分かった】 ​ 翌日、レストランの席で、深雪は離婚届をカバンに忍ばせ、テーブルいっぱいに料理を注文して武志の到着を待っている。 ​ 一時間ほど経った頃、ようやく彼が姿を現した。 ​ だが、その隣には鈴の姿も見える。 ​ 彼女は甘えるような声で言った。 ​ 「もうすっかり元気だって言ったのに、武志に何日も入院させられて、やっと今日は思いっきり楽しめるの!武志のお財布を空っぽにしちゃうんだからね!」 ​ 武志は愛おしそうに微笑んだ。 ​ 「ああ、お前の好きなものなら、いくらでも頼んでいいぞ」 ​ 二人は笑顔で歩み寄ってきたが、テーブルに並んだあっさりとした味付けの煮物を見ると、鈴の顔はたちまち曇った。 ​ 「武志……」 ​ しょんぼりする鈴の瞳に、武志の心はあっさりと動かされ、慌てて店員を呼び止めた。 ​ 「これらの料理はすべて下げてくれ。代わりに唐揚げと、エビ天ぷらと……」 ​ 彼が次々と注文した料理は、どれもこれも揚げ物ばかりだ。 ​ 鈴は目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。 ​ 「武志、何年も経ったのに、私の好きなものをちゃんと覚えててくれたのね。何から何までそのままだわ……」 ​ 武志は慈しむような笑みを浮かべた。 ​ 「他の誰のことを忘れても、お前のことだけは絶対に忘れないさ」 ​ 彼と鈴はまるで誰もいないかのように睦み合い、向かい側に深雪が座っていることなど完全に忘れているようだ。 ​ この食事会を彼女が誘ったという事実すらも、忘れ去られている。 ​ そして何より、彼女が胃を患っていて、揚げ物を一切食べられないことさえ、武志の頭から抜け落ちている。 ​ 料理が次々と運ばれてくる中、深雪は何度もカバンの中から離婚届を取り出そうとしたが、武志の瞳には鈴の姿しか映っていなかった。 ​ 髪をまとめてあげたり、口元を拭いてあげたり、味噌汁を飲ませる時でさえ、熱すぎないか自ら確かめるほどだ。 ​ 結婚して三年が経った。もし目の前の男の顔が武志と瓜二つでなければ、深雪はそこに座っている人物がまったくの別人ではないかと、疑わずにはいられないだろう。 ​ そうでなければ、この丸三年間、彼がこんな細やかな気遣いを見せることも、愛おしそうな表情を浮かべることも、一度たりともなかった理由など、到底説明がつくはずがないのだから。 ​ 刻一刻と時間が過ぎていく中、深雪はついに意を決し、カバンから離婚届を取り出した。 ​ 「武志、離婚を……」 ​ 言葉の途中で、またしても遮られた。 ​ 「武志、これ食べてみて。すごく美味しいよ」 ​ 鈴は料理を取り分けて武志の器に盛り、食べるよう促した。 ​ それは、彼が決して口にしない、最も忌み嫌うホルモンだ。 ​ それなのに、彼はただ愛おしそうに微笑みながら箸で持ち上げ、そのまま口へと運んだ。 ​ 第4話 ​ 深雪は手の中の離婚届をぎゅっと握りしめた。伝えたかった言葉は、またしても宙に浮いたまま終わってしまった。 ​ その時、店員が慎重に熱々の鍋を運んできたが、滑りやすい床のせいで足元をよろめかせ、思わず手を滑らせてしまった。 ​ 煮えたぎるスープがまっすぐ鈴のほうへと降り注ぐ。武志は血相を変え、とっさに鈴を抱き寄せ、自分の広い背中で熱いスープを受け止めた。 ​ ほんの一瞬の出来事だった。彼の背中はたちまち濡れそぼり、剥き出しになったうなじの皮膚は真っ赤に腫れ上がり、背中からは激しい熱気が立ち上った。 ​ 店員が悲鳴を上げる中、武志はあまりの激痛に額に冷や汗を浮かべ、首筋や腕に青筋を逆立てながらも、真っ先に鈴の安否を気遣った。 ​ 「鈴、大丈夫か?どこか火傷はしてないか!」 ​ 彼女は完全に守られていたため、一滴たりともスープがかからなかったが、突然の出来事にただただ呆然と立ち尽くしている。 ​ ようやく我に返ると、大粒の涙が次々と彼女の頬を伝い落ちた。 ​ 「平気よ……武志、どうしてそんな無茶をするの?身代わりになってくれるなんて」 ​ 武志は慌てて鈴の手を握りしめ、優しい声でなだめた。 ​ 「泣かないでくれ。大丈夫だ、これくらいは大したことない」 ​ だが、もし彼が黒いシャツを着ていなければ、その生地の下で皮膚が焼けただれ、水ぶくれができている無残な姿が、ひと目で分かったはずだ。 ​ スープがどれほど沸き立っていたかを知る店員は、恐怖のあまり涙を流した。 ​ 「本当に申し訳ございません。すべて私の不手際です。今すぐ病院へお連れします。治療費はすべて私が負担いたしますので、どうかクレームだけはご勘弁いただけないでしょうか?さきほどのお鍋は……」 ​ 鈴を心配させたくないのか、武志は深く息を吸い込み、必死に平静を装った。 ​ 「俺は大丈夫だ。クレームをつけるつもりもないから、もう行きなさい」 ​ 店員は申し訳なさそうにためらいながらも、その場を離れざるを得ない。 ​ 深雪の指先がかすかに震えている。 ​ 離婚届を差し出すには、あまりにも不適切な状況になってしまった。 ​ 武志は何事もなかったかのように振る舞い、背中がすでにただれ、血に染まっているのも厭わずに鈴に食事を勧めた。 ​ 彼が本当に痛がっている様子を見せないため、鈴もようやく涙を拭い、次第に安堵の表情を取り戻していった。 ​ すべての料理を平らげ、店を出る際、武志はようやく思い出したかのように深雪を振り返った。 ​ 「そういえば、今日話したい大切なことって何だ?」 ​ 深雪は自嘲気味に微笑んだ。 ​ 「ううん、大したことじゃないの。お家に帰ってからにするわ」 ​ それを聞くと、武志は特に追及せず、まず車を出して鈴を家まで送り届けた。 ​ 「また明日」 ​ 愛おしげに彼女に手を振り、その家のドアが閉まるのを見届けて初めて、彼はぷつりと緊張の糸が切れ、ハンドルに突っ伏して激しく息を乱した。 ​ 急に額から冷や汗がだらだらと流れ落ち、背中は血まみれで無惨な状態になっていた。その生々しい血の匂いは、後部座席にいる深雪の鼻を突くほどだ。 ​ これほどの重傷を負いながらも、鈴を不安にさせないためだけに、彼は一人でここまで耐え抜いたのだ。 ​ 深雪は唇の端を歪めた。武志の無茶を笑っているのか、それとも自分の惨めさを笑っているのか、分からない。 ​ 「席を代わって。私が運転するから、病院へ行こう」 ​ 彼女は冷ややかな声で告げると、武志の沈黙を気にせずにドアを開け、彼をそっと後部座席へと移動させた。そして自らハンドルを握り、アクセルを踏み込んで病院へと急いだ。 ​ 診察の結果はすぐに伝えられた。重度の火傷だ。 ​ それに伴う発熱も見られるため、二日間の入院が必要だという。 ​ 深雪は何も言わず、ただ黙々と世話を焼いた。入院の手続きを済ませ、点滴の様子を見守り、看護師が薬を交換するのを手伝った。 ​ しかし、武志は彼女の尽くしに一瞥もくれず、愛おしそうに目を細めてスマホの画面を見つめ、せわしなく文字を打ち込みながら、心から愛する人と楽しげに連絡を取り合っている。 ​ 深雪はそれを見ても、もはや心が揺らぐことはない。三年間も夫婦であったのだから、せめてこの看病だけは務め、きれいに終止符を打とうと自分に言い聞かせている。 ​ 丸一日付き添い、ようやく武志の熱が下がったのを確認した深雪は、少し安心して身なりを整えるために病室を出た。 ​ 30分ほどして病室に戻ると、武志が彼女のスマホをぎゅっと握りしめているのが見えた。 ​ その表情はひどく険しく、深雪の姿を捉えるとすぐに、重苦しい口調で切り出した。 ​ 「さっき、お前に電話があった。手続きが完了したので、一週間後に出発できると言ってたぞ。 ​ どういうことだ、深雪?どこへ行くつもりだ?」 ​ 第5話 ​ その言葉に、深雪の心臓は一瞬大きく跳ね上がったが、すぐに何事もなかったかのように口を開いた。 ​ 「最近、何か手続きをした覚えなんてないわ。ただの迷惑電話じゃないかしら?」 ​ そう言ってスマホを受け取り、通話履歴に目を落とす彼女の顔には、少しの動揺もない。 ​ 武志はじっと彼女の顔を覗き込んだが、不審な点は一つも見つけられなかった。 ​ 彼はほっと胸をなでおろした様子で、ひとまずその話題を打ち切った。 ​ 「ここ数日、看病させて悪かったな。そういえば、以前から一緒にK大を歩きたいと言ってただろう。ちょうど文化祭の時期だから、一緒に行こう」 ​ 深雪の動きがわずかに止まった。 ​ かつて彼女がK大を歩きたいと願ったのは、そこが武志の母校であり、彼の青春時代について知りたかったからだ。 ​ けれど、今や離婚を目前に控え、彼のことを諦めようと決めた身だ。今さら足を運ぶ理由など、どこにあるというのだろう。 ​ 深雪のためらいを察したのか、武志はわずかに眉をひそめ、有無を言わせぬ調子で告げた。 ​ 「よし、決まりだ。明後日、K大に連れて行ってやる」 ​ それは彼女に拒絶の余地を一切与えない、絶対的な言葉だ。 ​ 二日後、文化祭当日。武志は退院の手続きを済ませ、約束通り深雪とK大に向かった。 ​ 緑豊かなキャンパスを歩く中、深雪が言葉を発しようとしないため、二人の間には息が詰まるほどの沈黙が流れている。 ​ その時、背後から弾むような愛らしい声が響いた。 ​ 「武志!」 ​ 深雪と武志が同時に振り返ると、黄色いワンピースをなびかせた鈴が、満面の笑みを浮かべてこちらへ駆け寄ってくるところだ。 ​ 「なんて奇遇なのかしら!武志も今年の文化祭に来てたのね」 ​ 鈴の姿が目に入った瞬間、武志の瞳にふわりと優しい光が灯り、これまでの冷徹さが嘘のように消え失せた。 ​ 「そんな薄着で、寒くはないか?」 ​ 「寒いわけないじゃない。母校に戻るんだから、とびきりお洒落してこなくちゃ。忘れたの?学生の頃、私は寒さに一番強いって自慢してたでしょう」 ​ 武志の唇の端が楽しげに吊り上がった。 ​ 「ああ、寒さに強いな。それで月に三回も風邪をひいて、俺に何度も講義をサボらせて薬を買いに行かせたのは誰だったかな?」 ​ 「もう、それは昔の話よ!どうして意地悪ばかり言うの?」 ​ 懐かしい思い出話に花が咲き、鈴の口調はますます滑らかになっていく。 ​ 「ねえ、武志、覚えてる?あの人造湖のこと。付き合い始めてから、よく湖のほとりにあるベンチに座ってお喋りしたよね。ほら、あそこの場所、よく座ってたわ! ​ 夏の日に、武志が蓮の花を摘んでプレゼントしてくれたこと、今でもはっきりと覚えてるわ」 ​ 彼女が指さす先には、若い恋人たちがベンチに腰掛け、互いに抱き合いながら唇を重ねている。 ​ 「それから、あそこも!あの芝生でピクニックをした時、私の似顔絵を描いてくれたでしょう?あの絵、今でもお部屋の壁に飾ってあるのよ。 ​ あの頃の武志は、毎日のように寮の前まで朝ご飯を届けてくれて、管理人のおばさんにもすっかり顔を覚えられてたよね。 ​ K大の王子様だった武志にそこまで尽くされて、周りの女の子たちがどれだけ羨ましがったか、想像もつかないでしょ?」 ​ …… ​ 並んで歩く中、三人のうち深雪だけが、いつの間にか後ろに置き去りにされていった。 ​ やがて武志のスマホが鳴り、彼が静かな場所を求めて離れたため、その場には深雪と鈴の二人だけが残された。 ​ 特に言葉を交わす必要もなく、深雪がその場を去る口実を探していると、鈴の表情が一変した。先ほどまでの愛らしい様子は影を潜め、底冷えするような見下した笑みを浮かべて、深雪を見つめてきた。 ​ 「深雪、これまでの数日間で、武志がどれほど私を深く愛してるか、嫌というほど分かったでしょう?」 ​ まさかこれほど遠回しにせず、本音をぶつけてくるとは思わず、深雪は一瞬表情を硬くしたが、すぐに視線を上げて鈴を正面から見据えた。 ​ 「あの時、武志が私の死を誤解しなければ、あのクソババアとジジイが命で脅して、お見合いを強要しなければ、あなたなんかが選ばれるはずがなかったのよ。 ​ 私がこうして戻ってきた以上、いつまで彼の妻でいるつもりなの?自分から恥をさらしに行くのはやめたほうがいいよ」 ​ 言われるまでもなかった。深雪はとうに武志から、そして江本家から完全に身を引く覚悟を決めていたのだから。 ​ しかし、これほど不躾な物言いで挑発されては、さすがに黙っていられず、深雪の顔にも冷ややかな色が浮かんだ。 ​ 「浜田さん、どのような経緯があろうとも、今彼の戸籍に入ってる妻は私よ。そのような言葉を向けるということは、人の家庭を壊す泥棒猫にでもなるおつもりなの?」 ​ その言葉は鈴の痛いところを突いたようで、彼女の顔つきがにわかに見苦しく歪んだ。 ​ 激しい怒りに駆られた鈴は、深雪が階段を降りようとした瞬間、容赦なくその背中に両手を突き出した。 ​ 不意を突かれた深雪は、防ぐ術もなく前向きに宙へと投げ出された。 ​ 体が硬い石の床に激しく叩きつけられ、何度も転がっていく。 ​ 体中の至る所から引き裂かれるような激痛が走り、そのあまりの苦しさに意識が遠のきそうになる。 ​ 咄嗟に頭を手で守ろうとしたものの、衝撃を和らげることはできず、額から溢れ出た鮮血が視界を赤く染めていく。 ​ 薄れゆく意識の中、深雪の目に映ったのは、鈴が自作自演でわざと階段から転げ落ちる姿だ。 ​ 間もなくして、血相を変えた武志の叫び声が響き渡った。 ​ 「鈴!どうしたんだ?大丈夫か?」 ​ 鈴は器用に涙を溢れさせながら訴えた。 ​ 「武志、私は大丈夫……少し足をくじいただけよ。それより、早く深雪を助けてあげて。血がたくさん出てるわ」 ​ 「あんな奴のことは放っておけ!俺にとって一番大切なのは鈴だ。お前の体に何かあったほうがよっぽど一大事なんだ!」 ​ 武志が放った冷酷な言葉は、雷のように深雪の耳を突き刺し、彼女の骨の髄まで震えるほどの痛みを与えた。 ​ 彼に愛されていないことは百も承知だ。けれど、まさかここまで無慈悲になれる男だとは思いもしなかった。 ​ たとえ形だけの夫婦であっても、三年という歳月を共に過ごしてきたというのに。 ​ ――ねえ、武志。教えて。 ​ この三年間、私はあなたの心に、爪痕一つ残すことすらできなかったのか。 ​ 第6話 ​ 再び目を覚ました時、深雪は自分が病院に運ばれていることに気づいた。 ​ 「動いちゃだめ!」 ​ 看護師がちょうど薬の取り替えに来たところで、起き上がろうとする深雪を慌てて止めた。 ​ 「あれだけ血を流したのですから、大人しく休んでください。それにしても、通りすがりの人に運ばれてきてからもう丸一日が経つというのに、どうしてご家族から連絡がないのでしょうか。ご主人の電話もつながりません」 ​ その言葉に、深雪は苦しげに唇の端を歪め、かすかに笑みを浮かべた。 ​ 「夫はいません」 ​ 入院してから二日が経とうとする頃、武志がようやく姿を現した。 ​ 「体調はどう?」 ​ そんな気遣いの言葉をかけられても、深雪の心には一欠片の喜びも湧かなかった。 ​ 彼女は静かに彼を見つめ、淡々と話した。 ​ 「どうしてここにいるの?浜田さんのそばにいてあげなくていいの?」 ​ 武志は一瞬言葉に詰まり、しばらくしてからようやく口を開いた。 ​ 「深雪、お前は機長だ。厳しい訓練を重ねてきたし、人一倍体も丈夫だろう。だから、あの時は鈴を先に助けたんだ。悪く思わないでくれ」 ​ 深雪はそっと目を閉じ、しばらくの沈黙の後、言葉を紡いだ。 ​ 「分かってるわ。言い訳はもう済んだでしょ?それなら、さっさと行って」 ​ 彼女の冷ややかな口調と態度に戸惑いを覚えながらも、武志はしばらくして言った。 ​ 「お前の看病をしに来たんだ。前は俺の面倒を見てくれただろう?夫婦なら、お互い様じゃないか」 ​ ――夫婦、か。もうすぐそうじゃなくなるけど。 ​ それ以来、武志が何を言おうと、何をしようと、深雪は終始そっけない態度を崩さなかった。 ​ かつての二人の立場が、今や完全にひっくり返ったかのようだ。 ​ なぜか武志の胸に、名状しがたい不安がよぎった。何かが静かに、手の届かないところで狂い始めているような気がしてならない。 ​ けれども、鈴から一本の電話がかかってくれば、彼はそんな胸のざわめきなど、たちまちきれいさっぱり忘れてしまうのだ。 ​ 深雪が退院するその日、武志の実家から電話があり、家族の食事会に招かれた。 ​ 武志の両親からの直々の誘いであれば、二人とも断るわけにはいかず、身なりを整えて向かうことにした。 ​ その席で、深雪も武志も終始黙り込んだままだ。その重苦しい沈黙の原因は、親たちからの「子供はまだか」という急かし立てに他ならない。 ​ 二人が夫婦になってから三年が経ったが、深雪に子供を授かる気配はまったくなかった。 ​ 以前は武志が子供を望んでいなかった。彼は常に必ず避妊の手立てを講じており、手元にそれがなければ、たとえ途中であってもきっぱりと肌を離した。 ​ 昔の深雪はその本心が分からず、ただ二人きりの時間を大切にしたいのだろうと思い込んでいた。けれど今になって思えば、愛していない女との間に子供など欲しくなかっただけだ。 ​ だからこそ、これまでは親に急かされるたび、武志は口を閉ざし、深雪がそれを取り繕ってきた。 ​ だが、今日の深雪はもう何も言い訳をしなかった。二人の関係がもうすぐ終わりを迎えることを、自分だけが知っているからだ。 ​ 家に戻ると、武志が真っ先に向かったのは浴室だ。 ​ しかし、そこに入ったきり、いつまで経っても出てこない。 ​ 浴室からの水の音は、一時間、二時間と鳴り響き続けた。深雪はすでにゲストルームの浴室を借りて身だしなみを整え、ベッドに入って休もうとしたその時、武志が不意にドアを開けて現れた。 ​ 湯気一つ立たない浴室から出てきた彼の体からは、凍えるような冷気が漂っている。髪の先からぽたぽたと滴る水滴が、部屋着に染み込んでいく。 ​ 「風邪をひいたみたいだ。お前にうつしたくないから、先に休んでくれ」 ​ 彼はいい加減に髪を拭うと、まるで怖い物を避けるかのように、深雪から一番遠いベッドの端に横たわった。 ​ 枕元のカレンダーの日付が目に留まり、彼女は今さらながらに思い出した。今日は、月に一度と決められている夜の営みの日だと。 ​ 武志の両親の言葉を思い出し、胸の内で皮肉な笑いを漏らした。 ​ そんなに警戒しなくてもいいのに。今の彼女の頭にあるのは去ることだけで、もう彼との子供を望むことなど、微塵も残っていないのだから。 ​ 誰よりも近くにいるべき夫婦の間に、もう二人が入れるほどの隙間がぽっかりと空いている。 ​ 重苦しい静寂の中、武志のスマホが鳴り響いた。 ​ 深雪の耳には途切れ途切れにしか聞こえないが、どうやら鈴からのもので、ナイトクラブでチンピラたちに絡まれているという内容らしい。 ​ 受話器の向こうから騒ぎと悲鳴が聞こえるや否や、武志は弾かれたように起き上がり、着替える間も惜しんで車の鍵を掴み、飛び出していった。 ​ 終始、深雪に一言もかけることはなかった。 ​ 彼女は唇の端を歪め、そっとまぶたを閉じた。 ​ 夜も更けた頃、今度は彼女のスマホが鳴り始めた。 ​ 着信音で目を覚まし、おぼつかない意識のまま画面を見ると、武志の親友からだ。 ​ 電話に出るなり、聡の焦りきった声が耳に飛び込んできた。 ​ 「深雪さん!武志が刃物で五箇所も刺されて、今病院で命の瀬戸際なんだ。一刻も早く来てくれ!」 ​ 深雪の頭の中は一瞬で真っ白になり、しばらくしてようやく生返事を返した後、服を着替えて病院へと急いだ。 ​ 手術室の前で、鈴は強い酒の匂いを漂わせながら、ひっきりなしに涙を流してむせび泣いている。 ​ 「私のせいで……あのチンピラたちは本当は私を狙ってたの。私が何度も言い返して彼らを怒らせなければ、私をかばってくれなければ、武志さんが……あんなひどい怪我を負うこともなかったのに……」 ​ 聡は怒りに震え、じっとしていられず、やりきれない様子で彼女に怒鳴りつけた。 ​ 「お前も武志も同じAB型なんだ。彼がお前のためにこうなったって分かってるなら、申し訳ないと思うなら、血をあげろ!泣いてばかりいて何になる?それで彼の命が助かるのか!」 ​ 「嫌……私には無理よ……体調が良くないの……」 ​ 鈴は恐怖に身をすくめ、怯えた表情で次々と言い訳を並べ立てた。 ​ 「それに、注射針を見るのも怖いし、献血なんてできない! ​ 聡は院長でしょう?どこかからもっと血液を融通すればいいじゃない。どうして私にばかり頼むの?本当に無理よ」 ​ 彼女は後ずさりを続け、今にも物陰に隠れてしまいそうだ。 ​ 第7話 ​ 聡は怒りで胸を激しく上下させ、鈴の鼻先を指さして怒鳴り散らした。 ​ 「血液が不足してるんだ。そう簡単に手に入るもんか!これまで武志がお前をどれほど大切に想ってきたか、みんな知ってる。 ​ 今日だってお前があのチンピラたちと踊ろうなんて言い出さなければ、絡まれることもなかったんだ。お前に呼ばれて、武志は何も言わずに助けに来て、お前をかばって五回も刺されたんだぞ! ​ 命を投げ出した彼のために、ほんの少し血をあげることすら嫌がるなんて、お前には人間としての心がないのか!」 ​ どんなに言葉を尽くしても鈴は首を縦に振らず、挙げ句の果てには家へと逃げ帰ってしまい、聡は怒りのあまり我を失いそうになった。 ​ まさに命の瀬戸際に、深雪が駆けつけた。 ​ 「私もAB型よ。私のを使って」 ​ 聡は呆然と立ち尽くし、しばらくしてから、ぽつりと毒づいた。 ​ 本当に訳が分からない、と。 ​ 武志が命よりも愛したはずの想い人は、彼の命を軽んじ、言い訳ばかりで逃げ出した。 ​ 見向きもしなかった妻が、迷うことなく救いの手を差し伸べた。 ​ たった一度の出来事が、人の本性を白日の下に晒した。 ​ ――武志、お前は今まで、とんでもない間違いを犯していたんだな。 ​ 聡の心境など気にせず、深雪は足早に採血室へと入っていった。 ​ 看護師が慌てて針を刺し、400mlに達したところで止めようとしたその時、深雪は突然引き留めた。 ​ 「もう400ml抜いてください。ひどい怪我だと聞いています。人の命がかかっているんです」 ​ 看護師は気の毒そうになだめた。 ​ 「普通は400mlでも十分に体に影響があります……」 ​ 聡も驚きを隠せず、止めに入ろうとした。 ​ しかし、深雪は静かに首を振った。 ​ 「分かっています。でも、今は一刻を争う状況でしょう?やるからには、必ずあの人を救います」 ​ 合わせて800mlもの血液が体から失われ、深雪がしばらく身を休めていると、ようやく一命を取り留めたとの知らせが届いた。 ​ ほっと胸をなでおろし、立ち上がろうとした瞬間、彼女の足元ががくりと崩れかけた。 ​ 寸前のところで聡がその体を支えた。 ​ 「み……深雪さん」 ​ 聡が深雪をまともに見たのは、これが初めてに違いない。 ​ だが、もうすぐ二人は顔を合わせることがなくなる。 ​ 彼女はかすかに唇を動かした。 ​ 「大丈夫よ。彼のことをしっかり見てあげて。私は用事があるから、これで失礼するわ」 ​ 言い置くと、聡の様子を伺うこともなく、そのまま背を向けた。 ​ 家に戻った深雪は、薬をいくらか口に含むと、そのまま泥のように眠り込んだ。 ​ 海外赴任まであと三日。今は何よりも体力を蓄えることが大切だ。 ​ 出発に先立ち、深雪は身の回りの荷物をすべてまとめ終えた。 ​ 武志の体調を尋ねることも、彼と鈴の今後に関心を寄せることも、もう二度とない。 ​ 時は静かに流れ、ついに旅立ちの朝を迎えた。 ​ 深雪はテーブルの上に、とっくに署名を済ませておいた離婚届を置き、袖を通したことのない真新しいパイロットの制服に身を包み、スーツケースを手に玄関へ向かった。 ​ そこへ、ちょうど退院したばかりの武志が戻ってきて、二人は鉢合わせした。 ​ 「今日はフライトか?」 ​ 彼の穏やかな表情を見て、深雪は察した。聡は、あの命の瀬戸際に鈴が献血を拒んだ事実を、武志に伝えていないのだと。 ​ もっとも、そんなことはもう、どうでもいい話だ。 ​ 「ええ」と短く応じ、深雪は一歩外へ踏み出した。 ​ 彼女が身に纏う、いつもとはどこか違う制服と、デザインが少し変わった四本線の肩章を目にして、なぜか武志の胸に小さなざわめきが生まれた。 ​ ――彼女が勤めている会社は、制服を新しくしたのだろうか? ​ 武志は思わず車の鍵を手に取った。 ​ 「空港まで送る」 ​ 深雪が断ろうとしたその瞬間、彼のスマホが遮るように鳴った。 ​ またしても、鈴からだ。 ​ 受話器の向こうの言葉に、武志の表情がわずかに強張った。 ​ 通話を切ると、彼は申し訳なさそうに深雪を見つめた。 ​ 「すまん、俺は……」 ​ 「用事があるなら行って。私一人で大丈夫だから」 ​ 彼女は淡々と言い放ち、驚く素振りすら見せなかった。 ​ 武志はその思いやりに救われたような表情を浮かべ、「戻ったら飯でも行こう」と言い残して車に乗り込んだ。 ​ その遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、深雪は唇を歪め、スーツケースを引いて力強く歩き出した。 ​ ――戻ったら、って? ​ 武志、私は二度と戻らないわ。 あなたが作った檻を飛び出し、これからは自分の翼で大空へ羽ばたく。 ​ 深雪のそばに、武志という人はもう存在しない。 ​