秘書をファーストクラスに乗せた夫の末路

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秘書をファーストクラスに乗せた夫の末路

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私は高瀬真央(たかせ まお)。 二千億円規模の大型案件の入札に参加するため、夫の高瀬将希(たかせ まさき)と白見原市へ向かうことになって...

Chương (1)

第1章

私は高瀬真央(たかせ まお)。 二千億円規模の大型案件の入札に参加するため、夫の高瀬将希(たかせ まさき)と白見原市へ向かうことになっていた。 空港のカウンターで荷物を預けようとしていたとき、将希がふいに口を開いた。 「お前は次の便で行くんだ。 オーバーブッキングだってよ。お前の席は後の便に回した」 私は思わず言葉を失った。 今回の出張は、私と将希、そして秘書の神谷汐音(かみや しおん)の三人で行く予定だった。 汐音の席は、もともと空きが出てからようやく取れたものだ。普通に考えれば、便を変えるべきなのは彼女のほうだった。 けれど将希は、少しもためらわずに続けた。 「汐音は体が弱いんだ。乗り継ぎのしんどさには耐えられない。 それに、移動中に入札の流れを説明しておきたい。お前は技術アドバイザーなんだから、少し遅れてもどうにかなる」 けれど、将希は知らなかった。 私の認証キーがなければ、この契約は絶対にまとまらないということを。 第1話 私は高瀬真央(たかせ まお)。 二千億円規模の大型案件の入札に参加するため、夫の高瀬将希(たかせ まさき)と白見原市へ向かうことになっていた。 空港のカウンターで荷物を預けようとしていたとき、将希がふいに口を開いた。 「お前は次の便で行くんだ。 オーバーブッキングだってよ。お前の席は後の便に回した」 私は思わず言葉を失った。 今回の出張は、私と将希、そして秘書の神谷汐音(かみや しおん)の三人で行く予定だった。 汐音の席は、もともと空きが出てからようやく取れたものだ。普通に考えれば、便を変えるべきなのは彼女のほうだった。 けれど将希は、少しもためらわずに続けた。 「汐音は体が弱いんだ。乗り継ぎのしんどさには耐えられない。 それに、移動中に入札の流れを説明しておきたい。お前は技術アドバイザーなんだから、少し遅れてもどうにかなる」 けれど、将希は知らなかった。 私の認証キーがなければ、この契約は絶対にまとまらないということを。 「将希、正式に呼ばれているのは私でしょう?それなのに、ただの秘書のために、私に便を変えろって言うの?」 将希は眉を寄せた。私を見る目には、隠しもしない苛立ちが浮かんでいる。 「言っただろう?汐音はまだ社会に出たばかりで、体も弱い。乗り継ぎで五時間も待たせる気か?無理に決まってるぞ」 汐音は、そっと将希の袖を引いた。今にも泣きそうな顔で、か細い声を出す。 「社長……やっぱり、私が便を変えます。真央さんは技術アドバイザーですし、この案件には絶対に必要な方です。私はただの秘書ですから、少しくらい遅れても大丈夫です。最悪、空港で一晩待てばいいだけですから」 言い終えるなり、汐音は小さく咳き込んだ。 将希はすぐに彼女の手を包み込み、さっきまでの刺々しさが嘘のように声を落とした。 「馬鹿なことを言うな。先週熱を出したばかりだろ。医者にも無理をするなと言われてる。これは会社の命令だ。真央が口を出すことじゃない」 そう言って私を見ると、将希の声から温度が消えた。 「真央、会社が自分なしでは回らないとでも思ってるのか?汐音も情報工学の出身だ。提案書も設計案も、もう一通り頭に入っている。真央がいなくても、汐音で十分対応できる。 汐音には移動中に入札の流れを説明しておきたい。だからファーストクラスに乗せるんだ。余計なことで足を引っ張るな」 そこで、汐音がおずおずと口を挟んだ。 「真央さん、怒らないでください。私、真央さんに嫌われているのは分かっています。社長に目をかけてもらっているのが気に入らないんですよね。 でも、私はただ会社の役に立ちたいだけなんです。認証キーを渡していただけないなら、それはそれで構いません。無理は言いませんから」 将希の眉間に、深いしわが刻まれた。 彼はバッグから私のクレジットカードとエコノミークラスの航空券を取り出し、乱暴に私の胸元へ押しつけてきた。 「便の変更くらい自分でしろ。午後五時までに、必ず白見原のロイヤルホテルに来い」 カードが足元に落ち、乾いた音を立てた。私は何も言わず、しゃがんでそれを拾った。 将希は汐音のスーツケースを引き、こちらを振り返ることもなく、ファーストクラス専用の保安検査レーンへ向かっていく。 汐音は振り返りざま、私にだけ分かるように唇の端を上げた。 私はその場に立ち尽くした。周囲の乗客の視線が集まり、頬が焼けるようだった。 将希と出会って七年。結婚してからの三年、私は彼の事業を支えるため、大手IT企業の高待遇のポジションを手放し、表には出ず、彼の会社のコアシステムを作り上げてきた。 それなのに今、彼は汐音のために、人前で私の尊厳を踏みにじった。 私はスマホを取り出し、彼に突き返された航空券をキャンセルして、夜の便を取り直した。 白見原市に着いた頃には、もう夜八時を過ぎていた。外は雨だった。私はスーツケースを引いてタクシーに乗り、将希が予約した白見原ロイヤルホテルへ向かった。 フロントで予約名を告げ、チェックインを頼んだ。 「高瀬将希の名前で予約が入っていると思います」 フロントスタッフは予約を確認すると、少し言いづらそうに顔を上げた。 「申し訳ございません。高瀬様名義で三室ご予約を頂戴しておりましたが、そのうち一室は本日午後にキャンセルされております。残りの二室は、すでにチェックイン済みでございます」 私は一瞬、言葉を失った。 「キャンセル……?じゃあ、その二室は誰が使っているんですか?」 スタッフは丁寧な表情を崩さず、静かに答えた。 「一室は高瀬様、もう一室は神谷様のお名前で承っております。また、高瀬様のご希望で、神谷様のお部屋はエグゼクティブスイートに変更されております。ゆっくりお休みいただきたいとのことでした」 第2話 フロントスタッフの返答を聞いた瞬間、私はその場で固まった。 将希は、私が今夜ここへ来ることを知っていた。それなのに、私が泊まる部屋さえ残していなかったのだ。 私はスマホを取り出し、将希に電話をかけた。 「着いたのか。てっきり拗ねて来ないのかと思ってた」 電話の向こうの将希の声は、いつもと変わらず淡々としていた。 「汐音がこっちに来てから少し体調を崩しててな。普通の部屋だと壁も薄いし、落ち着いて休めないだろ。だからお前の部屋をキャンセルして、あいつの部屋をスイートに替えた。お前は近くで適当に泊まれるところを探せばいい」 私は喉元までこみ上げた怒りを、どうにか押し込めた。 「明日は入札会でしょう。周辺のホテルはどこも埋まってる。私に、どこへ行けっていうの?」 将希は面倒そうに舌打ちした。 「汐音は具合が悪いんだぞ。こういう時くらい、大目に見てやれないのか?」 「今、ロビーにいる」 私は短く告げた。 「五分だけ待つ。降りてこないなら、取引先に連絡して、今回の取引は白紙に戻すから」 五分もしないうちに、エレベーターの扉が開いた。 現れた将希はバスローブ姿で、髪も乾かしきれていなかった。その後ろには汐音がいて、明らかにサイズの合っていない女物のシルクのナイトウェアを身につけていた。 それは私のものだった。念のため、将希のスーツケースに入れておいた替えのナイトウェアだ。 私の視線がその服に留まったのを、将希は察したらしい。ほんの一瞬だけ表情を強ばらせたが、すぐに何も悪くないと言わんばかりに口を開いた。 「汐音の預けた荷物にトラブルがあって、服が全部びしょ濡れになったんだ。着るものがないから、一晩だけお前のを着てもらった。それだけだろ。そんな目で見るな」 汐音は将希の後ろに隠れるように身を縮めた。 「真央さん、ごめんなさい。これが真央さんの服だって知らなくて……今すぐ脱ぎます」 汐音がボタンに手を伸ばすと、将希がすぐにその手を止めた。 「脱がなくていい。そんなことして風邪でも引いたらどうする。ただの服だろ。真央も、いちいち大げさに騒ぐな」 私は目の前の将希を見つめた。七年もそばにいた人なのに、その瞬間、ひどく遠く感じた。 「服のことはもういい。じゃあ私は?今夜どこで寝ればいいの?」 将希は眉を寄せた。面倒な話をされたとでも言いたげだった。 「汐音のスイートにソファがある。今夜だけそこで休めばいいだろ。明日の入札会が終われば帰るんだから」 思わず笑いがこみ上げた。 「汐音の部屋のソファで寝ろってこと?将希、私はあなたの妻よ。そんな雑に扱われる筋合いはない」 将希の顔色が変わった。 「真央、案件のためじゃなきゃ、俺だってお前を呼ぶつもりはなかった。どうせ来たなら、明日のプレゼン原稿とコアデータを汐音に渡せ。発表は汐音にやらせる」 私は自分の耳を疑った。 「今、何て言ったの?彼女に発表させる?この案件のために、私は三か月も寝る間を削ってきたのよ。コードだって一行ずつ私が書いた。彼女に何が分かるの?」 汐音は傷ついたようにうつむいた。 「社長、もういいです。真央さんは私のことを信用してくださらないみたいですし……私、やっぱり出ないほうがいいですよね」 将希は汐音をなだめるように軽く肩を叩くと、今度は私に向き直った。 「明日は億円規模の大型案件だぞ。相手は白見原市でも名の知れた企業のトップばかりだ。お前が前に出たところで、俺に恥をかかせるだけだろ。 汐音なら見栄えもいいし、人前で話すのにも向いてる。お前がデータを渡せば、あとは原稿どおりに読ませればいい」 私は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。 「私のデモなしで、技術審査を通れるわけないでしょう」 将希はついに声を荒らげた。 「真央、いい加減にしろ。会社は俺のものだ。この案件だって会社のものだろ。普段は俺の金で暮らしておいて、少しデータを出せと言われただけで何を渋ってるんだ。そんなに俺の邪魔がしたいのか?」 怒鳴る将希を見つめながら、胸の奥が少しずつ冷えていった。 「将希、あなたが起業したばかりの頃の資金は、私が実家を売って用意したものよ。この三年間、コア技術も全部、私が無償で提供してきた。……それでも、私があなたのお金で暮らしてるって言えるの?」 第3話 将希の表情がほんの一瞬だけ強ばった。けれどすぐに、彼は声を大きくした。 「夫婦なんだから、お前のものを俺が使って何が悪い。いいからパソコンを出せ。データを汐音の端末に移せば済む話だろ」 私はパソコンバッグを胸元に引き寄せた。 「渡すつもりはない」 将希は鼻で笑うと、近くにいたホテルの警備スタッフを呼び止めた。 「すみません。この人、宿泊者でもないのにロビーで絡んでくるんです。対応してもらえますか」 警備スタッフがこちらへ歩いてきた。雨に濡れてみすぼらしい私の姿に目を留めた途端、その態度が少し硬くなる。 「お客様、恐れ入りますが、いったん外へお願いいたします」 そのとき、汐音が遠慮がちに将希を見上げた。 「社長……まだ雨、かなり降ってますよ。真央さん、このままだと風邪を引いてしまいます」 将希は取り合わなかった。 「構うな。少し濡れたほうが頭も冷えるだろ。真央、資料を出すまでここに残れると思うな」 警備スタッフに追い立てられるまま、私は回転ドアを抜けて外へ出た。 冷たい雨が、たちまち全身を濡らした。ガラス扉の向こうでは、将希が汐音を連れてエレベーターのほうへ歩いていく。 途中で、汐音がふと振り返った。ガラス越しの口元が、はっきりと笑っていた。 どれくらいそうしていたのか分からない。指先がかじかんで、スマホを持つのもやっとになった頃、私は以前から世話になっている弁護士の佐伯研二(さえき けんじ)に電話をかけた。 「佐伯先生、離婚協議書を作ってください」 電話の向こうで、研二が一瞬言葉を詰まらせた。 「高瀬様、本気でおっしゃっていますか?」 「はい。あわせて、技術ライセンス撤回の通知書も用意してください。明日の朝九時付で、将希の会社宛てに正式に送ってください」 電話を切ったあと、私はホテルの向かいにある二十四時間営業のコンビニに入った。イートインの隅で、夜が明けるのを待った。 午前三時、伏せていたスマホが短く震えた。汐音からだった。 送られてきた写真には、ソファにもたれて眠る将希が写っていた。体には汐音のジャケットが掛けられている。 添えられていたメッセージは、こうだった。 【真央さん、お洋服ありがとうございました。暖かくて助かりました。社長のことは、私がそばで見ていますね】 私は写真を閉じ、そのまま汐音をブロックした。 翌朝八時。入札会場の入口付近では、スーツ姿の人々がひっきりなしに出入りしていた。 私は乾いた服に着替え、関係者パスを手に会場の入口へ向かった。 将希と汐音は、受付の前に立っていた。 汐音が着ているのは、体のラインにぴったり合った高級スーツだった。先月、将希がわざわざパリまで行き、彼女のために仕立てさせたものだ。 あのとき将希は、いざという時に必要になると言っていた。 ――その「いざという時」が、今日だったらしい。 私の姿を見つけた途端、将希の眉間にしわが寄った。彼は人混みを抜けるようにして、こちらへ歩いてくる。 「やっと来たか」 近づくなり、将希は私にだけ聞こえる声で言った。 「資料は持ってきたんだろうな。もうすぐ入場だ。余計なことをして邪魔するなよ」 私は静かに彼を見返した。 「資料は用意してある。でも、彼女には渡さない」 将希の顔が一気に険しくなった。何か言い返そうとした、そのときだった。 汐音が慌てた様子で駆け寄ってきた。 「社長、大変です。主催側から、今年は技術審査の形式が変わったと言われました。その場でコードを書いて、処理性能を比べる実装テストをするそうです。スライドを読むだけでは通らないみたいで……」 将希は言葉を失った。 「そんな話、聞いてないぞ」 汐音は額に汗を浮かべ、すがるように私を見た。 「真央さん、どうしたらいいんでしょう。私、根幹部分のロジックなんて書けません」 将希は私の腕をつかんだ。指が食い込み、鈍い痛みが走る。 「真央、聞いただろ。今すぐ根幹部分のロジックを書いて、汐音に渡せ。早くしろ!」 私はその手を振り払った。焦りを隠せなくなった将希を、静かに見据える。 「根幹部分のロジックは、この案件の心臓部よ。何か月もかけて中身を把握していない人間が、その場で扱えるものじゃない。今ここで彼女に覚えさせて、どうにかなると本気で思ってるの?」 第4話 将希はとうとう余裕をなくした。 「やり方はお前が考えろ。とにかく、汐音にこんな大勢の前で恥をかかせるわけにはいかないんだ!」 私は静かに目を上げた。 「彼女には恥をかかせられない。じゃあ、私はどうなるの?これは私が何か月もかけて形にしてきたものよ。それを奪うだけじゃ足りなくて、奪い方まで私に教えろって言うの?」 次の瞬間、頬に衝撃が走った。 乾いた音が、ざわついていた会場入口にやけにはっきり響く。周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。私は顔をそらしたまま、しばらく何も言わなかった。 将希はさらに声を荒らげた。 「真央、いい加減にしろ!俺の会社がなかったら、お前のコードなんて誰にも見向きもされなかったんだよ! 今日出さないなら離婚だ。財産分与なんて一円も期待するな。何も持たせずに追い出してやる」 汐音が横から将希の腕にすがった。 「社長、やっぱり真央さんに出ていただきましょう。私、今回は辞退しますから……」 そう言いながら、汐音はわざとらしく身を引いた。ヒールの先が、床に置いていた私のパソコンバッグに乗る。 そのまま、彼女はぐっと体重をかけた。 パキッ、と嫌な音がした。バッグの中で、ノートPCの液晶が割れた音だった。 汐音は慌てたように目を見開いた。 「あっ……ごめんなさい、真央さん。足元、ちゃんと見ていなくて」 将希は踏まれたバッグに目をやり、面倒くさそうに息を吐いた。 「壊れたなら、あとで買い直せばいいだろ。パソコン一台くらいで騒ぐな。必要なら新しいのを買ってやる」 それから、苛立った目を私に向ける。 「真央、これで最後だ。必要なロジックを今すぐ出せ」 私は床に落ちたパソコンバッグを見つめた。 中のノートPCは、将希が結婚三周年に贈ってくれたものだった。 液晶が割れた音を聞いた瞬間、私の中で、この結婚も完全に終わった。 私はポケットからUSBメモリを取り出し、将希に差し出した。 「ベースコードとデモの流れは入ってる。持っていけばいい」 将希はそれを乱暴に受け取ると、鼻で笑った。 「最初からそうしていればよかったんだ。ここまでしないと分からないなんて、本当に面倒な女だな」 彼は汐音の手を引き、会場の入口へ向かった。 「行くぞ、汐音。中で準備する。このUSBがあれば、審査員の前でも何とかなる」 汐音は将希に手を引かれながら、ふとこちらを振り返った。その口元には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。 私はその場でスマホを取り出し、研二に電話をかけた。 「佐伯先生、ライセンス撤回の通知は送っていただけましたか?」 「はい。すでにご主人の会社の法務部宛てに送付済みです」 私は電話を切り、会場の外へ歩き出した。外では、雨がまだ降り続いていた。 認証キーなしでは、このシステムはペネトレーションテストに三分も耐えられない。 雨の中を抜け、私はタクシーで空港へ向かった。搭乗口近くの席に腰を下ろしてからも、ただ窓の向こうで滑走路へ出ていく機体を眺めていた。 スマホは一度も震えなかった。将希はきっと、二千億円規模の案件が手に入ると思い込み、今ごろ浮かれているのだろう。私のことなど、もう頭にもないはずだ。 私はタブレットを取り出し、関係者だけが見られる入札会場の配信ページを開いた。 画面の中では、汐音が壇上に立ち、用意されたスライドをなぞるように説明を続けていた。将希は最前列に座り、まるで自分の選択が正しかったとでも言いたげに彼女を見ている。 審査員席では、数人の技術審査員が資料に目を落としながら、短く言葉を交わしていた。やがて、そのうちの一人が顔を上げる。 「神谷さん、理論面の説明はよくまとまっています。ただ、こちらとしては、実際の環境でどこまで対応できるのかを確認する必要があります」 審査委員長が静かに告げた。 「それでは、こちらの検証環境に接続してください。第一ラウンドのペネトレーションテストを始めます」 汐音は迷いのない顔でうなずき、私が渡したUSBメモリを端末に挿した。 まもなくシステムが起動し、大型スクリーンに防御モジュールのダッシュボードが映し出される。 将希は客席で満足げに手を叩いた。周囲もそれにつられるように拍手を始める。 けれど、その音が広がりきるより早く、大型スクリーンの表示が一変した。 真っ赤なアラート画面が、眩しいほど強く点滅していた。 第5話 【警告:防御モジュールが停止しました】 【警告:機密データの流出を検知しました】 わずか十秒で、システムは完全に停止した。大型スクリーンに残ったのは、文字化けした意味不明な羅列だけだった。 会場が一気にざわつく。 汐音は顔色を変え、取り乱したようにキーボードを叩き続けた。額には冷や汗が浮かんでいる。 「どうして……?さっきまでちゃんと動いていたのに。これ、端末のほうに問題があるんじゃないですか?」 審査委員長は厳しい顔で立ち上がった。 「神谷さん、これが御社のコア技術ですか?こちらが用意した検証用の攻撃コードすら防げないとは、審査の場を何だと思っているんですか」 将希が立ち上がり、壇上へ上がった。 「あり得ません!弊社の技術は業界でも最先端です。そちらの検証環境に問題があるはずです!」 審査委員長は冷ややかに返した。 「高瀬社長、こちらの検証環境は何度も確認を重ねています。先ほどまでの数社は、いずれも問題なく通過しました。開始直後に停止したのは、御社だけです」 審査委員長は大型スクリーンへ目を向けた。 「それだけではありません。御社のシステムには、基本となる認証キーすら入っていない。これでは、業界内で笑いものになってもおかしくないレベルです」 将希はその場で固まった。すぐに汐音へ目を向ける。 「キーはどうした?真央から受け取ってないのか?」 汐音は今にも泣き出しそうな顔で、配信用のカメラのほうを指さした。 「分かりません!真央さんから渡されたUSBには、これしか入っていなかったんです。きっと私を陥れるために、わざと不完全なものを渡したんです!」 将希は震える手でスマホを取り出し、私に電話をかけてきた。 配信画面の中で、将希の顔は怒りに歪んでいる。 私のスマホに、将希からの着信が表示された。 私は画面を見下ろし、応答せずに着信を切った。そのまま、将希の番号をブロックする。 画面の向こうで、将希は何度もかけ直していた。けれど電話はつながらず、彼の顔はみるみる険しくなっていった。 そのとき、主催側の責任者が客席側から壇上へ上がり、マイクを取った。 「高瀬社長。今回の入札において、御社には、提出された技術内容に虚偽があった疑いがあります。これ以上の審査継続は不可能と判断し、御社の入札資格を取り消します。 また、事前に締結された入札参加同意書に基づき、違約金として十億円を請求いたします」 将希は膝から崩れるように、その場に座り込んだ。 十億円。 将希の会社には、とても支払いきれる額ではなかった。 彼は絶望に歪んだ顔で汐音を見上げ、怒鳴った。 「お前、全部分かってるって言ってただろ!一人でできるって言ったのもお前だろうが!この役立たずが!」 汐音は怯えて後ずさりし、そのまま床に尻もちをついた。 審査委員長は二人のやり取りを見て、呆れたように息をついた。 「高瀬社長。実は、我々が今回もっとも重視していたのは、御社が以前提出した基盤技術に関する特許です。 ですが、先ほど確認したところ、その特許権者は御社ではなく、高瀬真央様という個人開発者でした。 彼女の許諾がなければ、御社にこの技術を使用する権利はありません」 将希ははっと顔を上げた。信じられないと言わんばかりの顔だった。 「何だって?真央?あいつはただの技術アドバイザーだぞ。特許があいつのものなわけないだろ!」 審査委員長は一通の書類を大型スクリーンに映し出した。 「こちらが特許庁の登録情報です。特許権者の欄には、高瀬真央様のお名前が明記されています。さらに三十分ほど前、高瀬真央様より、この技術の使用許諾を撤回するとの通知が届いております」 将希はスクリーンに映し出された私の名前を見つめ、みるみる血の気を失っていった。