身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました

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身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました

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午前3時、琴川澄音(ことかわ すみね)はスマホの着信音で目を覚ました。 まだ夢と現実の境目にいるような意識の中で、氷室清陽(ひむろ すば...

Chương (1)

第1章

午前3時、琴川澄音(ことかわ すみね)はスマホの着信音で目を覚ました。 まだ夢と現実の境目にいるような意識の中で、氷室清陽(ひむろ すばる)の低い声が聞こえてきた。 「企画書をバー『ノクターン』まで持ってこい」 澄音は一瞬で目が覚め、慌てて身支度を整えると、企画書を手にタクシーで店へと向かった。 指定された個室は19階だった。スタッフはエレベーターの前まで案内すると、そのまま立ち去った。 澄音は化粧と身なりを整えてから、個室の前へ向かった。 扉にはわずかな隙間が空いていた。そこから、中の会話がはっきりと漏れ聞こえてきた。 「氷室社長、琴川さんはもう随分長くあなたのそばにいますよね。年齢的にも、そろそろ身を固める時期じゃないですか?」 ノックしようと持ち上げかけた澄音の手は、空中でぴたりと止まった。 第1話  午前3時、琴川澄音(ことかわ すみね)はスマホの着信音で目を覚ました。 まだ夢と現実の境目にいるような意識の中で、氷室清陽(ひむろ すばる)の低い声が聞こえてきた。 「企画書をバー『ノクターン』まで持ってこい」 澄音は一瞬で目が覚め、慌てて身支度を整えると、企画書を手にタクシーで店へと向かった。 指定された個室は19階だった。スタッフはエレベーターの前まで案内すると、そのまま立ち去った。 澄音は化粧と身なりを整えてから、個室の前へ向かった。 扉にはわずかな隙間が空いていた。そこから、中の会話がはっきりと漏れ聞こえてきた。 「氷室社長、琴川さんはもう随分長くあなたのそばにいますよね。年齢的にも、そろそろ身を固める時期じゃないですか?」 ノックしようと持ち上げかけた澄音の手は、空中でぴたりと止まった。 「あいつか?身ぎれいで従順ではあるが、家柄が平凡すぎる。氷室家が迎え入れる相手じゃない。ただの遊び相手だ」 清陽の口調は、まるで手慰みの品について語るように、淡々として冷たかった。 澄音は息を詰まらせ、宙に浮かせていた手をそっと下ろした。 ――ただの遊び相手、か……? 澄音は個室に入らず、書類をスタッフに預けてその場を離れた。 夜更け、雨は土砂降りになっていた。通りには人影ひとつない。 澄音は30分待ってもつかまらない配車サービスをキャンセルし、傘を開いて雨の中へ踏み出した。 清陽のあの言葉が、せわしい太鼓のような雨音に混ざり、耳の奥で鳴り続けている。ばらばらと叩きつける音は、澄音の世界をまるごと呑み込もうとしているかのようだった。 周囲の人間は、澄音が清陽のそばにいて4年になることを知っていた。 けれど本当は、澄音が清陽を好きになってから、今年で8年目になっていた。 澄音は、初めて清陽に会った日のことを思い出した。 大学の入学式の日も、ひどい雨だった。講堂のマイクは調子が悪く、外の雨音に負けて、壇上の声がほとんど届かなかった。 新入生たちは話を聞き取れず、次々に眠り込んでいた。澄音もまた、うとうとと舟をこいでいた。 式がOBの祝辞に移った瞬間、それまで静まり返っていた講堂が、突然ざわめきに包まれた。天井まで震わせるような歓声が上がり、澄音も隣の同級生に揺り起こされた。 澄音は前から2列目の中央に座っていた。目を開けたその瞬間、壇上に立つ清陽と視線が合った。 白いシャツにスラックス姿の清陽は、近寄りがたいほど冴え冴えとしていて、群れの中にいてもひとりだけ浮かび上がって見えた。 清陽の顔は、忘れようにも忘れられないものだった。澄音はたった一目見ただけで、その顔を4年ものあいだ胸の奥に焼きつけていた。 卒業後、澄音は望み薄だと思いながら氷室グループに履歴書を送った。ところが、思いがけず採用が決まった。 そうして澄音は、流されるように清陽の秘書になった。 その2か月後、酒の席のあと、澄音はまた流されるように清陽と関係を持った。 いつもは自制的で、礼儀を崩さない清陽が、私生活であれほど箍を外れるなど、誰も想像していなかった。 月に数日、どうしても触れられない時期を除けば、清陽は澄音を手放そうとしなかった。 4年が経った。澄音はずっと待っていた。この関係が隠しごとではなくなり、人前に出せるものになる日を待っていた。 それなのに、澄音が待ち続けた果てに聞いたのは、「ただの遊び相手だ」という一言だけだった。 冷たい雨粒が斜めに吹きつけ、澄音の頬を濡らした。頬に残った一筋の水滴は、近くで見れば涙と少しも変わらなかった。 澄音が家に着いたときには、もう七時になっていた。バッグの中でスマートフォンがまた鳴り、澄音は取り出して画面を見てから、通話ボタンを押した。 電話の向こうから、年を重ねた父の声が聞こえてきた。父はいつものように、あれこれと長く話し続けた。 母は澄音を産んだときの難産で亡くなり、父はひとりで澄音を育ててきた。20年以上苦労を重ね、今はただ、澄音が少しでも早く結婚し、落ち着いた暮らしを築くことだけを願っていた。 近ごろ父は体調を崩しがちで、自分に残された時間が長くないのではないかと不安に思っていた。そのせいで、澄音に仕事を辞めて見合いをするよう、何度も促していた。 けれど澄音は、清陽のためにずっと、恋人はいないと嘘をつき続けてきた。 今もまた父がそのことで言葉を尽くして説得してきた。澄音の胸は、きゅっと痛んだ。 澄音は目尻に滲んだ涙を拭い、震えそうになる声を必死に抑えた。 「お父さん、もう1日だけ時間をちょうだい。ちゃんと答えを出すから。答えが出たら……きっぱり諦めて、仕事を辞めてお見合いする」 父は仕方なくため息をついて了承し、電話を切った。 澄音はぼんやりと窓の外を見つめた。もう堪えきれず、涙が糸の切れた数珠のようにぽろぽろとこぼれ落ちた。 初めて人を好きになったのに、その気持ちはこんなにも無惨に踏みにじられた。 それでも澄音は、まだ諦めきれなかった。最後にもう一度だけ、確かめてみたかった。 清陽が部屋に入ると、ソファに横たわる澄音の姿が目に入った。赤いドレスが雪のように白い肌に映え、妙に視線を奪う艶があった。 清陽は気のない仕草でネクタイを緩め、柔らかな腰に結ばれたベルトへ指をかけた。その動きは、贈り物の箱にかかったリボンをほどくときのように、あまりにも何げなかった。 清陽の動きは静かだった。それでも澄音は目を覚まし、腰に触れるその手をつかんだ。目尻の涙がこめかみを伝い、黒髪の中へ消えていった。 澄音が目を覚ましたと知ると、清陽はもう遠慮しなかった。顔を寄せ、柔らかな赤い唇に口づけた。 澄音は拒まなかった。 ひとときの熱が過ぎたあと、澄音はベッドに横たわり、そばでタバコに火をつける清陽を静かに見つめていた。 部屋に入ってから、清陽は一言も話していなかった。 どうして会員制クラブまで来たのに個室へ入らなかったのか、そう尋ねることもなかった。澄音があの会話を聞いたかどうかなど、少しも気にしていないようだった。 骨ばった長い指がライターをベッドサイドに放るのを見て、澄音はようやく探るように口を開いた。 「来月で私、27歳になるの。さっきお父さんから電話があって、早くお見合いして結婚しろって言われた。私、うなずいたよ」 空気が一瞬、静まり返った。 しばらくして、清陽は身じろぎもしないまま、軽くうなずいた。 「いいんじゃないか。お前もそろそろ、自分の将来を考えるべきだ。 卒業してすぐ俺の秘書になって、もう4年以上になる。そのときは見合い相手を俺に会わせろ。俺が見定めてやる。お前がつまらない男に傷つけられるわけにはいかないからな」 澄音が最後に抱いていた期待は、その薄情な声音の中で、ゆっくりと沈んでいった。 翌日。 澄音が会社に来て最初にしたことは、退職願を書くことだった。 第2話  目ざとい社員が退職願の文字に気づき、その話はたちまち社内をざわつかせた。 ほどなくして、澄音が辞めるという噂は会社中に広まった。 各部署の社員がちらほら、澄音の執務室へやって来て、彼女を引き留めようとした。言い方はそれぞれ違っていたが、要するに伝えたいことは一つだけであった。 清陽の仕事に対する要求はあまりにも厳しく、澄音以外に彼を納得させられる人間はいなかった。厄介な案件や面倒な後始末があるたび、皆は澄音が何とかしてくれると当てにしていた。 誰もが口を開けば「社長だって琴川さんがいないと困りますよ」と言った。澄音は、引き留めに来る同僚たちを、落ち着いた態度で一組ずつやんわりと受け流した。 その騒ぎは、ついに清陽の耳にも入った。 退勤時間の直前、清陽はアシスタントに命じて、澄音を執務室へ呼ばせた。 澄音がドアを押し開けると、目の前の光景に思わず動きが止まった。 清陽は、若い女性を抱くようにして社長椅子に座っていた。 「お前の退職願は受理した。ただ、社内の業務が立て込んでいる。今月末までは残れ。手元の仕事は先に恋羽へ引き継げ」 心の底から冷たいものがせり上がり、澄音はその場に立ち尽くした。 清陽はその女性の背中を押して澄音の前に立たせ、ひどく柔らかな声で言った。 「紹介する。星野恋羽(ほしの こはね)。俺の新しい秘書だ」 目の前の女性はとても若く見えた。顔立ちは、澄音とどこか似ていた。六割ほどは重なって見えるだろうか。 周りでは、清陽は澄んだ瞳と整った顔立ちの、華奢な女性を好むと言われていた。どうやら、その噂は間違っていなかったらしい。前任と後任の秘書が、ここまで似た顔立ちだったのだから。 澄音の胸には、鈍い痛みが重く広がった。彼女はどうにか苦い笑みを作り、恋羽を連れて執務室を出た。 たった1日で、清陽は澄音の代わりを見つけていた。若々しく可憐で、白い花のような女性だった。 そうだ。自分のような女性はいくらでもいた。清陽が本気になるはずなどなかった。 間違っていたのは自分のほうだった。清陽にとって自分が特別な存在だと、思い込んでいただけだった。 それから1か月、澄音は手元の仕事を少しずつ恋羽へ引き継いだ。 けれど恋羽は仕事に身が入らず、細かなことさえまともにこなせなかった。 澄音が書類の確認を頼んでも、恋羽は雑に目を通すだけだった。最後には契約書の部数すら合わず、各部署で次々に支障が出たにもかかわらず、恋羽はその責任を澄音に押しつけた。 こうした小さなトラブルは毎日のように起き、澄音もさすがにうんざりして、何度か注意した。 恋羽は納得せずに口答えし、しょっちゅう清陽の執務室へ駆け込んでは告げ口をした。 だが清陽は事の是非など気にも留めず、毎回、恋羽の肩を持った。 澄音が入社してから4年間で受けた理不尽より、この1か月に受けた理不尽のほうが多いほどだった。 月末が近づくころには、澄音は私物をすべて片づけ終えていた。彼女は翌朝、空港へ取引先を迎えに行く件を恋羽にもう一度念押しし、退職に必要な手続きも先に済ませた。 段ボール箱を抱えて家に戻ると、澄音はベッドに横になった。けれど一晩中寝返りを打つばかりで、夜が明けてからようやく眠りに落ちた。 この邸宅は、以前に清陽が澄音へ買い与えたものだった。仕事を辞めると決めた以上、すべてを断ち切るつもりであり、当然この場所からも出ていくつもりだった。 荷物をまとめてこの家を出ていくつもりでいた矢先、清陽からの着信音が鳴り響き、澄音は眠りから引きずり起こされた。 通話ボタンを押すと、電話の向こうからすぐに、怒りを含んだ清陽の叱責が飛んできた。 「澄音!お前、空港へ迎えに行かなかったのか?取引先を空港で3時間も待たせたせいで、相手はもう元の都市へ引き返してしまった。契約も白紙だ。分かっているのか!」 澄音の胸が強く跳ねた。 確かに、すべて恋羽へ引き継いだはずだった。恋羽は行かなかったのだろうか。 澄音が口を開きかけると、清陽はそれを遮った。声は凍りつくほど冷たかった。 「今すぐ会社へ来い」 電話は一方的に切れた。 澄音は連日の疲れに加えてほとんど眠れておらず、体中が重かった。それでも不調をこらえ、会社へ駆けつけた。 今日は澄音の最終出社日だった。同僚たちは澄音の姿を見るなり集まってきて、体調を気遣い、名残を惜しむ言葉をいくつもかけた。 澄音は1人ずつ挨拶を返し、それから清陽の執務室へ向かった。 ドアを押し開けると、清陽は冷えきった表情をしていた。その視線は鋭い刃のように澄音へ向けられ、彼女の体を貫こうとしているかのようだった。 「澄音、取引先を空港に置き去りにするのが、お前の仕事に対する姿勢か?」 澄音の心は、鋭い爪で引っかかれたように痛んだ。彼女は目を伏せた。 「社長、私はもう退職いたします」 第3話   社長室はその一言で、死んだように静まり返った。 清陽は眉間を押さえた。声には、かすかな怒りが滲んでいた。 「引き継ぎも終わらせず、勝手に辞めるつもりなら、責任を問わないわけにはいかないな」 澄音は息がうまく吸えない気がした。目を伏せ、乱れかけた感情をどうにか整えた。 「社長、この件はすでに恋羽さんへ引き継ぎました。3回も念を押してから退社しております」 清陽は不快げに澄音を見やり、机の上のファイルを無造作に投げつけた。 「卒業したばかりの新人に責任を押しつける気か?澄音、お前は曲がりなりにも4年、俺の下にいた。それで思いつく言い訳がその程度か?」 ファイルが澄音のこめかみに鈍い音を立ててぶつかった。一瞬、視界が滲んだ。 ――そうだ。4年も清陽のそばにいたのに、自分は入社して1か月の新人にも及ばないのだ。 「下がれ!1日だけ猶予をやる。今すぐ挽回策を考えろ!」 怒りを孕んだ清陽の冷たい声が耳にまとわりついた。澄音は結局、何も説明しなかった。黙ってファイルを拾い、うつむいたまま返事をした。 挽回策を考えるため、澄音は深夜まで本社ビルで仕事を続けた。 最後の社員がいなくなってから、澄音はようやくパソコンを閉じた。バッグを手に取り、帰ろうとして立ち上がった。 けれど本社ビルを出た途端、強いめまいが襲ってきた。澄音は無理に数歩進もうとしたが、やがて視界が真っ暗になり、その場で意識を失った。 次に目を覚ましたとき、澄音は病院のベッドに横たわっていた。 看護師は澄音が目を覚ましたのを見ると、眉をひそめて小言をこぼした。 「あなたね、妊娠2か月なのに、丸1日何も食べないなんてどういうこと?自分の体を大事にしなさすぎよ。親切な通行人が病院まで連れてきてくれたからよかったけれど、そうじゃなかったらお腹の子も危なかったんだから。 しばらく横になっていなさい。この点滴が終わったら帰れるから」 その言葉を聞いた瞬間、澄音の頭の中で雷が落ちたようだった。 ――自分が妊娠している? ――もう2か月? 澄音はベッドに横たわったまま、頭の中が真っ白になった。 1時間後、点滴の薬液が残り少なくなってきた。澄音は窓の外に広がる真っ暗な空を見つめ、長いあいだ迷った末、清陽にメッセージを送った。今夜、あの家で会いたいと伝えるためだった。 【今夜、帰ってきてくれる?あなたに大事な話があるの。本当に大事な話なの】 点滴が終わると、澄音はひとりで弱った体を引きずるようにして家へ戻った。 邸宅街の一帯は停電していた。澄音は暗闇の中を手探りで玄関を開け、バルコニーへ出て、下にあるエントランスを見下ろした。 澄音は清陽を待っていた。 清陽が帰ってくるのを待っていた。妊娠を告げる瞬間を待っていた。そして、清陽が2人の未来に最後の判断を下すのを待っていた。 けれど時間は1分、また1分と過ぎていった。澄音は星が現れ、やがて消えるまで待った。朝いちばんの光が澄音の体を照らしても、清陽の姿は現れなかった。 澄音はスマホを手に取り、LINEを開いた。清陽からの返信は一言もなかった。 その代わり、会社の同僚たちがこっそり作った噂話用のグループチャットが、異様なほど盛り上がっていた。 澄音はそこを開き、大量のメッセージを遡った。最初は何の話か分からなかったが、1枚の写真にたどり着いた瞬間、ふいに動きが止まった。 写真の中の女性は、カメラに向かって花がほころぶように笑っていた。身につけている服もアクセサリーも高価なものばかりで、どこかの令嬢なのだろう。 けれど澄音を凍りつかせたのは、その華やかな装いではなかった。 その顔だった。 自分と八割ほど似た顔だった。 グループチャットには、すぐに新しいメッセージが流れ込んできた。写真の女性は社長の初恋の相手だと、誰かが書いていた。 その一文を見た瞬間、澄音は頭から足の先まで冷水を浴びせられたように、全身が冷えきった。 その一瞬で、澄音はすべてを理解した。 ――だから清陽は、膨大な数の履歴書の中から私を選んだのだ。 ――だから清陽は、いつも私の顔を見つめたまま黙り込んでいたのだ。 ――だから清陽は、恋羽を選んだのだ。 すべて、自分たちがその初恋の相手に似ていたからだった。 何を感じているのか、自分でも分からなかった。澄音はただ目の前がぼやけていくのを感じながら、無意識に画面を滑らせた。 【社長の初恋って、この宝生家令嬢の宝生舞衣(ほうしょう まい)らしいよ。幼なじみで一緒に育って、舞衣が18歳のとき、海外で本格的に学ぶために社長へ別れを告げたんだって】 【昨日、舞衣のダンスカンパニーが国内ツアーを終えて、また海外へ発つ予定だったらしいんだけど、社長は夜にそれを聞いて、そのまま車を飛ばして空港へ行ったらしいよ。しかも伝手を使って、飛行機の出発まで遅らせたって!】 【だから仕事人間の社長が、今日に限って会社に来なかったんだ。初恋の相手とヨリを戻してたってことか】 乾いた音を立てて、スマホが床に落ちた。画面は蜘蛛の巣のようにひび割れた。 澄音は体を丸めた。大粒の涙が次々にこぼれ、服を濡らしていった。胸の奥には、無数の針を突き立てられたような細かな痛みが広がっていた。 ぞっとするような冷たさが手足へ伸びていった。朝日が差し込む穏やかな朝なのに、澄音は寒さに耐えきれないように震えていた。 過去の場面が、次々と目の前に浮かんだ。 ――だから清陽は、いつも最新の海外ダンス誌を取り寄せさせていたのだ。 ――だから清陽は、肌を重ねるたびに明かりをつけ、自分の顔を見ようとしていたのだ。 ――だから昨夜、清陽は何の音沙汰もなかったのだ。 すべて、舞衣のためだった。 清陽は人を愛せないわけではない。ただ、愛している相手が自分ではなかっただけだ。 この瞬間、澄音は認めるしかなかった。 ――もう、完全に終わったのだと。 澄音は真っ青な顔でクローゼットからスーツケースを取り出し、自分の荷物を一つずつ詰めていった。 たった30分で、澄音はこの家から自分の痕跡をすべて消した。 澄音は鍵をテーブルに置き、スーツケースを引いて玄関を出た。一歩ずつ、邸宅街を後にした。 通りまで出ると、澄音はタクシーを止め、病院の名を告げた。それから父に電話をかけ、退職の手続きが済んだこと、明日から見合いを始められることを伝えた。 父の声は、心から安堵しているようだった。 車は走り出した。窓の外の景色は瞬く間に流れていき、木々は緑の枝を揺らしながら、まるで別れを告げるように手を振っていた。 後部座席に座った澄音は、スマホに残っている写真を黙って見返した。この4年間、こっそり撮りためてきた清陽の写真だった。数秒後、澄音は一括削除を選んだ。 ――もう、清陽を好きでいるのはやめる。 ――もう、何も期待しない。 ――終わった。 この瞬間から、自分と清陽の物語はすべて終わったのだ。 第4話  澄音は中絶手術の予約を入れた。 だが、診察と検査を終えたあと、医師は厳しい顔で告げた。澄音はもともと妊娠しにくい体質であり、この子を諦めれば、今後子どもを望むのは難しくなるかもしれないという。 澄音はまだ膨らみのないお腹に手を当て、うつむいたまま長いあいだ黙り込んだ。 今の自分は、頭の中がぐちゃぐちゃで、とても決められる状態ではなかった。 「琴川さん、本当に中絶手術の予約を入れますか?」 医師がもう一度尋ねると、澄音は疲れきった顔を上げ、最後にはゆっくりと首を横に振った。 翌朝早く、父から見合い相手の写真と待ち合わせ場所が送られてきた。 澄音はため息をつきながら起き上がり、身支度を整えて、急いで約束の場所へ向かった。 待ち合わせ場所は、駅ビルにあるカフェだった。澄音が着いたとき、相手はまだ来ていなかった。 澄音は水を一杯頼んで席に着き、この相手にどう切り出して事情を話すべきか考えた。 ――今の自分は妊娠している。子どもを諦めるにしても産むにしても、すぐに新しい関係を始められる状態ではない。 約束の時間を30分過ぎてから、見合い相手はようやく現れた。 30代半ばを過ぎたように見える、柄物のシャツを着た、少し髪の薄い男だった。 男は席に着くなり、澄音に苦手なものがあるかどうかも聞かず、食べ物や飲み物を勝手にいくつも注文した。 澄音が口を開こうとした瞬間、向かいの男が遠慮なく話し始めた。 「琴川さんですね。私は須藤栄太(すどう えいた)、今年34歳です。あなたの資料はもう拝見しましたので、雑談は省きましょう。午後も予定がありますから、なるべく手短に進めたいんです。 私は大手IT企業のG社でプログラマーをしています。朝九時から夜九時まで毎日忙しく、週末も出勤が多いので、家にいる時間はほとんどありません。 ですから、結婚後は仕事を辞めて家庭に入っていただきたい。あなたは子どもを産んで、家事をしてくれれば、それで構いません。 それから、結婚後は私の両親も同居します。2人とも年を取っていますから、そのあたりの世話もきちんとしていただかないと困ります」 栄太は話し出すと止まらなかった。まるでもう結婚が決まっているかのような口ぶりで、次々と条件を並べていった。澄音はついに聞いていられなくなり、その場で立ち上がった。 「須藤さん、念のため申し上げますが、これはお見合いであって、家政婦の面接ではありません」 栄太も立ち上がり、澄音の顔を指で指した。 「おい、お前、何だその言い方は?見合いに来ておいて結婚後の生活の話もしないで、まさか恋愛ごっこでもするつもりか? 自分の年を考えろよ。きれいだからって何だ。どうせ、さんざん男に遊ばれてきたんだろうが!」 澄音はその言葉に怒り、目の前のグラスを手に取った。 水を浴びせる前に、背後から伸びてきた腕が、ふいに澄音の肩を抱き寄せた。 「須藤さんはG社にお勤めなんですね。どちらの部署ですか?」 栄太は突然現れた男を見た。仕立てのいいスーツをまとい、品のある雰囲気を漂わせていた。その姿に一瞬たじろぎながらも、怪訝そうに問い返した。 「あんた、誰だ?何の関係があって口を挟むんだ?」 「桐生グループの桐生悠臣(きりゅう ゆうしん)です。あなたの話に口を挟む資格くらいはあると思いますが」 その名を聞いた瞬間、栄太の顔色が変わった。しばらく口ごもったあと、態度をがらりと変え、「誤解です、誤解です」とだけ言って、そそくさと背を向けた。 澄音は追いかけなかった。二歩下がって悠臣の腕から離れ、頭を下げて助けてもらった礼を言った。 悠臣は軽く手を振り、そのまま栄太が座っていた席に腰を下ろした。ちょうどスタッフが注文された料理を運んできたところだった。 悠臣はコーヒーを手に取ってひと口飲み、もう一杯を澄音の前へ差し出した。 「どうして見合いなんかしているんだ?清陽のそばにいただろう。結婚するつもりはなかったのか?」 清陽の名が出た途端、澄音の胸がまたかすかに痛んだ。澄音はどうにか笑みを作った。 「社長は雲の上の方です。私なんかと一緒になるはずがありません」 悠臣は口元をわずかに上げ、ナイフを指先で弄びながら、冗談のような口調で言った。 「清陽が駄目なら、俺はどうだ?年も近いし、最近は家から結婚を急かされている。案外、釣り合うと思うけどな」 その言葉を聞いて、澄音ははっと顔を上げた。目の前の男の端正な顔には、本気とも冗談ともつかない薄い笑みが浮かんでいた。 悠臣と清陽は同じ社交圏の人間だった。名家の出で、どこへ行っても周囲から持ち上げられる存在だった。 ――ああいう人たちが、自分のような女を本気で見るはずがない。悠臣はきっと冗談を言っているだけだ。 澄音は首を横に振った。 「桐生社長、からかわないでください」 澄音がその話題を避けると、悠臣はわずかに目を細めた。それ以上は追及せず、話を変えた。 「どこに住んでいる?送っていく」 澄音はやんわり断ろうとした。けれど悠臣はなぜか譲らず、澄音は仕方なく住所を告げた。 2人は車に乗った。澄音が席に着いた瞬間、すぐ隣に停まったばかりの白いスポーツカーに見覚えがあることに気づいた。 澄音が思わず窓を開けると、案の定、ほどなくして清陽が車から降りてきた。清陽は助手席へ回り、華やかな女性に手を貸して車から降ろした。 澄音はその光景を見つめたまま、少しのあいだ我を忘れていた。 第5話   悠臣は、澄音が食い入るように見つめていることに気づき、その視線の先を追った。 清陽と舞衣だった。 「君は清陽のそばに4年いたけど、あいつが女性にここまで気を配るところを見るのは初めてだろう?」 澄音はそこでようやく我に返った。悠臣がなぜ急にそんなことを言い出したのか分からず、瞳には戸惑いが浮かんでいた。 「舞衣は顔立ちも華やかで、踊りも昔から抜きん出ていた。子どものころから、俺たちの周りでは多くの人間にとって手の届かない高嶺の花だったんだ。清陽みたいに昔から冷めきったやつでさえ、舞衣には心を動かされた。 舞衣が体調を崩すたび、清陽はたとえ海外にいても、十数時間かけて夜通し飛行機で戻ってきた。 舞衣が真珠を好きだと言えば、清陽は20億円以上を惜しまず、目につく真珠を片っ端から買い上げた。舞衣が本格的に学ぶために別れを切り出したあと、清陽は2年も抜け殻みたいになっていた」 悠臣の話を聞きながら、澄音は窓の外で少しずつ遠ざかっていく、寄り添う2人の姿を見つめていた。何も言葉が出てこなかった。 澄音はただ静かに聞いていた。一言も返さなかった。 けれど下腹部には、もう鈍い痛みが滲んでいた。まるでお腹の子までが、自分の代わりに怒っているかのようだった。 痛みはあっという間に広がり、胸の奥まで侵していく。 ――清陽が誰かを愛する姿なら、何度も想像したことがある。 ――でも、こんな姿だとは思わなかった。 それでも、もう自分には関係のないことだった。 澄音は瞳に滲みかけたものを押し隠し、かすかに笑った。 「それなら、2人がまた一緒になれたのは、よかったですね」 悠臣はその言葉を聞いて澄音を一瞥した。薄い唇がわずかに動き、何か言いかけたようだったが、結局何も言わず、黙って車を発進させた。 一方そのころ。 清陽は舞衣を家まで送り届けたあと、そのまま車を走らせて邸宅へ向かった。 家の中は真っ暗だった。清陽が明かりをつけると、部屋から澄音のものがすべて消えていることに気づいた。 そこで清陽はようやく、舞衣が戻ってきたあの日、澄音から何度も着信があったことを思い出した。 引っ越すことを伝えようとしていたのだろう。 清陽は深く考えなかった。出ていったなら、それでいい。どうせ澄音の実家の住所は知っている。 翌日、清陽が会社に着くと、恋羽が澄音の退職届を差し出した。 「社長、澄音さんは正式に退職されました」 清陽はうなずき、手元の報告書に目を通しながら、恋羽にコーヒーを淹れに行かせた。 ところが運ばれてきたコーヒーは甘ったるく、飲めたものではなかった。清陽はカップを音を立てて机に置いた。 「入社して1か月になるのに、コーヒー一杯まともに淹れられないのか?澄音は教えなかったのか?」 恋羽はびくりと肩を震わせ、慌てて一冊のノートを取り出し、清陽の前に置いた。いかにも傷ついたような声で言った。 「澄音さんに教わった通りに淹れただけなんですけど……社長」 清陽は目の前の、舞衣によく似た顔を見た。気分が一気に底まで沈んでいった。 ――顔は舞衣に似ているのに、頭は救いようがないほど鈍い。 清陽はその場でアシスタントを呼び、恋羽を人事部へ連れて行って退職手続きをさせた。 社長室はすぐにまた静かになった。清陽の目に、目の前のノートいっぱいに並ぶ、澄音の端正で美しい字が映った。 何かに引かれるように、清陽はそのノートを手に取り、ページをめくり始めた。 分厚いノートは最後までびっしり埋まっていた。衣食住から日々の習慣、細かな好みに至るまで、何もかも丁寧に記されている。清陽は気づけば最初から最後まで読み通し、胸の奥に言いようのない違和感を覚えた。 最初は、ただ慣れないだけだと思っていた。澄音は丸4年も、自分のそばにいたのだから。 けれどそれから数日のうちに、その違和感は少しずつ濃くなっていった。 毎日、見慣れた社員や書類を前にしているのに、清陽は何を見ても気に入らず、何をしてもうまくいかない気がした。 ――澄音がいないだけで、こいつらはこんな小さなことすらまともに片づけられないのか! 清陽はアシスタントを叱りつけたあと、椅子に腰を下ろした。舞衣を食事に誘おうと電話をかけたが、何度かけてもつながらず、胸の内には苛立ちばかりが募っていった。 しばらくして、椎名朔哉(しいな さくや)からメッセージが届いた。バー「ノクターン」で、舞衣が男と一緒にいるのを見たという。 清陽の胸が、急に重く沈んだ。 ――男? 清陽は車を飛ばしてバーへ向かった。だが朔哉は、もう2人は帰ったと言い、個室を担当していたスタッフを呼んで詳しく説明させた。 「宝生様は2時間ほど前、その男性に会いにいらっしゃいました。お会いになるなり、男性は宝生様の腰に腕を回して離さず、おふたりはずっと寄り添って親しげに耳打ちをしておられました。その後、宝生様はその男性と一緒にお帰りになりました」 スタッフの言葉を聞くほど、清陽の表情は険しくなっていった。 清陽はスマートフォンを取り出し、舞衣に電話をかけて、今どこにいるのかと尋ねた。舞衣は家にいると答えた。 個室の中は、たちまち死んだように静まり返った。 清陽の顔は、見る者が息をのむほどに暗く、凄まじい怒りに満ちていた。清陽は一言も言わずに電話を切り、目の前のガラスのローテーブルを蹴り砕いた。 朔哉はそれを見て、慌てて清陽を止めた。 「お前、舞衣と今日初めて会ったわけじゃないだろ。あいつがどういう人間か、まだ分からないのか?あいつがお前のそばにいるのは、お前が尽くしてくれるからだ。裏ではずっと男と遊び歩いて、落ち着く気なんて一度もなかった。どうしてそこまでして、あいつを引き留めようとするんだ? 忘れたのか。あいつが海外へ行くために、死ぬと騒いでまでお前と別れたときのことを。お前はそのせいでバーに入り浸って浴びるように酒を飲み、半分死にかけた。あれから何年も経っているのに、どうしてまだ諦めきれないんだ?」 昔のことを言われ、清陽は古傷が癒えないまま新しい傷を抉られたように、胸が引き裂かれるほど痛んだ。それでも歯を食いしばり、声を絞り出した。 「舞衣が離れていかないなら、俺は一生彼女を大事にする!」 第6話   朔哉はひどく頭が痛くなった。清陽を一途と言うべきなのか、薄情と言うべきなのか分からなかった。ため息をつき、震えているスタッフに救急セットとガーゼを持ってこさせた。 飛び散ったガラスで、清陽の手のひらは血まみれになっていた。スタッフは恐る恐る血を拭い、消毒してから包帯を巻いた。 手当てが終わると、朔哉はふと思い出したように、感慨まじりに口を開いた。 「そういえば、最近ずっと澄音を見てないな。お前、あいつとは本当に切れたのか? 俺から見れば、澄音のほうが舞衣よりずっといい女だ。3年前のこと、覚えてるか。あいつは身を挺して、お前に向かって飛んできた酒瓶を何本も受け止めたんだぞ。 額から血を流していたのに、一言も文句を言わなかった。まったく、どれだけお前のことが好きだったんだか」 朔哉が話す出来事に、清陽はまったく覚えがなかった。わずかに眉をひそめた。 「何の酒瓶だ?」 「覚えてないのか?3年前、舞衣が交際を公表したとき、お前はバーで浴びるほど酒を飲んだだろ。ボディーガードもつけずに行って、たまたま柄の悪い連中に絡まれた。 店の中は大騒ぎになって、怪我人も何人も出た。お前は酔いつぶれていたくせに、澄音に守られて、かすり傷ひとつ負わなかったんだ。 お前に心配をかけたくなかったのか、目が覚めたあとも適当な理由をつけて長めの休みを取っていた。 なのにお前は、あのころ機嫌が最悪だったから、あいつが仕事を放り出したと思い込んで、3か月分の給料を減らしたんだよ。澄音はそれでも一言も説明しなかった。あいつ、本当にお前に尽くしてたんだな」 清陽は初めてその話を聞いた。胸の奥が、不意にどくりと跳ねた。 朔哉は話し出すと止まらず、そのままぼやき続けた。 「なあ、どうして舞衣ひとりにそこまでこだわるんだ?澄音は本当にいい相手だろ。お前も少しはちゃんと見て、大事にしてやれよ」 清陽はそれ以上聞いていられず、冷たく遮った。 「俺が好きなのは澄音の顔だ。あいつ自身じゃない。それに、澄音はもう退職して出ていった!」 清陽の表情は冷えきっていた。だが朔哉は、呆れたように舌を鳴らした。 「あれだけお前のことが好きだった女が、本気で離れられるわけないだろ。どうせお前に引き止められるのを待ってるだけだ。信じられないなら電話してみろよ。絶対すぐに飛んでくる」 朔哉はそう言うと、清陽のスマホを手に取り、連絡先を探し始めた。 清陽は眉を寄せたが、止めはしなかった。 朔哉は続けて10回以上電話をかけた。だが、そのたびに切られた。 最後のほうには、朔哉の額にも汗が滲んでいた。朔哉はごまかすように笑い、次で最後にすると言った。 冷たい自動音声が、部屋の中に響いた。 「おかけになった番号への着信は、相手側の設定により拒否されています」 「マジかよ!」朔哉は信じられないという声を上げた。「澄音、お前を着信拒否にしたのか!?」 一方そのころ。 澄音は病院の救急処置室の前に立ち、扉の上に灯る赤いランプをじっと見つめていた。 澄音は両手をきつく握りしめていた。顔には焦りがにじみ、じっと座っていることもできなかった。 父は、見合いが駄目になったことにひどく腹を立てていた。澄音は時間を見つけて実家へ戻り、説明しようとした。だがそこで、父がリビングで意識を失って倒れているのを見つけた。 澄音は慌てて父を病院へ運び、救急処置を受けさせた。 ほどなくして、処置室の扉が開いた。 澄音が急いで駆け寄り、状況を尋ねると、医師は父にすぐ手術が必要だと告げた。ただし費用は高額で、2000万円以上かかる。早く決めてほしいと言われた。 澄音の頭の中で、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。 2000万円以上もの大金など、自分には到底用意できなかった。周りに貸してくれる友人もいなかった。 清陽を除いては。 父の命が危ない今、自分にはほかのことを気にしている余裕などなかった。妊娠のこともすべて打ち明けて、ひとまず助けを求めるしかないと思った。 澄音は急いで清陽を着信拒否から外し、電話をかけた。声を絞り出すように言った。 「もしもし、社長ですか?少し事情があって、2000万円ほどお借りしたいのですが……」 言い終える前に、清陽の冷たい声が遮った。 「20分以内にバー『ノクターン』の10階へ来い」 それだけ言って、電話は切れた。 気のせいかもしれないが、今回の清陽の声は、いつも以上に冷たかった。何か怒りを押し殺しているようにも聞こえた。 けれど澄音には、深く考えている時間はなかった。 澄音は急いで医師に手術に同意すると伝え、そのまま一息つく間もなく階下へ降りてタクシーを拾った。 20分の期限が切れる前に、澄音はバーに到着した。 息を切らして扉を押し開けると、荒れ果てた個室が目に入った。朔哉もそこにいた。 朔哉は澄音が来たのを見るなり、すぐ清陽の耳元へ寄って小声で言った。 「ほら、来ただろ。清陽、あいつは本当にお前を大事に思ってる。絶対に馬鹿なことして傷つけるなよ」 そう言うと、朔哉は清陽の顔色も見ず、さっと個室を出ていった。 第7話   清陽は顔を上げ、澄音を見た。さっき着信拒否されていたことをまだ根に持っているのか、声は氷のように冷ややかだった。 「あの家を出ていったときは、ずいぶん潔かったじゃないか。何も持たずに消えたくせに、どうして今さら戻ってくる気になった?」 澄音は顔が一瞬で熱くなるのを感じた。ここ最近に起きたことを、どこから説明すればいいのか分からなかった。結局、覚悟を決めるしかなかった。 「少し事情があって、至急2000万円が必要なんです。安心してください。必ず返します」 清陽の顔に、何かを察したような表情が浮かんだ。 「2000万円か。いいだろう。俺の要求を三つ呑め」 三つどころか、今の自分なら30でも呑むしかなかった。澄音はすぐにうなずいた。 「一つ目。俺の許可なく勝手に出て行ったことを今すぐ謝れ」 澄音は唇を強く噛み、静かに頭を下げた。「……申し訳ありませんでした」 「二つ目。最近どこにいたのか、全部話せ」 澄音は隠さず、最近3人と見合いをしたことを打ち明けた。 清陽の顔色が、たちまち険しくなった。澄音がさらに何か言おうとした瞬間、清陽の瞳が昏く沈んだ。清陽は突然、澄音の手首を掴んで胸元へ引き寄せ、血の気を失った唇を強引に塞いだ。 「んっ……」 澄音は必死にもがいた。だが清陽の口づけはますます荒くなった。澄音が息もできなくなりかけたころ、清陽はようやく唇を離した。絡みつくような息がすぐそばに残り、清陽の口元がゆっくりと上がった。 「澄音。お前の見合い相手たちが知ったらどう思うだろうな。お前が俺の単なる遊び相手だった女で、少しキスされただけでこれほど乱れると知っても、まだお前と結婚したいと思うのか?」 澄音は怒りと羞恥で震えた。けれどすぐに、胸の奥で暴れ出しそうな感情を必死に押し殺した。 澄音は口元を拭い、赤くなった目で清陽を見上げた。 「それで社長、三つ目の要求は、もう一度あなたと寝ることですか」 その言葉を聞いた瞬間、清陽の顔色が変わった。 ――いつからあいつは、こんなことを平気で口にするようになったのか。 ――あの見合い相手たちに、そう教え込まれたのか。 ――金さえ払えば、誰とでも寝るというのか。 清陽は不意に立ち上がった。手首の腕時計を乱暴に外し、窓を開けると、階下の人工池へ投げ捨てた。声は氷のように冷たかった。 「3つ目だ。下へ行って、あの時計を拾ってこい。そうしたら2000万円を渡してやる」 冬に入って半月ほど経ち、近ごろは寒波で一気に気温が下がっていた。池の水は身を切るほど冷たいはずだった。清陽はわざと澄音を苦しめようとしていた。 まして清陽は、澄音が妊娠していることなど知る由もなかった。 それでも、父を救う金を手に入れるために、澄音は唇を噛んだ。何も言わずに背を向けた。 「分かりました」 池は広かったが、深くはなかった。水は澄音の腰のあたりまでだった。 清陽は上の階から、池の中で腰をかがめる澄音の姿を見下ろしていた。胸の奥で怒りが激しく噴き上がった。 ――俺から離れて、お前はこんなふうに自分を安売りするようになったのか。 ――俺に助けてくれの一言も言えないのか。 清陽は冷えた目で長いあいだ見つめていた。だがついに見ていられなくなり、乱暴に窓を閉めて階下へ降りようとした。そのとき、懐のスマホが突然鳴った。 …… 澄音は水の中を1時間探し続け、ようやく時計を見つけた。澄音はその腕時計を両手で包み込み、最後の命綱をつかんだかのように、胸の奥が震えるほど安堵した。 けれど、水を滴らせる重い服を引きずって個室へ戻ると、中には誰もいなかった。 見かねたスタッフが、清陽は30分前に舞衣から電話を受けて出ていったのだと教えてくれた。 ――舞衣のところへ行ったの!? 頭の中で、耳鳴りのような音が響いた。危篤の父のことが頭から離れず、澄音はすぐに舞衣の家の住所を調べ、そこへ向かった。 道中、澄音は清陽に何度もメッセージを送り、電話をかけ続けた。だが清陽は、まるでこの世から消えたように何の反応もなかった。 宝生家は高級住宅街の中心にあり、警備は厳重だった。執事は、ずぶ濡れで見る影もない澄音を中に入れようとせず、取り次ぎさえ拒んだ。 ふいに2階の窓辺に人影が現れた。窓越しに、澄音は清陽の姿を見つけた。 清陽はシャツの袖をまくり、舞衣を抱くようにしてベッドの端に座っていた。器を手に取り、スープをすくって舞衣の口元へ運んでいた。 舞衣は甘く笑い、飲み込んだあとで清陽に軽く口づけた。 2人は隙間もないほど親密で、周囲など目に入っていないようだった。まるで深く愛し合う恋人同士にしか見えなかった。 空から細かな雪が舞い始め、濡れた服の上に落ちていった。冷たい風にさらされ、澄音は凍えるように震えていた。それでも頑なにその場を動かず、窓を見上げ続けた。 そのとき、冷えきって感覚の鈍くなった太ももを、熱いものが伝った。 澄音が手を伸ばして触れると、手のひらいっぱいに赤い血がついた。 ――お腹の子が! 目の前の鮮やかな赤を見た瞬間、自分でも頭が急に重くなるのを感じた。視界が暗くなり、そのまま倒れ込んだ。 澄音は鼻を刺す消毒液の匂いで目を覚ました。まぶたを開けると、病院の白い壁が見えた。 そばに座っていた悠臣は、澄音が目を覚ましたのを見るなり、温かいお茶の入ったカップを差し出した。 「目が覚めたか?手術費は俺が払っておいた。お父さんの手術は無事に終わった。今はもう危険な状態を脱している。心配しなくていい」 澄音はその言葉を聞いて、胸にのしかかっていた大きな石がようやく下りた気がした。一晩中駆け回ったつらさが一気に込み上げ、澄音は悠臣に深く頭を下げた。 悠臣は澄音の動きを止め、ベッドへ寝かせ直した。しばらくためらったあと、静かに尋ねた。 「宝生家の前で君を見つけて病院へ運んだとき、君は出血していた。医師から、君が妊娠していると聞いた。その子は、清陽の子か?」 その言葉は、強烈な雷のように脳天を直撃した。澄音の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。 第8話   澄音はどう答えればいいのか分からなかった。うつむいたまま、長いあいだ黙り込んだ。 隣の病室から突然、ガシャン、ガシャーンと何かが砕ける大きな音が響いた。看護師が入り口から、早く来るようにと澄音を呼んだ。 澄音は慌てて靴を履いた。悠臣は彼女を支え、そのまま一緒に隣の病室へ向かった。 父が目を覚まし、怒りに任せて暴れていた。テーブルのそばにあった果物の籠や食器は、すべて床に払い落とされていた。看護師は父の興奮を抑えるため、すでに鎮静剤を打つ準備に追われていた。 父はいつも穏やかで、優しい人だった。 ――どうして突然、ここまで激高したのか。 澄音はふいに、何かを察した。体をこわばらせたまま病室の外に立ち、中が再び静かになるのをじっと見つめることしかできなかった。 叔母の琴川佳代(ことかわ かよ)が涙を拭いながら歩み寄り、澄音の手を取って何かを言おうとした。悠臣はそれを見て、気を利かせてすぐに看護師を連れてその場を離れた。 「澄音、ここまで来たら、もう隠しても仕方ないね。お父さんが今回倒れたのは、大量の写真が届いたからなの。 澄音がきれいで、学歴もあることは、みんな分かってる。でも写真に写っていた男の人は、ひと目でうちなんかが関わっちゃいけない相手だって分かる人だったのよ。 乗っていた車も、従弟に調べてもらったら、最高級のセダンで数億円はするらしいじゃない。うちとは住む世界が違うの。まして、ああいう男の人たちは結局ただの遊びで、本気になんてしてくれないのよ。 今、地元では澄音が愛人として囲われているって噂になってる。聞いていられないような話ばかりなの。 澄音、おばさんの言うことを聞いて。お願いだから。お父さんの体のことも考えて、もうああいう人たちとは関わらないで。うちみたいな普通の家が、あんな相手に近づいちゃいけないの。 お父さんの言う通り、早く誰かを見つけて結婚して。これ以上、地元の人たちに好き勝手言わせないで」 澄音はその場に立ち尽くした。全身の血が凍りついたようだった。しばらくして、ぎこちなくうなずくことしかできなかった。 この騒ぎのあと、父の容体は悪化した。医師は、引き続き入院して治療を続ける必要があると告げた。 悠臣は時間が空くたびに病院へ駆けつけ、澄音を見舞った。さらに父を特別個室へ移す手続きに奔走し、名のある専門医にもつないでくれた。 澄音と悠臣は、それほど親しい間柄ではなかった。仕事関係の宴席で、何度か顔を合わせた程度だった。それなのに悠臣はここまで尽くしてくれた。自分には、この恩をどう返せばいいのか分からなかった。 けれど悠臣はいつも笑って、気にしなくていいと言った。今は安心して体を休めればいいと、そう言ってくれた。 半月後、医師は澄音に、もう体調は回復したと告げた。 退院後、澄音は結婚相談所に連絡した。ほとんど毎日、3人から4人の男性と会うようになった。 退院したばかりの体であちこちを回った。けれど、自分と一緒になってもいいと言う人は、1人もいなかった。 澄音は焦っていた。だが自分でも分かっていた。 ――別の男の子を身ごもった女性を、妻として迎えたいと思う人間など、そう簡単にいるはずがないのだ。 40人目の男性に断られたあと、澄音は疲れきってホテルのティーラウンジを出た。 タクシーを止めようとしたとき、黒い車がふいに目の前で停まった。 窓が下がり、顔を出したのは悠臣だった。 澄音はあまりにも疲れていて、もう遠慮する余力もなかった。促されるまま助手席に乗り込んだ。 悠臣は澄音の疲れきった顔を見て、かすかに痛ましそうな表情を浮かべた。 前方の信号が点滅を繰り返していた。悠臣はようやく口を開いた。 「澄音、そんなに急いで結婚したいなら、どうして俺を見ようとしない?」 悠臣が急にそんなことを言うとは予想もしておらず、澄音は思わず固まった。 「桐生社長、今は本当に疲れています。冗談に付き合う余裕はありません」 だが悠臣は澄音を見つめた。その目は、少しも揺らいでいなかった。 「冗談じゃない。澄音、俺は本気で君と結婚したい。君が妊娠していることも気にしない。 君がその子を産みたいなら、俺はわが子同然に大切にする。産みたくないなら、手術にも付き添う。そのせいでこの先子どもを持てなくなったとしても、俺には何の問題もない。 俺の家族のことも心配しなくていい。君にこの話をする前に、もう家族には伝えてある。家族は俺の選択を尊重すると言ってくれた。俺が尊重するのは、君の選択だけだ」 澄音は信じられない思いで悠臣を見つめた。 悠臣の目に宿る誠実さと揺るぎなさに、澄音の胸は小さく震えた。清陽に「ただの遊び相手だ」と切り捨てられたあとだからこそ、誰よりも分かっていた。真心は、何よりも得がたいものなのだと。 「どうして、私にここまでしてくれるんですか」 悠臣は口元をわずかに上げた。 「何度も言ったはずだ。でも、君が信じてくれなかった。 初めて君を見たときから、俺は君が好きだった。けれど君の目には清陽しか映っていなかったから、黙っているしかなかった。 君が清陽を諦めると決めたなら、俺に一度だけ機会をくれないか?」 そう言うと、悠臣はポケットから小さな箱を取り出し、ふたを開けた。 澄音は箱の中を見て、息をのんだ。 そこには、まばゆく光を弾くダイヤの指輪が収まっていた。 ――4年間、苦しいほど待ち望んできたものを、清陽は決してくれなかった。 ――それを悠臣は、ためらいもなく自分の前に差し出している。 心を揺さぶられないはずがなかった。 長い沈黙のあと、澄音は答えた。 「悠臣さん、少し考えさせてもらってもいいですか?」 第9話  澄音が家に着いたころには、すでに外は暗くなっていた。 悠臣は考える時間をくれると言ってくれた。その言葉通り、澄音の頭の中ではここ最近の出来事が何度も巡り続けた。ベッドに入っても寝返りを打つばかりで、夜更けになっても眠れなかった。 ――自分が何を迷っているのかは分かっていた。 お腹の中の子ども。清陽との子どもだった。清陽はまだ、この子の存在を知らなかった。そして澄音自身も、この子をどうすればいいのか分からずにいた。 悠臣が差し出してくれた好意は、まっすぐで、少しの曇りもないものだった。澄音はそれを裏切りたくなかった。だから本当に悠臣を受け入れると決めるのなら、同じだけの誠意を返さなければならなかった。 朝六時、澄音はベッドを抜け出し、お茶を飲もうとした。そのとき、スマホに届いたニュース通知を見て、動きが止まった。 「氷室グループ社長・氷室清陽、初恋の相手・宝生舞衣へのプロポーズ動画が流出!」 澄音は少しためらった。それでも、動画を開いた。 見渡す限りのチューリップ畑の中で、熱気球がゆっくりと空へ昇っていった。空からは花びらが舞い落ち、清陽はダイヤの指輪を手に、片膝をついて舞衣にプロポーズしていた。 長い動画を見終えたころには、外はすっかり明るくなっていた。カップの中のお茶は、すでに冷えきっていた。 その瞬間、澄音はふと分からなくなった。 ――いったい何に、まだしがみついていたのだろう。 長い沈黙のあと、澄音は目を伏せた。手の中のカップを置き、電話をかけた。 「悠臣。考えは決まったわ」 1か月後。 清陽と舞衣の婚約パーティーには、2人の周りにいる多くの知人たちが招かれていた。 朔哉は招待状を受け取ったとき、ひどく気が重くなった。あの日、澄音をわざわざバーまで呼ばせたはずだった。それなのに、どうして清陽は結局、舞衣にプロポーズしたのだろうか。 パーティーの開始が近づくころ、朔哉は控室へ向かい、清陽を見つけた。しばらく迷った末、やはり口を開いた。 「清陽、お前、本当に舞衣と結婚するのか?ちゃんと考えたんだよな?」 清陽は朔哉の問いに答えなかった。椅子に座り、目を閉じたまま、胸の中で乱れる思いを持て余していた。 彼は10年以上、舞衣を好きでいた。けれど舞衣はずっと、近づいたり離れたりを繰り返してきた。長い時間が経つうちに、清陽にも、舞衣が本当に自分を好きなのか分からなくなっていた。 あの日バーにいたとき、宝生家から突然、舞衣が倒れたと連絡が入った。清陽はすぐに駆けつけ、ひと晩中、舞衣のそばで看病した。 舞衣は清陽に尋ねた。 「まだ私のこと、好き?」 清陽が認めると、舞衣は涙を浮かべたまま清陽の胸に飛び込んだ。そして、この数年ずっと清陽を待っていたのだと言った。 だから清陽は、あのプロポーズの場を用意し、舞衣に思いを告げた。 けれどなぜか、婚約パーティーが目前に迫っているのに、清陽の心は少しも晴れなかった。それどころか、ふいに澄音のことが頭に浮かんだ。 あのバーで別れて以来、清陽は一度も澄音に会っていなかった。宝生家を出たあと、清陽は2000万円を澄音の口座へ振り込んだ。 この数日、澄音からは何の返信もなかった。受け取ったのかどうかも分からなかった。 11時、支度を終えた舞衣が控室にやって来て、清陽を急かした。 それでも清陽は立ち上がらず、ただ短く返事をした。 10分後、清陽がようやく立ち上がって部屋を出ようとしたとき、スマホが突然鳴った。 以前澄音が住んでいたあの邸宅の管理人からだった。 「社長、お部屋を片づけておりましたところ、琴川澄音さんのお名前が記された妊娠検査の報告書が見つかりました。この件はご存じでしょうか」 管理人の言葉に、清陽はその場で固まった。頭の中が真っ白になった。 ――澄音が妊娠していた? ――子どもは誰の子だ? ただでさえ落ち着かなかった清陽の胸は、さらに激しく乱れた。清陽は慌ててスマホを開き、澄音へメッセージを送って問いただそうとした。 だがその前に、澄音のインスタに上がっている投稿が目に入った。 指輪をはめた手元の写真だった。添えられた言葉は、短い一文だけだった。 「結婚します」 清陽の心臓は、胸を突き破りそうなほど激しく跳ねた。震える手で澄音の番号を探し出し、電話をかけた。 呼び出し音は長く続いた。ようやくつながったとき、清陽の声まで震えていた。 「澄音!お前、誰の子を妊娠しているんだ?インスタの投稿はどういう意味だ?今どこにいる!」 立て続けの3つの問いは、清陽がどれほど焦っているかを示すには、それだけで足りた。けれど澄音は答えなかった。声は、波ひとつ立たない水面のように静かだった。 「氷室さん、お金はもう返しました。結婚するので、これからは連絡しないでください」 その一言で、清陽の胸は何かに塞がれたように苦しくなった。言い返そうとした瞬間、電話の向こうから聞こえた声に、清陽は魂を抜かれたように凍りついた。 「琴川さん、ご予約の中絶手術をまもなく開始します。手術台へ横になって、準備をしてください」