月は雲に隠れ、愛は傷になる

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月は雲に隠れ、愛は傷になる

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交通事故に遭った後、星山茉知(ほしやま まち)はふとした悪戯心から、目の前にいる恋人に記憶を失ったふりをして尋ねてみた。 「……あなた...

Chương (1)

第1章

交通事故に遭った後、星山茉知(ほしやま まち)はふとした悪戯心から、目の前にいる恋人に記憶を失ったふりをして尋ねてみた。 「……あなたは、誰?」 望月将吾(もちづき しょうご)はしばらく黙り込んだ。長い沈黙の末、ようやく口を開く。 「……お前の兄さんだよ」 その一言は、胸の奥底に冷たい小石を落とされたかのように響いた。茉知の顔から、笑みがすうっと消えていく。 まだその言葉の意味を咀嚼しきれずにいると、ドアがノックされた。 「望月さん、南雲さんが生理痛でかなりつらそうで……ずっとお名前を呼ばれているのですが、様子を見に行かれますか」 将吾は一瞬の迷いもなく立ち上がる。 「先に行く。茉知、ゆっくり休んでろ。後でまた来るから」 それだけを言い残し、彼は去っていった。 遠ざかる背中をただ見つめながら、茉知の胸は激しく揺さぶられ、気づけば問いかけていた。 「南雲さんって、誰……っ?」 少しの間を置いてから、将吾の声が返ってくる。 「俺の好きな人だ。お前の、未来の義姉になる人だよ」 第1話 交通事故に遭った後、星山茉知(ほしやま まち)はふとした悪戯心から、目の前にいる恋人に記憶を失ったふりをして尋ねてみた。 「……あなたは、誰?」 望月将吾(もちづき しょうご)はしばらく黙り込んだ。長い沈黙の末、ようやく口を開く。 「……お前の兄さんだよ」 その一言は、胸の奥底に冷たい小石を落とされたかのように響いた。茉知の顔から、笑みがすうっと消えていく。 まだその言葉の意味を咀嚼しきれずにいると、ドアがノックされた。 「望月さん、南雲さんが生理痛でかなりつらそうで……ずっとお名前を呼ばれているのですが、様子を見に行かれますか」 将吾は一瞬の迷いもなく立ち上がる。 「先に行く。茉知、ゆっくり休んでろ。後でまた来るから」 それだけを言い残し、彼は去っていった。 遠ざかる背中をただ見つめながら、茉知の胸は激しく揺さぶられ、気づけば問いかけていた。 「南雲さんって、誰……っ?」 少しの間を置いてから、将吾の声が返ってくる。 「俺の好きな人だ。お前の、未来の義姉になる人だよ」 そう言い残し、将吾は足早に立ち去った。 茉知はその場に立ち尽くし、目を見開いたまま動けずにいた。 今しがた自分の耳で聞いた言葉が、どうしても信じられない。 ふらふらと後を追うと、南雲歌穂(なぐも かほ)が将吾にすがりつき、まるで雨に打たれた花のように泣き崩れている光景が目に飛び込んできた。 「茉知が記憶をなくしたって聞いたわ。それで、自分が兄だなんて嘘をついたのね?本当は彼女と結婚したくないんでしょう?あなたの心にいるのは、ずっと私なんでしょう?」 将吾はその手を引きはがした。表情こそ変えないものの、愛憎の入り混じった感情に、目の縁をうっすら赤くしている。 「南雲歌穂。俺の人生で一番辛い時期に、何のためらいもなく俺を捨て、俺の宿敵のところへ寝返った女が――何を根拠に、俺がまだお前を愛していると思う」 氷のように冷たい声で突き放されても、歌穂はさらに激しく泣きじゃくった。 「だって、あの時は仕方なかったのよ。パパとママが、あなたはもう廃人だからって言い張って、結婚を許してくれなかったの。両親に死ぬと脅されさえしなければ、あなたを捨てたりしなかった。茉知に付け入る隙を与えたりもしなかったわ。 分かってるわ。あなたが茉知に感じているのは、ただの感謝よね?最近、彼女と仲のいいところを見せつけていたのも、私を刺激するためだったんでしょう? ねえ、彼女が記憶をなくした今なら、もう一度だけ私にチャンスをくれない?あの子、今は記憶をなくしているんだから、もう一度やり直しましょうよ。 記憶が戻るまで、恋人のふりだけでもいい。そうじゃなきゃ私、納得できないわ――あなたは昔、あんなに私を愛してくれていたのに」 将吾の首筋にうっすらと青筋が浮かんだ。手を上げ、すがりつく歌穂を押しのけようとした。 だが彼女は諦めなかった。つま先立ちになって彼の首に腕を回し、その唇に自分の唇を重ねたのだ。その声には、もう後には引かないという覚悟がにじんでいた。 「将吾。あなたが私を愛していないわけないわ。もう一度押しのけるなら、私、あなたのことを完全に諦める。別の男のところに行くわよ」 将吾は石になったかのように、ぴたりと動きを止めた。 歌穂がさらに深く唇を重ねてくる。そしてその瞬間、彼もついにすべてを投げ捨て、抑えきれない想いのまま、彼女の体を強く抱きしめ返した。 2人が唇を絡ませ、離れがたそうに抱き合う光景を目の当たりにして、茉知の顔からさあっと血の気が引いた。 強く握りしめた両手の爪が、深々と掌に食い込む。歯を食いしばり、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。 それでも胸の奥を鋭利な刃で深くえぐられたようで――心が千切れ、血を流しているかのように、息をするのすら困難なほどに痛かった。 鼻の奥がツンと痛み、苦い涙が、胸をよぎる記憶とともにどっと押し寄せてくる。 茉知が初めて将吾に出会ったのは、16歳の時だった。その一瞬で、恋に落ちたのだ。 彼は学校一の人気者であり、学年トップの成績を誇る、名門・望月家の御曹司だった。そして彼には、幼い頃から親に決められた許嫁がいた――南雲グループの令嬢、歌穂だった。 だからこそ茉知の淡い想いは、声に出す間もなく、静かに萎んでいくほかなかった。 それからの長い日々、彼女はひっそりと自分の気持ちを心の奥底に閉じ込め、眩しいほどに輝くあの少年を、ただ遠くから見つめることしかできなかった。 転機が訪れたのは、茉知が20歳になった年だった。将吾はある事故で両足の自由を失い、一族から見捨てられた。 そして最愛の歌穂は、彼が最も打ちのめされていたその時期に婚約を破棄し、彼と長年犬猿の仲だった男のもとへと去っていったのだ。 誰もが彼から離れていくなか、茉知だけは揺るぐことなく、彼の側に残る道を選んだ。 そのために、両親が決めた縁談を固辞した。両親に激しく殴られて頭から血を流し、片耳の聴力を永遠に失うことになっても、彼のもとへ通うことを決してやめなかった。 廃墟同然の古い屋敷へ移り住み、根気強く丁寧に彼の身の回りの世話を焼いた。心血を注いで各地の名医を探し歩き、共に長く苦しい治療の旅を続けた。深い闇に沈みゆく彼の心に、ただ静かに寄り添い続けた。 彼の人生で最も過酷だった6年間を、ともに生き抜いた。そうしてついに、彼にとって唯一無二の存在となったのだ。 やがて将吾の両足は完治し、彼は再びその足で立ち上がった。望月家の実権を取り戻し、華やかな世界の中心へと堂々と返り咲いたのだ。 将吾は茉知を溺愛した。美しい宝石を贈り、豪奢なドレスを買い与え、忙しい合間を縫ってデートの時間を割き、折に触れてサプライズを仕掛け、夜には甘く肌を重ねた。 これが愛なのだと、茉知は心の底から信じていた。 でも――今、この目ではっきりと見てしまった。 将吾は、一瞬たりとも歌穂を忘れてなどいなかったのだと。 10年間ずっと心の支えにしてきた想い。どれほど絶望しようと、どれほど苦しかろうと、決して消えることのなかったあの愛が今、音を立てて脆くも崩れ去っていく。 涙がぽろぽろとこぼれ落ち、衿元を濡らす。冷たい灰のようになってしまった心までも、一緒に濡らしていく。 全身から気力が抜け落ちていくようだった。うな垂れた視線の先で、スマホが震えている。 電話に出ると、将吾の祖父・望月時夫(もちづき ときお)の嗄れた声が聞こえてきた。 「星山さん、あの時、将吾が受けた恩は、わしも望月家の者もよう分かっておる。君が多くのものを犠牲にしてくれたこともな。 だが、将吾の今の立場を考えれば――片耳の不自由な女性を嫁に迎えるわけにはいかん。欲しいものがあるなら言いなさい。金でも住まいでも、用意できるものは用意しよう」 この半年間、何度となく聞かされてきた言葉だった。これまでは気にも留めず、静かに聞き流してきた。 けれど今この瞬間、部屋の中で深く愛し合うように口づけを交わしている光景を見つめながら、茉知は震える手で左耳の補聴器にそっと触れる。彼女の口から紡がれた声には、ただ深い絶望だけが満ちていた。 「……わかりました。400億円、用意してください。将吾のそばを離れます」 第2話 まさかこれほどあっさりと承諾するとは思っていなかったのだろう。時夫はしばらく呆気に取られていたが、やがて我に返ったように興奮気味に声を上げた。 「わかった、400億で手を打とう。すぐに契約書を用意させる」 茉知は短い了解の言葉を口にし、通話を切った。 乱れた気持ちを整えて顔を上げると、固く手を繋ぎ合って部屋から出てきた二人の姿が目に入った。茉知は掠れた声で、兄さん、義姉さん、と呼びかける。 その呼び方を聞いた瞬間、将吾は明らかな動揺を見せ、しばらくの間、茉知から目を離すことができなかった。 茉知の表情に疑念がないことを確かめると、彼はぎこちなく小さく頷く。それはどうやら、黙認という意味らしい。 歌穂は恥じらうように小さく「ええ」と返事をしてから、探るような口調で尋ねてきた。 「茉知、本当に何も覚えていないの?」 茉知は静かに首を振る。 「覚えてない。でも不思議ね――どうして私は『星山』なのに、兄さんは『望月』なの?」 そう言いながら、まっすぐに将吾の目を見つめ、その答えを待った。 彼の返答は、予想を裏切るものではなかった。 「お前は……母方の事情で、星山の姓を名乗ることになったんだ」 その一言に、茉知の瞳がじわりと熱を帯び、赤く滲む。 今にも堪えきれずに涙がこぼれ落ちそうになった、その瞬間。折よく看護師がやってきて、検査の時間だと急かした。 茉知はその声に縋るように必死に涙をこらえ、くるりと背を向けると、逃げるように検査室へと早足で向かった。 歌穂がすかさず歩み寄り、いかにも心配そうな顔を作って茉知の手を取る。 「一人じゃ不便でしょう。お兄さんと一緒に付き添うわね」 茉知にはすべてわかっていた。記憶喪失が本当かどうかをまだ疑っており、監視の目を離せないだけなのだと。 だからこそ、検査室に入ってからも、医師に何を問われようと「何もわかりません」と答え続けた。 医師もすっかり騙されたようで、診断書に【健忘症】と書き記し、数種類の薬を処方してくれた。薬をきちんと服用すれば、1か月ほどで記憶が戻るだろうとのことだった。 その言葉を聞き、茉知は思わず顔を上げる。不意に将吾の表情が視界に入った――何とも形容しがたい複雑な感情が、その顔に色濃く滲んでいた。 ふと目が合うと、彼は気まずそうにすっと視線をそらし、立ち上がった。 「薬を受け取ってくる」 その背中を見送った後、歌穂が茉知の病室まで送ると言って隣に並んで歩き出した。そして道すがら、わざとらしく昔の自慢話を始める。 「どうせ昔のことは覚えていないんでしょうから、私と彼の馴れ初め、聞かせてあげるわ。私たちね、まだ小さな頃から婚約していたの。 彼の夢はずっと、私と結婚することだったのよ。無愛想で近寄りがたそうに見えるでしょう。でも私の前だと、途端に可愛くなっちゃうんだから。 昔ね、おままごとをして遊んでいた時、別の男の子が私の花婿役をやることになって、そうしたら彼、嫉妬して目を真っ赤にして怒ってね――あの手この手でその子を邸宅街から追い出したのよ、私に近づくなって。 それにね、高校の時は、真夜中に私が栗まんじゅうを食べたいってSNSに書いたら、真冬なのに学校の塀を乗り越えて買いに走ってくれて。3本も通りを駆け回った挙げ句、最後は学年主任に見つかって捕まっちゃって。あんなに真面目な優等生だったのにってみんな唖然としていたわ。 私が18歳の誕生日を迎えた時には、ダイヤのネックレスと、ガラスの靴と、プリンセスドレス、それにお城まで贈ってくれて――あの時は周りの女の子たちから羨ましがられたものよ。 ああ、そうそう。彼、私の写真を撮るのが大好きでね。彼のスマホには、私を撮った写真が1万枚くらい入っているんじゃないかしら。会えない時間は、その写真を見て過ごすんだって言っていたわ。 一度スマホをなくした時は、もう半狂乱になって、2000万円も謝礼を出すって騒いでたくらいよ」 茉知はただ黙って聞いていた。そして、彼のスマホのアプリが、片っ端から厳重にロックされていた理由がようやくすべて合点がいったのだ。 これほどまでにたくさんの秘密が隠されていたのだと。 胸の中に、冷たい鉛のようなものがずっしりと詰まっていく感覚があった。息苦しいほどに重く、そして果てしなく暗い。 どろりとしたその感情を、時間をかけてゆっくりと飲み込んでから、茉知はふと心に浮かんだ疑問を口にした。 「それで、なんで結婚しなかったの?」 その言葉が唇からこぼれ落ちた瞬間、ちょうど病室の前で将吾と鉢合わせた。 いつもは感情の読めない彼の顔に、かすかな波紋が広がる。その瞳の奥には、どす黒い暗雲が立ち込めていた。 歌穂は顔を赤くしたかと思えば青ざめ、目まぐるしく表情を変え、何と答えればいいかわからず狼狽しているようだった。 三人の間に、息の詰まるような気まずい沈黙が降りる。 耐えきれず茉知がその場を離れようとした、まさにその時。歌穂の体がふらりと傾き、糸が切れたように崩れ落ちた。 「歌穂ッ!」 将吾の顔から血の気が失せた。飛びつくように彼女を抱き上げると、血相を変えて救急室へと駆けていく。 診察の結果、彼女は血液の凝固障害がある体質で、生理中に服薬を怠ったことが原因で失血性ショックを起こしたのだという。一刻も早い輸血が必要な状態だった。 だが不運なことに、その日は市内で大規模な多重事故が起きており、血液はすべてそちらの救急患者へと回されていた。病院の血液バンクは完全に底をついているという。 今すぐに輸血ができなければ、歌穂は出血多量で取り返しのつかない状態に陥る。最悪の場合、命に関わりかねない。 その宣告を聞いた瞬間、将吾はもはや平静を保てなくなった。 茉知の腕をきつく掴み、縋りつくように懇願する。 「茉知、お前と歌穂は血液型が同じはずだ。頼む、あいつを助けてやってくれ」 茉知は、必死な形相の将吾をただじっと見つめ返した。2日前に自分が事故に遭い生死の境をさまよった時、彼がこんな顔を見せたことなど一度もなかったのに、と冷え切った頭の片隅で思いながら。 ゆっくりと視線を落とし、自らの手に巻かれた痛々しい包帯を見る。そして、一切の感情が抜け落ちた声で言った。 「忘れたの?私、手術してからまだ3日も経っていないんだけど」 それでも将吾は引き下がらなかった。 「命がかかっているんだ。少しくらい血を抜いたって大丈夫だから……」 その無慈悲な言葉を聞いた瞬間、茉知の喉の奥がきゅっと締め付けられた。肺に空気がうまく入ってこない。 看護師にさらに急かされ、将吾は半ば強引に茉知の背中を押し、採血室へと連れていった。 「茉知、お願いだ。今回だけでいい。歌穂を助けてくれ。俺は彼女を失えないんだ!」 茉知の胸に、またしても鋭い痛みが走る。 「そんなに、彼女のことが好きなの?」 茉知の問いかけは微かに震えていた。しかし将吾の答えは、微塵も揺らぐことはなかった。 「ああ。俺のこれまでの人生で、こんなに誰かを好きになったことはない」 茉知は、全身を雷に打たれたかのように硬直し、身動き一つ取れなくなった。 将吾は、それほどまでに深く歌穂を愛していたのだ。 では――今まで側にいた自分は、彼にとって一体何だったのだろうか。 看護師が冷たい採血バッグを手にしてやってくる。鋭く細い針が、茉知の血管へとゆっくり差し込まれた。 なぜだろうか、針が刺さる痛みなど、ほとんど感じなかった。 だって本当に痛いのは、胸の奥底だとわかっていたから。まるで心そのものが引き裂かれるみたいに、ずっと、ずっと痛んで血を流し続けていたから。 じわじわと顔色から生気が失われ、蒼白になっていく。涙と虚脱感で視界が滲み、急速に意識が遠のいていく。 朦朧とする意識の中で、遠くから看護師の声が聞こえた。 「患者さんが目を覚ましました」 将吾がこちらを一度も振り返ることなく、弾かれたように駆けていった。その無情な背中を虚ろな目で追ったまま、茉知はもう立っていることすらできなかった。 ――そのまま、冷たい床へと力なく崩れ落ちた。 第3話 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。気がつくと、傍らには時夫が腰を下ろしていた。 ひとしきり体調を気遣う言葉を並べた後、彼はカバンから1枚の書類を取り出し、茉知の手に握らせた。 「400億円と、きっちり明記してある。サインをもらえれば、すぐに半分を口座へ振り込もう。残りの半分は、君がこの国を発つ日に送金する手筈になっている」 茉知は契約書に最初から最後まで目を通したが、異議は何もなかった。ただ静かにペンを走らせ、自らの名前を書き記す。 「パスポートとビザが取れ次第、出て行きます。もう二度と戻りません」 時夫は満足げに深く頷き、立ち上がろうとしたその瞬間、将吾と鉢合わせた。 「じいさん。どうしてここに……?」 不意を突かれた時夫は動揺し、手にしていた契約書を取り落とした。ばさっと、紙が床に落ちる音が響く。 将吾は眉をひそめ、身を屈めてそれを拾い上げると、中を見ようとした。茉知はすかさず声をかける。 「少し、頭がくらくらして。お医者さんを呼んできてもらえる?」 将吾の手がぴたりと止まった。茉知と時夫の間で鋭い視線を行き来させた後、拾った契約書を無言で時夫に返し、医者を呼ぶために踵を返した。 彼が戻ってきた時には、すでに時夫の姿はどこにもなかった。 将吾はコップに水を注ぎながら、いつものような平坦な調子で尋ねてきた。 「じいさん、またお前を追い出そうとしに来たのか。まさか、承諾なんかしてないよな」 茉知は伏せていた睫毛をわずかに震わせた。その声には、うっすらと冷ややかな色が滲んでいる。 「離れるって、何の話?兄さん、私には何のことかわからないのだけど」 将吾はそこでハッと今の状況を思い出したのか、かすかに顔色を変え、慌てたように話題を逸らした。 「……いや、何でもない。体の具合はどうだ。何か辛いことがあったら遠慮なく言ってくれ。心配だからな」 心配。 意識を失う直前に見た無情な光景が鮮明に蘇り、茉知は声も立てずにそっと自嘲の笑みをこぼした。 このくだらない茶番にこれ以上付き合う気力は、もう残っていなかった。ひどく疲れ果てた声で言う。 「私は大丈夫。彼女さんのそばにいてあげて。しばらく一人でゆっくり休みたいから」 憔悴しきった茉知の顔を見て、将吾の胸にちくりと罪悪感がよぎったようだった。 これ以上邪魔をするのも気が引けたのか、付き添いのヘルパーを呼び入れると、そのまま静かに病室を後にした。 それ以来、退院の日まで彼が顔を出すことはなかった。 代わりに歌穂が、毎日せっせとSNSを更新し続けた。 レストランで、器いっぱいに盛られたむき海老。窓の外を鮮やかに彩る大きな花火。助手席ではしゃぎながら撮った自撮り写真――どの写真の端にも、ごく自然な距離感で将吾の横顔が映り込んでいた。 茉知はただただ画面をスクロールし続け、そのひとつひとつに「いいね」を押していった。 退院の日。一人で家に帰ると、将吾がキッチンに立っている姿が見えた。歌穂はドアのところに寄りかかり、料理本を片手にしている。 「今日はね、車海老の天ぷらと、地鶏の塩焼きと、鯛の煮付けが食べたいわ。あと、搾りたてのマンゴージュースもね」 茉知の気配に気づいた歌穂が振り返り、花が咲くようににこりと笑いかけた。 「あら茉知、帰ってきたの?何か食べたいものはあるかしら?」 「いいえ。お腹は空いていないから」 歌穂は引き留めるようにして、どうしても選ばせようと食い下がってくる。 「遠慮しないで。お兄さん、料理がすっごく得意なのよ。昔、私がバイオリン留学で海外にいた時、ずっと一緒について来てくれてね。 私がお腹を空かせないようにって、独学で料理を全部マスターしてくれたの。だから何でも作れるのよ。しかも、私のためだけに料理するって言っているんだから、茉知は絶対に食べたことないはずよ」 自慢げな声を聞き流しつつ、手際よく魚をさばいていく将吾の背中を眺めていると、茉知はふと昔の記憶を思い出した。 将吾の弱った体のために、自分がどんなに忙しくて疲労困憊していても、1日3食きっちりと栄養のあるものを食べさせようと必死だったあの頃。 その一方で、自分自身は目が回るほど働き詰め、安いカップラーメン1つで1日をしのぐことなど日常茶飯事だった。 こんなにも長い年月を共にしてきて、将吾が料理を作れるのだという事実を、茉知は今日初めて知った。 彼女は一瞬ぼんやりとした。 そういえば、あの頃、低血糖で倒れた自分に対して、彼がしてくれたことといえば、せいぜいカバンに飴を常備しておくことくらいだった。 今さらになって、茉知は骨の髄まで思い知らされた――愛しているかどうかの差というのは、こんなにも残酷なまでに目に見えるものなのだと。 またしても、目の奥が熱く潤んでくる。 私って、本当にどうしようもないほど滑稽ね。 やがて食事の支度が整い、料理がテーブルに並べられた。 2人は楽しげに言葉を交わしながら箸を進める。 一方、茉知はうつむいたまま黙々と食事を口に運び、ひと言も発することはなかった。 これ見よがしに仲のよさを見せつけるように、ほら一口飲んでみて、と甘えるように言いながら、歌穂が自分の飲みかけのマンゴージュースのグラスを将吾の口元へと運んだ。茉知はちらりとそれに目をやり、気づけばぽつりと呟いていた。 「彼、マンゴーアレルギーだよ」 その一言で、部屋の空気が水を打ったように静まり返った。 歌穂の顔に一瞬だけ戸惑いが走り、すぐに取り繕うような笑みを浮かべる。 「えっ、マンゴーだったかしら。私てっきりレモンだと思っていたわ。ごめんね将吾、私の勘違い。次は絶対に覚えておくから」 しょんぼりと肩を落とす歌穂を見て、将吾は優しげに目元を和らげた。そして自らそのマンゴージュースのグラスを手に取ると、躊躇いなく一口飲んでみせる。 「勘違いじゃない。レモンのほうにアレルギーがある」 歌穂の顔から、さあっと翳りが消え去った。 「やっぱり。私の記憶は正しかったのね」 嬉しそうに微笑み合う二人を見つめながら、茉知は薄く唇を開いた。何かを言おうとして――結局は何も言えず、固く口をつぐんだ。 食事が終わり、歌穂がトイレへ立った隙に、将吾は素早い動作で棚を漁り始めた。片っ端から引っ掻き回しても、肝心のアレルギー薬が見つからないらしい。 彼の肌はすでにじりじりと刺すように痒み、赤く腫れ上がり始め、息苦しさも出ているようだった。 茉知は遠くから、その様子をただ静かに見つめていた。それからゆっくりと2階へ上がり、薬を取ってきて無言で彼の手に渡す。 将吾は慌てて薬を飲み下し、次第に呼吸を落ち着かせていった。ふと、先ほど茉知が咄嗟に口にした言葉を思い出し、彼の胸の中にひやりとした冷たいものが走った。 「茉知。俺がマンゴーアレルギーだって、なんで知っていたんだ。もしかして……何か思い出したのか」 第4話 茉知の顔には、何の感情の波紋も浮かんでいなかった。ただ涼やかな声で言う。 「別に。前に家のお手伝いさんから聞いたのよ。それより、兄さんって本当に歌穂のことが大事なのね。わざわざアレルギーのジュースまで飲んであげるなんて」 茉知の顔色がひどく落ち着いているのを見て、将吾の疑念はすっと薄れていったようだった。静かな声で答える。 「最も愛している人なんだ。手のひらで包み込むように大切に守ってやりたいと思うのは、当然のことだろう」 茉知の胸に、またしても細く鋭い棘が突き刺さった。冷めた笑みを浮かべてみせ、何も言わずに階段を上っていく。 深夜。ひどい喉の渇きで目が覚めた茉知は、水を取るために寝室のドアを開けた。階下に薄明かりが点いている。 歌穂が一人でリビングに立ち、2本の薬瓶を手に持ち、中の錠剤を床にぶちまけているところだった。 距離が遠いうえ、茉知は少し近視気味だったため、何が起きたのかまでは分からなかった。 部屋を出て確かめるべきか迷っていると、将吾の冷ややかな声が聞こえてきた。「何をしている」 歌穂はびくりと肩を震わせ、振り返ると同時に持っていた瓶を背中へ隠した。しどろもどろになりながら弁明する。 「な、なんでもないわ。夕飯が少し胃にもたれたから、胃薬でも飲もうかと思って」 将吾が静かに歩み寄り、彼女が隠し持っているものを確かめた。その眉がわずかに寄る。 「茉知の薬を、何に使うつもりだ」 その言葉に、茉知も一瞬はっと息を呑んだ。 私の薬?記憶を回復させるための、あの薬のことだろうか。 将吾が病院で受け取ってきたあの薬は、副作用が心配で1錠も飲まずにいたのだ。退院して帰ってきてから、ずっとテーブルの上に置きっぱなしにしていた。 歌穂が、それを一体何のために。 考えを巡らせている間に、歌穂はすでに泣きじゃくりながら白状していた。 「……っ、記憶が戻るのを、少しだけ遅らせたかったの……薬をこっそりすり替えようとしただけよ……」 将吾の目が鋭く細められ、顔に冷酷な色が滲んだ。 「正気か。医者が処方した薬を勝手に替えて、あいつの体に何かあったらどうするつもりだ」 「ビタミン剤とすり替えるだけだもの、何も起きないわ。私、あなたのそばに、もう少しだけ長くいたかっただけ。今のこの関係を続けたいのよ……あなたも、そうでしょう?」 将吾は答えなかった。ただ、薄い唇を一文字に固く引き結んでいた。 歌穂には、その沈黙が了承のサインと同じものに映ったのだろう。もう何の迷いもないとばかりに、テーブルの上の記憶回復薬をすべてゴミ箱に捨て、瓶にビタミン剤を詰め替えていく。 その間、将吾は身じろぎ一つせず、言葉をひと言も発しなかった。 薬瓶を元の場所に戻し終えると、歌穂は深く安堵の息を吐き、くすくすと笑いながら彼の広い胸に飛び込んだ。甘えきった声で言う。 「ねえ将吾。この薬が全部なくなる頃には、きっと自分の気持ちがはっきりわかるはずよ。その時、それでもまだ茉知と一緒にいたいって言うなら、私は潔く身を引くわ。 でも私のほうを選ぶなら……茉知のことは、一生妹としてそばに置くことを許してあげてもいいわ。どうかしら」 茉知は暗い階段の上から、リビングで繰り広げられる光景をじっと見下ろしていた。全身の血管に氷水が広がっていくような錯覚を覚える。 将吾が何と答えるかなど、正直なところ、もうどうでもよかった。 ただ、あれほどまでに歌穂を骨の髄まで深く愛し、底なしに甘やかしている彼が、こんな些細な2択にすら迷っているのが不思議でならなかった。 すでに自分が「身を引いてあげる」とまで譲歩しているというのに、何をそんなに躊躇う必要があるのだろうか。 そんなことを考えていると、将吾がようやく重い口を開いた。 「俺は、茉知に借りが多すぎる。お前を愛している。だが、あいつを捨てることは俺にはできない」 長い年月を共に生き抜いてきたのは、ただの義理だったのか。恩返しという義務感、ずっとそれだけのものだったのか。 茉知は自嘲するように口の端を引き上げた。ひどく苦い笑みだった。 彼からの甘い言葉を期待して胸を膨らませていた歌穂は、目を真っ赤に血走らせた。力任せに将吾を突き飛ばし、泣き喚きながら飛び出していった。 つい先ほどまで無表情を貫いていた将吾の顔に、明らかな後悔の色が滲んだ。重い息を吐き出してから、弾かれたように立ち上がり、彼女の後を追っていった。 2人の姿が消えるのを見届けてから、茉知は静かにドアを閉めた。 胸のあたりが、じくじくと焼け付くように重い。重い足取りで窓際へと歩いて行き、外の冷たい空気を吸い込もうと窓を押し開けた。 その瞬間、路肩で顔を覆い、泣き崩れている歌穂の姿が目に入った。 我を忘れて泣きじゃくっているせいで、前方から制御を失って迫ってくる車の存在に全く気づいていない。 強烈なヘッドライトが体を照らし出して初めて顔を上げたが、もう避ける猶予など残されていなかった。 それを遠くから見下ろしていた茉知は、ふっと息が止まった。 人と車の距離は、もう目と鼻の先だった。思わず目を背けたくなるのに、瞳は恐ろしい光景を焼き付けようとするかのように勝手に見開かれていく。 心臓の音が、耳の奥で狂ったように鳴り響く。硬い金属が柔らかい肉体を撥ね飛ばす嫌な音が、今にも鼓膜を破りそうで―― 衝突の瞬間を覚悟し、息を詰めたまさにその時。 暗がりから、ひとつの黒い影が飛び出した。道路の真ん中に立ち尽くす歌穂を、力いっぱいの勢いで突き飛ばす。 歌穂は弾き飛ばされるようにして、道路脇の植え込みの中へ倒れ込んだ。 その身代わりとなるように、飛び出した黒い影は車に真正面からはねられ、数十メートル先へとボロ布のように吹き飛んでいった。 深夜の冷たい静寂の中。重いものが地面に叩きつけられる鈍い音と、女のつんざくような絶叫が、暗い夜空に響き渡った。 「将吾ォ……っ!」 第5話 頭の中で、何かがけたたましく弾けたような気がした。全身を巡る血が、一瞬にして凍りつく。 茉知は頭の中が真っ白になったまま、無我夢中でドアを押し開け、表通りへと飛び出した。 耳の中で冷たい風がごうごうと鳴り響く。激しく息を乱しながら、震えの止まらない指でスマホを操作し、119番に通報した。 電話を切り、門を飛び出すと、血溜まりの中に仰向けに倒れている将吾の姿が目に入った。 体のあちこちから赤黒い血が止めどなく滲み出ている。全身が細かく痙攣し、激しい痛みに苛まれているようだった。 茉知は膝の力が抜け、アスファルトに崩れ落ちるように座り込んだ。手にしていた救急箱を乱暴に開け、必死に止血を試みる。 これまでの人生で感じたことのないほどの、強烈な恐怖と焦燥感が全身を包み込んでいた。血に染まっていく両手は、どうしても震えが止まらない。 傷口を強く押さえていると、将吾がひどく重たげに、ゆっくりと瞼を持ち上げた。血の気を失った唇が、かすかに動いている。 片耳の不自由な茉知には、その微弱な声は聞き取れなかった。唇の形から、必死に言葉を読み取るしかない。 ――歌穂は大丈夫か。あいつは血が苦手だ。俺のこんな無惨な姿を見せるな。 その言葉を一字一句なぞって読み取った瞬間、茉知の意識は、ゆっくりと現実へと引き戻された。 将吾の虚ろな瞳をじっと見つめ返しながら、茉知は見えない巨大なハンマーで殴りつけられたかのような衝撃を受けた。 不思議と、胸の痛みはなかった。ただ、耳の奥で狂ったように太鼓が鳴り響いているだけだ。 救急車のサイレンの音が、遠くから次第に近づいてくる。 数分後、将吾が救急隊員の手によって担架で運ばれていった。すっかり足の震えが止まらなくなり座り込んでいた歌穂は、駆けつけた南雲家の者たちに抱き抱えられるようにして連れていかれた。 茉知は、手術室の前に、12時間ものあいだ立ち尽くし続けた。 やがて、疲れ切った顔の医師が出てくる。 「命を取り留める処置は成功しました。ただ、患者さんは以前に両足を負傷された経緯があるため、しばらくは絶対安静が必要です。 回復後も、走ったり跳んだりといった走ったり跳んだりする激しい運動は避けてください。無理をすれば、今度こそ永続的な障害が残る可能性があります」 茉知はゆっくりと、長い息を吐き出した。体の中に残っていた最後の気力が、するりと足元へ抜け落ちていく。そのままへなへなと床に座り込んだ。 膝を抱え、しばらくの間ただ呆然としていた。それからようやく重い腰を上げ、将吾の眠る病室へと足を踏み入れた。 将吾はまだ深い眠りの中にいた。だが悪夢にうなされているようで、何かをうわ言のように叫んでいる。 顔を近づけて、ようやくその言葉が聞き取れた。 「歌穂、行かないでくれ。俺の嫁になるって、約束したじゃないか。 歌穂、俺は必ず治してみせる。また自分の足で立って、お前のそばへ帰るから。俺は、お前なしじゃ生きていけないんだ。 歌穂……たとえそばに別の女がいたとしても。俺はそれでもやっぱり、お前が愛しい……」 夢の中の将吾は、絶望の淵にいたあの頃――足が不自由になった20歳の頃へと戻っていた。 あの頃の彼が紡ぐ切実な言葉のひとつひとつが、鋭く細い無数の針となって茉知の胸に深く突き刺さり、じわじわと毒のように滲んでいく。 どれほど苦しく凄惨な日々の中でも、彼の心の真ん中にあったのは、たったひとつの願い。 ――歌穂と、もう一度やり直すこと。 血を吐くような6年間のリハビリを支え続けた原動力も、再び立ち上がろうと死に物狂いで足掻いた理由も、結局はただ、愛しいあの人を取り戻すためだけのものだったのだ。 もし、暗闇の中で彼の人生を照らし続けた唯一の光が、初めから終わりまで、ずっと歌穂だったのだとしたら。 自分がすべてを投げ打って捧げた6年間の青春と、二度と音を拾うことのなくなったこの左耳は――いったい、何のための犠牲だったのだろう。 茉知には、もう何もわからなかった。 疲れ果てて赤く濁った視線が、ぼんやりと病室をさまよった末に、将吾のスマホへと落ちた。 彼の許可を得ずにその画面に触れるのは、出会ってから初めてのことだった。 そして初めて、歌穂の誕生日を暗証番号として入力してみる。すると、厳重にロックされたプライベートアルバムが、いとも容易く開いた。 開いた瞬間、数え切れないほどの無数の写真が溢れ出してきた。 一番新しいものは、つい最近の歌穂のSNSから保存された、あのはしゃぐような自撮り写真だった。 そこから下へスクロールしていくと、6年前――事故の前に撮られた写真が延々と続いている。 盗み撮りしたような無防備な居眠り姿や、遠くから見つめるような後ろ姿。2人がキスしている写真から、さらに幼い頃に並んで撮ったあどけない記念写真まで。 数万枚にも及ぶ写真の波が、10数年という途方もない歳月を横断していた。 そのすべてが、彼が胸の奥底に秘め続けてきた愛の記録だった。 一目見ただけで、茉知の目の奥がじんと熱く焼けた。 アルバムを閉じ、鍵のかかっていない通常の写真フォルダを開く。そこには茉知の写真もあった。けれど、それはどれも彼のスマホで、茉知が自分から撮ったツーショットばかりだった。 まばらに残っているだけで、数えるほどしかなく、まるで消し忘れられた写真のようだった。 茉知は掌に爪が食い込むほど拳を握り締めながら、メモアプリを開いた。 そこには、歌穂に関するありとあらゆる情報が、数千件にもわたり書き留められていた。どんなに細かなことでも、何ひとつとして漏らさずに。 読み進めるうちに、茉知は自分が底なしの暗い虚無に包み込まれていくような恐ろしい感覚に陥った。 思えば、この数年で将吾が少なくとも4度はスマホを替えていた。 彼の口では、とうに風にさらわれて消えたはずの昔の出来事。それが一つも欠けることなく、機種を替えるたびに、彼のスマホの中へ受け継がれていた。 そこまで手間をかけて残し、大切にしまっていたのは、折に触れて見返し、思い出に浸るため以外に―― いったい何のためだというのだろう。 第6話 将吾が意識を取り戻したのは、3日後のことだった。彼が目を覚まして最初に口にした名前は、やはり歌穂だった。 「歌穂は?怪我はなかったか」 その声を聞いた瞬間、歌穂は涙に濡れた顔で彼の胸に飛び込んだ。 「なんであんな無茶をするの!あんな大怪我をして、お医者さんも、もう少しでまた歩けなくなるところだったって言ってたわ」 将吾は何も答えなかった。ただ、冷ややかな目で静かに一つだけ尋ねる。 「もしも俺がまた車椅子生活になったら、お前はまたあの時みたいに、俺を捨てていくか」 わざと気にしていないような素振りを装っていたが、彼女を見つめる目には、ごくわずかな緊張と縋るような期待が滲んでいた。 歌穂はいっそう激しく泣き崩れ、嗚咽で声を詰まらせる。 「……っ。私、あなたから離れようなんて一度も考えたことないわ。昔も今も……もう一度やり直せるなら、絶対に捨てたりしない……」 いつも冷ややかな将吾の表情が、微かに崩れた。口の端がかすかに持ち上がる。 長年焦がれ続けた宝物が、ようやく自分の手の中に戻ってきた――そんな、心底満ち足りた表情だった。 今度は将吾のほうからそっと顔を寄せ、歌穂の唇を塞いだ。柔らかく、互いを愛おしむように。 病室の窓越しに、茉知はその光景をじっと見つめていた。 そっと自分の胸に手を当ててみる。 痛くはなかった。ただ、鼓動が少しばかり速く打っているだけだ。 もうすぐ抜け出せる気がした。 将吾のいるこの世界から。そして、10年間自分を縛り続けてきた、この愚かな恋から。 家に戻ると、茉知はスーツケースを引っ張り出して荷造りを始めた。 将吾が入院しているこの数日間、彼女は見舞いには一度も行かなかった。その代わり、彼に関係するものをすべて整理していたのだ。 この6年間に2人で撮った写真、彼からもらった贈り物、手編みのスカーフ…… 荷物を詰めたスーツケースをいくつか1階に運び、残りの不要なものをゴミ箱へ捨てようとした矢先、退院して戻ってきた将吾に呼び止められた。 「何を捨てようとしているんだ」 茉知が答えようと口を開きかけた時、歌穂が大量の荷物を持たせた大勢の使用人を引き連れ、入ってきた。 将吾は茉知の目に浮かんだ疑問を読み取ったのか、少しばつが悪そうに説明した。 「まだしばらくは安静にしていなきゃならなくてな。歌穂が心配だからって、泊まりに来たんだ。気にしないでくれ」 「彼女はあなたのお付き合いしている人で、将来の奥さんになる人なんだから、一緒に住むのは当然でしょう。私はただの妹なんだし、気にするわけないじゃない」 茉知はさらりと言い捨てて、自室へと戻った。 午前中、茉知がきれいに片づけて空けておいたスペースは、あっという間に歌穂の荷物で埋め尽くされていった。 どこを見渡しても、茉知が出ていく準備をしている痕跡など、微塵も残っていなかった。 …… 2日後。歌穂の誕生日に、将吾は盛大なパーティーを開いた。彼の顔を立てるために、界隈の名士や顔なじみが大勢集まり、会場は華やかに沸き返っていた。 茉知は会場の隅のほうに座り、周囲から漏れ聞こえてくるひそひそ声に耳を傾けていた。 「何年も離れていたのに彼女の誕生日を覚えていて、お花からケーキまで全部好みに合わせて用意するなんて、望月社長も一途よね。ずっと覚えていたのね」 「これだけ長い間好きだったんだもの、そう簡単に忘れられるわけないでしょう?私から見れば、すぐによりを戻すと思うわ。だって十数年分の想いよ。6年なんかで敵うはずがないじゃない?」 「片耳が聞こえない身で、少しは自分の立場をわきまえたらどうかしらね。恩義があるから別れを切り出せないだけなのに、いつまでも居座って本気で望月夫人になれるとでも思っているのかしら。身の程を知るべきよね」 こういう悪意に満ちた陰口は、もう何年も前から聞かされ続けてきた。茉知は反論することもなく、静かに右耳の耳栓をはめた。 黙って受け流す茉知の態度を見て、周囲の女たちはさらに遠慮がなくなっていく。言葉はどんどん鋭利な刃になっていった。 「実家を飛び出した落ちこぼれのくせに。望月社長がいなければどこで野垂れ死んでいたかもわからないのに、手放せるわけないわよね」 「6年間ひたすら尽くして、やっとその恩で立場を得たと思ったら、本命が戻ってきて完全敗北だなんて。惨めすぎるわ」 「厚顔無恥な人は無敵だよねー。ほら見て、耳栓して聞こえないふりしているわ。耳が聞こえないのも、都合のいい時だけは役に立つのね。自分を騙すくらいはできるんだから。ねえ?」 第7話 ちょうどその時、歌穂をエスコートして入場してきた将吾は、その陰口を耳にしてすっと笑顔を曇らせた。 咄嗟に彼女たちを問い詰めようと足を踏み出しかけたが、歌穂にさっと腕を掴まれる。 「茉知のことが心配なのはわかるわ。でも今日は私の誕生日だし、みんな私のお友達だから、みっともない騒ぎにはしたくないの。私に任せてもらえる?もうあんなこと、何も言わせないようにするから」 懇願するような上目遣いに、将吾は心を和らげて小さく頷いた。 それから茉知のもとへ歩み寄り、何かを言おうと口を開く。茉知は髪の中に隠していた左耳の補聴器を外し、わざときょとんとした顔を作ってみせた。 「さっき、何か言ってた?左耳は、騒がしい場所だと補聴器をつけていても聞き取りにくくて……そうだ、兄さん。私の耳って、どうして悪くなったんだっけ」 茉知の掌に載る補聴器を見た瞬間、将吾の胸が大きく揺れた。かつての記憶が、次々と脳裏に蘇ってくる。 両親の決めた婚約を破棄し、血まみれになってまで、わざわざケーキとプレゼントを買ってきて、20歳の誕生日を一緒に祝ってくれたこと。 夜通し医学文献を読み漁り、世界中の専門医に連絡を取り、看護やマッサージを独学で覚えて、傷んだ自分の足を毎日揉み続けてくれたこと。 何度転んでも、もう無理だと諦めかけるたびに、彼女が何度も手を差し伸べて起こしてくれたこと。額の汗を拭いてくれながら、目を真っ赤にして「絶対に良くなるから」と言い続けてくれたこと。 記憶に浸りながら目の前の茉知を見つめていると、将吾の胸に言葉にできない複雑な感情がじわりと広がっていった。 ちょうどその時、女たちを宥め終えた歌穂がドレスの裾を持ち上げながら小走りで戻ってきて、将吾の腕に絡みついた。甘えるような声を出した。 「みんなに注意してきたわ、もうあんなこと言わないって。将吾、私の顔を立てて大目に見てあげてね。茉知にも謝っておくわ。ごめんなさいね」 将吾の表情がゆっくりと和らいでいくのを見て、茉知はふと昔のことを思い出した。 以前、別のパーティーで自分の耳のことを嫌味たらしく言われた時、将吾は烈火のごとく怒り狂い、会場のすべてを壊してでも茉知を庇ってくれた。 でも、今の将吾には歌穂がいる。もう自分に向けられる悪意には、目もくれないのだ。 茉知は小さく自嘲するように笑い、そっと立ち上がってトイレへ向かおうとした。 歌穂が意図的だったのかどうかはわからない。彼女が、茉知のドレスの裾を踏んだのだ。茉知は体勢を立て直せず前につんのめり、巨大なシャンパンタワーへと突っ込んでしまった。 数百個のグラスがいっせいに崩れ落ちる。けたたましい音とともにガラスが砕け散り、鋭い破片が四方へ飛び散った。 将吾の咄嗟の判断は――すぐそばにいた歌穂を庇い、抱き寄せることだった。 残された茉知は硬い床に倒れ込み、無数の破片に全身を切り刻まれた。 痛みで生理的な涙がにじむ。体が裂けそうで、震えが止まらない。赤い血が床に広がり、揺らぐ人影を目で追いながら、茉知は絞り出すような声で助けを求めた。 将吾が弾かれたように振り返り、傷だらけになった茉知を見た瞬間、目を見開いて駆け寄ろうとした。 しかし彼が踏み出したその一歩で、今度は歌穂がふらりと倒れ込んだ。 将吾はすぐさま歌穂を抱き上げ、控え室へと連れていきながら、近くにいた秘書にひと言だけ言い残した。 「茉知を病院に連れて行ってやってくれ」 足早に遠ざかっていくその背中を虚ろな目で見つめながら、茉知の意識は少しずつ暗闇へと沈んでいった。 ――そのまま、深い闇の中へ落ちた。 …… 次に目を開けると、病室の窓の外には眩しい陽光が広がっていた。ひどく長い夢の中にいたような気がして、しばらくの間、茫然としていた。 乾いた喉を潤そうとコップに手を伸ばした瞬間、全身の傷が引き攣れ、思わず息を呑んだ。 痛みをこらえながら水を飲み干し、茉知は身動きもせずにぼんやりと白い天井を見つめ続けた。 そうしていると、枕元のスマホが鳴った。 「星山様。申請されていたパスポートとビザが通りました。ご都合のよい時にお受け取りにいらしてください」 茉知は短く了承の言葉を返した。 そのまま今日の夜の航空券を予約し、退院手続きを済ませると、タクシーで受け取り窓口へ向かった。 窓口で渡されたのは、2人分のパスポートとビザだった。 1か月前、2人で一緒に申請したものだった。結婚式の後、新婚旅行へ行くために使うはずだったものだ。 もう、その必要はなくなった。 茉知は一人で旅立つ。自分だけの、新しい未来へ向かって。 将吾は――もう自由にしてあげよう。 第8話 家に戻り、将吾に話をしようとしたが、リビングに彼の姿は見当たらなかった。代わりに、階段のところで歌穂と鉢合わせした。 茉知の手に握られた2人分のパスポートを見て、歌穂は不快そうに眉をひそめた。 「将吾のパスポートを持って、彼をどこへ連れて行くつもり?こっちに渡しなさいよ!」 もともとパスポートを取り合うつもりなどなかった。しかし、その女主人を気取るような横柄な口調を聞き、昨日わざとドレスの裾を踏まれたことを思い出す。 茉知は、記憶喪失を演じ続けることをやめた。はっきりとした声で言う。 「パスポートは1か月前に申請したものよ。受け取りに行って、返しに来ただけ」 歌穂は驚愕に目を見開き、声を震わせた。 「……記憶が戻ったの?」 「おかげさまで。昨日転んだ拍子に、全部思い出したわ」 茉知が言葉に乗っかって軽く嘘をつくと、歌穂の顔色がさっと青ざめた。 周囲をきょろきょろと見回し、誰かに聞かれていないか確かめる。誰もいないとわかると、今度は無理に落ち着きを装い、唇の端を歪めて冷笑した。 「思い出したからって、それが何?将吾はあなたのことをずっと騙していたのよ。彼の本音がまだわからないの?おとなしく身を引きなさいよ。あなたが私から彼を奪えるはずがないし、永遠に勝てないわ」 過剰に敵意を剥き出しにするその様子を見ても、茉知の表情は微塵も揺らがなかった。 「安心して。自分の荷物を持って出ていくだけよ。あなたと争うつもりなんてないわ」 歌穂は、茉知が「彼女」としての権利を主張しているのだと思い込み、ギリッと歯を食いしばった。 「将吾はあなたにプロポーズしただけ。あなたは彼のものじゃないわ。私がいる限り、彼は絶対にあなたとは結婚しない。聾のくせに、高望みしないでちょうだい!」 他の誰かに言われたなら、何も感じなかったかもしれない。でも、歌穂の口からその言葉を聞くと、茉知の瞳がすうっと氷のように冷たくなった。 「確かに私は片耳が聞こえないし、障害があるわ。でも、人を傷つけようとしたことは一度もない。 あなたは?都合が悪くなれば彼を捨てて、立ち直ったら媚を売りに戻ってきて、彼の婚約者を聾呼ばわりして―― そういうのを何て言うか知ってる?恩知らず?節操なし?それとも、計算高い卑怯者?」 「捨てたから何よ。将吾は私を許してくれたわ。あなたに私を責める資格なんてない。私が100回彼を捨てたって、彼は100回私を許すのよ。あなたはただの都合のいい世話係。彼があなたを愛することなんて、永遠にないわ!」 完全に我を失ってヒステリックに叫ぶ歌穂を見て、茉知はこれ以上彼女に時間を使う気になれなかった。 踵を返して書斎へ向かおうとした時――逆上した歌穂の手に背中を突かれ、階段から突き落とされた。慣れたような浮遊感が襲ってくる。 咄嗟に頭を庇い、額への直撃だけは免れた。しかし全身の生傷が一斉に裂け、鮮血が滲んで服を赤く染め上げていく。 全身から冷や汗が吹き出し、顔が青白くなる。そこへ、急ぎ足の気配が近づいてきた。 将吾が駆け寄り、茉知の体を支えながら傍らの救急箱を手に取った。その声には、明らかな心配の色がにじんでいた。 「……また転んだのか」 茉知が口を開こうとすると、小走りでやってきた歌穂が先に割り込んだ。 「茉知が足をくじいて転げ落ちちゃったの。私が助けるのに間に合わなくて……ごめんなさい将吾、私のせいよ」 いかにも申し訳なさそうに潤んだ瞳を見て、将吾は安心させるように首を振った。 「お前のせいじゃないさ。茉知、お前はもう2回も転んでいるし、いっそこの階段を壊してエレベーターにでもしようか」 歌穂を微塵も疑う様子のない将吾の声を聞いて、茉知は喉元まで出かかった真実の言葉を、静かに飲み込んだ。 ひとつ深呼吸をして、将吾のパスポートを差し出し、すべてを打ち明けようとした。しかし、またしても歌穂が話を遮る。 「じゃあ、あなたは茉知の手当をしてあげて。今日のパーティーには、私一人で行くわ」 そう言いながら、いかにも自分が可哀想な被害者であるかのような顔を作り、名残惜しそうに何度も振り返りながら玄関を出ていく。 将吾はほんの少しだけその場で固まっていたが、すぐに手に持っていた手当のための綿棒を置き、彼女の後を追って駆け出していった。 茉知には、これが彼との永遠の別れになるかもしれないとわかっていた。 引き留めたところで無駄だとわかっていた。それでも、彼の名前を呼んだ。胸の中に溜まり続けていたものを、今ここで全部話してしまいたかった。 「将吾、5分だけ時間をもらえる?話したいことが……」 「自分で手当しておいてくれ。何か用があるなら、帰ってきてから聞くから」 予想通り、将吾は一度も振り返らなかった。 茉知に話し終わる隙さえ与えてくれなかった。そして、彼は最後まで気づいていなかった――今日の茉知が、彼のことをただの一度も「兄さん」と呼ばなかったことに。 茉知は打ち明けることを、完全に諦めた。 彼の車が門を出ていくのを窓から見届けてから、下を向いて黙々と傷の手当をした。 それから寝室に戻り、自分の荷物をすべて1階へ下ろした。テーブルの上に将吾のパスポートとビザをきれいに並べて置き、1枚のポストカードを取り出す。そこに、2つの短い文を書き記した。 【将吾。私は記憶なんて失っていなかった。この1か月、あなたが私を騙していたように、私もあなたを騙していた。これでおあいこね。 今日から、私たちはもう何の関係もない。あなたは、自分が本当に好きな人を追いかければいい。これからはそれぞれの道を行きましょう。もう二度と会うことはない】 最後の一文字を書き終え、茉知は立ち上がって、屋敷の中を静かに見渡した。 かつて自分の居場所だと思っていたこの家に、もう自分の痕跡はどこにも残っていなかった。 トランクを引きながら、時夫へメッセージを送る。 ほどなくして、約束の400億円が全額口座に振り込まれた。 入金を確認し、茉知は一切の迷いなく屋敷を出た。通りでタクシーを拾う。 今度こそ、すべてに別れを告げるのだ。新しい人生が、ここから始まる。