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10年愛した彼に捨てられ、幽霊になった私
白川明里(しらかわ あかり)が意識を取り戻したとき、真っ先に目に飛び込んできたのは二人の男女だった。 男は、10年間愛し合ってきたにもかか...
Chương (1)
第1章
白川明里(しらかわ あかり)が意識を取り戻したとき、真っ先に目に飛び込んできたのは二人の男女だった。
男は、10年間愛し合ってきたにもかかわらず、たった1日前に突然別れを告げてきた桐生悠真(きりゅう ゆうま)。
そして女の方は、悠真の心を奪った相手であり、今は悠真の恋人となったーー篠原若菜(しのはら わかな)だった。
二人は寄り添いながら、何かを手に小声で話し合っている。だが、明里の存在に気づく様子はまるでない。
明里はそっと視線を落とした。そこにあったのは、透けていて実体のない自分の手。その瞬間、ようやく思い出す――自分は、もう死んでいるのだ。
第1話
白川明里(しらかわ あかり)が意識を取り戻したとき、真っ先に目に飛び込んできたのは二人の男女だった。
男は、10年間愛し合ってきたにもかかわらず、たった1日前に突然別れを告げてきた桐生悠真(きりゅう ゆうま)。
そして女の方は、悠真の心を奪った相手であり、今は悠真の恋人となったーー篠原若菜(しのはら わかな)だった。
二人は寄り添いながら、何かを手に小声で話し合っている。だが、明里の存在に気づく様子はまるでない。
明里はそっと視線を落とした。そこにあったのは、透けていて実体のない自分の手。その瞬間、ようやく思い出す――自分は、もう死んでいるのだ。
ふわりとその場を離れようとした明里だったが、悠真から3メートルほど離れたところで、不意に見えない力に引き戻されてしまった。どうやら彼のそばから離れることはできないらしい。仕方なく二人のもとへ戻った明里の耳には、嫌でも彼らの会話が聞こえてきた。
若菜がカレンダーを手に、ある日付を指差して甘えた声を出す。「悠真、今月の7日は大安だから、結婚式、この日にしない?悠真が盛大な式を用意してくれようとしてるのはわかってる。でも私、そんなことより早く悠真のお嫁さんになりたいの」
若菜を見つめていた悠真が、優しく微笑んだ。「お前の好きにするといいよ」
明里は愕然とした。まさか、結婚式の日取りを決めていたとは。
悠真……結婚するんだ。
おかしいな。自分が10年待ち続けても叶わなかったのに、悠真は出会って3ヶ月の女とは、こんなにもあっさり決められるなんて。
別れたのはつい昨日のことなのに、自分たちが愛し合っていた思い出は、ひどく遠い記憶のように感じられる。
明里と悠真は幼馴染で、幼い頃から共に育ってきた。
悠真が明里に告白したのは、18歳の時。告白を受け入れてくれた明里に、悠真は耳を真っ赤に染めながらキスをし、「一生、お前を大切にする」と、誓った。
二人が最も愛し合っていた頃、悠真は明里を腕に抱き寄せながら、友人たちに向かってこんなことまで言っていた。
「俺は一生、明里だけだって決めてる。もし最後に俺が結婚する相手が明里じゃなかったら、その結婚式には絶対来るなよ。いや、来ないどころか、俺を半殺しにしてくれたっていい」
そんな二人だったからこそ、今年は籍を入れる予定でいた。
だがしかし、若菜が現れた。
かつての悠真は、明里に余計な心配をさせないよう、秘書課のスタッフは全員男性で揃えていた。けれど、いつからだっただろう。秘書課の中に、若く愛らしい一人の女性が加わっていた。
明里が気にすると思ったのか、悠真は自らこう説明した。
「取引先の娘なんだ。立場的に雑な扱いはできないけど、会社の機密に関わる部署にも置けない。だから秘書として俺のそばに置いてるだけだよ」そして彼は、何度も言った。「俺が愛してるのは明里だけだ。俺の心は、最初から最後まで明里のものだから」
人の心というのは、なんて移ろいやすいものなのだろう。
若菜が現れた最初の月、悠真の車から明里が好きなレモン味の飴が無くなり、彼女が今まで絶対に選ばなかった苺味に変わった。
2ヶ月目、映画デートや散歩、それだけでなく寝るときに手をつなぐことすらなくなり、悠真はいつもスマホを見つめてばかりいるようになった。
3ヶ月目、悠真の携帯のアルバムには、明里の知らない写真が増え、彼は顔を綻ばせながらそれを見ていた。
そして、明里が海外出張から帰ってくるという日でも、悠真は迎えに来なかった。
一人で家に帰った明里。家具に薄く積もった埃は、彼女が出張に行っている間、悠真がいなかったことの何よりの証明。
その後、再び家に帰ってきた悠真は、何の前触れもなく別れを切り出した。
「明里、覚えてるか?前にお前が、言ってたよな。もし俺がいつかもっと心を惹かれる相手に出会ったら、隠したりせず正直に話してほしいって。そうなったら、自分から身を引くし、絶対に縋ったりしないって。
……ごめん。この数か月で、俺は出会ってしまったんだ」
悠真は本当に正直だった。明里の胸は無理やり引き裂かれたように痛んだというのに、あまりにも正直すぎる告白に、彼女は何一つ言葉を返せなかった。
どれほど深く愛しているように見えても、男の心が離れるのは一瞬らしい。
「悠真、本当に全部くれるの?」
若菜の声が明里の思考を引き戻した。何のことだかいまいち分からなかった明里だが、すぐに聞こえてきた悠真の声が、その疑問を晴らす。
「ああ。結婚したら、俺が持っている株は全部お前に譲るよ。だって、家のお金を管理するのは、奥さんの役目だろ?」
明里はこの言葉に聞き覚えがあった。なぜなら、以前悠真が明里にも同じことを言っていたから。
それは、明里が22歳だったあの頃。
悠真の会社が軌道に乗り始め、ようやくまとまったお金を手にした時、彼がまず初めにしたのは、通帳とキャッシュカードを明里に渡すことだった。
会社を始めたばかりの悠真が、今まさに資金の必要な時期だとわかっていたから、最初、明里は受け取ろうとしなかった。だが、悠真は引き下がらずに、こう言ったのだ。
「いずれ俺たちは結婚するんだ。それに、家のお金を管理するのは、奥さんの役目だろ?ただ渡すのが、少し早くなっただけだよ」
しかし、いつの間にか、通帳とキャッシュカードは悠真の管理下へ戻っていた。今思えば、それは若菜が現れてからのことのような気がする。きっとあの頃にはもう、悠真の中で自分と別れることは決まっていたのだろう。
悠真の言葉を聞いた若菜が、嬉しそうに抱き着いた。「嬉しい!ねえ、悠真。そのお金で野良猫の保護活動をしてもいいかな?」
悠真は感動したように目を細めると、若菜の頭を優しく撫でた。悠真の声から、若菜への愛しさが溢れ出す。「もちろんだよ。こんな優しいお前と結婚できるなんて、俺はなんて幸せ者なんだろうな」
二人のそばを離れられないまま漂っていた明里は、頬を染めてはにかむ若菜を見つめながら、死ぬ間際の凄惨な光景を思い出していた。そして、もう見ていられなくなり、そっと目を閉じる。
優しい?
悠真が「優しい」と愛を向けるその女こそが、自分が別れを受け入れたあと、自分を拉致するように人を雇った張本人なのに?それも、明里という存在を、悠真の前から完全に消し去るという目的で……
若菜の指示を受けた男たちは、明里をベッドに拘束した。そして明里は、逃げることも助けを求めることもできないまま、悪夢のような時間を過ごした。
何人目だったのか、何度繰り返されたのか……気がつけば、明里の涙はとっくに枯れ果てていた。
それでも、明里は最後の気力を振り絞り、必死に逃げようとした。だが、あっという間に捕まり、再び引き戻されそうになった瞬間、バランスを崩した彼女は、そのまま頭を床に強く打ちつけたのだった。あふれ出した血が、床を赤く染めていき……
再び目を開けると、自分はもう死んで、幽霊になっていた。そして今、悠真と若菜の背後で、二人の結婚の相談を聞かされている。
明里がふと視線を落とすと、カレンダー上で丸をつけられた日付が目に入った。
なんという偶然だ。
二人の結婚を祝福しようとしているその日が……自分の初七日なんて。
第2話
結婚式の日取りが決まると、悠真は若菜に唇を重ねた。
二人は激しく絡み合い、服が床に散乱する。だが、最後の瞬間、悠真は若菜が寒くないようにと、そっと抱きかかえて寝室へと連れて行った。
すぐに、寝室からは甘い吐息が聞こえてきた。
だが、明里はかえって胸を撫で下ろしていた。彼らが寝室に行ってくれたことで、直接見ずに済んだから。
翌朝、悠真はスマホの着信音で目を覚ました。
彼は電話に出ると、腕の中でまだ寝ぼけている若菜をそっと抱き寄せてから、口を開いた。
「もしもし?」
「桐生悠真様でお間違いはないでしょうか?」
「はい」悠真が答えると、電話の相手はそのまま用件を話し始めた。「実はですね、悠真様が明里様と一緒にお預けになったタイムカプセルが10年経ちましたので、本日はお電話させていただきました。もうすでに、ご自宅の方へ発送いたしましたので、お受け取りくださいね」
電話が切れる。
そしてその電話一本で、悠真と若菜の眠気は完全に吹き飛んだ。
その時、ちょうどインターホンが鳴り、すぐに家政婦が寝室の外まで荷物を届けに来た。
若菜を気にして、中身を見るのを躊躇った悠真だったが、若菜が一緒に見ようと彼の手を引いた。
箱を手にリビングへと向かう二人に、明里もふわりと付いていく。
タイムカプセル。
あまりに遠い記憶で、明里も自分たちが何を埋めたのかを覚えてはいなかった。
タイムカプセルを開けると、そこには二人の愛おしい思い出が詰まっていた。
二人で撮ったプリクラ、全く同じ入学通知書、お揃いのグッズ。
そして最後、底の方に入れられていたのは、悠真が明里に宛てた手紙だった。
18歳のあの頃といえば、悠真が最も明里を愛していた時だった。
そこに書き綴られていたのは、18歳の悠真が心に秘めていた想いばかり。
【28歳の俺へ。お前は今、愛する明里と結婚したのか?
今、俺は明里の家にあるガジュマルの木の下でこれを書いているよ。ここがあいつと初めて出会った場所だって、お前は覚えてる?あの日、白いワンピースを着ていた明里は、ポニーテールを揺らしながら、三日月みたいに目を細めて笑ってた。俺は一瞬で、心を奪われたよ。
10年ってすごく長いから、今のお前はきっと、もう明里を連れて世界中の美しい景色を見て回っているんだろうな。
それに、温かい家庭があって、家の壁には思い出の写真がいっぱい飾られているんだよな。初めての旅行の写真とか、誕生日のサプライズの写真とか。それに、飼っている猫がソファで寝ている写真なんかも……
お前は今、この手紙を明里と一緒に読んでいるんだろ?だから、伝えて欲しい。18歳の俺は世界中の何よりも明里を愛してる。そして28歳の俺も、絶対に裏切らないって】
手紙を読み終えた時、若菜は目を赤く潤ませていた。
そして、呆然と手紙を見つめている悠真の様子に、さらに胸を締め付けられた若菜は、思わず彼の胸に飛び込み、泣きじゃくった。
「悠真。私と一緒になったこと……もしかして後悔してる?」
「そんなわけないだろ?」悠真は慌てて手紙を放り投げ、若菜の涙を拭った。「あいつとはもう別れたし、お前とはもうすぐ結婚するんだ。俺の心に誰がいるのか、お前はまだ分かってないのか?ん?」
それでも若菜の不安は消えず、目からは涙が溢れてくる。「でも、明里さんと悠真はあんなに長い間付き合ってたんだよ?そんなすぐ忘れることなんて……」
悲しそうにしている若菜を見て、悠真の心は痛んだ。「もう明里のことは何とも思ってないよ。信じてくれるか?嘘じゃないよ、誓ってもいい」
そう言われ、ようやく泣き止んだ若菜だったが、それでもタイムカプセルを早く処分してほしいと悠真に頼む。
すると、悠真は若菜をなだめながら、近くにあったスマホを取り、明里へとメッセージを送った。
【昔埋めたタイムカプセルが届いたんだけど、要らないから取りに来て】
しかし、いくら経っても、明里からの返信はないし、彼女が現れることもなかった。
少し苛立ち始めた悠真は、眉間を揉みながら明里に電話をかける。だが、呼び出し音が響くだけで、やはり応答はない。
「もうかけなくていいよ。私は出られないんだから」
明里がそう静かに呟いても、誰の耳にも届かなかった。
メッセージを送っても返事はないし、電話をかけても出ない。悠真は、明里が別れ話のことでまだ意地を張っているだけだと思い、そのまま電話を切ると、机の上に置かれていた手紙とタイムカプセルを手に取った。そして何のためらいもなく、それらをゴミ箱へ放り込む。
無慈悲にも捨てられたタイムカプセルを見つめ、明里の心は激しく痛んだが、すぐに皮肉な笑みを浮かべた。
捨てられたっていい。もう悠真は自分との10年など、いらないようだから。
第3話
その夜、悠真は若菜を連れて、仕事上のパーティへ向かった。
悠真から離れられない明里も、もちろんその後ろをついていく。このパーティーには悠真だけでなく、彼の友人たちも参加していて、悠真と若菜が姿を見せると、悠真の友人たちは、お互い目配せをした。
そして、意図的なのか、それとも偶然なのかは分からないが、友人たちが次々と悠真の元へ集まってきて、若菜を悠真から遠ざけた。
表向きは悠真と世間話をしているだけのようだったが、その言葉の端々からは、若菜に対する嫌悪が見て取れる。
たとえば、彼女をいまだに秘書扱いして顎で使ったり、知り合いが酒を勧めに来れば、自分たちの代わりに酒を飲ませたりした。
また、最近耳にした噂話だと言って、既婚者の男を奪った秘書を徹底的に罵り、まるで若菜を「愛人」とでもいうように、馬鹿にしていた。
そして、若菜が涙目になってくると、悠真の顔色も曇り始め、我慢の限界になったのか、友人たちに対して、悠真が怒鳴った。「何してるんだよ!俺が若菜のことを好きになったんだから、文句があるなら俺に言え。若菜をいじめるな」
そう言われた友人たちは更に嫌悪感を露わにし、険しい表情を浮かべる。
そして、その中の一人が、苛立ちからシャンパンタワーを蹴り倒した。
「いい気なもんだな、悠真!
起業したばかりの、一番苦しかった時期をもう忘れちまったのか?明里さんが両親から遺された家を売って、その金でお前の資金を工面してくれたからこそ、今のお前があるんだろ?
本当、明里さんが不憫でならないよ。まさか、自分が積み上げてきたもの全部、最後には他の女のためになるなんて、思わなかっただろうからさ」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は頭を殴られたような衝撃を受けた。
起業したばかりで、一番資金繰りに困っていた頃、確かに明里が突然大金を自分にくれた。
でもまさか、それが親の遺産を売ってまで作ってくれた金だったとは……
心臓が締め付けられ、何とも言えない複雑な感情に襲われたが、隣で泣きそうな若菜を見ると、やはり、友人には冷たく言い返すことしかできなかった。
「明里には、また金を返しておくから。でも、これからは若菜に対して、そんな失礼な態度をとらないでくれよ」
そう言うと、悠真は若菜を連れてその場を離れた。
明里もそのまま悠真に引っ張られ、彼の後ろをついていくしかなかったが、先ほど怒鳴り散らしていた悠真の友人の様子が気になっていた。
その男の名前は竹内知哉(たけうち ともや)といい、悠真とは幼い頃から付き合いがあった。しかし、明里と悠真が一緒になった年、知哉は海外留学へと行ってしまった。
その後、帰国したことは聞いていたが、なぜか明里のいる集まりには、いつも顔を出さなかった知哉。
だから明里はずっと自分が嫌われていると思っていた。しかし、今の騒ぎで一番憤っていたのは、他ならぬ彼だった。
それからもパーティーが続き、終わる頃になると、若菜が眠たそうにしていたので、悠真は彼女を車に乗せた。そして、スマホを取り出す。
明里が覗き込むと、彼はまた自分へとメッセージを送っていた。
どうやら、先ほどの件についてのようで、自分にお金を返すつもりらしい。
もちろん、返信が来るわけがないし、悠真が電話をかけたって、繋がらないまま。
明里は、悠真が何か変だと気付くかと思ったが、当の悠真は電話がつながらないと分かると、心配することもなく、ただ不機嫌になっただけだった。
その瞬間、明里は悟った。悠真は、今でも自分が拗ねて距離を取っているだけだと思い込んでいるのだ、と。
携帯をポケットにしまった悠真が再び口を開くことはなく、そのまま若菜を連れて帰路に就いた。
明里は悠真の横顔を見ながら、昔のことを思い出していた。
両親を交通事故で一度に失ったあの年、悲しみに押し潰された明里は、一人になりたくて、誰にも居場所を告げずに姿を隠した。
すると悠真は、そんな明里が一人で抱え込んでしまえば、壊れてしまうとでも思ったのか、何度電話を切られても、諦めずにかけ続け、明里の居場所を探しだしたのだった。
後になって、明里は悠真に聞いたことがある。「どうしてあのとき、あんなに電話をかけてきたの?私、わざと出なかったのに」
すると彼は少し困ったように笑って、こう答えた。「明里がいつ電話に出てくれるかなんて、俺にはわからなかったから。でも、もし明里が出ようと思ったとき、すぐに電話が繋がるようにしておきたかったんだ。そうすれば、俺が一番に明里を見つけられるだろ?」
しかし、彼が別の人を愛してしまった今、その言葉は完全に過去のものとなってしまったようだ。
なぜなら、たった一度、電話が繋がらなかっただけで、かけるのをやめてしまうくらいなのだから。
第4話
数日後、悠真のスマホに、突然知哉から電話がかかってきた。
前回とは違い、知哉の声には焦りが滲んでいる。
「なあ、明里と連絡取れるか?俺たちが連絡しても、全然つながらなくてさ」
「俺も取れない。別れてからは、ずっと避けられてる」
悠真は眉をひそめたが、まだそこまで深刻には考えていなかったので、知哉が「一緒に探そう」と提案しても、すぐに断った。
そして、何気なく知哉に聞いた。「知哉、お前はあいつのこと避けてたのに、どうして急に、そんなに気にするようになったんだ?」
電話の向こう側で少しだけ沈黙が流れた後、知哉が鼻で笑った。「誰も彼もが、お前みたいに冷たいわけじゃないんだよ」
その言葉に悠真の表情がふっと険しくなったが、彼が何かを言い返すよりも早く、通話は切られてしまった。
気まずそうな悠真の姿に、明里は思わず笑ってしまったが、その後すぐに、少しだけ悲しくなった。
日頃それほど付き合いのなかった友人でさえ、自分と連絡がつかないことを不審がってくれるのに、10年もの月日を恋人として過ごした男は、一度として自分を心配するようなそぶりを見せない。
その時、明里はぐっと強い力に引っぱられた。どうやら、悠真が若菜を連れてジュエリーショップに向かうらしい。
悠真が運転する車の屋根に乗り、見慣れた景色が後ろに過ぎていく。若菜を車で拾った悠真は、ここ盛沢市で一番大きな商業施設に向かった。若菜の手を引き、店中で仲睦まじそうにする二人の姿を、明里は背後からぼんやりと見ていた。
いくつかの店を回り、ようやく若菜が気に入った品を見つけたので、悠真はカードで支払いを済ませる。その時に、なんとなく見た携帯の画面に、ニュース速報の通知が届いた。
近くの山で女性の遺体が見つかったというニュース。その遺体は顔も分からないほど損傷し、服も着ておらず、さらには生前には暴行を受けた痕跡があるという。
彼はそっと若菜の目を隠し、優しく言った。「お前は見ないほうがいいよ」
ニュースは未だに犯人が捕まっていないことと、被害者女性の遺留品写真を公開していた。
ニュースのコメント欄にはかなりのコメントがあり、かなりの話題になっていた。悠真も何気なく掲載された写真に目を通した。
すると、その中の一枚に写っていた、少し色あせたブレスレットに目が止まる。決して、高価なものではなく、どこにでもあるようなありふれたデザイン。だが、悠真はそのブレスレットが誰のものか知っていた。
なぜなら、彼自身が以前、明里に贈ったものだったから。
突然、出発前にかかってきた知哉からの電話が脳裏をかすめた。さらには、ずっと姿を見せない明里。悠真の胸の中に、少しだけ不安が生まれた。
若菜を送り届けた悠真は、初めて引き留める彼女を無視して、アクセルを踏んだ。明里のアパートにつくと、鍵は開いていて、中はまるで荒らされたかのように、めちゃくちゃな状態だった。
先ほどのニュースとこの部屋の様子から、悠真の不安は頂点に達した。すぐに部屋から飛び出し、一目散に警察署へと向かう。
確かめなければならない。
警察署の前に車を止め、悠真が車から降りようとした時、電話が鳴った。若菜からの着信だと気づいた瞬間、悠真の顔に焦りの色が浮かぶ。
通話ボタンを押した瞬間、若菜の泣き声が聞こえてきた。話を聞くと、どうやら何か食べ物を取ろうとした際に、机の角へと足をぶつけてしまったらしい。
「悠真、痛いの……」
その声を聞いた瞬間、悠真の頭の中から、明里という存在は消し去られた。悠真は迷わず踵を返し、車に乗って若菜の元へと急ぐ。
車の上から警察署を見つめる明里の胸には、形容しがたい苦い余韻だけが残った。
「ねえ悠真。あと少しで、私が死んだことが分かったのに」
第5話
あのニュースを見たばかりだったので、悠真は若菜を一人にしておくことが心配になり、急いで自分の家に連れてきた。
悠真の家に入った途端、明らかに悠真のものではないものが、若菜の目につき、彼女は不満そうに口を尖らせる。「なんでまだ元カノの荷物があるの……」
悠真は言われて初めて、明里の荷物をこれまで整理していなかったことに気付いた。
「忘れてたよ。怒らないで。後で取りに来させるから」
しかし、連絡を入れても、明里からの返事は一切返ってこない。
悠真の独り言には、苛立ちが混ざる。
「別れただけなのに、なんでこんなに怒ってるんだよ?まったく、一体いつになったら返信するつもりなんだ、あいつは!ここまで意地を張ってるなら、もう一生俺に連絡してくるなよ」
そんな悠真の様子を見た若菜は、一瞬目を輝かせたが、すぐに健気なふりをして問いかけた。「悠真、明里さんからの返信、まだこないの?じゃあ、明里さんのもの……どうしたらいい?」
「お前の好きにしていいよ」
悠真はそう言い放つと、もう関心を示さなかった。
悠真の許可を得た若菜はすぐさま部屋中を漁り始める。悠真と明里が二人で撮った写真を見つけた若菜は、明里の姿だけをハサミで切り取って、火の中に放り込んだ。その様子を、そばで見ていた明里。
暖炉の火の明かりが悠真と若菜の顔を照らす。満足げな若菜と、感情が全く読み取れない悠真。まるで燃やされているものが、自分とは一切関係ないものだとでもいうように。
明里は火の熱さも感じられず、思い出が消えゆくのを止めることもできなかった。
ただ呆然と、灰となっていくのを見つめるだけ。
この世界における、自分の痕跡が完全に消えていく様を……
日が経つにつれ、明里は思った。自分の魂は、ずっとこの男に縛られ続けたままなのだろうか。それとも、彼が自分の死に気づけば、自然と離れられるのだろうか。
悠真は一体いつになったら、気づくのだろう。明里は、却って興味を持った。
だが、当の本人である悠真が、そんなことを知るよしもなく、彼は呑気に甘えてくる若菜の相手をしている。
「悠真、恋人の橋っていう場所があるみたいなんだけど、一緒に行かない?そこで、誓いの南京錠をかけた恋人たちは、一生一緒にいられるんだって!」
「恋人の橋」や「誓いの南京錠」という言葉を聞いた悠真は、一瞬たじろいだが、結局悠真は若菜に押し切られる形で承諾した。
恋人の橋へ行くには、まず山を登らなければならないのだが、明里はふと思った。自分が幽霊になってよかったことがあるとすれば、悠真と若菜が歩いて山を登る中、自分だけは息を切らしたり疲れたりせずに済むことかも知れない。
明里は、登るにつれてすっかり二人だけの世界に入り込んでしまった悠真と若菜の様子には目を向けずに、こうして自然の景色を思う存分眺められるのも最後かもしれないなと考えた。そしてついに山頂へたどり着き、恋人の橋が見えてきた。
橋の手すりには誓いの南京錠が数多くかけられていて、悠真と若菜も、売店で誓いの南京錠を購入する。
南京錠をかけ終わった二人は、鍵を橋の下へと遠く投げ捨てた。
その直後、若菜は悠真に口付けをし、顔を真っ赤にした。「悠真、すごく嬉しい。私、悠真と一緒になれて幸せ」
悠真は愛情溢れんばかりの瞳で若菜を見つめ、今度は彼の方から、若菜へと唇を重ねる。しばらくの間、彼らの間に言葉はなく、ただ甘い空気が流れていたが、突如としてある言葉だけが、確かに明里の耳に届いた。
「俺もだ」
第6話
実は、明里と悠真もかつてここに来て、一緒に誓いの南京錠をかけたことがあった。
当時、悠真はまだ起業したばかりで余裕がなく、プレゼントを買って明里を喜ばせるということもできなかったので、恋人の橋の噂を聞きつけ、明里を連れてきてくれたのだった。
二人は誓いの南京錠を買い、一文字ずつ丁寧に二人の名前を書き込んだ。
あの時、悠真は明里を抱きしめ、真剣な眼差しで言った。「明里、一生大切にするからな」
しかし今、その男は別の女と全く同じ誓いの南京錠をかけている。
これまでの自分と悠真の時間は、一体何だったのだろうか?
答えはすぐに返ってきた。
若菜がベンチで休憩している隙に、悠真は水を買うと言い訳をして、再び恋人の橋の方へ向かった。
最初は彼が何をするか分からなかった明里だったが、彼が工具を持った作業員を呼び、かつて自分と一緒にかけた誓いの南京錠を探し当てたのを見てすべてを悟った。
作業員は誓いの南京錠をすんなりと外し、悠真に渡すとそのまま立ち去った。
次の瞬間、悠真が勢いよく腕を振り上げ、「悠真&明里」との文字が書かれた南京錠が、深い山の下へと消えていった!
それが完全に見えなくなるのを確認して、悠真はようやくほっと息をついた。
この瞬間、明里は全てを察した。彼がわざわざここに来たのは、若菜が以前、タイムカプセルを見つけた時みたいに、この誓いの南京錠を見て、傷つくことを恐れたからなのだろう。
この山は深い。悠真があれだけ遠くに投げたのだ。あの誓いの南京錠が二度と見つかることはないはずだ。
悠真はこれほどまでに若菜を愛していたらしい。それも、自分がいたほんの少しの過去すらも許せず、全てを跡形もなく消し去るほどに。
明里は、悠真がしてくれた「一生大切にする」というあの約束をまだ覚えていたのに、彼の心はとっくに他の女のものだった。
その約束もまた、捨てられた誓いの南京錠と共に、彼の過去の残骸となって谷底へ消えたのだ。
だが、明里は悲しむことはなく、なぜだか笑いが込み上げてきた。
ねえ、悠真。
これから先、守れない約束はしないほうがいいと思うよ。
自分は、なんと馬鹿だったのだろう。こんな男を信じて、一生を捧げてしまったなんて。
二人が山を下り、家についた頃には、もう真っ暗になっていた。山の風に吹かれ冷えたせいか、家に着くなり高熱を出した若菜。
すると悠真は一口の水も飲まず、すぐさま車で若菜を病院へと連れて行った。
若菜に点滴が打たれ、医者から解熱剤を飲めば大丈夫と言われて、悠真はようやく胸をなでおろす。
熱でうなされる若菜を落ち着かせながら、彼は優しく囁いた。「薬をもらってくるから、大人しく待ってて。すぐ戻ってくるから」
「早く戻ってきてね……」
心細そうに掠れた声でそう言う若菜を見つめ、悠真は頷き、何度か安心させるように背中をなでてからようやくその場を離れた。
まるで今生の別れのように離れた二人だった。薬をもらった悠真が若菜の病室に戻ろうと廊下を歩いていると、ある医師が悠真を呼び止めた。
薬を持つ悠真を見て、その医者は驚いた顔をした。「ご家族が熱を出されたんですか?」
悠真はこの医者を覚えていた。3年前、彼が事故に遭った時の担当医、近藤だった。
彼に呼び止められたことに対して、特に不快感は示さず、悠真はただ静かに頷いた。「ええ、婚約者が高熱を出してしまいまして」
それを聞いた近藤が笑みを浮かべる。「明里さんとご結婚なさるんですね!それはおめでとうございます。あの時から、とてもお似合いのお二人だなって思ってたんですよ」
「明里」という名前に、悠真の表情が少し険しくなり、少し間を置いた彼は、否定した。「彼女じゃないんです。彼女とはいろいろあって、別れてしまいました。だから、今の婚約者は別の人で……」
そう言われ、言葉に詰まったのは近藤の方だった。
戸惑いを隠せずに、近藤は口を開く。
「別れた?一体どうして……
3年前、あなたが交通事故に遭われたときのことを、僕は今でも覚えているんです。全身血まみれの状態で搬送されてきたあなたに、彼女は震えながら付き添っていました。
そして、あなたが大量出血により輸血を必要としているのに、病院の血液が不足していることを知ると、彼女は何も言わず採血室へ向かわれました。
通常、一度に採血できる安全な上限は400ccです。しかし、あなたに必要な血液量はそれをはるかに上回っていました。すると、彼女はご自身の体を顧みることなく、看護師に頼み込んでそれ以上もの採血を受けられたのです。
ご自身の血液の大半を、あなたのために差し出されたと言ってもいいでしょう。採血が終わった頃には、立っているのもやっとの状態でした。それでも休もうとはなさらず、ずっと手術室の前に跪いて、あなたの無事を祈り続けておられました。
だからこそ、僕はあなたのことを覚えてたんです。それに、彼女の一途な想いが天に届いたのかもしれません。あれほど重傷だったにもかかわらず、あなたは無事に手術を乗り越えられ、その後の回復も驚くほど早かったんですから。
彼女はそれほどまでにあなたを愛していました。ですから僕はてっきり、お二人はいずれ結婚されるものだと思っていたのですが……」
心から残念そうに話していた近藤だったが、もうすでに過去のことになってしまったのなら仕方がないとでもいうふうに、頭を下げてその場から去っていった。
第7話
悠真が薬を持って病室に戻ると、若菜はすでに眠っていた。
ベッドのそばに座っていた悠真の頭にあるのは、若菜ではなく……明里のことだった。
あの時、事故に遭った自分のために、明里がそれほどのことをしてくれていたなんて。悠真は考えた末、スマホを取り出し、明里とのトーク画面を開いた。
履歴を遡ると、自分のメッセージばかりが残っていて、別れてからというもの、明里からは一度も返事が来ていない。
複雑な気持ちを抱えながら、打ち込んでは消し、消しては打ち込み……そうしながら、ようやく送信ボタンを押した。
【近藤先生から聞いたんだけど、3年前の事故の時、お前は安全量以上の血液を俺にくれたのか?】
しかし、今まさにメッセージを送った相手が、すぐそばにいることを彼は知らない。そして、そのメッセージを見た明里が、思わずふっと鼻で笑ったことも。
本当だろうが何だろうが、そんなことはもうどうでもいいではないか。
彼がどれだけ埋め合わせをしようとも、もう自分には関係ない。なぜなら、自分はもうこの世にいないのだから。
返信がいつまでたっても来ないので、悠真は苛立ちを覚えてスマホをしまった。もう明里のことは考えないことにしよう。機嫌が直って返信が返ってきたら、少し金を送っておけばいい。
そう自分に言い聞かせた悠真は、気持ちを切り替えて若菜の世話に専念しようとした。
だが皮肉なもので、明里を人生から消し去ろうとすればするほど、生活の至るところに彼女の面影がつきまとうようになった。
行きつけのレストランへ若菜を連れて行くと、顔なじみの店員に尋ねられた。「今日は、明里さんと一緒じゃないんですか?」それに加え、以前、悠真の胃の調子が悪かった時、明里が厨房に入って熱心に胃に優しいスープを練習していた話まで聞かされる羽目になった。
仕事の打ち合わせに行けば、取引先も明里の話を持ち出す。まだ彼が会社を立ち上げる前、商談を成立させるために明里が取引先と無理をして酒を飲み、胃潰瘍で運ばれたという話は、当時の仲間内で知らない者がいないほど有名だったから。
明里がしてきたこと、その一つひとつがすべて悠真のためだった。それは誰もが知っている事実だったのに、当の本人である悠真だけが、最後まで気づかずにいたのだ。
悠真が家に戻ったその夜。彼は門をくぐるなり、無意識に庭へ目を向けた。そこにはかつて、明里が丁寧に植えたひまわりが咲いていたのに、今はもう一輪たりとも残っていなかった。
家の中へ入ると、白い照明が室内を明るく照らし出した。悠真はゆっくりと部屋を見渡す。かつて明里との写真が飾られていた場所には、いつの間にか若菜とのツーショットが掛けられていた。
さらに、明里が気に入ってよく座っていたハンギングチェアも姿を消し、その代わりに華やかなインテリアが置かれている。
明里と何年も共に暮らしたこの家には、もう……彼女がここで生きていた痕跡は、どこにもないらしい。
そんな複雑な思いを抱えながら、ソファにおとなしく座り、自分を待ってくれていた若菜を見つめた。すると、悠真が帰ってきたことに気づくや否や、若菜が甘い笑みを浮かべ、すっと駆け寄って抱きついてきた。
「おかえり!ずっと待ってたんだから」そのとき悠真は、ふと思った。明里がこれまで自分のために尽くしてくれたことは紛れもない事実だ。しかし、自分だってそれ相応の見返りは与えてきただろう、と。
それに、足りなければいつでも言ってくれと伝えてあるのに、意地を張って勝手に姿をくらましているのは、明里の方なのだ。
しかし、それでも何か分からない拭いきれない思いがあった。若菜を寝室へ送ったあと、悠真はそっと書斎へと向かう。
第8話
明里は、悠真がまだアルバムを持っていたことに驚いた。
しかし、全く理解できない。自分を捨て、あれだけ若菜に心を奪われていた悠真が、どうして今になって、若菜に隠れるようにしながら、二人のアルバムを開いているのだろうか。
今日の悠真は、何かが変だ。
自分自身の行動がすべて明里に見られていることなど露知らず、悠真はそのアルバムを眺めていた。そこには、明里と悠真が歩んできたこの数年の思い出がすべて詰まっている。
このアルバムの最初の1枚は、二人が18歳の時に撮ったものだと、悠真は未だに覚えていた。
新年のカウントダウンイベントのあの日、ドローンパフォーマンスが夜空を彩る中、悠真は明里を強く抱きしめ、そのまま唇を重ねたのだ。
そしてこう伝えた。「明里、大好きだよ。この人生で一番の幸せは、お前に出会えたことだ」
2枚目は、付き合って1年の記念日に撮ったものだった。
明里の顔にはクリームがついていて、とても可愛らしく、その手には悠真が不器用ながらも手作りしたケーキが乗っている。あの頃の二人が見つめ合う瞳には、愛しかなかった。
「明里、俺たちはずっと一緒だからな」
3枚目は、二人が付き合って3年の時撮ったものだった。
悠真は明里にプロポーズをした。あの頃、悠真にはまだお金がなく、飾り気のないシンプルな指輪しか買えなかったのだが、それでも明里は嫌な顔ひとつせず、その指輪を受け取ってくれた。
「明里、お前がこんなに素敵だから、誰かに奪われるんじゃないかって心配なんだ」そう言って、悠真は明里を抱きしめた。
4年目、会社が軌道に乗り始めたお祝いに、少し贅沢なレストランに行った。その時、悠真は「俺がお金を稼いだら、お前に盛大な結婚式を挙げてやるからな」と誓った。
……
そのアルバムには、二人が恋人として過ごした9年間の軌跡が詰まっていた。誕生日も、記念日も、クリスマスやお正月も……どんな特別な日も欠かさず写真に残し、気づけばアルバムは思い出でいっぱいだった。
悠真は記念日を大事にし、毎回違うサプライズを用意してくれ、それも9年間、一度たりとも重複することはなかったことを、明里は今でも覚えていた。
もし心残りがあるとすれば、それはどれも10年目のことだろう。
なぜなら、自分たちの10年目に、若菜が現れたからだ。
そしてこの10年目、悠真は自分にしてくれた誓いを破り、若菜を愛してしまった。
静かな悲しみが漂う。だがその静けさも、長くは続かなかった。悠真がそばにいないことに気づいた若菜が、ドアを開けて書斎に入ってきたのだ。
彼女は自然な様子で彼の膝に座り、両肩に腕を回す。「悠真、まだ寝ないの?」
彼女はそっと彼から離れると、いつの間にか自分の腰に回されていた彼の手を取るようにして身をひるがえした。
しかし、その瞬間、テーブルの上に置かれていたアルバムが、若菜の目に入った。若菜が何気なくページを開いた瞬間、その中に収められていた写真を目にし、彼女の表情がさっと変わる。
「悠真、なんでまだ明里さんとのものが残ってるの?」
若菜は嫉妬と怒りを押し殺しながら、同情を誘うような顔で言った。「もしかして、まだ明里さんを忘れられないの?そうだよね、10年も一緒にいたんだもん。そう簡単に割り切れるわけがないよね。じゃあ……なんで私に近づいてきたの?」
今にも泣き出しそうな若菜を見て、胸がひどく締め付けられた悠真は、彼女の涙を拭いながらその唇にキスを落とした。「何馬鹿なこと言ってるんだ、ん?俺が一番愛してるのは、お前だって知ってるだろ?」
それでも若菜は納得せず、アルバムを指差して言った。「そんなこと、私は信じない。じゃあなんでこのアルバムを取っておいたの?明里さんのこと、忘れられないからじゃないの?
もし……私がこのアルバムを捨てても怒らないっていうなら、悠真のこと、信じてあげてもいい」
明里は悠真を見つめた。決してそんなことはないと分かりつつも、どうか拒否してほしいと願った。だが彼に自分の心の声は聞こえないし、たとえ聞こえていたとしても、自分のために若菜を断るようなことはないだろう。
そして、明里が耳にしたのは、やはり躊躇いのない悠真の言葉だった。「ああ、お前の好きにすればいいよ」
第9話
悠真と若菜の結婚式の招待状は、とっくに発送が済んでいて、色々なところから祝福のメッセージと共に出欠の連絡が届いていたが、結婚式前日になっても、明里と知哉たち数名だけからは、一切の連絡がなかった。
しかし、悠真は気にも留めていなかった。どうせ参加するのだろうから、出欠の返事など重要ではない。
結婚式当日、若菜を迎えにいくために、悠真は車を走らせていた。
そして、若菜を車に乗せ結婚式場へ向かう。しかし、半分ほど走り、細い小道に入ったところで、反対側からきた霊柩車によって道を塞がれてしまった。
幸せな結婚式へ向かう車と、霊柩車。悠真の顔色が瞬時に険しくなる。
どちらも道を譲ろうとはしない。膠着状態の中、悠真の表情はさらに険しくなる。その時、何かに反応したように、悠真の背後に浮かぶ明里の意識が激しく揺れた。
それでも、悠真からは離れることができないため、霊柩車の方には近付けない。しかし、その瞬間、明里の頭の中で大きな音が鳴り響いた。
すると、若菜が涙目でつぶやく。「もう、なんでこんな大事な日に、霊柩車なんかと遭遇しちゃったんだろ……」
せっかくのめでたい日に、これ以上若菜を悲しませたくなかった悠真は腹をくくり、自分から車を降りて直接話をつけることにした。
しかし、霊柩車に乗っている人間は決して窓を開けようとはしない。いくら悠真が窓の外からノックしても、完全無視を決め込み、対話する意思など毛頭ない様子だ。
結局、悠真は何も解決できないまま憤慨して車に戻るしかなかった。その直後、少しだけ下りた後方の窓の隙間から、その車に座る人物の姿が見えた。
それは——
知哉だった。
あいつに不幸が?
それにしても、あいつはこっちが誰だか気づきながらも、降りてこなかったというのか?
最終的に、悠真の方が譲る形で霊柩車の列を通した。そんなトラブルもあり、会場への到着は遅れてしまった。
幸い結婚式自体は無事に終わったものの、披露宴が始まっても、友人たちが現れることはなかった。
若菜が悠真の腕を抱き、不満げに尋ねる。「ねえ、もしかして私、あなたの友達に嫌われてるのかな?ふさわしくないとか思われてるのかも」
重なる問題に、苛立ちを隠せなかった悠真だったが、ひとまず若菜をなだめ、全てが終わったら彼らの元へ行って問いただそう、と決めた。
披露宴も終わったので、知哉たちに電話しようと、悠真が携帯を取り出すと、ちょうど知哉からメッセージが届いた。開いてみると、ある場所の位置情報が送られてきている。
【ここへ来い。お前に話したいことがある】
そこは山の中だった。明里は瞬時にその場所の意味を理解した。なぜならそこは、犯人たちが自分の遺体を投げ捨てた場所だったから。
そして、今朝の出来事を思い出し、全てが繋がった。
あの霊柩車に乗せられていたのは、自分自身だったのだ。
ということは、悠真よりも先に、知哉たちの方が自分の訃報を受けていたのか?
だから結婚式に参加せず、悠真を山奥に呼び出しているのだろう。
しかし、悠真だけが何も気づいておらず、彼の頭の中は、あの友人たちをどう問い詰めてやろうかということでいっぱいだった。
長年の付き合いだというのに、誰一人結婚式に顔を出さないなんてどういうことだ!
悠真が送られてきた住所につくと、案の定、そこには友人たちの姿があり、先頭に立っていたのは、喪服姿の知哉だった。悠真は眉をひそめ、近づいて行ったが、急に知哉に殴られ、地面に叩きつけられた。
「知哉、何するんだよ!」
呆然とする悠真は他の友人に助けを求めるような目で見つめたが、彼ら全員も険しい顔で悠真に近寄ってきて、制止するどころか攻撃を加えた。
1発、2発、3発……
彼らは全員、悠真を殺さんばかりに殴り続けた。
多勢に無勢。次々と拳を浴びせられ、悠真の髪は乱れ、全身が痛みに軋む。それでも力ずくで彼らを押しのけると、怒鳴り声を上げた。「やめてくれ!全員、いい加減にしろよ!」
「俺たち、10年以上の付き合いだろ?それに、こっちはまだ、お前らがなんで俺の結婚式に来なかったのかすら聞いていないんだぞ。それなのに、いきなり何なんだよ!頭でもおかしくなったのか?」
その一言が火に油を注いだ。仲間たちは瞳を充血させ、怒りと悔しさに言葉を詰まらせた。
そして最も荒ぶる知哉が、悠真の胸ぐらを掴んで山奥へと引きずり込んでいく。
「忘れたのか!お前が言ったんだろう!もしお前が結婚する相手が明里じゃなかったら、その結婚式には絶対来るな。来ないどころか、俺を半殺しにしてくれたっていいって!
この山をよく見ろ!結婚式なんかに浮かれている間に、お前が10年も愛してると言っていた明里は、ここで3日間も野晒しにされてたんだぞ!それに、見つかった時は、服も引き裂かれていて、体は……もう原型を留めていなかったんだからな!
お前が死ぬべきだったのに、なんで明里が死んでるんだよ!」