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帰れない愛は、夕陽に沈む
妊娠がわかると、青木紗季(あおき さき)は早く白石颯真(しらいし そうま)にこの嬉しい知らせを伝えたかった。 けれど、オフィスのドアを開...
Chương (1)
第1章
妊娠がわかると、青木紗季(あおき さき)は早く白石颯真(しらいし そうま)にこの嬉しい知らせを伝えたかった。
けれど、オフィスのドアを開けた途端、颯真に腕の中へ引き寄せられ、深いキスをされた。
熱を帯びた手が服の内側へ滑り込み、シャツのボタンも外されていく。
紗季は受け止めきれず、慌てて彼の悪戯な手をつかんだ。「颯真、今日はだめ。私……」
颯真は片眉を上げ、低く艶めいた声で言いながら、紗季の手を取って自分の腰元へ導いた。「生理?でも、君の顔を見るだけで苦しくなるんだ」
第1話
妊娠がわかると、青木紗季(あおき さき)は早く白石颯真(しらいし そうま)にこの嬉しい知らせを伝えたかった。
けれど、オフィスのドアを開けた途端、颯真に腕の中へ引き寄せられ、深いキスをされた。
熱を帯びた手が服の内側へ滑り込み、シャツのボタンも外されていく。
紗季は受け止めきれず、慌てて彼の悪戯な手をつかんだ。「颯真、今日はだめ。私……」
颯真は片眉を上げ、低く艶めいた声で言いながら、紗季の手を取って自分の腰元へ導いた。「生理?でも、君の顔を見るだけで苦しくなるんだ」
紗季の顔は一瞬で赤くなった。颯真の瞳の奥に、抑えきれない欲情が渦巻いていたからだ。
紗季は数秒ためらってから、小さな声で言った。「じゃあ、別の方法で……してあげる」
そう言うと、紗季は素直に膝をつき、颯真のベルトを外した。
颯真は、紗季が懸命に受け入れようとする姿を見つめ、目を細めて低く息を漏らした。
すべてを吐き出したあと、颯真はスマホを置き、紗季の唇の端をそっと拭った。その声は満ち足りた愉悦を帯びていた。
「なあ、紗季。俺のためなら、何だってできるくらい好き?」
紗季は颯真の手を取り、そっと指を絡めた。見上げる瞳には、どうしようもないほどの想いがあふれていた。
「うん。颯真のこと、本当に大好き」
颯真は笑い、紗季の髪をやさしく撫でた。その眼差しがかすかに揺れる。
颯真の胸から響く力強い鼓動を聞いて、紗季はようやく今日ここへ来た目的を思い出した。
口を開こうとした瞬間、颯真のスマホがまた鳴った。
颯真は画面を一瞥すると、一言だけ残して足早に出ていった。
「会議がある。先に帰ってて」
紗季はまだ甘い余韻の中にいて、急に冷えた颯真の声に心が追いつかなかった。
しばらく呆然としたあと、紗季は立ち上がって帰ろうとした。けれどオフィスを出たところで、颯真が休憩室へ入っていくのが見えた。
紗季は吸い寄せられるように足を向けた。後を追った途端、中から低く押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。
「颯真、紗季に本気になったんじゃないでしょうね?私、見たのよ。あなたたちがベッドで抱き合ってるところ。約束したじゃない。紗季を惚れさせて、最後に惨めに捨てるだけだって。それなのに、どうして何度も抱いたのよ!」
たったそれだけの言葉に、紗季は全身を打たれたように立ち尽くした。
惚れさせて、最後に惨めに捨てる?
惨めに捨てるって、どういうこと?
紗季は息を詰め、颯真の返事を待った。けれど颯真は胸ポケットからスマホを取り出し、困ったように笑った。
「喜ぶと思ったんだけどな。これがあれば、これからいつでもあいつを笑いものにできるだろ」
綾瀬莉緒(あやせ りお)は画面をちらりと見て、たちまち瞳に喜びを浮かべた。
一方、紗季はそれを見た瞬間、全身の血の気が引いていった。
颯真のスマホに映っていたのは、ついさっき紗季が膝をつき、彼に応じていた写真だったからだ。
「颯真、ごめんね。私、勘違いしてた。だって怖かったの。昔、青木遠志(あおき とおし)が母を弄んで捨てたりしなければ、私はこんな惨めな人生を送らずに済んだのよ。
同じ血が流れているはずなのに、紗季はみんなに大事にされて、お姫様みたいに育てられた。私はずっと、誰にも認められない隠し子のまま。
だから復讐するために、胸が張り裂けそうなのを我慢して、あなたを紗季のそばへ行かせたの。紗季をあなたなしでは生きられないくらい夢中にさせて、最後にあなたの手でぼろぼろにして捨てさせるために。
颯真、紗季を好きにならないで。お願い。私には、あなたしかいないの……」
颯真は低くため息をつき、莉緒をやさしく抱き寄せた。
「もちろん、好きになんかならない。俺が好きなのはお前だけだ……」
親密に抱き合う二人は、外に立っている紗季の存在に気づかなかった。
紗季は一瞬で血の気を失った。足元から凍りつくような寒気が這い上がり、指先まで感覚が消えていく。今聞いた言葉を、どうしても信じることができなかった。
莉緒は、父の隠し子だったの?
颯真が自分と付き合っていたのは、莉緒のために自分をもてあそぶためだったの?
妊娠を知ったとき、胸いっぱいに広がっていた喜びは、この瞬間、鋭い刃へと姿を変え、紗季の心臓を容赦なく突き刺した。痛すぎて、息の仕方さえわからなくなった。
四年前、紗季は数人のチンピラに路地裏で取り囲まれ、危うく襲われそうになった。
絶望の中、通りかかった颯真が紗季を救ってくれた。
黒いシャツにスラックス姿の颯真は、数人を相手にしても少しも怯まず、無駄のない動きであっという間に片づけてしまった。危うさをまとった奔放な雰囲気と、どこか手の届かないような色気。そのすべてに、紗季は一瞬で心を奪われた。
白石颯真という名前は、そうして紗季の心の奥に刻まれ、根を下ろし、芽を出し、枝を伸ばしていった。
颯真が上流階級でも特別な家柄の御曹司だと知ってから、紗季はさまざまなパーティーや集まりに足繁く通い、偶然を装って彼に会う機会を作り続けた。
回数が重なれば、颯真もさすがに気づく。笑みを含んでこちらを見つめるその目元は、潤んだような色気をたたえ、人を惹きつけてやまなかった。
「お嬢さん、毎日俺のそばに現れるなんて、助けたお礼に身を捧げるつもり?」
その瞬間、紗季は顔を赤くし、人生でいちばんの勇気を振り絞って言った。「はい。だめですか?」
そのとき颯真がどう答えたのかは、もう覚えていない。ただ、彼がゆっくりと唇の端を上げて笑ったことだけは覚えていた。
その夜、二人はそのままベッドを共にした。
それから四年間、二人は人目を忍ぶ恋人同士だった。関係を隠そうと決めたのは、颯真だった。
理由はわからなかった。それでも紗季は、言われるままに従った。
誰にも言えない関係ではあった。それでも、この四年間、颯真は紗季をこれ以上ないほど大切にしてくれた。
どんな記念日にもサプライズとプレゼントを用意してくれた。紗季の願いをすべて叶え、デートに付き合い、買い物へ行き、旅行にも連れていってくれた……
自分が手に入れたのは、颯真の偽りのない愛だと思っていた。
いつか颯真は自分と結婚し、周囲のすべての人に二人の関係を告げてくれるのだと思っていた。
この子を授かったことは、二人の人生にとって新しい転機になるのだと思っていた。
それなのに、そのすべてが最初から最後まで、周到に仕組まれた復讐でしかなかったなんて。
幸せだと信じて疑わなかった日々が、今知ったばかりの残酷な真実に塗りつぶされていく。紗季の頭の中では、過去の記憶が次々と浮かんでは崩れていった。
ポケットの中のスマホが突然震えるまで、紗季は絶望の底から抜け出せなかった。
画面に父からの着信が表示されているのを見た瞬間、空っぽだった紗季の瞳に、ようやく焦点が戻った。彼女は慌てて頬を濡らす涙を拭い、よろめきながら外へ駆け出した。
ビルを出てから、ようやく電話に出た。
「紗季、前に話した昔からの縁談のことだが、考えはまとまったか?」
父の重い声を聞き、紗季の胸がずきりと痛んだ。
颯真と付き合うようになってから、彼と結婚するために、紗季は幼い頃から決まっていた縁談を断った。
けれどこの数年、颯真は一度も二人の関係を公にしようとせず、さまざまな理由をつけて紗季の実家に挨拶へ行くことを拒み続けた。
それが何度も重なるうちに、父は紗季の恋人を信用できない相手だと思うようになり、何度も心配して説得してきた。
「もう四年になる。なのに相手は、いまだに一度も正式な挨拶に来ない。それでもまだ、あの男に人生を預けるつもりか?前にも言ったはずだ。この縁談の相手は、私が慎重に見極めて選んだ男だ。若くして才覚があり、人柄も家柄も申し分ない。お前が彼と結婚してくれれば、私もようやく安心できる」
紗季は黙って聞いていた。頭の中には、さっき聞いたばかりの言葉が浮かんでいた。
紗季は赤く腫れた目を閉じ、長い時間をかけて息を整えてから、かすれた声で父に答えた。
「お父さん、私……お父さんの言うとおりにする」
紗季が承諾したと知り、父は最初こそ驚いたものの、すぐに喜びを隠しきれなくなった。
「そうか。わかってくれたならいい。結婚式のことは私が手配するから、お前は何も心配しなくていい。式は来月の16日に決めた。相手は白石家の長男、白石怜司だ」
その名前を聞いた瞬間、紗季はその場で凍りついた。
白石怜司(しらいし れいじ)……
颯真の実の兄ではないか!
第2話
白石グループのビルを出ると、紗季はタクシーで病院へ向かった。
道中、頭の中は怜司のことでいっぱいだった。
会ったことはない。知っているのは、名前と噂だけだった。若くして事業を任され、判断は冷静で、やり方は容赦がない。ビジネスの世界ではすでに一目置かれる存在で、颯真でさえ、四つ年上のその兄には逆らえないらしい。
巡り巡って、自分は白石家に嫁ぎ、颯真の義姉になるというのか。
紗季はどこか現実味のないまま、もう覆らないこの結末を受け入れようと、自分に言い聞かせた。
ぼんやりしている紗季を見て、看護師が少し声を張った。
「ご主人は?予約されている中絶手術には、パートナーの同意書への署名が必要です」
紗季はそこでようやく我に返った。「必ず家族の同意が必要なんですか?私の署名ではだめですか?」
「だめです。手術を受ける以上、相手の方にも知らせておく必要があります」
紗季の胸がずしりと沈んだ。結局、その同意書を持って病院を出るしかなかった。
紗季は家で一晩待ったが、颯真は夜通し帰ってこなかった。戻ってきたのは翌朝になってからだった。
この十数時間で、紗季の心は何度も引き裂かれた。それでも颯真の姿を見た瞬間、胸の奥にはまだ鋭い痛みが走った。
どこへ行っていたのかは聞かなかった。ただ疲れ切った彼の顔を見つめながら、探るように同意書を差し出した。
「ここにサインして」
颯真は一睡もしていなかったせいで、目を開けているのもつらそうだった。
目がしょぼつき、同意書に何が書かれているのかよく見えないまま、ペンを取ってサインし、それからようやく紗季に尋ねた。
「これ、何?」
紗季は書類を引っ込めようとした手を一瞬止め、静かに嘘をついた。
「この前、西山の別邸を私にくれるって言ってたでしょう?」
颯真には、たしかにそんな約束をした覚えがぼんやりとあった。
だが、不動産の譲渡書類が、こんな薄い紙一枚で済むものだろうか。
颯真は手を伸ばして取り戻し、きちんと見直そうとした。けれど紗季はすでにそれをバッグにしまっていて、彼の指先に触れたのは、白く細い紗季の手だけだった。
その瞬間、颯真は自分が何をしようとしていたのか忘れてしまった。少し力を込めて紗季を腕の中に引き寄せ、また口づけようとする。
「いい子だから、俺に……」
昨日耳にした言葉を思い出した途端、紗季の全身に寒気が走った。紗季は慌てて颯真の腕から抜け出した。
「だめ。ちょっと用事があるの。今から出かける」
紗季が慌てて距離を取るのを見て、颯真は彼女の鼻先を指でちょんとつつき、からかうように笑った。
「今夜、集まりがあるから一緒に連れていきたかっただけだよ。少し時間を空けておいてって言おうとしただけ。欲しがりさん、何を想像してるの?そんなに俺が欲しい?」
以前なら、こんなふうにからかわれれば、紗季は恥ずかしくなり、甘い気持ちにもなった。
けれど今は、ただひどく胸が痛むだけだった。涙がこぼれる前に、紗季はバッグを手に家を出た。
「わかった。用事が済んだら行く」
病院に着くと、紗季はサイン済みの手術同意書を医師に渡し、手術室へ入った。
一時間後、手術が終わり、麻酔が少しずつ切れていった。
下腹部にずしりとした痛みが押し寄せる。腹の奥を強く殴られたように痛み、冷や汗が止まらなかった。
紗季は病院の片隅にひとり座り込んでいた。水を飲む気にも、何かを食べる気にもなれず、顔からはすっかり血の気が引いていた。
ようやく少し落ち着いたころには、外はもう暗くなっていた。颯真から、どこにいるのかとメッセージが届いた。
そこで紗季は、今夜の集まりのことを思い出した。
医師からは安静にするよう言われていた。けれど颯真に異変を悟られたくなくて、住所を聞き、そのまま向かうしかなかった。
バーの中は人の声で満ち、騒がしかった。
二階の個室へ行き、扉を開けた瞬間、紗季は莉緒の姿を目にした。
意味ありげなその視線と合った途端、紗季の胸に嫌な予感が広がった。
帰ろうとして振り返った瞬間、颯真の胸にぶつかった。
颯真は紗季の肩を抱き、そのまま中へ連れていき、部屋にいる人たちへ笑って声をかけた。
「紹介するよ。青木紗季。俺の……友達だ」
四年も付き合ってきて、颯真が紗季を自分の交友関係の中へ連れてきたのは、これが初めてだった。それなのに、紹介された関係はただの友達。
その言葉を聞いた瞬間、紗季の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。たったの「友達」が、こんなにも苦く、こんなにも残酷に響くなんて思わなかった。
紗季は手を固く握りしめた。爪が掌に食い込み、指の関節は白くなっていた。
一方の莉緒は平然とした顔で立ち上がり、紗季に向かって堂々と手を差し出した。
「青木さん、久しぶりね。私のこと、覚えている?以前、何度も会ったよね」
紗季が覚えていないはずがなかった。
初めて会ったのはレストランだった。莉緒は自分から挨拶に来て、熱いスープを紗季に浴びせた。
二度目は温泉旅館だった。莉緒は浴室の扉に鍵をかけ、換気口を塞いだ。そのせいで、紗季は中で窒息しかけた。
三度目はコンサートホールだった。莉緒は人混みの中で紗季の足を引っかけ、転んだ紗季は押し寄せる人混みに倒れ込み、何度も踏まれた。
二人が顔を合わせるたびに、決まってろくなことが起こらなかった。けれど颯真がずっと、莉緒は自分の後輩だと言っていたから、紗季は一度も深く追及しなかった。
昨日、四度目に莉緒を見たとき、ようやくすべての真実を知った。
紗季が偶然だと思っていたあの出来事は、すべて莉緒がわざと仕組んだ復讐だった。
そして颯真も、本気で紗季をデートに連れていきたかったわけではない。ただ、その機会に莉緒の鬱憤を晴らさせるためだったのだ。
颯真は最初から最後まで知っていた。それでも、紗季が傷つくのを黙って見ていた。そのうえ、莉緒を庇うための言い訳までしていた。
では今回も、颯真が紗季をここへ連れてきた目的は、これまでと同じなのだろうか。
第3話
紗季には、それを考える勇気などなかった。
紗季はうつむいたまま、差し出された手を無視した。莉緒とは目も合わせず、部屋の隅の席にひとり腰を下ろした。
室内は一瞬だけ静まり返ったが、すぐにまた騒がしくなった。
皆はゲームをしようと言い出し、親睦を深めるためだと言って、紗季まで無理やり参加させた。
ゲームが始まると、紗季はルールもよくわからないまま、最初の一回で負けてしまった。
「このカードを引いた罰ゲームは、ロックのウイスキーを十杯ね」
紗季の顔から血の気が引いた。まだ痛む下腹部を押さえ、か細い声で言った。「今、生理中なの。別の罰ゲームにしてもらえない?」
莉緒は楽しそうに目を細め、わざとらしく声を弾ませた。
「青木さん、生理だから無理とか、そんな古い言い訳で逃げるつもり?罰ゲームくらい受けなよ。せっかく盛り上がってるのに、しらけるじゃん。ねえ、颯真先輩?」
その言葉に、颯真はようやく紗季へ目を向けた。
そこで初めて気づいた。紗季の顔からは血の気が引き、唇まで青ざめている。今にも倒れそうなほど、ひどく弱って見えた。
颯真の薄い唇がわずかに動いた。長い沈黙の末、ようやくゆっくりと言葉を吐き出した。
「負けは負けだ」
その一言は、重い石のように紗季に叩きつけられ、全身が痺れるほどの衝撃を与えた。
紗季の目に涙が込み上げた。紗季はもう言い訳せず、テーブルの上のグラスを手に取り、顔を上げて飲み干した。
一杯、また一杯。冷たい酒が体に流れ込み、腹の痛みをさらに強くしていく。
胃の中を激しくかき回されるようで、吐き気が止まらなかった。
最後の一杯を飲み終えると、紗季はグラスを置き、ふらつきながら立ち上がって化粧室へ向かった。
便器にしがみつくようにして吐いたあと、紗季は裂けそうに痛む胸と、激しく痛む下腹部を押さえた。
痛みは少しも終わらなかった。引いたと思った次の瞬間には、また腹の奥をえぐるように襲ってくる。気を失ってしまえたら楽なのに、紗季にはただ歯を食いしばって耐えることしかできなかった。
どれほど経ったのかわからない。痛みが少し引いてから、紗季は壁に手をついて外へ出た。
個室の前まで戻ると、中から冷やかすような声が聞こえてきた。
「颯真、やっと負けたな!どれどれ、このカードは本音ゲームだ。俺たちの質問三つ、正直に答えろよ!」
「一つ目。お前、隠してる彼女がいるって噂だけど、今日は連れてきてるのか?」
「連れてきてる」
その瞬間、皆が一斉にはしゃぎ声を上げ、興奮しきったように騒ぎ出した。
「莉緒ちゃんだろ?お前、この子にやたら優しいし、俺は前から怪しいと思ってたんだよ。早く言えよ、どうして公表しないんだ?」
しばらく沈黙したあと、颯真は頷いた。
「莉緒はそういうスリルが好きなんだ。だからしばらくは秘密の関係を楽しんでいるだけだよ。彼女が公にしたくなったら、そのときはちゃんとお前たちに紹介する」
その言葉で、紗季の心は深い奈落へと落ちていった。
紗季は唇を強く噛みしめた。口の中に血の味が広がっても、声だけは出さなかった。胸の奥からせり上がる痛みを、必死に押し殺した。
颯真の中で、莉緒が公にしていない恋人なのだとしたら、自分はいったい何なのだろう。
その疑問の答えは、彼らが投げかけた三つ目の質問によって、すぐに明らかになった。
「じゃあ、今日連れてきた青木紗季は?」
颯真はソファにもたれ、酒を一口含んだ。気だるげな口調だった。
「彼女?あんなの、何でもない」
その一言は、紗季の胸のいちばん柔らかいところを、容赦なく突き刺した。息を吸うたびに、痛みだけが奥へ奥へと広がっていく。
全身が震え、立っていられなくなりそうで、危うくその場で倒れそうになった。
「はははは、お前は相手にしてないみたいだけど、あの子の目、ずっとお前に張りついてたぞ。相当惚れ込んでるんじゃないか?」
「自分から必死にすがってくる女ってやつか?青木家のお嬢様は高嶺の花だなんて言われてたけど、実際は大したことないな。結局、颯真に完全に骨抜きにされてるじゃないか」
部屋の中の笑い声はどんどん大きくなっていった。颯真はもう何も言わなかった。
けれど、耳に入ってくる嘲笑のひとつひとつが、紗季の心を削っていく。これ以上そこにいたら、本当に壊れてしまいそうで、彼女はふらつく足で逃げるようにその場を離れた。
押し寄せる痛みが神経を引き裂くようだった。涙がぽろぽろと落ち、視界をにじませていく。
強い光が視界に飛び込んできた。
紗季が顔を上げた瞬間、真正面から迫るヘッドライトの光に、目がくらんだ。
避ける間もなかった。鈍い衝撃音とともに体が宙へ投げ出され、次に感じたのは、冷たい地面と、体の下でじわじわ広がっていく血の温かさだった。
第4話
温かな血がどくどくとあふれ出し、内臓をかき回されるような激痛が紗季を襲った。
あまりの痛みに息もできず、全身が痙攣し、呼吸はだんだん弱くなっていく。
視界は真っ暗で、じわじわと押し寄せる脱力感に、意識は少しずつ沈んでいった……
どれほど時間が経ったのかわからない。再び目を覚ましたとき、紗季は看護師がほっと息をつくのが聞こえた。
「目が覚めてよかった……このまま意識が戻らなかったら、彼氏さんまで倒れてしまうんじゃないかと思うくらいでしたよ。
昨日運ばれてきたときは本当に危なくて、輸血用の血液も足りなくて大変だったんです。でも彼氏さんが必死に手配してくれて、なんとか助かりました。一晩中、眠らずにそばについていましたよ。すごく大事にされているんですね」
紗季は黙って聞いていた。やがて、かすれた声で口を開いた。
「彼氏ではありません」
言い終わるより早く、颯真がドアを開けて入ってきた。こちらを見る目には、心配の色がにじんでいた。
「紗季、ごめん。俺が悪かった。昨日、俺がそばについていれば、君が酔って事故に遭うことなんてなかったのに」
颯真の姿を見た瞬間、紗季は昨夜耳にした言葉を思い出し、無意識に手を握りしめた。
颯真は紗季がまだ怯えているのだと思ったのか、慌てて紗季をきつく抱きしめ、なだめるように囁きながら、何度も口づけた。
バーで、紗季を「あんなの何でもない」と切り捨てた男と、目の前で必死に彼女を気遣う颯真は、まるで別人のようだった。
胸がひどく痛んだ。紗季は胸元を強くつかんだまま、しばらく息をすることもできなかった。
それから数日、紗季の回復が思わしくないと見るや、颯真は仕事をすべて後回しにし、病室にこもるようにして彼女のそばにいた。
さらに特別病棟のワンフロアを丸ごと貸し切り、専属の医師や看護師を手配し、二十四時間体制で紗季を看てもらった。二度と紗季に何か起きないよう、細心の注意を払っているようだった。
周りの人たちは皆、紗季は幸運だと言った。こんなにも一途で深く愛してくれる恋人に出会えたのだから、と。
けれど紗季は、ずっと無表情のままだった。
「どうしたの?気分が晴れない?入院が長くて退屈になったんだろう?あと二日したら退院できるから、そしたら気晴らしに連れていってあげる。欲しいプレゼントがあるなら、何でも買ってあげるよ」
紗季にはわかっていた。颯真がここまでしているのは、ただこの芝居をもっと本物らしく見せるためだ。
そうすれば、紗季が真実を知ったとき、もっと深く傷つくから。
紗季が首を横に振り、何か言おうとしたそのとき、颯真のスマホが鳴った。
ちらりと見ると、相手は莉緒だった。
まもなく颯真は適当な理由をつけ、慌ただしく部屋を出ていった。
「ちゃんと休んでいて。急ぎの仕事を少し片づけてくる。すぐ戻るから」
紗季は颯真の言葉に従わず、気配を消して後を追った。
階下の庭園まで来ると、花壇の向こうで莉緒が颯真の胸に飛び込むのが見えた。泣きそうな顔で、声まで震わせている。
「颯真、紗季が事故に遭っただけで、あんなに大騒ぎして、何日も病院に付きっきりで……まさか、本当に紗季に情が湧いたんじゃないでしょうね?」
颯真は莉緒の腰を抱き寄せ、軽くため息をついた。
「何を考えてるんだ。全部、芝居に決まってるだろう?」
莉緒は唇を軽く噛み、半信半疑のまま涙のにじむ目で颯真を見つめた。
「本当に?じゃあ、どうして最近ずっと私に会いに来てくれなかったの?」
「あの事故、お前が仕組んだんだろう?頼んだ相手がしくじって、あちこちに証拠を残していた。この数日、俺は監視カメラの映像を消して、車を処分して、そいつを海外へ逃がすのに追われてたんだ。もし足がついて、お前まで捕まったら、俺は耐えられない」
颯真の目に浮かぶ本気の心配そうな色を見た瞬間、莉緒は堰を切ったように泣き出した。
「ごめんなさい。またあなたに面倒な後始末をさせちゃって……でも、もうすぐ母の命日なの。紗季が憎くて仕方なかった。生きているだけで許せなかったの。だから殺してやりたかった。本気で、死ねばいいと思ったの!」
颯真はティッシュを取り出し、莉緒の涙を拭った。その声はやさしかった。
「わかってる。お前はしたいようにすればいい。俺がいる。誰にもお前を傷つけさせない。お前の気が少しでも晴れるなら、後始末くらいいくらでもしてやる」
二人の言葉が耳に入るたび、紗季の胸の奥が少しずつ冷えていった。
颯真が莉緒の嫌がらせを見逃してきたのは、どれも命に関わるほどのことではなかったからだ。紗季は、そう自分に言い聞かせていた。
けれど違った。
紗季は車に轢かれ、病院に運ばれ、生死の境までさまよった。颯真はその真相を知っていながら、莉緒を庇った。それどころか、監視カメラの映像を消し、車を処分し、実行犯を海外へ逃がすことにまで手を貸していた。
颯真にとって、自分の命など、少しも大切ではなかったのだろうか。
莉緒を愛しているから、彼女のしたことを、そこまで許せるのだろうか。
その瞬間、紗季の心にかろうじて残っていた最後の愛情が、跡形もなく燃え尽きた。
紗季は虚ろな目のまま身を翻し、立ち去ろうとした。けれど感覚のない足先が、空き缶を蹴ってしまった。
音を聞いた颯真が振り返り、紗季を見た瞬間、彼の目が大きく見開かれた。彼は初めて取り乱した。
「紗季?どうしてここにいるんだ?!」
第5話
紗季は足を止めた。
目を閉じ、胸の奥で暴れ出しそうな感情を無理やり押し込めた。
再び目を開けたとき、追いかけてきた颯真を見ても、彼女の表情はもう静まり返っていた。
「少し外の空気を吸いたくなっただけよ。二人で話していたみたいだから、邪魔しないほうがいいと思って。どうかした?」
その淡々とした表情と口調に、颯真の胸にあった不安はわずかに薄れた。
それでも完全には安心できなかったのか、颯真は急いで言い訳を並べた。
「莉緒は、君が酒に酔って事故に遭ったって聞いて、ずっと気にしていたんだ。だから病院まで見舞いに来たいって言ってくれて、少し世間話をしていただけだよ。君の怪我が重いと知って、つらくなって泣いてしまったから、俺が慰めていたんだ。変なふうに考えないで」
莉緒もその言葉に乗るように、わざとらしく謝り始めた。
「青木さん、ごめんね。お酒が飲めないなんて知らなかったし、本当に生理中だなんて思わなかったの。あのとき、もっとちゃんと言ってくれればよかったのに。そしたら、私たちだって無理やり飲ませたりしなかったよ。そういえば、事故からもう何日も経ったけど、轢いた人、捕まった?」
紗季の指先がかすかに震えた。目を上げ、颯真を見た。
「いいえ」
なぜだろう。その目が合った瞬間、颯真の胸にふいに落ち着かないものが広がった。
颯真はこれ以上その話を続けたくなくて、すぐに話題をそらした。
「警察がまだ調べている。しばらくすれば結果が出るよ。紗季、もう時間も遅いし、検査に行こう。俺が付き添う」
そう言って、颯真は紗季を支えて戻ろうとした。だが莉緒に呼び止められた。
「颯真、まだ少し話したいことがあるの。今、いい?」
颯真はしばらく黙ったあと、紗季の手を宥めるように撫でた。
「先に上へ戻って検査を受けておいで。すぐ戻るから」
紗季は何も言わず、ひとりで病室へ戻った。
時間は一分、一秒と過ぎていった。けれど颯真は戻ってこなかった。
それから二日間、颯真の姿はどこにも見えなかった。
けれど莉緒のSNSを見れば、二人が一緒にいることはすぐにわかった。
颯真は莉緒に付き合って映画を観に行き、買い物をし、話題のスポットを巡っていた。二人で夕日を眺め、海辺を歩き、夜には花火を見ていたらしい。
莉緒が載せる写真の端には、カクテルを注ぐ颯真の手や、寒そうにする莉緒の肩へ上着をかける姿が、わざとらしいほど自然に写り込んでいた。
紗季にはわかっていた。
莉緒は、言葉にせず見せつけているのだ。
けれど、もうどうでもよかった。
退院の日は、ちょうど紗季の誕生日だった。
父の遠志から電話がかかってきて、誕生日を祝ってくれたあと、結婚式の話になった。「式の準備はもう全部こちらで進めている。ウェディングドレスと指輪は、怜司が海外で選んだものだ。見てみるか?」
「お父さんが決めてくれればそれでいい。私は何でも大丈夫」
遠志は、紗季が結婚を受け入れたとはいえ、まだ気持ちが追いついていないことに気づいていたのだろう。安心させるように、さらに言葉を重ねた。
「白石家は怜司を昔から大切に育ててきた。幼いころから海外で学ばせ、ここ数年は海外事業も任せている。だが怜司は、結婚後にお前が国内で暮らしたいなら、自分も帰国して、そばにいると言ってくれた。紗季、お前はどうしたい?」
紗季は、ただ颯真から少しでも遠く離れたかった。
だから、その提案を断った。
「海外で暮らすよ。ちょうど、私も環境を変えたかったから。結婚したら、全部、一から始めたいの」
「結婚?何の結婚?」
颯真の声が聞こえ、紗季ははっと顔を上げた。そこで初めて、颯真がいつの間にか入ってきていたことに気づいた。
紗季は慌てて電話を切り、適当な理由でごまかした。
「何でもないの。友達が今月結婚するから、式に招待されているだけ」
「今月?いつ?」
颯真は深く考えていない様子で、何気なく尋ねた。
紗季の瞳が、かすかに揺れた。しばらくしてから、ようやく颯真に答えた。
「十六日」
「十六日?」颯真は少し驚いたようだったが、すぐに唇の端を上げた。「兄貴の結婚式と同じ日じゃないか。その日、式を挙げる人、多いんだな」
どうやら颯真は、まもなく兄の妻になる相手のことを何も知らないらしい。
紗季はうつむき、颯真の視線を避けた。声はほとんど聞こえないほど小さかった。
「そうね。偶然だね」
紗季が相変わらず沈んだ様子だったため、颯真もそれ以上は聞かなかった。
颯真は退院手続きを済ませると、紗季を連れて病院を出た。そして車の中でようやく、自分が用意した誕生日のサプライズを告げた。
「紗季、誕生日おめでとう。ヒルトンホテルに会場を用意したんだ。知り合いをみんな呼んで、君の誕生日を祝ってもらう」
第6話
紗季は横目で颯真を見た。どうしても、聞かずにはいられなかった。
「あなた、しばらくは関係を公にしたくないって言ってたよね?こんなパーティーを開いたら、周りの人たちに私たちのこと、知られちゃうんじゃないの?」
颯真は一瞬だけ言葉に詰まった。けれどすぐに、何事もなかったような顔に戻る。
「俺はただ、君に24歳の誕生日を楽しく過ごしてほしかっただけだよ。ほかのことは、どうでもいい」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか紗季の胸に嫌な予感がよぎった。
ホテルに着くと、広い会場には大勢の招待客が集まっていた。手の込んだケーキやスイーツが並び、壁一面には紗季の誕生日写真が飾られている。
丁寧に用意されたその光景を見れば見るほど、胸のざわつきは強くなっていった。
紗季が隙を見て会場を抜け出そうとした、そのときだった。
入口のほうから、ざわめきが広がった。
莉緒が数人の取り巻きを連れて突然現れ、会場中の視線を集めた。
莉緒は笑みを浮かべたまま紗季のもとへ歩いてくると、悪びれもせずに手を取った。
「青木さん、今日誕生日なんだってね。勝手に来ちゃったけど、別にいいよね?プレゼントも用意してきたの。開けてみてよ」
莉緒の背後には、人の背丈ほどもある大きな箱が置かれていた。
それを見た瞬間、紗季のまぶたがぴくりと震えた。
紗季は思わず颯真を見た。
颯真の顔には、いつものように莉緒を甘やかすような表情が浮かんでいた。
「紗季、開けてみたら?」
紗季は顔から笑みを消し、やんわり断ろうとした。
けれど莉緒は、紗季の返事を待つことなく勝手に箱を開けた。
次の瞬間、十数匹の黒猫が箱の中から一斉に飛び出し、会場中を走り回った。
招待客たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。シャンパンタワーは倒れ、飾られていた調度品はめちゃくちゃになり、壁に飾られていた誕生日写真まで人の波に押されて床へ落ち、割れてしまった。
混乱の中、誰かが紗季の背中を押した。
紗季はそのまま倒れ込み、割れたガラスの上に体を打ちつけた。肌に破片が刺さり、あちこちから血がにじむ。
その隙を狙ったように、莉緒は猫を捕まえるふりをして、ケーキを紗季のほうへ押し倒した。
崩れたケーキが紗季の体にぶつかり、クリームが全身にべっとりとついた。
莉緒の取り巻きたちは、人の流れをわざと紗季のほうへ向かうようにしていた。招待客たちはクリームの下に人が倒れていることに気づかず、次々と紗季を踏みつけていく。
全身に痛みが走り、紗季の目から涙があふれた。
顔にまとわりついたクリームで息ができない。窒息しそうになりながら、紗季は必死に手を動かして助けを求めた。
けれど、誰ひとり紗季に手を差し伸べなかった。
猫たちがすべてケージに戻されてから、ようやく颯真が近づき、紗季を抱き起こした。
紗季のドレスは踏まれて黒く汚れていた。体についたクリームは血で赤く染まり、髪も誰かに引っ張られ、乱暴につかまれたせいでぐしゃぐしゃになっている。
莉緒の取り巻きたちは笑いをこらえきれない様子で、横から嫌味を言った。
「青木さん、猫が何匹か出てきただけで、どうしてそんなことになるの?こんなにボロボロじゃ、言われなきゃ大事に育てられたお嬢様だなんて誰も気づかないよね」
莉緒も笑いを噛み殺しながらカメラを構え、惨めな姿になった紗季を撮った。
「青木さん、その格好、けっこう似合ってるよ。かなり個性的でいいんじゃない?」
ここまでされてなお、これが莉緒の仕組んだことだと気づけないのなら、紗季は本当にただの馬鹿だ。
胸の奥に押し込めていた怒りが、もう抑えきれなかった。
紗季は手を上げ、莉緒の頬を思いきり叩こうとした。
けれどその手が莉緒の顔に触れる直前、颯真が素早く紗季の手首をつかんだ。
颯真は莉緒を背中にかばい、眉をひそめて紗季を見た。
「莉緒はちょっとした冗談をしただけだろ。君が猫を好きだから、わざわざ用意したんだ。気に入らないなら受け取らなければいいだけなのに、どうして手を上げるんだ?」
こんな言葉を聞くのは、初めてではなかった。
以前の紗季なら、颯真の顔を立てるために、何もかも飲み込んでいた。
けれど今は、もう無理だった。
紗季は颯真の手を振りほどくと、莉緒のカメラを奪い取り、床へ叩きつけた。
その瞬間、会場全体が静まり返った。
紗季は拳を強く握りしめた。颯真を見つめる瞳には、隠しきれない悲しみと痛みが浮かんでいた。
「颯真、私があなたを好きだからって、どれだけ傷つけても黙っていると思ってるの?」
そう言い残し、紗季はドレスの裾をつかんで、ひとり会場を出ていった。
颯真は理由もなく胸騒ぎを覚え、反射的に追いかけようとした。
だが、一歩踏み出した瞬間、背後から悲鳴が上がった。
倒れ込んだ莉緒を見て、颯真は数秒だけためらった。
それでも結局、引き返して莉緒を抱き上げた。
第7話
ひとりで病院へ行き、傷の手当てを済ませてから、紗季は家に戻った。
紗季が真っ先にしたのは、颯真に関わるものをすべて捨てることだった。
二人で撮った写真、おそろいのパジャマやカップ、編みかけのマフラー、颯真から贈られたプレゼント……
ひとつも残さず、全部捨てた。
最後の荷物を捨て終えたところで、ちょうど颯真が帰ってきた。
ゴミ箱の中のものを見て、颯真は一瞬固まり、信じられないという顔で紗季の手をつかんだ。
「紗季、どうして全部捨てたんだ?今日のことは謝る。埋め合わせなら何でもする。だから、怒らないでくれ」
ここまで来ると、紗季はもう颯真を見ても怒りすら湧かなかった。
怒りはもうなかった。あるのは、胸の奥まで冷えきった失望と、どうしようもない諦めだけ。口から出た声は、自分でも不思議なくらい静かだった。
「引っ越すつもりだから、全部捨てただけ。埋め合わせはいらない。あなたの荷物も片づけておいて」
颯真は、紗季が自分のもとを離れるなど考えたこともなかったのだろう。その言葉を聞いても、ただ反射的に答えた。
「この前買った西山の別邸に移るのか?そのときは使用人に、俺たちの荷物を全部運ばせるよ。君はさっき怪我をしたばかりなんだから、無理に動くな。傷口が開いたら、俺がつらい」
つらい?
自分が倒れたとき、颯真が遠くから冷ややかに見ていた姿を思い出すと、紗季には皮肉にしか聞こえなかった。
何を言えばいいのかわからなかったし、実際、もう言うことなど何もなかった。紗季は黙って部屋へ戻った。
それから数日、家の中のものは少しずつ片づけられていった。
颯真は何に忙しいのか、二、三日に一度しか帰ってこなかった。
紗季も問いただすことはなかった。自分の荷物を青木家へ送り返していると、突然、颯真から電話がかかってきた。
電話に出ると、聞こえてきたのは颯真の秘書の焦った声だった。
「青木さん、白石社長が事故に遭って重傷を負い、今、病院で救命処置を受けています。意識がない中で、ずっとあなたの名前を呼んでいるんです。来ていただけませんか?」
その知らせを聞いた紗季が最初に思ったのは、また何かの復讐劇なのではないか、ということだった。
けれど秘書は何度も頼み込み、電話の向こうからは確かに救急のモニター音も聞こえていた。紗季はやむなく病院へ向かった。
病院に着くと、目に飛び込んできたのは、全身血まみれでベッドに横たわり、自分の名前を呼び続ける颯真の姿だった。
看護師は低下していく心拍数を見ながら、切迫した声で言った。
「患者さんは大量出血で非常に危険な状態です。すぐに輸血が必要ですが、当院にある輸血用血液が足りません。至急、同じ血液型で協力できる方を探してください!」
秘書は慌てて紗季を前へ押し出した。
「青木さん、同じ血液型ですよね。白石社長のために輸血に協力していただけませんか。お願いします。
白石社長は、いつだってあなたのことばかり考えているんです。今回事故に遭ったのだって、オークションで落札したネックレスを一刻も早くあなたに届けたかったからなんですよ」
そう言って、秘書は血のついたネックレスを急いで紗季に差し出した。紗季の頭は真っ白になった。拒む間もなく、颯真の仲間が数人、慌ただしく駆けつけてきた。
事情を知るなり、彼らは紗季を採血室へ押し込むように連れていった。
状況を飲み込む暇もないうちに、鋭い針が紗季の腕に刺さり、真っ赤な血が採血バッグへ流れ込んでいった。
どうすることもできず、紗季はそこに座って、颯真のために血を抜かれるしかなかった。
400ミリリットルも採り終えないうちに、医師がまた新たな緊急説明を告げた。
「一人から採れる量は最大400ミリリットルです。ですが患者さんの状態が非常に悪く、少なくともあと800ミリリットルの血液が必要です」
仲間たちの顔色が一瞬で変わり、ひどく取り乱した。
「連絡がつく人がいない。どうすればいいんだ?」
「こっちで血液型が合う人も、来られるのは早くても一時間後だ!」
紗季は青ざめた顔を上げるしかなかった。
「血が足りないなら、私から続けて採ってください」
看護師は数秒ためらい、何か言いたげにしたが、結局は頷いた。
400から800へ。さらに1200へ。
紗季の唇は紫がかっていき、顔からは完全に血の気が失せていた。
視界が二重にぶれ始め、意識はますます遠のいていく。そして紗季は、そのまま床に崩れ落ちた……
第8話
目を覚ましたあと、紗季は看護師に颯真の容体を尋ねた。そして弱りきった体を引きずるようにして、颯真の様子を見に行こうとした。
けれど病室の前まで来たところで、中からどっと笑い声が聞こえてきた。
「はははは、まさかあのバカ女が本当に引っかかるとはな。颯真が重傷だと思い込んで、気を失うまで血を差し出すなんて!颯真、あの女はそこまでお前を愛してるんだな。命だって差し出しそうじゃないか。俺たちが苦労してこの芝居を仕組んだ甲斐があったってもんだ」
「これで、青木紗季がどうしようもないくらいお前に溺れてるのははっきりしたな。四年かけて仕掛けた罠も、そろそろ引き上げていいんじゃないか?これ以上付き合う必要もないだろ」
病人らしく見せるためのメイクを落とした颯真は、何事もなかったかのようにベッドに横たわっていた。うつむいたまま、何を考えているのかわからない。
莉緒は颯真の表情をうかがいながら、手を伸ばして彼を軽く引いた。
「颯真、お兄さん、もうすぐ結婚するんでしょう?結婚式の日は、きっと知り合いも大勢来るはずよ。紗季には、家族に会わせるって言って連れていくの。そして式が終わったら、みんなの前で紗季を捨ててやって。最初からただの遊びだったって、そう言ってくれない?」
颯真は唇を固く結び、暗い目をしたまま何も言わなかった。
莉緒の目に涙がにじみ始めるのを見て、ようやく颯真は折れたように、そっと莉緒の手を取った。
「わかった。全部、お前の言うとおりにする」
病室の外に立ったまま、紗季はそのやり取りをすべて聞いていた。全身から血の気が引き、指先まで冷たくなっていく。
信じられない思いで目の前の光景を見つめ、肩が大きく震えた。
重傷で助かるかどうかわからないという話も、紗季がどれほど颯真を愛しているのかを試し、最後にとどめを刺すために仕組まれた茶番だったのだ。
紗季は歯を食いしばり、今すぐ中へ入って問い詰めたい衝動を、どうにか飲み込んだ。
果てしない苦しさとやりきれなさが胸いっぱいに押し寄せ、紗季を完全にのみ込んでいく。
紗季は壁に手をつき、音もなくその場を離れた。頭の中に残っていたのは、たったひとつの思いだけだった。
四年前の初対面で、颯真は紗季を救ってくれた。
これで、その恩は完全に返した。
これから先、二人の間には、もう何の貸し借りもない。
次に会うときは、赤の他人として。
結婚式の前日、紗季は一度青木家へ戻り、遠志と式の段取りを確認した。
最後に、紗季は長く沈黙したあと、どうしても抑えきれず、遠志にひとつ尋ねた。
遠志はそれを聞くと、紗季をじっと見つめた。それから一通の書類を持ってきて紗季に渡し、重いため息をついた。
「綾瀬莉緒が、お前のところへ来たんだな。だから、あの子が本当に自分の姉なのかと聞いたんだろう?
紗季、このことを隠すつもりだったわけじゃない。ただ、これは私たち親の代の話だ。お前たちまで巻き込みたくなくて、今まで話さずにいた。だが、お前ももうすぐ結婚する。私の過去のせいで、お前が余計な面倒に巻き込まれるのは避けたい。だから、今日はすべて話しておく。
私は高校のころ、莉緒の母親である綾瀬詩音(あやせ しおん)と付き合っていた。交際は六年続いた。彼女と結婚するために、私は家の反対を押し切り、お前の祖父とも激しく言い争って、青木家を出た。自分の力で事業を起こし、いつか必ず彼女を幸せにすると信じていたんだ。
だが、現実は甘くなかった。暮らしに余裕がないと、人の心は少しずつすり減っていった。私の事業がまだ軌道に乗る前に、詩音の心は別の男に移った。彼女にずっと言い寄っていた、裕福な家の息子だった。私は必死に引き止めたが、最後には別れを告げられた。
私もそこで心が折れて、青木家へ戻った。そして、お前の祖父の勧めに従い、お前の母さんと結婚した。
その後、私はお前の母さんを心から愛するようになった。だが、お前の母さんはお前を産むときに亡くなってしまった。最期に彼女が望んだのは、私にお前を大切に育ててほしい、ただそれだけだった。だから私は誓った。これから先、二度と妻を迎えないと」
第9話
「だが、お前が三歳のとき、詩音が身を寄せていた男が交通事故で亡くなった。すると詩音は、また私の前に現れた。もう一度やり直したい、と言ってな。私は断った。だが、それからというもの、詩音は何度も私のもとへ来るようになった。あげくに、莉緒は私の娘だと言い出したんだ。
もちろん、私は親子鑑定を受けた。結果ははっきりしていた。私と莉緒の間に血のつながりはない。おそらく、あの子はその男との子だろう。
ただ、詩音はそのころから少し心を病んでいたのかもしれない。莉緒には幼いころから、私が妻子を捨てたせいで母娘二人が不幸になったのだと、ずっと言い聞かせていたらしい。
……まったく、親の因縁ほど厄介なものはないな」
真相を聞いた瞬間、紗季の目から涙がこらえきれずにあふれ出した。
紗季はファイルを開き、その親子鑑定書を見た。
そこには、莉緒と遠志の間に血縁関係はないと、はっきり記されていた。
一瞬、紗季は笑い出したくなった。けれど同時に、鼻の奥がどうしようもなくつんと痛んだ。
長い時間をかけてようやく気持ちを落ち着かせると、紗季は家へ戻った。
玄関のドアを開けると、そこには颯真がいた。
紗季を見るなり、颯真は歩み寄ってやさしく抱きしめ、口づけてきた。
紗季の体がこわばる。本能的に颯真を押しのけようとしたが、彼はさらに強く抱きしめ、口づけもいっそう激しくなった。
耐えきれず、紗季は必死に逃れようとした。その拍子に、うっかり颯真の首筋に赤い傷跡をつけてしまった。
颯真は小さく息を呑んだ。再び紗季を見る目には、複雑な色が浮かんでいた。
「紗季、このところどうしたんだ?俺が怪我をしていたのに、君は病院にも見舞いに来なかった。秘書から聞いたよ。俺が救命処置を受けているとき、君が1200ミリリットルも血をくれたんだってな。疲れすぎて来られなかったのか?どうしてそんな無茶をしたんだ。一人でそんなに血を抜くなんて」
紗季は目を伏せた。沈んだ声からは、感情が読み取れなかった。
「四年前、あなたは私を助けてくれた。だから今度は、私があなたを助けた。颯真、これで貸し借りはなしね」
颯真の体がびくりとこわばった。次の瞬間、彼は紗季をさらに強く抱きしめた。
「何言ってるんだよ。君は俺の彼女だろ。貸し借りとか、そんな言い方するなよ。ずっと、俺たちのことをちゃんと紹介してほしがってたじゃないか。明日は兄貴の結婚式だ。君も一緒に連れていって、家族に紹介する。な、それでいいだろ?」
紗季は数歩後ずさり、背を向けて寝室へ戻った。残した言葉は、たったひと言だけだった。
「また明日」
颯真は、紗季が了承したのだと思い、それ以上深く考えなかった。
翌日、颯真が目を覚ましたのは午前十一時だった。
家の中に、もう紗季の姿はなかった。使用人によれば、紗季は今朝四時に出ていったという。
颯真は不安になり、スマホを手にして紗季に連絡しようとした。どこへ行ったのか聞きたかった。
けれど紗季は、一度も電話に出なかった。
その一方で、父の白石宗一郎(しらいし そういちろう)と母の白石麗奈(しらいし れいな)からは何度も電話がかかってきて、早く式場へ来るよう急かされた。
颯真は仕方なく先に向かった。道中も、紗季へ何度もメッセージを送り続けた。
結婚式開始まで残り数分となったころ、颯真はようやく式場に到着した。
紗季からは、相変わらず何の連絡もなかった。
苛立ちは募るばかりだった。どこかにぶつけたい衝動に駆られたそのとき、スタッフがひとつのギフトボックスを運んできた。新婦から彼に渡すよう頼まれたものだという。
新婦?
颯真は眉をきつく寄せ、箱を開けた。
中に入っていたのは、二枚の紙だった。
一枚は、親子鑑定書。
もう一枚は、中絶手術の通知書だった。
颯真は頭を殴られたような衝撃を受け、その場に立ち尽くした。
そのとき、会場にウェディングマーチが響き渡った。
颯真はその音に顔を上げた。
すると大扉の向こうに、見慣れた人影が現れた……