記憶を失くしたプリンチペッサと、返された指輪

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記憶を失くしたプリンチペッサと、返された指輪

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コルヴォーナの裏社会には、ひとつの鉄の掟が存在する。 ドンが同じ女を三ヶ月にわたって傍に置いたとき、ドンナは一族の面前で自らシグネット...

Chương (1)

第1章

コルヴォーナの裏社会には、ひとつの鉄の掟が存在する。 ドンが同じ女を三ヶ月にわたって傍に置いたとき、ドンナは一族の面前で自らシグネットリングを外し、その女の指に嵌めなければならない、というものだ。 ベリーニ家のドンであるルカが、愛人のミアを連れて三ヶ月の長期遠征に出ると告げたとき、コルヴォーナの裏社会全体が、私――エラーラが取り乱し泣き崩れる瞬間を、固唾を呑んで待ち構えた。 ルカと共に過ごして、七年。 私はどこへ行くにも彼の後をついて回り、片時も傍を離れようとしなかった。夜中に目が覚めては彼の温もりを確かめずにはいられず、その存在を感じて初めて、安心して眠りにつけた。私は、そんな女だった。 私の執着ぶりはこの界隈で知れ渡っており、誰もが、私が彼を絶対に手放すはずがないと思っていた。 しかし、ミアが甘ったるい笑顔で指輪を求めて手を差し出してきたとき、私は一粒の涙も零さなかった。 静かに、一族の紋章が刻まれたシグネットリングを外し、彼女の薬指へと滑らせた。 上座の革張り椅子に深々と腰掛けたルカは、ウィスキーのグラスをゆっくりと揺らしながら、冷たい青の瞳に満足げな光を宿していた。 「やっと身の程が分かったか、エラーラ。自分の立場というものが」 私は何も言い返さず、ただ指輪のなくなった指先に視線を落とした。 ルカは知らない。一ヶ月前、私が失われていた七年分の記憶を、すべて取り戻していたことを。 私はただの孤児などではない。旧世界で最も強大な名門、ロッシ家の行方不明となっていたプリンチペッサ――その血を引く者なのだ。 三日後には、兄が率いる武装護送隊がコルヴォーナに乗り込み、私を連れ戻しに来る。 第1話 コルヴォーナの裏社会には、ひとつの鉄の掟が存在する。 ドンが同じ女を三ヶ月にわたって傍に置いたとき、ドンナは一族の面前で自らシグネットリングを外し、その女の指に嵌めなければならない、というものだ。 ベリーニ家のドンであるルカが、愛人のミアを連れて三ヶ月の長期遠征に出ると告げたとき、コルヴォーナの裏社会全体が、私――エラーラが取り乱し泣き崩れる瞬間を、固唾を呑んで待ち構えた。 ルカと共に過ごして、七年。 私はどこへ行くにも彼の後をついて回り、片時も傍を離れようとしなかった。夜中に目が覚めては彼の温もりを確かめずにはいられず、その存在を感じて初めて、安心して眠りにつけた。私は、そんな女だった。 私の執着ぶりはこの界隈で知れ渡っており、誰もが、私が彼を絶対に手放すはずがないと思っていた。 しかし、ミアが甘ったるい笑顔で指輪を求めて手を差し出してきたとき、私は一粒の涙も零さなかった。 静かに、一族の紋章が刻まれたシグネットリングを外し、彼女の薬指へと滑らせた。 上座の革張り椅子に深々と腰掛けたルカは、ウィスキーのグラスをゆっくりと揺らしながら、冷たい青の瞳に満足げな光を宿していた。 「やっと身の程が分かったか、エラーラ。自分の立場というものが」 私は何も言い返さず、ただ指輪のなくなった指先に視線を落とした。 ルカは知らない。一ヶ月前、私が失われていた七年分の記憶を、すべて取り戻していたことを。 私はただの孤児などではない。旧世界で最も強大な名門、ロッシ家の行方不明となっていたプリンチペッサ――その血を引く者なのだ。 三日後には、兄が率いる武装護送隊がコルヴォーナに乗り込み、私を連れ戻しに来る。 …… ベリーニ家の邸宅に漂うのは、葉巻と高級香水が混ざり合った、むせ返るほど濃密な空気。年に一度の晩餐会が幕を開けていた。 ミアはシグネットリングを嵌めた手を高々と掲げ、集まった一族の面々の前で誇らしげに見せびらかしていた。 周囲からわざとらしい感嘆の声が上がる。その合間に、私には嘲笑を含んだ視線が無数に突き刺さった。 長テーブルの上座に腰を据えたルカは、人混みの向こうから私の横顔を無感動な瞳で眺めていた。まるで他人事のような、関心の薄い眼差しで。 十分に賛辞を浴びて満足したのか、ミアはワイングラスを手に私のそばへやってきた。 彼女の視線が、私の手首に止まった。「クオーレ・エテルノ」――永遠の心と名付けられた、ルビーのブレスレット。 三年前の記念日に、ルカが私を喜ばせようと闇オークションで大金を投じて競り落としたものだ。 ミアは上品ぶって笑い声を立て、私の耳元へとそっと顔を寄せた。 「エラーラ、もう指輪は渡したんでしょう。過去の栄光にいつまでもしがみついているのは、みっともなくない?」 手を伸ばし、ブレスレットに触れようとする彼女から、私は半歩身を引いた。 今夜の最も重要な儀式が始まる時刻だった。一族の伝統に従い、ドンナが聖なる蝋燭に火を灯す時間だ。 ところがミアが燭台へ先に手を伸ばし、甘ったるい声で割り込んできた。 「ルカが、今夜は私にやってほしいって」 私が反応する間もなく、彼女は四代にわたって受け継がれてきた家宝の銀製燭台を掴み、わざとらしく手首を傾け、手から滑り落とした。 ガシャン、という鋭い音がホールに響き渡る。重い金属の台座がカーペットを転がり、ガラスの筒が粉々に砕け散った。 熱い蝋が床に飛び散る。ミアはすぐさま手首を押さえ、みるみるうちに瞳に涙を溜めていった。 「エラーラ、手伝おうとしただけなのに。嫌だったなら、一言そう言ってくれればよかったじゃない。どうして押したりするの……」 レコードプレーヤーから流れていたジャズが、ジリッと音を立てて止まった。 ホール中の視線が、一斉に私たちへと集まった。 この七年間、ルカに近づこうとした女も、私に歯向かおうとした女も、ことごとくこの邸宅から追い出されてきた。 昔の私は、それほどまでに情緒不安定だったのだ。他の女がルカに目を向けるだけで彼の腕の中に逃げ込んで泣き続け、追い払うと約束してもらうまで泣きやまなかった。 でも、今回は違う。 ルカが大股で歩み寄り、長い腕でミアを自分の背後へ庇うように隠した。 彼女の白い肌に走るかすかな引っ掻き傷を目にした瞬間、彼の形のいい眉がたちまち険しくなった。 「またそうやって被害者ぶる気か、エラーラ。ミアはまだ来たばかりだ。古参の者たちの前で恥をさらすな」 露骨なほど一方的な庇い方だった。重く、責め立てるような声。 私はかつて全てを捧げて愛したその顔を見つめ、胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。 深く息を吸い込み、瞳に滲みかけた涙をそっと押し殺した。 弁解の言葉は、一言も口にしなかった。昔のように彼の袖を掴んで、必死に説明しようとすることもしなかった。 ただ静かに顔を上げ、冷静な手つきで「クオーレ・エテルノ」の留め具を外した。 人々の冷たい視線が突き刺さる中、私はそっとブレスレットをミアへと差し出した。 「気に入ったなら、どうぞ。ごめんなさい、足元がふらついて、驚かせてしまったわね」 第2話 ルカの大きな体が、ぴたりと固まった。 彫りの深い目元に一瞬の驚きが走り、眉間の皺がさらに深くなる。 ミアは完全に呆気に取られ、涙を絞り出すことすら忘れていた。 私はシルクのハンカチを取り出し、指先についた蝋を静かに拭うと、その場に膝をついた。 こぼれそうになる涙をまばたきでこらえながら、静かに頭を下げる。 素手のまま、まだ熱い蝋のかけらと鋭利なガラスの破片を拾い上げ、そばにあった真鍮のくずかごへと放り込んでいく。 ガラスの破片が手のひらに刺さっても、私は眉一つ動かさなかった。 全て片付け終えると、立ち上がってルカを一瞥した。 「ドレスが汚れてしまったわ。部屋に戻って着替えてくる」 踵を返し、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、階段へと向かって歩き出す。 ルカの視線が、その背中をずっと追っているのを感じた。 寝室のドアを押し開け、鍵をかける。 重い木の扉に背をもたせかけ、暗闇の中へずるずると崩れ落ちた。声を殺して、涙の流れるままに任せた。 七年間の愛と献身が、こんなにもあっけなく終わるなんて、思いもしなかった。 そのとき、ベッドサイドの暗号通信用の端末が光った。長兄であるロレンツォからのメッセージだった。 【ベリーニがお前に負った借りは、利子をつけて返させる】 その言葉を見つめているうちに、じわりと目頭が熱くなる。 不意に、ドアが激しく蹴り開けられた。 ルカが凍てつくような気配をまとって踏み込んでくる。鋭い眼差しが、私の手の中にある端末へと一直線に向けられた。 彼は大股で歩み寄り、端末をひったくった。 幸い、彼が手を伸ばした瞬間、画面は暗転していた。 パスワードを試すことすらせず、ルカは端末を分厚いカーペットの上へと放り投げた。 そして私の顎を掴み、強引に上向かせた。 「さっきのは何のつもりだ?」低く、値踏みするような声だった。「気を引くための新たな駆け引きか?」 私は真っ直ぐ彼の目を見返し、平坦な声で答えた。「いつも言っていたでしょう。依存しすぎだ、もっと自立しろって。だから指輪もブレスレットも渡した。あなたの望み通りにしたわ。これで満足?」 複雑な感情が、ルカの瞳をよぎる。 顎を掴む力がふと緩んだかと思うと、今度は大きな手が私の腰の後ろに回り、壁へと押しやった。 彼のシャツからラム酒の強い香りが漂ってくる。それにミアのローズ香水の甘ったるさが混じって息が詰まりそうで、一刻も早くここから逃げ出したかった。 ルカが顔を下ろし、温かく薄い唇が耳たぶをかすめた。低く、掠れた声で囁いた。 「エラーラ、今夜辛い思いをさせたのは分かっている。だがミアの兄は、俺に情報を横流しして命を落とした。俺は彼女に借りがある。守ってやらなければならない。 お前が大人しくしていれば、依存するのをやめれば、ドンナの座はお前のものだ。お前はこの俺のそばに一番長くいた女だ。誰より特別なんだぞ」 見下すような、恩着せがましい口調だった。 こんなわずかな情けをくれてやれば、私がまたすがりついてくると信じて疑わないのだ。 そのとき、扉の外から切羽詰まったようなノックの音が響いた。 ミアの弱々しい声が、扉の向こうから流れてくる。 「ルカ、また胸が痛いの。来てもらえる?」 腰に回っていた手が、瞬時に離れた。 一瞬の躊躇もなく、彼は背を向ける。 ドアノブを掴んだところで、足を止めて振り返った。 「明日の夜、ハイレートの闇カジノがある。ミアを連れて行って、場慣れさせる。そのサン・クリストファーのメダルを外して、彼女に譲ってやれ。お守りになるだろう」 聞き違えたのかと思った。 サン・クリストファーのメダル。 三年前、ルカをかばって銃弾を受け、手術を乗り越えたあの日、先代のドンナである彼の母が、自ら私の首にかけてくれたものだ。 「エラーラ、今日からあなたはベリーニ家の一員よ」 涙をこらえながら、そう言ってくれた。 このメダルには私の血と、ルカへの忠義が染み込んでいる。命よりも大切なものとして、シャワーのときでさえ外したことがなかった。 一度、新入りの使用人がどこかへしまい込んでしまったとき、なくなったと思って泣き崩れたことがある。 あのとき、ルカは私を膝に引き上げてキスをして、笑いながら言ったのだ。臆病な仔猫め、と。 「お前の持ち物に手を触れることは誰にも許さない」と。 第3話 それなのに今、彼はそのお守りを別の女に渡せと、何でもないことのように言っている。 爪が手のひらの肉に食い込み、血が滲みそうになった。 ルカの冷たく傲慢な顔を正面から見据え、私はゆっくりと、静かに頷いた。 「分かった。朝に届けさせる」 ルカの目がかすかに揺れた。もう一度だけ意味ありげに私を見つめてから、扉を押し開けて出ていく。 低く甘やかな宥め声がすぐに廊下に流れ、続いて隣の寝室の鍵が閉まる音がした。 私は呆然とその場に立ち尽くしてから、くるみ材の引き出しを開けて、古いカレンダーを取り出した。 赤いペンを手に取り、今日の日付に、力を込めて大きくバツをつける。 兄が迎えに来るまで、あと二日。 それから蝋で汚れたドレスを脱いで、バスルームに入った。 シャワーヘッドから降り注ぐ熱いシャワーが、疲れ果てた体を洗い流していく。立ち込める湯気の向こう、鏡に映る自分の顔は、ひどく青白かった。 ルカ、あなたは七年前、スラム街の銃撃戦の中から私を拾ってくれた。その命の借りは、返すべきものだった。 この七年で、私はあなたのために銃弾を受け、裏切り者を始末し、ベリーニ家を鉄壁のごとく守り抜いてきた。 今日で、その命の恩はきれいに返し終えた。 翌朝。ルカの命じた通り、私は専属のメイドにあのメダルをミアの部屋へと届けさせた。 ミアは傲慢にも、使用人に扉を開け放っておかせていた。 長い廊下を歩いていると、彼女が化粧台の前に座ってメダルをいじっているのが目に入った。金属製の小さなやすりで、メダルの表面に施された釉薬を削り落としている。 「こんな古くさいもの、とっくに時代遅れじゃない。溶かしてダイヤのネックレスにでも作り替えてもらおうかしら。そっちの方が私には似合うわ」 ミアは傍らの使用人にそう言い放った。使用人は戸口に立つ私に気づき、息を呑んで固まった。 私は歩調を乱すことなく、無表情のままキッチンへと向かった。 雨の日になると、ルカの胸の古い銃傷は酷く疼く。この七年、その痛みをやわらげる特製の煎じ薬を作ってきたのは、いつも私だった。 静かに沸き立つ手鍋の前に立ち、黒褐色の煎じ液が泡立つのを、ただ見つめる。 これが最後だ。 濃い薬湯を陶器のカップに注ぎ、トレーに載せてルカの書斎へと向かった。 重い両開き扉が少し開いていて、中でルカがファミリーのコンシリエーレであるマルコと話しているのが聞こえてきた。 ノックしようと手を上げた瞬間、マルコの声がはっきりと届いた。 「ドン、今回はやりすぎです。ドンナはあなたのために銃弾を受けた女ですよ。心が完全に壊れてしまうとは思わないのですか?あれほどあなたを頼りにしているというのに」 手が、空中で止まった。ルカの声は、氷のように冷たかった。 「他にどこへ行くというんだ。あの女にはこの屋敷しかない。なにしろ七年間、彼女は俺に依存しすぎた。俺がいなければ生きていけないとでも思い込んでいる。しかし今はミアに守りが必要だ。エラーラも、そろそろ大人になるべき時だ。 あの依存心を強制的に断ち切る。誰がここの真の支配者かを分かってもらう。それさえ受け入れれば、ベリーニの家に居場所はある。路頭に迷わせる気はない」 マルコが深く溜め息をついた。 「そんなやり方をして、本当に愛想を尽かされても構わないと?二度とあなたを振り向かなくなりますよ?」 第4話 ルカは鼻で笑い、絶対の確信を滲ませた声で言った。「愛想を尽かされる?エラーラの最大の賭けは、俺に人生を懸けたことだ。心配するな。あいつが俺から離れられるはずがない。なにせあいつには俺しかいない。それ以外には何もないんだからな」 手にした銀のトレーが、かすかに傾いた。 熱い薬湯が数滴、手の甲に跳ねる。 白い肌に赤い痕が浮き上がった。 私はしばらくそのまま立っていた。赤く腫れ上がり、徐々に水ぶくれになって、ようやく痛みを感じた。 それが手の痛みなのか、胸の痛みなのか、分からなかった。 銀のトレーを持ち直し、廊下の突き当たりへと向かう。 そこには、ルカが最も大切にしているチューリップの鉢植えがあった。オランダの古い貴族の庭から掘り起こしたという、由緒ある花だ。 手首をそっと傾け、三時間かけて煎じた薬湯をそのまま土の中へ流し込んだ。 ちょうどそこへ、ミアがヤスリで削って台無しにしたメダルを、指先で見せびらかすように揺らしながら近づいてきた。 私が薬湯を流す様子を見つめ、口元に勝ち誇った笑みを浮かべる。 「エラーラ、ルカが言っていたの。主寝室の方が日当たりがいいから、体にいいって。兄が死んでから、ずっと心臓が弱くてね。今夜中に移るように言われたわ。荷物をまとめて部屋を空けておいてもらえると助かるんだけど」 私がベリーニ家の主寝室に住んで、五年になる。 ベッドサイドの壁には、ルカと私が初めて二人で撮った写真がまだ飾られている。ベッドも、化粧台も、床板でさえも、あの頃の激しい時間の名残を刻んでいた。 私は私の居場所を奪い取ろうと野心を燃やすミアの顔を見て、はっきりと頷いた。 「分かった。すぐに片付ける」 主寝室に足を踏み入れ、高価な調度品には指一本触れなかった。金庫の中の無数のダイヤモンドにも見向きもしない。 古びたトートバッグを引っ張り出し、着替えを数枚と、金庫の最奥に隠してあった身分証明書を放り込んだ。 記憶が戻って以来、ずっと手元に置いていた本物のパスポート――ロッシ家の後継者としての、本当の私の名前が刻まれたもの。 ポケットの中で暗号通信用の端末が震えた。 兄からのメッセージが画面に浮かぶ。 【「孤児のエラーラ」の戸籍と身分情報の抹消手続きを開始した。完了すれば、その人物は存在しなかったことになる。本名で、過去を捨てて、まっさらな状態で家に帰っておいで】 バッグのファスナーを閉め、持ち上げて、主寝室を後にした。 向かったのは、邸宅の北側にある人目のつかない物置部屋だ。 日の光がほとんど差し込まない場所で、空気には錆とカビの刺さるような臭いが染み付いていた。 それでも、誰にも邪魔されない。それだけで十分だった。 隅に置かれた狭いシングルベッドにバッグを放り、部屋の中にはそれ以上手をつけなかった。 脱出まで、あと十二時間。 夕暮れが近づく頃、コルヴォーナに雪が降り始めた。 ルカが闇市場での武器取引を終えて邸宅に戻ってきた。外の凍てつく寒気を全身にまとったまま、苛立たしげにネクタイを引き緩め、部屋を見渡す。私の姿がないと気づいて、眉を顰めた。 青ざめた顔で震える執事が報告した。「ドン、ドンナが本日の午後、北翼の物置部屋に移られました」 ルカの険しい表情が、今度は怒りに歪む。 長い廊下を大股で突き進み、物置部屋の扉を蹴り飛ばした。 扉が壁に激突し、轟音が響く。私は窓にもたれて雪を眺めていたが、音に振り返った。 近づいてくる彼を見つめる。燃えるような目で薄汚い部屋を一通り見渡したルカの視線が、鉄製のベッドに投げたキャンバス地のバッグへと落ちた。 「エラーラ、今度は何のつもりだ」 低く、刃のような声だった。 「ミアが主寝室を選んだからといって、使用人部屋に転がり込む許可を誰が出した?俺の顔に泥を塗りたいのか?」 私は窓枠から腰を上げ、真っ直ぐに彼を見返した。 「他のゲストルームは全部、ミアさんの荷物で埋まっていたの。空いていたのがここだけだった。どこで寝ても、私は構わない」 静かな受け答えが、ルカをとうとう限界まで追い詰めた。私の手首を掴む力は、悲鳴を上げそうになるほど強かった。 揉み合いになった拍子に、カシミヤのセーターの袖がめくれ上がった。前腕に刻まれた、銃弾を受けた醜い傷跡があらわになる。 三年前の街での暴動。彼を突き飛ばして庇い、本来なら彼の心臓を貫いていたはずの弾丸を、この腕で受けた。 あのとき私は血を流しすぎて、医者の手術台の上で死にかけた。 なのに今、ルカはその傷跡を見つめていた。労わりの欠片もなく、ただ制御を失った怒りを滾らせた目で。 「その傷を見せて、同情を引こうというのか?昔みたいに抱いて宥めてもらえると思っているのか。今日の午後、ミアはキッチンでお前に出くわして、その傷跡を見て怯えて食事が喉を通らなかったそうだ。 明日から邸宅の中ではその腕を隠せ。どうしても隠せないなら、しばらく裏の旧使用人棟に移れ。ミアの目に入るな」 残酷な言葉で私を打ちのめし、どれほど落ちぶれたかを思い知らせようとしている。赤く腫らした目で縋りついてくるのを待っているのだ。 傲慢にも、私が折れるのを、跪くのを待ち構えていた。 おそらくルカ自身も気づいていなかった。怒鳴り終えた自分の手が、小刻みに震えていることを。 エラーラの腕の傷跡は、まるで目に見えない手のように彼の心臓を締めつけ、息を詰まらせ続けた。それでもなぜか、残酷な言葉が止められなかった。 そして私は、制御を失った怒りに歪むその顔を見つめながら、深い静けさを感じていた。 心はとうに燃え尽きた灰だった。波紋の一つも立たない。 私は言い返さなかった。言い訳もしなかった。以前のように泣きもしなかった。 手を引き戻し、かがんでキャンバス地のバッグを拾い上げる。 「分かった。今すぐ行く」 バッグを手に彼の横を通り過ぎ、真っ直ぐ扉へと向かった。 ルカがついに爆発した。 期待していた涙も懇願も、返ってこなかった。私の静かな背中が、彼の目には最大の反抗に映ったのだ。 彼は大股で追いすがり、バッグをひったくり、邸宅の重い正面扉を勢いよく開け放つ。 凍てつく吹雪が、玄関ホールへと吹き込んできた。 ルカはバッグを膝丈まで積もった雪の中に投げ捨て、外へと指を向けた。 「エラーラ、そんなに出ていきたいなら、荷物を持ってさっさと出ていけ!二度とこの家に戻ってくるな!泣き虫のお前が、俺なしでこの吹雪の中、一晩でも生き延びられるか見てやろうじゃないか!」 私は薄いカシミヤのセーター一枚で、戸口に立った。 風が刃のように顔を切る。 振り返ると、ルカが食い入るようにこちらを見ていた。目が合った瞬間、その顔に安堵の色が滲んだ。 でも私は迷わず背を向け、吹雪の中へと踏み出した。