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クズ男を捨て、傷顔の完璧な御曹司に溺愛
椎名琴音(しいな ことね)は、今夜も親友の兄・藤城瑛介(ふじしろ えいすけ)と体を重ねていた。 瑛介の額には細かな汗がにじんでいるが、一...
Chương (1)
第1章
椎名琴音(しいな ことね)は、今夜も親友の兄・藤城瑛介(ふじしろ えいすけ)と体を重ねていた。
瑛介の額には細かな汗がにじんでいるが、一向に達する気配はなかった。
「あの……違うやり方にする?」琴音は彼を気遣い、頬を染めながらそっと提案した。
瑛介は優しく琴音の髪を撫でて言った。「大丈夫だ。自分でなんとかするから、先にお風呂に入ってきな」
シャワーを浴びながら、ふと着替えを部屋に忘れてきたことに気がついた。
バスルームのドアを開けた途端、リビングから瑛介の気持ちよさそうな声が漏れてきた。「沙耶(さや)……」
第1話
椎名琴音(しいな ことね)は、今夜も親友の兄・藤城瑛介(ふじしろ えいすけ)と体を重ねていた。
瑛介の額には細かな汗がにじんでいるが、一向に達する気配はなかった。
「あの……違うやり方にする?」琴音は彼を気遣い、頬を染めながらそっと提案した。
瑛介は優しく琴音の髪を撫でて言った。「大丈夫だ。自分でなんとかするから、先にお風呂に入ってきな」
シャワーを浴びながら、ふと着替えを部屋に忘れてきたことに気がついた。
バスルームのドアを開けた途端、リビングから瑛介の気持ちよさそうな声が漏れてきた。「沙耶……」
琴音の頭が真っ白になった。ドアの隙間から、瑛介がソファにもたれかかり、入江沙耶(いりえ さや)の写真を唇に押し当てていたのが見えた。
瑛介は目を閉じ、喉を震わせながら、掠れた声で呟いていた。「沙耶……愛してる……」
自分との営みでは一度として満たされなかった彼が、今、沙耶の名前を呼び、写真を見つめるだけで、あっさりと達してしまった。
その光景を見た琴音は、全身の血の気が引いていくのを感じた。
次の瞬間、突然瑛介の電話が鳴り出した。瑛介は荒い息を整えてから、受話器を取った。
すると、電話越しに友人の佐野陸(さの りく)の怒りに満ちた声が聞こえてきた。
「瑛介、本当に入江さんを金で買うのか?
昔、あいつがお前をどうやって捨てたか忘れたのか?お前の会社が倒産した途端、あいつは校長の息子と付き合い始めたんだぞ。今お前が金持ちになったからって、また寄ってきて……そんな女を……」
瑛介は目を閉じ、静かに答えた。「沙耶が見栄っ張りで、他人の気持ちを考えないような人だってことは知ってる」
一呼吸置き、彼は自嘲気味に笑った。
「それでも、愛してるんだ。ここ数年、会いたくておかしくなりそうだよ」
陸は息を荒げた。「なら琴音さんはどうするんだ?今の彼女は琴音さんだろうが!彼女を何だと思ってるんだ!」
瑛介は眉間を揉んだ。「頑張ってみたさ。でも、どうしても好きになれなかった。
本気で誰かを好きになったら、他の人なんて代わりに過ぎないんだ。
琴音は良い女だよ。でも俺にとって、沙耶の代わりでしかなかったんだ」
陸はため息をついた。「お前……本当にバカな男だな!琴音さんにバレて振られたら、後悔しても遅いぞ!」
瑛介の声には疲れがにじんでいた。「その時は受け入れるよ。
あまりに長い付き合いだから、自分から別れを切り出せないんだ。
もし琴音のほうから別れたいと言ってくれるなら、俺も都合がいいよ」
電話を切った瑛介がこちらへ歩いてくるのを見て、琴音は震え出し、急いでバスルームへ戻った。
シャワーの水が冷え切った体を叩き、琴音は瑛介と出会った時のことを思い出した。
それは高校1年生の入学式、瑛介が生徒会長として壇上で挨拶をしている時だった。
瑛介は清潔感のある白いシャツに身を包み、黒いスラックスがその長い脚を際立たせていた。生まれながらに備わったような気品に加え、思わず目を奪われるほどの端正な顔立ちだった。彼が顔を上げた瞬間、講堂にいた女生徒たちが一斉に息を呑んだことは今でも覚えている。
琴音は人混みの中で、マイクの高さを調節する瑛介の骨ばった指と、言葉を発するたびに上下する喉仏を見つめていた。
その瞬間、琴音は心臓が飛び出しそうになっていたのだ。
「ねえ、見惚れてる?」親友の藤城小春(ふじしろ こはる)が肘で突いてきた。「あれ私のお兄ちゃん。かっこいいでしょ?」
後になって知ったのだが、校内にはこういう言葉が流行っていた。「課題を忘れることはあっても、瑛介の顔を忘れることはない」と。
瑛介は全校女子の憧れだったが、全ての告白を丁寧に断り続けていたため、恋愛に興味がないと思われていた。
そして琴音は、小春の家に遊びに行くたび、こっそりと瑛介を陰から見つめることしかできなかった。
すべては、沙耶が転校してきたあの日から変わったのだ。
沙耶は炎のような情熱で、強引に瑛介を追いかけた。
誰もが沙耶も他の女子たちと同じ結果になると思っていたが、3ヶ月後、瑛介はあっさりと彼女の告白を受け入れた。
琴音は一生忘れないだろう。廊下の曲がり角で、瑛介が沙耶を壁に押し当ててキスをしているのを見てしまったあの日のことを。
瑛介は長い指を沙耶の髪に絡め、その瞳にはいつもの冷静さなど欠片もなかった。
琴音はただ、瑛介が沙耶に注ぐ愛情を見つめることしかできなかった。
瑛介は沙耶のためならなんでもできた。彼女の陰口を言う生徒を殴り、彼女とデートするために授業をサボった。
高校を卒業して、大学3年生になった時、藤城家が倒産した。
沙耶はすぐさま瑛介を振って、校長の息子と共に海外へ渡った。そして最後に、「瑛介、あなたじゃ私を満足させられないわ」と言い捨てたのだ。
あんなに誇り高い瑛介が、沙耶が乗っていた車を追いかけて倒れるまで走り続けた。
いくら叫んでも、沙耶は彼を振り返ることはなかった。
その後、まともにご飯も口に入らなくなった瑛介を、琴音はただ心配して、彼の周りをうろうろしていた。
そしてある日、「俺に付き纏って何がしたい?」と、瑛介に問い詰められた。
琴音は答えられなかった。
「俺が好きなのか?だったら付き合ってあげる」と彼は突き放すように言った。
付き合い始めて、瑛介が自分を選んだのは、過去の傷を忘れるためだったということを理解した。
それでも琴音は嬉しくて、瑛介に尽くし、彼の冷え切った心を癒そうとした。
いつしか、瑛介も琴音を大切にしてくれるようになった。
琴音の誕生日を覚えるようになり、体調が悪い時に心配し、雷の夜には笑いながら抱きしめて、「怖くないぞ」と慰めてくれるようになった。
やがて瑛介が倒産した藤城グループを復活させ、琴音をさらに甘やかすようになった。
2週間前、会員制サロンで給仕として働く沙耶に再会するまでは。
沙耶が誤って琴音のスカートを汚してしまい、瑛介は即座に1億の賠償を要求した。
沙耶が目を潤ませ、恐る恐る返事した。「お金はないわ。でもまだ処女だから体は高く売れるわ。金が手に入ったらすぐに返す、それでいい?」
瑛介は沙耶の顎を掴み、冷ややかに言った。「いいだろう。全額きっちり返してもらうからな」
あの夜、瑛介は書斎に閉じこもって、琴音を一人寝室に残していた。彼が戻った時、きついタバコの匂いが琴音の鼻をついた。
そして瑛介は一晩眠れなかった。
この時すでに、瑛介は沙耶の体を買ってやることを決めていたのだ。
長年抱き続けてきた憎悪の裏に、荒々しい恋慕と愛着が隠れていた。
琴音と一緒にいて満足できなかったのは、彼女との関係がゴールではなく、ただの通過点だったからだ。
……
シャワーを浴びながら、琴音は突然笑い出した。笑いながら、涙が溢れ出た。
こっちにだってプライドはある。去り際ぐらい自分で決めてやる。
愛してないのなら、正直に言ってくれればよかった。
そうすれば諦めるのに。
琴音はシャワーを止めて、スマホを手にして、誰かにメッセージを送信した。
翌朝。瑛介が朝食を取り終えたばかりの時、琴音は身支度を整え終わっていた。
「そんなに早く起きて。もう少し寝ていればいいのに」
琴音は視線を落とした。「ちょっと、行かなきゃいけないところがあって」
瑛介は微笑んだ。「車で送ろうか」
車に乗り込み、琴音が行先を伝える前に瑛介のスマホが鳴り出した。
秘書・黒崎拓己(くろさき たくみ)の声が響く。「社長。入江さんの件ですが、今夜例の会員制サロンで行われる予定です。社長も直接お越しになりますか?」
瑛介は表情を曇らせて返事した。「ああ」
間を置いてから、また口を開いた。「今すぐ向かおう」
瑛介は通話を切って琴音のほうを見た。言い訳をする前に、琴音は全てを察した。
沙耶の初夜が他人の手に渡るのがそんなに嫌なのか?
琴音は瑛介が何かを言い出す前に彼を遮った。「用事があるのね。私はここから自分で行くわ」
瑛介は弁解もせず、今すぐにでもこの場を離れたい一心で頷いた。
「わかった。気をつけて」
琴音は返事を返さなかった。車を降りるとすぐ、タクシーを捕まえて小春が待つカフェへ向かった。
ドアを開けた途端、小春が駆け寄って琴音の両手を握った。そして目に涙を浮かべて言った。
「琴音、昨日のメッセージ……本気?本当に私の代わりに一ノ瀬家に嫁ぐっていうの!?」
第2話
琴音はうなずいた。「本当よ」
「だめだよ。一ノ瀬家は大金持ちだけど、後継ぎの湊さんはずっと海外にいるんだよ。噂では性格が最悪で、顔にも大怪我を負ってるって。おじいちゃんが決めた結婚じゃなかったら、私だって……
それに琴音、お兄ちゃんが好きだったんじゃなかったの?なんで急に私の代わりに嫁ぐなんて言うの?」
小春はそこで、琴音の顔色が悪いことに気づいた。「もしかしてお兄ちゃんに何かされた?また沙耶さんのせい?私、今からお兄ちゃんに文句を言ってきてあげる!」
琴音は慌てて小春の手を握りしめた。「小春、瑛介とはもう終わったの。もう好きじゃないし、これからは一切関わりたくないの。
小春がずっと小林先輩との駆け落ちを計画して、国を出るタイミングを迷ってるのは知ってるの」
琴音はバッグから航空券を取り出して、小春の手に握らせた。「行きなさい。小林先輩が空港で待ってるわ。10時の便だから、今から行けばまだ間に合う」
小春の目から一気に涙があふれ出た。「でも、あなたはどうするの?」
「2週間後の結婚式は、私が小春の代わりに嫁ぐから」琴音は小春の涙を優しく拭った。「二人とも不幸になる必要はないわ。あなたが幸せになって」
小春は唇を震わせ、最後は琴音を強く抱きしめた。「琴音、この恩は一生忘れないからね」
こうして小春は旅立った。
琴音は空港の大きな掃き出し窓の前に立ち、小春の乗った飛行機が飛び立つのを静かに見届けた。
ガラス越しの日差しが、青ざめた琴音の横顔を照らした。ふと、瑛介と付き合うことになった日のことを思い出す。あの時瑛介は階段の上で、似たようなオレンジ色の光を浴びながら自分に手を差し伸べてくれたのだった。
あの時の自分は本当に馬鹿だった。片思いが、光の中で報われたのだと思い込んでいたのだから。
琴音は悲しそうな笑みを浮かべて空港を後にし、街で一番高級なウェディングドレスショップへ向かった。
店員が愛想よく迎えてくれた。「いらっしゃいませ。どのようなドレスをお探しですか?」
琴音は並んでいる華やかなドレスではなく、シンプルで落ち着いたシルクのマーメイドドレスを選んだ。
「これをいただけますか?持ち帰りたいんです」
店員は目を見開いた。「ご試着はなさらないのですか?」
「大丈夫です」琴音は首を横に振った。「着られますから」
どうせ、この結婚はただの取引なのだから。
一ノ瀬湊(いちのせ みなと)の祖父・一ノ瀬茂樹(いちのせ しげき)は重い病気を患い、自分が生きている内に孫の結婚を見届けたかった。
だが肝心の後継者である湊は、性格も顔もダメな上に、ずっと海外で暮らしている噂が出回っている。そのため、東都の令嬢たちは誰も彼と結婚したがらなかった。
相手が見つからない状況で、一ノ瀬家が藤城家との間にある婚約のことを思い出したのがこれまでの話だった。
今、琴音が小春の代わりに嫁ぐと言えば、一ノ瀬家が断るはずもなかった。
彼らが求めているのは、ただの花嫁なのだから。
その花嫁が誰であろうと、彼らにとってはどうでもいいことだ。
家に戻ると、琴音はウエディングドレスをスーツケースに詰め、身の回りの片付けを始めた。
琴音は引き出しから、写真の束を見つけ出した。写真は全部、瑛介との思い出を記録していた。
高校生の頃に盗み撮りした瑛介の横顔。大学生の時に瑛介とハグする口実を作るために、サークルのみんなに一人ずつ抱きついてようやく手に入れた初めてのツーショット。そして、初めて二人でデートに行った時の、自分の輝いている笑顔……
琴音はそれらを一枚一枚破いて、ゴミ箱に放り込んだ。
瑛介からもらったプレゼントも全て取り出した。ブランドの限定バッグに、特注のネックレス、そして彼が手作りしたコップ……
すべてゴミとして処分した。
最後に、スマホを手に取って、瑛介の好みや嫌いなものに関するメモ書きをすべて消去した。
スマホの画面を消した時、突然電話が鳴った。例の会員制サロンのオーナーからだった。
「椎名さん、以前うちのサロンにいらした際にスカーフのお忘れ物がありまして。お引き取りにお越しいただくことは可能でしょうか?」
琴音は時間を確認して、短く答えた。「わかりました、今から伺います」
サロンはいつも以上に客が多く、とても賑わっていた。
琴音が足を踏み入れると、ロビーに騒々しい声が響き渡った。
「藤城社長が一気に高値をつけました!これで入江さんの今夜のお相手は藤城社長に決まりです!」
琴音は体が凍りついたようになり、思わず顔を跳ね上げた。
2階のVIP個室。その窓際で瑛介はすっと立ち、長い指に挟んだブラックカードを、ステージへ向けて無造作に投げ入れた。
ステージ上では、沙耶が白いワンピースを身に纏い、ボディーガードに付き添われて立っていた。その目元は真っ赤で、とても守ってあげたくなるような姿だった。
琴音の体はわずかに震えた。今夜この会員制サロンで、沙耶を指名できることを、今ようやく思い出したのだ。
階下の人々は一斉にざわついた。
「藤城社長には彼女さんがいるはずだけど、なんで元カノを指名するわけ?」
「何もわかってないな。当時、入江さんに振られた時、藤城社長は頭がおかしくなりそうだったんだよ」
「じゃあ、今回は仕返しのつもりなのか、それとも復縁なのか?」
「入江さんを見つめる藤城社長の目を見てみろよ。憎んでる様子もないし、どう見ても惚れてる顔だぞ」
「それじゃあ、ずっと側にいた今の彼女さんはどうするんだ?あんなに長いこと尽くしたのに、報われないってとこか?なんだ、元カノがちょっと泣いただけで、今カノは完敗だな」
第3話
周囲のざわめきがどんどん大きくなった。瑛介がどれほど沙耶を愛しているか、琴音はずっと前から知っていた。それなのに、実際に周りに言及されると、琴音の頭の中は真っ白になった。心の一部をえぐり取られたようで、その場に崩れ落ちそうになった。
気がつくと、琴音は瑛介の後を追っていた。
瑛介は沙耶を最上階のスイートルームへ連れていった。気が急いていたのだろう、部屋のドアを閉めることも忘れて、中の声が外まで漏れてきた。
「瑛介!」沙耶が泣きながら問い詰める。「私のことを憎んでいるんじゃないの?私が彼女さんのドレスを汚したからって、1億も要求したくせに。どうして私を買ったの!?
まだ私のことが好きなの……ねえ、そうでしょ……」
瑛介は鼻で笑った。「お前のことが好きだと?」
彼は沙耶の手首をぐっと掴むと、低い声で言い放った。「沙耶、よくそんなことが言えたな。お前を買ったのは、ただお前を苦しめるためだ。それに、お前の初めてはもともと俺のものだったはずだからな。
昔、どうやって俺を誘惑したか、思い出させてやろうか?」
瑛介が吐き出す言葉は一語一句が憎しみに満ちている。だが、重ねる唇には隠しようのない愛情が滲んでいた。
ドアの外に立ち尽くす琴音は、瑛介が沙耶をベッドに押し倒し、焦るようにドレスを破る姿を、ただ見つめることしかできなかった。
衣服が剥ぎ取られ、狭い室内には二人の荒い息遣いだけが響いた。
ついに沙耶の体を自分のものにした瞬間、瑛介の目尻から不意に一滴の涙がこぼれ、彼女の鎖骨に落ちた。
「瑛介、泣いているの?」沙耶は目を見開いた。
瑛介は彼女の腰をきつく引き寄せ、掠れた声で言った。「黙れ」
琴音は全身を激しく震わせた。爪が手のひらに食い込むほどきつく握り締めたが、痛みすら感じなかった。
二人は愛し合い、何度も瑛介が沙耶を求めた。力尽きて気絶した沙耶を、瑛介が腕に抱き寄せて愛おしそうにキスをしながら、何度も優しく沙耶の名前を呼んだ。
見つめていると、琴音の心はついに粉々に砕け散った。
琴音はサロンを出て、足取りがふらついていた。
そして突然、車のヘッドライトに照らされた。
ドン!
避ける暇もなく、琴音は車に跳ね飛ばされ、アスファルトの上に崩れ落ちた。凄まじい痛みが一瞬で全身に広がった。
薄れていく意識の中、通行人が叫び、慌てて救急車を呼んでいる声がぼんやりと聞こえた。
次に目が覚めたとき、病院にいることに気づいた。
「本当によかった、お目覚めですね。これから緊急の手術が必要になります。手術の同意書にご署名をいただく必要がありますので、ご家族に連絡をお願いできますか」
枕元に立つ看護師たちが、焦ったように手術同意書を手にして促してきた。
まだはっきりしない頭で、琴音は無意識にスマホを手に取り、画面の一番上に表示されている番号へ電話をかけた。
コール音が鳴り響く中で、それが瑛介への電話だと、ようやく気がついた。
急いで通話を切ろうとしたが、もう電話はつながってしまった。しかし耳に入ってきたのは、沙耶の吐息の混じった声だった。
「瑛介、彼女さんから電話よ……こんな時間なんだから、急用かもしれないでしょ……行ってあげて、私を帰してよ……もう耐えられないわ……」
次の瞬間、遮るように冷たい瑛介の声が響き渡った。
「放っておけ。
沙耶、俺がお前の時間を丸一晩買ったんだぞ。夜はまだ終わってない。逃げられると思うな」
続いて、甘いキスの音が耳に聞こえた。
ブツリと、通話が一方的に切られた。
看護師は気まずそうに琴音を見つめた。「あの……どなたか他に、頼めるご家族はいらっしゃいませんか?」
琴音は震えながら両目を閉じた。涙があふれて止まらなかった。心臓が、刃物で真っ二つに裂かれたようで、全身が冷えていくのを感じた。
「自分で……署名します。どんな結果になろうとも……自分で責任を負います」
かすれた声を振り絞ると、琴音は震える手でペンを握り、自分の名前を書こうとした。
指先から血液が伝い、真っ白な同意書の上に滴り落ちた。
最後の文字を何とか書き終えた途端、再び意識を失った。
第4話
琴音が目を覚ますと、消毒液の匂いが鼻を突き、思わず眉をひそめた。
目を開けると、ベッドの脇に瑛介が座っていた。上着は椅子の背もたれに掛けられ、シャツの袖は肘まで捲られていた。
「琴音!」琴音が起きたのを見て、瑛介はすぐに身を乗り出し、温かい手で彼女の頬を触った。「まだ痛むか?」
琴音は、思わず頭をそらした。
瑛介の手が途中で止まり、躊躇ってから口を開いた。
「ごめん」と、彼はかすれた声で言った。「昨日はどうしても外せない仕事があって、電話に出られなかったんだ。事故に遭ったなんて知らなくて……許してくれるか?」
外せない仕事?
沙耶と体を重ねることは、大切な仕事だったのかしら?
琴音は、あの電話の向こうから聞こえてきた、淫らな喘ぎ声を思い出した。無理に笑顔を作ってみたが、大粒の涙が頬を伝った。
瑛介は琴音が痛がっているのだと思い込み、慌てて医師を呼んだ。
医師は診察を終えると、こう伝えた。「傷口の縫合はうまくいきました。ただ、少なくとも2週間は安静が必要です」
医師は言葉を区切り、瑛介に視線を向けた。「誰かがそばに付き添って、世話をしてあげるのが一番ですね」
「分かりました。自分が付き添います」と、瑛介は頷いた。
その言葉に嘘はなかった。それからの日々、瑛介は文字通りつきっきりで琴音の看病をした。
琴音に静かに休んでもらうためだけに、彼は特別病棟のフロアを丸ごと貸し切った。
琴音が庭に行って風に当たりたいと言えば、瑛介は彼女を横抱きにして階下まで連れて行った。まるで大切な宝物を抱えているように、とても慎重だった。
琴音が夜中に西区の料理が食べたいと言い出せば、瑛介は嫌な顔ひとつせず車を走らせた。戻ってきたとき、料理はまだほかほかと湯気を立てていた。
以前の琴音なら、嬉しくて涙が出るだろう。
けれど、今の彼女の心は、瑛介に対して何の感情も抱けなかった。
沙耶に対する瑛介の、狂おしいほどの愛をこの目で見ていなければ、この優しさを信じてしまっていただろう。
退院の日、瑛介は助手席の琴音にシートベルトを締めてやり、優しく囁いた。「琴音、ちょっとしたサプライズを用意しているんだ」
琴音が返事をする前に、彼のスマホが突然鳴り出した。
「瑛介、今夜昔の同級生で集まるけど、来るか?」電話の向こうから、同級生の声が聞こえた。「いや、聞くだけ野暮だな。お前は絶対に来ないよな……
来ない方がいいかもな。今回は入江のやつも来るんだよ。本当に図々しいよな!当時、校長の息子があいつを海外に連れていけるからって、お前を振ったことは誰もが知ってた。あんな見栄しか気にしてない女、みんな嫌いなのに、よくも顔を出してくるよな……」
瑛介は一瞬動きを止め、口を開いた。「行くよ」
相手は耳を疑った。「え?来るのか?」
「ああ」と、瑛介は琴音に視線を送り、何事もないかのように答えた。「俺の彼女も連れて行くよ。最近、入院していてね。ちょっと気分転換させたいんだ」
同級生は、嬉しそうな声を上げた。「いいね、それ!入江に見せつけて、恥をかかせてやろうぜ!」
通話が終わると、瑛介は琴音を優しく見つめた。「お前の気分転換になればと思ってね」
琴音はうつむき、指先を小さく震わせた。
気分転換?
さっきは確かに、サプライズがあると言っていたのに。
今となっては、その話には触れようともしない。気分転換なんて、単なる言い訳だ。
瑛介はただ、沙耶に会いたいだけなのだ。
しかし琴音は追及せず、疲れたようにそっと目を閉じた。
……
同級生たちは、会員制サロンに集まった。お洒落なライティングの部屋には、楽しげな乾杯の声が響いていた。
瑛介が琴音の腰を抱き寄せて姿を現すと、人々は興奮した様子で立ち上がった。
「まじかよ!瑛介、本当に来たぞ!」
「彼女さんも一緒か!学生の時に、いつも瑛介にべったりくっついていたあの後輩じゃないか?」
沙耶に聞こえるように、誰かがわざと大きな声で言った。「本当にお似合いの二人だな!こんなに可愛い彼女、金と権力にしか目がない誰かさんよりよっぽど素敵だ!」
部屋の隅で、沙耶は顔を真っ青にして、グラスを持つ指を微かに震わせていた。
だが瑛介は彼女が見えていないかのように、ひたすら琴音に関心を注いだ。
琴音が座る場所に、そっとクッションを置いた。
琴音が一口だけアルコールを口に含むと、すぐに水を差し出した。「怪我が治りきってないんだから、お酒は控えめにな」
周りが笑い出した。「そんなに彼女さんを可愛がるなんて、愛が深いな!」
瑛介は言葉を返さず微笑むと、琴音の髪を愛おしそうに撫でた。
だが琴音は見逃さなかった。
瑛介の視線は、自分をではなく、ずっと沙耶を追っていることを。
ついにその場にいるのが耐えられなくなり、琴音は席を立って洗面所に向かった。
しかし再び戻ろうとした途端、沙耶に行く手を阻まれた。
「昨日のこと、ずっと見てたでしょ?」沙耶は得意そうに笑った。「瑛介に抱かれる私を見てどんな気分だった?本当に我慢強いわね」
琴音は手のひらに爪を食い込ませながらも、冷静を保とうとした。「何ともないわ。そこをどいて」
「何ともない?よくそんなことが言えるわね!」沙耶は突如琴音の手首を掴み、吐き捨てるように言った。「言っておくけど、あの時私が判断を間違えなければ、瑛介は私のものだったの。そっちはただの泥棒猫よ。はっきり言うわ、私は瑛介を取り戻しに来たのよ!」
沙耶は顔を近づけ、唇を吊り上げた。「瑛介がかつてどれほど私に夢中だったか知ってる?高校の頃、北区の美味しいお菓子が食べたいと私が軽く呟いただけで、授業を抜け出して何時間も並んでくれたわ。大学時代は、お腹が痛いと言っただけで、一晩付き添ってくれたわ。今だってそうよ」
沙耶は声をひそめ、いかにも自慢げに囁いた。「口では憎んでるなんて言いながら、昨日は何度も何度も私を求めたのよ。朝まで一睡もせずにね。これだけ愛されてる私に、あんたなんかに勝ち目などないわ……」
琴音の胸に、微かな痛みが走った。
彼女はゆっくりと瞳を上げ、目の前の女を見つめた。
かつての琴音は、ただ遠くから瑛介を想っていた。そして、彼がどれだけ沙耶を愛していたかを見届けていた。沙耶と正面から言い争いをしたことは、これまで一度もなかった。
だから沙耶が瑛介を振ったと聞いたときも、何か人に言えない事情でもあったのではないかと、同情さえしていた。そうでなければ、瑛介があれほど沙耶を思い続けるはずがないと。
だが今、琴音はついに理解した。
沙耶は、最初から心の汚い人間なのだと。
自分のことしか考えず、プライドばかり高くて、どこまでも浅ましい女。
それなのに、瑛介は狂おしいほどに沙耶を求めていた。
「そう、ならあなたが成功するのを応援するわ」
琴音は突き放すように手首を引き抜くと、振り向くことなくその場を後にした。
部屋へ戻ると、一同はちょうど「指折りゲーム」に興じているところだった。戻った琴音を見かけると、みんなは嬉しそうに彼女をゲームに誘った。
ルールが分からない琴音のために、みんなが親切に教えてくれた。手を広げて、交代で自分がやったことのあることを言う。同じ経験がない人は指一本を折っていき、最初に全ての指を折った人が負け、という単純なものだ。
後から戻ってきた沙耶も仲間に加わろうと割り込んできたが、誰も相手にしなかった。
「さあ琴音ちゃんの番よ!最初に何て言う?」
琴音は自身のスラリとした手を広げた。さきほどの沙耶の挑発を思い出し、フッと冷ややかな笑みをこぼした。
それはまったく意味のない挑発だった。
なぜなら、瑛介への想いなんて、すでにきれいさっぱり捨ててしまったのだから。
琴音はごく自然な、澄み切った声で宣言した。「私、近々結婚します。
近々結婚する予定がない人は、指を一本折ってください」
第5話
琴音が言い終えると、個室は一瞬で静寂に包まれた。
全員の視線が一斉に琴音に集まり、それからゆっくりと瑛介へと移っていった。
数秒の沈黙の後、個室の中に大きな歓声が沸き起こった。
「マジかよ!瑛介、もうプロポーズしたのか?それなら彼女じゃなくて、婚約者って呼ぶべきだな!」
「いやいや、奥さんって呼ぶべきだろ!」
周囲が賑やかに囃し立てる中、部屋の隅にいる沙耶だけがバッグをきつく握りしめ、目を真っ赤にしていた。
瑛介の視線が沙耶をかすめ、その瞳の奥に一瞬、躊躇いの色がよぎった。
彼はそっと目を伏せ、ゆっくりと指を一本折り、低い声で言った。「今のところ、その予定はないよ」
その声はとても静かだった。だが、その一言は、琴音の心を激しく揺さぶった。
みんなは当然のように、二人が結婚するものだと思っていた。
琴音が結婚すると言った直後に、瑛介はそれを否定した。
みんなの前で琴音を完全に無視し、結婚したくないと突き放したのと同じだった。
周囲も異変を察したようで、気まずそうにフォローを入れた。「おいおい、どうしたんだ?ちゃんと話し合ってないのか?」
琴音は口を開き、説明の言葉を考えた――
瑛介とはもう恋人じゃないと。
結婚する相手は瑛介じゃないと。
そう言おうとした瞬間、突然頭上からミシミシという音が鳴り響いた。
「危ない!」
誰かが悲鳴を上げた。
琴音が見上げると、巨大なシャンデリアが外れかけ、自分と沙耶の頭上へ向かって落ちてくるところだった。
そして次の瞬間、瑛介が凄まじい勢いでこちらへ駆け寄った。
しかし彼は真っ先に沙耶の体を抱き寄せ、きつく腕の中にかばった。
一方、置き去りにされた琴音の上には、重いシャンデリアが落ちてきた。
ガシャーン!
痛みが全身に走り、飛び散ったガラスが肌を裂いた。血が瞬く間に袖口を赤く染めた。
周囲はパニックになり、誰かが悲鳴混じりに琴音の名前を叫び、みんなが慌ててシャンデリアをどけようとした……
しかし、瑛介は沙耶の無事を何度も確認した後に、思い出したように琴音のことを振り返った。
彼は急いで琴音のそばに駆け寄り、気まずそうに言った。「琴音、本当にすまない。助ける人を間違えてしまって……」
琴音は瑛介の目を見つめ、笑いながら目を赤く潤ませた。
間違えた?
自分と沙耶は、髪型も着ている服も、背の高さも何もかも違うのに。
見間違えるはずなんてなかった。
ただ、命に関わる非常時に、瑛介の体が真っ先に選んだのが沙耶だったというだけのことだ。
「ううん、平気。痛くないよ」
傷つくことに慣れすぎてしまったのか、もう、本当に痛みすら感じなくなっていた。
瑛介はそれでも心配し、急いで病院に運ぼうとしたが、琴音は頑なに首を振った。「軽い傷だから大丈夫。自分で手当てするから、気にせずみんなと遊んで」
琴音が立ち去ろうと背中を向けた時、突然瑛介に体をすくい上げられ、横抱きにされた。
「こんなひどい怪我をしているのに、そのまま帰すわけにはいかないだろ?」瑛介は強い口調で言った。「俺が送る!」
車の中でも、瑛介は繰り返した。「琴音、本当に焦っていて人を見間違えたんだ。もう二度と危険な目には遭わせない。
結婚のこともそうだ。お前はまだ若いんだから、何もそんなに急がなくてもいい」
そんな矛盾だらけの言い訳を静かに聞きながら、琴音は何も答えず、ただ窓の外を眺めながら、雨の滴がガラスを叩くのをじっと見つめていた。
静寂を切り裂くように、瑛介のスマホが鳴った。沙耶からだ。
「瑛介、椎名さんをちゃんとお家まで送り届けられた?怪我は大丈夫?
あの、ちょっと困ったことがあって。サロンの入り口で男の人たちに呼び止められて連絡先を聞かれてるの、どうすればいい……」
その声を聞いた瞬間、瑛介の表情が一瞬で曇った。
顔色がみるみるうちに険しくなり、怒りに震えるように言った。「教えてみろ、ただじゃ済まさないからな!」
一方的に電話を切った後、瑛介は怒りを必死に抑えながら、再び琴音に言った。「琴音、急用が入ってしまったんだ。一人で家に帰ってもいいか?」
琴音の返事も待たず、彼は1本の傘を彼女の手に握らせた。
「外は雨だから、風邪をひかないようにな」
瑛介はそのまま車を発進させ、すぐにその場を離れた。
琴音は雨の中で立ち尽くした。そして、つい先ほど瑛介に言われた言葉を思い出す。「こんなひどい怪我をしているのに、そのまま帰すわけにはいかないだろ?」
琴音が、ふっと笑った。
自分のことを笑っているのか、それとも瑛介への皮肉なのか、琴音自身も分からなかった。
第6話
雨はますます激しくなってきた。
琴音は傘を差して道路の脇に立っていたが、風のせいで傘はすぐに壊れ、激しい雨が容赦なく頭から降り注いだ。
全身ずぶ濡れになり、タクシーもつかまらず、歩いて家に帰るしかなかった。
冷たい雨水が傷口にしみて、全身に痛みが走った。
琴音は歩き続けた。両足の感覚がなくなり、視界がかすんでいくほど、長い時間雨の中を歩いた。
ようやく家にたどり着いた時、ついに限界を迎え、目の前が真っ暗になってその場に倒れ込んでしまった。
琴音は、寒さで目を覚ました。
体を起こそうとすると、自分がまだ冷たい床の上に倒れたままだと気づいた。
傷口が引き裂かれるように痛んだ。玄関の時計は午前4時を指していたが、瑛介のスリッパは下駄箱にきれいに並んだままだった。
彼は一晩中、帰ってこなかったのだ。
琴音はふらつきながら起き上がり、解熱剤を2錠飲むと、倒れ込むようにしてベッドに入った。
琴音は長い夢を見た。
夢の中の琴音はまだ17歳で、瑛介の後ろをこっそりついて歩いていた。その凛々しい後ろ姿を見つめながら、心臓の鼓動が少しずつ速くなった。
その場に駆け寄って、未来への期待で目を輝かせている当時の自分を引き止め、教えてあげられたらいいのに……
これ以上好きになっちゃダメ。ろくなことにはならないから、と。
目が覚めても、家の中は相変わらずひっそりとしていた。
時間を確認しようとスマホを手に取ったとき、何気なく開いたインスタに沙耶の投稿が表示された。
【私を、部屋に閉じ込める男がいるの。外に出すと男遊びをするからと言って、部屋の外に出してくれないの。しかも自分でずっと見張ってるの……この男は、私のことをどう思ってると思う?】
写真には、綺麗な男の手が写り込んでいた。
その手はかつて、愛おしそうに琴音を抱き寄せ、優しく頭を撫でてくれた手だった。
琴音が熱を出した時、一晩中眠らずに手を握りしめてくれた手だった。
なのに今、そのすべてが沙耶のものになってしまった。
それから数日、琴音は一歩も外出せず、家にこもって荷物の整理を続けた。
瑛介が帰宅し、床に広げられた荷物を見て眉をひそめた。「これは、何をしてるんだ?」
琴音は嘘をついた。「季節の変わり目だし、湿気るのが心配だから、一度中身を整理しておこうと思って」
怪しい言い訳だったのに、瑛介はまったく深く考えなかった。ただ、この前琴音を置いていったことを謝りたくて、映画に行こうと誘ってきた。
「お前がずっと観たいと言っていた映画を見に行こう。この前は本当にすまなかった」
その口調は穏やかだったが、断ることを許さない雰囲気だった。
映画館の席につくとすぐ、琴音は沙耶の姿を見つけた。
沙耶は前方の席で、見知らぬ男性と親密そうに寄り添って座っていた。
瑛介の表情が一瞬で凍りついた。映画の上映中ずっと、彼の視線が沙耶から外れることはなかった。
琴音はふと思い出した。昔、他の男から連絡先を聞かれたとき、瑛介はただ笑っていた。「俺の彼女がモテるのは誇らしいよ」と。
でも沙耶の前では違った。本当にその人が好きなら、嫉妬に狂うものなのだ。
映画が中盤に差し掛かった頃、琴音はとうに集中できなくなっていた。言い訳をして立ち去ろうとしたその時、外から何やら騒がしい音が聞こえてきた。
続いて、けたたましい警報が鳴り響いた。
「火事だ!逃げろ!」
映画館内は一瞬にしてパニックに陥った。
通気口から黒い煙が吹き込んできた。瑛介はすばやく自分のジャケットで琴音を包み、彼女を守るようにして外へ連れ出した。
しかし、安全な場所に避難した途端、瑛介は何かを捜すように辺りを見回し始めた。
琴音が彼の目線の先を追いかけると、そこには沙耶と一緒にいた男が、一人だけで立っていた。沙耶の姿はない……
琴音が呆然としている間に、瑛介は彼女を置いてその男の元へ駆け寄った。
「沙耶はどうした!?」瑛介は男の胸ぐらを掴んで声を荒らげた。「どうして沙耶を置いて逃げてきた!」
男は瑛介の気迫にすっかり怯え、震えながら答えた。「し、知るかよ!ネットで知り合っただけで、こんな危ない状況なら、自分が逃げるので精いっぱいだ!」
瑛介は男を力任せに殴ると、ためらうことなく火の海へ向かって走り出した。
駆けつけた消防士が必死に瑛介を止めた。「そこの人、入っちゃいけません!救助活動は私たちが行います、今は火が強すぎます!中に入ったら命の危険があります!」
「これ以上待ったら間に合わなくなる!」
瑛介は目を血走らせ、消防士を振り切って燃え盛る火の海の中へ飛び込んでいった。
その一部始終の中で、彼は隣に自分の恋人がいることなど、完全に忘れていたのだ。
第7話
琴音は、凍りつくようにその場に立ち尽くし、瑛介が激しい煙の中に消えていくのをただ見送るしかなかった。
数分後、黒煙の中から一人の人影がふらふらと現れた。
瑛介は気を失った沙耶を背負っていた。彼のシャツはボロボロになり、むき出しになった皮膚は火傷をしていた。
一方、瑛介の背中にいる沙耶は、ドレスの裾が少し汚れているだけで、髪一本乱れていなかった。
「救急車を!」
瑛介はそう叫んで地面に膝をついた。それでも、沙耶を必死に腕の中で守り続けた。
沙耶が担架に乗せられるのを見届けると、瑛介は急に意識を失い、その場に倒れ込んだ。
琴音は目を真っ赤にしながら、そっと胸に手を当てた。
もう痛まない。
なら、よかった。
瑛介という存在を無理やり心から抉り出した傷は、もうじき完全に塞がるはずだ。
病院で、琴音は一晩中瑛介の隣に付き添った。
だが、瑛介が目を覚まして最初に口にした言葉は、「沙耶は?沙耶はどうなった?」だった。
琴音は静かに言った。「無事よ。手当が終わって、もう帰ったわ」
瑛介はホッとした顔をして、思い出したように言い訳をした。「琴音、あいつを助けたのは知り合いだからだ。死んでほしくなかっただけなんだ……」
「分かってるわ」
瑛介はしばらく言葉を失っていた。そして琴音の髪に優しく触れ、納得してくれたのだと思い込んだ。
しかし、琴音が「分かっている」のは、瑛介が沙耶をどれほど愛しているか、ということだったのだ。
命さえ投げ出せるほど、深く愛しているということを。
それからの数日間、入院中の瑛介は、ずっと誰かを待つようにじっと病室の入り口を見つめていた。
琴音には分かっていた。彼が沙耶を待っていることを。
けれど、沙耶は来ない。
手に入らないものを欲しがる人間の心理を、沙耶は熟知しているのだ。
会いたい相手に会えないとわかると、瑛介はすぐに退院した。
そして、琴音が一ノ瀬家に嫁ぐ日は2日後に迫っていた。
車の中で、琴音がスマホで飛行機のチケットを取り終えると、瑛介が急に「もうすぐ誕生日だろ」と切り出し、彼女の誕生日パーティーを開くと言った。
「琴音、誰を呼びたい?一番仲がいいのは小春だけど……あいつ、最近どこで遊んでいるのか全然連絡がつかないな。
まあ、もうすぐ一ノ瀬家に嫁ぐ身だから、今の内に遊んだほうがいい。小春が来られないなら、この前の集まりにいた同級生たちを呼ばないか?お前も知っている人たちだろうし……」
同級生たち。そこには、もちろん沙耶も含まれている。
琴音は疲れて目を閉じた。
瑛介は遠回しな言い方をして、ただ沙耶を呼びたいだけなのだ。
「あなたにお任せするわ」
こうして、豪華客船を貸し切った贅沢極まりない誕生日パーティーが開かれることになった。
瑛介が琴音に、とてつもなく高価なダイヤモンドのネックレスを贈ると、周囲の客は羨ましがった。
しかし、瑛介の目がデッキに立つ白いドレス姿の一人の女性を、ずっと追いかけていることに気づいたのは、琴音だけだった。
すると次の瞬間、沙耶が赤ワインのグラスを手に近づいてきた。
「椎名さん、お誕生日おめでとう」
琴音は自分の肩を抱いていた瑛介の腕が、一瞬こわばったのがはっきりと分かった。
「ありがとう」琴音は穏やかに返事をした。
沙耶は、琴音の首元で輝くネックレスをじっと見つめると、次の瞬間に不自然によろけた。
赤いワインが、琴音のドレスに見事にこぼれた。
「きゃっ!ごめんなさい!わざとじゃないの……」沙耶は慌ててハンカチを取り出し、必死になって謝った。
瑛介は眉をひそめ、「一体何をやっているんだ!」と声を荒らげた。
その言葉は怒っているように聞こえた。しかし、彼はドレスを汚された琴音に、まったく視線を向けなかった。
そして、琴音がスタッフに支えられ、着替えに向かう時でさえ、瑛介は完全に上の空だった。
いまだ沙耶のそばに立ち、怒っている表情を作りながらも、本心では沙耶の姿をもっと眺めたいだけだった。そんな彼の姿を見て、琴音は自嘲気味に笑った。
琴音は、スタッフに更衣室へと案内された。
ドアを開けて中に入ろうとしたその時、背後から大きな手が伸びてきて、彼女の口をふさいだ。
「んぐっ!」
琴音は力任せに物置小屋へ引きずり込まれ、ひどい汗臭さが鼻をついた。
みすぼらしい身なりの男が琴音を壁に押しつけ、いやらしく目を光らせた。
「入江さんの言う通り、べっぴんさんだな……」男は琴音の襟元を掴んで引き裂いた。「金を出すからお前をめちゃくちゃにして、汚してほしいって頼まれたんだ。へへへ……」
「入江さん」だって?
入江沙耶?
頭の中が真っ白になった。まさか沙耶がそこまで根性の悪い女で、知らない男に自分を襲わせるような真似をするなんて、琴音は思いもしなかった。
第8話
恐怖に襲われる中、琴音は必死にもがき、指で男の顔にひっかき傷を残した。
「ふざけんなッ!」
男に平手打ちされ、耳の奥でキーンという音が鳴った。
男は琴音の肩を押さえつけ、強引に体を触ろうとした。
ドンッ!
琴音は咄嗟に消火器を掴み、男の頭に叩きつけた。
男が痛みで手を緩めた隙に、琴音は急いで部屋を飛び出した。
傷だらけの状態でデッキへ戻ると、そこでは招待客がまだ談笑していた。
瑛介は沙耶とシャンパンタワーの側に立っていた。二人は何か話していたようで、沙耶は口元を覆って可愛らしく笑い、妖艶な視線を向けていた。
パシッ!
ビンタの音が、全ての会話を遮った。
沙耶は頬を押さえてよろめき、見開いた目で訴えた。「何よ……」
「琴音!」瑛介は慌てて琴音の腕を掴んだ。「何をやってるんだ!」
琴音は彼の手を振り払い、震える声で叫んだ。「この女、男を雇って私を襲わせたの」
会場が騒然となった。
沙耶はすぐさま涙を浮かべた。「そんな、違うよ!私のことが嫌いなのはわかってるけれど、そんな嘘までつくなんて……」
カチッ。
琴音はスマホを取り出し、録音したデータを再生した。
「入江さんの言う通り……お前をめちゃくちゃにして、汚してほしいって頼まれたんだ!」
録音の中で、男の卑劣な笑い声がはっきりと流れた。
瑛介の表情が一瞬で暗くなった。
「沙耶!お前はただ金と権力しか見ていないと思ったら、こんなにも卑怯な女だったのか?今日が琴音の誕生日だってことは知ってただろう?お前のような人間を招待してくれた琴音の優しさを無視して、こんなことを仕掛けるなんて!」
瑛介の怒号を浴び、沙耶はもう繕うことをやめた。
彼女は突如、笑い声をあげた。「ええ!私がやったわ!
そうよ、卑怯で、ろくでもない女よ!でも全部、瑛介を愛してるからよ!
この女を汚せば、あなたたちが別れると思ったの。本当は私の方があなたにふさわしいのよ。昔は私を愛していたはずじゃない?」
「お前が愛を語るな。反吐が出る」瑛介は激しく沙耶を突き放した。「お前が俺から去ったあの日から、俺の中でお前は終わった。俺が今愛しているのは琴音だ。早く謝罪しろ」
「謝罪?しない!死んでもあんな女に謝らないわ!」
「なら勝手に死ね」瑛介は怒鳴った。
その言葉に沙耶は呆然とし、やがて目を赤くした。
瑛介をじっと見つめると、周囲が反応する間もなく、沙耶は海に向かって駆け出した。
風が白いワンピースを煽り、まるで死にゆく蝶のように見えた。
「瑛介、望み通りに死んでやるわ!」
沙耶は悲痛な笑みを浮かべ、そのまま真っ暗な海へと飛び込んだ。
「沙耶!」
瑛介の叫びが空気を震わせ、次の瞬間、彼は迷うことなく海に飛び込んだ。
意識を失った沙耶を抱え、瑛介が船に戻ってくると、人々が一斉に二人に駆け寄った。
「大変だ、救急車を呼べ!」
「藤城社長が怪我を!」
混乱のさなか、誕生日パーティーの主役である琴音に気を留める者はいなかった。
「あっ……」
人混みに突き飛ばされた琴音は床に倒れ込み、手のひらに擦り傷を作った。
瑛介は沙耶を抱いて琴音の横を通り過ぎたが、彼女を一目見ることさえなかった。
海風が湿った前髪を揺らした。琴音の肌を温かい血が伝ったけれど、それが男に襲われた時の傷なのか、新たに負った怪我なのかはもうどうでもよかった。
彼女は救急車が去る方を見つめ、不意に笑い出した。
笑いながら、止めどなく涙がこぼれ落ちた。
瑛介、「沙耶とはただの知り合い」だの、「琴音だけを愛してる」だの、そんなこと、誰が信じるっていうの?
第9話
琴音は一人で警察署へ向かった。
録音データを警察に提出した琴音は、落ち着いた様子で事情聴取に応じた。そして、沙耶の指示で性的暴行を受けたと訴えた。
警察は、琴音の乱れた髪や腕のアザを見て、同情するような視線を向けた。
「法律に基づいて、適切に対処します」
「ありがとうございます」
家に戻ると、水をコップに注ぎ、痛み止めを2錠飲み込んだ。
スマホの画面には通知が次々と届いていた。すべて、瑛介が沙耶を抱き抱えて病院へと駆け込んだというニュースだった。
ニュースの写真に写る瑛介は、ひどく焦った様子だった。まるで壊れやすい宝物を扱うように、沙耶を強く抱きしめていた。
琴音はスマホの画面を消して、バスルームに向かった。そして、体に残る血痕や汚れを、丁寧に洗い流した。
もう瑛介のために胸を痛めることは完全になくなった。
翌朝、琴音が荷造りを終え、空港に向かおうとしたその時、突然玄関のドアが開け放たれた。
入ってきたのは瑛介だった。上着を腕にかけ、ネクタイを緩めていた。その目には、一晩中眠れなかった疲れがにじんでいた。
琴音は足を止めた。
なぜ、瑛介が戻ってきたのだろう?
病院で沙耶に付き添っているはずではなかったのか?
「琴音」瑛介はかすれた声で言った。「昨日のこと、警察に届け出たのか?」
その言葉を聞くと、琴音はすべてを察した。
やはり、瑛介は沙耶のために戻ってきたのだ。
琴音はうなずいた。「私が必死に逃げ出さなかったら、きっとひどい目に遭っていたわ。
悪いことをした人は、それ相応の罰を受けるべきでしょ?」
瑛介は眉間にしわを寄せ、少し黙り込んでから口を開いた。「分かっている。だけど、沙耶は海に飛び込んだばかりで、体もまだ弱っているんだ……」
「だから何?」琴音が静かに言葉を遮った。「彼女が海に飛び込んだから、私が彼女を許さなきゃいけないの?」
琴音は瑛介の目をじっと見つめた。「彼女が憎いって言っていたじゃない?それなら、罰を受けてほしいと思うはずよ」
瑛介は黙り込んだ。その瞳の奥に、複雑な感情が揺らめいていた。
「ああ、沙耶が憎い」瑛介はかすれた声で言った。「でも……」
でも、それ以上に愛しているんでしょ。
琴音は、心の中でそっと付け加えた。
瑛介は深く息を吸い込むと、急に態度を和らげた。「被害届を取り下げてくれ。俺と結婚したかったんだろ?」
瑛介は琴音を見つめ、優しい声で言った。「取り下げてくれたら、結婚しよう。いいか?」
琴音の目頭が、一気に熱くなった。
あれほど自分と別れたがっていたのに。
それなのに、沙耶を守るためなら「結婚」という言葉まで口にするなんて。
琴音が、もう自分は他の人との結婚が決まっていると伝えようとした瞬間、瑛介のスマホが突然鳴り響いた。
スピーカーから、看護師の焦った声が聞こえてきた。「藤城さん、入江さんの意識が戻られました。藤城さんに会いたいと、暴れて物を壊しておりまして。まだ体が回復していないのに……」
瑛介は眉をひそめて急いで電話を切り、ジャケットを掴んで立ち上がった。
「そういうわけだから、数日は留守にする」瑛介は振り返ることなく言った。「戻ってきたら、式について話し合おう」
そう言い残すとドアを開けて去って行った。琴音に一言も声をかけることはなかった。
琴音はその場に立ち尽くし、消えていくその背中を見送った。
瑛介は信じて疑わないのだ。結婚を約束さえすれば、琴音が喜んで被害届を取り下げるはずだと。
自分が沙耶の傍にいても、琴音はいつまでも家で自分を待ってくれると、そうタカをくくっているのだ。
瑛介との思い出が詰まったこの部屋を、琴音はゆっくりと見渡した。そしてその視線はテーブルの上で止まった。
そこには、瑛介から贈られたペアのマグカップがあった。底には【琴音専用】と彫られている。
琴音は近づき、それを躊躇なくゴミ箱に放り込んだ。そしてバッグからメモ帳を取り出し、一行のメッセージを書き残した。
【瑛介へ。あなたの望み通り、私たちはお別れよ。もう好きにして】
ペンの先を少し止めた後、もう一行付け足した。
【入江さんと末永くお幸せに】
書き終えたメモを冷蔵庫の扉に貼り、スーツケースを引いて、もう後ろを振り返ることもなくその家を出た。
空港に向かう途中、再びスマホが震えた。
警察からの連絡だった。
「椎名さん、先ほど藤城社長からお電話をいただき、椎名さんが被害届を取り下げたいとのことです。本当でしょうか?」
琴音は、車の窓から外の流れる景色を眺めながら、静かに告げた。「いいえ、取り下げるつもりはありません」
電話を切ると、スマホの電源をオフにした。
飛行機が滑走路から空へ飛び立ったとき、琴音はようやく目を閉じ、深呼吸をした。
瑛介、今度こそ、本当にあなたとはお別れね。