見殺しにされた実娘。絶望の録音に崩壊する家族

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見殺しにされた実娘。絶望の録音に崩壊する家族

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大学入学共通テストが終わってすぐ、これまでにないくらいの大地震が起きた。 陣内茉優(じんない まゆ)は身を呈して、崩壊した家から両親と...

Chương (1)

第1章

大学入学共通テストが終わってすぐ、これまでにないくらいの大地震が起きた。 陣内茉優(じんない まゆ)は身を呈して、崩壊した家から両親と兄の陣内俊輔(じんない しゅんすけ)を救い出したが、自身は落ちてきた梁に背骨を打ちつけられて、下半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされた。 両親はそのことを悔やみ、毎日のように涙を流し、悲しみに明け暮れていた。 そんなある日、俊輔はある女性とDNA鑑定書を携えて帰宅した。 「父さん、母さん。こちらが美月。彼女こそがあなたたちの実の娘だ」俊輔は冷静に告げたが、その言葉は茉優の耳に衝撃として響いた。「茉優は……当時の病院での取り違えだ」 第1話 大学入学共通テストが終わってすぐ、これまでにないくらいの大地震が起きた。 陣内茉優(じんない まゆ)は身を呈して、崩壊した家から両親と兄の陣内俊輔(じんない しゅんすけ)を救い出したが、自身は落ちてきた梁に背骨を打ちつけられて、下半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされた。 両親はそのことを悔やみ、毎日のように涙を流し、悲しみに明け暮れていた。 そんなある日、俊輔がある女性とDNA鑑定書を携えて帰宅した。 「父さん、母さん。こちらが美月。彼女こそがあなたたちの実の娘だ」俊輔は冷静に告げたが、その言葉は茉優の耳に衝撃として響いた。「茉優は……当時の病院での取り違えだ」 一瞬、両親の瞳から深い悔やみが薄らぎ、代わりに安堵の表情が浮かんだ。 「私の娘!愛しい娘よ!」母の陣内芳美(じんない よしみ)は陣内美月(じんない みつき)を抱きしめて号泣した。 父の陣内正宏(じんない まさひろ)も目を赤くして、美月の背中を叩きながら言った。「戻ってきてくれて本当によかった!」 それからというもの、何もかもが一変した。 「茉優、美月は帰ってきたばかりで慣れていないんだ。あのバルコニーのある部屋、美月に譲ってくれないか?」 「茉優、この宝石を美月のプレゼントにしてくれない?あなたはもうたくさん持っているでしょ?」 「茉優、東都中央大学の推薦枠だが……美月にもっと必要だから、譲ってやってくれないか。お父さんがまた別の学校を探してやるから」 こうして茉優の生活は、暗い闇に覆われたように色を失ってしまった。 幸い、幼馴染の秋月司(あきづき つかさ)だけは、これまで通り優しく傍らに寄り添い、彼女にこう言った。「茉優、大丈夫。俺がいる」 司は茉優にとって暗闇における、唯一の光だった。 しかしあの日、美月は、茉優が自分の大切にしていた猫をわざと溺死させた、と涙ながらに告発した。 「そんなことしてない!」茉優は青ざめた顔で必死に否定した。 だが、両親と俊輔は信じようとしなかった。涙を浮かべる美月の姿を見ていると、実の娘に対する申し訳なさが、彼らの理性を失わせていた。 「なんて意地汚いの!長年育ててきてやったのに、美月にそんなことをするなんて!」芳美はそう言いながら激怒した。 一方、正宏は冷たい目線を向けてこう言った。「こいつを裏庭の池に投げ込め。溺れる苦しさを思い知らせてやれ!」 茉優の釈明などまったく聞き入れてもらえず、車椅子から強引に引きずり出され、晩秋の凍える池へと突き飛ばされた。 「やめて……お父さん!お母さん!お兄ちゃん!助けて……私がやったんじゃない……」 茉優はむせながら、絶望的に救いを求めた。 だが、どれだけ彼女が泣き叫ぼうとも、あの暖かい光が漏れる窓の後ろから、誰かが姿を見せることはなかった。 こうして氷のような冷たさが、彼女の体温と意識を徐々に奪っていった…… 次に目を覚ますと、病院だった。 全身を組み立て直されたかのようで、茉優は凍りつく寒さと痛みを感じていた。 意識を取り戻したばかりだったが、廊下から司と俊輔の低い話し声が聞こえてきた。 司は怒りと痛ましさを隠しきれない声で叫んでいた。「俊輔、もう我慢の限界だ!今すぐ真実を明かしてくる!茉優こそがご両親の本当の娘だぞ!どうして偽物のために、彼女をこれほどまでに苦しめるんだ!?」 ガーン―― その言葉に、茉優の頭の中が真っ白になり、耳にキーンという音が響いた。 自分こそが、本当の娘? それなら、なぜ俊輔は自分が取り違えられた方だなんて言ったんだろう? すると、俊輔がすぐに切迫した声で彼を止めた。「司!駄目だ!絶対に言うな! 僕が美月を連れて帰り、美月が実の娘で、茉優が取り違えられた方だと言ったのは、父さんたちをあの深い自責から解放したかったからなんだ! 見ていてわからないのか?茉優が血のつながった子じゃないと知った時、二人は彼女を冷遇するようになったが、少なくとも泣き暮れることはなくなった。重い罪悪感に苛まれることもなくなった。 だけど、ここでもし本当のことを言えば、これまでの努力が水の泡だ!両親はまた自分たちを救うために茉優が足を犠牲にしたという過去を思い出してしまう。そんな苦しい毎日を凌ぐ彼らを見ているわけにはいかないんだよ! 司、君が茉優を想い、不憫に思っているのは知っている。でも茉優は僕の妹だぞ!大切に思わないわけがないじゃない。僕だって心を痛めているんだ。でも親のために、演じ続けるしかないんだ!」 その一連の会話を聞いて、茉優は病床で震え、心が池に落ちた時よりも冷たくなるのを感じた。 演じ続けるしかない…… すべては俊輔が演出した芝居だったのだ。 両親の罪悪感を軽くするため? そのために、本来自分が受けるべき愛情を奪い取り、それを赤の他人にあげてもいいと? 事実無根の罪を着せられ、池に沈められても構わないと? では、この3年間の苦しみはなんだったの? 彼らを救おうとしたせいで失った、自分の輝ける人生はどうなるんだ? 圧倒的な不条理と、最愛の者に裏切られた痛みが津波のように茉優に押し寄せた。 一方、扉の外で司は黙り込んでしまったようで、しばらくして彼はもうそこにいないのかと思うほど沈黙が続いたあと、絞り出すような低い声で、彼は言った。「わかった」 司は黙認した…… 真実を知りながらも、彼は俊輔とグルになって自分を騙し、自分が貶められるのを見て見ぬふりすることを選んだ…… それを聞いて、俊輔はほっと一息をついて、少し軽くなった口調で言った。「さて、もう美月のところへ行かないと。僕がここに居るのを父さんたちに見つかれば怪しまれる。司、君も茉優の様子を見ていられないなら、一緒に来いよ」 それから、足音が次第に遠のいていった。 残された茉優は病床に横たわったまま、ただ黙って涙を流し枕を濡らした。 一瞬にして、まるで車椅子に縛り付けられた時から壊れかけていた自分の世界が、今、完全に崩壊してしまったかのように彼女は感じた。 その時、主治医がカルテを抱えて入ってきた。 「気がつきましたか?ご家族は?」医師は病室を見て眉をひそめた。 茉優は涙を抑え、掠れた声で問いかけた。「先生、どうかされましたでしょうか……」 医師はカルテを見ながら、事務的ではあるが、少し重苦しい口調で告げた。「検査結果が出ました……胃がんで、末期です。できるだけ早く家族と今後の治療法を話し合わなければなりません」 第2話 胃がん……末期か? それを聞いて、茉優は目の前がクラっとなり、耳元では激しい耳鳴りが響いた。 実の親族に裏切られ、出生の真実を知らされてまさに絶望の淵に陥っている中、運命は彼女に更なる過酷な一撃を与えたのだった。 医師は茫然とする茉優を見て溜息をつくと、付け加えた。「発見が遅すぎました。もう癌は転移しています……積極的な治療をしたとしても、予後は厳しいので……覚悟を決めておいたほうがいいでしょう」 覚悟?何を覚悟しろというの?死ぬ準備ということ? 茉優は声を震わせ、精いっぱい勇気を振り絞って聞いた。「私は……あとどのくらい生きられますか?」 すると、医師はしばらく黙り込み、無情な数字を告げた。「長くても……1か月でしょう」 1か月…… 茉優は突然、低い声で笑い出してしまい、笑えば笑うほど、涙が止めどなく溢れてきた。 死んだほうがマシかもしれない。 死ねば、すべてから解放されるだろうから。 両親からの悪意や、俊輔の芝居、司の嘘、そして美月の挑発にも向き合わなくて済むのだから。 車椅子生活を続けて、他人が自分のためにいろいろ気遣うのも見ずにすむから。 「でしたら、治療はしません」と、彼女は自分でも驚くほどの冷たい声で言った。「治療は諦めます」 医師の説得を無視し、茉優は強引に退院手続きを済ませた。 それから、心身ともに疲弊しきった茉優がもはや自宅とは言えないあの家に帰ると、リビングで和気あいあいとしている一家の姿が目に入った。 両親、俊輔、そして司までもが美月を囲み、テーブルの上には高そうなプレゼントの箱が山のように積まれている。 美月は幸せそうに笑いながら、キラキラと光り輝くダイヤモンドの指輪の箱を開けていた。 「美月、気に入ってくれたならよかったわ。ほしいものがあれば、何でもお母さんに言いなさいね」芳美は優しく美月の髪をなでた。 「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、本当にありがとう!わあ、司さんがくれたこのブレスレットもすごく素敵!」 美月はプレゼントを開けながら、うっとりと司のほうを見た。 一方、司は表情を変えることなく、ただ淡々と頷くだけだった。 それは、どこかで見たような光景だった。 遠い昔、彼らもこうして自分に愛情を注いでいたのだ。 そう思いながら、茉優は胸が締め付けられる苦しみに耐えつつも、静かに車椅子を動かし、あの追いやられた湿っぽいゲストルームへと向かおうとした。 「茉優!」芳美が茉優を呼び止めた。声には苛立ちが含まれていた。「戻ったの?美月が見えていないの?ついこの間、彼女をあんなに泣かせたのに、謝りもしないなんて。やっぱり実の子じゃないから、躾がなっていないわね!」 実の子じゃない…… その言葉はナイフのように、茉優の心を突き刺した。 これが以前だったら、彼女はそのことに心を痛めていたのだろうけど、今ではただただ滑稽にしか思えなかった。 それは、すべての真実を知っているからそう感じるのだ。だって自分こそが本当に血のつながった家族なのだから…… 「お母さん、茉優さんを責めないであげて」美月がわざとらしく、気を遣ったように口を挟んだ。「茉優さん、病院から戻ったばかりで気が立っているのよ」 それを聞いて、正宏と芳美は、さらに美月を不憫に思い、茉優を罵った。 これ以上聞いていられなくなったから、茉優は車椅子を漕いで、エレベーターのほうへ向かった。 すると美月が素早く駆け寄り、隙のない完璧な笑顔でこう言った。「茉優さん、私が押してあげる」 そう言われ茉優は拒否しようとしたが、悲しいことに今の彼女にはそうする気力すら残っていなかった。 そして、狭い部屋に戻った瞬間、美月の笑顔はすっと消えた。残されたのは得意気で挑発的な表情だった。 「悔しいでしょ?自分のものだったすべてが、他の誰かに奪われるのは」美月は身を乗り出し、茉優の耳元でささやいた。 「でも、これはほんの序の口よ。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、今はみんな私のもの。司さんだって……まだあんたを庇ってはいるけれど、私にも贈り物をしてくれるようになったわ。ねえ、このブレスレットだって司さんからのよ。すぐに、彼も私のものになるわ」 もし以前なら、そんな言葉を聞けば茉優は心を抉られるような思いになるだろう。 しかし今の茉優は、ただおかしくてたまらなかった。 そもそも美月という女は、ただ俊輔が探してきた「偽物」でしかないのに、彼女は何を勘違いして自分を挑発してきているのだろうか? そう思って茉優は顔を上げ、美月を見てふっと、悲しみを交えた皮肉な笑みを浮かべた。 笑われたことに苛立ったのか、美月が声を荒げた。「なによ?私をバカにしているの?」 「ええ」茉優は淡々と言った。「あまりにも可笑しく見えたから」 「可笑しい?」そう言って、美月は目線を冷たくして悪意を滲ませた。「今に思い知らせてやる。前回は水に投げ込むだけで済んだから、生ぬるいと思っていたのよ。今度こそ死ぬほど辛い目に合わせてやるから!」 そう言うと、茉優が反応する間もなく、美月はポケットから鋭利なフルーツナイフを取り出し、ためらいもなく自らの腹部に刺した。 第3話 「ああっ!」 悲痛な叫び声が、邸宅の静寂を打ち破った。 「美月!」 「どうした!?」 騒ぎを聞きつけた正宏と芳美、俊輔、そして司が部屋に駆け込んでくると、血まみれで倒れ、腹部に刃物が刺さった美月の姿を目にするのだった。その途端、芳美は動転しながら駆け寄り、彼女を抱きしめた。「美月!一体どうしたの!?」 顔を真っ青にした美月は、涙を流しながら弱々しく茉優を指差し、息も絶え絶えに訴えた。「たぶん……お母さんたちが私を守ろうとして……茉優さんを水に突き落としたから……逆恨みされて……その怒りを私にぶつけて……刃物で刺したんだわ……」 「茉優!この人でなし!」正宏は一瞬にして怒り心頭になり叫んだ。 そして、「なんてことなの?こんな恩知らずを育ててしまうなんて!」芳美も泣き叫んだ。 一方、俊輔も眉をひそめ、複雑な表情で茉優を見下ろしながら、両親に続いて言った。「茉優、本当にがっかりだよ!」 司はこの混乱した状況を見て、眉をしかめ、冷ややかな声で命じた。「もういい!まずは美月を病院へ運ばないと!」 それから、正宏たちは慌てて美月を運び出し、病院へ急いだ。 最後に残った司は、震えながら顔を蒼白にする茉優のもとへ近づき、しゃがみこんでその冷え切った手に触れようと、いつもの冷静で安堵感を与える声で言った。 「茉優、怖がることはない。たとえ何があろうと、守るよ。 だが、美月が重傷だ。今はとりあえず病院へ行こう。 安心してくれ。前にみんながお前を水に沈めた時は、俺がいなかったからどうにもならなかった。今度こそは誰にも傷つけさせない」 もし以前なら、司のその言葉を聞いて、茉優は彼こそ自分の唯一の支えだと感じていたはずだ。 しかし今は違う。司もこの嘘に加担していたことを茉優は知ってしまったから。 司はすべての真相を知りながら、それでも、自分が誤解され、傷つけられるのをただ黙って見ていただけだったのだ。 だが、抗うすべはなかった。すぐに司は茉優の車椅子を押して、病院へと急いだ。 病院へ着くとすぐに、医師が顔を曇らせて言った。「陣内さん、奥さん。娘さんは腎臓破裂の重症で、一刻も早く移植手術が必要です!」 「なんですって!?美月!」芳美はそれを聞いて気を失いかけた。正宏もまた涙を流して言った。「先生、どれだけお金がかかっても構いません。娘を助けてください!」 すると、医師は困ったように答えた。「何より重要なのはドナーです。娘さんの血液型はA型ですので、同じ血液型のドナーが不可欠です」 その時、芳美たちが司に押されてきた茉優を見て、急に顔色を変えた。 「茉優!美月と同じ血液型だったはずよ!あなたが腎臓を提供すればいいわ!」芳美は藁にもすがる思いで、茉優へと詰め寄った。 それを聞いて、俊輔が不憫な表情を浮かべて一歩踏み出して、遮った。「父さん、母さん、茉優は退院したばかりだ。まだ体力が……」 「俊輔!黙りなさい!」正宏は声を荒らげて怒鳴った。「忘れたのか、美月こそがお前の実の妹だ!茉優はただ美月の人生を盗んだ偽物で過ぎない!彼女が美月のために腎臓を提供するのは当たり前じゃないか?それでこそ美月に償ったことになるだろ!」 すると案の定、そう言われた途端、俊輔は黙り込んでしまった。 その瞬間、茉優の頭の中は真っ白になった。 彼女は力いっぱい車椅子の手すりを握り、救いを求めるように司を見た。「司……ここから連れ出して」 そう言われ司も茉優の目を見つめた。そのかつて清らかだった瞳は、いまや恐怖と懇願で満たされていた。 彼は喉を鳴らし、絞り出すような低い声で言った。「茉優、美月を……死なせるわけにはいかないんだ。でないとご両親が……」 そこまで言って、司はそれ以上言葉を続けなかったが、茉優には分かった。 そうなったら、両親はきっと耐えきれなくなるだろう。そしたら司と俊輔が用意周到に進めてきた、両親の罪悪感を減らすためのこの茶番も続けられなくなってしまうということだ。 だけど、その間彼らは一度でも自分のことを考えたのだろうか? 自分が、こんな茶番につき合う意思があるかを考えたことはあったのか? 次から次へと続く侮辱や誤解に、自分はどれほど傷ついているか…… 司は身を乗り出し、二人だけに聞こえる声で甘くささやいてきた。「茉優、もうしばらくの我慢だ。分かってくれるだろう?俺たちが結婚したら……」 結婚? 茉優は笑い飛ばそうとしたが、目からは止めどなく涙がこぼれ落ちた。 司は知らないのだろうけど、自分はもう、そこまで生きられない。もうすぐ死んでしまうのだ。 結局、退院したばかりで痩せ衰えた茉優は、強引に手術室へと運び込まれた。 彼女の泣き叫ぶ声が虚しく廊下に響き渡ったが、それを不憫に思い、止めてくれる相手は誰もいなかった。 冷たい麻酔が体内に注入され、意識が遠のく前、最後に視界に映ったのは、手術室の外にいる人々の顔だった。焦燥、冷淡、あるいは戸惑い。さまざまな感情が入り混じるその顔の中に、自分を助けようとする者は一人としていなかった。 第4話 麻酔から目覚めると、茉優は自分の身体から大切な何かがすっぽりと抜け落ちてしまったような、言いようのない喪失感に襲われた。さらに傷口を走る激痛が容赦なく襲いかかり、彼女は再び意識を失いそうになった。 それなのに、息をつく暇さえ与えられず、正宏と芳美が押し入ってきて、病床から茉優を無理やり引きずり出そうとした。 「さっさと美月に謝ってきなさい!ひざまずいて許しを乞うのよ!」芳美の鋭い怒号が病室に響く。 俊輔はその脇に立ち、口を動かそうとしたものの、結局何も言わずに視線をそらした。 見かねて司は前に出て言った。「茉優はまだ手術が終わったばかりです。そんなことは……」 「司くん!」芳美は激しく一喝した。「あなたが茉優を好きなのは知っている!でも、忘れないで、本来あなたと婚約を結んでいたのは、陣内家の真の令嬢である美月の方よ!そんな偽物ばかり庇うなら、もういいわ。すぐにでも婚約相手を美月に戻してもらうから!」 それを聞いて、司の体は一瞬ビクッとした。息も絶え絶えで弱々しい茉優と、まくし立てる芳美の間で、彼は葛藤と戸惑いで目線を彷徨わせた。 結局、司は茉優の縋るような視線を避け、押し殺したような声で告げた。「茉優……謝っておいでよ……大したことじゃないからさ」 大したことじゃない…… その一言で、茉優に残された最後の希望が、跡形もなく崩れ去った。 彼女はもはや抵抗することもやめ、魂を抜かれた人形のように、両親に引きずられて美月の特別病室へと向かった。 一方、病室では美月が青白い顔でベッドに横たわっていたが、その目の奥には得意気な光が隠されていた。 そんな彼女を目の前にして、詫びの言葉が茉優の喉につかえ、どうしても出てこなかった。 美月は茉優を見ると、わざとらしく泣き声をたてて言った。 「お父さん、お母さん……茉優さんに無理やり謝らせようなんてしないで。私が戻ってきたのがいけなかったの。茉優さんの場所を奪ったから……刺されたのも、憎まれるのも当然よ。消えるべきなのは、私の方だから……」 そう言って、美月は無理にでもベッドから降り、窓の外へ飛び降りようとする素振りを見せた。 「美月!そんなバカなことはしないで!」芳美は悲鳴を上げて駆け寄り、慌てて周囲に美月を押さえさせた。 それを見て、正宏も怒りに駆られ、ぱっと振り向いて殺意に満ちた目線で茉優を睨みつけた。「自分が何をしたか、全く理解していないようだな!よし!こいつの爪を剥げ!自分から詫びを口にするまで、容赦はするな!」 指の爪を、剥ぐ? 茉優の顔から最後の血の気が引き、真っ青になった。 司と俊輔も驚愕し、止めようと割って入った。 「父さん!それはあんまりよ!」俊輔が声を荒げる。 「どうか、それだけはやめてください!」司も茉優を庇うように立ち塞がった。 「黙りなさい!」芳美は二人を指さして叫んだ。 「忘れたの?美月は俊輔の妹よ!あなたにとっても彼女こそが元々婚約者なんだから!それ以上この偽物を庇うなら、今すぐこの子を陣内家から追い出して二度と面倒を見ないようにするからね!」 司と俊輔は同時に固まった。頑なな姿勢の陣内夫婦と、ベッドで弱々しく振る舞う美月を見比べた末に、二人はついに、堪えるようにゆっくりと手を引き、黙って後ろへ下がった。 茉優はその場で下がった二人の姿と美月の目に浮かぶ勝者の光を見て、心の中で何かが完全に砕け散った。 そして、ボディーガードたちが無造作に茉優の手を掴んだ。 冷たい器具が、その繊細な指の爪に食い込み、力いっぱい引っ張られた―― 「ああっ!」 指先から脳天へ突き抜けるような激痛が走り、痛みに耐えかねて、茉優はそのまま気絶しそうになった。 一本、二本、三本…… 指先から赤い血が溢れ出し、シーツを真っ赤に染め上げた。 全身をけいれんさせ、病衣を冷や汗でびしょ濡れにして、茉優の視界は歪んでいった。 5本目の指が剥がされたとき、茉優は最後の力を振り絞り、掠れた声で叫んだ。 「分かった!謝る! この家に生まれたのが……過ちだった……陣内家の娘として生まれるべきじゃなかった…… お兄ちゃんの妹として生まれたこと…… そして何より……司と婚約していたことこそが、私の罪なのよ……」 言い終わると同時に、凄まじい痛みと絶望に飲み込まれ、茉優は意識を完全に失った。 意識が暗闇へ沈んでいく最中、怒りに震える陣内両親の罵声がだけが遠くに響いた。 「陣内家の娘として生まれるべきじゃなかったって?あんた、元々うちの子供じゃないわ!」 第5話 茉優が意識を取り戻すと、指先を突き抜けるような激痛で顔から一瞬で血の気が引いた。 包帯で何重にも巻かれ、なおも血が滲む右手を見る。生爪を剥がされたときのあまりの痛みが蘇り、身体が震えて止まらない。 「茉優、気がついたか?」 ベッドの脇から、低く慣れ親しんだ声が聞こえ、司がそこに座っていた。その凛々しい顔には疲労と明らかな後ろめたさが浮かんでいた。 茉優が目を覚ましたのを見て、彼は彼女の額に手を伸ばしたが、ふいに避けられてしまった。 すると、司の手が空中で止まった。瞳から光を失い、彼は手を引っ込めると、先ほどより声を和らげて言った。「悪かった、茉優。辛い思いをさせているのは分かっている。でも、俺があの時お前をかばっていたら、ご両親は婚約を取り消していただろう。そうなれば、一緒にいられなくなるんだぞ?」 司は茉優の顔色を見て、将来の約束で彼女を宥めようとした。「もう少し我慢してくれないか?結婚したらこの街から連れ出してやる。もう二度と辛い目には遭わせない」 我慢? 茉優は虚ろな目で天井を見つめた。心底から虚しく感じ、気持ちが次第に冷めていった。 もう我慢などできない。 あと1ヶ月とない命だ。どうやって司との結婚まで耐えろと言うのか? しかし、司はその眼差しの奥にある絶望に気づかず、立ち上がった。「茉優、ゆっくり休め。長居はできない。もしご両親に見つかれば、またあの二人はお前を責めるだろうから」 そう言って一瞥を残すと、司は病室を出ていった。 ドアが閉まり、彼の去り行く後ろ姿と共に茉優の人生のわずかな希望も消え去っていったようだった。 ガランとしている病室には茉優一人だけ残され、指先の突き刺さるような痛みが、逃げ場のない現実を告げていた。 だが、この絶望的な静寂も、長くは続かなかった。 病室のドアがバタンと荒々しく開けられた。 美月が、チャラそうな男子学生数人を連れて押し入ってきたのだ。 「へぇ、これがかつて美月ちゃんの代わりにお嬢様暮らしをしてきた偽物かよ?」金髪の男子が値踏みするように茉優を見下し、軽々しく笑った。 「顔だけはいいけど、半身不随なんて終わってるだろ。本当身の程知らずだな」 もう一人の体格の良い男子が、いかにも卑猥な視線で茉優を舐めるように見て唇をなめた。「障害があるからこその味ってのもあるな。この顔と体、動けなきゃ逆にやりやすいし、誰に何をされても反抗できない。好き放題にできるってことだろ……」 それを聞いて、茉優の全身が震え、つま先から頭のてっぺんまで悪寒が走った。 美月がここまで卑劣だったなんて信じられなかった。自分を侮辱させるためにわざわざこんな男たちを連れ込むなんて…… 「出ていって!」恐怖と怒りで声を歪ませながら、茉優はありったけの力を振り絞って叫んだ。「今すぐ出ていかなければ、警察を呼ぶわよ!」 「警察だって?」美月は馬鹿げたことでも聞いたかのように高笑いした。「忘れたの?この病院には陣内家が投資してるのよ!警察が誰の言葉を信じると思ってるの? みんな、何してるの?さっさとやりなさいよ!」 こうして、茉優の最後の希望も無残に打ち砕かれた。 近づいてくる男たちと、それを見て楽しげに歪む美月の顔を前に、絶望が茉優を呑み込んだ。 侮辱されて犯された末に死ぬくらいなら、自ら終止符を打つ方がいい。 死の決意が茉優に驚異的な力をもたらした。ベッドから転げ落ちる痛みにも耐え、片手と片腕で動かない両脚を引きずりながら、彼女は必死に開いた窓を目指して這っていった。 「あいつ、飛び降りる気か!」 「止めろ!」 背後から悲鳴と足音が近づいてくる。 だが茉優には、もはや何も聞こえなかった。 頭の中を支配するのは、死への衝動だけだった。すぐに、今すぐにでも終わらせたい、綺麗に逝きたい。 最期の力を振り絞って彼女は窓枠にしがみつき、そのまま身を投げうった。 そして、ふわりとした浮遊感と共に、風が彼女の耳元を吹き抜けていった。 第6話 その頃病院の建物の下で、司と俊輔が車から降りたところだった。 司は眉をひそめて、俊輔に言った。「俊輔、ご両親にも伝えてくれ。茉優に対して強い嫌悪感があるのは分かるが、そんな酷い扱いをするのはどうかと思う……」 司は言葉を切って、かすかな焦燥感を隠しながら続けた。「それにしても茉優も、わざわざ美月に突っかかる必要があるのか?」 俊輔は溜め息をついて、眉間を揉んだ。「茉優のしたことは確かに行き過ぎている。落ち着いたら話しておくよ。あと少し、結婚まで我慢してもらうようにね」 そう言って、俊輔は車からおしゃれな栗羊羹の箱を取り出し、司に手渡した。「茉優の好物だ。持って行ってやってくれ。僕からとは言うなよ」 こうして、二人が車を降りて、病棟の入り口へと歩き出そうとしたその時―― ドンッ! 鈍く重い衝撃音が、車の前方から響いた。 何かが高いところから落ちてきて、高級な黒い車のボンネットに叩きつけられたのだった。 突然の事態に、司と俊輔はともに驚きを隠せないでいた。 そして、ボンネットの上で、血に染まり虫の息となっている人を見た瞬間、二人の顔は真っ青になった。 「茉優!」 「茉優!」 二人は絶叫し、気が狂ったかのように駆け寄った。 意識が途切れる直前、茉優のぼやけた視界に、驚きと混乱に満ちた二人の顔が映った。 …… 次に目を覚ました時、茉優は病院特有の消毒薬の臭いを嗅ぎながら、全身を襲う激しい痛みを感じていた。 ベッドの周りには人が群がっていた。 両親、美月、俊輔、そして険しい表情の司。 「目を覚ました?どうしてわざわざ飛び降りたのよ?」芳美が眉を寄せて言った。その表情には心配の色は薄く、声にもどこか非難めいたニュアンスがあった。 茉優はか細い声で答えた。「美月が……男子たちを病室に連れてきて……私を犯そうとしたから……死ぬしかなかったの……」 「何を言っているんだ!?」正宏は激怒したが、その矛先は茉優に向けられた。「罪から逃げるために、美月を陥れようとしているのか!腎臓を移植させられたことが不満で、そんな汚い手段を!」 芳美も便乗して声を荒げた。「長年育てて、最高の環境を与えてきたでしょ!美月が帰ってきても、追い出さずに置いてやっているというのに!どうしてこれほど恩知らずで、卑劣なの!」 「嘘じゃない……本当に……」茉優はなんとか弁解しようとしたが、その声はほとんど聞こえないほどか細かった。 「まだとぼける気か!痛い目を見ないと分からないようだな!」正宏は顔を真っ赤にして医療スタッフに怒鳴り散らした。「電撃の器具を持ってこい!少し分からせてやる!」 「やめ……」俊輔と司が同時に割って入ろうとした。 「邪魔をするなら、こいつと一緒に陣内家から出ていけ!」正宏は怒りで理性を見失ったかのように怒鳴った。 すぐに、冷たい電気ショックの器具が、茉優の皮膚に貼り付けられた。 「ああ!」 激しい電流が全身を駆け巡り、茉優は陸に上げられた魚のようにのたうち回った。絶望に満ちた悲鳴は喉に詰まり、ただ途切れた泣き声が漏れるだけだった。 それと共に、彼女は体がまるで八つ裂きにされてしまったかのように感じた。 何度目かの電流の後、ズタボロになった茉優はベッドに横たわり、虫の息を立てて震えていた。 俊輔はベッドへ近づき、ボロボロになった妹を複雑な目つきで見つめ、低く告げた。「茉優、もう美月にちょっかいをだすな。そうすれば父さんたちにだって怒られないで済む」 一方、茉優はただただベッドに横たわり、空っぽの抜け殻のようになり、涙さえ流せずにいた。 第7話 ようやく退院した日、ちょうどその日は茉優と美月の誕生日だった。 同じ日に生まれた二人なのに、その扱いには天地の差があった。 美月は豪華なドレスに身を包み、まるで本物の令嬢のように傲慢に振舞っていた。 一方で茉優に用意されていたのは、古臭いデザインの、肌触りも悪い安っぽいドレスだけだった。 誕生日パーティーの会場では社交辞令が飛び交い、美月の前にはたくさんの贈り物が山積みされていたが、茉優の前には何一つなかった。 隅で独り座っていた茉優を見つけた司が、小声で慰めた。「茉優、ごめんよ。今は贈り物なんてできないんだ。ご両親を怒らせたら、婚約が破談になるし、お前を追い出すかもしれない……」 司は茉優の手を握り、いつもの愛情こもった調子で誓った。「もう少しだけ我慢してくれ。結婚したら、お前は自由になれるから。そしたら、もう二度とそんな思いはしなくて済むようになるさ」 しかし、茉優は静かに聞いているだけで、何も答えなかった。 それから、司会者が二人の主役にステージで願い事をするよう促した。 マイクを手にした美月は、愛らしい笑顔でこう言った。「私にはこれといって願い事なんてないです。お父さんやお母さん、お兄ちゃんに迎え入れてもらって、こんなに可愛がってもらって、それに司さんも私を大切にしてくれて……本当に幸せです!この願い事は、茉優さんにあげますよ!」 すると、会場中の視線が茉優に集まった。 茉優は車椅子を漕いで壇上に進むと、マイクを受け取り、客席の見慣れた、しかし今は他人のように感じられる面々を眺め、俊輔と司を凝視して、驚くほど淡々とした穏やかな声でこう言い放った。 「私の誕生日のお願いは―― 司と兄に、二人がみんなに隠している『あの嘘』を、明かしてもらうことです」 その瞬間、会場の空気は凍り付いた。 みんなが一斉に顔色を一変させた。 そして、正宏と芳美は疑わしげな眼差しを司と俊輔に向けた。「嘘だと?一体何を隠している?」 俊輔は眉をひそめ、語気を強めた。「茉優!何をデタラメを言っているんだ?隠し事なんてあるわけないだろう!」 司も急いで歩み寄ると茉優の腕を掴み、焦りを滲ませた。「茉優、そんな冗談は笑えないよ!さあ、本当の願い事を言いな。なんだって叶えてやる」 必死に繕う二人を見つめ、茉優はふっと笑った。それは虚しくも悲しみに満ちた笑顔だった。 「本当の願い事なんて、特にないわ。あえて言うなら……生まれ変わっても、もう二度と出会わないように」 それを聞いて、司の顔色がさっと悪くなった。 陣内夫婦は怒りに震え上がった。「茉優!一体どこまで騒ぎを起こすつもりだ!?こんなめでたい日にそんな縁起でもないことばかり言わんでもいいだろう!」 二人はウエイターに向かって怒鳴った。「こいつをさっさと隅に引き下げろ!せっかくのパーティーが台無しだろ!」 こうして結果的に、誕生日パーティーは不愉快なまま幕を閉じた。 パーティーの後、茉優が車椅子を漕いで一人会場を出ると、美月はそのあとを追った。 運転手が美月を見かけて車を回して来ようとすると、美月は手を振って断った。「いいわ、今日運転免許をとったばかりだし、自分で運転してみるわ」 それから、美月は茉優にそのまま待つように言うと、駐車場へと向かった。 だが赤いスポーツカーを走らせてきた美月は、減速も回避もせず、そのままアクセルをベタ踏みし、路肩にいた茉優に向かって突進してきた。 パン! 茉優の体は巨大な衝撃を受け、空中に投げ出され、地面に叩きつけられた。 全身の骨が粉砕する激痛とともに、彼女は口と鼻から血を噴き出した。 そして、意識が暗闇に飲み込まれる前に、運転席で狂気と歓喜に顔を歪める美月の表情を、はっきりと見た。 第8話 再び死の淵から何とか生還した茉優は、病院のベッドで美月の顔を思い浮かべて、すぐにでも警察へ通報しようとして、震える手でなんとかスマホを取ろうとした。 「何をするつもり!?」芳美は叫びながら茉優のスマホをガバっと奪い取った。 「警察に通報するの」茉優はか細いながらも、しっかりした声で頑なに言った。 「通報だと?美月はわざとやったんじゃない!ただ、ブレーキとアクセルを踏み間違えただけだ!」正宏が激昂した。 そんな言い訳に茉優は、呆れ果てるしかなかった。「間違ったことをしたら、それ相応の罰を受けなさい。ずっとそうやって私に教え込んできたのはお父さんでしょ?」 「それとこれは違うわ!美月はまだ若いのよ!やっと免許を取ったばかりで、まだ慣れていないだけなの!」芳美は当たり前かのように言い返すと、そばで黙り込む司と俊輔に目線を向けた。 「あなたたちからも何とか言ってやってよ!」 さらに、芳美は俊輔に向かって声を荒らげた。「俊輔、美月はあなたの本当の妹よ!」 続いて彼女は司の方を向き、釘を刺した。「司くん、美月を好ましく思っていないのは知ってるわ。でも美月は本来、あなたの婚約者だったの!その事実がある以上、彼女を守るのもあなたの責任よ!」 陣内夫婦からの突き刺さるような視線に押され、司と俊輔はとうとう茉優に歩み寄った。 司は茉優が奪い返そうとするスマホを押さえつけ、低く静かに言った。「茉優、もうやめろ……」 俊輔も視線をそらしたまま、小声で付け加える。「茉優、美月も悪いと分かっている。今回は……これで許してやってくれ」 彼らが一斉に自分と対立する立場に立つのを見て、茉優はふと、吹き出してしまった。 「あはは……あははは……」 笑いながら、涙が血と一緒に頬を伝って落ちた。全身が震えあがるほど笑うその声は、ひびの入った骨さえ軋ませているようだった。 茉優は自分を宥めようとする司の手を思い切り払い除けると、最後の力を振り絞ってスマホを床に叩きつけた。途端に画面は粉々に割れ、まるで彼女の砕け散った心のようだ。 その後退院して、陣内家に戻った茉優は、まるで魂を失った人形のようだった。表情ひとつ見せず、ただ虚ろな目をしていた。 そんな中、両親からは不機嫌そうな顔をするなと責められ、美月からはわざとらしくアクセルとブレーキを踏み間違えたなんて嘘の謝罪を聞かされた。さらに、司と俊輔からも、大人の余裕で許せと言い含められた。 だけど、茉優には、もう話す力さえ残されていなかった。 体の痛みは次第に増していくばかりだ。がんの終末期症状が激しく襲い掛かり、喉には絶えず錆びたような血の味が充満していた。そんな苦しみに耐えかねて、彼女はいっそ今すぐ死んでしまいたいとさえ思った。 そんなある時、彼女が吐き気を必死に抑えて、喉の奥から込み上げてくる熱い液体を堪えきれずにいると、傍らにいた美月が不意に叫び声を上げた。そして美月は、呼吸を荒くしながら、首を押さえて床に倒れ込んだ―― 「お父さん、お母さん、喘息が……出……たみたい……」 「美月!」 「大変だ!救急車を!」 一瞬で場が混乱に包まれた。皆が必死になって美月に駆け寄り、急いで病院へと連れ出そうとした。そこには、血の気が引き、ふらつきながら倒れそうな茉優に気付く者は一人としていなかった。 そして、彼らが去った後、茉優はついに耐えかねて、ゴホッと大量の血を吐き出した。 彼女は震える手で鎮痛剤を取り出し、口の中に押し込んだ。しかし、この程度の量では、末期のがんがもたらす痛みを抑えることなど焼け石に水だった。 激痛は治まるどころかさらに増幅し、体内を何本もの焼けた刃物にぐるぐるとかき回されるようだ。 その瞬間、これが自分の最期なんだと茉優は悟った。 いっそ、それでいい。 こうやって生きていくのは、あまりにも苦しすぎる。 そう思いながら、茉優は何とか車椅子を動かしながら、誰にも告げることなく、夜の闇に紛れて、町を横断しているあの川を目指した。 冷たい夜風の中で、両親に肩車されて楽し気に笑う思い出や、俊輔が手を繋いで歩き方を教えてくれた懐かしい景色、そして桜の木の下で、耳を赤く染めながら「茉優、大きくなったら結婚しよう」と笑って話す司のことが脳裏に蘇り…… これらのかつて楽しかった記憶のすべてが、今となっては一番自分を傷つける皮肉となっているのだ。 川辺に辿り着き、暗闇の中で激しく渦巻く流れを見つめると、茉優は躊躇することなく最後の力を振り絞って車椅子を蹴り飛ばし、勢いよくその冷たく深い淵の底へと身を投げた。 川の水が一瞬で茉優を飲み込み、突き刺すような冷たさが全身を包み込んだが、皮肉にも、体をむしばむ末期がんの痛みは緩和されたようだった。 意識は、氷のような川の中で、少しずつ薄れて消えていった…… 第9話 その頃、病院では。 陣内家は、ただの軽い喘息を起こしただけの美月の診察のために、院内で最高の医師たちを招集していた。 そこへ看護師が息を切らして診察室に飛び込んできた。「陣内さん、奥さん!隣の救急治療室に川に飛び込んで自殺を図った方が搬送されてきました。 末期がんの患者さんで、一刻を争う状態です!でもその手術には山下先生の執刀が必要で……先生は今、娘さんの診察に当たっておりまして……何とかなりませんか?」 しかし、それを聞いた芳美はイライラした様子で話を遮った。「川に飛び込んだって?末期がん?そんなの放っておけばいいでしょ!1億でも払っておけば、家族も納得するでしょう! どうせすぐ死ぬ運命なら、助けても本人が苦しむだけよ!今はうちの娘が一番に診てもらわないといけないから、娘に万が一のことがないよう、医師全員に残ってもらうからね!」 良心の呵責に耐えかねた看護師は言った。「ですが、あの患者さんにはまだ生き延びる希望があるんです。今すぐ手術をすれば……」 「可能性の話なんてどうでもいい!」正宏が声を荒らげた。「妻の言葉が聞こえないのか?指示通りに動け!」 その時、隣の救急治療室に横たわり、意識が朦朧としていた茉優は、ドア越しにその冷酷なまでのやり取りを聞いていた。 自らの手で実の娘を死に追いやったと知ったら、両親は少しでも後悔するのだろうか?と彼女は密かに思った。 残念ながら、自分はその答えを永遠に見届けることはできないだろう。 それから、医師が来ることはなく、処置もなされず、モニターに映し出された茉優の心拍数波形は、次第に冷たい直線となって静止した。 …… 美月の退院の日、陣内夫婦はそれを祝うために高級ホテルで盛大なパーティーを開き、本物の娘が見つかったことを世間に公表しようとしていた。 俊輔は浮かれている両親を見て何かを言おうとしたが、言葉を飲み込み黙り込んだ。 パーティーが始まる前、芳美はわざわざ司に茉優へ電話をかけさせ、早く来るよう催した。 しかし、電話は一向につながらなかった。 苛立った芳美は手を振って言った。「もういいわ!好きにさせなさい!彼女が来ようが来まいが関係ないわ!パーティーを始めるわよ!」 まばゆい照明の中、招待客たちは興じていた。 ステージの上で、陣内夫婦は幸せそうな美月を抱き寄せ、「実の娘」として紹介しようとしていた。 その時―― バン! 会場のドアが激しく蹴り開けられ、制服姿の警察たちが厳しい表情で踏み込んできた。その光景に、会場中が静まり返った。 先頭に立つ警察は鋭い眼差しを場内に向け、最後に壇上の陣内夫婦を見据え、ハッキリと、厳かな声で言った。 「陣内さん!ご息女が今朝の午前1時に亡くなられました。ご遺体は今も霊安室にあり、引き取り手が現れていません!身元確認のため、至急同行していただきます」 「死……死亡だと?」陣内夫婦は呆然と美月を見つめた。「何か勘違いでは?娘なら、今こうして隣にいます!」 すると、そばにいた司と俊輔は顔を見合わせた。胸を突くような強い不安がよぎり、慌てて警察に駆け寄った。「今なんて言ったんです?誰が死んだんですか!?」 警察は二人をまっすぐ見つめ、告げた。 「陣内さんの娘さん、茉優さんが亡くなりました。茉優さんは末期の胃がんで、昨夜、川に飛び込み自死を図りました。搬送時まだ微かに助かる見込みがあったのですが、治療が間に合わず、午前1時に死亡を確認しました。ですから、ご家族の方による遺体の引き取りをお願いしたいのです」 そこまで言って、警察は一呼吸置き、透明な証拠品袋を取り出した。その中には、水に浸かって濡れているが、書かれている文字がまだ判別できる数枚の書類が入っていた。 「それと、こちらが茉優さんの所持品から発見された遺品です」 警察がそれを差し出すと、陣内夫婦は言葉を失った。 一枚は、茉優という署名が入った絶縁の合意書だった。 もう一枚は、くしゃくしゃにはなっていたが、内容ははっきりと確認できるDNA鑑定書だった。 そこには、茉優が陣内夫婦と生物学的な親子関係にあることが明確に示されていた。