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枯れ落ちた愛の跡に
学生時代から社会人になるまで、鶴田早奈恵(つるだ さなえ)は笹井志樹(ささい もとき)に寄り添い、八年という歳月を共にしてきた。 日陰者...
Chương (1)
第1章
学生時代から社会人になるまで、鶴田早奈恵(つるだ さなえ)は笹井志樹(ささい もとき)に寄り添い、八年という歳月を共にしてきた。
日陰者だった彼を献身的に支え続け、絶対的な権力を握る笹井グループの社長へと押し上げた。
彼が成功を収めた暁には、二人は当然結ばれるものだと信じていた。
だが、早奈恵からの九十九回にも及ぶプロポーズは、すべて冷酷に突き放されてしまう。
あろうことか、自分の用意した指輪は、彼が執着し続ける女、竹内紗也子(たけうち さやこ)の指にはめられていた。
ついに未練を断ち切った早奈恵は、父親が決めた縁談を静かに受け入れる。
嫁ぐ相手は、余命わずかと噂される、病弱な車椅子の青年・西原智之(にしはら ともゆき)だった――
第1話
「お母さん、お父さんに伝えておいて。西原家との縁談、受けるって」
電話の向こうから、即座に母、鶴田佐多子(つるだ さだこ)の激しい拒絶の声が飛んできた。
「だめよ!絶対に認めない!あんな病人に嫁ぐなんて!西原家が求めているのは紗也子なのに、どうしてあなたが身代わりにならなきゃいけないの!
早奈恵、思い詰めないで。お母さんが必ずなんとかしてあげるから」
鶴田早奈恵(つるだ さなえ)の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「お母さんも、お父さんの性格は分かってるでしょ。お姉さんじゃなく、私を嫁がせると決めた以上、もう絶対に覆らないわ。それに、お父さんに認められていない子である私には、これくらいしか使い道がないんだから」
電話口で数秒の沈黙が流れ、やがて微かなすすり泣きが漏れてきた。
「早奈恵、お母さんが不甲斐ないばかりに……
でも、志樹さんのことがずっと好きだったんでしょう?彼と結婚すれば、お父さんもあんなに無理強いは……」
スマートフォンを握る手が、一瞬にして氷のように冷たくなり、爪が深く肉に食い込んだ。
笹井志樹(ささい もとき)。
その名前を聞くだけで、心がえぐられ、血が滴るような痛みを覚える。
「お母さん、彼とは何でもないの……」
これ以上言葉を重ねれば後悔しそうで、逃げるように通話を切った。
ホテル「観月閣」の十七階からは、凪ヶ崎(なぎがさき)市一の美しい夜景が広がっている。
この九十九回目のプロポーズに向けて、彼女は一ヶ月前から準備を進めてきた。
わざわざ休みを取り、南陬(なんすう)まで飛んで指輪を特注し、縁結びで最も名高い神社で祈祷までしてもらった。
だが、五時間待ちわびても、志樹は姿を見せなかった。
手元の指輪をぼんやりと見つめていると、スマートフォンの通知音が鳴った。
【鶴田さん、明日急ぎで使う書類があります。笹井社長に目を通していただき、サインを頂戴する必要があるので、お手数ですがお渡しいただけますか】
笹井グループのオフィスビルの下で、早奈恵はどこかから駆けつけてきた様子の、足早な志樹と鉢合わせた。
背筋はピンと伸びているものの、その表情には疲労の色が色濃く滲んでいる。
声をかけようとした矢先、彼が電話に出る姿が目に入った。氷のような横顔が途端に和らぎ、声色は信じられないほど優しい。
「紗也子、特製の薬膳キット、もう受け取ってきたよ。出来上がったらすぐに届けるからね」
早奈恵の目に、紙袋に印字された店の名前が飛び込んできた。隣町で最も有名な高級薬膳専門店だった。会社から数十キロも離れており、渋滞がなくても往復で三時間はかかったはずだ。
待ち合わせに現れなかったのは、姉である竹内紗也子(たけうち さやこ)のために薬膳を買いに行っていたからだったのだ。
だが、「姉」とは名ばかりである。
早奈恵の母から愛した夫を強奪して正妻に収まった女の娘・紗也子と、母の旧姓である「鶴田」を名乗って日陰者として生きてきた早奈恵。二人の間に、血の繋がり以外の家族の情など一ミリも存在しなかった。
呆然としていた早奈恵は、次の瞬間、志樹の声で現実に引き戻された。その声はすでにいつもの冷たさを取り戻していた。
「今日はずっと姿を見せなかったが、何をしていたんだ?」
早奈恵は顔を上げ、信じられないという目で彼を見つめた。
やがて、自嘲気味に唇の端を歪める。
紗也子のために休む間もなく奔走していたのなら、メッセージを見る暇などあるはずがない。
いや、見られていなくてよかった。
どうせ西原家へ嫁ぐと決まったのだから、これ以上、無様な姿を晒す必要はない。
早奈恵の弁解を待たず、志樹は言葉を継いだ。
「まあいい。大したことじゃない」
彼は手にしていた薬膳の包みを差し出した。
「中火から弱火で四十分煮込んでくれ。ずっと火加減を見ながら、鍋から目を離さないようにしてくれ」
早奈恵は黙ってそれを受け取り、一言も発さなかった。
志樹がいぶかしげに眉を寄せる。
早奈恵と姉は犬猿の仲であり、これまで紗也子が絡むと、彼女は常に激しく反発してきた。それなのに、今回はあまりにもすんなりと受け入れたからだ。
早奈恵がようやくわだかまりを捨てたのだと思い込み、口調が少しだけ柔らかくなる。
「紗也子はお前の姉だ。体調が悪い時は、妹として少しは労わってやるべきだろう」
早奈恵は反論しなかった。
どうせもうすぐ、彼の前から姿を消すのだ。最後のわずかな期間くらい、彼の言う通りにすればいい。
キッチンに立ち、ぐつぐつと音を立てる薬膳を煮込みながら、ふと志樹と初めて出会った時のことを思い出した。
陰鬱な空気を纏い、痩せ細った体つきでありながらも背筋はピンと伸びていて、その瞳だけがギラギラと光を放っていた。
彼は笹井家の存在を隠された愛人の子であり、学校では絶えずいじめの標的にされていた。
同じ傷の痛みを嗅ぎ取ったからだろうか。早奈恵の方から彼に近づいたのだ。
最初は、自分たちのような境遇の人間がどうやってこの界隈で生き延び、少しでも楽に過ごせるかを教えるつもりだった。
だが、志樹は人知れず、強い野心を抱いていた。
彼は笹井グループのトップの座を奪い取るつもりだった。
早奈恵は、馬鹿げた妄想だと思っていた。
しかし志樹は諦めず、何をするにもトップにこだわった。
同じ私生児でありながら、まったく違う生き方をする彼に早奈恵は目を奪われ、やがて愛するようになった。
何度も想いを伝えたが、彼の凍てついた心は動かなかった。
二人が世間から隠れるようにボロアパートへ転がり込んだ時、早奈恵が四百万円の貯金を差し出すと、志樹は目を真っ赤にして彼女をきつく抱きしめた。
「一生、絶対に早奈恵を裏切らない」
早奈恵も彼を抱きしめ返し、ようやく彼の心を溶かせたのだと思い、それからずっと彼を影から支え続けた。
十日前、志樹がとうとう笹井グループの社長の座に上り詰めるまでは。
その夜、彼は酷く酔っていた。
初めて早奈恵が触れるのを拒まず、唇が重なった瞬間、酒の勢いを借りて、長年心の奥底に秘めていた名前を口にした――
「紗也子」と。
早奈恵は逃げるように、その場を後にした。
志樹が自分のプロポーズに決して応えてくれなかったのは、心の中にずっと一番大切な人がいたからだった。
紗也子だ。
今や彼は凪ヶ崎市で最も力を持つ存在となり、堂々と彼女の隣に立つにふさわしい男となった。
自分という「彼女」気取りの女は、もうすぐ用済みとして捨てられる運命なのだ。
そう考えると、心臓の奥底から激しい痛みが波のように押し寄せた。
手に握りしめたペアリングが掌に深く食い込み、肌を突き破ってしまいそうなほど力を込めていた。
薬膳を志樹に手渡した後、早奈恵は背を向けて立ち去ろうとした。
「待て」
振り返ると、志樹が苛立たしげな顔をしていた。
「さっきメッセージを見たが、今日俺を呼び出したのは、またプロポーズのつもりじゃないだろうな?何度も言っているはずだ……」
「違うわ!」
早奈恵はひどく狼狽え、首を横に振っては両手をブンブンと振って否定した。
だがあろうことか、掌に隠していた小さなジュエリーケースが床に転がり落ちてしまった。
早奈恵の顔色が変わる。しゃがみ込む間もなく、志樹がそのケースを拾い上げるのを呆然と見つめるしかなかった。
「これは何だ?」
ジュエリーケースを開けられる前に、彼女は弾かれたように飛びついてそれを奪い返し、背中に隠した。
「何でもないわ。たいしたものじゃないの」
志樹も気にする様子はなく、薬膳を持って背を向け、歩き出した。
遠ざかる背中を見つめながら、早奈恵は胸の奥の苦い感情を飲み込んだ。
これでいい。
半月後には、自分は西原家に嫁ぐのだから。
別れの言葉など、もう必要ない。
第2話
「自ら西原家へ嫁ぐと決めてくれたんだ、お父さんも不自由はさせない。欲しいものがあれば、何でも言いなさい」
珍しく慈愛に満ちた表情を見せる父、竹内明克(たけうち あきよし)を見つめ、早奈恵は静かに口を開いた。
「お父さん、お母さんと籍を入れて、正妻として迎えてほしいの。
それから、以前あの人がお母さんから奪ったあのイヤリング。あれを持ってこの家を出たいわ」
明克は少し考え込んだ。
西原家との縁談は竹内家にとって計り知れない利益をもたらす。グループの事業を一気に北へ拡大できるのだ。それに比べれば、この二つの条件など安いものだ。
「よかろう、約束する。婚姻届は明日届くはずだ。式は来月の七日に決まった」
早奈恵は頷いた。あと半月もすれば、志樹とはきっぱりと縁が切れるのだ。
翌日、彼女はいつものように出社し、退職届を出す準備をしていた。
「早奈恵!出てきな!」
黒のトレンチコートを翻し、凄まじい剣幕でその女が踏み込んできた。
なぜ紗也子がここにいるのか、早奈恵には訳が分からなかった。
「お姉さん――」
パァン!
乾いた破裂音が響き、早奈恵の白い頬に五本の赤い指の跡がくっきりと浮かび上がった。
「薄汚い愛人の子の分際で、気安くお姉さんなんて呼ぶんじゃないわよ!」
「紗也子!」
騒ぎを聞きつけて駆けつけた志樹が、眉間にしわを寄せる。
「早奈恵、紗也子に何をした!」
早奈恵は頬を押さえた。
付き合っているのは自分なのに、殴られたのも自分なのに、この人の目には紗也子のことしか映っていない。
彼から責めるような視線を向けられ、心の中に冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
弁解しようとした言葉は、紗也子に遮られた。
「志樹がお人好しなのは知っているけれど、コネ入社の社員が泥棒だなんて、会社の傷になるわ」
「名誉毀損は犯罪よ!」
「まだ白を切る気?」
紗也子は早奈恵の耳元を指さし、野次馬に向かって大声で叫んだ。
「そのイヤリング、私のお母さんの形見じゃない!どうしてあなたの耳にあるのよ!」
周囲の視線が一斉に早奈恵の耳へと注がれる。
イヤリングは今流行りのデザインではなく、紗也子が着ている高級ブランド服一着の価値にも満たない。
「早奈恵!」
竹内夫人が紗也子にとってどれほど大切な存在であるか、志樹は誰よりもよく知っていた。同時に、紗也子がそんな嘘をつく理由など微塵もないと信じ切っていた。
「イヤリングを紗也子に返せ」
紗也子を背に庇い、自分に対して冷酷な目を向ける志樹を見つめながら、早奈恵はなぜ自分はこんな男を好きになったのだろうと疑い始めた。
自分が殴られたことは無視し、自ら泥を塗ろうとする男。昔の自分は本当に目が節穴だったのだ。
「竹内夫人はそのイヤリングをどこで手に入れたか、あなたには教えてくれなかったみたいね?」
早奈恵は普段の彼女とは打って変わって、一歩も引かずに反論した。
西原家へ嫁ぐにあたり、このイヤリングは条件の一つだった。
それに、会社を辞めればこの二人と関わることもなくなるのだ。どうしてこんな無実の罪を甘んじて受け入れる必要があるだろうか。
早奈恵は言葉を続ける。
「もともと、お父さんと先に出会ったのは私のお母さんよ。そのイヤリングは、お父さんが起業の足しにするようにって、お母さんがわざわざ贈ったもの。ただ――」
言い終わる前に、志樹が容赦なく言葉を遮った。
「いい加減にしろ!」
彼が冷ややかな視線で周囲を一瞥すると、空気の読める者たちはそそくさとその場から離れていった。
「笹井社長は、ずいぶんと『お姉さん』を大切になさるのね」
早奈恵は目を赤くし、必死に見開いて言い放った。
「ただ、竹内夫人が権力に任せてお父さんを力ずくで奪っただけ。言うなれば、竹内夫人こそ泥棒猫じゃない!」
パァン!
再び、鋭く乾いた音が鳴り響いた。
志樹は顔を強張らせ、一切の手加減なしに平手打ちを見舞った。
「いい加減にしろと言ったのが、聞こえなかったのか」
第3話
早奈恵は志樹の凄まじい力で平手打ちを食らい、その勢いで床にへたり込んだ。
地べたに座り込み、無様な姿を晒している。
それを見た紗也子は嘲笑うように口角を上げると、ピンヒールを鳴らして近づき、彼女の前にしゃがみ込んでそのイヤリングを奪い取ろうと手を伸ばした。
だが、早奈恵は咄嗟にその手をガシッと掴み留める。
紗也子はもう片方の手で早奈恵の髪を鷲掴みにし、無理やり手を離させようとした。
早奈恵は痛みに顔を歪めながらも、紗也子の手首を思い切り上へ捻り上げた。
手首に走った激痛にたまらず紗也子が手を離したが、後ろへよろけた拍子に足首を挫いてしまった。
早奈恵は隙を突いて彼女のもう片方の手を掴もうとしたが、横から伸びてきた大きな手にがっちりと掴み止められた。
志樹が咄嗟に早奈恵の手を締め上げたのだ。
紗也子を心配するあまり力の加減を忘れ、早奈恵の手首をあらぬ方向へ容赦なくねじ曲げた。
ポキッという乾いた音とともに、早奈恵の手首は完全にへし折られた。
不意の激痛に悲鳴を上げ、ポケットに隠していたジュエリーケースがいつの間にか床に転がり落ちていたことにも気づかなかった。
「紗也子、大丈夫か?」
志樹は優しく紗也子を抱き起こし、早奈恵には一瞥すらくれなかった。
早奈恵が激痛に耐えながら顔を上げると、目に入ったのは、彼が紗也子の乱れた髪を丁寧に直し、椅子に座らせる姿だった。
「志樹、手も足もすごく痛い。折れちゃったみたい」
「大丈夫だ、足をくじいただけだよ」
志樹は彼女を慰めながら椅子のそばに膝をつき、靴を脱がせた。
青く腫れ上がった足首を見つめる彼の瞳には、心底痛ましそうな色が浮かんでいた。
「まずはマッサージをして、すぐに病院へ行こう」
早奈恵の右手はもう全く動かず、左手で体を支えながら、全身の力を振り絞ってようやく立ち上がった。
「志樹、私のイヤリング!まだあの人の耳にあるわ!
絶対に取り返してね!」
志樹は頷き、彼女に靴を履かせた。
「紗也子が望むことは、全部叶えてやる」
彼の一言一言が、重い衝撃となって早奈恵を打ちのめした。机に手をつかなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「早奈恵、そのイヤリングは元々お前のものじゃない。どうしてそこまで意地を張るんだ」
近づいてくる志樹を見つめ、早奈恵は惨めな笑みを浮かべた。
「このイヤリングは私が身を削って手に入れたものよ。私のものじゃないですって?」
彼は足を止め、怪訝な顔をした。
問いただそうとしたその時、紗也子が口を挟んだ。
「こいつの戯言なんて聞かないで。お父さんから騙し取ったに決まってるわ!」
志樹は疑うことなく、二人の警備員に早奈恵を取り押さえるよう目配せした。
氷のように冷たい指が耳元に触れた時、早奈恵は哀願するような瞳で男を見上げた。
その視線は彼の胸をチクリと刺した。
「笹井社長……お願い、八年間の情だと思って……やめて」
「志樹、早く外して!」
手に力が入らず、抗うことすらできない。早奈恵は、彼が近づいてくるのをただ見ていることしかできなかった。
「笹井社長」と呼ばれ、志樹の表情が微かにこわばった。
だが、紗也子の声を聞くと視線を外し、迷うことなく淡々と言い放った。
「代わりにもっと綺麗で高価なイヤリングを買ってやる」
「志樹!ありがとう!」
紗也子はイヤリングを取り戻すと、歓喜のあまり立ち上がり、志樹に抱きつこうとしたが、足の痛みのせいで彼の胸の中に崩れ落ち、頬を真っ赤に染めた。
志樹は片手で彼女を抱き止め、もう片方の手で床に落ちていた指輪のケースを拾い上げた。
「ん?なんだこれは?」
彼が手にした美しく包装されたジュエリーケースに、紗也子の視線が引き寄せられた。
早奈恵の顔色が一変し、警備員の拘束から必死に逃れようと暴れた。
「指輪だわ!すごく綺麗!」
紗也子が歓声を上げた。
第4話
そう言いながら、彼女は小さい方の指輪を迷わず自分の薬指にはめた。
「嘘、ぴったり!」
紗也子は歓喜の声を上げ、志樹にその手を見せつけた。
「志樹、これ私に内緒で用意してくれてたの?サイズまであつらえたみたいにぴったりじゃない!」
志樹は数秒間呆然とし、胸のざわつきを抑えきれぬまま、早奈恵へと視線を向けた。
彼女は信じられないものを見るような目で、その光景を凝視していた。
「まことの縁に巡り逢いし時、その指輪は指に馴染み、固く結ばれることでしょう」
縁結びの神社で、神職から指輪を授かった時の言葉が、脳内で何度もリフレインする。
そんなはずはない……ありえない!
早奈恵はどこから湧いたのかも分からぬ力で警備員を振り解き、紗也子へ向かって突き進んだ。
だが志樹の反応は早かった。
素早く紗也子をお姫様抱っこで抱え上げると、ひらりと身を翻して難なく避けた。
勢いの止まらない早奈恵は、そのまま机の角に頭を強打し、崩れるように意識を失った。
*
「早奈恵!早奈恵、しっかりしなさい!」
「……お母さん?」
薄れゆく意識の中で目を開けた早奈恵は、反射的に体を起こそうとした。
だが、力が入らない右手のせいで、抗う術もなく再びベッドに沈み込んだ。
佐多子が痛ましそうに彼女の体を支えた。
「早奈恵、右手は骨折してるのよ。無理に動かしちゃだめ。しっかり養生しないと……
あのイヤリング、もう必要ないわ。紗也子が欲しいなら、あの子に持たせておけばいい」
早奈恵は虚ろな瞳で頷いた。
今は思考が混濁し、何も耳に入ってこない。
「それにしても、志樹さんは……紗也子の病室につきっきりで、あなたの様子を見にも来ないなんてどういうことなの?」
気を失う直前、紗也子の指にあの指輪が吸い付くようにはまっていた光景が、再び脳裏に焼き付く。
「お母さん、私が嫁ぐのは西原智之(にしはら ともゆき)よ。あの人とはもう、何の関係もないわ」
早奈恵の決然とした表情を見て、佐多子はそれ以上追及せず、掛け布団の端を整えた。
「分かったわ。お母さんは、栄養のあるものでも買ってきてあげる」
彼女が病室を後にした直後、スマートフォンの通知音が鳴った。
紗也子からのメッセージだ。
そこにはイヤリングの写真と共に、一言添えられていた。
【私のものは、一生奪わせないわよ。志樹もね!】
昔から、紗也子の性格はこれっぽっちも変わっていない。
自分が目をつけたものは、絶対に他人に指一本触れさせない。たとえいらなくなったとしても、壊してでも相手には渡さないのだ。
早奈恵の心に、もはや波風は立たなかった。
スマートフォンを閉じようとしたその時、追い打ちをかけるように紗也子からビデオ通話がかかってきた。
画面がつながると、そこには病室のベッドが映し出されていた。
「志樹!戻ってきたのね。お医者様はなんて?私の足、大丈夫よね?」
紗也子の甘ったるい声だ。
志樹が穏やかな笑みを浮かべて答える。
「安心しろ。最高の整形外科医に診てもらった。骨は異常なし、ただの捻挫だそうだ。しばらく安静にしていれば治るよ」
「ええっ、じゃあしばらく歩けないの?」
彼女がわざとらしく肩を落とす。
志樹はベッドの傍らに跪き、愛おしそうに彼女の足を持ち上げると、丁寧に薬を塗り込んでいった。
「心配ない。俺がお前の杖になる」
紗也子がくすりと笑った。
「天下の笹井グループ社長を杖代わりにするなんて、私には手が届かない贅沢ね」
視線の端でカメラをちらりと見やり、その瞳に明らかな挑発の色を浮かべる。
志樹は顔を上げ、漆黒の瞳で彼女を深く見つめながら、誓いを立てるように告げた。
「お前の望みなら、何だってする」
「じゃあ……」
紗也子は右手にはめた指輪を誇示し、はにかんでみせた。
「私、そんなに安い女じゃないから。花束と花火、両方なきゃ嫌よ?」
早奈恵は迷わず通話を切った。
喉を焼かれるような窒息感に襲われ、激しい眩暈がした。
父とのチャット画面を開き、震える指で打ち込んだ。
【お父さん、あのイヤリングは私の人生と引き換えのものです。西原家へ行くまでに、必ず約束を果たしてください。さもなければ、当日私が現れることはありません】
第5話
ほどなくして、早奈恵の病室のドアが押し開かれた。
志樹が紗也子の車椅子を押し、静々と入室してくる。
「早奈恵!いい加減にしなさいよ!どこまで私のものを奪えば気が済むの!」
早奈恵は顔を向けることさえせず、冷淡に言い放った。
「言い直させて。あれは母のものよ。竹内夫人が奪い取ったものを、あなたが恥ずかしげもなく自分のものだと言い張っているだけ。
それから、その指にはまっている指輪も私のものよ。さっさと外して持ち主に返しなさい」
「なっ……!」
先ほど病室で志樹から、指輪は彼が用意したものではないと聞かされたばかりだった。
図星を突かれた紗也子は逆上し、サイドテーブルにあったガラスのグラスを掴むなり、早奈恵を目がけて叩きつけた。
あまりの勢いに志樹すら反応が遅れ、伸ばした手が空を切る。
幸いにもグラスはベッドの柵に当たり、耳障りな音を立てて粉々に砕け散った。
父から告げられた言葉を思い出し、紗也子は悔しさに目を真っ赤に染めた。
「……竹内家の娘としての居場所まで、私から奪うつもりなのね」
堰を切ったように、大粒の涙が次々と頬を伝い落ちる。
志樹は彼女のこんな姿を見たことがなく、胸を締め付けられるような思いで、車椅子の傍らに跪いた。
その手を車椅子の背に添えるに留め、それ以上は自らを律するように、決して踏み込もうとはしなかった。
紗也子は志樹の肩に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
「志樹……私はもう、何もなくなっちゃった。あなたまで、いつか私を置いていってしまうの?」
彼は慈しむように彼女の涙を拭い、静かに言い聞かせた。
「紗也子、俺はお前から一生離れない。約束だ」
それから早奈恵の方へ向き直ると、ポケットからあの指輪を取り出し、冷徹な表情で告げた。
「紗也子が無理に奪ったわけじゃない。きつくて指から抜けなくなって、一時的に預かっていただけだ。そんなに人を傷つけるような物言いをすべきじゃない」
一時的に預かって?
早奈恵の胸の奥に、苦い感情が広がった。
「疲れたわ。休みたいから、出ていって」
無事な方の左手で布団を引き上げ、頭まで潜り込もうとしたが、その手を乱暴に掴み止められた。
志樹の怒りに満ちた眼差しを真っ向から受け、早奈恵の赤く腫れた目元を見た彼は、一瞬だけ怯んだ。
「……笹井社長、まだ何か御用?」
「紗也子に謝るんだ」
早奈恵は、自分の耳を疑った。
「……なんですって?」
「紗也子に謝れ。お前がした無礼の数々を」
志樹は掴んだ手首をさらに強く締め付けた。その力は、白皙の肌に赤黒い跡が浮き出るほどだった。
早奈恵は激痛に顔を歪めたが、この二人の前でだけは決して弱音を吐くまいと唇を噛んだ。
「お断りよ……私は、何一つ間違ったことなんてしていない!」
すべてを手にしているのは紗也子のほうだ。
両親の愛も、志樹も。
あの「まことの縁」の指輪でさえも。
結局、最初から最後まで、何も持っていないのは自分だけだった。
おかしい。
とうに諦めたはずなのに、胸の奥が張り裂けそうに痛む。
必死に振り解こうとするが、万力のような力に阻まれ、逃れることができない。
二人が無言で睨み合っていた、その時――
地底から不気味な地鳴りが響き渡った。
遠雷のような、あるいは重戦車が通り過ぎるような、腹に響く轟音。
次の瞬間、病院の廊下から悲鳴が上がった。
「地震だ!逃げろ!」
叫び声と同時に、建物全体が狂ったように揺れ始めた。
「志樹!」
激震に襲われ、紗也子の車椅子が制御を失い、凄まじい速さで壁に向かって滑り出していく。
「紗也子!」
志樹は即座に早奈恵の手を放すと、弾かれたように駆け出し、身を挺して車椅子の前に立ちはだかった。
車椅子の鋭い突起が彼の胸を切り裂き、白いシャツに二筋の鮮血が滲む。
それでも彼は、紗也子をしっかりと腕の中に抱きとめた。
「志樹!怪我をしてるわ!」
恐ろしさに目をつぶっていた彼女は、目を開けるなり血に染まった彼の胸元を見て悲鳴を上げた。
「気にするな。すぐにここを離れるぞ。さもなくば生き埋めだ」
志樹は片手で壁を支え、もう片方の腕で紗也子を抱きかかえた。失血による眩暈を必死で堪えている。
数歩進んだところで、何かに気づいたように勢いよく振り返った。
そこには、砕け散ったガラスの破片の上に倒れ込んだ早奈恵の姿があった。
破片が肉に深く食い込み、首筋からは一筋の血が滴っている。
紗也子は志樹の視線に気づくと、必死で彼の首にしがみつき、震える声で懇願した。
「志樹、怖い……!お願い、早く連れて行って!」
第6話
腕の中で震える紗也子を固く抱き寄せ、志樹は一度も振り返ることなく駆け出していった。
二人が立ち去ると同時に、さらに激しい揺れが襲う。
早奈恵はなすすべもなく壁に打ちつけられ、後頭部への強烈な衝撃に意識が吹き飛びそうになった。
額を割って流れた血が頬を伝い、視界を赤く染め上げる。
次の瞬間、凄まじい轟音とともに、頭上の巨大な天井が崩れ落ちた。
そこで早奈恵の意識は途切れた。
*
再び重い瞼を開けると、そこはまだ病院のようだった。
頭には包帯が幾重にも巻かれ、脳が鉛のように重く、思考がひどく濁っている。
点滴の様子を見に来た看護師が、目を覚ました彼女を見て安堵の笑みを浮かべた。
「気がつかれましたか?」
早奈恵はしばらく虚空を見つめ、ぼんやりとした頭のまま微かに頷いた。
「地震のせいで軽い脳震盪を起こされていました。念のため輸血の手配もしましたが、気分はいかがですか?」
看護師が穏やかな声で説明する。
早奈恵は再び小さく頷くと、脳震盪の症状による強烈な眠気に襲われ、泥のように眠りに落ちた。
「だめ!絶対に認めないわ!」
「佐多子、今は紗也子の命に関わる事態だ!いい加減にしろ!」
早奈恵は、鼓膜をつんざくような怒声で目を覚ました。
見ると、志樹と父が険しい顔で佐多子を取り囲んでいる。
「いい加減にしてるのはどっちよ!明克さん!早奈恵だってあなたの血を引いた娘なのよ!」
佐多子の悲痛な声は、すでに泣き叫ぶような響きを帯びていた。
「大地震からやっと逃げ延びて、ただでさえ弱り切っているのに、どうして紗也子のために輸血なんかさせるの!
紗也子の命だけが大事で、早奈恵の命なんて、どうなってもいいって言うの!」
「……お母さん」
早奈恵の声は、喉に灰が詰まったように掠れていた。
「早奈恵!」
明克が先を争うようにベッドへ身を乗り出す。
「紗也子は今、緊急で輸血が必要なんだ。病院の血液センターにある在庫は、全部お前の治療に使われて残っていないらしい。
いいか、紗也子は血液の持病がある。お前が血を分けてやらなければ、あの子は死んでしまうんだぞ!」
「……だから?」
早奈恵は血の気を失った真っ白な顔で父を見つめた。その底知れぬ冷ややかな眼差しに、明克は思わず背筋を寒くした。
「あの子が死ぬことと、私に何の関係があるの?」
「早奈恵!」
見かねた志樹が声を荒げた。
「紗也子はお前の姉だぞ!人の命がかかってるんだ!」
「そう?」
早奈恵の目尻に、皮肉に満ちた笑みが浮かぶ。
「笹井社長がお姉さんを抱き抱え、私を置いて一度も振り返らずに逃げた時、人の命がかかっているなんて、一瞬でも考えてくれた?」
志樹は言葉に詰まり、顔を背けてギリッと拳を握りしめた。
「あの後、俺だって……
もういい。あの時のことは俺が悪かった。恨みがあるなら俺を憎め!紗也子に八つ当たりするな」
「八つ当たり?ふふふっ――」
早奈恵は笑声を上げたが、それが首の傷に響いて激しく咽せた。
「笹井社長はずいぶんとご自分を高く見積もっているのね。あなたにそこまでの価値はないわ」
容赦ない辛辣な言葉を叩きつけられ、志樹の顔は青ざめ、やがて屈辱に歪んだ。
「輸血はしない。自分の命を削って他人の命を救うほど、私はお人好しじゃないの」
早奈恵は氷のような顔で拒絶した。
「早奈恵、お父さんの一生の頼みだ。望む条件なら何でも飲むから!」明克がなりふり構わず懇願する。
「そう。じゃあ、例の約束を白紙に戻すのはどう?それなら、すぐにでも血を抜かせてあげる」
早奈恵の言葉に、父の顔色が変わった。
しどろもどろになり、明らかに言葉を濁す。
「約束って何の話だ?」
志樹が鋭く問いただす。早奈恵は彼には答えず、ただ静かに目を閉じた。
「大変です!」
看護師が血相を変えて病室に飛び込んできた。
「竹内さんの血圧が急低下して昏睡状態に!一刻も早く輸血をしないと手遅れになります!」
その瞬間、男たち二人の顔色が一変した。
「志樹さん!何をするの!」
母のパニックに陥った悲鳴を聞き、早奈恵がハッと目を開けると、そこには一切の感情を排した、氷のように冷酷な志樹の瞳があった。
志樹は無表情のまま、手に持った注射器の針を、容赦なく彼女の腕の静脈へと突き立てた。
ひんやりとした麻酔薬が血管を伝って心臓へと流れ込み、早奈恵は悪寒に全身を震わせた。
だが、それ以上に彼女の心を凍らせたのは、眼前に立つ男の底知れぬ冷酷さだった。
「交換条件として、俺がお前と結婚する」
麻酔が少しずつ効いていくのを冷ややかに見下ろしながら、志樹が吐き捨てた言葉には、一片の温度すら宿っていなかった。
早奈恵は笑いたかった。腹の底から大声で笑い飛ばしたかった。
だが、強制的に注入された麻酔薬がもたらす重い睡魔には、到底抗えなかった。
薄れゆく意識の中で、志樹の目を死に物狂いで見据え、血の気のない唇から一言一言、呪いを吐き出すように言った。
「……あなたのこと、一生恨んでやる」
志樹の顔から、スッと血の気が引いた。
胸に巨大な鉛の塊を詰め込まれたように息が詰まり、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。
何かを言い返そうと微かに唇を震わせたが、結局音にすることはできず、早奈恵が深い昏睡の底へと沈みゆくのをただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
第7話
紗也子のために1000mlもの血を抜かれたため、早奈恵は危うく命を落としかけていた。
佐多子は何が何でも病院に付き添って彼女の世話をすると言い張った。
早奈恵は力なくベッドに横たわっている。
「お母さん、ここで私の世話をしてたら、結婚式はどうするの?」
リンゴの皮を剥く佐多子の手は止まらない。
「結婚式なんて、早奈恵の命に比べればどうでもいいわ。それに、お父さんとはもう長年連れ添った夫婦みたいなものだから、籍を入れるだけで十分よ」
剥き終わったリンゴを置き、娘の手を握りしめた。赤く腫れた目には申し訳なさが溢れている。
「それに、早奈恵が自分の生涯の幸せを犠牲にしてくれたおかげじゃない。もし時間を巻き戻せるなら、私、一生竹内夫人になんてならなくていい!」
「お母さん、何言ってるの!」
早奈恵は彼女を抱きしめた。
「お母さんが幸せなら、私も幸せよ」
その時、病室の外を人影が横切った。
早奈恵にははっきり見えなかったが、紗也子のようだった。
だが、気には留めなかった。
*
佐多子は毎朝九時きっかりに早奈恵の病室に顔を出す。
しかし今日は昼の十二時近くになっても姿を見せない。
電話をかけても出ず、心配しているところへ、明克が息を切らして病室のドアを開けた。
「早奈恵、お母さんはここか?」
早奈恵は眉をひそめた。
「お母さん、今日はまだ一度も姿を見せないわ」
明克も深く眉間にしわを寄せた。
「午後から役所に婚姻届を出しに行く約束だったんだが、一向に連絡がつかなくてな。ここにいるかと思ったんだが」
その時、突如鳴り響いたスマートフォンの着信音が二人の会話を遮った。
「はい、私です」
次の瞬間、早奈恵の顔色が一変し、唇が震え出した。
「分かりました、すぐに行きます!
お父さん、お母さんに何かあったみたい!」
二人が病院へ駆けつけると、紗也子が佐多子の入籍を阻止するため、彼女を秘密裏に監禁していたことが発覚した。
佐多子が二階の窓から逃げ出そうとしたところを紗也子に見つかり、揉み合いになった末に誤って転落し、意識不明の重体になったという。
パニックに陥った紗也子は真っ先に志樹に連絡し、二人が急いで病院へ運び込んだのだ。
医師が危篤と記された病状説明書を差し出し、早奈恵に署名を求めた。
「患者さんは高所から転落し、全身に複数の擦過傷を負っています。後頭部への衝撃が激しく、至急手術が必要です。ご家族はここにサインを」
早奈恵は震える手で自分の名前を書き殴り、遠ざかる医師の後ろ姿を見送ると、そのまま椅子に崩れ落ちた。
紗也子を問い詰める余裕すらなく、ただ両手を合わせ、母の無事を祈って見えない神仏にすがりつくしかなかった。
永遠にも等しい数時間が過ぎ、ようやく手術室のドアが開いた。
「脳内の血腫は取り除きました。現在縫合中です。三十分後に一般病室へ移りますので、その後ご面会いただけます」
早奈恵はずっとこらえていた涙を溢れさせ、父と共に医師へ何度も頭を下げて礼を言った。
「お父さん――」
怯えたような女の声が響いた。
早奈恵の体が硬直する。ゆっくりと振り返った。
そこには、志樹の腕の中にすっぽりと収まり、か弱い花のように震える紗也子の姿があった。
数時間の恐怖と絶望が、この瞬間、凄まじい怒りへと変わった。
案内カウンターにあったボールペンを掴み取るなり、一直線に紗也子へと突進した。
「きゃあっ――志樹!」
早奈恵の振り下ろしたペンの先が、志樹の掌に深く突き刺さった。だが彼は痛みなど感じていないかのように、彼女の手をがっちりと掴み、微動だにしなかった。
「離して!」
早奈恵は涙痕も乾かぬ顔で、憎悪に満ちた瞳で叫んだ。
志樹は眉をピクリと動かし、低い声で弁解した。
「早奈恵、話を聞け。紗也子がお前の母親を監禁したのは確かに悪い。だが、転落は事故だ。紗也子に責任はない」
「手を離せって言ってるの!」
早奈恵は目を血走らせ、さらに力を込めてペンを深く突き立てた。
「紗也子も反省している。結婚式はもう邪魔しないと約束してくれたし、あのイヤリングもお前の母親に返すと言っている。これでもまだ足りないのか!」
理性を失った彼女の姿に、志樹は声を荒げた。
早奈恵は彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、ふと声を上げて笑い出した。
握りしめていたペンから手を離し、力強く拍手を打つ。
「足りるわ!ええ、十分すぎるくらいよ!私のお母さんが生死の境を彷徨ったことに比べれば、あの子が払ったのは『自尊心』という代償だものね――!」
志樹と紗也子の顔色が一気に悪くなった。
早奈恵はスマートフォンを取り出して警察に通報しようとしたが、電話口の警察官からは、この事件はすでに示談が成立し、受理できないと告げられた。
骨の髄から冷気が染み出してくるのを感じた。
「無駄だ。お前の印を使って示談書に判を押した。法的にはすでに片のついた事件だ。今さら警察が動くことはない」
志樹は極めて淡々と、何事もなかったかのように言い放った。
怒りと絶望が頂点に達し、早奈恵の口からどっと血が溢れ出す。
そのまま意識を闇へと落とした。
第8話
早奈恵は自身が目を覚ましてからというもの、ずっと佐多子のベッドの傍らに付きっきりだった。
夕方になって、ようやく佐多子の意識が少しずつ戻ってきた。
「お母さん、気がついた?どこか痛いところはない?」
早奈恵はすがるような面持ちで尋ねた。
佐多子は右手をかすかに動かし、娘の手の甲をぽんぽんと優しく叩いた。
「早奈恵……お母さんは大丈夫よ」
「お母さん、約束する。紗也子には絶対に報いを受けさせてやるから!」
佐多子は微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
「早奈恵、お母さんが一番大切にしているのはあなたよ。あなたが幸せに笑って生きてくれれば、お母さんはそれで十分。ただ……」
彼女は視線を伏せた。
意識を失う直前、紗也子が慌てふためきながら志樹に助けを求める電話をかけていた記憶がよぎり、胸の内でひとつの決意を固めていた。
「西原家との結婚式は……もうすぐよね?」
早奈恵は静かに頷いた。
「ええ、明日の夜よ」
「西原家は由緒ある学者の家系で、智之さんも立派な紳士だと聞いているわ。結婚するのも、決して悪い話じゃないかもしれない。
ただ、汐南(しおみなみ)市は遠いし、お母さんがそばにいてあげられないから、あなたが……」
早奈恵は母の言葉を遮るように手を握りしめた。
「お母さん、私のことは心配しないで。ちゃんと自分の面倒はみられるから」
病院の屋上。
紗也子は姿を現すなり、警戒心を剥き出しにして早奈恵を睨みつけた。
「一体何を企んでいるの?」
早奈恵から「少し話がしたい」とメッセージを受け取った時、真っ先に無視しようと思った。
何しろ、佐多子が転落した直後だ。屋上に呼び出されれば、報復を連想しない方がおかしい。
だが、早奈恵が「あなたが来れば、私は志樹から離れる。きれいさっぱり目の前から消えてあげる」と言ったため、疑心暗鬼になりながらも足を運んだのだ。
「紗也子、私はずっとあなたのことが大嫌いだったわ。私が血の滲むような思いで望むものを、あなたはいつでもいとも簡単に手に入れてしまう」
早奈恵は視線を彼方へ向け、うつろな声でぽつりと言った。
「かつてはお父さんの愛情、そして今は志樹の心」
その言葉を聞いて、紗也子は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。早奈恵が名ばかりの恋人だろうが何だろうが、それがどうしたというのか。
「だから決めたの。もう自分をすり減らすのはやめて、あなたたち二人をくっつけてあげることにしたわ。
明日、私は西原家へ嫁ぐ。これからは、志樹はあなただけのものよ」
紗也子の瞳に、隠しきれない狂喜の色が走った。
「それから、これも――」
早奈恵は懐からお守りを取り出し、紗也子の目の前に差し出した。「このお守りも、あなたに返すわ」
怪訝な顔をする彼女に、早奈恵は淡々と説明を続ける。
「一年前、あなたが交通事故に遭った時。彼が丸三日も姿を消して、隣県の神社まで行ってこのお守りをもらってきたの。
私はてっきり……私へのものだと勘違いしていたわ」
彼女は目を伏せ、眼差しの奥の感情を覆い隠した。
「今になってようやく気がついたのよ。中に入っている生年月日は、あなたのものだって。だから、元の持ち主に返すのが筋でしょう」
紗也子がひったくるように受け取って中を確かめると、確かに自分の生年月日だった。
彼女が喜びに浸る間もなく、耳元で鋭く風を切る音が響く。
次の瞬間、頬を思い切り引っぱたかれた。
何が起こったのか理解する前に、胸倉を乱暴に掴み上げられ、凄まじい力で後ずさりさせられた。背中が壁に激しく打ちつけられ、足が宙に浮く。
恐怖に見開かれた目が、氷のように冷酷な早奈恵の瞳とぶつかり、紗也子は喉が引きつって声も出ない。
「でも、これだけは警告しておくわ。二度とお母さんに手を出そうとしたら、絶対に生きた心地がしないようにしてやるから!」
早奈恵はそう言い捨てて手を放すと、二度と振り返ることなく屋上から去っていった。
紗也子は壁にへたり込み、震えながら彼女の後ろ姿を見送った。やがて、すべてが思い通りになったと唇の端を吊り上げた。
志樹の彼女だろうが何だろうが、もうどうでもいいわ。
最終的な勝者は自分よ!
堂々と「笹井夫人」と呼ばれるのは、自分だけなんだから。
*
笹井グループ本社、一階ロビー。
人事部の担当者が慌ただしく降りてきて、退職手続きの書類を早奈恵に手渡しながら、控えめな声で尋ねた。
「鶴田さん、上のフロアに上がって、皆さんに挨拶はしなくていいんですか?」
早奈恵は書類を受け取り、一切の未練がない声で答えた。
「ええ、結構よ」
西原家は凪ヶ崎市ではなく、遠く離れた汐南市にある。これからはもう、この街に戻ることもないだろう。
「そうだ、最後にもう一つだけ、お願いしてもいいかしら?」
西原家の迎えの車は、早奈恵が思っていたよりもずっと早く到着した。
見慣れた凪ヶ崎の景色が、車窓の向こうで次々と後方へ流れていく。
早奈恵は一切の感情を排した顔で、スマートフォンから抜き取ったSIMカードを真っ二つにへし折り、窓の外へ投げ捨てた。
凪ヶ崎空港。
一機の旅客機が、汐南市へと向けて大空へ飛び立った。
さようなら、志樹。
これで、すべて終わり。互いに別の道を歩みましょう。
もう二度と、交わることはない。