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彼の愛は、私にだけ届かなかった
私、南沢枝里(みなみさわ えり)は、昔から何かあると誰かに話したくてたまらなくなる人間だった。 道端に咲いていた花。 口に合わなかったコ...
Chương (1)
第1章
私、南沢枝里(みなみさわ えり)は、昔から何かあると誰かに話したくてたまらなくなる人間だった。
道端に咲いていた花。
口に合わなかったコーヒー。
仕事帰りに見上げた夕焼け。
ふとした拍子に婚約者の神崎照也(かんざき てるや)のことを思い出したことさえ、私にとっては誰かに話したい些細な出来事だった。
私はいつも、つい彼にメッセージを送ってしまっていた。
照也の返事は、いつだって短くてそっけなかった。
それでも必ず返ってくる。
その事実だけを頼りに、この半年、結婚準備も、ウェディングドレスの試着も、式場選びも、ほとんどひとりで進めてきた。
そうして、結婚式の直前までたどり着いた。
彼のパソコンの中に、あのAIプログラムを見つけるまでは。
結婚式の五日前だった。
そのプログラムは、私が送った文章を分類し、キーワードを拾い、もっとも無難で、もっとも面倒の起きない返事を自動で作るものだった。
会いたい、には「うん」。
つらい、には「わかった」。
けんか、には「騒ぐな」。
この半年、私の話したがりな気持ちを受け止めてくれていたのは、照也ではなかった。
その隣に開かれていた別のトーク画面には、彼と別の女のやり取りがびっしりと並んでいた。
おはようから、おやすみまで。
今日何を食べたかから、いつか一緒に海へ行きたいという話まで。
そのとき、ようやくわかった。
照也の愛は、決して無口でわかりにくいものではなかった。
ただ、その愛が私に向けられたことが、一度もなかっただけだ。
誰にも応えてもらえないまま待ち続けることをやめる決心をした。
第1話
私、南沢枝里(みなみさわ えり)は、昔から何かあると誰かに話したくてたまらなくなる人間だった。
道端に咲いていた花。
口に合わなかったコーヒー。
仕事帰りに見上げた夕焼け。
ふとした拍子に婚約者の神崎照也(かんざき てるや)のことを思い出したことさえ、私にとっては誰かに話したい些細な出来事だった。
私はいつも、つい彼にメッセージを送ってしまっていた。
照也の返事は、いつだって短くてそっけなかった。
それでも必ず返ってくる。
その事実だけを頼りに、この半年、結婚準備も、ウェディングドレスの試着も、式場選びも、ほとんどひとりで進めてきた。
そうして、結婚式の直前までたどり着いた。
彼のパソコンの中に、あのAIプログラムを見つけるまでは。
結婚式の五日前だった。
そのプログラムは、私が送った文章を分類し、キーワードを拾い、もっとも無難で、もっとも面倒の起きない返事を自動で作るものだった。
会いたい、には「うん」
つらい、には「わかった」
けんか、には「騒ぐな」
この半年、私の話したがりな気持ちを受け止めてくれていたのは、照也ではなかった。
その隣に開かれていた別のトーク画面には、彼と別の女のやり取りがびっしりと並んでいた。
おはようから、おやすみまで。
今日何を食べたかから、いつか一緒に海へ行きたいという話まで。
そのとき、ようやくわかった。
照也の愛は、決して無口でわかりにくいものではなかった。
ただ、その愛が私に向けられたことが、一度もなかっただけだ。
誰にも応えてもらえないまま待ち続けることをやめる決心をした。
……
照也が帰ってきたのは、夜十時を過ぎてからだった。
彼は玄関のドアを開け、靴を脱ぎながら言った。
「まだ寝てなかったのか?」
私はリビングのソファに座ったまま、彼を見つめた。
「待ってたの」
照也は眉をひそめた。
「用があるならLINEで言えばいいだろ。わざわざ帰りを待つ必要あるか?」
私は彼に尋ねた。
「照也、私って、そんなに話が多い?」
彼の動きが一瞬止まった。
「急に何だよ」
「本当のことを言って」
照也は上着を椅子の背に掛け、少し面倒くさそうに息を吐いた。
「まあ、そう思うときはある」
私はうなずいた。
「どんなとき?」
「俺が仕事してるときに、どうでもいいことをいくつも送ってくるときとか」
「たとえば?」
「今日の昼なら、会社の近くに新しいスイーツの店ができたから週末に行かないかって言ってきただろ。午後には、披露宴のテーブル装花を白いトルコキキョウに変えたいって。夜には、街灯が切れててひとりで歩くのが少し怖いとか何とか」
そこまで言って、彼は小さく笑った。
「枝里、自分で気づいてるか?お前、何でも俺に話そうとするよな」
私は彼を見つめた。
「恋人同士って、そういうものじゃないの?」
「でも俺には、そこまで付き合う余裕はない」
彼は私の向かいに座り、少しだけ声をやわらげた。
まるで、聞き分けのない子どもに言い聞かせるように。
「毎日仕事で疲れてるんだ。帰ってきてまで、お前の気分に付き合うのはきつい。もう少し大人になれないのか?」
もう少し大人になれ。
この五年、彼が私にいちばんよく言った言葉だった。
記念日を一緒に過ごしたいと言えば、そんな形式にこだわらず大人になれと言われた。
ウェディングドレスの試着に来てほしいと言えば、ドレスなんてどれも似たようなものだ、大人になれと言われた。
仕事でつらかったことを聞いてほしいと言えば、働いていれば誰だってつらい、大人になれと言われた。
けれど今日、私は彼と園田美優(そのだ みゆ)のトーク履歴を見てしまった。
履歴は長すぎて、午後いっぱいかけても半年前までしかさかのぼれなかった。
そこにいたのは、私の知らない照也だった。
頼まれれば何でも応え、時には呆れるほど子どもっぽく、やさしかった。
美優がぶどうを食べて酸っぱそうにしただけで、彼は三十分もかけて、根気よくやわらかな言葉でなだめていた。
私は照也を見つめ、とうとうこらえきれずに聞いた。
「じゃあ、どうして美優は大人にならなくていいの?」
照也の眉間に、はっきりとしわが寄った。
「枝里、お前が今日わざわざ俺を待ってたのは、けんかするためだったのか?」
話をすり替えて、いつの間にかこちらを悪者にする。
照也の得意なやり方だった。
美優の話になるたび、最後にはいつも、私が嫉妬深くて物わかりの悪い女にされていた。
でも、今回はもう引き下がらなかった。
「わかった。美優の話はしない」
私は彼の目を見たまま、一語ずつはっきりと言った。
「私の話が多いと思うなら、そう言えばよかった。どうしてAIなんかに返事をさせたの?」
照也の顔色が、ようやく変わった。
苛立ちの奥に、ほんのわずかな後ろめたさがにじむ。
「なんでそれを知ってる。俺のパソコン、勝手に見たのか?」
私は何も言わず、ただ彼を見つめた。
しばらくして、照也は観念したようにため息をついた。
「お前、いつも俺が美優にばかり何か作ってやって、お前には何も作らないって言ってただろ。このAIプログラムは、俺からお前へのプレゼントのつもりだったんだ」
私は少し笑いたくなった。
照也は、業界でも名の知れた天才プログラマーだった。
美優の誕生日には、彼女専用のサイトを作った。
開くと雪が降り、花火が上がり、画面の真ん中に言葉が浮かぶ。
【美優、ずっと笑っていて。俺はずっとそばにいる】
美優が眠れないと言えば、寝かしつけ用のアプリを作った。
その日の気分に合わせてホワイトノイズを流し、寝る前に白湯を飲むよう知らせてくれるものだった。
美優が仕事中に退屈していると言えば、小さなゲームを作った。
画面の中のキャラクターが彼女を追いかけながら応援し、「美優は最高」と言ってくれる。
そして私の番になると、それは彼の代わりに私をあしらうためのAIプログラムになった。
第2話
それ以上言い争う気力もなく、私は寝室に戻って眠った。
翌日は休みだったので、少し遅く目が覚めた。
まだまぶたも重いまま、リビングのほうから遠慮のない笑い声が聞こえてきた。
寝室のドアを開けると、照也が玄関で靴を履き替えているところだった。
額の髪は汗で湿り、スポーツジャケットのファスナーは開いたまま。
手には朝食の袋を二つ提げている。
美優は彼の後ろにいて、頬を赤くしながら笑った。
「今日は途中で走れなくなるかと思った」
照也は目を細めて彼女を見た。
「昨日また夜更かししたからだろ。明日は半周減らすか」
付き合って二年目の頃、私は一度、夕食のあとに彼と近所を散歩したいと言ったことがある。
彼は、時間がないと言った。
その後も何度か誘ってみた。
仕事で疲れている、家では静かにしていたい。
彼の答えはいつも同じだった。
けれど彼はもう三年も、毎朝一時間早く起きて、美優のランニングに付き合っている。
雨の日も、風の日も。
一日も欠かさずに。
私が出てきたことに気づくと、照也の動きが一瞬止まった。
「起きたのか?」
私は何も言わなかった。
彼は手に持っていた朝食の袋を軽く掲げた。
「朝飯、買ってきた。食べるか?」
見なくても、中身はわかった。
鮭おにぎりと海老カツサンド。
美優の大好物で、私にとっては重いアレルギーを起こすものだった。
初めてアレルギーで病院に運ばれたとき、照也は点滴が終わるまで付き添い、真剣な顔でスマホのメモに書き込んでいた。
それなのに次に彼が買ってきた朝食も、やっぱり鮭おにぎりと海老カツサンドだった。
それはきっと、彼と美優が二十年以上かけて体に刻み込んできた記憶なのだ。
私は急にひどく疲れた。
「照也」
彼が顔を上げる。
「どうして私が魚介アレルギーだって、いつも忘れるの?」
照也の笑みが、わずかに固まった。
美優はすぐに舌を出し、悪びれない可愛らしさで私を見た。
「枝里さん、ごめんなさい。私が照くんに、どうしてもこのお店のが食べたいってお願いしちゃったから、枝里さんの分を聞くのを忘れちゃったの。次は気をつけようね?」
照也はその流れに乗るようにうなずいた。
「ああ。次は別のを買ってくる」
また、次。
けれど彼らが朝のランニングをするようになってから、その「次」に、私が食べられる朝食を買ってきてくれたことは一度もなかった。
私はもう何も言わなかった。
美優は慣れた様子でバスルームへ向かった。
「照くん、先にシャワー借りるね。汗でベタベタ」
「行ってこい。タオルは新しいのに替えてある。いつもの場所だ」
いつもの場所。
バスルームの二段目の棚。
ピンク色のタオル、柑橘系のボディソープ、美優がいつも使っているボディミルク。
それらは、ずっと前からそこに置かれていた。
照也は普段、家のことなど何ひとつ気にしない。
トイレットペーパーが切れて三日たっても、補充することすら思い出さない。
それなのに、美優のものだけはいつもきちんと揃っている。
ここは、私と彼の家のはずだった。
なのに今、リビングに立っている私は、場違いな客のようだった。
胸の奥が息苦しい。
私は部屋に戻って服を着替え、バッグを持って外へ向かった。
照也がようやく顔を上げた。
「どこ行くんだ?」
「用事」
彼はそれ以上聞かず、美優のために黙々と食卓を整え始めた。
外に出て、風が頬に触れた瞬間、ようやく息ができた気がした。
今日はやることがたくさんあった。
ウェディングドレスの予約をキャンセルし、式場も取り消さなければならない。
ドレスショップに入ると、すぐにスタッフが出迎えてくれた。
「南沢様、本日は神崎様とご一緒ではないのですか?てっきりお二人でお越しになるものと思っておりました。
前回迷われていた二着、どちらもご用意できています。あとはご新郎様に見ていただいて、最後の一着をお決めいただくだけですね」
そこまで言って、彼女は私の後ろに誰もいないことに気づいた。
表情がわずかに曇る。
私は何でもないように笑った。
「今日はひとりで来ました。試着ではなく、キャンセルの手続きをお願いします」
スタッフの顔色は少し変わったが、結局それ以上は何も聞かなかった。
六回もドレスを試着しに来て、新郎が一度も姿を見せなかった花嫁など、そういるものではない。
最初のうちは、彼女も笑って取りなしてくれていた。
「神崎様はお仕事がお忙しいんですね」
けれど六回目になると、彼女はもう照也のことを口にしなくなった。
ただ静かにファスナーを上げ、裾を整えてくれるだけだった。
手続きが終わると、彼女は書類を差し出し、真剣な顔で言った。
「南沢様はお優しくて、とてもお綺麗です。きっと本当に大切にしてくださる方に出会えます」
私は一瞬、言葉に詰まった。
それから笑って、お礼を言った。
けれど店を出たとき、目の奥はやっぱり熱くなっていた。
照也に一度も会ったことのない人でさえ、彼が私にふさわしい相手ではないと気づくのに。
私はそれに気づくまで、五年もかかってしまった。
式場、撮影、装花をすべてキャンセルし終える頃には、空はもう暗くなりかけていた。
照也の母親から電話がかかってきた。
「枝里ちゃん、今夜うちにご飯を食べにいらっしゃい」
少し間を置いて、彼女は明るく付け加えた。
「照也と美優ちゃんはもう来ているの。あとはあなたを待つだけよ」
第3話
照也の母親は、にぎやかなことが好きな人だった。
毎月何度も食事会を開き、呼べる親戚や友人はできるだけ呼ぶ。
そしてその場には、いつも美優がいた。
一方で私は、月末に一度、形だけ呼ばれる程度だった。
私が着いたときには、食卓にはもう料理が並んでいた。
美優は照也の隣に座り、湯気の立つ味噌汁に口をつけていた。
普段は潔癖だと言っている照也が、美優のために焼き魚の骨を一本ずつ丁寧に外してやっていた。
私が入ってきたのを見ると、美優は目を細めて笑った。
「枝里さん、来たんだね」
待っていたなんて、ただの社交辞令だった。
私は何も言わず、静かに隅の席に座った。
テーブルの半分以上は、美優の好きな魚介料理だった。
私はほとんど箸をつけられず、端に置かれた青菜だけを少し取った。
食事の途中で、照也の母親がふいに笑いながら聞いてきた。
「枝里ちゃん、披露宴の準備はどうなってるの?各テーブルにロブスターを一皿追加したらどうかしら。あと、蟹のチーズ焼きも。美優ちゃんが好きなのよ」
美優は照れたように笑った。
「おばさま、私、ちょっと言っただけです」
「好きなら入れればいいのよ。披露宴なんだから、みんなが楽しいのが一番でしょう」
口の中の料理から、すっと味が消えた。
それは、私と照也の結婚式のはずだった。
照也が準備を何もしないのは、もういい。
けれど披露宴の料理まで、美優の好みに合わせるつもりなのか。
もっとも、その結婚式自体、もうなくなるのだけれど。
披露宴など、どこにも残っていない。
私は何も言わず、小さくうなずいただけだった。
味のしない食事がようやく終わると、照也の母親は私にソファで果物を食べるよう勧め、振り返って美優に笑いかけた。
「美優ちゃん、ちょっと皿洗いを手伝ってくれる?」
美優が立ち上がろうとした瞬間、照也が眉をひそめた。
「母さん、美優は今つらい時期なんだ。冷たい水に触らせるなよ。枝里にやらせればいいだろ」
コップを握っていた私の指が、かすかに震えた。
照也は、覚えられない人ではなかったのだ。
ただ、私のことだけを覚える気がなかった。
つい先月も、生理の初日に痛みで顔色が真っ青になっていた私を見て、彼はファンデーションを塗りすぎたのだと思い込んだ。
そして真面目な顔で言ったのだ。
「そのファンデ、色が白すぎる。お前には合ってないから、次から使わないほうがいい」
照也の母親は一瞬きょとんとし、それから笑った。
「お客様に家事をさせるなんて変でしょう。美優ちゃんがつらいなら、お父さんと照也でやってちょうだい」
男二人は台所へ追いやられた。
美優はそのあとをついていき、ドア枠にもたれて楽しそうに眺めていた。
私だけがソファの隅に取り残されていた。まるで、幸せそうな一家団らんを外から眺めている部外者みたいに。
しばらくすると、美優が眠そうにあくびをした。
照也はすぐに気づき、当然のように車のキーを手に取った。
「もう遅いし、帰ろう」
以前と同じように、やはり美優を先に送るのだ。
美優の部屋は、実際には私たちの家からそう遠くない。
その部屋は、照也が自分で選んだものだった。
静かなマンションで、緑が多く、セキュリティもしっかりしている。
近くには彼女の好きなカフェがあり、角を曲がればよく行くスイーツ店がある。
何より、私たちの家から歩いてすぐの場所だった。
「万が一、美優に何かあってもすぐ行けるから」
彼の言う「何か」はいくらでもあった。
水道の不調、停電、発熱。
夜中に悪夢を見たとか、映画を見て怖くなったということまで。
車が美優のマンションの前に止まると、彼女は笑って手を振った。
「照くん、枝里さん、気をつけて帰ってね」
照也は彼女がエントランスに入るまで見届けてから、ようやく車を出した。
さっきまで笑い声で満ちていた車内には、重たい沈黙だけが残った。
家に着く少し前、先に沈黙を破ったのは私だった。
「照也、あなたと美優の距離が近すぎると思ったことはないの?」
彼はまだ機嫌がよかったのか、珍しく手を伸ばし、私の手の甲を軽く撫でた。
まるで、すねたペットをなだめるように。
「妬いてるのか?俺と美優は、物心つく前からの付き合いだ。何かあるなら、とっくにそうなってる。
それに、実際に俺が結婚する相手はお前だろ。それじゃ足りないのか?」
足りるはずがなかった。
けれど私は、それを口にしなかった。
ゆっくりと手を引き抜き、ため息をついた。
「明日、時間ある?話したいことがあるの」
照也は反射的に眉をひそめた。
「どうしてわざわざ会って話す必要があるんだ?LINEで言えば――」
言いかけて、彼は口を閉ざした。
たぶんようやく思い出したのだろう。
この半年、LINEで私の相手をしていたのは、彼本人ではなかったことを。
数秒の沈黙のあと、彼は言い直した。
「わかった。明日は時間を作る」
第4話
付き合って五年、たとえ結婚式を取りやめるにしても、最後くらいは顔を合わせて話すべきだと思った。
こんなふうに傷だらけになった恋でも、最後くらいはちゃんと終わらせたかった。
けれど翌朝、目が覚めると、照也はもう家にいなかった。
代わりに、珍しく彼からメッセージが届いていた。
【美優が新しくできた温泉リゾートに行きたいって言うから、少し付き合ってくる。午後には戻る】
私はその一文を長いあいだ見つめ、返信した。
【昨夜、話したいことがあるって言ったよね?】
すぐに返事が来た。
【騒ぐな】
その瞬間、ほとんど確信した。
私に返事をしているのは、照也ではない。
また、あのAIプログラムだった。
私はもう返信せず、起き上がって荷物をまとめた。
とはいえ、まとめるほどのものもなかった。
五年もこの家で暮らしてきたのに、本当に私のものだと言えるものは、スーツケース一つに収まってしまった。
午後から夜まで待っても、照也は帰ってこなかった。
夜八時過ぎ、美優のSNSが目に入った。
写真には、リゾートの夜景が写っていた。
点々と灯る明かりの中で、彼女はカメラに向かってピースをしている。
添えられていた言葉は、こうだった。
【ここ本当に楽しい。帰りたくなくなっちゃった。照くんが一緒にいてくれてよかった】
コメント欄には、誰かの言葉があった。
【このリゾート、一泊でかなりするって聞いたよ?太っ腹だね】
美優は照れた顔のスタンプを返していた。
【私が楽しいなら、お金じゃ買えない価値があるでしょ。どうせ照くんが出してくれるし〜】
私は画面を見つめながら、ふと理解した。
照也はきっと、美優に言ったのだ。
私が話したいことがあるらしい、と。
だから美優は、よりによって今日、彼を連れ出した。
彼女はきっと、私がまた結婚式のことで照也に文句を言うのだと思ったのだろう。
結婚準備が始まってから、ずっとそうだった。
試食の日には、胃が痛いと言った。
招待状を選ぶ日には、パソコンが壊れたと言った。
式場を見に行く日には、停電してひとりでは怖いと言った。
そのうち照也は、結婚式の準備に一度も付き合わなくなった。
今回、確かに私は結婚式の話をするつもりだった。
ただし今回は、結婚式を取りやめたと伝えるために。
翌日になっても、照也は帰ってこなかった。
私はメッセージを送った。
【今日、帰ってくる?】
返事はすぐだった。
【うん】
【大事な話があるの】
【わかった】
【今日帰ってこなかったら、どうなっても知らないから】
【騒ぐな】
三つの返事は、どれもAIそのものだった。
日付が変わるまで、照也のトーク画面に新しいメッセージが表示されることはなかった。
本来ならこの時間、私は鏡台の前に座り、ヘアメイクの人に髪を整えてもらっているはずだった。
マンションの下には迎えの車が来ているはずだった。
ドアの外には、親戚や友人たちの笑い声が響いているはずだった。
けれど今、家の中は冷えきって静かで、玄関のそばにスーツケースが一つあるだけだった。
スマホの画面がふっと光った。
照也から、ようやくメッセージが届いた。
【今日は時間どおり式場に行く】
【朝は時間がない。美優のランニングに付き合う。迎えに行くとか、そういう形式的なことは省いて簡単に済ませよう。お前も遅れるなよ】
結婚式当日の朝に、別の女のランニングに付き合う。
そんなことができるのは、たぶん照也くらいだ。
今回、返事をしなかったのは私のほうだった。
私は彼のアカウントを開き、迷わずブロックして削除した。
それから、とっくにまとめていたスーツケースを引いて、タクシーで空港へ向かった。
五日前に結婚式をキャンセルしたとき、私は今日、江市を離れる航空券を取っていた。
この五日のうち、たった一日でも照也が私を選んでくれていたら、この航空券は無駄になっていたかもしれない。
けれど彼は、選ばなかった。
正確に言えば、この五年間、彼は一度も私を選んだことがなかった。
飛行機が到着すると、私はホテルを取り、久しぶりにぐっすり眠った。
一方その頃、江市では。
照也が美優と神崎家の親戚を連れて式場に着いたのは、開式ぎりぎりの頃だった。
式場の入口には、花も、案内板もなかった。
私たちの名前が入ったウェディングボードもない。
照也は眉をひそめ、通りかかったスタッフを呼び止めた。
「今日の披露宴はどの会場ですか?新郎側の者です」
スタッフはきょとんとし、記録を確認してから首をかしげた。
「本日、結婚式のご予定はございませんが」
少し間を置いて、何かを思い出したように彼女は言った。
「ああ、以前はご予約がありましたね。ただ、五日前にキャンセルされています」