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私を解雇した元彼が、今さら私に雇ってほしい?
個人事務所が大手企業から高く評価され、合併を控えたある夜、彼氏の陣内浩平(じんない こうへい)は私・石井絢香(いしい あやか)にプロポー...
Chương (1)
第1章
個人事務所が大手企業から高く評価され、合併を控えたある夜、彼氏の陣内浩平(じんない こうへい)は私・石井絢香(いしい あやか)にプロポーズをした。
7年間の苦労がついに報われたのだと思った。
だが翌日、浩平からの解雇通知書が届き、同時に石井家の実娘、私の義理の妹である石井菖蒲(いしい あやめ)から、彼と抱き合う親密な写真が送りつけられた。
浩平からは、「すまないが、すべてはお前のためにやったことだ」、と伝えられた。
「大手に移ればもっと優れたエンジニアがいるから、お前はもう仕事に集中しなくていいし、安心して俺の専業主婦になれるのだ」と。
一方菖蒲からはこう言われた。
「ごめんなさいね、絢香さん。ただ遊びとしてあなたの男をちょっと借りただけよ。まさか、本気で焼きもちを焼いているの?」
しかし二人はまだ何も分かっていない。
この事務所の合併契約は、私がサインしなければ成立しないのだ。
そしてその合併契約書において、私はこの事務所ではなく買収する側の代表だということを。
第1話
個人事務所が大手企業から高く評価され、合併を控えたある夜、彼氏の陣内浩平(じんない こうへい)は私・石井絢香(いしい あやか)にプロポーズをした。
7年間の苦労がついに報われたのだと思った。
だが翌日、浩平からの解雇通知書が届き、同時に石井家の実娘、私の義理の妹である石井菖蒲(いしい あやめ)から、彼と抱き合う親密な写真が送りつけられた。
二人はきっと知らないだろう。この事務所の合併契約は、そもそも私がサインしなければ成立しないものだということを。
デスクの上には、浩平から届いた解雇通知書が置かれている。
スマホの中では、石井家の令嬢である菖蒲が、浩平とのツーショット写真を晒している。
私の指には、昨日、浩平がはめてくれたばかりのエンゲージリングが、虚しく輝いていた。
「絢香、この7年間本当にお疲れ様。俺にチャンスをくれないか?これからはお前を一生大事にする。俺たち、結婚しよう?」
昨夜、浩平が囁いた言葉がまだ耳に残っている。
あんな言葉を口にした男が、写真の中では、まるで宝物を見つめるかのような眼差しを、菖蒲に向けているのだ。
そのような眼差しに、見覚えがないわけではない。
7年前、DNA鑑定の結果によって、私は石井家の一人娘から、身寄りのない孤児へと転落した。
あの夜、雨の中で冷え切った私を抱きしめたのは、浩平だった。
「俺が愛しているのは、絢香という人間なんだ。お前の才能、性格、そしてその強さだ。どこの誰の娘かなんて関係ない。連中がお前を捨てるなら、俺と行こう。これからは俺が、お前を愛すよ。俺たちには未来がある!」
その一言のために、私は過去を捨てた。
そして浩平が知らないところで、私は石井家とある契約を交わした。
何のあてもなく、二人でゼロから今の事務所を立ち上げたのだ。
あの頃をどうやって乗り越えたのか?
人手が足りないところがあれば、私はどの部署にも駆けつけた。一人で何人分もの仕事をこなし、夜を明かすことも珍しくなかった。
目の下に濃いクマができて、何杯ものコーヒーで自分を奮い立たせていた。
何度も疲れ果てて倒れそうになる私に、浩平はいつも心苦しそうにこう伝えた。
「事務所が安定したら、俺が養うから」
私も胸を痛めながら彼の手を握り返し、「あなたも無理しないで」と伝えた。医者からも、このまま休みなく働き続ければ、浩平の体がもたないと言われていたのだ。
それから7年。
お互いを支え合って歩んだ7年間。
気持ちが冷めることはなかった。二人が作ったものが大手グループに評価され、成功の喜びを二人で分かち合った。
それなのに、どうして私にこんなことができるの?
私の技術、私の人生で支えた事務所が石井グループに買収されることが決まった、このタイミングで。
浩平にプロポーズされたばかりのこの日に。
こんなふうに解雇通知書を送ってくるなんて。
画面の中の二人の笑顔が、あまりに醜く見えた。
指を絡め合った二人の手を見つめながら、胸の奥を鋭い棘でえぐられたような痛みが走った。
7年間、バカみたいに自分の人生を捧げてきた過去が、ボロボロと崩れた気がした。
なるほど。
道理で、浩平が仕事のパーティーで菖蒲と親しげに話しているところを私に見られてから、私を商談の場から外すようになったのだ。
「ビジネス上、必要な付き合いなんだ。事務所のためだよ。
こんな汚れ仕事は全部俺がやる。絢香は、ただ自分の得意な技術開発だけに集中してくれればいいんだ」
愛を感じさせる浩平の言葉を、私は微塵も疑っていなかった。
解雇通知書と浮気の写真が並んだとき、ようやくすべてが繋がった。
しかし、許せない。
私は勢いよく椅子から立ち上がり、ジャケットを掴むと、足早に事務所へと向かった。
説明が欲しい。
今すぐ、浩平の口から全部聞き出すつもりだ。
第2話
「絢香?どうしてここへ?家でゆっくり休むように言ったはずだぞ」
浩平は私を見ると、いつもと変わらない優しい表情を浮かべた。
「もしかして、俺に会いたかった?」
私はシワが寄るほど握りしめていた解雇通知書を、浩平のデスクに叩きつけた。
「説明して」
浩平は、太字のタイトルが記された書類へ視線を落とした。そして顔を上げた彼の表情には、申し訳なさよりも、「理解してくれるだろう」という甘えの色が滲んでいた。
彼は立ち上がって私の手を取ろうとした。
「絢香、昨日プロポーズを受け入れたばかりだろう?忘れたのか?」
浩平の指先に触れられた瞬間、ぞわりと悪寒が走り、私は反射的に彼を突き飛ばした。
浩平は傷ついたように目を伏せたものの、すぐにいつもの落ち着きを取り戻し、静かな口調で話を続けた。
「昔に言っただろ?事務所が安定したら養うって。見ての通り、石井グループとの合併も目の前だ。金銭的な余裕もできる。そんなに苦労しなくていい。俺の専業主婦として支えてくれないか?ショッピングでも旅行でも、ヨガ教室でも……好きなことをしていいんだ」
専業主婦。
お互い惹かれ合っていた時に、何度も耳にした言葉だ。
しかし、私はあくまで甘い恋の言葉だと捉えていて、自分のキャリアを捨てて浩平の身の回りを世話するなど、考えたこともなかった。
それに浩平自身、かつてこう言っていたのだ。
「絢香、この事務所は俺たちが一緒に育ててきたものだ。コードの一行一行はお前の努力の結晶だ」
私なしで、この事務所は成立しない。
事務所がこの世の中で存続し、石井グループの目に留まるまでに成長できたのは誰のおかげか?
私の貢献なしでは、一歩も進めることはできなかったはずだ。
「養う?」
私は冷ややかに笑い声を上げた。
「浩平、この事務所がここまで大きくなれたのは誰のおかげだと思ってるの? 徹夜でコードを修正して、何度もトラブルを解決してきたのは誰?あなたが酒席で飲んだ酒のおかげだっていうの?」
私は解雇通知書を指差し、浩平を追い詰めた。
「合併の段階になって、あなたは調子がいいわね。要らなくなった私を追い出すなんて」
浩平は顔をそらし、面倒くさそうな声で言い返した。
「絢香、よせよ。全部お前を思ってのことだ。お前は今まで働きすぎだよ。大手に入れば優秀なエンジニアなんていくらでもいるし、もう徹夜続きの生活をしなくてもいい。それにお前は、一人で突っ走ることに慣れすぎてる。大手企業という弱肉強食の世界で、傷つかずにいられると思うか?」
自分の理屈に自信を持ったのか、浩平は顔を上げて私と目を合わせた。
「言っただろ、絢香。俺の専業主婦になってくれ……」
また専業主婦。
自分を裏切るような男の専業主婦になれと?
笑い出しそうになると同時に、胃の奥から吐き気が込み上げてきた。
もう我慢できない。私はポケットからスマホを取り出した。
目の前に証拠を突きつけたら、まだ同じことが言えるのか、試してみようじゃない。
しかしちょうどこの時、カチャリ、と鍵の外れる音とともに扉が開かれた。
快活で、少し媚びたような声が響く。
「浩平さん、契約書の最後の詳細はお父さんのところで……あら、絢香さん、いるのね?」
入ってきた人は、確認するまでもない。菖蒲だ。
「あら、タイミングが悪かったかしら?」
菖蒲はそう言いながら歩みを止めず、当然のように浩平のそばに寄り添い、他人とは思えないくらい距離が近かった。
浩平の体が、小さくこわばったのがわかった。
彼は視線をさまよわせ、私にも菖蒲にも、合わせようとしなかった。
菖蒲は、甘ったるい声で続けた。
「絢香さん、浩平さんは本当にあなたを思っているのよ。7年間ずっと一人で会社の技術を支えてきたじゃない。失礼だけど、作業みたいな仕事を一生懸命にやって……お気の毒ね」
菖蒲は言い淀み、見下すような目で私を見た。
「いいじゃない?ここまでやって功績も残したんだから。もっとプロフェッショナルで洗練された人に場所を譲って、退職金をもらって楽に暮らせば?これ以上ここに粘りついて、邪魔者になるつもり?」
第3話
退職金ね。
「随分と心が広いですね。退職金が給料の2年分だなんて」
私は歯を食いしばり、一語一句を絞り出した。
「どうせ、この事務所にある私の持ち株、全部売ったんでしょう?そうでしょ、浩平?」
本当にありえない。
もっとプロフェッショナルで洗練された人だなんて。
邪魔者だなんて。
つまり私のこれまでの献身は、浩平たちにとっては使い捨ての労働力に過ぎなかったのね。
私は黙り込んだ彼をじっと睨みつけた。
「じゃあ、プロポーズも……これのため?私を安心させて、合併前夜にコア技術を差し出させて、用済みになった私を雑巾みたいに捨てるつもりだったの?」
「絢香、そんな言い方をするなよ……」
浩平の言葉を、菖蒲が遮った。
「絢香さん、そんな意地悪な言い方をしないでよ」
菖蒲は首を傾げ、浩平の肩にもたれかかって甘えるように言った。
「浩平さんも、絢香さんの老後を考えてのことよ。だって、絢香さんはもう石井家の娘じゃないんだから、未来のための備えくらいしなきゃいけないんでしょ?」
二人は私の前でゼロ距離になった。
私が鼻で笑うと、浩平は慌てて言い訳を始めた。
「絢香、違うんだ。彼女はたまたまここに来ていて……うちの事務所の合併先が石井グループなのは知っいてるだろう……」
なんて見苦しい言い訳なの。
私はスマホを取り出し、あの親密なツーショットを浩平の顔に突きつけた。
「二人でホテルで手を繋いでいたときも、合併の話をしていたのかしら?」
浩平の瞳孔が開き、血の気がさっと引いていった。
しかし予想外なことに、隣の菖蒲は余裕ありげに笑みを浮かべた。
彼女は面白がってスマホの画面を覗き込み、写真を見てから私を見上げた。その目には呆れさえ浮かんでいた。
「絢香さん」
菖蒲は軽くため息をつき、甘い声で続けた。
「たった一枚の写真で、そこまでやきもちを焼くの?」
菖蒲はゆったりと髪を指で弄り、軽い口調で言った。
「安心して。浩平さんはちゃんと絢香さんと結婚するわ。それだけは約束できる……だって私は他に、家柄の釣り合う相手がいるもの。お互い利害が一致しててね」
菖蒲はそこまで言うと、硬直している浩平に目をやった。
「ここ数年、浩平さんといたのは……面白い人だったから、ただ、遊んでいただけよ」
菖蒲は改めて私を見ると、ゾッとするような笑みを浮かべ、はっきりと言い放った。
「絢香さんの彼氏をセフレ扱いしても、怒らないでよね?」
キーン――
頭の奥で鋭い耳鳴りが響いた。
セフレ?
遊んでいただけ?
目がくらむほどの屈辱で、私は奥歯を噛みしめた。
そんな私の様子を見て、菖蒲は満足げだった。
彼女は一歩踏み出し、説教するような態度で口を開いた。
「いい加減、現実を見たらどうなの。石井家に戻って知ったの。金さえあれば、言い寄ってくる男なんていくらでもいるってね。呼びつけたいときに来て、帰れと言えば帰る。犬を飼うより簡単だもの」
菖蒲はわざとらしく首をかしげた。
「まあ、もし絢香さんが悔しくて、私が手を出した後の男はいらないと言うなら……私の婚約者が戻ってきたら、紹介してあげてもいいわよ?絢香さんみたいなのが好みじゃないかもだけど、試しくらいならできるんじゃないかな?償いってことでね」
第4話
7年前、菖蒲はDNA鑑定の結果を前にして、どこか自信がない様子でオドオドとしていた。
贅沢な暮らしは、人をこんな風に変えてしまうものなのだろうか?
私は浩平に目をやった。
菖蒲からこれほど辱めを受けているというのに、彼に怒りの様子はなかった。
むしろ……なんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。
まるで、諦めを受け入れたかのような落胆の色が見える。
なんて情けない姿だろう。
浩平は何かを言いかけて口をつぐんだ。
すると菖蒲が先回りして、代弁するように口を開いた。
「絢香さん、浩平さんは本当に絢香さんのことを愛しているのよ。昔、お父さんが貧乏人との付き合いを反対した時だって、浩平さんはわざわざお父さんのところへ行って『いつか必ず石井グループの娘にふさわしい男になってみせる』なんて言ってね。
ねえ、面白いでしょう?絢香さんが石井家の本当の娘じゃないなら、代わりに私がその役を担って、浩平さんに自分を証明させる機会を与えてあげる……悪くない話だと思わない?」
私は目を閉じ、枯れたような声で、最悪の可能性を確認せずにはいられなかった。
「つまり、浩平?菖蒲に少しその気にさせられただけで、あなたはその……簡単に引っかかったの?そんなに自分のことが安いの?」
浩平はとっさに顔を上げた。
頬をひきつらせ、情けない目を泳がせながら、激しい葛藤の末に、怒声を上げた。
「そうだ!俺は引っかかったさ!それがどうした!?菖蒲は石井家の唯一の娘なんだ!石井グループの正当な後継者なんだよ!俺が従わなければ、俺たちが苦労して立ち上げた小さな事務所は、石井グループの目に入るわけがないだろ?こんなチャンス、そう簡単には巡ってこないんだ!
絢香、俺が好きでこんなことをしていると思ってるのか?全部、お前との将来のためなんだ!この事務所を潰さず、さらに大きくするために仕方のなかったことなんだよ!」
なるほど。
浩平は、この合併が成立した理由が、彼が身を捧げて男としてのプライドを差し出したことによるものだと思っているなんて。
なんと愚かなことか。
かつて、石井グループの創業者を前にしても物怖じせず、堂々と自分を証明しようとしていた男が。
確かな実力を手に入れた今、自分の成功は、プライドを捨てたおかげだと思い込んでいるなんて。
浩平の顔は、興奮と怒りのせいで知らない人のように見えた。
そして菖蒲は、露骨な蔑みの色をその顔に浮かべた。
あまりに意味のないやり取りで、心が冷えていく。
私は、エンゲージリングを嵌めた手をゆっくりと上げた。
私がリングに触れた瞬間、浩平は何かを察したのか、慌てて私を制止した。
「絢香、解雇通知書は冗談じゃないぞ。法的にも有効なんだよ!無茶を言ったところで、何の得にもならない!」
彼は大きく深呼吸をすると、まるで商談の席でのように虚勢を張った。
「素直にこの話を受け入れて、退職金を持って大人しくしろ。今まで通り、また俺とお前は元に戻れる……約束するから。結婚したら、お前のことも大事にするし、償ってやる。
でも、無理に事を荒立てるなら……石井グループの法務部を甘く見るなよ。絢香、俺たちは7年の付き合いだろう……何もかも失いたくないだろ?」
甘い囁きと、おこがましいお願いの言葉。
そこへ菖蒲が口を開いた。
「絢香さん、正直言うと同情しちゃうわ。石井家を追い出されて、一生こんな小さな事務所に身を預けて、たった一人の男に全てを賭けるしかないなんて……」
菖蒲の言葉には、あからさまな軽蔑が含まれていた。
二人で勝手にそんなことを話している中、浩平は菖蒲の機嫌をずっと窺っていた。
「菖蒲の言う通りだ。彼女は経営者としての度量があるんだよ。絢香、お前も見習うべきだな」
経営者としての度量だと?
笑わせないでほしい。
人に頭を下げることに慣れすぎて、もう堂々とした生き方も忘れたのか?
私は二人をしばらくじっと見つめた。
不安と期待を滲ませた浩平の顔と、優越感に浸っている菖蒲の顔を。
最後には、浩平のデスクに、誇らしげに置かれた合併契約書に目を留めた。
私は思わず、笑いが込み上げてきた。
顔を上げると、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「その合併契約書のサイン、午後の予定よね」
第5話
浩平は一瞬怪訝そうな顔を見せたが、やがて小さく頷いた。
「ああ。今日の午後3時、石井グループの本社で記者会見を開き、サインはそこでするんだ」
「もうすぐ解雇される、この事務所のチーフエンジニアである私も、最後の確認作業のために出席が必要ってわけね?」
浩平はしばし迷った末、意を決したように言った。
「その通りだ……だが絢香、合併さえ済めば、お前は……」
私は手で彼の言葉を制した。
「いいわ」
私は深呼吸し、絶望するも、現実には抗えない女を演じた。
「浩平、あなたの勝ちよ。7年間……結局、目を逸らすことはできないわ。最後になって、全てを失うわけにはいかないものね」
私はエンゲージリングを嵌めた薬指を浩平の前に突きつけた。
「専業主婦になるから、約束した気楽な生活をくれるわよね?」
浩平は舞い上がり、今にも私を抱きしめてきそうな勢いだった。
「絢香!やっと分かってくれたのか?ああ、嬉しい!俺を信じて正解だよ!安心しろ、これからは幸せにする。望むものは何でも与えてやる……」
隣では菖蒲が冷たく笑った。
「おめでとう、絢香さん。やっと現実が見えたのね。ほら、そんなシワシワの袖じゃ見栄えが悪いわよ。さっさといい服に着替えてきなさい」
私は自分の袖を見て、思わず目を細めた。いつの間にか糸が解れていたのだ。
私は無言で頷き、背を向けた。
本心で同意したわけじゃない。
これから何が起きるか、二人はまだ知らないのだ。
今ここで喚き散らしても、一時の感情を発散できるだけだ。それに浩平の無意味な反省の言葉なんて必要ない。
これから自分が失うものの大きさを、彼のその目に焼き付けてやる。
午後3時、石井グループの最上階ホール。
華やかな衣装に包まれた人々が談笑し、カメラマンたちは待ち構えていた。
私は席につき、目の前には例の解雇通知書が置かれていた。
浩平は誇らしげに振る舞い、石井グループの重役たちと笑い合いながら、時折私の様子を確認している。
まるで、解雇通知書のことを忘れないでとでも言っているかのように。
上品な香水の香りを漂わせながら、菖蒲が優雅な足取りで近づいてきた。
「絢香さん、サインする時はちゃんと笑顔でね……7年も頑張ってきた場所でしょ?最後ぐらいは落ち着いて、丁寧にやらなきゃ」
そこで菖蒲はわざとらしく浩平を見やった。
「これからは忙しい浩平さんに迷惑をかけないよう、大人しくしておくことね」
私は静かに菖蒲を問い返した。
「あなたの方は?」
菖蒲は驚いた様子で言った。「私が?」
「お父さんが選んだあなたの婚約者って、クズで有名じゃなかった?その人だって外で好き放題していそうだけど、あなたは大人しく見ないふりをしているわけ?」
菖蒲は眉をひそめ、反論しようと口を開いたがその時、司会者の声が彼女の言葉を遮った。
「それでは両方の代表に、合併契約書へのご署名をお願いいたします!」
盛大な拍手が響き渡る。
菖蒲は反論を諦め、代わりに鋭く睨みつけてきた。
浩平が悠々とペンを取り、サインを走らせる音がマイクを通じて響いた。
彼はペンを置き、合併契約書を石井グループの会長・石井渉(いしい わたる)の方へ渡すと、主役に視線を向け、満面の笑みを浮かべた。
そこにいるのは、かつての私の父なのだ。
会場の全ての視線が、渉へと注がれた。
渉の表情は穏やかだが、しかし他人を寄せ付けない威厳が滲んでいた。
ところが、ペンを手に取ることなく、渉は首を振った。
「本日の石井グループ代表として、契約書にサインをするのは自分ではありません」
場内は一瞬にして静まり返った。
浩平は表情を凍りつかせ、理解できない様子で周りを見回した。
渉はゆっくりと顔を上げ、浩平を無視して会場を見渡すと、まっすぐ私を見つめた。
菖蒲が渉の目線を辿り、目を見開いた。
フラッシュを浴びながら、私はゆっくりと席を離れ、全員の目の前に堂々と立った。
浩平の驚愕に揺れる瞳を見つめながら、私は両手でしっかりと、合併契約書を握った。
そして、それを真っ二つに引き裂いた。
ビリッ――