失くした子と終わる愛

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結婚して五年、渡辺良介(わたなべ りょうすけ)はほとんど半分の時間を、川向こうのマンションで過ごしていた。 良介は、兄が若くして亡くな...

Chương (1)

第1章

結婚して五年、渡辺良介(わたなべ りょうすけ)はほとんど半分の時間を、川向こうのマンションで過ごしていた。 良介は、兄が若くして亡くなり、義姉の渡辺春菜(わたなべ はるな)だけが頼る人もなく残されたのだから、弟である自分には二つの家を背負う責任があるのだと言った。それこそが、渡辺家の人間としての情の厚さであり、義理を重んじる証なのだ、と。 その頃の私は、そんな言葉を愚かにも本気で信じていた。 その聞こえのいい義理立てを成り立たせるために、私は祝日に良介が家にいないことも、大晦日の食卓をこちらと春菜のところで掛け持ちすることも、外で「夫を義姉と分け合っている情けない妻」と陰口を叩かれることさえ、黙って耐えてきた。 けれど、良介が私に向ける声は、いつだって穏やかな中に距離があった。 あの日、玉突き事故に遭い、私たち三人の乗った車は無残にひしゃげた。 私は大きく膨らんだお腹をかばいながら、痛みに冷や汗を浮かべ、必死に車窓を叩いた。「良介、赤ちゃんを助けて……」 良介は運転席から這い出すと、血に染まった私の下半身へ一度視線を落とした。けれど次の瞬間、後部座席のドアをこじ開けていた。 良介は、額を少し擦りむいただけの春菜さんを強く胸に抱きしめた。 「見るな。大丈夫だ、俺がいる」 良介の大きな手が春菜の背中をそっと叩き、何度も何度もその恐怖をなだめていた。 一方で、助手席側のドアは変形のせいで完全に開かなくなっていた。 良介は恩義を守っていたわけではない。ただ、春菜が少しでもつらい思いをするのが許せなかっただけなのだ。 第1話 結婚して五年、渡辺良介(わたなべ りょうすけ)はほとんど半分の時間を、川向こうのマンションで過ごしていた。 良介は、兄が若くして亡くなり、義姉の渡辺春菜(わたなべ はるな)だけが頼る人もなく残されたのだから、弟である自分には二つの家を背負う責任があるのだと言った。それこそが、渡辺家の人間としての情の厚さであり、義理を重んじる証なのだ、と。 その頃の私は、そんな言葉を愚かにも本気で信じていた。 その聞こえのいい義理立てを成り立たせるために、私は祝日に良介が家にいないことも、大晦日の食卓をこちらと春菜のところで掛け持ちすることも、外で「夫を義姉と分け合っている情けない妻」と陰口を叩かれることさえ、黙って耐えてきた。 けれど、良介が私に向ける声は、いつだって穏やかな中に距離があった。 あの日、玉突き事故に遭い、私たち三人の乗った車は無残にひしゃげた。 私は大きく膨らんだお腹をかばいながら、痛みに冷や汗を浮かべ、必死に車窓を叩いた。「良介、赤ちゃんを助けて……」 良介は運転席から這い出すと、血に染まった私の下半身へ一度視線を落とした。けれど次の瞬間、後部座席のドアをこじ開けていた。 良介は、額を少し擦りむいただけの春菜さんを強く胸に抱きしめた。 「見るな。大丈夫だ、俺がいる」 良介の大きな手が春菜の背中をそっと叩き、何度も何度もその恐怖をなだめていた。 一方で、助手席側のドアは変形のせいで完全に開かなくなっていた。 良介は恩義を守っていたわけではない。ただ、春菜が少しでもつらい思いをするのが許せなかっただけなのだ。 救急車が現場に到着した。 消防士が油圧カッターで、私の側の車のドアを切り開いていく。 私は座席の下に目を落とした。そこに広がっているのは、私の血だ。 下腹部が、波のように何度も締めつけられる。 私は両手で必死にお腹を抱えた。七か月の赤ちゃんが中にいる。その子がまだ動いているのか、もう分からなかった。 私は車内に差し込まれた担架の上に、力なく倒れ込んだ。 救急医は酸素マスクを私の顔にかぶせ、外へ向かって声を張り上げた。 「ご家族は?妊娠何週ですか?母子手帳は持っていますか?」 良介は腰をかがめ、ティッシュで春菜の額にできた二センチにも満たない傷を拭いていた。 医師がもう一度叫んだ。 良介は私のほうへ顔を向け、口を開きかけた。 「二十九週です……ほかは、よく分かりません」 よく分かりません。 私は健診から戻るたび、報告書をきちんと書斎の二段目の引き出しにしまっていた。けれど良介は、一度もそれを開こうとしなかった。 それなのに良介は、春菜がどの薬にアレルギーがあるのか、膝を痛めたのはどちらの脚か、リラックス用のお茶を何分蒸らせばいいのかまで覚えている。 担架が動き出したとき、私は首だけをひねって良介を見た。 彼はついてこなかった。 春菜が良介の腕をつかみ、胸元にすがって震えている。 良介は頭を下げると、手のひらで春菜の後頭部を包み込んだ。 「そっちは見るな。大丈夫だ。目を閉じていろ、俺がいる」 車のドアが閉まる直前、私は良介が春菜を支え、別の車に乗せるのを見た。 病院に着くなり、私は手術室へ運び込まれた。 私は声を上げまいと唇を噛みしめた。けれど涙は、マスクの縁を伝って止めどなく流れていく。 看護師が廊下で家族を呼ぶ声がした。 「ご家族の署名をお願いします!緊急帝王切開の同意書です。ご家族はいませんか?」 扉が開いた。 良介が入ってきた。ペンを握り、最後の欄に名前を書く。その手は震えていた。 私は、良介が私のそばまで来てくれるのだと思った。 けれど良介は署名を終えると、スマホを取り出して電話に出た。 声は抑えられていた。それでも私には聞こえてしまった。 「春菜さん、怖がらないで。検査結果はすぐ出る。伊藤をそばにつけておくから、俺は署名が終わったらすぐ行く」 麻酔が入っていき、私の意識は少しずつ遠のいていった。 その手術がどれほど長く続いたのか、私には分からない。 目を覚ましたのは、真夜中だった。 親友の松本有希(まつもと ゆき)がベッドのそばに突っ伏していた。目元は赤く腫れている。 私が最初に口にした言葉は、「赤ちゃんは?」だった。 有希は答えなかった。 私は有希の表情を見て、目を閉じた。 病室の外から、姑・渡辺幸子(わたなべ さちこ)がわざと声を潜めるのが聞こえた。 「春菜ちゃん、気にしなくていいのよ。良介がもう手配してくれたから。今日は先に帰って休みなさい。君の体だって大事なんだから……」 誰ひとり、私の子どものことを口にしなかった。 まるで、私のお腹の中で七か月も育ち、私が名前をつけ、帽子まで編んであげた命など、最初から存在しなかったかのように。 その後、良介は一度だけ病室に入ってきた。 彼はベッドの足元に立ち、長いあいだ黙っていた。 それから、こう言った。「産後ケアセンターのほうには、先に部屋を押さえておいた。今は体をしっかり休めろ」 彼は謝らなかった。 赤ちゃんの葬儀のことにも触れなかった。 私は何も返さなかった。 翌日、有希は通りかかった車のドライブレコーダーに映っていた現場写真を私に見せた。 一枚目の写真には、良介が私の側の車のドアのそばに立ち、ひしゃげたドア枠に手をかけている姿が写っていた。 二枚目の写真には、良介が背を向けて後部座席へ向かい、春菜側のドアをこじ開けている姿が写っていた。 私は写真を見下ろしたまま、指の腹で紙面を強く押さえつけた。 あの瞬間、間に合わなかったわけではなかった。 良介はもう、選んでいたのだ。 私は写真を病床の上に伏せ、空っぽになった下腹部を手のひらで押さえた。目はひりつくほど乾いて、涙さえ出なかった。 病室の外で、誰かが春菜はひどく怯えていたのだと小声で話していた。 私は目を閉じ、光の届かないほうへ顔を背けた。 その夜、私は初めて、良介の帰りを待たなかった。 第2話 退院の日、良介が迎えに来た。 良介は車のドアを開け、私の背中にそっと手を添えた。仕草は優しく、気遣いに満ちているように見える。 車に乗ってから、私はずっと口をきかなかった。 車がマンションの下に着くと、良介は降りて荷物を取りに行った。 リビングに入ると、ローテーブルの上に見慣れない茶色の救急箱が置かれていた。 ソファの肘掛けには、ベージュのカシミヤのショールが掛かっている。私のものではない。 テレビボードのそばには、良介の兄、渡辺文人(わたなべ ふみと)の遺影が立てられている。 私は玄関先に立ったまま動けなかった。 背後で靴を履き替えていた良介の動きが、一瞬止まった。 「春菜さんはこの数日、状態がよくないんだ。夜中にけいれんを起こすことがあって、一人ではいられない。しばらくここに住んでもらうことにした。落ち着いたら戻るから」 私は何も答えず、そのまま主寝室へ向かった。 少し開いていたドアを押すと、春菜が私のベッドの端に座り、小さな薬瓶を整理していた。 春菜は私のルームスリッパを履いている。私が入ってくるのを見ると、すぐに立ち上がった。 「茜、帰ってきたのね」 彼女は声を落とした。 「暗いところが怖くて、一人ではどうしても耐えられなくて……良介が、ひとまず二日だけ泊まればいいって言ってくれたの。少しよくなったら出ていくから、迷惑はかけないわ」 私は春菜の足元のスリッパを見つめた。 妊娠してから替えた、柔らかい底のものだった。良介が長い時間つき合って、一緒に選んでくれたものだ。 私は良介へ顔を向けた。 「春菜さんが主寝室に泊まるの?」 良介はドア枠にもたれ、少し困ったような顔をした。 「夜中に一度けいれんを起こして、床に倒れていたところを見つかったんだ。主寝室はリビングに近い。何かあったときに見に行きやすい。 この数日だけ、書斎で寝てくれ。書斎のベッドはもう整えてある」 喉の奥に、何かが詰まったようだった。 言いたいことは山ほどあった。けれど一言も出てこない。 言えなかったのは、怖かったからではない。その瞬間、この家での私の居場所など、いつでも簡単に動かされるものなのだと気づいてしまったからだ。 夕食のとき、春菜は食卓のそばに座り、良介のためにスープをよそっていた。 春菜は私をちらりと見て、すぐに目を伏せた。 「茜が退院したばかりなのは分かっているの。本当なら迷惑をかけるべきじゃない。でも良介は、文人のたった一人の弟でしょう。良介に見放されたら、私、本当に誰に頼ればいいのか分からなくて」 良介は料理を一口分、私の茶碗に入れた。 「茜、春菜さんも大変なんだ。君は体を休めることだけ考えて。ほかのことは俺が見る。つらい思いはさせない」 私は茶碗の中のその一口を、ただ見下ろしていた。 食事を終えると、私はベビールームへ行った。 ドアを開けた瞬間、何かがおかしいと分かった。 窓辺に置いてあった、小さな服や帽子を入れる収納かごが空になっている。 部屋には木製のイーゼルと、何箱かの絵の具が増えている。 イーゼルには一枚のカードが掛かっていて、「感情ケア、絵画によるストレス緩和」と書かれている。 私は入口に立ったままイーゼルを見つめた。言葉にならない苦しみが、喉につかえているようだ。 振り返ると、良介が廊下に立っていた。 「春菜さんのカウンセラーが、絵を描いて気持ちを落ち着かせるよう勧めたんだ。家にはほかに空いている部屋がなくて……」 私は良介を遮った。 「ここは、赤ちゃんの部屋よ」 良介は数秒黙った。 「茜、赤ちゃんのものは全部しまってある。捨ててはいない。今は興奮しないでくれ、まだ体が戻っていないんだ。春菜さんが出ていったら、この部屋はまた元どおりにする」 もう良介と言い争う力は残っていなかった。 ただ急に、あのベビー用品がどこへ片づけられたのか知りたくなった。 真夜中、私は収納部屋のドアを開けた。 収納部屋には、ベビーベッドも哺乳瓶の消毒ケースもなかった。 私が自分の手で畳んだ小さな服も何着か消えていた。箱の底に、ラベルの紙だけが落ちている。 使用人が後ろからついてきた。「茜様、それは……幸子様が、見ているとつらくなるからとおっしゃって、春菜様の名義の慈善団体にチャリティー販売用として送らせました」 私は腰をかがめ、箱の底のラベル紙を拾った。そこには妊娠週数と出産予定日が書かれている。 長いことそれを見つめ、ラベル紙を折りたたんで手のひらの中で握りしめた。 この家では、私の子が確かにいた痕跡さえ、譲り渡さなければならないのだ。 私は収納部屋のドアを閉めた。 ロックがかかる音は、とても軽かった。 その一音とともに、私の中の何かもまた、静かに閉ざされてしまった。 第3話 再診の日、良介は仕事があると言い、運転手に私を病院まで送らせた。 私は一人で受付を済ませ、順番を待ち、エコー検査を受け、報告書が出るのを待った。 医師はカルテをめくりながら眉をひそめた。 「術後の回復があまりよくありません。子宮内にまだ血の塊が残っています。薬はきちんと飲んでください。無理は禁物ですし、精神面も気をつけてください。 ご家族は?どうして誰も付き添っていないんですか?」 私は、家族は忙しいのだと答えた。 医師は私を一度見ただけで、それ以上は聞かなかった。 家に戻ると、良介はリビングに座っていた。 彼は立ち上がり、私の手から袋を受け取った。 「結果はどうだった?」 「まだ回復途中だって」 良介はうなずいた。 それから、私の体を凍りつかせるような一言を口にした。 「茜、流産したことは、しばらく外には言わないでくれ。春菜さんは最近、精神的にかなり不安定なんだ。そういう話を聞くと、昔のことがよみがえってしまう。分かってやってほしい」 私は玄関に立ったまま、コートも脱いでいなかった。 「私に隠せっていうの?」 「隠すんじゃない。ただ今は公にしないだけだ。春菜さんがもう少し落ち着いてからにしよう」 私は長いあいだ良介を見つめた。 良介の表情は真剣で、どこか私にすがるようだった。 その顔を、嫌というほど知っている。 良介が私に譲らせたいときは、いつもそんな顔をする。 翌日、義母から電話がかかってきた。 「茜、良介から聞いたわ。お義母さんを冷たいと思わないでね。あなたはまだ若いんだから、これからまた子どもを授かれるわ。 でも春菜は違うの。あの子はもう文人を失っているのよ。これ以上刺激を受けたら、本当に耐えられないわ。 赤ちゃんのお披露目に押さえていた席は、文人の四回忌の身内の食事会に変更しておいたわ。親戚にももう知らせてあるけれど、いいわよね?」 私はスマホを握ったまま、書斎に座っている。 赤ちゃんのお披露目の会は、私が妊娠四か月のとき、良介と一緒に予約したものだった。 私がメニューを選び、招待客のリストを作り、席札には赤ちゃんの愛称まで印刷していた。 それが今、別の人のための追悼の食事会に変わった。 私は口を開いた。「お義母さん、あの子の存在を忘れたくないんです。小さな記念プレートを置きたいんです。あの子がここにいたと思える場所を、少しだけ残させてください」 電話の向こうで、数秒の沈黙が落ちた。 「茜、春菜が家にいるのよ。そんなものを置いたら、あの子が見たときどうするの?」 電話を切ったあと、私は長いこと座ったままでいた。 窓の外が暗くなっても、書斎の灯りはつけなかった。 ふと、かつて有希に言ったことを思い出した。良介はただ、家族の責任に押しつぶされているだけで、心の中には私がいるのだと。 けれど今は、私の子の名前さえ、この家には残せない。 食事会の日、私は長いテーブルの端に座っていた。 席に着いた人たちは、みな文人の思い出を語っていた。 春菜は上座のそばに座り、親戚たちの話を聞いている。 誰かが春菜の手の甲をなで、誰かが料理を取り分け、誰かが若くして夫に先立たれてかわいそうだとため息をついた。 私が赤ちゃんを亡くしたことには、誰ひとり触れなかった。 遠縁の叔母が、隣の人に声を潜めて言った。「良介の奥さん、どうしてあんなに顔色が悪いのかしら。まだ若いのに、いつもあんなふうに怖い顔をして。家の事情を少しは分かってあげればいいのにね」 グラスを持つ私の手が、わずかに止まった。 春菜がふいに体をぐらつかせ、テーブルの縁に手をついた。 その場にいた全員が立ち上がった。 義母が真っ先に駆け寄り、春菜を支えた。 「春菜ちゃん!どうしたの?まためまい?」 良介は向かい側から回り込み、その場にしゃがんだ。 叔母は私のほうを振り向き、わざと声を大きくした。 「誰か、席で余計なことを言ったんじゃないの?春菜ちゃんはこのところ調子がよくないのに、また刺激を受けたらどうするのよ」 叔母の視線が私に向いているのは分かっていた。 私は立ち上がらなかった。 そのとき、ふと気づいた。私が何をしてもしなくても、ここにいる人たちは、春菜が倒れたのは私のせいだと思うのだ。 夜、家に戻っても、私は良介を待たなかった。 スマホの銀行アプリを開き、この三年分の家計口座の明細を表示した。 それから病院の会計窓口へ行き、事故当夜の支払い記録を印刷してもらった。 良介はあの夜、先に春菜の一通りの検査と個室の手続きを済ませていた。 その支払い時刻は、私の手術より47分も早かった。 一方で、私の術後の付き添い費用の預かり金の明細には、有希の名前が書かれていた。 私はその書類をそろえ、バッグにしまった。 ふと、今まで自分が良介のために、何度も何度も言い訳をしてきたことを思い出した。 良介はただ情に厚いだけ。 ただ板挟みになってつらいだけ。 ただ、渡辺家にその役目を押しつけられただけ。 けれど今、その数枚の領収書を前にして、私はもう良介をかばう理由をひとつも見つけられなかった。 私はゆっくりと立ち上がった。 下腹部はまだ鈍く痛んでいる。 けれど痛みよりもはっきりと、胸の奥にひびが入るような感覚があった。 そこに冷たい風が吹き込んで、私はようやく目が覚めた。 第4話 私は、赤ちゃんのために陶器のメモリアルプレートを用意した。 それは私がひそかに作っておいたものだった。手のひらほどの大きさで、赤ちゃんの名前が焼きつけてある。 書斎の引き出しに入れて鍵をかけておいた。鍵は私だけが持っている。 だかその翌日、引き出しを開けると、中は空っぽだった。 使用人を問いただしたが、首を振って否定した。 家じゅうを探し回り、ゴミ箱のそばに置かれたリサイクル袋の中から、その陶板を見つけた。 陶板は三つに割れ、文字は一部しか残っていなかった。 春菜が書斎に入ってきて、しゃがんで破片を拾っている私を見て足を止めた。 「茜……あの陶板、わざとじゃないの。 書斎を片づけていたとき、うっかり引き出しに触れてしまって、手が滑って、それで……」 私は静かに口を開いた。 「引き出しには鍵がかかっていたはずです」 春菜は一瞬、言葉に詰まった。 「たぶん、使用人が掃除したときに鍵をかけ忘れたんだと思う。茜、本当にわざとじゃないの。そこに赤ちゃんの名前が刻まれているのを見て、胸が苦しくなって、手が……」 春菜の目が赤く潤んだ。 義母が戸口から入ってきて、春菜の腕を取った。 「春菜ちゃん、もう泣かないの。そんな大したことじゃないでしょう。茜、春菜ちゃんはただでさえ心が弱っているのよ。何でもかんでも見えるところに置いておいたら、目に入った春菜ちゃんがつらくならないわけないでしょう」 私は床にしゃがんだまま、三つの破片を握りしめている。 破片の縁が指に食い込んでも、痛みは感じなかった。 「お義母さん、この引き出しには鍵がかかっていました」 義母は眉をひそめた。 「どういう意味?春菜ちゃんがわざと壊したとでも言いたいの?」 春菜が一歩あとずさった。 「茜が私を信じてくれないなら……もういい。どうせ私が何を言っても、全部私のせいだと思うんでしょう」 春菜は背を向け、涙を拭った。 義母の声は冷たかった。「茜、自分がつらいからって、春菜に八つ当たりするのはやめなさい。あの子が失ったもののほうが、あなたよりずっと大きいのよ」 良介が帰宅したとき、義母はすでに春菜を実家へ連れて行っていた。 良介はローテーブルの上に置かれた三つの破片を見た。 「茜。君が悔しいのは分かる。でも、春菜さんの精神状態が本当に悪いのも事実なんだ。こんなことをしたのも、本当に悪気はなかったのかもしれない」 私は顔を上げなかった。 良介が私の手を包み込んだ。 「俺が同じものを作り直すよ。まったく同じものを。な?どんな文字を入れたいか、一緒に行って決めよう。これからは、春菜さんに君のものを触らせない」 良介はいつものように、私をなだめた。 これまで、数えきれないほど身を引いてきた。 けれど、今回は違った。 私は手を引き抜き、立ち上がって書斎に入った。 この三年分の銀行取引明細を、時系列に並べた。 川向こうのマンションの管理費、春菜のカウンセリング費用。 春菜の健診や付き添い介護の費用、実家の借金の肩代わり。 すべて、私と良介の夫婦共有口座から支払われていた。 さらに病院の支払い記録、家族会食の招待状の修正原稿、ベビー用品をチャリティーに出した際の受領書も取り出した。 最後に、それらを項目ごとに分けてファイルに収めた。 翌日、私は弁護士に頼んで渡辺家の家族会議を開いてもらった。 義母が上座に座り、良介がその隣に腰を下ろした。 春菜は実家から駆けつけ、赤い目のまま席に着いた。 私はファイルをテーブルに置き、一ページ目を開いた。 「この三年間、夫婦共有口座から春菜さん個人の生活に関わる費用として支出された金額は、合計3,840万円です。 マンション、介護、カウンセリング、それから春菜さんの実家の借金も含まれています」 私は二ページ目をめくった。 「事故当夜の病院の支払い記録です。春菜さんの検査費用と病室代は、私の手術前にすでに支払い済みでした。一方で、私の付き添い保証金は有希が立て替えています」 三ページ目。 「赤ちゃんのベビー用品は、私の同意もないままチャリティーに出されていました。受領書に記載されているのは、春菜さん名義の慈善団体です」 四ページ目。 「出産祝いとして準備されていた家族会食の招待状原稿です。赤ちゃんの名前は消され、文人の四回忌という名目に書き換えられていました」 リビングは水を打ったように静まり返った。 春菜の唇が震えている。 義母の顔色がみるみる変わっていく。 良介は書類を見つめたまま、何も言わなかった。 最初に口を開いたのは春菜だった。声が震えていた。「茜、このお金は……文人が亡くなったとき、まだ保険金が下りていなくて、私には本当にほかの収入がなかったの……」 私は顔を上げ、春菜を見た。 「文人さんの生命保険の受取人は春菜さんです。保険金は7,600万円。文人さんが亡くなって三か月目には、もう振り込まれていました」 春菜の顔から血の気が引いた。 私は続けた。 「お金がなかったわけでも、頼る人がいなかったわけでもありません。自分のお金を使いたくなかっただけでしょう」 義母の指が肘掛けを強くつかんだ。 良介は一度、目を閉じた。 春菜は立ち上がり、何か言おうと口を開いたまま、顔を覆ってリビングを飛び出した。 みんなが散ったあと、良介だけがリビングに残った。 私は寝室へ戻り、診療記録、戸籍謄本、銀行口座の取引明細、不動産関係の書類をまとめた。 引き出しの奥から、赤ちゃんのエコー写真を取り出した。 それを病歴ファイルに挟み込んだ。 玄関のほうから、電子錠が解錠される音がした。 良介が春菜を支えて入ってきた。 春菜は良介の上着を羽織り、手には銀のブレスレットを握っている。 ブレスレットの内側には、私が赤ちゃんにつけた名前が刻まれている。 私の視線はそこに釘づけになった。 三年間、張りつめていた心の糸が、その瞬間ぷつりと切れた。 良介は私の視線を追い、顔色を変えた。 春菜は反射的にブレスレットを袖の中へ隠した。 良介が一歩、前へ出た。 「茜、聞いてくれ――」 私はそれを遮った。 「良介」 離婚協議書を玄関の棚に置き、スーツケースを引いて良介の横を通り過ぎた。 そして、敷居の前で足を止めた。 「もう、説明はいらない。 これから先、私たちは二度と会わないでいましょう」 私はそのままドアを閉め、エレベーターへ向かった。