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クズ旦那と別れた私は愛を見つけた
桜井玲司(さくらい れいじ)が自分を愛することはない―― その現実をようやく受け入れた桜井千歌(さくらい ちか)は、離婚届を提出し、息子...
Chương (1)
第1章
桜井玲司(さくらい れいじ)が自分を愛することはない――
その現実をようやく受け入れた桜井千歌(さくらい ちか)は、離婚届を提出し、息子の真人(まさと)を連れて桜井家を去った。
ところが、これまで冷え切っていた玲司の態度が、その日を境に一変する。
毎日のように車で待ち伏せし、復縁してほしいと頭を下げる。仕事の合間はすべて真人との時間にあて、誕生日でもないのに贈り物を用意し、親子を喜ばせようとした。
さらには二人を守ろうとして犯人に刃物で刺され、生死の境をさまようほどの重傷まで負った。
息子の「パパを許してほしい」という願いもあり、千歌は少しずつ心を開いていく。そしてついに、復縁を受け入れた。
だが、復縁の手続きを終えた帰り道、千歌と真人は、大きな交通事故に巻き込まれた。
十数時間に及ぶ緊急手術の末、千歌は腎臓を一つ失い、真人は両目の光を奪われた。
そして事故の翌日。病院の廊下を歩いていた千歌は、真人の手を引いたまま医師の控室の前を通りかかる。
半開きの扉の向こうから、彼女はとある秘密を聞いてしまった。
第1話
桜井玲司(さくらい れいじ)が自分を愛することはない――
その現実をようやく受け入れた桜井千歌(さくらい ちか)は、離婚届を提出し、息子の真人(まさと)を連れて桜井家を去った。
ところが、これまで冷え切っていた玲司の態度が、その日を境に一変する。
毎日のように車で待ち伏せし、復縁してほしいと頭を下げる。仕事の合間はすべて真人との時間にあて、誕生日でもないのに贈り物を用意し、親子を喜ばせようとした。
さらには二人を守ろうとして犯人に刃物で刺され、生死の境をさまようほどの重傷まで負った。
息子の「パパを許してほしい」という願いもあり、千歌は少しずつ心を開いていく。そしてついに、復縁を受け入れた。
だが、復縁の手続きを終えた帰り道、千歌と真人は、大きな交通事故に巻き込まれた。
十数時間に及ぶ緊急手術の末、千歌は腎臓を一つ失い、真人は両目の光を奪われた。
そして事故の翌日。病院の廊下を歩いていた千歌は、真人の手を引いたまま医師の控室の前を通りかかる。
半開きの扉の向こうから、彼女はとある秘密を聞いてしまった。
「桜井社長が計画した交通事故、本当に完璧だったな。警察もまったく不審に思っていないらしい」
「でしょうね。聞いた話じゃ、幼馴染の日暮奈帆(ひぐれ なほ)さんとその息子さんが交通事故に遭って、一人は腎臓移植が必要になり、もう一人は角膜移植が必要になったとか。
でも適合したのが千歌さん親子だけだったそうだよ。だから桜井社長はわざわざ復縁を迫ったんだろうな。
再婚して家族になれれば、本人の同意がなくても手続きができる。いやあ、そこまでして日暮さんを助けたいなんて、本当に彼女が大切なんだな」
「千歌さんたちも気の毒だよ。自分たちが利用されたことも知らないままなんだから。今、桜井社長が304号室で日暮さんに付き添ってることさえ知らないでしょうね」
千歌の全身から血の気が引いた。足元が揺らぐ。
耳に入った言葉を、脳が理解することを拒んでいる。あの事故が――玲司の仕組んだものだと?
復縁を求めてきたのも、愛情ではなく目的を果たすためだったのか。
壁に手をつきながら、千歌はふらつく足を必死に前へ運んだ。やがて医者たちが言っていた304号室の前に辿り着く。
扉はわずかに開いていた。その隙間から、聞き覚えのある声が流れてくる。
「玲司、千歌さんたちのところへ行ってあげなくていいの?」奈帆の柔らかな声だった。「彼女はあなたの妻だし、真人くんだってあなたの実の息子なんだから……」
「必要ない」玲司は即座に言い切った。その声音は、ぞっとするほど冷たい。「あの二人の役目はもう終わった」
千歌の呼吸が止まる。
「埋め合わせはする。これから先、一生不自由なく暮らせるよう面倒を見るつもりだ」わずかな沈黙のあと、玲司の声は不意に柔らかくなった。「だが、それだけだ。奈帆、お前もわかっているだろう。俺が愛しているのは、お前なんだって」
奈帆が小さく息をついた。「でも、真人くんはあなたの……」
「あの子よりお前の息子が大事だ」言い終える前に、玲司が遮る。その声は低くて、迷いがなかった。「愛するお前が大切にする相手を、俺も大切にする。だから、お前の息子は、当然あの子より優先する」
千歌はとっさに口を押さえた。頬を伝う涙だけが、音もなく落ちていく。
玲司が自分を愛していないことくらい、ずっと前から知っていた。
それでも――まさか彼が、自分の血を分けた息子に対してもここまで残酷になれるなんて思いもしなかった。
玲司と奈帆は幼なじみで、小さい頃から一緒に育った。
玲司は名家に生まれ、近寄りがたいほど誇り高い男だ。そんな彼の隣で、奈帆はいつも穏やかに微笑んでいた。
そうやって一緒に長い年月を過ごした二人は、誰もが認めるお似合いの存在だった。
その頃の千歌は、玲司の秘書だった。
だからこそ知っている。玲司がどれほど奈帆を愛しているのかを。
彼は奈帆を本当に宝物のように扱っていた。彼女のために街中で三日三晩花火を打ち上げたこともある。
グループ傘下の新ブランドには彼女の名前を冠し、オークションでは高額な宝石を次々と落札しては奈帆に贈った。
惜しみなく愛情を注ぎ、彼女を何よりも大切にしていた。
けれど奈帆の心は別の人に向いていた。彼女は玲司の想いを受け入れず、初恋の相手とともに海外へ渡り、そのまま結婚した。
奈帆を失った玲司は、長い間酒に溺れた。そしてある夜――酔い潰れた彼は人違いをしたまま、千歌を抱いたのだ。
その一夜で、千歌は真人を身ごもった。妊娠がわかると、玲司の祖母がすぐに話をまとめ、二人は結婚することになった。
だが、結婚はしたものの、玲司は五年間、千歌に視線を向けることすらほとんどない。
真人が生まれた日も、彼は分娩室の前に姿を見せなかった。
それどころか、真人が自分を「パパ」と呼ぶことさえ許さなかった。
だから千歌は諦めたのだ。この人の心は、一生自分には向かないのだと。
ところが離婚した途端、玲司はまるで別人のように変わった。
執拗なほどに復縁を求め、必死に追いかけてきた。彼女を助けるために命さえ落としかけた。
一命を取り留めた玲司が千歌と真人を抱き上げ、今まで聞いたことがなかった優しい声で言った。「愛してる。頼む……許してくれないか?」
真人はその夜、興奮してなかなか眠れなかった。小さな腕で千歌の首にしがみつきながら、嬉しそうに囁いた。「ママ、パパがぼくたちのこと愛してるって言ってたよ。もう許してあげてもいいんじゃない?」
あの言葉に千歌は心を動かされた。
玲司はようやく過去を振り切り、本当に自分たちを家族として受け入れてくれたのだと思った。
けれど違った。全部……嘘だった。
復縁して欲しいと言ったのは、彼女たちをあの交通事故に巻き込むために。堂々と千歌の腎臓を奪い、真人の目を奪うためだった。
その時、隣の真人も激しく震えた。
――すべてを聞いてしまったのだ。
「ママ……」か細い声が震える。「ぼくの目……本当にパパが取ったの……?」
その一言で、千歌の胸は無数の針で刺されるようだった。
事故の日のことが脳裏によみがえる。
血まみれになった真人を抱きかかえ、玲司が病院へ駆け込んだ姿。「息子を助けてくれ!」と声を枯らして叫んでいた姿。手術室の前で一晩中ひざまずき、真人の目を何としてでも治して欲しいと医師に懇願していた姿。
あれほど取り乱していたのに、全部、演技だった。
千歌はもう耐えられなかった。真人を抱き上げると、その場から駆け出す。
人目を避けるように非常階段へ飛び込み、薄暗い踊り場でようやく足を止める。涙が次々とあふれ、止まらなかった。
「真人。もうあの人は、あなたのパパじゃない。これから先も、二度とパパにはならない。
ママが連れて行くから、遠くへ行こう。
あなたの大好きなヒーロー映画みたいに、新しい名前で、新しい人生を始めるの。
あの人が絶対に見つけられない場所で、二人で暮らそう、ね?」
真人はぎゅっと首にしがみついた。小さな身体はまだ震えている。「じゃあ……ヒーローは……新しい目ももらえるの?」
千歌の涙がぽたりと落ち、真人の柔らかな髪を濡らした。「もらえるよ。ママが約束する、絶対にまた見えるようにしてあげるから」
窓の外へ視線を向ける。
その瞬間、千歌の中で、一つの計画が形になる。
玲司がそこまで奈帆を愛しているのなら――見届けてもらおう。
自分と真人が最愛の彼女に、「殺された」瞬間を。
第2話
病室へ戻ると、千歌はすぐにスマホを取り出した。そして、ある専門業者へ電話をかける。依頼したのは――自分と真人の偽装死工作だ。
「ご希望の日程は?」
担当者に尋ねられ、千歌はカレンダーを開く。視線が止まったのは、真人の誕生日。
「20日後の、4月19日でお願いします」
昨夜、玲司は約束していた。今年は真人の五歳の誕生日を盛大に祝おう、と。
だったらその日を選ぼう。誰もが祝福する誕生日パーティーで、自分と真人はこの世から消える。
すべての手配を終える頃には、千歌もようやく冷静さを取り戻していた。
それから数日間、玲司は一度も姿を見せなかった。
代わりに秘書が病院へやって来て、こう伝えた。玲司が国内外の眼科医を探し回り、真人の視力を回復させる方法がないか調べている、と。
だが千歌も真人も知っていた。それもまた、真っ赤な嘘だ。
なぜなら、彼は一歩たりとも、奈帆の病室から離れたことがなかったのだから。
退院の日、手続きを終えた千歌たちを迎えに来たのは、意外にも玲司本人だった。
彼は花束とおもちゃのレーシングカーを抱えている。退院祝いだと言って差し出してきた。
二人は喜んで受け取ってくれると玲司は思っていたが、千歌も真人も淡々と断った。
「私は花粉症だから、こういうお花は苦手なの」千歌がそう言うと、続いて真人も小さな声で言った。「ぼく、もう見えないから……レーシングカーはいらない」
玲司の手が宙で止まり、わずかに表情が固まる。
「……すまない。配慮が足りなかった。すぐに別の物を用意させるよ。欲しいものはないか?アクセサリーはどうだ?変形ロボットは?ブランド物の新作バッグとか、チョコレートとか……」
帰宅する車の中でも、玲司は次々と贈り物を挙げ続けた。必死に埋め合わせをしようとしているように見える。
けれど千歌はわかっていた。彼が挙げた物はどれも自分や真人の好みではない。奈帆と彼女の息子、俊太(しゅんた)が好きなものばかりだ。奈帆はいつもSNSにそれらを載せていたから。
玲司と結婚して五年も経ったのに、彼は自分や息子の好みさえ知らない。それでも良き夫、良き父を演じようとしている。
これ以上彼の演技に付き合っていられず、千歌は口を開いた。「私たちは何もいらない。言いたいことがあるなら、そのまま話して」
玲司は少し驚いたようだった。数秒の沈黙が流れる。やがて観念したように言った。
「大した話じゃないよ。実は、奈帆が離婚して子どもを連れて帰国したんだ。しばらく住む場所が見つからなくてな。うちで少し預かろうと思う。来月には出て行く予定だ」
――やっぱり。贈り物の話は、この話を切り出すための前置きだったのだ。
千歌は小さく笑った。目に皮肉しか浮かばない。
もう家へ招き入れることまで決めているのに、今さら自分たちの意見を聞く意味がどこにあるのだろう。
その時、車窓の向こうに、自宅の建物が見えてくる。千歌は「わかった」とだけ短く返事をした。
玲司は彼女の了承を得たことで安心したのか、それ以上何も言わなかった。
車が止まると、玲司はドアを開けて、待っていた奈帆の元へ向かった。ちょうどその時、少し離れた場所から俊太が駆け寄ってくる。玲司は笑顔でその身体を抱き上げた。
奈帆も嬉しそうに微笑む。三人はまるで本当の家族のように自然に並び、そのまま家の中へ入っていく。
千歌は胸が冷え切るのを感じながら、真人を抱いて後を追った。
リビングへ入ると、奈帆が俊太の額の汗をハンカチで拭いていた。「もう、サッカーばかりして。ほら、汗だくでしょ?」
優しくたしなめる声。
それを見た玲司は、俊太の頭を愛おしそうに撫でた。「子どもは元気なくらいがいい」
俊太は得意げに胸を張る。「そうだよね!ずっと家に閉じこもってる目の見えない子より、ぼくのほうがいいでしょ?」
その言葉を聞いて、真人の瞼が震えた。目の周りがみるみる赤くなる。
千歌の胸も締め付けられる。彼女はとっさに真人の耳を塞いだ。胸いっぱいに広がる痛みを押し隠しながら、息子を抱き上げ、そのまま立ち去ろうとした。
だがその時、奈帆に呼び止められる。
「千歌さん。玲司から聞いていると思うけど、私たち、少しの間お世話になることになったの。あなたたちも事故で怪我をしてるから、迷惑をかけないよう、俊太にもちゃんと言い聞かせるわ」
申し訳なさそうな顔をしながらも、その声には隠しきれない優越感が滲んでいた。
千歌は息が詰まった。呆れて何も言いたくない。怒りも悲しみも、絶望さえも押し殺し、真人を抱えたまま階段へ向かう。
その背中に、玲司の優しい声が追いかけてきた。
「奈帆。ここはお前と俊太の家だ。遠慮する必要なんてない。俺にとって、あの二人の方がよそ者なんだから、気にしなくていい」
千歌は寝室へ飛び込み、扉をバンと閉めた。
その音と同時に、張り詰めていた糸が切れ、千歌は真人を抱いたまま床へ崩れ落ちる。
激しく痛む胸を押さえながら、涙が次々と頬を伝った。
第3話
真人を寝かしつけたあと、千歌は静かに部屋を出た。医師から処方された漢方薬を煎じるため、階下のキッチンへ向かおうとした、その時だった。
突然――額に硬いものが当たった。
「っ……!」鈍い痛みに思わず息を呑む。触れてみると、額に大きなこぶができていた。
顔を上げてみたら、二階の吹き抜けから俊太が身を乗り出していた。ガラスのコップ、オルゴール、おもちゃの車など、次々と物が投げ落とされる。
避ける間もなく、それらが肩や腕に当たり、全身に痛みが走った。
千歌は顔をしかめ、頭を庇いながらしゃがみ込む。「何をしてるの?」
そう聞くと、俊太は顎を上げて得意げに笑った。まるで悪びれる様子もない。
「遊んでるだけだよ。おばさんバカなの?避ければいいのに。ケガしたって知らねえよ」
あまりの言葉に千歌は耳を疑った。怒りを抑えながら答える。
「お母さんから、人に物を投げちゃいけないって教わらなかったの?」
俊太は反論しようとしたが、背後から近づく足音に気付いたのか、突然ぽろぽろと涙を流し始めた。そしてそのまま玲司の胸へ飛び込む。
「玲司おじさん……!ぼく、遊んでる時ちょっと間違って当てちゃっただけなのに、千歌おばさんに怒られたの……」
その一言で、玲司の顔色が変わった。
「俊太は遊んでるだけだ。子ども相手に本気で怒る必要がないだろ?」
玲司の言葉を聞いて、千歌は思わず笑いそうになった。血が滲む額を抑えながら言う。「これだけ傷だらけにされているのに、私が悪いっていうの?」
玲司はようやく彼女の身体へ目を向けた。無数の打撲痕が目に入り、眉をひそめる。
態度が少し柔らかくなったものの、やはり俊太を庇った。「俊太に悪気はない。たいしたケガじゃないだろう。絆創膏を貼れば済む話だ。もう騒ぐな」
言い終えると、玲司は俊太の涙を拭い、そのまま部屋へ連れて行った。
扉が閉まるのを見届けながら、千歌は奥歯を噛み締めた。拳を強く握り、爪が掌へ食い込む。
胸の奥で渦巻く怒りと悔しさを何度も押し殺し、深呼吸を繰り返した。ようやく気持ちを落ち着けると、薬を持ってキッチンへ向かう。
午後いっぱい、千歌は火の前から離れなかった。
薬が煮上がり、器に移した時だった。
ドンッ――!
家中に響く大きな音が聞こえ、続いて子どもの泣き声が聞こえてくる。
嫌な予感がして、千歌は器を置き、そのままキッチンを飛び出した。
リビングでは俊太が床に座り込み、大声で泣いている。
その向こう、階段の途中で手すりにしがみついた真人が、涙を浮かべながら叫んでいた。「ママ!」
だが次の瞬間――奈帆が駆け寄り、何のためらいもなく真人を突き飛ばした。
千歌が反応する前に、真人の小さな身体がバランスを崩し、階段を転がるように落ちていき――ゴンッ、と鈍い音が響いた。
「真人!」
真人の額が階段の角にぶつかり、大きく裂けていた。赤い血が流れ出し、床を赤く染めていく。
千歌は慌てて駆け寄り、ぐったりした息子を抱き上げると、その手も血に染まる。
無力感に襲われる彼女は震える声で叫んだ。
「誰か救急車を呼んで!
真人……ママがいるから……お願い、目を開けて……真人……!」
騒ぎを聞きつけた玲司も駆けつけてきた。だが事情を確認するより先に、俊太が泣きながら叫ぶ。
「玲司おじさん!ぼく、真人くんが起きていたから、下まで連れて行こうとしただけなのに、急に押されて……階段から落ちたんだよ!」
その言葉に奈帆も涙を浮かべ、千歌を見る。
「千歌さん、私たちが気に入らないなら、そう言ってくれればよかったじゃない。どうして真人くんにこんなことをさせるの?あなたも母親でしょう?よくそんな酷いことができるわね……」
親子そろって涙を流す姿を見て、玲司の怒りは一気に燃え上がった。千歌へ向けられる視線は冷え切っている。
「千歌!」怒声が飛ぶ。「今まで真人に何を教え込んできた?奈帆たちは俺が連れて来たんだ、不満があるなら俺に言え!五歳の子どもを標的にするな!」
その言葉を聞いた瞬間、千歌の胸は張り裂けそうになった。腕の中では真人がまだ血を流している。
千歌は真っ赤な目で玲司を睨み返し、掠れる声で言った。
「目が見えない真人が、あの子を突き飛ばすなんてできるわけないでしょ?あなたは何も見ていないのに、どうして最初から真人が悪いって決めつけるの?いったい何が起きたのか、事情を聞こうともしないの?防犯カメラの確認だってまだでしょ?」
だが玲司は聞く耳を持たなかった。怒りに支配されたまま吐き捨てる。「もういい!俊太はまだ五歳だ!そんな子どもが嘘をつくとでも言うのか?
それに事実は明らかだ。お前の見苦しい言い訳など聞きたくはない」
そして冷酷に言い放った。「真人をまともに躾けられないなら、俺が教育する」
そう言うなり執事を呼びつける。「真人が客人を傷つけた。家の仕来りに従って、鞭打ち20回だ!」
その命令を聞いて、千歌は言葉を失った。数秒後、ようやく顔を上げた。
「……何ですって?真人はひどい怪我を負っているのよ?それなのにまだ罰を?玲司、まさか忘れたの?あなたの実の息子真人なのよ!」
「間違ったことをしたなら罰は必要だ。たとえ実の息子でも、例外にはしない」
第4話
玲司の冷え切った声を聞いた瞬間、千歌の心は奈落へ突き落とされた。
彼女は真人を抱きしめるように胸へ引き寄せる。その目の前で、執事が鞭を手に取り、容赦なく振り下ろそうとする。
「やめて!」
反射的に身体が動いた。
千歌は真人を庇うように覆いかぶさり、その一撃を背中で受け止める。
鋭い風切り音が部屋中に響く。激痛が全身を貫く。それでも退くことはできない。
鞭が振り下ろされるたびに服は裂け、肌に赤黒い傷が刻まれていく。一本、また一本と増えていく傷痕は、見るも痛々しかった。
千歌は唇を噛み締めた。口の中に鉄の味が広がり、喉の奥から苦しげな呻きが漏れる。
血が滴り落ちていき、意識も次第に遠のいていった。
そして最後の一撃が終わった時、張り詰めていた糸が切れたように、千歌はその場へ崩れ落ちた。
意識が闇に沈む直前、最後に見えたのは――俊太を抱き上げ、奈帆の手を引きながら去っていく玲司の背中だった。
……
どれほど眠っていたのだろう。目を開けると、視界いっぱいに病院の白い天井が広がっていた。
意識を失う前の出来事が一気によみがえる。千歌は飛び起きるように身体を起こし、傍にいた看護師の腕を掴んだ。
「息子は?真人はどこですか?無事なんですよね?」
看護師は慌てて彼女を落ち着かせた。「お子さんは大丈夫ですよ。疲れが溜まっていたみたいで、まだ眠っています。それより、あなたの傷のほうが心配です。無理をせず、横になっていてください」
その言葉を聞き、千歌はようやく息を吐いた。まだ身体中が痛むが、それでも真人の病室へ向かう。
ベッドに近づくと、眠ったままの真人が小さく呟いた。「……ママ」
夢の中でも母親を探している真人に、胸が締め付けられた。
千歌は真人の小さな手を握りしめ、掠れた声が漏れる。「ごめんね、真人。ママが守ってあげられなかったから……こんな目に遭わせてしまった。でも約束する。もう二度と誰にもあなたを傷つけさせない。必ずここから連れ出すから」
その時、病室のドアが開き、玲司が入ってきた。
最後の言葉だけ聞こえたのか、眉をひそめる。「連れ出す?また離婚するつもりか?真人は目が見えないんだぞ。それに彼はまだ幼い。少しは子どものことを考えて、落ち着いて行動してくれないか」
あまりにも当然のような口ぶりだった。千歌の胸に怒りが込み上げる。
真人の額に残る傷や光を失った瞳。それらを目の当たりにして、ただただ理不尽だと思った。
――こんなことになったのは、いったい誰のせいだと思ってるの?
そう玲司を問いただそうとしたが、喉元まで込み上げた言葉を、千歌は必死に飲み込んだ。
今はまだ駄目だ。自分たちが真実を知ったと悟られたら、玲司は絶対に逃がしてくれないのだろう。
そして、奈帆がいる限り、自分たち親子はいじめられ続けるだけだ。だから真人の未来のためにも、今は耐えるしかない。
「真人に何が必要かくらい、私だって分かっているわ」千歌は静かに答えた。「それに、離婚するつもりもない」
――今度は離婚ではなく、「死別」なのだから。
だが、その続きの言葉を、千歌は口にしなかった。
玲司も深く考えなかったらしい。千歌の体に巻かれた包帯を見て、ようやく表情を和らげる。
「それでいい。俺は約束しただろう、これから先、一生お前たち親子の面倒を見ると。その約束は必ず守る」
千歌は何も答えなかった。どうせ何を言っても、彼は奈帆たちの味方をする。説明も反論も無意味だ。
玲司は彼女が納得したと思ったのか、持ってきた薬を置いて立ち上がった。
「外傷用の薬だ。真人に毎日塗ってやってくれ。跡が残らないようにな」
そう言い残し、病室を出ていく。
扉が閉まった後、千歌は苦い笑みを浮かべた。
身体の傷はいつか塞がる。跡だって薄れていくだろう。けれど心の傷は?光を奪われたことで変わってしまった真人の人生は?
何を差し出せば償えるというのだろう。
答えられる人間は誰もいなかった。
……
それから数日、玲司が見舞いに来ることは一度もなかった。
代わりに病室へ顔を出す看護師たちが、時折病院の噂話を聞かせてくれる。
「VIP病室を貸し切ってるの、桜井グループの社長さんなんですって。
息子さんもすごく可愛いのよ。ただ甘えん坊でね、毎日お父さんに絵本を読んでってせがんだり、レーシングカーで遊んでって言ったり。
食事だって一口ずつ食べさせてもらってるみたいだよ。でもその社長さん、息子さんのお願いは何でも聞いてくれた、ほんと優しい」
別の看護師も笑う。
「お母さんも美人で優しいしよね。桜井社長、完全に尻に敷かれてるわよ。ケーキが食べたいって言えば買いに行くし、ネックレスが欲しいって言えばすぐ用意するし。しかも社長さん本人が車を運転して行くのよ?ほんと愛されてるよね」
千歌は黙って聞いていた。心は不思議なくらい静かだった。
眠る真人の布団を掛け直し、薬を受け取りに病室を出る。
離れている間に何かあったら怖いと思い、彼女は行きも帰りも走りだった。
息が上がるほど急いで戻り、病室の前に着いた瞬間――真人の泣き声が聞こえた。
嫌な予感が過ぎり、千歌は勢いよくドアを開けた。
そして目にした光景に息を呑む。
俊太が点滴の針を握り、その針で真人の手を何度も刺していたのだ。
千歌の頭が真っ白になり、次の瞬間には身体が動いていた。
パシン!
乾いた音が病室に響く。
千歌は俊太の頬を平手で打ち、そのまま突き飛ばした。
そして震える真人を抱き寄せる。血の滲む手を拭いながら、涙が止まらなかった。守ると約束したのに、また傷つけられてしまったと、悔しい思いが込み上げる。
子どもの泣き声は廊下まで響いていた。やがて騒ぎを聞きつけた玲司と奈帆が駆け込んでくる。
二人の姿を見るなり、俊太は泣きながら飛びついた。
「玲司おじさん!ママ!ぼく、真人くんと遊んでただけなのに、そしたら千歌おばさん、いきなりぼくを叩いたんだ!」
その訴えを聞いた途端、玲司の顔が険しくなる。冷たい視線は千歌へ向けられた。
彼は状況を確認しようともせず、すぐにボディーガードを呼びつける。
「前にも警告したはずだ。聞く耳を持たないなら、身体で覚えさせるしかない」
そして千歌を睨み据える。
「子ども相手に手を上げたんだ。その十倍の代償を払ってもらう」
第5話
玲司の命令を聞くや否や、ボディーガードの男たちが一斉に動いた。千歌の腕を乱暴に掴み上げ、そのまま壁へ押しつける。
千歌は必死に顔を上げる。悔しさと悲しみで滲んだ目を玲司へ向け、声を振り絞った。「違う!俊太くんが真人を傷つけた!私がいない間に、点滴の針で真人の手を何度も刺して……!お願いだから見て!真人の手を見れば――」
パシンと、乾いた音が千歌の言葉を遮った。男の平手が千歌の頬を打ち据えたのだ。
頬は瞬く間に腫れ上がり、切れた唇の端から血が滲んだ。
だが、それで終わりではない。容赦のない平手打ちが左の頬にも当たる。焼けつくような痛みが頬から頭へ広がり、容赦なく神経を掻き乱した。
ようやく男の手が離れた頃には、千歌の視界はぐらぐらと揺れていた。立っていることもできず、そのまま床へ崩れ落ちる。
痛みのせいで、呼吸をするだけで苦しい。それでも彼女は這うように真人のもとへ向かった。騒ぎに怯えきった真人は、声を上げて泣いている。千歌は震える手で息子の指を握った。
「大丈夫……」掠れた声が漏れる。「怖がらないで……ママがいるから、絶対守るから……」
玲司は、その光景をただ冷ややかに見下ろしているだけだった。そして奈帆へ視線を向けた瞬間、表情は驚くほど柔らかくなる。
玲司は奈帆の涙を指先で拭い、まだ泣きじゃくる俊太を抱き上げ、優しく宥めた。
「もう大丈夫だ。俺がいる。誰にも嫌な思いはさせないから」
奈帆は玲司の腕にそっと手を添える。そして千歌を見下ろしながら、わざと悲しげな表情を浮かべた。
「私たちなら少しくらい嫌な思いをしても構わないのよ。でも真人くんが本当に可哀想。ただでさえ目が見えなくなってしまったのに、千歌さんがちゃんと導いてあげないなんて……これから、あの子がもっと苦しむことになるだけだわ。私も母親だから、彼のことが本当に心配なの」
そして玲司へ視線を向けた。「あなたはお父さんなんだから、きちんと教えてあげるべきよ。親の言動は子どもにそのまま伝わるものだから」
奈帆の言葉を聞いて、玲司の目つきが鋭くなった。ここ数日の出来事を思い返したのだろう。
そして、彼は真人を抱きしめたまま離そうとしない千歌を見つめ、冷たく言い放った。
「奈帆の言う通りだ。お前みたいな母親のもとにいたら、真人は駄目になる。母親としての役目を果たせないなら、しばらく真人から離れろ。今日から真人は俺が預かる。お前は家へ戻って反省するんだ。自分の過ちを理解してから解放してやる」
言い終えると、玲司はボディーガードへ顎をしゃくった。真人を連れて行けと合図する。
その瞬間、朦朧としていた千歌の意識が一気に覚醒した。
血走った目を見開き、真人を強く抱き寄せる。
体も精神も限界になった彼女は、何もかもを投げ捨てるような覚悟で叫んだ。
「だめ!真人は渡さない!この子は私の息子よ!あなたは一度だって父親らしいことをした?パパと呼ぶことすら許さなかったくせに!真人だってあなたを父親だと思ってないはずよ。そんなあなたに、この子を連れて行く権利なんてないわ!」
玲司の顔色がみるみる険しくなった。怒りを押し殺した声が響く。「権利がない?真人は桜井家の子だ。身体には俺の血が流れている。それでも俺に資格がないと言うのか?千歌、お前は嫉妬で正常な判断もできなくなったらしいな」
彼は吐き捨てるように言い、そしてボディーガードたちへ目配せした。
力ずくで引き離せ、と。
千歌の腕がねじ上げられ、折れてしまいそうなほど痛い。全身のあざも裂けるように疼く。それでも彼女は手を離さない。
その執念に気圧されたのか、ボディーガードたちは顔を見合わせた。次の瞬間、狙いを変え、真人の身体へ手を伸ばした。
真人は泣き叫ぶ。目が見えないまま、小さな腕を振り回して抵抗する。「いや、ママと一緒がいい!」
だが五歳の子どもが、大人と張り合えるわけがない。無理やり腕を掴まれ、その身体は簡単に引き剥がされた。
息子が男たちに拘束される光景を見た瞬間、千歌の心は引き裂かれた。胸の奥を刃で削られるように痛い。
涙が溢れ、頬を伝って傷口へ落ちる。それでも彼女は必死に玲司へ縋った。
「私が悪かった、全部私が悪かったから!お願い……真人を返して!真人は私の命なの……!真人がいなかったら生きていけない!お願いだから……返して……!」
だが玲司は振り返らなかった。千歌に視線すら向かないまま、泣き叫ぶ真人を連れて病室を後にする。
ボディーガードたちも泣き崩れる千歌を車へ押し込み、自宅へ連れ戻した。
その後、彼女は地下室に閉じ込められた。
鍵のかかる扉を見つめ、千歌は薄暗い部屋の中で膝を抱えて座り込む。いつもなら腕の中にいるはずの真人はいない。
彼女の絶望に満ちた嗚咽だけが、光の届かない地下室にいつまでも響き続けていた。
第6話
時間が無情に過ぎていった。泣き続けたせいで、千歌の喉は焼けるように痛み、やがて声すら出なくなった。意識もぼんやりとかすみ、全身を重い倦怠感が覆っていく。
涙はとっくに枯れ果てていた。
今すぐここから逃げ出したい。真人がどうしているのか知りたい。その思いだけが胸を締めつけるのに、千歌は光の差し込まない地下室に閉じ込められたまま、ただ苦しみに耐えることしかできなかった。
どれほど時間が経ったのだろう。不意に聞こえた足音に、千歌ははっと目を開けた。
地下室の扉が開き、執事が姿を現す。ようやく希望が見えた千歌は駆け寄った。
「真人は?」掠れた声が怯えと心配で震える。「あの子は無事なの?怪我はしてない?誰かにいじめられたり、私を探して泣いていたりしてない……?」
矢継ぎ早の問いかけに、執事は言葉を失ったように視線を伏せる。やつれきった彼女の姿を見て、胸を痛めているのが伝わってきた。
しばらくためらったあと、彼はようやく重い口を開く。「奥様……旦那様はお忙しくて、坊ちゃんのことはほとんど奈帆様が面倒を見ています。
奈帆様自身は表向き問題のあることはしておりません。ただ……俊太様がたびたび坊ちゃんをからかい、その度が過ぎているようでして……
食事の際にわざと熱いものを触らせて火傷を負わせたり、家の中で足を引っかけて転ばせたり……夜にはベランダへ閉じ込められ、一晩中寒さに晒されたこともありました」
真人がずっと苦しめられていたと聞くと、千歌の心が引き裂かれそうだった。
彼女はふらつく身体を無理やり起こしたが、執事に止められる。「奥様、落ち着いてください。実は、他にお伝えしたいことがあって参りました。
今日は幼稚園の遠足の日でした。奈帆様は俊太様を連れて出かけたのですが、坊ちゃんも無理やり同行させられました。
私どもは止めたんですが、聞く耳を持たれなくて……それで、奈帆様は三十分ほど前に戻られました。
しかし、坊ちゃんの姿が見当たらないのです。私どもが尋ねても、はっきりしたことをおっしゃらなくて……万が一のことがあってはいけないと思い、ご報告に参りました」
その言葉は、千歌にとって青天の霹靂だった。
身体が大きく震える。ただでさえ青白かった顔から、完全に血の気が失せた。
次の瞬間には、彼女は地下室を飛び出していた。
一刻も早く真人を探さなければ。
リビングへ駆け込むと、ソファに座る奈帆の姿が目に入った。その瞬間、張り詰めていた感情が爆発する。
「真人をどこへやったんですか?」
奈帆はちらりと視線を向けただけだった。驚く様子もない。
「遠足先で勝手にどこかへ行っちゃったのよ」まるで他人事のような口調だった。「その後、俊太が足をひねっちゃってね。私は手当をするのに忙しかったから、あなたの息子がどこへ行ったかなんて知らないわ。
そんなに心配なら、私に土下座でもしてみたら?機嫌が良くなったら、どの山に置いてきたか教えてあげるよ」
その勝ち誇った目を見た瞬間、千歌はすべてを悟った。奈帆は最初から自分を辱めるつもりだったのだ。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。目の見えない五歳の息子が、たった一人で山の中に置き去りにされている。そう思っただけで息が詰まりそうになる。
もやはプライドも体面もどうでもよかった。千歌は迷わず床に膝をついた。そして額を床へ打ちつける。
「お願いします……!何でもしますから、真人がどこにいるのか教えてください!」
その必死な姿を見て、奈帆は満足そうに微笑んだ。そしてようやく場所を口にする。
千歌はよろめきながら立ち上がると、そのまま家を飛び出した。通りでタクシーを捕まえ、教えられた場所へ向かう。
到着した頃には、すでに夕暮れが迫っていた。山は草木が生い茂り、視界も悪い。千歌はたった一人で山の中を歩き続けた。
何度も足を取られて転び、そのたびに身体中に激痛が走る。
それでも立ち止まることはできない。痛みをこらえながら、必死に真人の名前を呼び続けた。
空は少しずつ暗さを増し、胸の中の恐怖も絶望も大きくなっていく。
体力の限界が近づいていた、その時。かすかな泣き声が風に乗って聞こえてきた。
千歌は息を呑み、その声を追う。そしてようやく――真人を見つけた。
だが、その光景に心臓が止まりそうになった。
真人は崖の縁に座り込んでいる。ほんの数歩先は切り立った谷。落ちれば助からない高さだ。
全身の神経が凍りつく。千歌は息を殺しながら慎重に近づき、息子を抱き寄せた。安全な場所まで離れた瞬間、全身から力が抜ける。気付けば服は汗でびっしょりだった。
真人は顔を真っ赤にして泣いていた。「うぅ……ママ……ぼく、ママが絶対に来てくれるって信じてた。
もう嫌だよ……もうママと離れたくない……ねえママ……ぼくたち、いつここから逃げられるの?」
第7話
真人の震える声を聞いた瞬間、千歌の胸は締めつけられるように痛んだ。
やっとの思いで見つけた息子を強く抱きしめ、溢れる涙を止められなかった。
「もう少しだからね、真人。ママ、すぐにあなたを連れて行くから。誰にも見つからない場所へ行って、もう二度と、誰にも傷つけさせないから」
真人を落ち着かせたあと、千歌は息子を背負うように抱き上げ、山道を歩き始めた。
下山するだけで三時間近くかかった。靴擦れで足には無数の水ぶくれができ、草木に擦れた腕や脚は傷だらけ。額の傷も乾いた血で固まり、顔色は青白い。
それでも千歌は倒れなかった。真人だけは守る。その一心だけが、限界を超えた身体を支えていた。
ようやく家へ辿り着き、扉を押し開ける。しかし目に飛び込んできたのは、夕食を囲む玲司と奈帆たちだった。
玲司は自らステーキを切り、味を整えて奈帆の皿へ取り分けている。俊太が好き嫌いをすると、ネギやピーマンなどを丁寧に取り除きながら根気よく食べさせていた。そして、奈帆たちが食べかけの菓子を差し出せば、それすら嫌な顔ひとつせず口に運び、笑顔を見せる。
疲れ切り、お腹も空いた千歌は、家族のような三人を遠くから見つめた。胸の中にはもう怒りすらない。ただ冷え切った静寂だけが広がっていた。
彼女は何も言わず、そのまま真人を連れて部屋へ戻ろうとする。だが背後から玲司の冷たい声が飛んできた。
「待て。真人には近づくなと言ったはずだ。勝手に連れ出したうえに、その姿は何だ?」
その言葉を聞いた瞬間、千歌の中で積み重なっていた感情が堰を切った。ずっと押し殺してきた怒りと悲しみが、一気に噴き出す。
「真人がどうしてこんな姿になったのか、本当に分からないの?この子が傷だらけなのは私のせいだっていうの?
目が見えないのに、俊太くんにいじめられて、そのせいで何度も火傷して、転んでた。どうしてあなたは見て見ぬふりをしたの?
今日だって、真人は山の崖のそばに一人で置き去りにされていたのよ!私が探しに行かなかったら、この子は今ごろ生きていなかったかもしれない!
何も知らないくせに、どうして私だけを責めるの?」
悲鳴にも似た訴えに、玲司は思わず言葉を失った。その視線が真人へ向く。
確かに身体には新しい傷がいくつも増えていた。玲司が何か言おうとしたその時、奈帆は困ったような顔で口を開いた。
「玲司……俊太だってまだ子どもなの。元気すぎて加減が分からないことがあるから、うっかり真人くんに怪我をさせてしまったの。もちろんそれはよくないことだけど、俊太は悪気があったわけじゃないのよ。真人くんがいつも一人だから、俊太なりに仲良くしようとしていただけなの。
今日だって遠足で花を摘んであげようとして、足を捻っちゃったくらいだもの。私も慌てていて、真人くんのことを気に掛ける余裕がなくて……本当に申し訳なかったわ」
たった数言。それだけで、すべてが軽い事故のように塗り替えられてしまう。
玲司の意識も完全に奈帆へ向いた。彼はすぐに俊太の足元へしゃがみ込み、声には露骨な心配が滲んでいた。「捻挫したのか?どうしてすぐ教えてくれなかった?痛みは?やっぱり病院へ行こう。ちゃんと診てもらわないと安心できない」
そう言うと俊太を抱き上げ、そのまま慌ただしく出て行った。まるで一刻を争う重症患者でも扱うかのように。
千歌はその背中を見送り、そして腕の中の真人へ視線を落とす。
疲れ切った小さな身体に、傷だらけの手足。
鼻の奥がつんと痛んだ。
涙が溢れそうになったが、それでも千歌は何も言わず、真人を抱き上げたまま部屋へ戻った。ベッドへ寝かせ、ひとつひとつ丁寧に傷の手当てをしていく。
眠りに落ちてからも、真人は何度も不安そうに母親を呼んだ。
そのたびに千歌は背中を優しく撫でる。涙が何度も浮かんでくる。けれど、今の彼女の胸にある思いは、ただひとつだけ。
――早く、もっと早く時間が過ぎてほしい。
一日でも早く、このすべてを終わらせたい。そして自分と真人は、この世界から永遠に姿を消すのだ。
それから数日間、玲司も奈帆も家へ戻ってこなかった。
千歌は二人がどこで何をしているのか知ろうとも思わなかった。ただ真人の世話をしながら、静かに準備を進めていく。
離婚時に受け取った財産は細かく分け、ほとんどを貧困地域への寄付という形で処理した。その中の一部だけを、誰にも知られていない口座へ移す。自分と息子が新しい人生を始めるための資金だ。
それだけではない。真人の診断書や検査結果、治療記録もすべてコピーして保管した。今後の治療に必要になるからだ。
さらに、自分たちが消えたあと、足取りが追われないようにするために、SNSの履歴、メッセージの記録、通話履歴に至るまで徹底的に消していった。
第8話
すべての準備を終えた頃には、真人の誕生日が訪れていた。
千歌はその日、いつもよりずっと早く目を覚ました。鏡の前に座り、丁寧にメイクを施す。そして真人には用意しておいた新しい服を着せ、キッチンに立って朝ごはんを作った。
真人は嬉しそうにそれを平らげると、自分から千歌の手を握った。「ママ。今日ここを出たら、もう二度と帰ってこなくてもいいよね?」
千歌は微笑み、息子の手を握り返した。そして二人で並んで家を後にする。
「そうよ」千歌の声には未練など欠片もない。「これからは新しいおうちで暮らすの。ママは、ずっと真人のそばにいるから」
今回の誕生日パーティーは、大型クルーズ船を貸し切って開かれることになっている。
船に乗り込むと、潮の香りを含んだ風が二人の髪を優しく揺らす。
千歌は果てしなく広がる青い海を見つめた。真人がまだ目が見えていた頃、海が大好きだった。
浜辺で貝殻を拾い、砂遊びをし、波と追いかけっこをする。そんな同年代の子どもたちを見ては、父親と遊ぶ姿を羨ましそうに眺めていた。
それでも真人は一度も駄々をこねなかった。むしろ寂しそうな顔をする千歌を励ましてくれた。
「みんなにはパパがいるけど、ぼくには世界一のママがいる。だからぼくのほうが百倍幸せだよ!」
あの幼い声が耳の奥によみがえり、千歌の瞳がわずかに揺れた。
だが感傷に浸る暇はない。彼女は真人を抱き寄せ、会場へと足を向けた。
宴会場にはすでに多くの招待客が集まっていた。玲司の招待とあれば、欠席する者などほとんどいない。
華やかな笑い声とグラスの触れ合う音が響く中、千歌たちの姿を見つけた客たちは形式的に会釈をするだけで、誰も積極的に話しかけてこなかった。
玲司から愛されていない妻と息子。それはこの界隈では誰もが知る公然の秘密だった。
千歌もそれを理解している。彼らは真人の誕生日を祝いに来たわけではない。玲司との縁を繋ぐため、その顔を立てるために集まっただけだ。
だからこそ、向けられる無関心にも冷たい視線にも、何も感じなかった。
時間だけが静かに過ぎていく。窓の外は徐々に暗くなり、船内の照明が煌めき始めた。だが主催であるはずの玲司は、一向に姿を見せない。会場には次第に苛立った空気が漂い始めた。
何人もの客が千歌のもとへやって来る。「桜井社長はまだですか?」と尋ねる。
「仕事が立て込んでいるのかもしれません。少し遅れるだけじゃないでしょうか」千歌は淡々と答えた。
だが、八時を過ぎ、誕生日パーティーが終盤を迎えても、玲司は現れなかった。
待ちくたびれた客たちは次々と席を立ち始めた。不満げな声も隠そうとしない。
「桜井社長、やっぱり来なかったな。社長がこの子の誕生日なんて気にするわけがない。ほんと、時間の無駄だったな」
「噂だと、最近はずっと日暮さん親子と一緒にいるらしいよ。奥さんと目の見えない息子なんて、関わるだけでうんざりするのに、誕生日を祝ってあげるわけがないよ」
「そうそう。貧乏な家を出た妻に、目の見えない息子。そのうち、二人が追い出されるんじゃないか?社長夫人の座に座るのは、結局日暮さんだろうな」
結婚してから、千歌はこうした言葉を何度も聞いてきた。今さら傷つきもしない。ただ真人の耳だけをそっと塞いだ。
やがて客は全員帰っていった。広い会場に残されたのは彼女と真人だけ。
千歌は真人を連れてバースデーケーキの前へ向かう。そして静かに歌い始めた。
「ハッピーバースデー・トゥ・ユー……」
優しい歌声が広いホールに響く。真人は満面の笑みを浮かべ、ろうそくの火を吹き消した。
その時、扉のほうから聞き慣れた声が響く。
「あら、ごめんなさいね。今日は俊太の保護者会があって、玲司に付き添ってもらっていたの。だから遅くなっちゃって。真人くんのお誕生日会には間に合ったかしら?」
千歌が振り返ると、玲司が俊太の手を引いて入ってくるところだった。
奈帆の得意げな表情を見ても、千歌の心は少しも揺れない。視線を落とし、静かに答える。
「大丈夫です。来てくれただけで十分ですから」
珍しく文句ひとつ言わない千歌に玲司は満足したのか、すぐに手にしていたプレゼントを差し出す。その声も普段よりも柔らかかった。
「真人、お誕生日おめでとう」
それは真人が生まれてから初めて贈られる誕生日プレゼントだった。
けれど千歌も真人も手を伸ばさない。玲司の表情がわずかに固まる。差し出した手が宙に浮いたまま止まった。
玲司の忍耐が切れかけた、その瞬間――俊太が駆け寄ってきた。わざとらしい勢いでプレゼントにぶつかる。
箱が床へ落ち、鈍い音とともに蓋が外れ、中に入っていた粘土の置物が砕ける。
玲司の視線が一瞬だけ固まる。すると奈帆が慌てたふりをして声を上げた。
「あらあら!またやっちゃったの?真人くんの誕生日プレゼントだったのに……」
そして真人へ向かって優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね、真人くん。明日になったら、もっと素敵なプレゼントを用意するから、落ち込まないでね」
第9話
物音を聞いた真人は、何が起きたのかすぐに察したようだった。
小さな手でぎゅっと母の手を握り締める。そして首を横に振った。
「いらない」幼いながらも、はっきりとした声だった。「そのプレゼント、ぼくはいらない。もう、みんなと一緒に誕生日を祝うこともないから」
その言葉に、玲司は胸の奥に奇妙な違和感を覚えた。
何かがおかしい。そう感じたものの、その意味を問いただす前に――俊太が再び騒ぎを起こした。
手にしていたケーキを掴み、そのまま千歌と真人へ投げつけたのだ。
その後も、俊太は楽しそうに笑いながら会場を駆け回った。飾られていた誕生日写真を引き剥がし、花を倒し、シャンパンタワーにまで手を伸ばす。
ガラスの割れる音が響き、会場はたちまち散乱した。
俊太は悪びれる様子もなく、むしろ両手を高く上げて叫んだ。「玲司おじさん!ママ!ここすっごく広いよ!かくれんぼしようよ!先にぼくを見つけた人の勝ちね!」
奈帆は叱るどころか笑顔を浮かべた。そして玲司の腕を取り、息子の遊びに付き合ってあげた。玲司もまた、俊太の無邪気な姿を微笑ましそうに見つめていた。
その光景に、千歌の胸の奥で怒りが静かに燃え上がる。何か言おうとした、その時だった。
スマホが小さく震えた。
画面を開く。届いていたのは、偽装死の工作をしてくれる業者からのメッセージだった。
【ご依頼の二体の遺体はすでに海へ流しました。あとはお子様と海へ飛び込んでいただければ、こちらのスタッフがお迎えし、安全な場所へお送りいたします】
その一文を読んだ瞬間、千歌はようやく胸の重石が少しだけ外れるのを感じた。
彼女はティッシュを取り出し、真人の服についたクリームを丁寧に拭き取る。そして何事もなかったかのように息子の手を握って、宴会場を出た。
案の定だった。奈帆はずっと千歌の動きを気にしていたらしい。二人が出て行くのを見るなり、俊太へ目配せをする。
――玲司が宴会場から出ないよう足止めするように、と。
そして彼女は、静かに千歌たちの後を追った。
背後から近づいてくる足音を聞きながら、千歌は真人を連れてデッキの手すりまで歩いた。そこで立ち止まり、振り返る。
奈帆を見つめながら、千歌は薄く笑った。「何をしに来たんですか?また誰もいないところで、私たちを陥れるつもりですか?」
奈帆は鼻で笑った。もう取り繕う気すらない。千歌に向けた視線には、露骨な軽蔑と優越感が浮かんでいた。
「なにそれ?ほんと自意識過剰ね。玲司が見ているのは、私と俊太だけよ。私たちが何をしても、どれだけあなたとその目の見えない息子を苦しめても、玲司は絶対に私たちの味方。あなたたちに勝ち目なんて最初からないの」
「じゃあ認めるんですね?今まで俊太くんが真人を傷つけたのって、全部あなたの指示だったって」
怒りで歪む千歌の顔を見て、奈帆は得意げに頷いた。
「そうよ。俊太に階段から落ちる芝居をさせて、真人くんのせいにしたのは私。病室で針を刺させたのも私。それは全部、あなたに思い知らせるためだったのよ。
あなたが閉じ込められていた間なんて最高だったわ。俊太があの子をどれだけいじめても、誰も止めなかったもの。
山に置き去りにしたのもわざとよ。まあ、あなたは気づいてるでしょうけど、何になるの?玲司はあなたの言葉なんて信じない。一生かかっても、あなたは私には勝てないのよ!」
その告白を聞いた瞬間、千歌の胸は怒りより先に痛みで満たされた。
腕の中の真人を抱き寄せ、震える声で問いかけた。「今まで、私はあなたたちを一度だって傷つけたことがないのに、どうしてここまで私たちを追い詰めるんですか?」
奈帆はゆっくりと近づいてくる。その口元に冷笑が浮かんだ。
「あなたが私の居場所を奪ったからよ!死んでも当然!玲司のそばにいるべきなのは私だった。だから、私は私と俊太のものを取り戻してるだけ。あなたたちみたいな邪魔者がどんな目に遭おうと、自業自得なのよ!」
二人の間は数歩しか距離がない。奈帆の顔に浮かぶ悔しさも憎しみも、千歌にははっきりと見えた。
そろそろだと思い、千歌は気づかれないよう頭上の防犯カメラへ一瞬だけ視線を向ける。そしてわざと奈帆を刺激するように口を開いた。
「取り戻すって?玲司の妻は私ですよ。そして真人も玲司の実の息子。それは誰にも変えられない事実です。それに、玲司だって一生私たちの面倒を見てくれるって約束しました。たとえ愛されているのがあなたたちだとしても、結局あなたは日陰の存在でしかない。世間から後ろ指を指され続けるだけです。
私たちが生きている限り、真人は桜井家唯一の跡継ぎであり、将来、桜井グループを継ぐのです。あなたにそれができるんですか?」
千歌の言葉は的確に奈帆の心の一番弱いところを撃ち抜いた。彼女の理性が音を立てて切れていく。
そして次の瞬間――
奈帆は嫉妬に歪んだ顔をあげ、勢いよく腕を振りあげると、千歌たちを押した。
「だったら死になさいよ!」
千歌の身体が大きく揺れた。彼女は抵抗もしなければ、助けも呼ばず、ただ静かに微笑み、息子を強く抱き締めながら海へ落ちていった。
夜風が吹き抜ける。轟く波音の中、親子の身体はそのまま暗い海へ吸い込まれていく。
巨大な波が押し寄せる。海はどこまでも黒く、何も見えない。
巨大なクルーズ船の姿が大きく、その陰で、一隻の小さな船が波を切りながら静かに沖から離れていく。夜の闇に紛れたその船は、やがて誰の目にも映らなくなった。