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何年過ぎても、君とはもう逢えない
「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」 「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に...
Chương (1)
第1章
「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」
「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に浮かぶ決定ボタンを迷いなく押した。
「身元変更システムを起動しました。新しい身分への切り替えは一か月後に行われます。マスターはしばらくお待ちください」
「わかったわ」
第1話
「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」
「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に浮かぶ決定ボタンを迷いなく押した。
「身元変更システムを起動しました。新しい身分への切り替えは一か月後に行われます。マスターはしばらくお待ちください」
「わかったわ」
瑞希はシステムの案内に従い、新しい身分を選んだ。
システムによれば、この一か月のあいだに彼女は少しずつ今の記憶を失っていき、記憶が完全に消えたとき、今度はその身分の記憶が意識に流れ込んでくるという。
一通りの手続きを終え、瑞希が真っ暗な部屋を出ると、気づけば街の広場に立っていた。
そのとき、広場の大型ビジョンには、阿部浩一(あべ こういち)が全国各地で彼女にプロポーズしている映像が流れていた。
「きゃああ、何この理想すぎるカップル!阿部さん、溺愛しすぎでしょ。さっき数えたんだけど、阿部さんって藤ヶ谷さんを二十一か国も連れて行って、そのたびにプロポーズしてるの!しかも毎回ちゃんと凝った演出つきで、お花も風船も全部そろってるし、何より毎回指輪が特注なんだよ?恋愛ドラマでもここまでできないでしょ?」
「ほんとだよね。阿部さんって本当に藤ヶ谷さんのこと愛してるんだなあ。しかも藤ヶ谷さんを育て上げたのも彼だって聞いたことある」
「阿部社長は藤ヶ谷さんを育てただけじゃないよ、彼女のためなら命だって惜しまないんだから。前に遊びに行ったとき、藤ヶ谷さんがうっかり川に落ちたことがあってさ、そのとき阿部社長、ためらいもなく飛び込んで助けに行ったの。なのに自分が泳げないの忘れてて、結局スタッフに二人まとめて助け上げられたんだって」
「そうそう、それ覚えてる。前に藤ヶ谷さんがインタビューでその話してたよね。阿部社長、そのことがきっかけで水泳まで習いに行ったんだっけ……あはは、ほんと面白すぎる」
たしかに、おかしかった。
瑞希もあのときの騒動を思い出して、思わず笑ってしまった。
けれど笑っているうちに、ふいに涙がこぼれ落ちた。
誰もが知っている。浩一が瑞希を命より大切に想い、彼女のためなら命すら投げ出せることを。
けれど誰も知らない。
浩一が人目を避けるように郊外の屋敷で愛人を囲って、まだ端役ばかりの新人女優を丸一年も住まわせていたことを。
会社の用事だ、残業だと言って帰ってこなかった夜は、数えきれないほどあった。
彼女を一人残して、平気で背を向けたことも、一度や二度ではない。
その間、彼は高瀬美桜(たかせ みお)という女に溺れていた。
彼女の知らない場所で、何度も体を重ねていた。
画面には、浩一が瑞希にした最後のプロポーズが映し出されていた。
それは半月前、エリスランドでのことだった。
浩一は片膝をつき、愛おしさのにじむまなざしで彼女を見つめながら、こう言った。
「これが、俺からの最後のプロポーズだ。エリスランドを選んだのは、この国じゃ離婚が許されないからだ。俺のお前への想いも同じだよ。終わりなんて、絶対に来ない。俺たちは何があっても別れない。瑞希――俺と結婚してくれるか?
誓う。一生、お前を大事にする。誰よりも愛して、ずっと大切に守り抜く。誰にもお前を傷つけさせない。もしこの誓いを破ることがあったら、その時は俺が天罰を受けてもかまわない」
今、この映像を見つめながら、瑞希はただひどく皮肉だと思った。
別の女を愛していながら、どうしてこんなにも心のこもった言葉を、何食わぬ顔で自分に向けて言えたのだろう。
彼は言っていた。
彼女のいない日々は、生きている屍のようだと。彼女がいなければ、自分は狂ってしまう、死んでしまう、生きていけないのだと。
だったら見てみたいと思った。
一か月後、結婚式当日に自分が消えたら、彼は本当に狂うのか、本当に死ぬのか。
本当に天罰が下るのか。
「ねえ、あれって藤ヶ谷瑞希じゃない?」
誰かがそう叫んだ瞬間、人々がいっせいに彼女の方へ押し寄せてきた。
瑞希はトップスターで、ファンも多い。
反応する暇もないうちに、彼女のまわりは何重にも人垣で埋め尽くされていた。
「瑞希さん、サインしてもらってもいいですか?」
「藤ヶ谷さん、ずっとファンなんです!一緒に写真撮ってもらえませんか?」
「押さないでよ!最初に瑞希さんを見つけたのは私なんだから、私が先でしょ!」
浩一はずっと彼女を大切に守ってきた。ここ数年、彼女はひたすら真面目に演技の仕事に打ち込み、バラエティ番組にも出ず、イベントにも出演してこなかった。だから、こんな場所に一人で姿を見せることなど、ほとんどなかった。
こんなにも大勢の人に囲まれ、瑞希は少し戸惑ってしまった。
「みなさん、押さないでもらえますか?サインも写真も、順番にお願いします」瑞希は辛抱強く呼びかけたが、人が多すぎて、彼女の声はまるで届かなかった。
後ろの人たちは必死になって前へ前へと押し寄せ、瑞希は誰かに突き飛ばされて、そのまま地面に倒れてしまった。
「押さないで!瑞希さんが転んだ!」
瑞希は前につんのめるように倒れた。頭を地面に打ちつけないよう、とっさに両手をついて支えたが、よりにもよってその瞬間、周囲の誰かが気づかずに彼女の手を踏みつけた。
第2話
「どいて、道を開けろ!」
聞き慣れた声が耳に飛び込んできたかと思うと、次の瞬間、瑞希の体はふわりと抱き上げられていた。
「阿部社長が来た!本物、めっちゃかっこいい!」
瑞希がけがをしていないか、どれほど痛い思いをしたかなんて、誰も気にしていなかった。誰もが羨ましそうな目で、浩一が彼女を抱き上げる姿を見つめていた。
二十人ほどのボディガードに守られながら、浩一は彼女を抱いたまま、一歩ずつ人混みの外へ出ていった。
瑞希を車に乗せ、自分の膝の上に座らせると、脚や手の擦り傷を見て、浩一の胸がたまらなく痛んだ。
「レストランで待っててって言ったのに、どうして一人で出てきたんだ?痛むか?手と脚のほかに、どこかけがしてないか?」
「大丈夫よ」瑞希は痛みをこらえながら、そっと手を引っ込めた。
浩一は安心できず、どうしても病院で検査を受けさせると言い張った。
移動のあいだ中、彼は彼女を抱いたまま下ろそうともせず、傷ついた手をそっと包んではふっと息をかけ、頭を撫でながら優しくあやしていた。
「大丈夫だ、もうすぐ病院に着くからな」
その心配そうな表情は偽物には見えなかった。さっき現場で見せた焦りも、嘘には思えなかった。
あれほど私を愛し、大切にしているのなら、どうしてほかの女を愛して、毎晩のように抱けるのだろう。
瑞希にはわからなかったし、わかりたいとも思わなかった。
彼がいとおしむように彼女に口づけようとしたとき、瑞希は顔をそむけてそのキスを避けた。
「キスしないで。汚い」
浩一は、彼女の顔が汚れていると言われたのだと思ったのか、甘やかすように彼女の顔を包み込み、その頬に強くキスを落とした。
「汚くなんてない。俺の嫁さんがいちばん綺麗だ」
汚いのはあなたよ。瑞希は心の中でそうつぶやいた。
浩一は軽い潔癖症で、人に自分や自分の物を触られるのを嫌っていた。けれど七歳のとき、泥だらけだった彼女を阿部家へ連れ帰ったのは、ほかでもない彼だった。
今この瞬間も、土埃にまみれた彼女の頬に、ためらうことなく愛おしさのこもった口づけを落としていた。
彼はかつて言っていた。自分の体も心も、受け入れられるのは彼女だけで、彼女以外の誰にも触れさせない、と。
今になって思えば、その言葉はあまりにも皮肉だった。
胸をえぐられるような痛みは、きっとこういうことを言うのだろう。
ほどなくして病院に着いた。
浩一は瑞希を抱いて車を降り、付き添って検査を受けさせた。
結果を待っているあいだ、医者が消毒液を持ってきて、瑞希の脚の傷の手当てを始めた。
薬液が傷口に触れて、少ししみた。瑞希は痛みに眉をひそめた。
「てめえ、もう少し手加減しろ――」浩一は医者を足で蹴りのけ、低い声で言った。「俺がやる」
そう言うと、彼は瑞希を横の椅子に座らせ、医者の手から消毒液と綿棒を受け取った。
そのとき、脇に置いてあった浩一のスマホが、トントンと数回音を立てた。
LINEのメッセージだった。
瑞希がちらりと視線を向けると、ちょうど「美ちゃん」という名前で登録された相手から届いたものだと見えた。
【ウサギのおまわりさんに変身して、オオカミさんを捕まえに行くよ。制限時間は十五分。来なかったら、ウサギのおまわりさんは別の人を捕まえに行っちゃうからね】
ロックがかかったままだったので、瑞希に見えたのは文字だけで、画像までは見えなかった。
けれど見えなくても、だいたい想像はついた。おそらく、際どい自撮りだろう。
ここ数日、ある裏アカで、彼女はそういう投稿をいくつも見ていた。
瑞希がひと目見た瞬間、スマホは浩一にさっと取り上げられた。
浩一は手にしていた綿棒と消毒液を置き、スマホを持って素早く文字を打ち込んだ。
瑞希には何と返したのかわからなかった。ただ、送信を終えた彼が立ち上がり、彼女に向かってこう言った。
「瑞希、急用ができた。朔夜をここに残して、お前の付き添いにしてもいいか?」
御影朔夜(みかげ さくや)は浩一の秘書だった。
「ええ、用事があるなら行っていいわ」瑞希は頷き、淡々と答えた。
握ってもこぼれ落ちるだけの砂なら、いっそ自分の手で撒いてしまえばいい。
「ほんとにいい子だな。薬を塗り終えたら先に帰っててくれ。俺も用が済んだらすぐ帰って、お前のそばにいるから」
浩一は瑞希の髪を撫で、それから再び薬を手に取った医者に向かって言った。
「もっと優しくやれ。瑞希は痛いのが苦手なんだ。結果が出たら俺に連絡しろ」
浩一は去っていった。
瑞希は一人、病室で検査結果を待ちながら、手持ち無沙汰でスマホを取り出し、SNSを眺めた。案の定、美桜の裏アカに、たった今投稿されたばかりの内容が上がっていた。
第3話
【ウサギのおまわりさんが、オオカミさんを捕まえちゃうよ~】
添えられていた写真には、美桜がバニーガール風の挑発的なコスチューム姿で、ある男の膝の上に腰かけていた。手は男の下腹部よりさらに下へ伸び、男もまた両腕で彼女を引き寄せていた。
その節くれ立った手は見間違えようがなかった。とくに手首の腕時計は、今朝、瑞希が自分の手でつけてやったものだった。薬指の指輪も、彼女が自らはめたものだ。
さらに下へスクロールすると、もっと際どい写真が出てきた。
二人はベッドに横たわり、上半身裸の浩一の胸元に、美桜が口づけしていた。
写真だけではなかった。十五秒の動画まであった。
映像は天井を向いていて、人の姿は映っていない。けれど、声には聞き覚えがありすぎた。
「ねえ、ダーリン、私のこと好き?」
「最後まで入ってるのに、好きかどうかなんて聞くのか?ん?」
「やだぁ、どうしてそんな言い方するの」
「お前がそんなにいやらしいからだろ」
甘えた吐息と戯れる声がスマホ越しに耳に流れ込み、瑞希は一瞬、目の前がくらんだ。胸が苦しくて、息すらできなくなりそうだった。
そのとき、朔夜が検査結果を持って彼女のもとへ歩いてきた。
「瑞希さん、結果が出ました」
瑞希はすぐにスマホを閉じ、顔を上げて彼を見た。
「医者によれば、とくに問題はないそうです。薬を出してもらえば、そのままお帰りいただけます」
「そう」瑞希はわずかに顎を上げ、涙がこぼれないよう必死にこらえた。
病院から家へ戻るころには、もう空は暗くなり始めていた。
家に着くなり、浩一から電話がかかってきた。夕食は家では食べないから、適当に何か食べておいてくれ、という。
浩一は潔癖気味で、家の中に他人を入れるのを好まなかった。そのせいで、二人が別に住むようになってからは、住み込みの家政婦は雇っていなかった。
引っ越したばかりのころ、瑞希は家政婦がいない生活に慣れず、自分でも料理ができなかった。すると浩一は毎日のように午後の早いうちに仕事を切り上げて帰り、彼女のために食事を作ってくれた。
あのとき彼女は、笑いながらこう言ったものだ。
「うちの大社長、何百億の案件を断って帰ってきて私にごはん作るなんて、損にならないの?」
すると彼はこう答えた。
「妻のために料理するくらいで、損するわけないだろ。奥さんを粗末にする男には福なんて回ってこないし、ちゃんと大事にする男のところにこそ運は巡ってくるんだ。お前を大切にするからこそ、阿部グループはもっと伸びる。だいたい、何百億だろうが、何千億、何兆だろうが、お前が喜んでくれるなら、それだけで十分価値があるんだよ」
けれど今の彼は、けがをした彼女を置き去りにして、ほかの女のところへ行く。
その女はすぐにまたSNSを更新した。オープンしたばかりの高級レストランで食事をしている写真に、こう添えて。
【本当に愛してくれる人って、お腹空かせるのが心配で、ぜーんぶ満たしてくれるのよね~】
その店は、以前瑞希が開店したら行ってみたいと言っていながら、結局まだ一度も行けていなかったレストランだった。
朔夜は瑞希のために食事を手配し、届けに来たとき、機嫌を取るようにこう言った。
「瑞希さん、社長が瑞希さんのお好きなお料理を頼んでおけとおっしゃっていました。社長はまだお客様の対応中で、戻られるのはおそらく八時ごろかと」
「そこに置いておいて」
秘書が帰ると、瑞希は料理を全部捨てた。一口も食べなかった。
浩一が帰宅したのは夜の十時だった。そのとき瑞希はちょうど身支度を終えてベッドに入り、眠る準備をしていた。
嗅ぎ慣れた匂いが鼻先をかすめるのと同時に、浩一の大きな手がそっと彼女の腰を抱いた。その瞬間、瑞希の体はかすかに震え、胃の奥から強烈な吐き気がせり上がってきた。
「ただいま」
瑞希は体を強張らせたまま動かず、眠ったふりをした。
けれど、もうすぐ二十年も一緒にいた男だ。彼女のことを見抜けないはずがなかった。
「瑞希、起きてるのはわかってる。怒ってるんだろ?
ごめん。病院にお前を一人置いていったのも悪かったし、帰ってきてごはんを作ってやれなかったのも悪かった。今回だけ許してくれないか?ここ数日は家でずっとお前と一緒にいるよ。新しく作ったリゾートももう完成したし、営業が始まる前に、お前を連れて遊びに行こう。どうだ?」
浩一は、数日家で瑞希に付き添うと言った。けれど結局、それは守られなかった。
もっとも、瑞希は最初から期待などしていなかった。
家で静養していたこの数日のあいだに、彼女は自分の持ち物をひととおり整理した。さほど値打ちのないものはすべて処分し、高価なバッグやアクセサリー、服は一部を友人に譲り、残りはすべて慈善団体に寄付した。
預金までも、ひそかにまとめて寄付してしまった。
最近の彼女は少しずついろいろなことを忘れ始めていた。自分の服やアクセサリーを見つめても、それがどうして手元にあるのかわからないことが、しばしばあった。
そうして、あっという間に一週間が過ぎた。瑞希の手と脚の擦り傷はすっかり治っていた。
浩一が新しくオープンするリゾートへ連れて行くと言ったとき、彼女は断らなかった。
二人きりだと思っていたのに、着いてみると、浩一は彼女を喜ばせようと大勢の人を呼んでいた。
その多くは彼女と同じ業界の友人で、中には名の知れた映画監督までいた。
彼女はもう長いこと撮影の仕事をしていない。昔なら、きっと嬉しかったはずだ。
けれど今の彼女は、もうすぐ身分を変える身だった。そんなことを気にする理由などなかった。
それでも瑞希は、最後まで浩一に付き合って一芝居打った。終始上品にふるまい、楽しそうにしてみせた。
「やっぱり浩一さんは彼女思いだなあ。わざわざリゾートまで作って、彼女を喜ばせるためなんて」
「ほんと、阿部社長って甘やかしすぎでしょ!」
「社長と藤ヶ谷さん、もうすぐ結婚なんですよね。あの二人の愛を見て、羨ましくない人なんている?」
瑞希の業界仲間の友人たちまで寄ってきて、こんな大物に大切にされて、本当に幸せだと言った。
美桜さえ現れなければ、今日の瑞希は本当に少しは楽しかったかもしれない。
ずっと、友人たちに別れを告げる機会がほしかったのだ。
けれど、皆でレストランへ向かおうとしていたそのとき、美桜がやって来た。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
淡い紫のドレスを身にまとった美桜がホールの入り口に姿を現した瞬間、そこにいた全員の視線が彼女へ吸い寄せられた。
第4話
「この人、誰?」
「芸能界の新星、高瀬美桜よ。この前、山下監督の映画を撮り終えたばかりで、しかも山下監督に直々に引き抜かれたんだって。どこかの大物に溺愛されてて、山下監督が推して売り出すらしいよ!」
最後のひと言に、瑞希は思わず足を止めた。
そういえば、山下監督が今年撮る予定の映画には、彼女もオーディションを受けていた。最初は主演に決まったと言われていたのに、そのあと山下監督から電話があり、もっと適任が見つかったと言われたのだ。
その相手が、まさか美桜だったなんて。
瑞希は反射的に浩一を見た。けれど当の本人は美桜のほうを見ようともせず、彼女の手を引いてレストランへ向かった。
「お腹すいただろ。先に食事にしよう」
皆も浩一と瑞希に続いてレストランへ入っていった。
中に入ると、瑞希は手を洗いに行った。そして席へ戻ってみると、美桜がいつの間にか同じテーブルについていて、彼女とは一席分だけ離れた場所に座っていた。
その間の席にいたのは、ちょうど浩一だった。
「美桜は今、うちの所属俳優なんです。ちょうどこの近くで撮影していたものでね。藤ヶ谷さん、一人増えても構いませんよね?」
山下監督は浩一ではなく、わざと瑞希にそう尋ねた。そのことが、彼女にはたまらなく不快だった。
つまり山下監督は、浩一と美桜の関係を知っているのだ。
「構いません」瑞希は淡々と答え、それ以上は何も言わなかった。
食事のあいだじゅう、浩一は瑞希の世話を焼きっぱなしだった。料理を取り分けてやり、海老も殻をむいて食べやすくしてやっていた。
けれど誰にも見えないテーブルの下では、美桜と浩一の脚がわざとらしくもなく、自然に絡み合っていた。
表向きは穏やかでも、テーブルの下ではとっくに波立っていた。
瑞希には食欲がなかった。数口食べただけで、もうお腹いっぱいだと言い、少し外を歩いてきたいと告げた。
「俺も一緒に行こうか?」
本当に一緒に行く気があるなら、そんなふうに尋ねたりはしない。
「いいわ。みんなとお酒でも飲んでいて」
ただ胸の奥が詰まって、苦しかった。
少し外を歩いていると、以前共演した俳優とばったり会い、しばらく立ち話をした。
それからレストランに戻ると、みんなはもう食事を終えて、三階のプレイルームへ移ったと店員に告げられた。
瑞希はスマホを取り出して浩一に連絡しようとしたが、バッテリーが切れて電源が落ちていた。しかたなくエレベーターで三階へ上がった。
三階に着いても、店員の言っていたプレイルームは見つからなかった。
その代わり、廊下の奥にある休憩室のひとつで、目を覆いたくなるような光景が目に入った。
扉は半開きで、中では抱き合いながら口づけを交わす男女の影が、かすかに揺れていた。
声を聞かなければ、それが浩一と美桜だなんて、瑞希は思いもしなかっただろう。
だが顔を赤らめ、立ち去ろうとしたその瞬間、中からあまりにも聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ねえ、ダーリン、私欲しくない?」
「それが、お前がここに来た目的か。ん?」
「だって、ダーリンがすごすぎるから、会いたくてたまらなかったの。ねえ、私とするのと藤ヶ谷さんとするの、どっちが気持ちいい?」
「こんなときに、あいつの名前を出すな!」
「どうして?きっと私とするほうが好きでしょ?」
「ほんと、えっちだな」
彼は彼女の腰を抱き寄せ、身をかがめてその唇に噛みつくようなキスをし、黒いストッキングを手荒く引き裂いた。
扉の前に立ち尽くした瑞希は、足がすくんでしまい、あと一歩がどうしても踏み出せなかった。
最近、彼女はいろいろなことを忘れ始めていた。
それでも、浩一が初めて彼女を「いじめた」ときのことだけは忘れていない。彼は彼女の首に腕を回しながら、こう言ったのだ。
「この阿部浩一が誓う。一生お前を愛して、一生お前を大事にする。この人生で女はお前一人だけだ」
そのとき彼女は、つんと澄ましてこう返した。
「もし私に悪いことしたら、ハサミであれを切っちゃうからね!」
本当に彼を傷つけることなんて、彼女にはできなかった。少しだって傷つけられない。なぜなら、もし違法なことをしてしまえば、彼女は身分を変えられず、ここから離れられなくなるからだ。
だから彼女にできるのは、あの過去を自分の中から消していくことだけだった。
彼の世界から、きれいに姿を消してしまうことだけ。
瑞希は絶望に顔を覆い、声を上げて泣いてしまわないよう、必死でこらえた。
エレベーターで一階へ戻ると、あの店員が、自分の言い間違いだった、プレイルームは六階だったと告げてきた。
「誰かにそう言えって頼まれたんでしょう?」瑞希は冷ややかに問い返した。
「い……いえ、そんなことは……」店員の目に一瞬、後ろめたさが走った。そう言い終えると、逃げるように立ち去っていった。
瑞希は追及しなかったし、プレイルームへも行かなかった。一人で自分の部屋へ戻った。
さっき目にしたあの耐えがたい光景を思い出すたび、心臓を刃物でえぐられるように痛んだ。血がにじむように、肉が裂けるように痛んだ。
翌朝、目を覚ますと、浩一が朝食を運んできた。
「相変わらず抜けてるな。スマホの充電が切れてることにも気づかないなんて。昨日の夜、お前を探して一晩中うろうろしてたんだぞ。リゾート中を探し回るところだった。戻ってみたら、先に部屋で寝てたけどな」
そんな言葉を聞いて、瑞希は笑いたくなった。
昔の自分は、どうしてこんな見え透いた嘘まで信じられたのだろう。
「早く身支度してこい。お前は胃が弱いんだから、空腹はだめだ。ここには遊べるものがいろいろあるし、食べ終わったらしっかり遊びに連れてってやる」
瑞希は軽く身支度を済ませ、パンを少しだけ口にした。
本当はそのまま家に帰るか、部屋にこもっていたかった。けれど何人かの友人に引っぱられ、一緒に遊ぼうと誘われた。
場をしらけさせたくなくて、瑞希もついて行った。
ここは富裕層向けのリゾートで、中にあるアクティビティも、ゴルフ、乗馬、アーチェリー、スキーなど、そういうものばかりだった。
まだ冬でもないのに、浩一は莫大な金を投じて屋外スキー場まで造っていた。
瑞希はたしかにスキーが好きだった。
「瑞希さん、ここはもう得意でしょ。一回滑ってきなよ」そう言われて、瑞希は背中を押されるように上級者コースへ向かった。
浩一は彼女が転ばないか気が気でない様子で、ぴったりと手をつなぎ、スキー板まで気を回して持ってやっていた。
二人がちょうど入口まで来た、そのときだった。
突然、一つの人影がコースの上から猛スピードで滑り降りてきた。
「きゃああ……助けて、浩一さん!」
第5話
スキー板を制御できず、そのまま滑り落ちてきたのは美桜だった。そして彼女が叫んだのは浩一の名前だった。
「助けて――」
浩一はほとんど反射的に瑞希の手を放し、手にしていたスキー板を投げ出して、まっすぐ美桜のもとへ駆けていき、そのまま彼女を受け止めた。
浩一が美桜を抱きとめたのを見て、まわりにいた人たちは一斉にほっと息をついた。
「よかった、阿部社長の反応が早くて。じゃなきゃ高瀬さん、転んでたよ」
「でも阿部社長って潔癖気味で、ほかの女には触れないんじゃなかった?」
「緊急事態だったんでしょ。しかも高瀬さんの後ろには、相当な大物がついてるって噂じゃない。何人もの監督が彼女に気に入られようとしてる、気づかなかった?後ろ盾でもなければ、山下監督や葉野監督みたいなクラスの人たちが、新人相手にあそこまで肩入れするわけないでしょ」
「昨日聞いたんだけど、その大物、高瀬さんにリゾートまで一つ贈ったらしいよ。しかも名目だけじゃなくて、本当に丸ごと。実際の収益まで全部彼女のものなんだって」
瑞希はその場に立ち尽くしたまま、血の気が引いていくのを感じていた。
なるほど。このリゾートは、美桜に贈られたものだったのか。
彼女は何も言わず、まるで他人事のように周囲の噂話を聞いていた。そして同時に、美桜が甘えた声で浩一に礼を言うのも耳にしていた。
一応は礼儀正しくお礼を言ったあと、美桜は浩一の耳元へ顔を寄せ、彼にしか聞こえない声で囁いた。
「阿部社長に命を救っていただいたご恩……この身でお返ししたいんです。だめ……ですか?」
これだけ人目がある以上、浩一は美桜の体をまっすぐ立たせ、それから瑞希のところへ戻ってきて、こう説明した。
「まだ営業前のリゾートだからな。彼女がここで事故でも起こして開業に響いたら困る。だから支えただけだ。行こう、上で俺が一緒に滑ってやる」
「急に気分が悪くなったの。みんなで滑ってて。私は先に帰るわ」
もうこれ以上、浩一に合わせて芝居を続ける気力なんて、瑞希には残っていなかった。彼女はスキーウェアを脱ぐと、そのまま背を向けて立ち去った。
瑞希が去っていくのを見て、美桜の目には得意げな色がよぎった。浩一が追いかけようとする気配を察すると、彼女はすぐに歩み寄り、わざとらしく柔らかな口調で言った。
「瑞希さん、どうして帰っちゃうんですかぁ?もしかして、さっき社長が私を助けたから、機嫌悪くしちゃったんですか?」
浩一が何か言う前に、美桜はまた続けた。
「でも瑞希さん、そんな小さい人じゃないですよね。阿部社長、スキーお上手だって聞きました。私にも教えてくれませんか?
私にスキー教えてくれたら、今夜すっごいサプライズあげますから」
浩一に追いかけてこられたくなくて、瑞希は足早に歩いた。けれどゲレンデを出たところで気づいた。浩一は、結局追ってこなかった。
ホテルのカードキーを持っていないことに気づき、瑞希は取りに戻ろうと振り返って二歩ほど歩いた。そのとき、浩一が美桜にスキーを教えているのが目に入った。
距離がありすぎて、二人が何を話しているのかは聞こえなかった。だが、その身振りはあまりにも親しげで、浩一は熱心に、丁寧に彼女を教えていた。まるで昔、自分にしてくれたのと同じように。
十年前、彼女が初めてスキーをしたときも、浩一はこうして後ろから抱き込むようにして、どう力を入れるか、どうやってバランスを取るかを教えてくれた。
あのとき彼女は、笑いながら尋ねたものだった。
「阿部先生ってこんなに上手なんだ。きっと弟子もたくさんいるんでしょうね?」
すると彼は、甘やかすように彼女の頭を撫でて答えた。
「お前だけだよ。これから先も今も、俺がスキーを教えるのはお前一人だけだ。わかってるだろ、俺はお前以外の女にはアレルギーがあるんだ。スキーを教えるどころか、ほかの女が滑ってるのを見るだけでも気分が悪くなる」
自分はなんて愚かだったのだろう。
浩一が自分だけを一生愛してくれると、本気で信じていたなんて。
瑞希は目立たないガラス張りの展望スペースに立ち、外のゲレンデに広がる楽しげな光景を見つめながら、ただ全身が冷えていくのを感じていた。
まだ冬にもなっていないのに、どうしてこんなに寒いのだろう。
もうこのリゾートにこれ以上いたくなくて、瑞希は車を呼び、そのまま帰ることにした。
まだ家に着く前に、美桜からLINEのメッセージが届いた。
もうSNSで遠回しに嫌味を言うだけでは飽き足らないのか、今度は直接送ってきたのだ。
最初に送られてきたのは二枚の画像だった。一枚目は、美桜の名前が記載された土地の権利証明書で、その所在地は、ついさっきまでいたあのリゾートだった。
二枚目は、リゾートの収益構造を示した図だった。そこにははっきりと、ホテル、飲食、娯楽を含むリゾートの全収益のうち、美桜が70%、阿部グループが30%と記されていた。
浩一は、本当に気前がいい。
あれほど大きなリゾートなら、年間の収益は数百億にもなるはずだ。
【瑞希さん、浩一さんはもうあなたを愛してなんかいないの。信じられる?私なら、結婚式当日にだって彼を私のところへ来させることができるのよ】
二枚の写真と一緒に、美桜はそんな挑発的なメッセージまで送りつけてきた。
それだけではなかった。
ゲレンデで二人が抱き合い、キスしている動画まで送られてきた。
美桜は甘えるように浩一へ尋ねていた。
「ダーリン、私、あなたと一生一緒にいたい。だめ?」
すると浩一は彼女の耳たぶに口づけながら、迷いなく答えた。
「一生どころか、来世も、その次の来世もずっと一緒だ」
浩一は瑞希にも、同じような言葉を何度も言っていた。
前にプロポーズされたときも、彼はこう言ったのだ。
「瑞希。二十一回もプロポーズしたのは、この先どんな生まれ変わりを繰り返しても、ずっとお前に俺の妻でいてほしいと思ったからだ」
彼が口にしてきた甘い言葉は、今となってはすべて笑い話でしかなかった。
瑞希は苦しげに目を閉じた。けれど涙は一滴もこぼれなかった。
もう少しだ。
あと少し耐えれば、彼女は浩一のことを忘れる。彼に受けた傷も、すべて忘れてしまえる。
ゲレンデで冷えたせいだろうか。家に戻ってから、瑞希は体調を崩した。最初は頭がくらくらして吐き気がしただけだったのに、夜中を過ぎるころには高熱まで出始めた。
熱にうなされてぼんやりと目を覚ました彼女は、スマホを手に取り、浩一へ電話をかけた。
第6話
電話は二回鳴っただけですぐにつながった。
けれど、スマホの向こうから聞こえてきたのは浩一の声ではなく、美桜の甘ったるい吐息混じりの声だった。
「ダーリン、すごい……気持ちよすぎるよぉ~」
「これがお前の望んでたことじゃないのか?」
「私が欲しいのはこんなのだけじゃないよ。あなたの愛、全部ほしいの。くれる?」
「欲張りだな」
「ねえ、くれるの、くれないの?」
「やるよ。命だってくれてやる」
極限までねっとりとしたやり取りに、熱でぼんやりしていた瑞希の頭は一瞬で少しだけ冴えた。
これ以上はとても聞いていられなくて、彼女は通話を切った。
暗い部屋の中で、全身から冷や汗がにじんでいた。スマホを握る手は激しく震えていた。
浩一。どうしてあなたは、ここまで私に残酷でいられるの?
せめてこの一か月だけでも、静かに過ごさせてはくれないの?
浩一が帰ってきたのは、翌朝早くのことだった。
昨夜、朦朧とした意識の中で目を覚ましたときも、熱は下がっていなかった。瑞希は苦しみながらベッドから起き上がり、服を着替えて病院へ行こうとしていた。
まだ階下へ降りきる前に、外から戻ったばかりの浩一が慌ただしく入ってきた。
「瑞希、ただいま」浩一は何事もなかったかのように声をかけ、そのまま大股で歩み寄って彼女を抱きしめようとした。
瑞希は体を少しずらして、その腕を避けた。
あの濃い香水の匂いは、わざわざシャワーを浴びてきたのだとしても、完全には消えていなかった。もともと体調が悪いところへ、その匂いをかいで、いっそう吐き気がこみ上げた。
「ねえ、怒らないでくれよ。お前が先に帰るってメッセージくれたとき、俺も戻って付き添うつもりだったんだ。でも向こうで急にちょっとしたことが起きて、それで残るしかなくて」
「そう」瑞希は目を上げて浩一を見た。無表情のまま、一言だけ返した。
「そうなんだよ。航平のやつが遊びたがって、わざわざ上級コースで滑ろうとしてさ、転んで骨折したんだ。だから俺、付き添いで病院まで行ってたんだよ」
たしかに彼の体からは消毒液の匂いがした。
けれどそれが本当に友人・葉野航平(はの こうへい)のために病院へ行ったせいなのかどうかまでは、わからなかった。
瑞希の表情が少しだけ和らいだように見えたのか、浩一は手を伸ばして彼女の手を握った。
「手、こんなに冷えてるじゃないか。顔色もよくないし……具合悪いのか?」
そう言って、浩一は彼女の額に手を当てようとした。
「うっ――」
瑞希はとうとうこらえきれず、その場で吐いてしまった。
「瑞希、どうした?」浩一は嫌な顔ひとつせず、今にも崩れ落ちそうな彼女を支え、背中をそっとさすった。
吐き終えると、彼は瑞希を抱き上げて階下へ運び、ソファに座らせ、ティッシュで口元をぬぐってやった。
「なんだこの熱……すごく熱いじゃないか。つらいんだろ?行こう、すぐ病院だ」
浩一は彼女をそのまま車に乗せ、まっすぐ病院へ向かった。
瑞希の熱は40度近くまで上がっていた。意識はずっと朦朧としていて、翌日になってようやく熱が少し下がり、彼女ははっきり目を覚ました。
「瑞希、やっと起きた。心配でたまらなかった」
浩一は瑞希の手をきつく握っていた。その顔に浮かぶ緊張と心配、そして一晩眠っていない疲れは演技には見えなかった。
「いつから熱が出てたんだ?どうして俺に電話しなかったんだよ。お前が具合悪いってわかってたら、航平なんか放って、絶対に戻ってきてたのに。
瑞希、わかるか。昨日、医者に40度まで熱が上がってるって言われて、俺、本当に肝を冷やしたんだ」
瑞希は薄くまぶたを持ち上げた。その目の奥には、かすかな皮肉が浮かんでいた。
「昨日の夜、あなたに電話したわ」
「いつ?」浩一はスマホを取り出し、通話履歴を確認した。そこには瑞希からの着信記録は残っていなかった。
どうやら昨夜、美桜が勝手に彼の電話に出て、そのうえ通話履歴まで消したらしい。
「熱でぼんやりしてて、勘違いしたのかもしれない」もうすぐ本当にここを去るのだ。瑞希は、美桜とのことを今さら面と向かって暴く気にはなれなかった。
「俺が悪かった。昨日、お前を一人で帰らせるんじゃなかった」これ以上、耳障りな甘い言葉を聞きたくなくて、瑞希は淡々と言った。「お腹すいた」
すると浩一はすぐに身を乗り出した。
「何が食べたい?誰かに買ってこさせる」
「下で適当に買ってきて」
「わかった。おとなしく寝てろ、俺が買ってくる」浩一はそう言って、病室を出ていった。
瑞希はそっと目を閉じた。透明な涙が目尻から流れ、枕を静かに濡らした。
浩一が出ていってしばらくすると、美桜が突然やって来た。
彼女が現れたこと自体には、瑞希は驚かなかった。
意外だったのは、美桜が病院の患者服を着ていたことだった。
瑞希は目を閉じたまま眠ったふりをし、相手にするつもりはなかった。
美桜は瑞希が起きているとわかっていたのだろう。ゆっくりとベッドのそばまで歩いてきて、自分の下腹部に手を当て、得意げな顔で瑞希を見下ろした。
「瑞希さん、あなたに勝ち目なんてないのよ。私があなたの立場だったら、とっくに自分から身を引いてるわ。そうすれば、こんなみっともない真似しなくて済むもの」
瑞希はゆっくりと目を上げ、彼女を見た。その瞳には、隠そうともしない軽蔑と侮りが滲んでいた。
「愛人の分際で恥も知らずにいるあなたがいるのに、どうして私が恥じなきゃならないの?」
「そういう話じゃないのよ」美桜はお腹を支えるように手を添えたまま、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
第7話
その腹をかばうようにそっと撫でる仕草に、瑞希は眉をひそめた。
「浩一さんとあれだけ長く一緒にいたのに、一度も子どもができなかったでしょう……それだけで、もう十分わかるわ。あなたはその程度の存在だったってこと。あなたにプロポーズして、結婚の約束までしたのだって、長年一緒にいた情に流されただけよ。
でも私は違う。浩一さんは私といるとき、一度だって避妊なんかしなかった。最初から、私に自分の子を産ませるつもりだったのよ。ちゃんと期待に応えられてよかったわ。私のお腹、なかなか優秀でしょう?
しかも先生に、双子だって言われたの。浩一さんも、阿部家のみなさんも、今から私のお腹の子が生まれてくるのを楽しみにしてるわ」
どん――
頭の中で何かが激しく弾けたようだった。
頭も、心臓も、同時に打ち砕かれ、血だらけになった気がした。
「瑞希さん、あなたには浩一さんの子どもを産む資格なんてないのよ。ああ、違うか。資格がないんじゃなくて――産めないんだったわね?」
瑞希の顔から血の気が引いた。どれほど力を入れても感情を押さえきれず、指先も唇もかすかに震えていた。
浩一は、どれほど美桜を愛しているのだろう。
こんなことまで、彼女に話していたなんて。
しかも、自分がもう子どもを望めない体になったのは浩一をかばったせいなのに、彼はそのことに一言も触れず、その事実さえ、美桜に彼女を踏みにじる材料として使わせていた。
「黙って。もうそれ以上言わないで!」瑞希は感情を抑えきれず、声を荒らげた。
「どうして黙らなきゃいけないの?子どもができないんだから、言われたくないってこと?」
美桜は得意げに笑った。その自信に満ちた笑みは何も言わずとも、自分がすでに勝っていると瑞希に突きつけていた。
「だから言ってるでしょ。浩一さんはあなたなんか愛してないの。だからあなたのことは何でも私に話す。でも、あなたは私のことを何も知らない。違う?」
その一言が瑞希の胸を貫いた。心臓のいちばん太い血管を突き破られたようだった。
心がずたずたに裂けるようだった。
瑞希は唇をきつく噛みしめた。美桜のあの勝ち誇った顔を見ているうちに、ついに我慢できなくなり、起き上がって手を振り上げた。
その平手を美桜の頬へ打ち下ろそうとした、まさにそのときだった。病室のドアが開き、浩一の母――阿部夫人が入ってきた。
「瑞希ちゃん」
瑞希は阿部夫人の前で美桜ともめたくなくて、そっと手を下ろした。
「高瀬さん、お見舞いありがとう。母が来たので、もう帰ってもらえる?」
「じゃあ、私はこれで失礼するね。瑞希さん、ちゃんと体を休めてね。また時間ができたら会いに来るから」
美桜はそう言い残して出ていった。立ち去り際、その視線が阿部夫人の上をかすめた。だが阿部夫人は、彼女に一瞥すらくれなかった。
美桜がいなくなってから、阿部夫人はようやく、あの人は誰なのかと瑞希に尋ねた。
瑞希は阿部夫人に心配をかけたくなくて、以前共演したことのある俳優で、たまたま同じ病院にいたから少し話をしに来ただけだと嘘をついた。
阿部家の中で、誰がいちばん自分によくしてくれたかといえば、それは間違いなく浩一の母、阿部夫人だった。
あの日、家族が火事で亡くなったあと、最初に彼女を阿部家へ連れて帰ろうと言い出したのは、阿部夫人だった。
藤ヶ谷家と阿部家は幼いころから婚約の約束があり、だから阿部夫人は小さなころから彼女を嫁として育ててきた。食べるものも着るものも、何ひとつ不自由をさせたことはなかった。
むしろ実の息子である浩一よりも、彼女のほうが大切にされていたと言っていいくらいだった。
その頃、浩一の祖母が瑞希を引き取ることに反対したときでさえ、阿部夫人は祖母の不興を買うことも承知のうえで、どうしても瑞希をこの家に置いておこうとした。
もし離れたあと、いちばん名残惜しく思う相手は誰かと問われたら、それはきっと阿部夫人だった。
「瑞希ちゃん、具合はどう?体調が悪いなら、どうしてお母さんに言ってくれなかったの」
「ごめんなさい、お義母さん。心配かけてしまって」
「何言ってるの、この子は。無事だったんだから、それで十分よ。あなたの好きな炊き込みご飯、作ってきたの。起きて、少しでも食べない?」
「うん」
阿部夫人の優しさに包まれているあいだ、瑞希は彼女の視線がどこか定まらないことに気づかなかった。
彼女はずっと思っていた。何があっても、阿部夫人だけは自分の味方でいてくれると。
むしろ阿部夫人のためだったからこそ、浩一との芝居を続け、美桜の存在にも気づかないふりをして、このうわべだけの平穏を守ってきたのだ。
けれど食事を終え、阿部夫人が「お水を持ってくるわね」と病室を出ていったあと、瑞希もまた、いつ退院できるのか看護師に聞こうと部屋の外へ出た。
すると、阿部夫人がポットを提げたまま、別の病室へ入っていくのが見えた。
瑞希は気づかれないよう、そっとそのあとを追った。
第8話
ドアの隙間から見えたのは、美桜だった。
そしてそこには、先ほど「少し遅れる」とメッセージを送ってきた浩一の姿もあった。
そのとき浩一は、甲斐甲斐しく美桜に食事を口元まで運んでいた。
しかも彼が食べさせていたのは、阿部夫人が手ずから作った、椎茸と鯛の雑炊だった。
「さっき瑞希ちゃんのところへ行って、何を言ったの?」阿部夫人は部屋に入るなり、美桜を問い詰めた。
「何も言ってませんよ。具合が悪いって聞いたから、ちょっと気にかけただけです」美桜は浩一の腕の中に身を縮め、猫の前の鼠のようにおとなしくしていた。
「瑞希のところへ行ったのか?」浩一も眉をひそめ、不快そうな顔をした。「言ったはずだろ、俺たちのことは絶対に瑞希に知られてはいけないって!俺の妻になれるのは、瑞希だけなんだ!」
「でも、私……」美桜は唇を噛み、ひどく悔しそうな顔をした。
「じゃあ、お腹の子はどうなるんですか?」
「美桜、まずは落ち着いて。子どものことは、阿部家としてちゃんと認めるわ。ただ、もうすぐ浩一と瑞希の結婚式なのよ……」
「そんなの知りません。私、自分の子が生まれた瞬間から隠し子なんて呼ばれるの、絶対に嫌です!しかも一人じゃなくて、二人なんですよ!」
「隠し子なんてことになるわけがないよ。私がちゃんとあなたの味方をするから、心配しなくていいわ」
「おばさま、そう言ってもらえて安心しました」美桜は手首の腕輪を軽く持ち上げて、さらに言い添えた。「阿部おばあさまからおばさまに受け継がれた腕輪まで私にくださったんですもの。そりゃ安心しますよ」
……
瑞希はドアの外に立ち尽くし、血の気が凍りついたように感じていた。
そうだったのか。
阿部夫人は、ずっと前から全部知っていたのだ。
何も知らず、彼女がこのことを知ったら自分のために胸を痛めるだろうと心配していた自分だけが、まるで笑い話だった。
考えすぎだったのだ。
苦しくて、泣きたくてたまらないのに、もう涙は一滴も出てこなかった。
感情のせいなのかどうかわからないが、いったん下がっていた瑞希の熱はまたぶり返した。
今度はそのまま42度まで上がり、どうしても下がらなかった。意識はずっと朦朧としていて、食事も喉を通らず、水さえ飲めなかった。
浩一は病床のそばに付き添っていた。
彼女が食べなければ、彼も食べなかった。
医者たちは怒鳴りつけられ、次々に追い出され、「治療法がわかりません」と口にした者は、誰一人として無事では済まなかった。
浩一は容赦なく罵声を浴びせ、追い詰められた末には、ついに医者を足で蹴ることさえあった。
そのせいで病院中の医者や看護師は怯えきり、瑞希がもし助からなかったら、浩一が病院の医者全員を巻き添えにしかねないと、本気で恐れていた。
それから五日ほどたったころ、瑞希は突然はっきりと意識を取り戻した。
ただ、目を覚ましたあとの彼女は、それでもひどく疲れ切っていた。
いろいろなことを忘れていた。七歳のあの年、阿部夫人と浩一が警察署から自分を引き取って阿部家へ連れ帰ったことも、十三歳のころから浩一に恋をしていたことも。
「瑞希、どうしたんだ?熱でおかしくなったのか?」
瑞希の淡々とした、どこか距離のある態度に、浩一は焦りをにじませた。
「何でもないの。ただ、急にいくつか思い出せないことが出てきただけ」
自分がどれほど浩一を愛していたのか、そのことも忘れてしまっていた。
退院して家に戻り、寝室の机の上に置かれた、丸印のついたカレンダーを見て、彼女はようやく思い出した。
あと十日あまりで、自分はここを去るのだと。
家まで送ってきたあと、浩一は二日ほど家で彼女に付き添っていたが、結局は美桜に呼ばれるまま我慢できず、また彼女のもとへ向かった。
それからというもの、浩一は美桜と瑞希のあいだを行ったり来たりし、一人の人間をまるで二人分に分けて使っているみたいだった。
瑞希はそれを暴こうともしなかった。ただ静かに、彼が妻を深く愛する男を演じ続けるのを見ていた。
忘れていくことが増えるほど、そんなこともどうでもよくなっていった。
「瑞希、このところ帰れない日が多いから、寂しい思いさせてるか?
本当は言うつもりなかったんだけど、お前が余計なこと考えるといけないからさ……この数日戻らなかったのは、結婚式の会場を自分で整えてたんだ。お前に、いちばん盛大な式をしてやりたくて。
あと五日で、俺たち結婚するんだぞ。わかるか?この式を、俺は十年も待ってたんだ。
もう五日だけ、待ってくれないか?絶対に、お前を世界でいちばん幸せな女にするから!」
あと五日。それは、とてもいいことだった。
瑞希は五日後、自分が浩一の世界から消え、新しい身分で生き直す日を心待ちにしていた。
その後の五日間、浩一は一度も帰ってこなかった。
彼が戻らないそのあいだに、瑞希は自分の持ち物をすべて片づけた。
一日目、浩一が自分に買ってくれた物を全部、リサイクルショップに売った。
二日目、二人のウェディングフォトを燃やした。
三日目、何年も飼っていたハムスターを人に譲った。
四日目、日記帳に最後の日記を書き、封筒に入れて机の上に置いた。
そして五日目の未明、彼女は浩一にメッセージを送った。
【いつ帰ってくるの?】
浩一からの返事はすぐに来た。
【そんなに早く結婚したいのか?メイクチームはもう家に向かわせた。支度が終わったら、俺が迎えに行く。愛してる】
どうやら最後にもう一度顔を見ることは、できないらしい。
浩一?
その名前を思い浮かべても、彼がどんな顔をしていたのか、もう思い出せなかった。
コンコンコン――
「奥様、ドレス担当とメイク担当が参りました」
「入ってください」
さすがはプロのメイクチームだった。支度を終えた瑞希は、息をのむほど美しかった。
「奥様、本当にお綺麗です。こんなにお美しい花嫁は初めて見ました」
「ありがとう」
鏡の中の自分を見つめながら、瑞希は少しぼんやりした。
本当に、綺麗だった。
そうして見ているうちに、なぜだかわからないまま、急に目の縁が熱くなり、透き通った涙が二筋、頬を伝って落ちた。自分でも、どうして泣いているのかわからなかった。
「奥様、少しここでお休みください。阿部社長にもお伝えしておきます。きっとすぐにお迎えに来られますから」
「ええ」
自分がまもなくここを去るということ以外、瑞希はもう何ひとつ覚えていなかった。
浩一が誰なのかさえ、忘れてしまっていた。
皆が出ていったあと、瑞希はふいに、自分が真っ白な部屋の中に立っているような感覚に包まれた。
「マスター、すべての準備が整いました。案内に従って、新しい身分へお入りください」
そのとき、部屋の外からノックの音がした。
コンコンコン――
「瑞希、入ってもいいか?」