身代わりの私?真実を知った彼は元カノを破滅へ

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身代わりの私?真実を知った彼は元カノを破滅へ

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18歳の時、母親の治療費のために、鹿野寧々(しかの ねね)は10歳年上の男・御堂雅臣(みどう まさおみ)に自分を売り渡した。 後になって知った...

Chương (1)

第1章

18歳の時、母親の治療費のために、鹿野寧々(しかの ねね)は10歳年上の男・御堂雅臣(みどう まさおみ)に自分を売り渡した。 後になって知ったことだが、雅臣はあの御堂グループの社長だった。仕事では冷酷で誰もが恐れる存在なのに、寧々にだけは、信じられないほど優しかったのだ。 雅臣はどこまでも彼女を甘やかした。それは、自分は愛されているのだと寧々に錯覚させてしまうほどだった。 寧々が「南区にあるスイーツが好き」と何気なく言うと、翌日にはそのお店ごと雅臣に買い取られた。そして、寧々だけのためにスイーツを作らせるようになった。 寧々が夜中に熱を出した時、雅臣は大切な国際会議を抜け出し、一晩かけて飛行機で戻ってきた。そしてベッドサイドで付き添い、何度も冷たいタオルを取り替えてくれた。 寧々の20歳の誕生日に、雅臣は彼女をオーロラを見るために連れて行ってくれた。美しくきらめく光景の中で、寧々の指先に口づけを落とし、「寧々、これからは毎年の誕生日を一緒に過ごそう」と微笑みかけた。 寧々はその言葉を本気で信じていた。 第1話 18歳の時、母親の治療費のために、鹿野寧々(しかの ねね)は10歳年上の男・御堂雅臣(みどう まさおみ)に自分を売り渡した。 後になって知ったことだが、雅臣はあの御堂グループの社長だった。仕事では冷酷で誰もが恐れる存在なのに、寧々にだけは、信じられないほど優しかったのだ。 雅臣はどこまでも彼女を甘やかした。それは、自分は愛されているのだと寧々に錯覚させてしまうほどだった。 寧々が「南区にあるスイーツが好き」と何気なく言うと、翌日にはそのお店ごと雅臣に買い取られた。そして、寧々だけのためにスイーツを作らせるようになった。 寧々が夜中に熱を出した時、雅臣は大切な国際会議を抜け出し、一晩かけて飛行機で戻ってきた。そしてベッドサイドで付き添い、何度も冷たいタオルを取り替えてくれた。 寧々の20歳の誕生日に、雅臣は彼女をオーロラを見るために連れて行ってくれた。美しくきらめく光景の中で、寧々の指先に口づけを落とし、「寧々、これからは毎年の誕生日を一緒に過ごそう」と微笑みかけた。 寧々はその言葉を本気で信じていた。 ある見知らぬ女から、呼び出されるまでは。 「自己紹介をしておくわ。私は椎名汐梨(しいな しおり)、雅臣の元カノよ。7年前、彼にプロポーズされたんだけど、私は仕事を選んで海外へ行ったの。それ以来ずっと連絡は取っていなかったけれど、私が戻れば、雅臣は必ず私のところへ帰ってくることは目に見えてるわ」 そう言うと、汐梨は1枚の小切手を取り出し、寧々の目の前に置いた。「私は雅臣と復縁する。でもその前に、邪魔な女はすべて片付けたいの。ここに10億円あるわ。あなたみたいな囲われた女にとっては、十分すぎる金額でしょ。これを持って、雅臣の前から姿を消して」 寧々はのどが引き裂かれそうに感じた。これまで、雅臣にどんな女性がいたのか、一切聞いたことがなかったのだ。 まだ若かった寧々は、これまでの短い人生の中で雅臣のことだけを一途に思ってきた。けれど、彼は別の女性を深く想っていたのか。 これまで一緒に紡いできた日々にすがるように、寧々は勇気を絞って言葉を絞り出した。「ですが、もう随分と昔の話です。雅臣さんは、あなたのことなど、とうに忘れているかもしれません……」 汐梨はくすっと笑い声を上げた。「そっちは知らないでしょうね。かつて雅臣が、私をどれほど熱烈に愛していたのかを」 汐梨はスマホを取り出し、勝ち誇った笑みを向けた。 「それなら、賭けをしない?今から私が雅臣に、『帰国したけれど車が故障したから迎えに来て』ってメールを送るわ。 そしてあなたは、『交通事故に遭った』と送るのよ。 それで、雅臣がどちらに先に返事をするか賭けるのよ」 汐梨は顔を上げ、勝利を確信した視線を寧々にぶつけた。「もし雅臣が、私を優先したら、そのお金を持って彼から離れて。 でも、もし彼があなたを選んだら、私がおとなしく退いてあげるわ」 寧々の胸には、嫌な予感や強い不安、そして迷いが次々と押し寄せた。だが、そのすべては最後には揺るぎない決意へと変わっていった。 「いいですよ」 二人のスマホから同時にメッセージが送られると、1秒1秒の時間が拷問のように感じられた。 寧々は画面を見つめていた。まるで走馬灯のように、脳裏に雅臣との無数の幸せな光景が映し出される。 生理が辛い時に、心配そうな瞳でおなかを温めてくれた記憶。降り積もる真っ白な雪の中、唇に重ねられた柔らかなキス。大晦日の夜に掃き出し窓の近くで抱きしめられた温もり…… 一つ一つの光景が鮮明に浮かび、意識を思い出の中へ誘っていった。 突如鳴り響いたけたたましい着信音により、寧々は我に返った。汐梨が、優越感に浸った笑みで見つめていた。そして、スピーカーホンのボタンを押しながら通話に応じる。 「場所はどこだ」 雅臣の温度の通わない、冷酷ともいえる声が室内に響いた。それは寧々の心臓を鋭く突き刺した。 寧々は唇をきつく結び、指の関節が白くなるほど拳を握りしめた。息をすることさえ苦しかった。 その苦しげな顔を見て、汐梨は愉悦を感じていた。 「急に連絡して、迷惑じゃなかったかしら?他にもっと大事な用事があるのではと心配で……」 ほんの短い静寂の後、雅臣の声が何もなかったかのように返ってきた。 「大丈夫だから、場所を送れ」 汐梨は満開の笑顔で、勝ちを噛みしめながら、スマホで位置情報をゆっくり送信した。 何の通知も来ないスマホを見つめたまま、寧々は目の前が完全に真っ暗になり、体中の血の気がすうっと引いていった。 瞳からは生気が徐々に消えていき、やっとのことで弱々しい声をこぼした。 「彼は……昔、そんなに深くあなたを想っていたの?」 汐梨は嬉しそうに口を開いた。「そうね。どんなふうに、私が雅臣に大事にされていたか教えてあげようか?」 汐梨は幸せに浸りながら一つ一つ思い出すように話し始めた。 「オーロラを二人で見に行ったとき、これから先、毎年同じ日を側で一緒に過ごしたいと言われたわ。 私が『このスイーツが気に入ったの』って軽く一言口にしたら、雅臣はお店ごと買ってくれたの。 それに、彼は猫が大嫌いだったのに、私が拾ってきた野良猫を追い出そうともせず、寝室で寝ることまで黙って許してくれていた……」 寧々は体の芯まで凍りついた。 これまで、自分に捧げてくれたはずの無数のぬくもり、そして思い出は、雅臣の心に残った汐梨に対する深い愛慕と面影にすぎなかったのだ。 「約束だから。彼から離れなさい」と、汐梨は冷たい声とともに小切手を寧々に再び差し出した。 「ええ。確かに、私の惨敗ですね」 たったそれだけの言葉なのに、寧々の残りの生きる気力をすべて吸い尽くしてしまったように感じた。 彼女は爪が食い込み、血が滲んだ手でその小切手を受け取った。そして絶望に満ちたまま目を閉じ、感情を失ったような声で呟いた。 「言われた通りにします。私は二度と彼の前に現れません」 確固たる回答を得た汐梨は、引き止める理由もなくなり、ハイヒールを鳴らしながら出て行った。 世界は再び静まり返り、寧々は唇から血が滲むほど強く噛み締め、胸の奥に込み上げる感情を必死に押し殺した。そして疲れ切った体を引きずるようにして、カフェを後にした。 外は土砂降りの雨が降っていて、彼女は降り注ぐ雨の中を歩き出した。 そして、汐梨が車で通り過ぎる際に、わざとスピードを上げて水たまりをはね上げ、その水しぶきが寧々の全身を濡らしたことにも気づかなかった。 車窓が下がり、汐梨が嘲笑した。「ごめんなさい、でも負け犬にはその姿がお似合いだと思ったの」 捨て台詞を残して、車を走らせるとあっという間に見えなくなっていった。 降りやまぬ雨の中、びしょ濡れの体で寧々は雅臣の邸宅へ戻った。 ふいにスマホが鳴った。大学の指導教員からだった。 「鹿野さん、例の留学の件はどうしますか?本当に辞退するつもりなんですか?」 先生、長谷川利明(はせがわ としあき)の溜め息混じりの言葉が、寧々の意識を現実へと引き戻した。 寧々は窓の外で降り続ける雨を見ながら首を振り、静かに言った。「いえ、辞退しません」 「私に行かせてください」 第2話 お気に入りの教え子がやっとやる気になってくれたと知り、利明の声は一気に安堵で満ちた。 「やっと決心がついたんだな、本当に良かった!君は成績優秀なんだし、この留学枠は全校で一つだけなんだから、他人に譲るなんて絶対に駄目だ。 2週間後には出発だから、しっかり準備しておくんだぞ」 寧々はこっくりと頷くと、ペンを手に取り、カレンダーの出発する日に丸をつけた。 2週間後は、ちょうど雅臣の誕生日だった。 寧々はクローゼットを開け、一着のスーツを取り出した。雅臣のために、この3ヶ月間寝る間も惜しんでデザインと仕立てに没頭した、心のこもった誕生日プレゼントだ。 留学の機会を棒に振ったのも、ただ雅臣のそばにずっと寄り添い、共に年を重ねていきたかったからだった。 だが、今の様子では、その必要もなさそうだ。 そう考えると、寧々の口元には寂しげな笑みが浮かんだ。彼女は仕立て上げたばかりのスーツを、ゴミ箱へ思い切って放り投げた。 それから温かいシャワーを浴び、ベッドの布団に潜り込んで眠りに落ちた。 雨に濡れたせいか、熱がみるみる上がっていく。 悪寒と高熱に交互に見舞われ、体からは冷や汗が流れた。意識が朦朧とし、体が鉛のように重く感じる。 夢か現実か分からない意識の中でスマホの通知音が何度か聞こえたが、身体が金縛りにあったかのように動かず、目を開けることができない。 夜が明ける頃、部屋に誰かが入ってきて、寧々の肩を揺さぶって起こした。 「鹿野さん、起きてください。御堂社長から、あなたをある場所へ送り届けるよう指示されています」 寧々は重い瞼をこじ開けた。そこには雅臣の秘書・木下圭太(きのした けいた)の姿があった。 寧々は体に残る激しい怠さを押し殺し、ベッドから出て服を着替えた。 圭太が運転する車で送られ、会員制サロンの入り口で降ろされると、車はそのまま走り去った。 寧々はコートの襟を合わせ、記憶を頼りにVIP個室へと向かった。ドアの手前で、中から楽しそうな話し声が漏れてくるのが聞こえた。 「もう1時間も経つのに、鹿野さん、遅すぎじゃない?事故で具合が悪いからって、雅臣があれだけ電話して、わざわざ人を迎えに行かせたのに。こんなにグズグズするなんて、ちょっと世間知らずが過ぎるよ」 「暇つぶしに囲っている女なんだから、可愛げがある内はいいけど、調子に乗らせるとろくなことにならないぞ。雅臣、あんまり甘やかしちゃダメだぞ。このままだと、自分の立場をわきまえなくなるだろ」 「そうよ。もともと汐梨ちゃんが離れたあと、荒れていたあんたが寂しさを紛らわせるために適当にそばに置いた女じゃない?そうでもなきゃ、あんな女が私たちの世界に入れるわけないもの。 4年も可愛がったんだから、もういいでしょう?汐梨ちゃんが戻ってきた今、あの厄介者はいつ切るつもり?」 上座に座る雅臣の冷ややかな美貌に照明が当たり、その冷淡な声をさらに引き立てていた。 「俺の女だから、俺が対処する。お前らは引っ込んでいろ」 「雅臣と汐梨ちゃんのためを思って言ってるのよ。7年も待ち続けて、ようやく汐梨ちゃんが帰ってきたのに。もう鹿野さんなんかを使って汐梨ちゃんの嫉妬をあおるなんてやめなよ。また愛想を尽かされて逃げられたら、本当に後悔することになるわよ!」 「そうだよな。この数年だって、汐梨とのツーショットを消せずに何度も見返してたじゃないか。暇さえあれば海外まで様子を見に行って、汐梨が好きだと言ったものは、どんな手を使ってでも手に入れて、人づてに届けさせていたしな……」 その一言一言が、寧々の胸に深く突き刺さり、針で刺されたような鋭い痛みが何度も押し寄せた。 最初から最後まで、自分はただ雅臣の気を紛らわせ、汐梨を揺さぶるためだけの都合のいい道具に過ぎなかったのだ。 寧々は立ち去ろうと身を翻したが、ちょうどトイレから戻ってきた汐梨に行く手を阻まれた。 汐梨は寧々の手首をしっかりと掴むと、片手で個室のドアを押し開き、部屋の中にいる面々に笑顔で声をかけた。 「何をそんなに盛り上がっているの?雅臣が呼び出した子が、怖がって中に入りにくそうにしてたわよ」 二人の姿が目に入ると、部屋は一瞬で静まり返り、一同は気まずそうに雅臣へ視線を注いだ。 雅臣はゆっくり顔を上げ、簡潔に二人を紹介すると、顎で示して寧々を自分のそばへ呼び寄せた。 「事故のケガはそれほど酷くなかったようだな。なぜ電話に出なかった?」 寧々は荒れ狂う胸のざわつきをどうにか押し殺し、無言のまま雅臣のそばへと歩み寄った。 「大したことないわ。薬を塗ってすぐ眠ってしまったから、着信に気付かなかったの。こんな夜遅くに、何か用なの?」 今日に限っておとなしく従順な寧々の様子に、雅臣は少し意外そうに思ったが、あえて深追いはしなかった。 「大した用じゃない。ただ、ここに呼んで一緒に遊ぼうと思っただけだ」 寧々の胸に、鋭い痛みが走った。 本当にただの遊びだろうか?それとも、汐梨を試すために呼ばれたのだろうか? 先ほど汐梨は、よりを戻す下準備として、金を積んで自分を雅臣から遠ざけようとした。 それなのに雅臣は、自分を利用して汐梨をあおり、彼女との復縁を早めようとしている。 二人の「好きという気持ち」を利用した駆け引きに、自分は都合のいい道具として使われているだけだった。 第3話 寧々の胸にはさまざまな感情が渦巻いたが、何も言わずただ静かに座っていた。 雅臣も相変わらず、寧々のことをこの上なく可愛がっていた。 上着を肩にかけてやり、フルーツを口元まで運ぶ。口元についたミルクの汚れを拭ってやり、ふと瞳の奥を暗く沈ませると、愛おしそうにキスをした。 寧々はそっと目を閉じたが、かつてのようなときめきは、もうこれっぽっちも感じられなかった。 彼女が顔を上げると、汐梨が暗い目をしてこちらを見つめていた。 それを見て、汐梨を嫉妬させるという、雅臣の目的は果たされたのだと分かった。 しかし、その芝居がかった時間は唐突に終わりを迎えた。汐梨が眉間にしわを寄せ、ソファに崩れ落ちたのだ。 周りの人たちが慌てて声を上げる。「汐梨ちゃん、どうしたの……」 「分からない、お腹がすごく痛くて……胃の調子が悪いのかも。誰か、お薬を持ってきて……」 その様子を見た雅臣は表情を一変させ、思わず勢いよく立ち上がった。 汐梨のテーブルに置かれたグラスを見るなり、雅臣は目つきを鋭くした。その声には、抑えきれない心配の気持ちがにじみ出ている。 「自分の胃が弱いのを知っているだろ?どうしてこんなに飲んだんだ?すぐに病院へ行くぞ!」 雅臣はそう言うと、汐梨を横抱きにして、足早に立ち去ろうとした。 その間、彼は一度も寧々のほうを振り返ることはなかった。 寧々は目を閉じ、自分の役目はこれで終わったのだと静かに悟った。 熱っぽくてだるい体にムチを打って立ち上がり、「お先に失礼します」と一言残して、その場を後にした。 それから数日間、寧々は雅臣の邸宅で体を休めながら、少しずつ身の回りの荷物を整理し始めた。 雅臣がプレゼントしてくれたアクセサリーやバッグ、無理やり一緒に撮ってくれた写真、雅臣の好みに合わせて買ったシャツやマグカップ…… 最低限必要な生活用品だけを手元に残し、思い出の品々は、すべて未練なく処分した。 どんどん物がなくなっていく部屋を見つめながら、寧々はぽかんとした。そして、消え去りゆく思い出の数々が頭をよぎった。 ソファで雅臣に抱きしめられながら映画を観たこと。夜更かししてレゴに熱中したこと。ベランダいっぱいに二人で花を植えたこと。 こんな穏やかな毎日が、この先もずっと、永遠に続いていくのだと信じて疑わなかった。 だがどうやら、いい加減夢から覚めるべき時のようだ。 そんな物思いに耽っていると、不意に庭から車のエンジン音が聞こえてきた。 寧々が顔を上げると、雅臣が汐梨を伴って家に入ってくるのが見えた。 彼の表情はいつも通り淡々としていたが、汐梨のほうは嬉しそうに微笑みながら、しきりに話しかけていた。 二人で楽しそうにリビングに上がってきたが、部屋の様子があまりにひっそりとしているのを見て、雅臣はかすかに眉間にしわを寄せた。 「どうしてこんなに、家の中のものが少なくなっているんだ?」 「使わなくなった、いらないものを整理しただけだよ」 寧々は視線を落とし、さりげなくそう言い訳した。 雅臣は深く気に留める様子もなく、寧々を一瞥しただけで、すぐに汐梨へと視線を戻した。 「汐梨の体調が悪くて、家の水回りにも不具合が出たらしいんだ。だから、数日間ここに泊めることにした」 寧々は小さくうなずいた。「分かったわ」 雅臣は飼い主で、自分は籠の中の鳥にすぎない。 だから、わざわざ言い訳をする必要なんて、本当は最初からないのだ。 寧々の追及も詮索もしない不自然な態度に、雅臣は怪訝そうに少し顔をしかめ、問い質そうとした。しかしそれを遮るように、汐梨が別の話題を切り出した。 「ねえ雅臣、日当たりのいい南側の部屋を使ってもいい?それから私、花粉アレルギーがあるから、ベランダの花はどこかに移しておいてほしいな。このカーペットもヒールが引っかかりそうで嫌だから、片付けてもらえる?」 雅臣は短く頷くと、使用人に指示をして、すぐに汐梨の言う通りに手配させた。 汐梨は満足そうに口元をゆがめ、マウントを取るかのような冷ややかな視線を寧々に送った。 お気に入りのカーペットや花が運び出され、寝室があっさりと汐梨に明け渡されていくのを見ながら、この家が自分の知らない場所に変わっていくようで、寧々の胸にはさびしさがこみ上げた。 しかしその痛みをやり過ごすと、ふっと気持ちが軽くなるのを感じた。どうせここを出ていくのだから、この家のことなんて、もうどうでもいいのだ。 そう自分に言い聞かせると、寧々はただ静かにうつむき、誰にも気づかれないように部屋へと戻っていった。 第4話 その翌日、汐梨の声は窓越しにはっきりと2階まで届いてきた。 「この油絵、どうしてまだ大切に飾ってあるの?気に入ってくれたのなら、明日また新しいのを描いてあげるわ」 「今日はお天気が凄くいいの。少し外へ散歩に付き合ってよ。よく歩いたほうが治りが早いってお医者さんも言っていたし」 「お腹空いたなあ。雅臣、何か作ってくれない?久々に手料理が食べたい」 雅臣が言葉を返すことは稀だったが、汐梨のわがままには、何から何まで優しく応じていた。 リビングで黙って2時間も絵のモデルを務めた後、散歩に付き合い、さらに自ら料理を用意して、ご馳走を振る舞った。 寧々はその姿を側でそっと見守りながら、雅臣の一挙一動が、楽しそうであることを見て取っていた。 おそらく、こういう未来こそが、雅臣が長い間ずっと思い描いていた幸せだったのだろう。 夜遅く、寧々が1階から水を持って戻ると、いつの間にか汐梨が2階の階段口に立っており、手には寧々が大切にしている父親の遺品を握っていた。 その姿を見て、寧々の鼓動は急に速くなり、その腕時計を力づくで取り返そうとした。 少し背の高い汐梨はすぐに腕を高く伸ばし、これ見よがしの目でこちらを挑発した。 「こんなにみすぼらしい腕時計なのに、大騒ぎして。あなたにとっては宝物なのかしら?」 寧々は遮るように言った。「そうです、命より大切なものなんです。お願いだから、それを今すぐ返してください!」 すると、汐梨は皮肉交じりに鼻で笑った。「返してほしいなら、そこにひざまずいてみなさい。そうしたら、考えてあげなくもないから」 信じられないという顔で寧々は見つめ返す。「椎名さん、私は身を引くと約束したはずです。雅臣さんはあなたが好きなんだから、何も争うつもりはありません。なのに、なぜそんな嫌がらせを?」 「なぜって?単純にあなたのことが気に食わないのよ。ずっと雅臣さんを独り占めしてきたことが、どうしても許せないの。腕時計を壊したくなければ、私の望みを聞きなさい。10秒だけ待ってあげるわ」 冷淡極まりない仕打ちの数々に、寧々は底知れない無力感と、耐え難いほどの悲しみにただ耐えるしかなかった。 カウントダウンが終わろうとすると、汐梨は時計を階段の下へ放り投げる仕草を見せた。 寧々は追い詰められ、どうしようもなく、その場に跪いた。 「これでよろしいですか?椎名さん」 そのプライドを踏みにじられ傷ついた姿に、汐梨はようやく悪意に満ちた欲望を満たした。 しかし汐梨は時計を返すどころか、そのまま下の階へ投げ捨てた。 寧々は胸が詰まる思いで腕時計へ手を伸ばしたが、あまりの焦りに誤って汐梨を小突いてしまう。 汐梨は階段を転げ落ち、あっという間に床に血が広がった。 その光景を見た雅臣が、慌てて駆け寄ってくる。 「何をやっているんだ?!」 汐梨は傷口を押さえて痛みを堪えつつ、雅臣に向かって、誤って腕時計を壊し、怒った寧々に突然突き落とされたのだ、と嘘をついた。 冷徹なはずの雅臣の顔に怒気が混ざる。「時計ごときで人に怪我をさせるのか。寧々、今まで甘やかしすぎたか?」 氷のような視線を向けられ、胸が裂けそうになりながらも寧々は弁解を試みる。 「雅臣さん、椎名さんから先に……強要されたから、私はただ……」 「黙れ!」 激怒した雅臣は聞く耳を持たず、彼女を一喝した。 彼は迷うことなくボディーガードを呼び、反省させるために寧々を冷凍室へ放り込むと、汐梨を抱きかかえて去っていった。 寧々は力ずくでボディーガードたちに押さえつけられ、冷凍室へ荒々しく送り込まれた。 厳しい氷点下を保つ冷凍室の中で、寧々は隅にしがみついて凍えていたが、睫毛にはだんだんと真っ白な氷の粒が溜まっていった。 血液まで凍りついていくようで、震えが止まらない。 時間が止まったかのように、あまりにもゆっくりと過ぎていく。 手の中にある壊れた時計を握りしめると、かつての温かな両親との思い出が脳裏に浮かぶ。 朦朧とした意識の中で、誰かが扉を開ける音がして、かすむ目で顔を上げた。 人の気配が近づいてくる。本能的に母を呼び、小さく呟く。 「お母さん……私、好きになる相手を間違えちゃった。後悔してるわ……」 第5話 寧々の言葉がかすかに聞こえ、雅臣は眉間にしわを寄せた。彼は思わず寧々の前に歩み寄り、じっと彼女を見つめた。 「今、なんて言った?後悔してるって、どういう意味だ?」 寧々にはもう、答える体力が残っていなかった。そのまま持ちこたえられず、目の前が真っ暗になって意識を失った。 気がついた時、寧々は病院のベッドの上にいた。 目を開けると、ベッドの脇に雅臣が付き添っていた。彼がそっと手を伸ばし、寧々に触れようとする。 「気がついたか。気分はどうだ?」 意識を失う前の出来事を思い出し、寧々は震えながら目を閉じた。そして、その差し出す手を拒むように顔を背けた。 「私の腕時計はどこなの?雅臣さん、お願い、返して」 雅臣は寧々の顔を心配そうに何度も確認した。彼女が本当に無事なのを確かめると、綺麗に修理された腕時計を取り出して手渡した。 「これほど大切にしている腕時計だから、ちゃんと直しておいた。お前は人に手を出したから相応の罰は与えたし、これで過去のことは水に流してくれ」 父の形見が無傷で手元に戻ってきたのを見て、寧々は涙があふれそうになった。 しかし彼女は必死で涙をこらえ、雅臣を見つめた。「責めるつもりはないの、雅臣さん。私たちはお互いに都合がいいから一緒にいただけ。私があなたに多くを望むのが間違いだったのよ。これからは自分の立場を弁えるわ。もう二度と、勝手な真似はしないから」 なぜだか、そんな寧々の態度を見た雅臣の胸には苛立ちがこみ上げ、その声は急に冷たさを帯びた。 「意地を張っているのか?それとも、俺と距離を置くつもりか?」 雅臣が急に冷たい態度になっても、寧々は以前のように怯えなかった。彼女の声はどこまでも穏やかだった。 「意地を張っているわけではなく、事実を言っているだけ。線を引くというのは……そうかもね。だって私、もうすぐ……」 寧々が言葉を口にするたびに、雅臣の表情はみるみる険しくなっていった。 彼が口を開こうとしたその時、汐梨からの電話が鳴った。 「雅臣、すっごく美味しいレストランを予約したの。一緒に行ってくれるよね?」 次の瞬間、雅臣はすぐに自分のイライラした表情を隠した。 もう寧々の話を聞く気も時間もなかった。彼はそのまま振り返ることもなく、足早に病室を出て行った。 ドアが大きな音を立てて閉まり、寧々が言いかけた「完全に消える」という言葉は、結局最後まで口にできなかった。 冷たい後ろ姿を見送りながら、寧々は力なく、悲惨な笑みを浮かべた。 それから数日間入院し、弱っていた体も徐々に回復していった。 入院中、お見舞いに来る者は誰もいなかったが、汐梨からは毎日のようにたくさんのメッセージが届いていた。 汐梨が助手席でお菓子を食べる写真や動画が届いた。潔癖な雅臣が、彼女のために自らお菓子の袋を開けてあげたり、両親の身内だけの食事会に同席させたり。雑誌で見たものを褒めれば、数時間後には彼女の目の前に用意されるような溺愛ぶりだった。 そんな細やかで深い愛情のこもった優しさを、寧々はこれまで一度も与えられたことがなかった。 かつて雅臣がどれだけ寧々を愛でていたとしても、車の中でお菓子を食べるなんて決して許さなかった。寧々を自分の家族に会わせることなどもっての外。彼女の些細な一言を根気強く覚えていることもなかった。 寧々はようやく悟った。お気に入りの愛玩用の小動物を飼うことと、本気で一人の人を愛することの差は、比べ物にならないのだと。 汐梨だけが、雅臣にとって全てを投げ出してもいいと思える大切な存在なのだ。 第6話 退院の日、寧々のルームメイトたちが彼女に付き添って、クラスの親睦会へ行くことになった。 会場は若者に大人気のおしゃれなレストランだった。店内に入ると、刺さるような鋭い視線がすぐに寧々へ向けられた。 「あら、成績トップの有名人が、よくこんなところに来たわね。寮から何も言わず引っ越したかと思ったら。今日はいつものスポンサーを放っておいて大丈夫なのかしら?」 「どうせあのスポンサーに飽きられたんでしょ。清楚なふりをして、腹の底で何を企んでいるか分からないわよ。お金のためにオジサンを選ぶような女だし」 「うわ、本当あざとい。私たちにはそんな真似できないわ!」 日頃から寧々を疎ましく思っている数人の女子がコソコソ悪口を言うと、ルームメイトたちはカッとなって強く言い返した。 「デタラメ言わないで!寧々ちゃんは彼氏さんと暮らすために部屋を出たの!オジサンなんて勝手な言いがかりはやめて!」 「ウソでしょ?夜中に高級車に乗り込むところなんて、みんな見てるよ。これが体を売ってるんじゃなくて、一体何なの?庇うより早く目を覚まさせなさいよ。本当にS大学の恥だわ!」 これ以上ない侮辱的な態度に、ルームメイトたちの怒りはいよいよ引き返せないところまできてしまった。 相手の女子たちをとことんやっつけてやろうとしたとき、不意に窓の外に見慣れた姿があるのを発見し、ルームメイトたちはハッと声を弾ませた。 「言いたい放題言っているそこのアバズレども、しっかり目を開けて外を見なさい。あれが寧々ちゃんの彼氏さんだよ!」 室内にいた全員がその大声に反応し、いっせいに窓の方へ顔を向けた。 雅臣の顔を見るなり、先ほどまで言いたい放題だった女子たち全員が信じられないというふうに絶句した。 「あれ、御堂社長?冗談はやめなさいよ。あの御堂社長が何で鹿野さんみたいな地味な子に興味を持つのよ!釣り合うわけないでしょ?」 「そんなのあんたたちが決めることじゃない。今からちゃんと証明してやるわ!」 雅臣を見かけた安心感からか、ルームメイトたちは胸を張り、嫌がる寧々の手を引いて彼のもとへ駆けていこうとした。 好奇の目にさらされる中、振り返ると雅臣が助手席に回り、一人の女性が降りるのをサポートしていた。 二人の距離はあまりにも近く、ただの友人ではない雰囲気を漂わせていた。 そばでからかうようになりゆきを見守っていた別の女子が、降りてきた汐梨に気が付いた。 「あの人は、たしか御堂社長の元恋人の椎名さんだわ!うちのお兄ちゃんと同じ学校の出身よ。当時はあの二人の噂でもちきりで、コンクールで一緒にトロフィーをもらった写真が学校の展示パネルにあるの」 「そういうこと。御堂社長のような素敵な人が鹿野さんと遊んでいるはずなんてないわよね。誰かがあんなふうに御堂社長の名前にすり替えて、本当に愛人を囲う生活をひた隠しにしたのね」 空気が一転し、取り巻きを含めた周囲から浴びせられる蔑みの視線に、寧々は追い詰められていった。 重たい空気の中で雅臣が視線だけをレストランへと滑らせると、すぐ近くに立つ圭太へと指示を与えた。 雅臣の指示を受けると、圭太がまっすぐに寧々たちの方へと近づいてきた。 まだ何か別の展開があるのではないかと錯覚したルームメイトたちは、ただおとなしく寧々の手を強く握って立ち尽くした。 しかし圭太は四人の前を通り過ぎ、止まることなくオーナーの方へと向かった。 「雅臣様と汐梨様が今日ここでランチをするのですが、貸切にしていただけませんか?お二人は静かな空間がお好みなので」 超有名人が顧客だと知った店長は満面に笑みを浮かべて、大慌てでサービス品の補償と共に、顧客へ撤収を案内させた。 寧々たちも追い出されることになり、大勢で外へ出た瞬間、雅臣が汐梨を連れて歩いてくるのが見えた。 何事もないようすぐに避けてやりたくて、寧々は視線を伏せ、急いでその場から逸れようとした。 だが例の女子たちはチャンスとばかりに声を上げた。 「御堂社長!S大学デザイン学部の寧々って知ってますか?」 その名前を聞き、雅臣は歩みを止め、周囲を見渡した。 汐梨は隅っこにいた寧々を見つけ、彼が口を開く前に先制してこう言った。 「どうかした?」 「いやあ、大した話ではないですが、あの鹿野さんが身の程知らず、周囲に自分は御堂社長の恋人だと言いふらしているのを聞いたんです。本当に噂通りなのか知りたいと思いまして」 それを聞いて、雅臣の手を引いていた汐梨の指先から少し力が抜け、じっと彼を見つめた。 「雅臣、鹿野さんと何かあるの?」 そう問われ、雅臣はそっと目線を上げた。 汐梨は、二人の関係を知らないわけではない。 雅臣にも、この場にいる全員が寧々を辱めているのは明らかだった。 それでも汐梨は、あえて全員の前で問い詰めたのだ。 おそらく彼女は試していたのだろう。寧々が、彼の中でどれほどの存在なのかを。 もしここで彼が認めてしまえば、自身の復縁が難しくなる。 そう考えて、雅臣は冷ややかに答えた。「知らないな」 その突き放すような言葉に学生たちは嘲笑し、寧々へ視線を向けた。 容赦ない悪意を前に、寧々は静かに目を閉じた。 嘲笑が飛ぶ中、スマホが震え、そこには汐梨からの通知が表示されていた。 【雅臣は最初からあなたを愛してなんていない。だから、あなたに正式な立場を与えることもしないし、あなたの気持ちを気にかけることもない。 4年の奉仕も、彼にしてみれば何も意味がない。どれだけ可愛がられようと、所詮は籠の中の鳥にすぎないわ。あなたがどんなに望んでも、羽を広げて羽ばたくことはできないの】 寧々はそのメッセージを黙って見つめ、2年前、ルームメイトたちに雅臣とのキスを見られた、大学正門での出来事を思い出した。 その時、ルームメイトたちが雅臣との仲を執拗に問い詰めていた。 彼女が答えるより先に、雅臣が肩を抱き寄せ、冷淡に言ったのだ。「恋人同士だよ」 あの時から、寧々は自分が大切な恋人だと信じていた。 けれど今やっと理解した。全ては、自分の一方的な思い込みにすぎなかったのだ。 彼は最初から汐梨の帰りを待っており、恋人の座はずっと彼女のものだった。 自分はただ、失恋を癒やすための道具に過ぎず、心を紛らわせるだけの対象だった。 そして、出会った時から道ですれ違うだけの、取るに足らない存在だったのだ。 第7話 大学に戻ると、あの日クラスの親睦会であった出来事が掲示板に書き込まれ、S大学中で噂になっていた。 【どこからあんなピエロが湧いてきたの?御堂社長の名前を出して嘘を吐くだなんて、身の程知らずもいいところ。足元にも及ばないくせに!】 【御堂社長といえば東都でも名高い御曹司だぞ。椎名家のご令嬢と一途な仲だなんて有名な話じゃないか。勘違いも甚だしいな】 【聞いた話だと、おっさんに取り入って関係を持ってたらしいよ。バレて苦し紛れにそんな嘘ついてるのね。強欲で恥知らず、同じ大学に通ってるだけで汚らわしい!】 ネット上の無数の皮肉や悪口を見ていると、寧々の心は重い霧に包まれていくようだった。 ルームメイトたちが何とか寧々をかばおうとした。けれど、彼女たちの発言も容赦ない叩きの声に一瞬でかき消され、誰も気に留めなかった。 今の寧々にできることは何もなかった。ただ全てのSNSアプリを閉じ、もうすぐ全部終わると心の中で自分に言い聞かせることだけだった。 それから数日が過ぎ、寧々は大学の卒業手続きを済ませた。それから病気の治った母親の元へと向かい、留学の話をした。 自分のことで忙しく、雅臣とは何日も顔を合わせていなかった。久しぶりに邸宅に戻ると、彼がリビングのソファに腰掛けて待っていた。 「ずっと姿を見せなかったが、ここ数日、何をしていたんだ?」 「大学で用事があって」 寧々は目を伏せて、適当な言い訳を口にした。 「大学?もうすぐ卒業のはずだろう。何の用事があるんだ?」 留学することを知られたくなくて、寧々は言葉を濁した。「卒業関連でいろいろと忙しいだけ」 雅臣は眉間にしわを寄せ、直感的に何か違和感を抱いた。 彼が口を開こうとした時、寧々のスマホが鳴った。彼女は着信に応答すると、そのまま背を向けて外へと出て行った。 うっすらと男の声が聞こえ、雅臣の瞳がすっと暗くなった。彼はスマホの画面を消すと、静かにあとを追った。 現れた男子学生は、ちょうど通り道だったため、利明から頼まれて寧々のビザといくつかの重要書類を届けにきたのだという。 同級生にお礼を言って、寧々は書類を手にして振り返ると、雅臣の冷え切った視線がそこにあった。 「今の男は誰だ?ここへ何をしに来た?」 寧々は書類を隠すように背後に回し、ひきつった笑顔で説明した。 「大学の同級生よ。卒業の関連書類を届けに来てくれただけ」 彼女の目が泳いでいるのを見て、雅臣はさらに冷酷な表情になった。 「どこの物好きな同級生が、わざわざこんな場所まで届けにくるんだ?そいつは、お前のことが好きなのか?」 寧々はぽかんとして、なぜ雅臣がそんな風に結びつけるのか理解できなかった。 「ただの厚意よ。彼とは何でもないわ。彼が誰を好きかまでは知らないけれど、私じゃないことは確かね」 その言葉を聞いても、雅臣は黙って寧々をじっと見つめ、冷ややかに口を開いた。 「どんな関係だろうと構わんが、今後はもう二度と会うな」 「雅臣さん、私にも誰と付き合うか選ぶ自由はある……」 寧々はたまらず言い返そうとしたが、最後まで言葉にする前に、雅臣に鋭く遮られた。 「お前が俺との取引に合意したあの日から、交友関係の自由など存在しない。俺は嘘や隠し事は一切許さない。これ以上あんな男と関わり続けるなら、もう俺のそばにいる必要はない」 そう言い放った時、お洒落に着飾った汐梨が中から出てきて、親しげに雅臣の腕に手を絡め、車へと乗り込んだ。 「雅臣、準備できたわ。行きましょう」 遠ざかっていく車を見送り、寧々はゆっくりと目を閉じた。 今の寧々は雅臣の隣になんていたくない。一日も早く自由になりたいだけだった。 二人の間の取引は、間もなく終わりを迎える。 第8話 雅臣の誕生日当日、寧々は朝早くに目を覚ました。空気の入れ替えをしようと窓を開けると、庭で雅臣が友人たちと雑談しているのが見えた。 「雅臣、今年の誕生日は汐梨ちゃんが自らプロデュースしたんだって?最近ベッタリだし、誕生日パーティーでヨリを戻したいって言われたらオッケーするのか?」 「そんなのイエスに決まってんだろ?」 友人たちのからかいに対しても、雅臣はいつものようにクールな表情を崩さなかった。「その時になってみないと分からないな」 「お前、ずいぶん自信ありげだな。どうせ今日、汐梨ちゃんから告白されるのを知ってるんだろ?」 「でもさ、汐梨ちゃんとヨリを戻したら、鹿野さんはどうすんだ?良かったら俺に譲ってよ。結構可愛いしさ、ちょっと遊んだら責任持って片付けてあげるから」 「そう言うなら、俺も仲間に入れてくれよ。前から目をつけてたんだ。あの女にベッドの上で甘えられたら、それだけでたまんねぇな」 下品な笑い声が聞こえ、寧々は全身に寒気を覚えた。 必死で唇を噛みしめ、声が出ないようにこらえながら、思わず雅臣の表情をうかがった。 雅臣の口元はかすかに緩んでいたが、目元は笑っていなかった。「お前ら、俺と知り合って何年だ?俺が手元に置いたものは、たとえいらなくなっても、他人に渡すつもりはない。寧々には秘書課に適当な席を用意してやるから、手を出そうなんて考えるなよ」 彼の顔色が変わったのを察して、友人たちはぎくっとして慌ててその場を取り繕った。 「冗談だって。鹿野さんはお前にベタ惚れで4年も尽くしてきたんだ。お飾りにしておくだけでも、彼女なら喜んで残るよ」 「だけど、汐梨ちゃんと付き合ってさ、彼女が鹿野さんを邪魔者扱いして追い出せって言ったらどうする?何だかんだ4年も一緒にいたんだし、惜しくなったりしないか?」 雅臣はコーヒーを一口すすると、声のトーンを元の冷たさに戻した。 「元々は暇つぶしでそばに置いていただけだ。惜しむ理由がどこにある?」 そのあまりに冷淡な言葉を聞いても、寧々の心はもう痛まなかった。 彼女は身支度を終え、水を飲もうと下の階に降りたところで、正面から歩いて来る汐梨に出くわした。 目が合った瞬間、汐梨の目に露骨な苛立ちが走った。 「お金を受け取ったのに、いつまでここに居座るつもり?私だってそんなに気が長くないのよ!」 寧々はスマホを開き、利明から来ている集合の連絡を確認すると、穏やかに答えた。 「心配しなくても、今日が過ぎれば私は完全に消えます。二度と目の前には現れません」 「何が、二度と現れないって?」 突然聞こえた聞き覚えのある声に、二人が慌てて振り返ると、ドアのところに雅臣が立っていた。 汐梨は一瞬ドキッとしながらも、急いで雅臣のもとへ歩み寄り、話をはぐらかした。 「なんでもないの、ちょっと世間話をね。ここからリゾートまでは少し距離があるし、そろそろ出発する時間じゃない?」 雅臣は深く気に留める様子もなく、時間を確認してうなずいた。 「そうだな。行こう」 彼は車のキーを手に取り、汐梨もヒールを履き替えたが、寧々だけはその場で立ち尽くしていた。 何の反応も示さない寧々に、雅臣はしびれを切らしたように声をかけた。 「ぼさっとしてどうした?ドレスに着替えないのか?」 二人は誕生日パーティーの会場に向かうが、寧々には最初から出席するつもりはなかった。 「私のことは気にしないで、先に行って」 寧々の他人事のような態度に、雅臣はうっとうしそうに瞳を曇らせた。 「俺たちと一緒に来ないなら、会場に遅れても泣きついて電話してくるなよ」 「それはないわ」 寧々があまりにきっぱりと言うので、雅臣はなぜか心の中がざわついた。まるで何かが自分の手から離れていってしまうような予感がした。 雅臣が顔をしかめて問い詰めようとしたその時、汐梨が彼の腕を引き、促すように連れ出した。 「彼女も忙しいみたいだし、もう行こう。遅れてゲストたちを待たせるなんて失礼よ。私、プレゼントにちょっとしたサプライズを用意したの。早く見てもらいたいわ!」 その一言で雅臣の気はすっかり逸れ、最後に一度寧々に目をやると、そのまま汐梨を連れて出ていった。 寧々は静かに荷物をまとめると、この家を最後に見渡した。 ここにあるすべてのものが、自分は愛されているのだという錯覚を抱かせた。 雅臣が買ってくれたピアノ。お気に入りのアロマキャンドル。そして、雅臣の許可を得て寝室で飼っていた、あの猫。 でも、今となってはよく分かる。あの優しい気遣いは、一度だって自分に向けられたものではなかったのだ。 すべては、汐梨に向けられていた。 雅臣には愛する人がいる。そして、自分もまた新しい生活に向かって旅立とうとしていた。 寧々は何の未練もなくキャリーケースを引いて家を出ると、まっすぐ空港へ向かった。 フライトの前、客室乗務員からスマホの電源を切るよう何度もアナウンスが流れた。 電源を切る直前、寧々はハッとして深く息を吸い込むと、雅臣とのラインを開いて最後のお別れのメッセージを入力した。 【雅臣さん、今日の誕生日パーティーには行けなくなったわ。私の分まで楽しんでね。これまでお世話になったわ。私、留守することにしたの。もう二度とあなたとは会わないわ】 「留学」と打つつもりが、うっかり「留守」と誤変換して送ってしまったことにも気づかず、寧々はそのままスマホの電源を切って、窓の外へ目を向けた。 今日の空は雲一つない青天だった。 雅臣がいないこれからの日々も、きっと、毎日のように美しく晴れ渡るだろう。