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遠ざかる愛を抱いて
家族の誤解と愛する人の裏切りに傷ついた藤崎心乃(ふじさき ここの)は、別の人生を選び取り、二度と過去を振り返らないと誓う。
Chương (1)
第1章
家族の誤解と愛する人の裏切りに傷ついた藤崎心乃(ふじさき ここの)は、別の人生を選び取り、二度と過去を振り返らないと誓う。
第1話
「藤崎様、本当に人生交換プロジェクトのボランティアにお申し込みになるのですか?
ひとたび交換が行われれば、あなたの容姿も身分も、完全に他人のものになります。
今の婚約者やご家族とも、二度と何の関わりもなくなりますが……それでもよろしいのですね?」
藤崎心乃(ふじさき ここの)は、おそるおそる尋ねた。
「手術費用は、無料なんですよね?」
「はい。
ただし、この技術はまだ完全に確立されたものではありませんので、お身体に何らかの悪影響が出る可能性があります。
それでもお受けになりますか?」
心乃は静かにうなずいた。
「かしこまりました。
手術は七日後に行われます。
もし途中でお気持ちが変わりましたら、早めにご連絡ください。
それに――あなたは婚約者のことをとても愛していらっしゃいます。
本当に失いたくはないはずですから」
ペンを握る手に、無意識に力がこもる。
心乃は自嘲気味に、かすかに笑った。
彼女は成瀬蒼真(なるせ そうま)を愛しているのか。
もちろん、愛している。
けれど――蒼真は、もう彼女を愛してはいなかった。
「気持ちは変わりません。
当日、必ず来ます」
心乃はボランティア同意書に自分の名前を書き終えると、病院を後にした。
にぎやかな十字路に立ち尽くしながらも、自分がどこへ向かえばいいのかわからなかった。
彼女は京央・藤崎家の令嬢であり、蒼真の婚約者でもある。
本来なら、幸せで何不自由ない人生が待っているはずだった。
けれど、高梨清香(たかなし きよか)が現れてから、すべてが変わってしまった。
清香は彼女の伯父の娘だった。
六年前、伯父夫婦が交通事故で亡くなり、母が彼女を家に引き取ったのだ。
清香は、心乃の恵まれた暮らしに嫉妬し、何度も何度も彼女を陥れた。
その日から、両親はもう彼女を甘やかさなくなり、兄も彼女をかばわなくなった。
そして、心乃だけをひたむきに見つめていたはずの蒼真さえ、もう彼女を信じなくなった。
彼らの目には、心乃は腹黒く悪意に満ちた女として映るようになっていた。
彼女は家を追い出され、住む場所も失った。
兄は業界全体に圧力をかけ、彼女を締め出した。
仕事を見つけて食べていくことすらできず、夜になると、ゴミ箱をあさって残飯で飢えをしのぐしかなかった。
もう、本当に限界だった。
だからこそ、病院がボランティアを募集しているのを目にしたとき、彼女は何も考えずに応募したのだ。
副作用など、どうでもよかった。
新しい人生を始められるのなら、どんな代償だって払うつもりだった。
通りの向かいにあるビルの巨大スクリーンでは、蒼真のインタビュー映像が流れていた。
「成瀬グループの新シーズンのウェディングドレス発表会は、七日後に開催されます。
どうぞ皆さま、よろしくお願いいたします」
七日後――?
あまりにも、できすぎていた。
心乃はうつむく。
惜しいことに、そのチーフデザイナーである自分は、自分の作品が世に出る瞬間を見ることができない。
司会者が問いかける。
「これまで成瀬グループのチーフデザイナーは、ずっとご婚約者の藤崎さんでしたよね。
今回、どうして突然、高梨さんに交代されたのでしょうか?」
蒼真は冷ややかに笑った。
「僕も最近になって知ったことですが、心乃のこれまでの作品は、ずっと清香のデザインを盗用したものだったんです。
成瀬グループの今回の判断は、ただ本来あるべき形に戻しただけですよ」
「つまり、国内トップクラスのウェディングドレスデザイナーである藤崎さんが盗作していた、ということですか?
その証拠はあるのですか?」
「証拠はありません。
ですが、僕は清香を信じています」
彼は目を細め、その瞳にはあからさまな嫌悪が渦巻いていた。
「それに、心乃の人間性を考えれば、盗作くらいしていても何も不思議ではないですから」
通行人たちが次々と足を止める。
「え、今の聞き間違いじゃないよね?
藤崎心乃が盗作?」
「私、来週の結婚式であの人のドレスを予約してるんだけど!
最悪……!」
心乃は胸が詰まりそうになりながら叫んだ。
「私は盗作なんてしてない!
お願い、信じて……!」
「お前が藤崎心乃か?
よくそんな顔でのこのこ出てこられるな。
盗作しておいて!」
「成瀬社長が自分の口で言ったんだぞ。
嘘のはずがないだろ!」
「婚約者だったんでしょ?
本人にそこまで言わせるなんて、どれだけ最低な人間なのよ!」
騒然とする中、誰かに突き飛ばされ、心乃は地面に倒れ込んだ。
ざらついた石に手のひらを切り裂かれ、血がにじむ。
そのとき、心乃はふいに笑った。
彼女と蒼真が出会ったのは五歳のとき。
幼なじみとして、十七年もの歳月を共に歩いてきた。
その彼でさえ信じてくれないのなら、赤の他人が信じてくれるわけがないだろう。
心乃は痛む体をなんとか起こし、その場を離れようとした。
だが次の瞬間、誰かに水を浴びせかけられた。
「盗作女!
死ね!」
氷のかけらが混じった冷水が首筋を伝って体へ流れ込み、心臓がびくりと震える。
心乃は目を真っ赤に腫らし、声を震わせた。
「本当に盗作なんてしてない……どうして、誰も信じてくれないの……?」
「まだ嘘をつく気?
あんたみたいなのが、どうやって成瀬家に取り入ったんだか!」
見物人はますます増え、容赦のない視線とささやきが四方から突き刺さる。
激しい羞恥と絶望が、今にも彼女を飲み込もうとしていた。
「何をしている!」
耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だった。
心乃が顔を上げると、そこにいるはずのない人物が立っていた。
蒼真は口元を固く引き結び、取り囲んでいた人々をすべて追い払った。
「心乃、まだ恥をさらし足りないのか?
俺と帰るぞ!」
彼は乱暴に彼女を引き起こし、血の流れる手のひらなど一切気にも留めず、そのまま車へ押し込んだ。
第2話
心乃は、蒼真に連れられて邸宅へ戻った。
ここはもともと、二人が結婚後に暮らすはずだった新居だった。
家具や壁画のような大きなものから、ローテーブルのコースターのような小さなものまで、すべて彼女が心を込めて選んだものばかりだった。
それなのに、彼女がほんの一週間いなかっただけで、すべてがすっかり入れ替わっていた。
蒼真はどこか気まずそうに言い訳した。
「清香はもっと落ち着いた雰囲気が好きなんだ。
お前が選んだものは、どれも子どもっぽすぎたから、とりあえず片づけただけだ」
心乃はうなずいた。
「新しい家だもの。
もちろんここに住む人の好みに合わせて整えるべきよね」
もう、自分はここに住む人ではない。
どう飾ろうと、好きにすればいい。
「またそうやって嫌味を言うのか?
清香は体が弱い上に、最近は新作発表会の準備で忙しいんだ。
ここは彼女のアトリエにも近いから、しばらく泊まらせているだけだ。
その目はなんだ。
そんな薄汚い考えは、さっさと引っ込めろ!」
蒼真は眉をひそめ、不満をあらわにしたその口調で、彼女を押しつぶさんばかりだった。
心乃は目をそらした。
自分が薄汚い?
では、婚約披露の席で彼に不意打ちの口づけをした清香は、いったい何だというのか。
「いいから、早く着替えてこい。
そんな汚れた格好をして」
蒼真はうんざりしたように手を振った。
これ以上一秒でも彼女を見ていたくないとでもいうように。
心乃は言い返さなかった。
もう何日も、まともに風呂に入っていなかったのだ。
彼女は主寝室の扉を開けた。
すると、ベッドの上には清香が横たわっていた。
「清香……?
どうして、ここにいるの?」
清香は目をこすった。
その動きに合わせてシルクのネグリジェの肩紐がずり落ち、あらわになった肌には、いかにも情事の痕跡を思わせる赤い痕が残っていた。
心乃は拳をぎゅっと握りしめた。
「聞いてるの?
どうしてここにいるの!」
ここは、自分と蒼真の寝室だ。
幾つもの夜を、この部屋で、互いを求め合って過ごしてきた。
どうして、この女がこのベッドで眠っているの――
「ここは蒼真の家よ。
私がどこで寝るかなんて、もちろん蒼真が許したからに決まってるでしょう?」
清香は唇をゆがめ、わざと首元の痕を見せつけるようにした。
「蒼真って体力あるのよ。
でも、前は私の体を気遣って無茶できなかったから、そのはけ口をあなたに求めてただけ。
ご苦労さま、心乃」
「あなたたち……っ」
心乃は壁に手をつき、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。
そのとき、階段から蒼真の足音が聞こえてきた。
心乃が問いただそうと口を開きかけた瞬間、不意に清香が彼女の腕を強くつかんだ。
「心乃、どうして戻ってきたの?
まだ諦めきれないから?
だったら見せてあげる。
蒼真にとって、いちばん大事なのが誰なのか!」
心乃の胸に、理由のわからない不安が走った。
「何をする気――?」
清香は突然、心乃の手をつかむと、自分の腹に押し当てた。
「心乃、チーフデザイナーの座は返してあげる。
だからお願い、私を追い出さないで!
きゃあ――!」
蒼真が顔を上げた、その瞬間。
ちょうど、心乃が清香を階段から突き落としたように見えた。
「清香――!」
清香は血のにじむ額を押さえ、苦しげな顔で言った。
「蒼真……心乃は、わざとじゃないの。
どうか、心乃を責めないで……」
蒼真は清香を抱き上げると、真っ赤に染まった目で心乃を射抜いた。
その視線は、まるで鋭い矢のようだった。
「心乃、お前の悪辣さを俺は見くびっていた。
清香に何かあれば、絶対に許さない」
庭先から車の走り去る音が聞こえてきても、心乃はその場に立ち尽くしたままだった。
さっき、自分は手など出していない。
それなのに、清香の一方的な言葉だけで、蒼真は自分が突き落としたのだと決めつけた。
「私って……あなたの中では、そんなにも醜い存在だったのね……」
心乃は壁に飾られた大きなウェディングフォトを、長いこと見つめていた。
やがてそれを引きはがし、床へ叩きつける。
全部、嘘だった。
こんなものを見ても、幸せだった記憶なんてもう少しも蘇らない。
あるのは、痛ましい皮肉だけ。
その日の午後、彼女は半日かけて、邸宅に残っていた自分の持ち物をすべてゴミ捨て場へ運んだ。
どうせ人生を入れ替えるのだ。
もう、何ひとつ残しておく必要はない。
ただ――
心乃はしゃがみこみ、ずっと足元をくるくる回っていた小さな犬をそっと撫でた。
「ポン太、私と一緒に行きたい?」
ポン太は、心乃と蒼真が学生時代に拾って飼い始めた犬だった。
蒼真はこの数年ずっと会社のことで忙しく、心乃に寄り添ってくれたのは、いつもポン太だけだった。
本当は手放したくない。
けれど、自分と一緒にさすらい、つらい思いをさせるわけにはいかなかった。
「いい子にしてて。
仕事が見つかったら、迎えに来るから」
ポン太は「ワン」と二度鳴き、その場におとなしく伏せたまま、彼女を見送った。
心乃は振り返り、夕闇に沈む邸宅を最後に見つめた。
「さようなら、蒼真」
そのとき、一台のロールスロイスが猛然と突っ込んできて、彼女の二十センチ手前で急停車した。
車から降りてきた藤崎啓介(ふじさき けいすけ)は、いきなり彼女の頬を張り飛ばした。
「心乃、お前、よくも清香を階段から突き落としたな!
今すぐ病院へ来い。
そして清香に土下座して謝れ!」
心乃は頬を押さえ、口の中に広がる血の味をどうにか飲み込みながら、かすれた声でつぶやいた。
「兄さん……?」
啓介は、今にも彼女を引き裂かんばかりの形相だった。
「俺を兄と呼ぶな!
お前が初めて清香を陥れたその時から、俺はもうお前の兄じゃない!」
第3話
病室では、藤崎家の人々が清香のベッドを取り囲み、入れ代わり立ち代わり気づかっていた。
「清香、これはおばさんがあなたのためにわざわざ煮込んだスープよ。
熱いうちに飲んでちょうだい。
ほんとに、全部心乃の疫病神のせいだわ!
安心して、あの子にはきっちり償わせるから!」
そう言ったのは、心乃の実の母である――藤崎澄子(ふじさき すみこ)だった。
清香はスープを少しずつ口に運び、聞き分けのいい笑みを浮かべた。
「おばさん、心乃を責めないでください。
悪いのは私なんです。
私、寝室に入ったのも、置き忘れたデザイン画を取りに行こうとしただけなんです。
ただ、まだ心乃に説明する前に、いきなり手を出されてしまって……
蒼真、勝手にあなたたちのお部屋に入ったこと、怒ってない?」
蒼真は、彼女の掛け布団をやさしく整えた。
「そんなわけないだろ。
このところ、お前は本当に無理をしていたんだ。
発表会が終わったら、気分転換にどこかへ連れていってやる」
「本当?やっぱり蒼真は、優しいわ!」
清香はうれしそうに蒼真の胸へ飛び込んだ。
心乃が引きずるようにして病室へ連れてこられたとき、目にしたのはまさにその光景だった。
「父さん、母さん。心乃を連れてきたぞ!」
啓介はそう言うと、彼女の背を乱暴に押した。
心乃は足元をよろめかせ、危うく転びそうになった。
「よくのこのこ顔を出せたものね?」
澄子は振り向きざまに怒鳴った。
「どうして私は、こんなにも悪どい娘を産んでしまったのかしら!
一度ならず二度までも、自分の従妹を陥れようとするなんて!
清香に大事がなかったからよかったものの、もしものことがあったら、私は兄さん夫婦にどう顔向けすればいいの!」
心乃は唇をきゅっと結び、それでも言い返した。
「私じゃない。突き落としたんじゃなくて、あの人が自分で落ちたの」
「じゃあ何?清香がわざと自分を傷つけて、あなたを陥れたとでも言いたいの?」
澄子は勢いよく立ち上がると、心乃の額を指で強く突いた。
「嘘をつくなら、もう少しまともな言い訳を考えなさい!発表会はもう目前なのよ?
こんな時期に怪我をして、あの子に何の得があるっていうの!」
「あるでしょう。あなたたちに、もっとかわいそうだと思ってもらえる」
ぱしん――!
澄子の平手が、容赦なく振り下ろされた。
「まだ反省してないのね!
清香がいったい何をしたっていうの?
どうしてそこまでしてあの子を陥れようとするの!
これでもまだ自分の非を認めないなら、今日限りで私はあなたと縁を切るわ!」
頬が焼けつくように痛んだ。
心乃は顔をそむけ、あふれそうになる涙を奥歯を噛み締めてこらえた。
――もう、どうでもいい。
どうせ自分は、まもなくこの人たちの前からいなくなるのだから。
自分という邪魔者さえいなくなれば、この人たちは清香だけを好きなだけ可愛がれる。
もう、無理に理由を取り繕う必要もなくなる。
「おばさん、どうか落ち着いてください」
清香がやわらかく澄子をなだめた。
「私は大丈夫です。それより心配なのは発表会なんです。
まだ仕上げていないデザイン画が一枚残っているのに、この怪我では、会社の進行に迷惑をかけてしまいそうで……」
「なんて健気な子なの。
看護師代わりの付き添いなら、こちらで手配するわ」
澄子は愛しむように彼女の手を撫でた。
「安心しなさい。
あなたの仕事に支障なんて出させないから」
清香は少しためらうように視線を伏せた。
「でも、家にあるデザイン画はどれも機密ですし……他人が出入りするのは、少し心配で」
「それなら心乃にやらせればいいわ!
この子だってデザインを学んだんだもの、多少は役に立つでしょうし、機密を漏らす心配もないわ!」
「それはいい考えですけど……」
清香はそっと唇を噛み、怯えたふりで心乃をちらりと見た。
「心乃が嫌がるんじゃないかと思って……」
「嫌がるですって?そんなこと許さないわ!
もとはといえば、あの子が招いたことなんだから。
責任を取って当然よ!」
澄子は心乃を突き飛ばすように言った。
「清香が怪我をしている間、あなたが身の回りの世話をしなさい!
ちゃんとしないなら、二度と藤崎家には戻れないと思いなさい!」
心乃は嫌だった。
けれど、逆らうことなどできず、結局そのまま彼らと一緒に邸宅へ戻るしかなかった。
邸宅へ着くなり、清香は上着を脱ぎ、当然のように彼女へ放ってよこした。
「心乃、これ、上質なカシミヤなの。
ちゃんと手洗いしてね」
心乃は信じられないものを見るように彼女を見た。
「……私に、あなたの服を洗えっていうの?」
「じゃあどうしろって?
この家に入るのを許したのは、あなたを元のご令嬢扱いで迎え入れるためだとでも思った?」
清香は蔑むように笑う。
「いい加減、目を覚ましなさいよ、心乃。
藤崎家でも、成瀬家でも、あなたはこれから先ずっと私の足元に踏みつけられて生きるの。
それから、書斎には私のデザイン画が置いてあるわ。
私がいないときは、必ず誰かが見張っていないと困るのよ。
だから、しばらくはあなた、書斎のソファで寝てちょうだい」
心乃は手を握りしめたまま、何も言わなかった。
「返事がないってことは、私の言いつけに不満があるの?
でも、これも全部、会社のためなのよ?」
ちょうどそのとき、玄関から入ってきた蒼真が、その言葉を耳にした。
たちまち彼は眉をひそめる。
「心乃、いい加減にしろ。
お前が盗作で告発されたせいで、会社は世間から非難を浴びているんだ。
清香がこんなに苦労しているのも、全部お前の尻拭いをしているからだろう!」
心乃は、木偶のようにうなずいた。
「……わかった。
あなたの言うとおりにするわ。
清香の洗濯も料理もする。
ソファで寝ることだって構わない。
でも――私は盗作なんてしていないわ」
その生気のない態度が、かえって蒼真の怒りに火を注いだ。
「まだそんな強情を張るのか!
お前のこれまでの作品は、どれも清香の手描き原稿と寸分違わず同じだった!
誰もが、お前が俺の婚約者だと知っている。
そんなことをして、俺や成瀬家にどれだけの迷惑がかかるか、考えたことはあるのか?
心乃、お前は少しは自分勝手ってものをやめられないのか!」
怒りを押し殺した怒鳴り声が、邸宅の空気に重く漂った。
心乃は、呆然として顔を上げる。
その視線で、蒼真の見慣れたはずの顔を、まるで初めて見る人のように、少しずつなぞった。
この人はきっと、十年もの間自分と愛し合ってきた、あの人ではない。
でなければ、どうしてこんなにも残酷な言葉を、ためらいもなく口にできるのだろう。
心乃は目尻の涙をぬぐい、ひどく痛ましい笑みを浮かべた。
「……そんなに嫌なら、婚約は解消しましょう」
第4話
「……今、何て言った?」
蒼真は一瞬、動揺を浮かべた。
すぐに心乃の手をつかもうとしたが、空を切る。
心乃は一歩後ろへ下がり、彼との距離を取った。
「言ったでしょう、蒼真。私はあなたとの婚約を解消するって。
今この瞬間から、私はもうあなたの婚約者じゃない。
これで満足?」
――もう決めたのだ。手術を受ける前に、婚約だけは終わらせる。
そうすれば、たとえこの古い体のまま目覚めたとしても、もう誰かの婚約者ではなく、ただの自分としていられる。
それだけ言い残すと、心乃は背を向けて部屋へ戻った。
蒼真も、その怒りも、すべて背後に置き去りにして。
「心乃!開けろ!自分が何を言ってるのか、わかってるのか!」
激しく扉を叩く音に、清香の途切れ途切れのなだめる声が混じる。
「蒼真、真に受けちゃだめよ。心乃はただ、かっとなって言ってるだけだから!
今までだって、こういうことがなかったわけじゃないでしょう?
結局いつも最後は、おとなしく謝って、またあなたのところへ戻ってきたじゃない。
私も女だから、あなたより心乃のことはわかるわ。
あの子、ただ少しあなたを脅かして、自分があなたの中でどれだけ大事か確かめたいだけなのよ。
でも蒼真、今回ばかりは甘やかしちゃだめよ。
見て、あの子、もうあなたに甘やかされすぎて、あんなふうになってしまったんだから。
……ああ、頭がまた痛くなってきた……」
「清香――!」
蒼真の切羽詰まった声が、清香の低いうめき声をたちまちかき消した。
「先に部屋へ連れていくよ。休ませないと」
二人の足音は、次第に遠ざかっていった。
心乃は扉の裏にもたれたまま、力が抜けたようにずるずると床へ座り込む。
スマホのメモを開き、彼女は静かに書き込んだ。
――あと六日。
翌朝早く、蒼真は朝食を済ませると会社へ向かった。
清香は「創作中は家に他人を置きたくない」と言い張り、もともと邸宅にいた使用人たちを全員追い出してしまった。
広い家の家事は、すべて心乃一人の肩にのしかかった。
清香は味にうるさく、コーヒーも五回淹れ直させた挙げ句、「口当たりが違う」と文句をつけ、豆を一粒ずつ選び直せとまで言い出した。
残った豆を心乃はこっそり隠した。
邸宅を出たあと、少しでも金に換えようと思ったのだ。
けれど、それをポン太が玩具と勘違いして、床一面に散らかしてしまった。
「ポン太!」
心乃はその頭を軽く叩き、困ったように言った。
「もう……お願いだから、これ以上困らせないで」
彼女はほうきを手に取り、書斎の前に散らばった豆を掃こうとした。
掃除機は使えない。
音がうるさいからと、清香に禁じられていたからだ。
清香は昼寝の最中で、書斎の扉は閉まっていなかった。
そのため心乃は、ふと目に入ったパソコンの画面に映るデザイン画を見て、息をのんだ。
「どうして……この図案が……?」
生地の選び方も、スカートの裾の流れも、藤崎家を追い出される前に自分が残した手描きの原稿と、寸分違わず同じだった。
心乃は足音を忍ばせて机に近づき、もう一度、画面を見つめる。
間違いない。
これは自分のデザイン画だ。
なのに、左下の作者名の欄には、はっきりと清香の名前が記されていた。
――どういうこと……?
「何をしているの?」
不意に背後から声がして、心乃ははっと振り返った。
そこには、いつの間にか清香が立っていた。
心乃は怒りをにじませて問い返す。
「それはこっちの台詞よ!私のデザイン画を盗んでおいて、仕事で忙しいふりまでして……また私たちを騙してたのね!」
清香は鼻で笑った。
「ええ、認めるわ。図案はあなたのものよ。でも、それがどうしたの?
言いたければ、みんなに言ってみればいいじゃない。蒼真とおばさんが、あなたと私のどちらを信じると思う?
どうせ、あなたがまた私を陥れようとしてるって決めつけるだけよ。だってあなた、前科が多すぎるんだもの」
心乃は怒りで全身を震わせた。
「前科ですって?私は一度だってあなたを陥れたことなんてない!今までのことは全部、あなたの狂言だったじゃない!」
「そうよ、全部私の自作自演よ」
清香は声を張り上げて笑う。
「でもね、どうしてあなたの実の母親も、幼なじみの婚約者も、本物の家族でもない私を信じて、あなたを信じないのかしら?ねえ、心乃。本当に哀れよね、あなたって」
怒りが胸の内で暴れ回り、心乃の心臓は今にも張り裂けそうだった。
「清香……!私、あなたに何かした?どうしてここまで私に執着するの!」
清香は一歩ずつ近づいてくると、片手で心乃の顎を乱暴につかんだ。
「別に理由なんてないわ。ただ、あなたが気に入らないの。容姿だって、学歴だって、私のどこがあなたに劣るっていうの?
どうしてあなただけ、そんなふうに幸せに生きていられるの?私は実の両親を亡くす苦しみを背負ったのに。だから――あなたのものは、全部私が奪ってやるの」
心乃は必死にもがいたが、清香の力には敵わない。
「やめて……放して……っ」
肺の中の空気はどんどん薄れ、もう息ができない。
そのとき――
「ワンワンッ!」
間一髪で、ポン太が飛び出してきた。
そして清香のふくらはぎに、がぶりとかみつく。
「きゃあ――っ!」
痛みに叫びながら、清香は必死に足を振り回した。
「放しなさい!このクソ犬――!」
心乃は荒い息をつきながら、後ろから清香を思い切り突き飛ばす。
そのままポン太を抱き上げ、階段を駆け下りた。
――もう一秒だって、ここにはいられない。
ポン太を連れて、今すぐここを出なければ。
第5話
心乃は、ポン太を連れて動物病院へ駆け込んだ。
「先生、この子の傷……大丈夫でしょうか?」
「傷がかなり深いですね。それに赤く腫れて膿も出ています。すぐに点滴をしたほうがいいでしょう。
このままだと細菌感染を起こすおそれがあります」
心乃はひび割れた唇をなめ、ためらいがちに尋ねた。
「点滴をすると……いくらかかりますか?」
「六千円です。先に会計を済ませてきてください」
心乃は伝票を握りしめたまま、動かなかった。
六千円。
一週間前の自分なら、こんな金額で困ることなどなかった。
けれど家を追い出されたとき、あの人たちは彼女の支払い手段をすべて凍結した。
今の彼女が持っているもので、まともな値がつくのはこのスマホくらいしかない。
「先生……このスマホを預かっていただけませんか?仕事が見つかったら、すぐにお金を持ってきます!二倍払ってもかまいません、なので――」
「お金がないんですか?ないなら最初に言ってください。ほら、帰ってください。仕事の邪魔になるので!」
「お願いします、先生……!この子を助けてください、お願いします……!」
診療所の扉は、彼女の目の前で容赦なく閉ざされた。
心乃は路肩に立ち尽くしたまま、泣きたくても泣けなかった。
ポン太はぐったりしていて、彼女の腕の中でほとんど動かない。
熱まで出ているのだろう。本来ならしっとりと濡れているはずの鼻先は乾いてひび割れ、重たげなまぶたは半ば閉じかけている。
それでも時おり舌を伸ばし、彼女の手のひらをぺろりと舐めた。まるで、落ち込む彼女を慰めるかのように。
心乃は額をそっとポン太の頭に押し当てた。
「大丈夫よ、ポン太。絶対に助けるから」
心乃はスマホを取り出し、配信アプリを開いた。
「みなさん、こんにちは。藤崎心乃です。
そうです。成瀬グループで盗作疑惑を報じられた、あのチーフデザイナーです。
今日、私が配信を始めた目的は一つだけ。お金を稼ぐためです。罵りたい人は、どうぞ好きなだけ罵ってください。
その代わり、投げ銭でもギフトでも、少しでもお金をくれるなら、私は絶対に言い返しません。
聞きたい言葉があるなら、いくらでもあなたたちの気に入るように言います。
どうか、この配信を広めてください。お願いします」
その発言は案の定、大きな騒ぎを呼んだ。
配信ルームには、たちまち何万人もの視聴者が押し寄せる。
けれど、そのほとんどは、金に目がくらったのかと彼女を罵る声ばかりだった。
「ええ、そうよ。私、もうおかしいのかもしれない」
心乃は笑おうとした。
けれど、涙が勝手にこぼれ落ちる。
「ただ……六千円、必要なだけなの。ポン太を助けたいだけで……」
中には、それすら売名行為だと罵る者もいた。
本当に金がないなら、とっくに体でも売っているはずだ、と。
心乃はその文字を見つめ、数秒遅れてようやく、その意味を理解した。
腕の中では、ポン太がすでにぐったりと眠りに落ちている。
心乃は唇をかみしめ、覚悟を決めた。
「お金をくれるなら……それでも、いいです」
その瞬間――
ガンッ!
誰かに思いきり蹴り飛ばされ、スマホが地面へ転がった。
同時に、心乃自身も突き飛ばされ、アスファルトの上に倒れ込む。
「心乃、お前……どこまで恥知らずなんだ!」
蒼真だった。
目は血走り、その瞳からは嫌悪が今にもあふれ出しそうだった。
「本気で吐き気がする」
心乃は慌てて這い寄り、スマホを拾い上げる。
何度も電源を入れようとしたが、まったく反応しない。
「蒼真!私のスマホ、返して!壊したなら弁償して!」
「スマホが何だ?また配信でもするつもりか?それとも男を釣りたいのか?」
蒼真は冷笑した。
「俺じゃ満足できなかったのか?何万人もの前で、俺に恥をかかせるつもりだったなんて」
次の瞬間、胸元にひやりとした感触が走った。
心乃ははっとした。
蒼真が、彼女の服を引き裂いていたのだ。
「何をするの、蒼真!ここは、路上よ!」
泣き叫びながら叩いても、彼の動きは止まらない。
男は理性を失った獣のようだった。
ただひたすら、己の激情のままに暴れ、心乃の柔らかな肌はたちまち夜気の下にさらされていく。
「そんなに金が欲しいのか?だったら俺を楽しませてみろ。望むだけくれてやる。お前はそんなに安い女なのか。
たかが六千円で、誰にでも股を開くのか?答えろよ、心乃!」
心乃は抵抗をやめた。
まるで魂の抜けた亡骸のように、されるがままになった。
夜風が肌を切りつけるように吹き抜け、自尊心までもずたずたに裂いていった。
やがて蒼真は、ふいに動きを止める。
「……興ざめだ」
彼は財布から紙幣を抜き出すと、脇のゴミ箱に投げ捨てた。
「欲しいなら、自分で拾え」
心乃の虚ろだった瞳に、わずかに焦点が戻る。
彼女は乱れた服を整える暇もなく、すぐさまゴミ箱に駆け寄り、中をかき回した。
腐った生ごみの悪臭と、何かもわからない粘ついた汚れが腕じゅうにまとわりつく。
それでも彼女は、眉一つ動かさなかった。
蒼真が嘲るように言う。
「やっぱり、お前はそこまで卑しいんだな。たった六千円で、尊厳まで売れるなんて」
心乃はようやく金をつかみ取ると、顔を上げて彼を見た。
人は、失望が極まると、憎しみすら湧かなくなる。
残るのは、ただ冷えきった無関心と、何も感じない麻痺だけだった。
「蒼真……もし人生をやり直せるなら、あなたにだけは、出会いたくないわ」
第6話
夜明けが近づくころ、ようやくポン太の熱は下がった。
心乃は一晩中つきっきりで看病し、ようやく少しだけ休めそうだと思った。
けれど、目を覚ましたときには、ポン太の姿が消えていた。
彼女は病院中を探し回ったが、どこにも犬の姿はない。
「すみません、茶色い小型犬を見ませんでしたか?
これくらいの大きさで、頭に白い毛が少しある子なんです」
心乃は手当たりしだいに尋ねて回り、ようやく、三十分ほど前にある女性がポン太を連れて行ったと聞かされた。
「その人、自分はあなたの従妹で、高梨という姓だって言ってましたよ。
先に犬を家に連れて帰るから、目が覚めたら自分を訪ねてくるようにって」
高梨――清香だ!
心乃はそれ以上考えるのも恐ろしくて、慌てて邸宅へ戻った。
清香は彼女を二階のテラスへ呼び出した。
その足元には、ポン太がぐったりと伏せていて、ぴくりとも動かない。
心乃は指先を強く握りしめた。
「ポン太に何をしたの?」
「心乃ったら、私なんかより、その犬のほうが大事みたいね。ほんと、傷つくわ」
清香はそう言って笑い、醜く傷の残った自分のふくらはぎを見せつけた。
「この子のせいで、私、こんな大きな傷跡が残ったのよ?どうやって罰してあげたらいいと思う?」
「清香!私に何かしたいなら好きにすればいい。でも、ポン太には手を出さないで!」
「もちろん、最初からそのつもりよ。あなたがあんなに大事にしてるんだもの。この子が死ねば、あなたもきっと耐えられないでしょう?」
清香は気を失ったポン太を持ち上げ、そのまま階下へ投げ落とそうとした。
「やめて――!」
心乃は懇願した。
「お願い……!何でもするから、この子だけは見逃して!」
清香はにっこりと微笑んだ。
「放してほしいなら、条件があるわ。跪いて、私の靴を舐めてきれいにしなさい」
心乃は信じられないものを見るように、彼女を見つめた。
「……何ですって?」
「嫌なの?じゃあ、あなたの大事な子とはここでお別れね」
清香が手を離す。
次の瞬間には、ポン太がテラスから落ちてしまう――
どさり――心乃は、その場に膝をついた。
膝に走る痛みで感覚が痺れていく。
うつむいた彼女は、この絶望に満ちた暗い世界をもう見たくなかった。
それでも、耳には清香の笑い声が容赦なく入り込んでくる。
「ふふっ……!藤崎家のお嬢さまも、ずいぶん骨がないのね。言われたらすぐ跪くなんて」
清香は足の甲で心乃の顎を持ち上げた。
「ほら、舐めなさい」
心乃は清香の顔を見つめた。
これまでのすべてが、走馬灯のように目の前をよぎっていく。
自分が受けてきた誤解。
飲み込んできた悔しさ。
積み重なった苦しみの一つひとつが、この瞬間、限界まで膨れ上がっていた。
――もう、新しい人生なんて待てない。
だったら、全部ここで終わらせればいい。
清香は苛立たしげに言った。
「舐めるの、舐めないの?この子を助けたくないの……?」
「きゃあっ――!」
次の瞬間、心乃は勢いよく飛びかかり、清香を地面に押し倒した。
二人が立っていた場所はもともとテラスの縁に近い。
その拍子に、体の半分が外へ投げ出される。
清香は悲鳴を上げた。
「心乃!気でも狂ったの!」
「狂ってなんかない!ただ、自分がもっと早くこうしなかったことを悔やんでるだけよ!」
心乃は清香を抱え込んだまま、少しずつ、少しずつテラスの外へと引きずっていく。
物音を聞きつけ、澄子と蒼真が駆けつけた。
「心乃!なんて子なの!死ぬなら一人で死になさい、清香まで巻き込まないで!」
清香が泣き叫ぶ。
「おばさん!蒼真!助けて!」
蒼真が怒鳴った。
「何があった!」
「心乃が急に部屋に入ってきて、ポン太の仕返しに私のデザイン原稿を台無しにしてやるって……!私が止めたら、テラスまで突き飛ばされて、殺そうとしてるの!」
心乃は思わず笑ってしまった。
「清香……こんなときでも、まだ私に罪を着せるのね」
澄子は焦りのあまり、足を踏み鳴らした。
「あのとき、お腹の中で始末しておくべきだったわ!産んでしまったばかりに、こんな災いを招くなんて!」
心乃は静かな目で、彼女を見た。
自分に命を与えたこの女は、一瞬たりとも母親らしいことをしてくれたことがなかった。
ならば、この命を返してやれば、それで十分だ。
心乃は蒼真に尋ねた。
「……あなたも、私を信じないのね?」
蒼真は険しい顔を崩さず、その黒い瞳には苛立ちばかりが積もっていた。
「心乃、先に清香を傷つけたのはお前の犬だろう。そのくせ謝りもしないで、今度は彼女のデザイン原稿まで壊そうとしたのか。
……本当に失望した」
心乃は、ただうなずいた。
――聞くんじゃなかった。
彼女は清香を抱えたまま、さらにテラスの外へ身を移していく。
「心乃!それは殺人だ!今すぐ清香を放せ!」
「放せ、ですって?あなた、何の立場で私に指図してるの?私の婚約者だから?」
心乃は冷たく笑った。
「忘れたの?私はもう、あなたとの婚約を解消したのよ」
蒼真ははっとしたように目を見開く。
「そうか……お前がこんなことをしているのは、婚約のことが原因だったのか。
わかった、婚約は解消しない。お前は今までどおり、俺の婚約者だ!」
けれど心乃は、ただ彼を見て冷笑しただけだった。
蒼真は彼女に近づこうとする。
「心乃、落ち着け。たかが犬一匹のために、自分まで犠牲にする必要はない!」
「……今、何て言った?」
心乃の胸が、強く締めつけられた。
「犬一匹?あなたにとって、ポン太はその程度なの?」
「そうだろう?ただの犬じゃないか。そんなに気に入ってるなら、また何匹でも買ってやる」
心乃は笑った。
笑いながら、涙をこぼした。
そして、蒼真と澄子を指さす。
「蒼真、あなたは外道よ。
……いいえ、外道以下だわ!
よく聞いて。ポン太は、この世でたった一人……私に残された、唯一の家族よ。この子を傷つけた人間は、必ず報いを受けてもらう!」
そう言い放つと、心乃は清香を抱えたまま――二人そろって、テラスから身を投げた。
第7話
痛い――
心乃は、全身の骨が砕かれたかのような痛みに襲われていた。
重いまぶたをどうにか持ち上げると、そこは病院のベッドの上だった。
自分は死んだのではなく、まだ生きているらしい。
「目が覚めたんですね」
そこにいたのは、人生交換プロジェクトの看護師だった。
看護師は水の入ったコップを差し出しながら、あきれたように言った。
「あと三日で手術だったんですよ。それまで、どうして耐えられなかったんですか」
心乃は口元をわずかにゆるめた。
「すみません。でも……私、こんな状態になってしまったら、もう交換したいなんて思う人はいないんじゃないですか?」
「そこはご心配なく。あなたは最初から、上の方が指名した交換対象ですから」
「指名……?」
心乃は眉を寄せた。
「つまり、今の私がどういう状況か知ったうえで、それでも私になりたがっている人がいるってことですか?」
「そういうことですね」
心乃はさらに問いかけようとしたが、看護師はそれ以上何も話そうとしなかった。
ただ、今はよく休んで、安心して手術を待つようにと言い残し、病室を出ていく。
扉の外を、清香の姿がよぎった。
清香は足早に廊下の角まで進むと、拳を強く握りしめた。
――今、何を聞いたの?人生交換……?
あの愚かな心乃が、まさか本当に人生交換に申し込んでいたなんて。まるで神様まで自分の味方をしているようだった。
心乃がああして飛び降りたせいで、蒼真の中にかすかに残っていた情まで呼び起こされ、彼は心乃のために改めて婚約の席を設けるべきかどうか考え始めていた。けれど、あと三日もすれば、心乃は完全に別人になり、二度と戻ってこなくなる。
そう考えると、清香の口元には笑みがにじんだ。だがすぐに、別の不安も頭をもたげる。
三日――それは長すぎる。
この三日間に、何が起こるか分からない。
後の禍根を残さないためにも、何としてでも手術を早める方法を考えなければならない。
――
病室では、心乃が点滴を受けていた。
そのとき、記者たちがどっと病室へ押し寄せてきた。
「藤崎さん、高梨さんが転落したのは、あなたが恨みから突き落としたからなんですか?」
「高梨さんにチーフデザイナーの座を奪われた腹いせに、殺そうとしたというのは本当ですか?ご自分のしたことを、行きすぎだとは思わないんでしょうか!」
人だかりはたちまち病室を埋め尽くし、身動きも取れなくなる。
中継用のカメラは一斉に心乃へ向けられ、彼女の狼狽も惨めさも、余すところなく映し出していた。
「出ていって!誰が入っていいなんて言ったの!今すぐ出ていって!」
心乃は焦って叫んだ。
マイクが今にも頬に触れそうなほど突きつけられる。
彼女は片手で顔をかばい、もう片方の手で必死に押し返した。けれど、この記者たちは清香から事前に手を回されていた。
役に立つ言葉を引き出すまで、引き下がるつもりなどないのだ。
「あなたと高梨さんは血のつながった親族だそうですが、いったいどれほどの恨みがあれば、自分の従妹を殺そうとするんですか?
それとも、生まれつき残酷な性格で、人の命なんて何とも思っていないんですか?」
鋭い言葉の一つひとつが刃のように心乃へ突き刺さる。
心乃は掌に爪を立てながら、必死に言い返した。
「違います……!清香が先に、私の犬を投げ落とそうとして――」
「嘘ですね!その場にはあなたのお母さま、藤崎澄子さんもいらっしゃったそうですが、あれは明らかな殺意による犯行で、犬を落とそうとした事実などないと証言しています!」
「私が証言するわ!心乃は、最初からわざとやったのよ!」
病室の扉が再び開き、車椅子に乗せられた清香を連れて、澄子と啓介が入ってきた。
澄子は心乃をひと目見ただけで、露骨に嫌悪をにじませて視線をそらした。
「よくもまあ、そんな口からデマカセを並べられるものね。いっそそのまま死んでしまえばよかったのに!」
啓介は記者の手からマイクをひったくると、憎しみをむき出しにして言い放った。
「心乃は、恩を仇で返すことしか知らないどうしようもない子です!清香がうちに来てからというもの、こいつはずっとあの子を目の敵にしてきたんです。
身内の情けなんて、これっぽっちもない!昔だったら、こんな女は川に沈められて当然ですよ!」
母親と実の兄から向けられる悪意を前にしても、心乃にはもう言い争う気力すら湧かなかった。
彼女はもう、完全に諦めていた。
この人たちの理解も、家族としての情も、何ひとつ期待していない。
だから、彼らが何を言おうと、何をしようと、もう自分は傷つかない。
本当はただ、残された最後の三日を静かに過ごし、この場所を去りたかっただけだった。
なのに、今度は記者まで呼びつけた。カメラの向こうには、無数の視聴者がいる。
このまま好き勝手に自分の名を汚されれば、これから自分と人生を交換する相手まで苦しめることになる。
「もう一度言います。先に清香が――」
ぱしん――!
澄子が駆け寄り、心乃の言葉を遮るように頬を打った。
「黙りなさい!
まだ私たちがあんたの言うことを信じると思ってるの?
今のあんたは、私にとってただの人殺しよ!」
「おばさん、もうやめてください」
全身に包帯を巻いた清香が、弱々しく手を上げた。
「私は心乃を責める気なんてありません。
本当に……だって、この家がなかったら、私はとっくに独りぼっちでした。
だから、心乃がどれだけ私にひどいことをしても、恨んだりしません」
「清香……なんていい子なの!」
澄子は彼女を抱き寄せ、目に涙を浮かべる。
「これから先、私の娘はあなただけよ!」
そして次の瞬間、心乃へ向き直ったその目からは、わずかに残っていた情すら消え失せていた。
「今までは、あんたがどれだけ勝手をしてきても罰したことはなかった。
だけど今回は違うわ。あんたは自分の従妹の足を一本だめにしたのよ。きっちり代償を払ってもらうわ!」
そこで初めて心乃は気づいた。
清香の左足には、分厚いギプスが巻かれていた。
おかしい。
落ちたとき、下敷きになったのは自分のほうだった。
それなのに、どうして清香のほうが重傷を負うのだろう。
心乃が黙っているのを見て、啓介は反省する気がないのだと思ったらしい。
彼はそばにあった椅子をつかみ、そのまま彼女へ向かって突進してきた。
「だったら今ここで、お前の足をへし折ってやる!それで清香に償え!」
第8話
啓介の動きはあまりにも速かった。
心乃は避けようとしたが、間に合わなかった。
振り下ろされた椅子が、容赦なく彼女の脚を打ち据えた。
骨の髄まで貫くような激痛に、心乃の視界は何度も暗くかすみ、そのまま意識を失いそうになる。
「……啓介」
額に冷や汗をにじませながら、心乃は弱々しく彼を見上げた。
「いつか真実を知ったとき、忘れないで。あなたは実の妹から、脚一本を奪ったのよ」
「ふん」啓介はせせら笑った。
「脚一本どころか、この命をお前にくれてやっても構わないさ。もっとも、お前の言う真実なんてものが本当にあるなら、の話だが」
心乃はかろうじて意識をつなぎ止めていた。
全員が病室を出ていったあとになって、ようやく堪えていた涙をこぼす。
心の痛みなら、ないものとしてやり過ごせる。
けれど、折れた脚の痛みだけは、どうしても耐えきれなかった。
「……これを」
視界の端に、一枚のティッシュが差し出される。蒼真だった。
その声は淡々としていて、何のぬくもりもない。
「痛いのはわかる。けど、清香があのとき、きっとこれ以上に痛かったはずだ」
そこで初めて、彼がずっとそこにいたのだと気づいた。
彼はただ冷ややかに立ち尽くしたまま、心乃が記者たちに取り囲まれ、母親に罵倒され、実の兄に脚を折られるところまで、すべて見ていたのだ。
それなのに――最初から最後まで、彼女をかばう言葉は一つもなかった。
「蒼真……本当に、冷たい人ね」
心乃は涙をこぼしながら笑った。
「ねえ、知りたいの。あなたの中で、私はいったい何だったの?この十数年は、あなたにとって何だったの?」
蒼真は眉をひそめた。
「お前が昔みたいに、ずっと素直で優しいままだったら、こんなことにはならなかった。
心乃、全部お前のせいだ。清香より能力が劣っていること自体は、別に罪じゃない。
だが、お前の悪いところは、嫉妬が強すぎたことだ。清香のほうが優れているのを受け入れられなかった」
蒼真は深くため息をつき、疲れたようにこめかみを押さえる。
「お前が何年も騒ぎ続けてきたせいで、お前も疲れただろうが、俺だって疲れた。
これまでのことは、お前が若くて分別がなかっただけだと思うことにする。
今回こうして脚を折ったんだ。少しは教訓になっただろう。
この前の婚約披露の席だって、清香が整えたものだから、お前はずっと気に入らなかったんだろう?
新作発表会が終わったら、改めてお前のために婚約式をやり直してやる。だから、これまでのことは全部忘れて、これからはちゃんとやっていこう」
心乃には、とてつもなく滑稽な冗談にしか聞こえなかった。
「ちゃんとやっていく?誰があなたと生きていくって言ったの?」
彼女は入口を指さし、言葉を一つひとつ区切るように告げた。
「忘れないで。私はもう、あなたとの婚約を解消しているの。だから今すぐ、この病室から出ていって」
「まだ言うのか!」
ついに蒼真の堪忍袋の緒が切れた。彼は手にしていたティッシュ箱を床へ叩きつける。
「あのとき俺が事故に遭ったときだってそうだ!医者から、もう二度と目を覚まさないかもしれないと言われた途端、お前は俺を置いて逃げた。
そのうえ、ほかの男と寝ようとしたじゃないか!そこまでのことをされても、俺は今まで目をつぶってきた。
なのに心乃、お前もいい加減にしろ!」
心乃は失望したように目を閉じた。
あのとき、彼の病床に付き添い、文句ひとつ言わずに半年もの間世話をしていたのは、ほかでもない自分だった。
なのに、蒼真は目を覚ましたあと、その献身を認めようともしなかった。
それどころか、ずっと彼を看病していたのは清香だと言い張ったのだ。
心乃は何度も説明した。
けれど、彼はまるで信じようとしなかった。
少しでも気に障ることがあるたび、その件を持ち出しては彼女を辱め、恥知らずだ、淫らな女だと罵った。
もう疲れ果てていた。絶望しきっていた。
これ以上、何かを弁解する気力など、もう一欠片も残っていない。
心乃は手を上げた。
「最後にもう一度だけ言うわ――出ていって」
「いいだろう、出ていく。あとで後悔しても知らないからな!」
蒼真は乱暴に病室の扉を閉めて出ていった。
心乃はベッドの上へ崩れ落ちるように倒れ込み、ボランティア機関の名刺を取り出して、そこに記された番号へ電話をかけた。
「もしもし……藤崎心乃です。交換手術なんですが、前倒しにすることはできますか?」
「藤崎様ですね。本当に手術日を早めてもよろしいのですか?」
「はい、できるだけ早くお願いします。脚を一本折ってしまっているんですが……それでも、相手の方は本当に交換する気があるんでしょうか?」
「ご安心ください。以前もお伝えしたとおり、あなたは特別に指名された交換対象です。
どのような状態であっても、お相手の意思は変わりません」
「それなら……今夜、手術していただけますか?」
「かしこまりました。では三十分後に、病院の西門までお越しください。担当の者がお迎えにあがります」
電話を切ったあと、心乃の胸には奇妙な違和感がますます広がっていった。
本来の規定では、手術前に交換相手の素性を知ることはできない。けれど今回の手術には、明らかに裏で誰かが手を回している。
相手が、自分の何に価値を見いだしたのか、心乃には見当もつかなかった。
今の自分の人生は、どこをどう見てもめちゃくちゃだ。
それなのに、その相手はそれを気にするどころか、むしろ待ち望んでいるようにさえ見える。
いったい、なぜ――?
けれど、たとえ相手にどんな思惑があろうと構わない。この人生から抜け出せるのなら。
その先に待っているのが地獄だとしても、自分はためらわず飛び込むだろう。
心乃はそっと目を閉じた。
それから点滴の針を抜き、壁に手をつきながら、一歩ずつ西門へ向かっていった。
第9話
夜風には冷えが混じり、心乃は病衣一枚きりだったせいで、小さく身を震わせていた。
行き交う車ばかりに気を取られ、背後に人影がついてきていることにも気づかなかった。
本来なら車椅子に座っているはずの清香は、何事もなかったように木陰に身を潜めている。
もし誰かが見ていれば、その脚がまったく無事だとすぐにわかるはずだ。
清香はくすりと笑う。
「心乃、とうとう我慢しきれずに、手術を前倒しするのね。これでこれから先は、蒼真の愛も、藤崎家の財産も、全部私一人のもの――」
清香は、ワゴン車が心乃を乗せて走り去るのをこの目で確かめてから、ようやく入院棟へ戻った。
再び車椅子に腰を下ろし、心乃の病室の前を通りかかったところで、ちょうど引き返してきた蒼真と鉢合わせる。
「清香?どうしてここに?」
清香は慌てて取り繕った。
「心乃の様子を見に来たの。ちゃんと謝りたくて……でも、会ってくれるかどうかわからなくて」
「謝るべきなのはあいつのほうだ」
蒼真は眉をひそめた。
「お前は優しすぎるから、いつもああして心乃に付け込まれるんだ」
蒼真が病室の扉を開ける。
だが、中には誰もいなかった。
「心乃はどこだ?さっき脚を折ったばかりなのに、どこへ行けるっていうんだ」
清香は穏やかな声でなだめる。
「蒼真、そんなに慌てないで。きっと看護師さんが検査に連れていっただけよ」
蒼真は病室でしばらく待った。
それでも、心乃は戻ってこない。
なぜか胸がざわつき、落ち着かなかった。
命よりも大切な何かが、少しずつ自分から遠ざかっていくような、そんな気がしてならなかった。
……
西園総合病院。
心乃はすでに全身の検査を終え、あとは手術を待つだけになっていた。
しかも、思いがけない朗報まであった。
医師の話では、脚の状態はそこまで深刻ではなく、手術後に半年ほど静養すれば回復する見込みだという。
「よかった……本当によかったです。じゃないと、私と人生を交換してくれる人に、何て言えばいいのか分からないわ」
「何を言うつもりだったの?」
入口のほうから、鈴のように澄んだ女の声がした。
振り返った心乃は、思わず目を見開く。そこに立っていた若い女性は、自分とどことなく似ている顔立ちだった。
彼女は近づいてくると、気さくに手を差し出した。
「こんにちは、藤崎心乃さん。自己紹介するわね。私は篠宮心春(しのみや こはる)」
「……篠宮心春?」
心乃は、その名を思わず繰り返した。
その姓には覚えがあった。京央で篠宮家といえば、一族の名を知らぬ者はいないほどの名家だ。
そんな家の令嬢が、どうして自分の人生なんか欲しがるのだろう――
心乃は不安げに言った。
「篠宮さん、何か勘違いしていませんか?今の私の人生は、たぶん……あなたが想像するどんな悪夢よりもひどいものです」
「ふふっ」
心春は吹き出し、心乃の頬をつまんだ。
「ほんと、あなたって可愛いのね。あの人がここまでしてあなたに執着するのも分かる気がする。
安心して。私は全部承知のうえで、自分の意思でここに来たの」
心乃はますます混乱した。
「あの人って……誰のことですか?」
「もう、話せるのはここまで」
心春は肩をすくめる。
「あとのことは、これから先、あなたが自分で知っていけばいいわ」
彼女は手際よく病衣に着替え、看護師に付き添われて術前検査へ向かおうとした。
「待ってください!」
それでも心乃は不安を拭えず、脚の痛みをこらえながら追いかける。
「手術が終わったら、あなたが心乃になるんですよ?うちの家族をどうするつもりなんです?それに蒼真だって、そんなに簡単にごまかせる相手じゃないです」
心春は、すでに対策を考えていたらしい。
「大丈夫。手術が終わったら、私はすぐに海外へ出るわ。向こうで私を待っている人がいるの。
あなたの家の連中なんて、クズみたいなものじゃない。一人だって会うつもりはないし、成瀬さんにしたって、もう婚約は解消してるんでしょう?
今さら私に何ができるっていうの」
そこで心春はふと声を落とし、興味深そうに尋ねた。
「それより――あなた、まだ彼を愛してるの?」
心乃は、そんなことを聞かれるとは思ってもみなかった。
一瞬、言葉を失った。
心春は、返事を待つ時間も惜しいというように、ひらひらと手を振った。
「じゃあね、間の抜けたお嬢さん」
……
手術室で、看護師が最後の確認を行う。
「藤崎様。本当に人生を交換し、これまでのすべてを手放すのですね?」
心乃は目を閉じた。
すると、封じ込めたはずの記憶が、堰を切ったようにあふれ出してくる。
高校二年のあの日。
蒼真は土砂降りの雨の中、南ヶ城から北ヶ城まで駆けてきた。
ただ、彼女が「蒸したての肉まんが食べたい」と、何気なくこぼした一言のためだけに。
大学三年になると、蒼真は起業し、心乃もまた各地のデザインコンテストを飛び回っていた。
十日や半月、顔を合わせられないことも珍しくなかった。
今年の誕生日も、一人で過ごすことになるのだと思っていた。
けれど蒼真は、日付が変わる直前になって突然現れた。贈り物を渡し、誕生日おめでとうとだけ告げて、また始発の便に飛び乗って去っていく。
二人は空港で、離れがたいほど長く口づけを交わした。
もう二度と、お前と離れたりしない――そう、彼は誓った。
あの頃の自分は、まだ知らなかった。
誓いというものは、裏切るためにあるのだということを。
心乃は静かに思考を閉じる。
――もう、終わりにしよう。
そして、小さくうなずいた。
「はい。私は、それを望みます」
「それでは麻酔を、準備します」
心乃は頭上の無影灯を見つめた。
視界は少しずつぼやけ、やがて闇に沈んでいく。
次に目を開けたとき、彼女の中には、見知らぬ記憶が流れ込んでいた。
それは、心春として生きてきた過去。
幼いころからたっぷり愛されて育ち、そのせいで、彼女は自由で奔放な性格になった。
唯一の悩みは、自分の結婚に自由がなかったこと。
家の都合で政略結婚へ送り出される運命にあった。
だから愛する人のそばにいるために、彼女は誰かと人生を交換し、別の身分となってその人の隣に立つ道を選んだ。
そして今日の手術に至ったのだ。
その記憶の最後には、心春自身が自分に残した言葉があった。
――藤崎さん、忘れないで。
――今日からあなたは、篠宮心春として生きるの。
――どうか、あなた自身の思うままに生きて。
遠くから、ずっとあなたの幸せを願っているわ。
心乃――いや、もう心春と呼ぶべきなのだろう。
心春は鏡の前に立ち、自分によく似たその顔に、そっと指を這わせた。
やがて唇をやわらかく緩める。
「……ありがとうございます。私、ちゃんと生きますから」
荷物を整え終えると、心春は一階の窓口へ向かい、新しい身分証の手続きを受けようとした。
「すみません、私は――」
「ちょっと、どいてちょうだい!」
乱暴に押しのけられ、心春はよろめいた。
顔を上げると、そこにいたのは澄子と啓介だった。
澄子は申し訳程度に頭を下げる。
「ごめんなさいね。娘が行方不明なの。先に対応してもらえないかしら?
……そういえば、うちの娘、あなたに少し似ているわね」
心春は、その場に立ち尽くした。
どんな気持ちなのか、自分でもうまく言葉にできない。自分は今、確かにこの人たちの目の前に立っている。
それなのに、実の母も、実の兄も、誰一人として自分に気づかない。心春は胸の奥のざわめきを押し込み、自分から一歩脇へ退いた。
啓介はすぐに看護師へ食ってかかった。
「監視カメラの映像は、いったいいつ出るんだ!妹がもう五時間以上も行方不明なんだぞ!」
「申し訳ありません。警備の者が急いで確認しておりますので……!」
二人はしばらく言い争った末、渋々立ち去っていった。
すれ違いざま、啓介が澄子に不満をこぼすのが聞こえる。
「心乃なんて、もともと厄介者じゃないか。何でわざわざ探す必要がある?死んでくれてたほうが、家が静かになるだろ」
「何を言ってるの。今はまだ蒼真君があの子に情を残してるのよ。もしあの子が本当に何かあって、蒼真君の中で忘れられない人にでもなったら、清香が困るでしょう」
心春は、握りしめていた指をゆっくり開いた。
――やっぱり、そういうことだったのね。
自分を探すために時間を使う理由など、あの人たちには一つしかない。
結局すべては、清香のため。
心春は深く息を吐き、あの人たちに揺さぶられた感情ごと、胸の奥へ沈めた。
「すみません。新しい身分証の受け取りに来ました」
必要な手続きをすべて終えると、心春は病院をあとにした。