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妻を「汚い」と捨てた夫。真実を知り嫉妬に狂う
九条瑠璃(くじょう るり)と九条蓮(くじょう れん)が結婚して5年目のこと。瑠璃のもとに、親友から一枚の写真が送られてきた。 写真の中には...
Chương (1)
第1章
九条瑠璃(くじょう るり)と九条蓮(くじょう れん)が結婚して5年目のこと。瑠璃のもとに、親友から一枚の写真が送られてきた。
写真の中には、華やかなイルミネーションを背景に並んで立ち、同じ夜空を見上げている、蓮と彼の秘書である江崎奈美(えざき なみ)の姿があった。
友人からはこう添えられていた。【瑠璃、この奈美っていう女には気をつけたほうがいいと思う】
瑠璃は写真を数秒見つめると、思わず笑ってしまった。そして、軽い調子で返信する。【大丈夫。世の中の男が全員浮気しても、蓮だけはしないから】
そう言い切れるだけの自信が、瑠璃にはあった。
蓮は九条家の御曹司として知られる存在だが、その彼が瑠璃を心から愛していることは、周囲の誰もが知っていたし、奈美の美貌も雰囲気も育ちも、瑠璃と比べればかなり見劣りする。少なくとも瑠璃には、奈美が自分たちの関係を揺るがす存在だとは思えなかった。
瑠璃はスマホを置き、再び花を生け始める。この時はまだ、親友からの忠告を気に留めていなかった。
だが3日後の夜。蓮がシャワーを浴びている時に、ベッドサイドに置かれた彼の携帯の画面がふっと光った。ラインの通知だ。
瑠璃は覗き見るつもりはなく、ただ何気なく視線を向けただけだった。しかしその瞬間、彼女の目は画面に釘付けになった。
それは、奈美からの連絡だった。
そして、蓮が彼女につけていた登録名は――「いい子ちゃん」
第1話
九条瑠璃(くじょう るり)と九条蓮(くじょう れん)が結婚して5年目のこと。瑠璃のもとに、親友から一枚の写真が送られてきた。
写真の中には、華やかなイルミネーションを背景に並んで立ち、同じ夜空を見上げている、蓮と彼の秘書である江崎奈美(えざき なみ)の姿があった。
友人からはこう添えられていた。【瑠璃、この奈美っていう女には気をつけたほうがいいと思う】
瑠璃は写真を数秒見つめると、思わず笑ってしまった。そして、軽い調子で返信する。【大丈夫。世の中の男が全員浮気しても、蓮だけはしないから】
そう言い切れるだけの自信が、瑠璃にはあった。
蓮は九条家の御曹司として知られる存在だが、その彼が瑠璃を心から愛していることは、周囲の誰もが知っていたし、奈美の美貌も雰囲気も育ちも、瑠璃と比べればかなり見劣りする。少なくとも瑠璃には、奈美が自分たちの関係を揺るがす存在だとは思えなかった。
瑠璃はスマホを置き、再び花を生け始める。この時はまだ、親友からの忠告を気に留めていなかった。
だが3日後の夜。蓮がシャワーを浴びている時に、ベッドサイドに置かれた彼の携帯の画面がふっと光った。ラインの通知だ。
瑠璃は覗き見るつもりはなく、ただ何気なく視線を向けただけだった。しかしその瞬間、彼女の目は画面に釘付けになった。
それは、奈美からの連絡だった。
そして、蓮が彼女につけていた登録名は――「いい子ちゃん」
その言葉が棘のように瑠璃の胸に刺さり、一瞬で耐えがたい痛みに襲われる。
頭の中が真っ白になった瑠璃は、ベッドの端に座り込んだ。指先が氷のように冷たくなっていく。
そんなはずがない。
瑠璃は今見たものが信じられなかった。
瑠璃と蓮が、歩き始めたばかりの頃から学生時代を経て、夫婦になるまで、ずっと一緒だったことは誰もが知っている。蓮の人生を振り返れば、どの場面にも瑠璃がいた。それほど長い時間を、二人は共に歩んできたのだ。
16歳のとき、蓮は全校生徒の前でスピーチをしていた。しかし、突然原稿を放り出したかと思うと、大勢の中にいた瑠璃に向かって叫んだ。「瑠璃!お前が好きだ!俺と付き合ってくれ!」
18歳の誕生日のとき、蓮は遊園地を貸し切った。そして、観覧車が頂上に達したとき、耳を赤くした彼が、指輪を取り出し、震える声で言ってくれたのだった。「瑠璃。俺と結婚してください。20歳になったら、真っ先にお前を迎えに行くから」
蓮は瑠璃を深く愛していたからこそ、それだけに、その独占欲の強さも人一倍だった。
自分以外の男が瑠璃の3メートル以内に近づくことを許さず、彼女が別の男に少しでも目を向ければ、3日間は機嫌が悪くなる。拗ねたり嫉妬したりしながら、最後には瑠璃が笑って謝り、「愛しているのはあなただけ」と言うまで許してくれなかった。
だが、瑠璃はずっと、これこそが理想の愛の形だと思っていた。
たとえ世界中の人が敵に回っても、蓮だけは違う。どんな時も、自分の味方でいてくれると信じていたのに。
今や、スマホの画面に表示された「いい子ちゃん」の短い文字が、蓮への信頼を一瞬で打ち砕いた。まるで頬を強く打たれたかのように、瑠璃が疑いもなく信じていたものが、音を立てて崩れ去っていった。
胸を何者かに強く掴まれているような激痛が広がり、息が詰まる。
彼女は震える指で、何度もそのIDを確認し、必死に記憶に刻み込んだ。
その晩、瑠璃は奈美のアカウントを追加した。
すると、まるで瑠璃が追加するのを待っていたかのように、すぐさま奈美からメッセージが送られてきた。【瑠璃さんですよね?私の連絡先を追加した理由は、なんとなく予想はついています。明日の午後3時、ブルーベイ・カフェに来てください。すべてをお話ししますね】
瑠璃はそのメッセージを見つめたまま、胸の奥がすっと冷えていくのを感じていた。
翌日、瑠璃がブルーベイ・カフェに入ると、悪びれる様子もなく、堂々とした態度の奈美がすでに待っていた。
瑠璃が席に着くや否や、奈美は瑠璃に携帯を差し出す。そこに表示されていたのは、停止された動画。
「これを見てもらえれば、知りたいことが分かると思いますよ?」その奈美の言葉には、優越感と挑発が混ざっていた。
瑠璃の指先が震えた。これを再生してしまえば、今まで築き上げてきた自分の美しい世界が崩れ去ってしまう……そんな気がした。
しかし真実という名のパンドラの箱は、破滅をもたらすとわかっていても開けずにはいられない。
大きく深呼吸し、瑠璃は再生ボタンを押した。
どうやらそれは、プライベートパーティーの動画のようで、薄暗い光の中、たくさんの人々が思い思いに楽しんでいる。
そして、何より目を引くのは、動画の中心で人目も気にせず激しく唇を重ねている蓮と奈美。二人は、熱に浮かされたように一心不乱だった。
さらに、囃し立てる周囲の友人たち。
二人が唇を離した後、誰かが笑いながら蓮を揶揄う。「蓮、奈美ちゃんとのキスはどうだ?瑠璃さんと比べて、どっちが刺激的?」
蓮は隣に座っていた友人の煙草を口にくわえると、冷めた表情で煙を吐き出しながら、残酷なまでに落ち着いた口調で答えた。
「比べること自体が間違ってる」
少し間を置いてから、好奇の視線の中、彼が淡々と付け加える。
「瑠璃とキスしたことはないし、もちろん、寝たこともない」
その瞬間、周囲が水を打ったように静まり返ったかと思うと、すぐにどよめきが広がった。
「はぁ!?嘘だろ!だって蓮、あれだけ瑠璃さんに夢中だったじゃん!付き合えることになった日なんて、嬉しさのあまりベロベロに酔っ払って、嬉し泣きしながら俺たちと朝まで騒いでたのに。まじで、手出してないっていうのか?」
灰を落とす蓮の眉間には、隠しきれない鬱屈した陰りが漂っている。数秒の沈黙の後、彼が吐き捨てた言葉がナイフのように、画面越しの瑠璃の心臓を切り刻んだ。
「うん。確かに、あいつのすべてを俺のものにしたいって思うほど、俺はあいつのことを想ってた。でも、あの拉致のことがあってから……」
拉致という言葉を出した蓮が、苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
「瑠璃が汚れているように思えてならないんだ。俺が潔癖症ってこともあるかもしれないけど、あいつに触れようとするたびに……瑠璃を拉致した奴らも、同じように触れたんじゃないかって……」
まるでその光景を思い浮かべることすら耐え難いかのように、蓮は一瞬言葉を止めた。そしてしばらくして、彼がぽつりと呟く。
「汚いんだ。本当に、汚らわしい。どうしてもこのことだけが、受け入れられないんだよ」
蓮は自分の腕の中にいる奈美を見て、少し口調を緩めた。
「お前らは、俺が瑠璃に飽きて、もう好きじゃなくなったから、別の女と一緒になったって思ってるんだろ?
でも、そうじゃない。俺はまだ瑠璃のことが好きだ。でもあいつは、もう汚れてしまった……それに、奈美は瑠璃ほど完璧じゃないけど、汚れていない。だから、こいつの全てを俺のものにできる」
蓮が最後に放った一言は、瑠璃を地獄に突き落とす決定的な言葉だった。
「汚い瑠璃なんかより、ずっといい」
第2話
汚い。
汚らわしい。
汚い瑠璃なんかより、ずっといい……
この短い動画の中で、蓮は何度自分のことを「汚い」と言った?
でも、これでようやく分かった。
だから結婚して5年、蓮は一度も自分に触れようとしなかったのだ。
蓮がプラトニックな恋愛を理想としていたからでも、自分を大切に想っていたからでもなく、ただ自分のことを汚らわしいと感じていただけだったなんて!
18歳の時、蓮が拉致された。そんな彼を救い出そうと、瑠璃はたった一人で駆けつけ、命がけで彼を逃がした。その後、瑠璃は蓮の代わりに捕らえられ、三日三晩にわたって痛めつけられた末、救い出された時には全身血まみれだった。そんな自分のことを、蓮が汚らわしいと思っていたなんて……
心臓がぎゅっと握りつぶされるように痛んだ。息もできないほど苦しくて、胸元を力任せに掴む。
その時のことを思い出した。拉致犯の恐ろしい顔、冷たい道具の数々、果てしない暗闇と恐怖……最後まで抵抗して、女の身体だけは守り抜いた。しかし、彼らから受けた暴力と精神的なショックによる心の傷は、今でも残っている。
瑠璃が救出された時、蓮は拉致犯たちを今にでも殺してしまうのではないかというほどの形相で睨みつけていた。
そして、震える手で自分を抱きしめてくれた。だがその時、瑠璃は彼の瞳に、心配の表情だけでなく、理解し難い複雑な何かが混じっていたのを見ていた。
それが何か、今やっと理解できた。
あの時の複雑な感情の正体は……嫌悪感だ。彼は、自分のことを汚らわしいと思っていたのだ!
でも、自分はそんなこと……!
弁解したかったが、瑠璃は喉まで出かかた言葉を飲み込む。
今さら蓮にこのことを話して、何になるというのだろう。
彼に「汚らわしい」というレッテルを貼られて、もう5年だ。
自分がどれだけ必死に訴えても、蓮が持ち続けてきた偏見の前では、何を言っても虚しく響くだけに違いない。
一瞬で落ち込み、顔を青ざめさせている瑠璃を見て、奈美は満足げに笑った。そして、優雅にコーヒーを一口啜ると、鞄からある書類を取り出して瑠璃の目の前に差し出した。
「瑠璃さん、こういうことなので、もう諦めてくれますか?このことは……もう蓮さんの心から消えないと思うので、このまま一緒にいても幸せになれないはずですから。
これ、離婚協議書です。中に、『離婚届は代理の者が記入しても、有効とする』って内容を入れておきましたから、離婚の手続きについては心配しないでくださいね。私が全てやっておきますから。瑠璃さんは、この離婚協議書に、サインするだけでいいんです。
だから……書いていただけますよね?せっかく仲の良かったお二人なんだから、綺麗に終わりましょうよ」
かつての瑠璃なら、こんな理不尽で勝手なことを言われたら、即座に相手の顔に平手打ちを叩き込んでいたことだろう。人の夫に色目を使うなんて何事だ、と。
しかし、今は身体中が冷え切っていて、指先ひとつ動かすことができない。
それに、もちろん奈美にも腹が立つが、根本的な原因が、自分を「汚い」と言い切った蓮にあることを、瑠璃ははっきりと理解していた。運命の相手だと信じ、10年もの間愛してきた男なのに!
目の前で勝ち誇ったような笑みを浮かべる奈美の顔を見ながら、瑠璃はふっと笑みを漏らした。笑えば笑うほど、涙が溢れ出してくる。
なんて皮肉なのだろう。
16歳の頃、全校生徒の前で、顔を真っ赤にしながら告白してきたあの少年は、まさか未来の自分が瑠璃を「汚い」と言い、その証拠動画が愛した妻に離婚を決断させることになるとは、夢にも思わなかったはずだ。
絶望の後には、ただ静かな虚しさだけが残るらしい。
こんなにも人を長く愛し続けることができた。
しかし、その愛が終わるのは一瞬だった。
もう、蓮のことなど愛してはいない。
少なくとも、自分を「汚い」と言い捨てた、あの蓮だけは!
奈美に目をくれることもなく、瑠璃は黙ったまま、奈美が用意してきた離婚協議書を受け取った。署名欄に自分の名前を書き入れる——九条瑠璃。
それは相変わらず丁寧な文字だったが、どこか迷いのない鋭さを含んでいた。
一方の奈美は、話が拍子抜けするほどすんなりと進み、驚いていた。しかし、瑠璃がサインし終えると、すぐに離婚協議書を回収し、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「瑠璃さん、潔いですね。今晩には、蓮さんにもサインをしてもらうので、安心してください。でも、この離婚協議書を弁護士さんとかにも確認してもらわなきゃならないので、離婚が受理されるのは1ヶ月後ぐらいになってしまうかもしれません。そこは、ごめんなさいね」
瑠璃は黙って立ち上がり、何も答えずに、そのまま背筋を伸ばして、カフェを出て行った。
かなり日差しが強かったが、瑠璃は一切暖かさを感じることができなかった。
呆然としながら家に戻った途端、携帯が震えた。どうやら、奈美から動画が送られてきたようだ。
震える指で動画を再生する。
そこには、蓮と奈美が映っていた。しかも……場所はベッドの上。
甘い空気に包まれる中、奈美がそっと傍らから離婚協議書を取り出した。そして、欲しい限定バッグがあるのだと甘えた声でねだりながら、蓮にサインを求める。
内容を確かめようとしたのか、蓮が少し俯くと、奈美はすかさず彼の喉元にキスを落とした。
蓮がふっと笑う。「しょうがない奴だな。買ってやるよ」
そして彼は、書類を確認することもなく、自分自身の名前を書き記した。
その筆跡は力強く、あの婚姻届を書いた当時と何も変わっていない。
第3話
動画がまるで毒針のように瑠璃の目に刺さる。あまりの痛みに、もう目が開けられなかった。
その瞬間、激しい吐き気に襲われた瑠璃は、慌ててトイレに駆け込んだ。しかし、何も吐けずに、ただ涙だけが溢れ出すばかり……
トイレから戻ると、瑠璃は黙々と荷造りを始めた。自分の物を一つずつ、キャリーケースへ詰め込んでいく。
まるで、ここにある蓮の気配を、1秒でも長く吸ってしまえば、窒息してしまうかのように、瑠璃の荷物を詰める手はとても速かった。
片付け終わったとき、玄関からドアの開く音がした。
蓮が帰ってきた。
彼は高級ブランドの袋をいくつも提げ、いつもの優しい微笑みで瑠璃に話しかける。「瑠璃、ただいま。接待が長引いてて、こんなに遅くなっちゃったんだ。新作のバッグとネックレスだよ。どう?気に入ってくれると嬉しいな」
前なら、喜んで蓮に駆け寄り、袋を受け取るや否や、すぐに抱きついていただろう。
しかし今は違う。彼が奈美と肌を重ね合わせてから帰って来たこと、そして、今抱きつけばその身体に別の女の匂いが残っていることを、瑠璃は知っているのだ。
虚ろな瞳で、蓮を見つめる。
蓮も彼女の違和感に気づき、荷物を置くと肩を抱いて尋ねた。「どうした?顔色がすぐれないみたいだけど、気分でも悪い?」
自分が真相を知ってしまったことを見抜かれたくなかった瑠璃は、必死に感情を押し殺し、顔を背けて答える。「ちょっと生理が辛くて……」
すると、蓮がすぐに焦った表情を浮かべた。「なんで早く言ってくれないんだよ。待ってて。今からお湯を沸かして、何か温かい飲みものでも作ってあげるから」
彼は慣れた手つきでエプロンをつけ、急いでキッチンへと向かった。
すぐに湯気の立つハニーレモンティーが、瑠璃の目の前に差し出された。以前と変わらず、優しく彼女のお腹もさすり続けている。
「まだ痛い?これを飲んだら、もうゆっくり休んだほうがいいよ」彼の声は蕩けそうに優しい。
そんな本気で自分を心配しているような男を見て、瑠璃の心はちぎれそうだった。
蓮、そんなことをしてももう遅いよ。
あの動画を見なければ、この献身的な男が、裏で自分を「汚い」と思っていたなんて、いくら言われても信じられなかっただろう。
情けなくも、再び涙が溢れて落ちてきた。
痛みのせいで瑠璃が泣いていると思った蓮は、心を痛め、力強く彼女を抱きしめた。「大丈夫だよ、瑠璃。俺はここにいるからな」
瑠璃が落ち着き、蓮がそっとその腕を離す。しかしその後、蓮が、先ほどまで着ていた高価なオーダーメイドスーツをさっと使用人に渡し、小声で命じていたところを、瑠璃は見てしまった。「捨ててくれ」
使用人が驚いて聞き返す。「旦那様。このスーツはかなり高価なものですし、まだ一度しか着ていらっしゃいませんよね?」
少し苛立った様子の蓮が、再び繰り返した。「汚れたんだ。捨てろ」
汚れた。
また、これか……
その言葉が毒針のようになって、傷だらけの彼女の心臓を再び貫く。
ただ抱きしめただけで、服が汚れたと感じるなら、自分と暮らしてきたこの長い歳月は、彼にとって苦行でしかなかったのだろう。
瑠璃は下唇を噛み締めて、感情を殺す。
蓮が何事もなかったかのように戻ってきた姿を眺め、瑠璃は絶望を感じた。
蓮。そこまで隠せるなんて、むしろ尊敬するよ。
分かった。これほど私を汚いって思うなら、もう二度とあなたの視界に入るような真似はしない……あなたの世界から消えてあげるから!
瑠璃の元気がないのを見て、翌日、蓮は会社の仕事を休み、瑠璃をチャリティーオークションに連れて行った。
会場では様々な食事が用意されていたが、瑠璃は何を食べても味がしなかった。
瑠璃があまり食べていないことに気づいた蓮は、秘書の一人である坂本に電話をかけ、瑠璃が好きなパンを買いに行かせる。
しかし、パンを持って慌ただしくやってきたのは、なぜか奈美だった。
蓮の表情が変わり、彼が少し声を低めて言った。「俺は坂本に買ってくるように言ったんだけど……坂本は?」
仕事着に身を包んだ奈美が頭を下げる。「坂本さんに急用ができたということで、近くにいた私が届けに来たんです……」
蓮は瑠璃をちらりと見て、疑われることを心配したのか、それ以上は何も言わず、一言だけ言った。「そこに置いておけ」
そしてすぐに瑠璃へと、優しい笑みを向ける。「瑠璃、少しは何かを食べておいたほうがいいよ。ほら、これ。お前が一番好きなやつ」
瑠璃は自分に手渡されたパンを見てから、蓮に視線を戻した。
その瞬間、瑠璃は見てしまった。蓮の瞳に一瞬だけ浮かんだ別の誰かに向ける気遣い……
どうやら、奈美を心配しているらしい。
このパンを手に入れるには、かなり並ばなくてはならないし、ここからはかなり遠い場所にある。だから、奈美がそんな苦労をしてしまったことを、蓮は気に病んでいるのだ。
馬鹿馬鹿しい。
昔、自分が一言「あの店のパンが食べたい」と言っただけなのに、真夜中に家を抜け出し、わざわざ何時間も並んで、まだ温かい焼き立てのパンを自分に届けてくれたあの少年。なのに今では、彼自身のせいで苦労をしてしまった他の女のために、心を痛めている。
しかし、瑠璃の心は傷つきすぎて、すでに痛みを感じなかった。
何も言わずパンを一口齧る。やはり、いくら好きなものとは言えど、今はゴムを噛んでいるようで全く味がしない。
オークションが始まると、奈美は秘書として蓮のそばに立っていた。
ある令嬢にワインを注ぐ際、奈美は不注意で相手方のドレスを汚してしまった。
焦った奈美は何度も頭を下げて謝り続ける。
しかし、令嬢が眉を吊り上げ、いきなり奈美の頬を叩いた。
「どこに目をつけてるわけ?ワインすらまともに注げないなんて!しかもこのドレス、世界に数着しかないものなのに。そんな安物のスーツを着ているあなたみたいな人に、弁償できるの?!」
頬を押さえながらも、涙を浮かべて何度も謝る奈美。しかし弁償することは不可能だった。
令嬢は奈美に怒りをぶつけていたが、しばらくすると怒りながらその場から去っていった。
瑠璃は冷めた目で一部始終を見守っていたが、ふと蓮に視線を向けてみた。
彼はその場でじっとし、奈美を庇おうとはしなかった。しかし、唇を固く結び、険しい表情で、視線は常に奈美を追い続けている。
蓮は堪えていたのだ。
第4話
それからすぐに、今回のオークションの目玉である、眩い輝きを放つブルーダイヤモンドのネックレスが登場した。
蓮は瑠璃を喜ばせるため、他のすべての入札者を圧倒する高値を一瞬で提示し、規格外の値段で競り落とした。
会場がどよめきに包まれ、多くの羨望の眼差しが瑠璃に集まる。
「九条社長は奥様を本当に溺愛してるみたいね」
「ええ、本当に理想の夫婦だこと」
しかし、スタッフがネックレスを運んできた時、蓮はいつもと違って、瑠璃の首にそれをかけようとはしなかった。
ちらりとネックレスを見ただけで、瑠璃に優しく語りかけた。「瑠璃、このネックレス……少し傷があるみたい。傷がついているものなんて、お前にはふさわしくないから、次はもっと良いものを見つけてあげる」
そう言うと、蓮は支払いの手続きのために席を立ち、その場を離れた。
瑠璃が彼の背中を見送っていると、いつの間にか奈美も姿を消していることに気がつく。
冷たい笑みを浮かべ、瑠璃もその後を追った。
やはり、彼らは控室にいた。ドアが少し開いていたので、瑠璃はその隙間から中の様子を覗き見る。
先ほど「傷がある」と言っていたあのネックレスを、蓮が優しく奈美の首にかけてあげていた。
冷たいダイヤに触れながら、奈美は不安そうに言った。「こんな高価なもの……瑠璃さんじゃなきゃ似合わないよ……」
そんな彼女の言葉を蓮は遮り、強引ながらも甘やかすような言葉をかける。「俺が似合うって言ってるんだから、似合うに決まってるだろ?」
そう言って奈美の頬を撫でる蓮の瞳には、瑠璃がこれまでに見たこともないほどの深い愛おしさがこもっていた。「お前のスーツを安物だと馬鹿にしたやつがいただろ?だったら、俺が味方になってやる」
感動のあまり目を潤ませた奈美が、爪先立ちをして蓮に唇を重ねた。
蓮もそのまま彼女の腰を抱き寄せ、深く口づけを交わす。
少しして、甘い吐息を漏らしながら、奈美が蓮を押し返した。「だめ……ここじゃだめだって……瑠璃さんが待ってるでしょ……」
しかし蓮はもう押さえられないようで、奈美の顔を包み込むと、少し苛立たしさを滲ませた低くかすれた声で囁いた。「今はあいつのことなんてどうでもいい……いいから、俺とのことに集中しろ……」
そう言うや否や、彼は再び深い口づけを奈美に落とした。
お互いしか見えていないようで、激しくお互いの唇を求め合う二人。
瑠璃は大きな観葉植物の陰に隠れ、嗚咽を漏らさないよう必死で自分の口を塞ぐ。
胸の奥が引き裂かれるように激しく痛み、立っていられなくなった瑠璃は、冷たい壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
そしてそのまま後ずさり、背を向けると、なんとか力を振り絞り、息が詰まりそうなその場から一目散に逃げ出した。
一人で車に戻った瑠璃の体は、冷え切っていた。
どのくらい経った頃だろうか。蓮が、頬を赤らめ、気まずそうに目を泳がせる奈美を連れて戻ってきた。
「瑠璃、待たせてごめん。ちょっと仕事のトラブルがあってさ」蓮が平然とした顔で嘘をつく。
瑠璃は爪が食い込むほどの力で手のひらを握り締め、必死に感情を押し殺し、その不愉快な嘘を暴きたい衝動を堪えた。
なんとか声を絞り出し、「うん」とだけ答える。
あからさまに安心した様子を見せる蓮は、道中ずっと瑠璃の体調を気遣うなど、この上なく甲斐甲斐しかった。
しかし、瑠璃は目を閉じ、眠ったふりをして、彼と言葉を交わすことを一切拒絶した。
だがしばらくすると、衣類が擦れ合う微かな音に混じって、必死に押し殺しているような吐息がすぐ隣から聞こえてきたのだ。
「んっ……蓮さん……だめ……瑠璃さんが隣にいるんだよ……」甘ったるい奈美の声だ。
「大丈夫……瑠璃は眠っている……」抗う余地を与えない、蓮の低く掠れた声……
瑠璃ははっと目を開けた。
隣のシートで行われている出来事が、はっきりと夜の車の窓に反射している。
彼らはあろうことか、狭い車内、それも自分のすぐ隣という場所で、激しく身体を重ね合わせていたのだ!
第5話
強烈な屈辱と痛みが津波のように瑠璃を飲み込んでいく。呼吸が乱れ、身体も震えたが、叫び出しそうなのを必死にこらえた。
その瞬間、嗅いだこともない女性用の香水の香りがするコートが、無造作に投げつけられ、瑠璃の顔を覆った。
この香りは、奈美の香水!
気持ちが悪い。吐き気がする。これなら、死んだ方がましだ!
瑠璃が壊れそうになっていた、その時――
ドンッ!!!
鼓膜を裂くような音が響いた。
暴走してきた大型トラックが、瑠璃たちの乗っていたロールス・ロイスに激突したのだ。衝撃で車体は制御を失い、横転する。
車体がひっくり返る中、瑠璃は見た。危険を察知するやいなや、本能的に蓮が彼自身の体で奈美をかばった瞬間を……
その反射的な行動は、焼けたナイフで心を刺されたような痛みを瑠璃の心に与えた。
昔は、道を渡る時ですら心配そうに自分と手を繋ぎ、世界で一番大事なものを見るような目で、大切に守ってくれていたのに。
今は……
激痛と絶望に襲われた瞬間、瑠璃の目の前は真っ暗になって、意識が途切れた。
どれくらい時間が経っただろうか。激しい痛みとともに、意識が少し戻った。
外から、蓮が枯れた声で叫んでいるのが聞こえた。「瑠璃!瑠璃!」
必死に目を開けると、変形した窓越しに、蓮が自分を助けようとしている姿が見えた。彼自身も怪我をしていて、顔は見たこともないほど怯えた表情を浮かべている。
しかし、そんな蓮に奈美がしがみつき、泣き叫んでいた。「蓮さん!行っちゃ駄目!危険だよ!車が爆発する!救急隊を待った方がいいって!」
「そんなの待っていられない!」蓮は目を血走らせ、奈美を振り払った。「もし瑠璃が死んだら……俺は生きていけない!」
変形した車体の中でその「愛の告白」を聞き、瑠璃は激しい嫌悪感を抱いた。
今さっきまで、自分の横で別の女と体を重ねていた男が、よくもそんな白々しい嘘を吐けるものだ。
この状況に酔いしれてでもいるのだろうか?
結局、蓮は決死の覚悟で壊れた車へと向かい、いつ爆発してもおかしくない状況の中、なんとか瑠璃を引きずり出した。
彼が瑠璃を抱えてその場から離れた瞬間――
ドンッ!!!
轟音とともに火柱が上がった。瑠璃たちの乗っていたロールス・ロイスが、瞬時に巨大な炎と化す。
蓮は瞬時に瑠璃の上に覆いかぶさり、その背中で全ての衝撃と熱波を受け止めた。
伝わってくる体温と重さを感じながら、痛みとあまりの不条理さに、瑠璃の意識はまた深い闇へと沈んでいった……
目が覚めると、瑠璃は病院にいた。
蓮がベッドのそばに座っていて、彼の顔には青髭が生え、目は真っ赤に充血している。瑠璃と目が合うと、彼は顔を輝かせた。
「瑠璃!気がついたのか!よかった。気分はどう?どこか痛むか?」そして、彼女の手を強く握り、恐怖に震える声で謝り続ける。「ごめん。守ってやれなくて……本当にごめん……」
繰り返される謝罪。後悔と愛情に満ちた彼の表情は、本物のように見えた。
以前なら、感動して彼を慰めていただろう。
だが今となっては、その言葉も態度も胸には響かない。真実を知ってしまった今、そんな蓮を見ても、胸の奥がじわじわと引き裂かれていくような痛みを感じるだけだった。
何も言わず、ただ静かに蓮を見つめる。
気まずさを感じた蓮は、すぐにナースコールを押した。
診察を終えた医者が感心したような声を出す。「いやぁ、命拾いしましたね。それに、旦那さんも背中にあんな酷い火傷を負っているというのに、目が覚めるまでずっと付き添われて……とてもいい旦那さんじゃないですか。こんな旦那さん、滅多にいませんよ」
医者の言葉と、心配そうに自分を見つめる蓮の顔を見て、瑠璃は強い吐き気を感じた。
目を閉じ、苦しみと皮肉、そして今にもあふれそうな涙を、心の底へと深く押し込んでいく。
自分を愛してると言うのも、自分を汚らわしいと言うのも……この男。
そして、命懸けで自分を爆発から庇ったのも、自分の目の前で他の女を守っていたのも……やはり、彼だった。
蓮、一体いつまでこんなことを続ける気なの?
第6話
それから数日間、蓮はずっと瑠璃に付き添い、かいがいしく看病をした。
食事を口に運んだり、体を拭いてやったり、ニュースを読み聞かせたり。まるで、今でも彼女を心から愛しているかのように、心の限りを尽くしていた。
ただ、時折トイレに立ったり、荷物を取りに行ったりするたびに、蓮は携帯を取り出しては手早くメッセージを返していた。画面を見つめるその表情は、時に眉をひそめ、時にふっと緩む。
そのたび、彼は自然な調子で瑠璃に言った。「仕事で少し急用ができちゃって。すぐ片付けるから」
瑠璃はただ「うん」と力なく答えるだけで、そっと目を閉じて寝たふりをした。
彼が何を見ているのか、瑠璃は全て知っていた。
その「急用」の正体は、奈美から送られてくる、露骨に誘惑するような写真の数々。なぜなら、それとまったく同じものが、瑠璃の携帯にも送られてきていたから。
奈美は瑠璃を傷つけることを楽しんでいるかのようだった。手に入れた勝利を誇示するように、その事実を次々と見せつけてくる。
だが、瑠璃の心はとっくに傷だらけで、もう痛みなど感じなかった。
すべての手続きが終わり、この苦しみから解放される日を静かに待つだけ……
雲ひとつない天気のいい日、瑠璃は退院した。
退院の手続きを済ませた直後、瑠璃の携帯に霊園の管理事務所から電話が入った。
大雨が続いたせいで両親の墓が崩れてしまい、すぐに別の場所へ移して直す必要があるという。
その知らせは、ただでさえ傷ついていた彼女の心に、さらに重くのしかかった。
両親は、瑠璃にとって何よりも大切な存在だった。だからこそ、触れることが怖かった。
蓮も、当然のように付き添ってくれた。
しかし、彼が車のドアを開けた瞬間、瑠璃は息を呑む。なんと助手席に、奈美が座っていたのだ。
「瑠璃さん」奈美が振り返り、仕事用の完璧な笑みを浮かべた。しかし、その瞳の奥には得意げな色が浮かんでいる。「今日は遠出をするから、車内でも仕事ができるようにと、九条社長の方から指示がありましたので、私も同行させていただきます」
蓮はきまずそうに、小さな声で言い訳をした。「瑠璃、仕事が溜まってて……大目に見てほしい」
瑠璃は爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめ、痛みで必死に冷静さを保った。
何も言わず、後部座席のドアを開けて車に乗り込む。
車が走り出すと、蓮はバックミラー越しに何度も瑠璃に話しかけた。「瑠璃、そんなに落ち込むなよ。俺はずっとそばにいるし、何があってもお前を支えてやる。全部俺に任せろ、な?」
その声は優しく、人を安心させるような温もりに満ちていた。
以前の瑠璃なら、彼に甘えるように寄り添い、その優しさを思う存分享受していただろう。
しかし今の彼女は、ただ人形のように、無言で車窓を流れる景色を見つめていた。
凍てついた瑠璃の心に、蓮の言葉はもう一言も届かない。
霊園に到着した時、今にも雨が降り出しそうな重い雲が空を覆っていた。
係員が崩れてしまった墓石から瑠璃の両親の骨壷を慎重に取り出す。
退院したばかりで体力が落ちていた瑠璃にとって、二つの骨壺を抱えるのは少し辛かった。
それに気づいた奈美が、手を伸ばして近寄ってきた。「瑠璃さん、持ちますよ!」
瑠璃は反射的に身を引こうとした。だが奈美は足を滑らせたかのようによろめき、その瞬間「偶然にも」その手が、瑠璃の持っていた骨壷に当たってしまった。
ガシャンッ――!
精巧な模様が描かれた骨壷が泥まみれの地面に叩きつけられ、真っ白な遺灰が地面に飛び散る。
その瞬間、まるで世界の時が止まったかのようだった。
目の前の光景に、瑠璃は頭が真っ白になり、全身の血が凍りついた。
「何してるんだ!!」蓮の激しい怒鳴り声が周囲に響き渡る。
蓮はすさまじい勢いで奈美に詰め寄ると、その頬を激しく殴りつけた。
鋭い音が静まり返った霊園に大きく響いた。
「何やってるんだ!こんな簡単なこともできないのか!」蓮は青筋を立て、これまで見せたことのないほどの凶暴な目つきで奈美を睨む。「どけ!」
奈美は殴られてよろめき、頬を押さえながらすぐに涙を流したが、声を出す勇気はなかった。
蓮は奈美に見向きもせず、すぐに瑠璃の方へ駆け寄ってきた。「瑠璃!大丈夫だから。心配するな。すぐに新しい骨壺を買ってくるから、ここで待ってて。すぐ戻るからな!」
そう言い終えると、彼は奈美をキッと睨みつけ、急いで霊園の外へと走っていった。
奈美は腫れた顔を押さえながら、恨めしそうに瑠璃を睨むと、彼の後を小走りで追いかけていった。
泥にまみれていく両親の遺骨を見つめながら、瑠璃はその場に立ち尽くしていた。心臓をえぐり取られるような痛みに、息をすることさえ苦しい。
しゃがみ込み、無駄とは分かっていながらも素手で遺灰を拾い集めようとした。
しかし、運の悪いことに、激しい雨が降り始めた。
大粒の雨が地面を叩き、強風を伴う雨水が無慈悲にもすべてを流していく。
「やめて……お願いだから……」瑠璃は半狂乱になり、全身で雨風を遮って大切な遺灰を守ろうとした。
だが、雨と風はあまりにも激しすぎた。
華奢な瑠璃の身体で防げるはずもなく、両親の遺灰が冷たい雨水に流され、泥水に混ざっていくのを、ただ呆然と見守るしかなかった。
わずかな時間で、地面からは何もかもが洗い流され、瑠璃にとって何よりも大切だった二人が存在した証が、これで完全に失われてしまったのだ。
絶望と深い哀しみが、氷のような雨とともに彼女の身体を容赦なく濡らす。
どれほどの時間が経ったのだろう。全身ずぶ濡れになり、震える身体で彼女は魂が抜けたように、ふらふらと階段を下り始めた。
さすがに遅すぎる蓮の様子を見に行こうとしたのだ。
しかし、階段の途中の鬱蒼とした茂みを通りかかったその時、激しい風雨に混ざって、何やら艶めかしい甘い吐息が聞こえてきた。
瑠璃は引き寄せられるように、濡れた葉をそっとかき分けた。
その瞬間、瑠璃は衝撃を受け、完全に固まってしまった。
第7話
茂みの中で、蓮が奈美を太い木の幹へ押しつけていた。その手つきは荒々しく、声には苛立ちが滲んでいる。「こんな時に、そんなことするのか?!」
奈美の服は乱れ、頬には赤い指の跡が残っていた。それでも彼女は艶っぽい眼差しを向け、蓮にしがみつく。「蓮さん……誘ってるんじゃないの。ただ怖かっただけ……このことで、あなたに見放されるんじゃないかって……だから、ちゃんと謝りたかったの」
「謝りたい?」蓮が小さく笑った。その声は、先ほどよりずっと柔らかい。「確かに腹は立った。でも、今はこうして……お前が俺の機嫌を取ってくれてるだろ?」
彼は奈美に顔を近づけ、自分が叩いて赤くなっている頬に優しくキスをした。
「痛いか?瑠璃がいたから、さっきはお前にあんな風に当たってしまった……ごめんな」蓮は彼女の髪を撫で、低い声で言った。
「後で……たっぷり埋め合わせをしてやるからな、ん?」
「うん……」奈美が満ち足りた表情で彼の胸に顔を埋めた。
その様子を見ていた瑠璃は、目眩と立ちくらみを覚えた。全身の力が一気に抜け落ちていく。
自分がどん底に突き落とされていたその時。両親の遺灰が雨に流され、何ひとつ残らなかったその時に……蓮は、すべての元凶である奈美と一緒にいた。しかも、人目のない茂みの中で。自分の苦しみなどなかったかのように、二人だけの世界に浸っていたのだ。
それにあろうことか……彼自身が奈美を叩いたことで、心を痛めている。
あまりの馬鹿馬鹿しさと突き刺さるような痛みに、瑠璃は立っていられなくなった。背を向けて逃げようとしたその時、足元を滑らせ——
「あっ!」
バランスを崩し、濡れた石の階段を瑠璃はそのまま転げ落ちていった。
後頭部を階段の角に強打し、激痛とともに目の前が真っ暗になっていく。
目を覚ますと、そこは自宅の見慣れた大きなベッドの上だった。
瑠璃が目を覚ますと、ベッドのそばに座っていた蓮はすぐにその手を握り、焦りと後悔が浮かんだ顔で瑠璃を見つめた。「瑠璃!やっと起きた!ごめん、全部俺のせいなんだよ」
焦ったように言い訳を始める。「遺骨入れを買いに行っていたんだけど、もどってくる道で車が急に動かなくなって。しかも豪雨だっただろ?それで戻ったときにはもう……階段でお前が倒れてたんだ……」
血の気のない瑠璃の顔を見つめ、蓮は宥めるように続けた。「そんなに気に病むことはないよ。人間はみんな、死ねば灰になる……天国にいるお父さんとお母さんも、きっとお前を責めたりはしないよ」
綻びだらけの嘘と、必死に作る心配そうな表情。瑠璃の心は、無数の針で刺されるように激しく痛んだ。それは、身を丸くしたくなるほどの痛みだった。
彼女は何も答えず、ただ静かに背中を向けて目を閉じた。
それを、両親の遺灰を失った深い悲しみのせいだと思った蓮は、その日から瑠璃を喜ばせるために様々なことをした。
仕事をすべて断り、自ら料理を作る。花屋の花を買い占めては、寝室を花の海にし、海外の楽団を呼んでは、瑠璃のためにコンサートまで計画した。
使用人たちが羨ましそうに呟く。「旦那様は本当に奥様思いなんですね」
だが、その一つ一つの優しさが、彼女の血を流す傷口に塩を塗り込む行為であることは、瑠璃しか知らない。
そんなある日、蓮にかかってきた一本の電話が平穏を打ち壊す。
奈美の家に強盗が入り、さらには奈美も数カ所を刺されて瀕死の状態で病院に運ばれた、という内容が瑠璃にも聞こえていた。
電話を握る蓮の手がガタガタと震え、表情が一気に凍りついていく。
電話を切った彼は大きく息を吸い、瑠璃へ強引に微笑んでみせた。「瑠璃、会社で緊急の国際会議が入っちゃったから、行かなきゃならないんだ。すぐ戻ってくるから」
蓮の隠しきれない焦燥感を見つめながら、瑠璃は馬鹿馬鹿しいと思っていた。
だから、特に何も言わずに、淡々と頷くだけ。
ちょうどいい。彼がいなくなれば、自分もここを離れる準備を静かにできる。
すでに業者には連絡済みだ。この苦しみに満ちた家を売り払い、離婚が受理されたら自分はこの街を出る。二度と彼には会わない。
その日、瑠璃は用事を済ませて帰路についていた。しかし、人通りの少ない路地に入った瞬間、背後から急に麻酔薬を含ませた布で口と鼻を強く塞がれた。
助けを呼ぶ暇もなく意識が朦朧としていき、彼女の体はその場に力なく崩れ落ちた。
次に目覚めたのは、消毒液の臭いが漂う見知らぬ場所だった。
ベッドに縛り付けられ、口もガムテープで塞がれている。くぐもった呻き声をあげることしかできない。
すると、近くから低く押し殺した声が聞こえてきた。
蓮と、彼の親友である陣内湊(じんない みなと)だった。
湊の驚愕に満ちた声が響く。「蓮!お前正気か?!なんで瑠璃をこんなところに連れてきたんだよ?!」
反対に、蓮の声は冷たく恐ろしいほど躊躇いが感じられなかった。「奈美が刺され、腎臓が壊れた。今すぐ移植が必要なんだよ。適合するのは瑠璃の腎臓しかない」
第8話
「はぁっ?!」湊が息をのんだ。「お前……あんなに瑠璃を大切にしてただろ?以前は指に小さな切り傷がついただけでも、まるで大怪我みたいに取り乱してたのに、今は奈美のために、隠れて彼女の腎臓を奪おうっていうのか?俺の聞き間違いだよな?」
湊は蓮を鋭く睨みつけた。「正直に答えろ。お前、本気で奈美に惚れてるのか?!」
部屋の空気が張り詰める。
あまりに長い沈黙だったため、瑠璃はもう答えは返ってこないと思った。
すると、耳慣れた、しかしどこか見知らぬ人のような蓮の声が聞こえてきた。そこには微かな開き直りが混ざっている。
「惚れてるからって、それが何だって言うんだよ?」
蓮は一呼吸置き、当然のことだと言わんばかりに続けた。
「愛と体の関係は、切り離せるものじゃない。それに、この数年、ずっと俺のそばにいて、体を重ねてきたのは奈美だ。そんな相手に惹かれたとしても、不思議なことじゃないだろ?
瑠璃のことは……」
彼の声が低くなった。彼自身でも気づいていないであろう苛立ちと嫌悪感が漏れている。
「愛していないわけじゃない。ただ……あいつのことは汚いって思ってしまうんだよ。だから触れることはない。それで……自然と情も無くなる。
このことはもういい。これ以上聞くな」
蓮は話題を切り上げるように冷たく言い放った。
「奈美に時間は残されてないんだ。手術が終わって瑠璃が目覚めたら、拉致されて腎臓を奪われたと伝えてくれ。怪しまれないようにな。
後で……きちんと償うつもりだから。
奈美に惚れてるけど、瑠璃への情まで消えるわけじゃない。だから、この件……隠し通す」
隠し通す……
奈美に惚れてる……
あいつのことは汚い……
自然と情も無くなる……
その一言一言が熱い鉄の塊のように、瑠璃の耳を焼き、心を突き抜けた。
蓮は自分を汚らわしいと嫌い、浮気をするだけでなく、他の女に本気になっていたのだ。
10年間、彼に愛されていると信じていた。しかし、自分などの都合よく取り出せる臓器を持ち、新しい女を喜ばせるための……ただの「道具」に過ぎなかったのか?!
耐え難い痛みとあまりの屈辱に、瑠璃は喉が裂けるほど叫びたかった。
しかし口は塞がれ、子猫が鳴くような絶望的な鳴き声しか出せない。溢れる涙が、目隠し用の布を濡らしていく。
必死に抵抗しても無駄だった。足音が近づいてきたかと思うと、冷たい針が肌を突き抜けた。麻酔液が血管に流し込まれる……
意識が遠のく中、あの日の記憶がよみがえってきた。16歳のまばゆい午後の日差しの中で、少年が赤面しながら「瑠璃、好きだ!」と叫んだあの記憶。
場面が変わると、観覧車で指輪を差し出し、「結婚してくれ」と緊張しながら言った彼の姿。
永遠だと信じていた愛は、月日が流れる中で彼の偏見によって腐り落ちていった。今では、瑠璃の心臓を突き刺し、臓器を奪い去る一番鋭利な刃物へと変わり果てている!
潮が満ちるような暗闇が、完全に瑠璃を飲み込んでいった……
目が覚めると、そこは病院のベッドの上だった。
腰に走る刺すような痛みが、自分が何を失ったのかを告げているような気がした。
ベッドサイドには蓮がいて、瑠璃が目を開けると、すぐさま寄り添い、申し訳なさそうな顔を向ける。
「瑠璃、気がついたか!ごめん、俺が情けないばかりに……お前を守れず、拉致犯なんて奴らに……」
彼は彼女の手を握りしめ、掠れた声で続けた。「安心しろ。犯人は刑務所に叩き込んでやったからな。絶対に一生を懸けて、この罪を償わせてやる!」
瑠璃は蓮を見つめた。自分の腎臓を抜き取らせ、今また目の前で悲劇の主人公を演じるその姿に、足先から凍りつくような冷たさを感じる。
いっそのこと死んでしまおうかとさえ思った瑠璃は、一言も話す気力はなく、疲労と共に目を閉じた。
その後の数日間、蓮は相変わらず、至れり尽くせりの献身ぶりだった。
しかし、彼が毎晩深夜になると、煙草や仕事といった理由をつけて長時間病室を空けることに、瑠璃は気づいていた。
ある日、瑠璃は傷の痛みに耐えながら、こっそりと後を追ってみた。
案の定、特別病室のドア越しに、奈美に優しくスープを飲ませる蓮の姿を見つけた。その手つきはどこまでも優しく、二人の距離はあまりにも近い。そして、見つめ合う眼差しには、隠しきれない親密さが滲んでいる。
だが、不思議なことに、そんな光景を目の当たりにしても、瑠璃の心はかつてのように激しく痛むことはなかった。
痛みがなくなったのではない。
痛みが極限に達し、感情が麻痺してしまったのだ。
心が死んでしまえば、もう悲しむことさえできない。
彼女の心は、すでに死んでいた。
彼への愛も、憎しみも、期待も、全てが消えてしまった。
第9話
退院後、蓮は優しく瑠璃に言った。「瑠璃、もうすぐ俺たちの結婚記念日だろ?ちゃんと準備をしたいから、ここ数日は帰れないと思う。お前は、家でゆっくり休んでて」
それからというもの、言葉通りに蓮は一度も帰ってこなかった。
一方で、頻繁に更新されるようになった奈美のSNS。
高級なプレゼントや、豪華なホテル、さらにはプライベートビーチの写真まで。添えられた文章も匂わせるような内容で、恋に浮かれた女の自慢げな雰囲気があふれている。
どの写真にも男性の顔こそ写っていないものの、骨ばったその手と、腕に光る高価な時計から、それが蓮であると瑠璃は一目で分かった。
しかし、そんな投稿を見ても、瑠璃の心が波立つことはなく、むしろ少しおかしくて笑えてきた。
彼女は黙々と荷造りを進め、解放の瞬間をただ静かに待ち続ける。
結婚5周年を迎えた朝、ついに一本の電話が入った。
「もしもし。九条瑠璃様のお電話でお間違いないでしょうか?こちら、法律事務所の者です。
離婚に関するお手続きがすべて完了し、離婚届も無事受理されましたので、ご報告のお電話を差し上げました。また、離婚届受理証明書を当事務所でお預かりしておりますので、ご都合のよい時にお立ち寄りください」
電話を切ると、瑠璃は深く息を吐き出した。
ついに……終わった。
まとめていたキャリーケースを手に、迷わず家を出る。
その時、蓮からのラインが届いた。
【今夜7時、ホテル・プラチナムの展望レストランを予約したよ。記念日ディナーとサプライズを用意してる。待ってるからな】
メッセージを眺めながら、瑠璃の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。
サプライズ?
こっちもあなたに「サプライズ」があるんだよ。
気に入ってくれるといいな。
そのメッセージに返信はせず、すぐに離婚届受理証明書を受け取りに行くと、そのままタクシーで空港へと向かった。
携帯はそのまま空港まで見送りに来てくれていた友人に渡す。
「これ、代わりに処分しておいてくれる?」
友人との別れを惜しんだ後、瑠璃は振り返ることなく搭乗ゲートへと向かった。
時を同じくして、ホテル・プラチナムの最上階では、特注のタキシードに身を包んだ蓮が瑠璃を待っていた。ロマンチックな演出の数々、巨大なハートの薔薇にキャンドルの光、そして心地よいバイオリンの音色……何もかもが完璧だった。
ただ、主役の瑠璃だけがいない。
時刻は無情にも過ぎていき、とっくに7時を回っていた。
蓮の中での期待が次第に焦りへと変わり、何度も時計を見ては瑠璃の携帯に電話をかける。
1度目、応答なし。
2度目、3度目……やはりつながらない。
言葉にできない不安が、冷たい蔦のように彼の心臓へ巻きついていく。
何度目かわからないコールで、やっと電話がつながった。
「瑠璃!どこにいるんだ?どうしてまだ来ないんだよ?」
しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、知らない女の声だった。
「瑠璃に何の用なの?」
蓮の心臓がどきりと鳴った。「お前こそ誰だ?この携帯の持ち主はどこにいる?!」
「瑠璃はもうこの街にいないよ。それに、この携帯も捨ててくれって言われてるから、これ以上瑠璃に迷惑かけないであげて」
この街にいない……携帯を捨てる……
その言葉がまるで雷のように、蓮の心臓を打ち抜いた。
その瞬間、頭が真っ白になり、彼はパニックに陥った。
瑠璃はどこへ行くんだ?どうして他人なんかに携帯を渡したんだ?
いや、そんなはずはない。きっと盗まれたんだ。
そうだ、そう違いない。きっと家で俺を待っているんだ。
蓮は車の鍵を掴み、狂ったようにホテルを飛び出すと、猛スピードで家へと戻った。
「瑠璃!瑠璃!」大声で叫びながら扉を開ける。
しかし、彼に応えるのは、ひっそりとした家の静寂のみ。
リビングからは、瑠璃がそこにいた痕跡が一つ残らず消えていた。
花瓶のアイリスは枯れ、ソファにあったブランケットもなくなっている。空気中に漂っていた……瑠璃の身体から香る、蓮が愛してやまなかったあの香りさえ消えていた。
家の中が、冷たい墓場のようにしんと静まり返っている。
その時、彼の視線がリビングのテーブルに止まった。
そこには、一通の書類と、メモが置かれていた。
震えた手で確認すると、それは離婚届受理証明書だった。
役所の正式なホログラムと、彼ら二人の名前。
まるで火傷でもしたように証明書を投げ捨て、蓮はすぐさま書き置きを掴んだ。
そこには、きれいな字でこうとだけ記されていた。
【蓮、私は汚れてなんかないよ。汚いのはあなたの方】
雷に打たれたように、蓮はその場で立ち尽くした。耳鳴りも止まらない。
私は汚れてなんかない?汚いのはあなた?
一体どういう意味だ?瑠璃はなぜこんなことを書き残したのか?
蓮が動揺のあまり、混乱の中にいたその時——
ピッ。
突然、リビングの大型テレビが何の前触れもなく動き出した。
画面には、鮮明な映像が映し出される。
場所は高級ホテルの部屋、オフィス、さらには、あのロールス・ロイスの後部座席まで。
画面の中では、蓮と奈美が絡み合うように身を寄せ合っていた。あまりにも生々しいその映像に、蓮は目を背けたくなる。それでも、二人の笑い声や甘く囁き合う声は、静まり返ったリビングに嫌というほど響き渡っていた。