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流産した私は天才ピアニストへの華麗な転身
上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だ...
Chương (1)
第1章
上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だけは別だ、と。
律は己に厳しく、品格を何より重んじる男だった。そして、彼の眼差しが向く先は、学生時代から連れ添い、妻となった神谷紗雪(かみや さゆき)ただ一人。
しかし結婚して5年目、紗雪のもとに、律に愛人がいるという知らせが届く。
送られてきた写真を見た瞬間、紗雪は固まってしまった。
なぜならその愛人というのが、誰もが想像するような若く美しい女性でもなければ、仕事で成功を収めた魅力的な女性でもなかったのだ。
第1話
上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だけは別だ、と。
律は己に厳しく、品格を何より重んじる男だった。そして、彼の眼差しが向く先は、学生時代から連れ添い、妻となった神谷紗雪(かみや さゆき)ただ一人。
しかし結婚して5年目、紗雪のもとに、律に愛人がいるという知らせが届く。
送られてきた写真を見た瞬間、紗雪は固まってしまった。
なぜならその愛人というのが、誰もが想像するような若く美しい女性でもなければ、仕事で成功を収めた魅力的な女性でもなかったのだ。
相手は、離婚歴のある、それも小さな弁当屋の店主。特別な家柄でもなければ、人目を引くような美貌の持ち主でもない。それどころか、律より3歳も年上だった。
だが、その写真の中で律が彼女に向ける眼差しには、隠しようのない深い愛情と優しさが宿っていた。
夜の9時、律が帰宅した。相変わらず、完璧にスーツを着こなした姿で、冷静で近寄りがたいほど整った佇まい。
紗雪は明かりもつけず、リビングのソファに座って彼を待っていた。律が近づいてきた瞬間、彼女は手元にあった写真の束を勢いよく投げつける。写真が床に散らばり、乾いた音を立てた。
「律。どういうこと?」
律が一瞬だけ黙り込んだ。そしてしゃがみ込み、床に散らばった写真を一枚ずつ拾い上げていく。潔癖症気味の彼なら、本来であれば写真についた埃の方を気にするはずなのに、そのとき律が指先でそっと拭ったのは、写真に写る女性の頬についた薄い汚れだった。
律は写真を手にしたまま顔を上げると、静かに口を開いた。「どういう事も何も、彼女のことが好きなんだ」
その瞬間、紗雪は喉を見えない手で締めつけられたように、呼吸ができなくなり、頭の中が真っ白になった。
「好き?」紗雪の声が震える。「じゃあ私は何?律、16歳の夏、あなたが私に告白してくれたとき、耳を真っ赤にしながら、一生私だけを愛し抜く、他の女なんか絶対に好きにならないって言ってくれたよね?」
しかし、取り乱す紗雪の姿を見つめる律の瞳には、微塵も迷いはなく、ただ疲弊だけが浮かんでいた。
「ああ」そして、相変わらず淡々とした、それでいて残酷なほどにも冷たい声で律が続ける。「でもな、紗雪。もう、お前を愛することに疲れたんだよ。
付き合って4年、結婚して5年……俺は9年間お前を愛してきた。いつもお前が機嫌を損ねれば、そのたびに謝った。どちらが悪いかなんて関係なく、とにかくお前に笑ってほしかったから。
お前が好きだといえば、限定版のバッグを買いに、海外まで行ったし、他の女が俺を見れば、お前はすぐに機嫌が悪くなるから、3年も勤めていた女の秘書を、俺はクビにした。
それに、夜中だろうとお前が隣町にあるスイーツが食べたいといえば、夜通し車を走らせ買いに行っただろ?たとえ、次の日に大事な会議があろうとも、ね……」
紗雪はそれが愛で、自分が愛されている証なのだと思っていた。だが今、それらはまるで紗雪が犯した罪のように、律の口から語られている。
「お前のために、俺は自分自身というものを失っていたんだよ。でもな、紗雪……俺だって人間だから、疲れるんだ」
律は少し間を置いて、視線を遠くへと向けた。「3か月前、お前は俺がスイーツを買い忘れたことで怒ったよな?その時、何度謝っても許してもらえなくて、俺は一晩中、お前の部屋の前にいた。
翌朝、もう一度買いに行こうと思ったんだ。でも途中で胃痛がひどくなって……気づいたら、志保さんの店の前で倒れていたんだ。
志保さんは俺に薬を飲ませてくれたし、胃に優しいからって雑炊も作ってくれた。さらに、毎日の仕事で荒れてしまっている、少しカサついた手で俺のお腹をさすってくれたんだよ」
そう話す律の声には、紗雪が今まで聞いたこともないような温かみが感じられた。
「でも、あの日の俺には十分だった。初めて人の温かさっていうものを感じられたから。この9年間で、一番心地よくて、心から安らげた気がした」
紗雪は体が震え、耳鳴りもしている。もう立っていることでさえ難しかった。「一度……たった一度優しくされただけで?私たちの9年間ってそんなものだったの?」
律は再び真っ直ぐ紗雪を見つめると、少し苦しそうな笑みを浮かべる。
「紗雪、お前は美しいし、誰よりも魅力的だ。仕事でも成功しているお前を、俺はずっと誇りに思っていたよ。でも、そんなお前の隣にいると、いつも少し苦しかったんだ。お前に嫌われないように、失望されないようにって、ずっと顔色をうかがっていたから。
それに、志保さんは特別でもなければ、華やかでもない、ごく普通の人。でも、俺がつらそうにしていれば心配してくれるし、疲れていれば俺のことを労わってくれる。彼女といると、俺は自分のままでいられるんだ。初めてなんだ……帰りたいと思える場所ができたことは……」
帰りたいと思える場所?紗雪は心が抉られるように痛んだ。
では、これまで彼が9年間帰ってきていた家は、なんだと言うのか?
「とはいえ、心配しなくて大丈夫だからな。俺はお前と離婚なんてしないよ」そう言うと、律は口調を切り替え、冷静で理性的な経営者の顔に戻った。
「神谷グループには、お前みたいに美しくて優秀で、人前に出しても恥ずかしくない妻が必要なんだ。それに、俺はお前の両親の墓前で、一生お前を守ると誓ったし、これまで積み重ねてきた情もある。そこまで情け容赦なく切り捨てるつもりはないから」
紗雪を見つめる律の目は、澄み切っているのに、まるで二人の間に線を引くように、どこまでも残酷だった。「でもこれから先、俺がお前を愛することはもうない。だから、志保さんとのことにも、二度と口を挟まないでほしい。
あの時の約束を破って、ごめん。もう自分自身の気持ちを抑えられないんだ。でも、これまで、本気でお前を愛してきたことだけは分かってほしい。だから、恨むなら俺を恨め。志保さんは関係ないから」
そう言い残すと、律は真っ青な顔をしている紗雪から視線を逸らし、ためらい一つ見せずに、その場を去って行ったのだった。
紗雪はその場に崩れ落ちたまま、彼の冷たく決然とした背中を見つめていた。まるで雷に打たれたかのように、頭の中が真っ白になる。
9年前、紗雪は誰もが認める学園のマドンナだった。明るく華やかで、人目を引く存在。一方の律も、クールで気品に満ちた学園の王子様。誰もが二人はお似合いだと言った。
そして律もまた、紗雪に心を奪われた一人で、そこから誰もが羨むほど情熱的なアプローチが始まったのだった。
だが、紗雪の両親は仲が悪く、喧嘩ばかりだったので、紗雪は恋愛や愛情というものに対して強い抵抗感を抱いていた。
それでも、そんな紗雪の心を変えたのは、律だった。毎朝欠かさず朝食を届けてくれ、彼女が体調を崩せば、授業を抜け出してまで薬を買いに走ったし、紗雪が誰かに嫌がらせを受ければ、真っ先に彼女の前に立ち、守ってくれた。
そうして律は、惜しみない優しさと根気強い想いで、固く閉ざされていた彼女の心の扉を少しずつ開いていった。
付き合い始めてからも、律の溺愛ぶりは変わらなかった。けれど、愛情のない家庭で育った紗雪は何事も一人で抱え込む癖があり、誰かに頼ることが苦手だった。
だから、他の女性が律に連絡先を聞いているのを見て、どれだけ胸の奥が痛んでも、紗雪は黙ってその場を離れるだけで、問い詰めたり、不満をぶつけたりしたことは一度もなかった。
大学入学共通テストが終わった後のあの春休み。突然の事故で、紗雪の両親が他界した。
押し寄せる悲しみに押し潰されそうになりながらも、紗雪は誰にも弱音を吐かず、涙をこらえ、一人ですべてを背負った。死亡手続き、関係各所への連絡、葬儀の準備……
そんな時だった。卒業旅行で海外に行っていた律が、どこからその知らせを聞きつけたのか、半ば狂ったように帰国してきた。
長旅の疲れもそのままに、葬儀場へと駆け込んできた律は、喪服を着て、やつれ切った紗雪を見た瞬間、その目に涙を滲ませる。
そして勢いよく、冷たくなった紗雪の体を抱きしめた。「紗雪、俺を見ろ!俺だ、律だ!俺の前では、泣いていいんだよ。喚いてもいい、強がる必要なんてない。プライドなんか、全部捨ててしまえ。嫉妬したなら問い詰めればいいし、機嫌が悪いなら俺に当たればいい。
わがままだって好きなだけ言えばいいんだから!俺たちの間に、遠慮なんかいらないんだ。俺はいつだってお前のところへ駆けつけるし、何度だってお前を抱きしめてやる。だから……ちゃんと頼れ。いいな?」
その瞬間、何年もかけ出来上がった紗雪の心の壁は、音を立てて崩れ落ちた。律の肩に顔を埋めたまま、彼女は声を上げて泣きわめいた。
紗雪を硬い殻の中から引っ張り出し、少しずつ人を頼ることを教えてくれた律。
だからこそ、この9年間で、紗雪は気持ちを素直に伝えられるようになり、普通の女の子のように、少し拗ねたり、甘えたりすることも覚えた。なぜなら、律が言ってくれたから……「俺はいつだってお前のところへ駆けつけるし、何度だってお前を抱きしめてやる」と。
だが9年が過ぎ去った今、彼は「疲れた」と言った。
堪えていた涙が一気に溢れ出し、紗雪は声が枯れるまで泣いた。胸が引き裂かれるように痛む。
しかしもうそこには、紗雪が涙を一滴こぼしただけで慌てふためき、優しく涙を拭ってくれていた男の姿はなかった。
先に、「好きだ」と言ってくれたのは、律だった。
なのに、どうして「もう好きじゃない」と、先に言うのも彼なのだろうか?
紗雪は受け入れられなかった。だから、これは律の一時の気の迷いなのだ、と自分自身に言い聞かせる。
翌日、紗雪は丁寧に化粧を施し、小池志保(こいけ しほ)が働く弁当屋へと向かった。
店内では、志保が忙しそうに客の対応をしていた。どこにでもいるような、ごく平凡な女性。洗練されているわけでもなく、どちらかと言えば少し野暮ったい印象さえある。紗雪は黙って席に着くと、一生かかっても使いきれないような金額が書かれた小切手を一枚取り出し、志保の前へ差し出した。
「小池さん。このお金があれば、この先一生不自由なく暮らせるはずですから、もう律には関わらないでください」
志保は小切手を見た瞬間、少し固まったものの、次の瞬間には、瞳を赤く潤ませ、小切手を受け取ることはなかった。
「律くんの奥さん……ですよね?もう、律くんとは会いません。だから……律くんのこと責めないであげてください」
そう言い終えると、志保は紗雪の顔を見ることすらせず、逃げるように背を向け、店の片付けに戻った。
その後ろ姿を見つめても、紗雪の胸は少しも軽くならず、むしろ、得体の知れない重苦しさが胸の奥に沈んでいく。
その日の夜、紗雪の元へ一本の電話がかかってきた。
志保が交通事故に遭ったと言うのだ。志保本人は、幸い命は取り留めたらしい。しかし、そのお腹の子供……律との子供は、もうこの世から去ってしまった。
第2話
紗雪は雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ちすくんだ。
自分でも何にこれほど動揺しているのか、分からない。志保が突然事故に遭ったから?いや、違う……きっと、あの女がすでに律との子供を孕んでたからだろう。
律と結婚して5年間、律はずっと避妊具を使用していたから、二人の間には子どもができることはなかった。
それなのに、律は一緒になって間もない志保と……
1週間後、律が帰ってきた。
彼は何も言わない。問い詰めることも声を荒げることもなく、ただ紗雪には意図が読めない、底知れぬ瞳でじっと彼女を見つめていた。
それから急に紗雪の手を強引に引き、無理やり衣服を脱がせ始める。
「律!何するの!」恐怖を感じた紗雪は、抵抗した。
それでも律は耳を貸さず、そのまま紗雪をベッドに押し倒すと、まるで狂ったように彼女を求めた。
その夜から丸2ヶ月の間、律はまるで人が変わってしまったようだった。
会社にも行かず、志保に連絡をすることもなく、昼夜関係なく紗雪を激しく求め続ける。
一日に何度も、休む暇さえない激しさは、自傷行為にも思えるほどで……
体も心も限界に達した紗雪は屈辱を味わいながらも、心のどこかでは淡い望みを抱いていた。
もしかしたら彼は、深く傷ついているのかもしれない。それとも目が覚めたから、こうやって志保を忘れ、自分の元へ帰ってこようとしているのか?
だから、紗雪は黙ってすべてを受け入れ、されるがままになった。
そんなある日、激しい吐き気に襲われた紗雪は、ある胸騒ぎを覚え、ひとりで病院に行って検査を受けた――結果は妊娠。
まだ平らなお腹をなでる。もしかしたらこの子が、夫婦の間の溝を埋めてくれるかもしれない。
だが、現実はそんなに甘くはなかった。律に妊娠を伝えても、かつてのような優しい表情はなく、その表情は氷のように冷たいものだった。
少しの沈黙の後、彼はボディーガードの一人に目配せをすると、淡々と命令を下す。「こいつを2階から投げ落とせ」
紗雪は自分の耳を疑った。「律、な……何言ってるの?お腹の中には、あなたの赤ちゃんがいるんだよ!」
だが紗雪を見つめる律の瞳には、かつての優しさも、深い愛情も、もう残ってはいなかった。そこにあるのは、怒りと悲しみ……そして、抑えきれない憎しみだった。
「じゃあお前は、あの時、志保さんのお腹に俺の子がいたことを知っていたのか?お前は俺と志保さんの大事な子どもを殺した。お前も妊娠したんだろ?だったら、お前も同じ苦しみを味わえ」
その瞬間、紗雪は悟った。この2ヶ月の律の異常な行動は、すべて復讐の準備だったことを。
志保が子どもを失ったから、自分をまず妊娠させ、その後に流産させることで、償わせる気なのだろう。
まさか、律はこれほどまでに、あの女を愛していたとは……
何か言いたいのに、喉が締め付けられたように声が出ない。
次の瞬間、屈強なボディーガードが左右から現れ、紗雪を捕らえた。
「やめて!律、こんなのは間違ってる!」絶望から、叫び声を上げる紗雪。
しかし、背を向けた律が、振り返ることはなかった。
そのまま2階まで引きずられた紗雪は、勢いよく突き落とされた。
「いやぁああああ!」
全身に骨が砕けたような激痛が走り、下腹部からは温かい血が流れ、紗雪のワンピースを染めていく。
痛い。
すごく痛い。
意識が遠のく中、紗雪は16歳の夏を思い出していた。月明かりの下、耳まで赤くした律が自分に言ってくれた言葉。「紗雪。一生お前だけを愛し抜くよ。他の女なんか絶対に好きにならない」
冷たい涙が、紗雪の目尻からこぼれ落ちる。
彼女はやっと、絶望の中でこの残酷な現実を受け入れた。
この9年間、自分を愛してくれた律はもういない。
もう、二度と戻ってはこないのだ。
次に紗雪が目を覚ました時、そこは病院のベッドの上だった。
見た目こそ変化はないが、そっとお腹に触れると、もうそこに命がないことを、紗雪は直感的に悟った。
しかし、紗雪は泣く事も、喚く事もしない。ただ、心に大きな穴が開いてしまったかのような、虚無感を感じていた。
携帯を取り出し、屋敷の使用人に電話をかけ、淡々と指示を出す。「書斎の引き出しにある木箱を持ってきてくれる?」
使用人が、箱を持ってすぐにやってきた。
中身は、律の署名のみが記された白い紙。
それは、紗雪の18歳の誕生日、律から贈られた誕生日プレゼントだった。
何も書かれていない真っ白な紙にサインをしながら、律は言った。「お前が望むものなら、何でも叶えてやる。そのためのものだ」そう言って彼は、本当にその紙に法的効力を持たせた。彼自身の署名と同等の効力を持つよう手続きを整え、彼女が望めばいつでも使えるようにしたのだった。
今までは、この紙を何よりも大切にしていた。だから、一度も使う機会がなかった。
しかしこうなった今、これを使って、この馬鹿馬鹿しい9年間に終わりを告げよう。
自分は律がいなくたって、生きていけるのだから。
子どもは失ったが、代わりに現実が見えた。
今こそ、律に出会う前の自立していた自分に戻るべきなのだ!
第3話
紗雪は書類に署名をすると、弁護士を呼んだ。
「離婚に関する手続きをお願いします」紗雪の声は、少し恐怖を感じるほど、静かだった。
弁護士が頷く。「承知いたしました。離婚届にはご主人様の署名がありませんので、先ほどお持ちいただいた署名入りの書面を代用したい、ということでよろしいですね?ただ、かなり特殊なケースですので、手続きには一か月ほどお時間をいただくかと思います」
「分かりました」無表情のまま、紗雪は言った。「なるべく急いでください」
弁護士が部屋を出ると、病室には紗雪だけとなった。
そっと目を閉じたが、涙はもう出ない。
心が空っぽになってしまい、悲しむ力さえ残っていなかったのだ。
その時、病室のドアが静かに開いた。
弁護士が戻ってきたのかと思い紗雪が目を開けると、そこには一番会いたくない相手、志保が立っていた。
志保が自分から訪ねてくるとは思ってもみなかった。
「何の用ですか?」紗雪の声が掠れる。
「紗雪さん」相変わらず、気弱でおとなしい雰囲気の志保。その手には、保温ジャーが握られていた。「律くんが、紗雪さんにしたことを聞きました。もし、私がその場にいたのなら、絶対に止めたのに……」
そんな芝居がかった言葉など、聞きたくもなかった紗雪は、冷ややかな目で志保を見つめた。
しかし、志保は涙ぐみながら一方的に話し続ける。
「でも、律くんの気持ちも分かってあげてください。私たちの子供を失った時の律くん、私に抱きつきながら、子どもみたいに泣いていたんです。あの子どもは二人の愛の結晶だったのに、って……それに、律くんは一睡もせずに、何日も私の看病をしてくれて……」
その一つ一つの言葉が、まるで毒を含んだナイフのように、ボロボロになった紗雪の心をえぐっていく。
「もし、そんなことを言いにきたのであれば」紗雪の掠れた声が、志保の話を遮った。「帰っていただけますか?」
すると、怯えたような表情を浮かべた志保が、すぐに手元の保温ジャーを紗雪に差し出す。「ち……違うんです。栄養のあるものを食べて欲しくて、野菜スープを作ってきたんです」
「結構ですので、持ち帰ってください」紗雪は嫌悪を隠さずに、顔を背けた。
その瞬間、志保から怯えるような雰囲気が消え、冷たい表情がその顔に浮かぶ。「そんな……このスープは絶対に飲んでもらわないと……」
次の瞬間、なんと志保が紗雪の顎を掴み、そのままスープを無理やり口へと流し込もうとしたのだ!
「離してください!何をするんですか!」紗雪は必死に抵抗したが、目を覚ましたばかりの彼女にそんな力は残っていなかった。
志保の手が離れると、紗雪はベッドにしがみついて激しく咳き込む。無理やり飲まされたスープは、すごく不快な味がした。
志保はそんな紗雪を眺めながら、ゆっくりと指先を拭い、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた。「お味はいかがですか?おいしいですか?」
紗雪は勢いよく顔をあげ、志保を見つめる。心の中に言いようのない不安が広がった。「野菜スープなんかじゃないですよね……一体、私に何を飲ませたんですか?!」
目を真っ赤に潤ませ、涙をぽろぽろとこぼしている志保だったが、その瞳の奥は、毒蛇のように冷え切っていた。そして志保がゆっくりと口を開いた。
「知ってますか?妊娠2ヶ月の赤ちゃんは、だいたいさくらんぼと同じくらいの大きさなんです。それに、人間の味は豚肉に近く、結構淡白らしいですよ?」そこで、志保が一呼吸置く。「だから、気づかなかったのも無理はないと思いますよ?」
え?
紗雪は雷にでも打たれたのかと思うほどの衝撃を受けた。頭が真っ白になる。
凄まじい吐き気と恐怖に襲われ、ベッドの手すりを握りながら、必死に指を喉に突っ込んだ。今すぐにでも、内臓を取り出して洗いたい。
「うっ、おぇぇ……!」
志保は涙を流したまま、紗雪の苦しみを楽しんでいる。
「辛いですか?私も子どもが駄目だったって分かった時は、とても辛かったんですよ。あなたが私をこの街から無理やり追い出さなければ、私は交通事故にも遭わなかったし、私の子供も死ななかった……
もう律くんはあなたを愛していないんです。なのに、なんで私をこの街から追い出そうとするんですか?」
志保は一歩距離を詰め、憎しみを込めて吐き捨てた。「バチが当たったんです!あなたの子供が死んだのも、あなたへの天罰で当然のこと。あなたが私の子を奪ったことへの天罰ですから!」
「いやあああーーーー!!!」
これ以上は耐えられなかった。ずっと抑え込んできた怒りと屈辱、そして悲しみが爆発する。
紗雪はありったけの力で、志保の頬を思いきり張り飛ばした!
ちょうどその時、病室のドアが激しく開けられた。
第4話
ドアを開けた律は、ちょうど紗雪が志保に平手打ちを叩き込む瞬間を目撃した。
一瞬で険しい表情を浮かべた律が、大股で病室の中へと入ってきて、紗雪を乱暴に突き飛ばした。
ただでさえ意識を取り戻したばかりの紗雪は、バランスを崩し、背中を冷たい壁に強打した。あまりの痛さに息を呑む。
「紗雪!何しているんだよ!」志保を庇うように立っている律が、怒りに震える目で紗雪を睨みつけた。
すると、志保はすぐに律の胸に顔をうずめ、泣きじゃくりながら出鱈目なことを言い始める。「律くん……紗雪さんのこと、責めないであげて。私が悪いの……私なんかがここに来るべきじゃなかったから……」
赤くなった志保の頬を見て、心を痛めた律は、紗雪を再び睨みつけ、声を荒らげた。「紗雪、まさかお前がこんなことする女だったとはな。志保さんはお前のことを心配して、お見舞いに来てくれたんだぞ?なのに、どうしてそんな態度を取るんだ?」
怒りで完全に我を忘れた律は、入り口に控えさせていたボディガードへ冷酷に命じる。「こいつに100発平手打ちをしろ。志保さんを傷つけたんだ。何倍にしてでも、苦しめてやる」
志保がわざとらしく、律を引き止めた。「そんなの駄目だよ、律くん!紗雪さんは意識を取り戻したばかりだし、何より子どもを失ったの。そんなことしたら、体がもたないよ……」
律は志保を強く抱きしめ、紗雪への怒りをあらわにする。「志保さん、あなたは本当に優しい人だ。でも、そんなんだから、いつも付け込まれるんだぞ?今日という今日は、こいつに分からせてやるんだから」そう言って、ボディーガードへと視線を向けた。「おい、お前ら。やれ!」
指示を受けたボディガードが紗雪の方へ詰め寄ってくる。
9年も愛し続けてきた夫が、自分ではない別の女を庇い、自分に対しては無慈悲なまでに残酷だった。
かつて、その手で守られていたのは、紛れもなく自分だったのに!
ボディーガードの手が振り下ろされるその瞬間、紗雪は力の限り叫んだ。心の底に溜まっていた悲痛な叫びが、かすれた声となって溢れ出る。
「律!忘れたの?!あなたが私の両親のお墓の前で何て誓ったか!一生かけて私を守るって、泣かせることは絶対にしないって言ったよね?!これ全部……忘れちゃったの?!」
その瞬間、志保を抱きしめている律の腕がぴくりと震えた。
彼の瞳に一瞬だけ何か複雑な揺らぎがよぎったが、それも、すぐに志保への愛によって打ち消された。
律が疲弊しきった冷ややかな視線を紗雪に向ける。それは、まるで終わりを告げるような目つきだった。
「覚えてるさ」彼は一言ずつ、紗雪の心に楔を打ち込むように告げた。「紗雪、お前を愛していたのは事実だ。
でも、もう愛していないというのも事実なんだよ。
今、俺が愛しているのは志保さんだ。だから、彼女を傷つけたお前には、しっかりけじめをつけてもらう!」
律はそれだけ言うと、絶望に染まった紗雪の顔も見ずに、志保の腰に手を回しながら、病室を出て行った。
重々しい病室のドアが閉まった。その向こうへ消えていく彼の背中は、もう見えない。そしてそのドアは、彼の姿だけでなく……紗雪に残されていた最後の光までも、完全に消してしまった。
バシンッ!
1発目の平手打ちが叩きつけられた。頬が熱く焼けるように痛い。
続けて、2発目、3発目……
しかし、紗雪はもう抵抗しなかった。壊れた人形のように、ただ静かにこの屈辱に耐え続ける。
100発の平手打ち。
それは、律への9年間の愛、そして、夢見ていた彼との未来を、容赦無く打ち砕いていった。最後に残ったのは、愛すら信じられなくなった空っぽの心だけ。
100発目が終わった瞬間、紗雪は力なく床に倒れ伏し、口から真っ赤な血を吐き出した。
赤く染まった床を見つめ、紗雪は力なく笑い声を上げる。それは、悲劇的なまでに痛々しいものだった。
律。
人の真剣な思いを踏み躙ったあなたに、幸せな未来なんて待っていないからね。
第5話
紗雪は1週間の入院生活を送った。
この1週間、彼女は魂が抜けたようだった。決まった時間に食事をし、薬を飲み、治療を受ける。
泣くこともなく、騒ぐこともなく、口を利く事もなかった。
看護師が薬を変えに来ればされるがままになり、使用人が運ぶ食事を機械的に口へ運ぶ。胸に空いた大きな穴は、冷水で満たされているようで、無感情に等しかった。
ひどくどんよりとした曇り空の日、紗雪は退院した。暗い雲が立ち込め、息苦しさを感じる。
退院手続きを済ませた紗雪が、病院の玄関でタクシーを呼ぼうとしていると、そこへ、見覚えのあるロールスロイスがゆっくりと停まった。
窓が開くと、律の冷ややかだが気品溢れる横顔が見え、その横の助手席には志保が座っていた。
まるで、血液が凍りついたかのように、紗雪の体が固まる。
紗雪のやつれた顔が目に入ると、律はわずかに眉をひそめたが、すぐいつもの無表情に戻った。
彼が無意識のうちに志保を引き寄せ、その肩を抱いた。まるで大切なものでも守るように。
「乗れ」その声は、今日の空模様と同じ、微塵も温かみが無かった。
紗雪はその場に立ち尽くし、爪が食い込むほど拳を強く握りしめた。
志保が申し訳なさそうに口をひらく。「紗雪さん、外は風が強いですから、早く乗ってください。私が律くんに、紗雪さんを迎えに行こうって言ったんです。それに……これまでのことは誤解ですから、律くんのことは責めないであげてください」
それを聞いていた律は志保を一度見つめ、優しく微笑む。しかし、再び紗雪へ向き直った時には、いつもの無表情に戻っていた。「志保さんがどうしてもって言うから、お前を迎えに来てやったんだ。
紗雪、志保さんはお前にこんなによくしてくれるのに、お前はどうだ?言っておくけど、俺が守るのは志保さんだから、お前はしっかり神谷グループの社長夫人をこなせ。これ以上志保さんを傷つけるなよ」
神谷グループの社長夫人?
紗雪は苦笑いを浮かべる。
もう何も言いたくないし、この目の前の男と二度と関わりたくなかった。紗雪は車を避け、その場を離れようとした。
「紗雪!」律が車のドアを開けて降り、紗雪の腕を掴む。その力の強さに紗雪は顔をしかめた。「いい加減にしろ。車に乗れ!」
苛立った彼の声を聞いていると、自分の拒絶がまるでわがままでしかないように思えてくる。
紗雪は振り払おうとしたが、彼の力は強く、退院したばかりの弱った体では、どうすることもできなかった。
結局、紗雪は後部座席に無理やり乗せられた。
車が静かに走り出す。紗雪は窓の外の景色に目を向け、前の二人の仲睦まじい光景からは意識を遠ざけようとした。
志保が甘えを含んだ小声で律に話しかけた。「律くん、昨日の夜から少し風邪気味みたいなの。何だか、眩暈もして……」
すると、律がすぐに手を伸ばして志保のおでこに触れ、紗雪がしばらく聞いていなかった、あの優しい声を出す。「なんで早く言わなかったんだ?帰ったら、すぐ専属医に診てもらおう」
「大丈夫。寝不足なだけだと思うから」そう言って、志保は自然と律の方に頭を預けた。
律は払いのけるどころか、彼女が寄りかかりやすいように、姿勢を整える。
紗雪の心に、数え切れないほどの針で刺されているような痛みを感じた。
昔は紗雪が少し咳をするだけで、律は誰よりも慌てて、夜通し付き添いながら、薬を飲ませてくれたのに。
今では、その気遣いも優しさも、すべて他の女に向けられている。
その時、志保が小さな声を上げた。「あ、雨が降ってきた。律くん、ベランダに干した服をまだ取り込んでないの!私の一番お気に入りの部屋着なのに……」
フロントガラスを叩く雨の音が激しくなり、あっという間に雨で視界が遮られた。
それなのに、律は迷うことなくウィンカーを出し、車を高架橋で止めた。
後部座席を振り返り、まだ顔色の優れない紗雪を見て言った。「お前はタクシーで帰れ。俺は志保さんを送らないといけないから」
紗雪は自分の耳を疑い、勢いよく顔を上げた。ここが高架橋だとこの男は知っているのか?雨の中、自分でタクシーを呼んで帰れと?
しかし、律は自分の判断に微塵の疑いもない様子で、紗雪が動かないのを見ると眉間に皺を寄せた。「聞こえなかったのか?」
志保も振り返った。申し訳なさそうな表情をしているが、その瞳の奥には優越感が光っている。
「紗雪さん、ごめんなさい。それと、明日は私の誕生日なんです。律くんが雅庵を予約してくれているので、紗雪さんもぜひ来てください。私たち三人だけですから。それに、今までの誤解も解いて、仲良くしたいので、絶対に来てくださいね」
紗雪は答えず、勢いよくドアを閉めた。
黒い高級車は何の躊躇もなく車の流れに入り、すぐに雨の中へと消えていった。
高架橋に取り残された紗雪の視界が、雨で滲む。
手を上げてタクシーを呼び止めようとしたが、一台も捕まらない。
冷たい雨で服が濡れ、体の芯まで冷えていく。
結局、橋の縁に寄って、ふらつきながらも、一歩一歩歩いて家に帰るしか無かった。
ようやく自宅にたどり着いたときには全身ずぶ濡れで、震えが止まらず、その夜は案の定、高熱が出て、紗雪の意識は朦朧としていた。
第6話
焦った使用人は右往左往しながら、何度も律に電話をかけていたが、一向に出る気配はない。
紗雪は重い瞼を開け、掠れた細い声で呟く。「もうかけないでいいよ……どうせ、出ないから」
そう言う紗雪の笑みは泣き顔よりも痛々しかった。「律は今……小池さんの誕生日を祝ってるから」
使用人はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。ただ黙って解熱剤を持ってきて、紗雪にそっと飲ませた。
薬を飲んだ紗雪は、深い眠りについていたのだが、夜遅く激しい音を立ててドアが開けられたことにより、目を覚ました。
酒の匂いと外の冷気をまとった律が入ってきた。その顔は、恐ろしいほどに引きつっている。
「紗雪!」律はベッドに近づくと、骨が折れそうなほどの強さで彼女の手首を掴んだ。「どうして来なかったんだ?志保さんは一晩中、お前を待っていたんだぞ!目が真っ赤になるくらい泣いていた。俺はあの人に一滴の涙も流させたくないのに、お前はこんなことしやがって!」
激しく揺さぶられて、紗雪は眩暈がした。もう何も感じないと思っていたのに、胸にはまた激痛が走る。
かつて、彼が涙を流させたくない相手は自分だったのにな。
紗雪は重い瞼を持ち上げ、心の底から愛していた男の顔を見つめた。しかし、今では恐ろしいほどに他人に見える。そう思った瞬間、ひどく滑稽に感じた。
「だから何?」熱のせいで声は掠れていたけれど、不思議なほど静かで、とても冷え切っていた。「私を殺すの?」
律が鼻で笑う。「そんなことはしない。あの人を泣かせたんだから、お前のことを徹底的に泣かせてやる」
そう言って律は携帯を取り出し、電話をかけた。「紗雪の親友、同僚、親戚……とにかく紗雪に関係するやつを集めろ。紗雪を泣かせた奴に、20億円くれてやる」
30分も経つと、家の中は人でごった返した。
一番初めに出てきたのは、親友だと思っていた吉川杏奈(よしかわ あんな)だった。これまで、一緒に買い物をし、秘密を分かち合い、落ち込んだ時には支え合ってきたのに。
「紗雪、お願いだから泣いて」杏奈の声は震えていた。「20億円あったら、一生遊んで暮らせるんだよ?」
紗雪が全く反応を示さないのを見て、杏奈はいきなり彼女の頬を張り飛ばす。「何、澄ましてるのよ?神谷社長の奥さんだからって何様のつもり?」
紗雪の頬は焼けるように痛んだが、それでも依然として涙は見せなかった。
それからも、同僚、遠い親戚、さらには小さい頃に面倒を見てくれた家政婦までもがやってきた。
「神谷社長にはとっくに捨てられたっていうのに、まだここに居座り続けるつもり?」
「志保さんのほうが、あなたよりずっと優しいわ。社長の心が移るのも当然」
「子供が流れたって聞いたけど?悪いことばっかしてるから罰が当たったんだよ」
紗雪は壊れかけの人形のように、人々に取り囲まれ、罵られ、押され、叩かれた。
唇を強く噛みしめると、口の中には、鉄の味が広がる。それでも頑なに、涙は流さなかった。
心はとっくに死んでしまったというのに、涙を流したところで、何の意味があるというのか。
ソファに腰かけた律は、そんな紗雪を冷ややかな目で見守っていた。しかし、紗雪の何の感情も浮かべていないくせに、意地だけは張っている瞳を見ているうちに、彼の胸の中の苛立ちはどんどん膨らんでいった。
どうして泣かない?何があいつをそこまでさせるんだ?
律の我慢が限界に達しようとしたとき、紗雪の従妹が、棚に飾ってある精巧なフォトフレームにはいった写真を見つけた。
それは、紗雪が事故で亡くした両親と一緒に写った、たった一枚の家族写真だった。
従妹はそこへ駆け寄り、フォトフレームを掴むと、ライターを取り出した。「紗雪ちゃん!泣かないなら、これを燃やしてやるんだから!」
それまで無表情だった紗雪の瞳に、激しい動揺が走る。
紗雪が勢いよく顔を上げ、掠れた声で叫んだ。「やめて!それはお父さんとお母さんとのたった一枚の写真なの!お願い、やめて!」
「だったら泣いてよ!泣けば返してあげるから!」従妹が声を荒らげる。すでにライターの炎がフレームの端に触れていた。
「お願い、本当にやめて……私たち、親戚でしょ?そんなひどいことしないで……」紗雪は涙ながらにすがった。目には涙がたまっていたが、それでも溢れ出ないよう、必死にこらえていた。
写真のために、懇願している紗雪の姿に、律は胸が激しく締め付けられた。
紗雪が宝物のように大切にしていたものだから、律もこの写真のことは覚えていた。
「燃やせ」しかし、次の瞬間には、彼の口から冷酷な言葉がこぼれ落ちた。
その言葉を聞くや否や、従妹は迷わず火のついたフォトフレームを床へ叩きつけた!
「やめてぇえええ――!!!」
紗雪は胸が張り裂けんばかりの悲鳴を上げながら、床に崩れ落ちた。素手で炎を叩き、今にも灰になろうとする写真を必死に守る。
しかし、間に合わなかった。
炎に包まれた写真は瞬く間に丸まり、真っ黒に焦げていった。優しかった父と母の笑顔は見る影もなく消え去り、ただの灰になっていく。
紗雪が伸ばした手のひらに残ったのは、熱い灰と、やけどのひりつくような痛みだけだった。
ずっとこらえていた涙が、この瞬間、決壊したダムのように激しく溢れ出す。
紗雪は泣いた。
声の限りに、泣き叫んだ。一生分の涙を流すかのように、ただただ泣いた。
床にうずくまり、身体を激しく震わせて泣く彼女を見ても、律の心は晴れなかった。むしろ喉に何かがつかえたように、重く苦しい。
素手で火を消して、赤く水膨れになった紗雪の指先を見つめ、駆け寄ろうとしたが、足がまるで地面に縫い付けられたように動かなかった。
そしてとうとう、紗雪は激しいショックと身体の限界に耐えかね、意識を失ってしまった。
第7話
高熱の中、さらに精神的な追い打ちをかけられ、そのまま意識を失った紗雪。
再び目を覚ますと、ぼんやりとした意識の中で、律の声が聞こえた。「医者を呼べ!」どうやら、自分は病院に運ばれたらしい。
すると、いつの間にか現れた志保が、優しい声でそれを止めた。「律くん、お医者さんは呼ばなくて大丈夫。うちの田舎にね、すぐに目を覚まさせる方法があるの。私を信じて。ただ、他の人には部屋から出ていって欲しいの」
紗雪は、人々がその場から離れていくのを感じていた。
そして次の瞬間には、背中に激しい痛みが走った。何とか目を開けると、なんと志保がカミソリの刃で彼女の背中を傷つけていたのだ。
「痛っ!」激しい痛みに襲われ、紗雪は必死に逃れようともがく。
しかしそんな彼女を、志保が力任せに押さえつけた。「動かないでください。これはうちの地元に伝わる民間療法なんです。早く良くなりますから、我慢してください」
「こんな民間療法……あるわけないじゃないですか……」紗雪は冷や汗を流しながらも、さらに激しく抵抗する。
こんなの治療なわけない。ただの拷問だ!
紗雪は残った最後の力を振り絞り、志保を思いきり突き飛ばした!
不意をつかれた志保が、声を上げながら、そのまま床に倒れ込む。
ちょうどその時、律が部屋に飛び込んできた。
「志保さん、大丈夫か!」律は慌てて志保に駆け寄り、彼女を心配そうに抱き起こす。そして怒りに満ちた目で紗雪を睨みつけた。
「そもそもお前が先に志保さんを傷つけたんだろ!それなのに志保さんは嫌な顔一つせずに、お前を助けようとしてくれてるんだ。それをそんな態度を取るなんて、どうかしているぞ!」
紗雪は痛みのあまり声が出ず、ただ彼をじっと睨みつけることしかできなかった。
志保が律の胸にしがみつき、涙を浮かべる。「もういいの、律くん。これは、痛みが強い方法だから、紗雪さんもわざとじゃ無かったと思うし……だから、責めないであげて……」
「だめだ!」律は志保をひどく不憫に思い、言った。「絶対に謝らせるから!」
紗雪に向き直り、冷たく命令する。「紗雪、志保さんに謝れ!」
紗雪は歯を食いしばったまま、顔をそむけた。
その態度に、律の怒りは頂点に達し、ドアの方にいるボディーガード一に言い放った。「紗雪を謝らせろ!」
ボディーガード一はすぐに命令に従い、一人が紗雪の膝裏を容赦なく蹴りつける。痛みに悲鳴を上げた紗雪は、身体を支えきれず、その場に崩れるようにひざまずいた。さらに別の一人が彼女の首を乱暴につかみ、そのまま頭を押さえつける。そして志保の方へ向けて、無理やり頭を下げさせた。
ごんっ!
紗雪の額が冷たい床に強く叩きつけられ、鈍い音がした。
志保も声を上げる。「やめて!律、やりすぎよ!」
律も、まさかボディーガード一がここまで荒っぽいことをするとは思わなかった。少し、複雑な思いが胸をよぎったが、傷ついた様子の志保を見ると、その気持ちはすぐに消えていった。
律は唇を引き結び、冷淡に言う。「紗雪はプライドが高すぎる。だから、こうやって痛い目を見せないと分からないんだ。これで、もう志保さんをいじめることはないと思うからさ。
さあ、もうこいつのことは放っておこう。ここには医者もいるし、志保さんは帰って休んでて」
しかし、志保が首を振って、いかにも善良なふりをする。「紗雪さんがこうなってしまったのも、元をたどれば私のせいだから、放っておくなんてできないよ。せめて、お世話だけでもさせて」
律はため息をついた。「じゃあ、お医者さんがくるまで、志保さんは隣の部屋で休んでて。俺はあなたの好きなケーキを買ってくるから」
そう言って、律は志保の肩を抱いたまま立ち去っていく。床にうずくまり、額を赤く腫らしている紗雪に、一度も視線を向けることはなかった。
紗雪は額の痛みも、腕の痛みも、もうどうでもよかった。胸の奥が崩れ落ちていくようなこの苦しみに比べれば、どんな痛みも取るに足らなかったから。
二人が並んで歩き去る後ろ姿を見つめていると、その姿が、あの16歳のとき、自分を一生守ると誓ってくれた少年の面影と重なり、そして粉々に砕け散った。
もうあの頃には戻れない。
もう二度と、元には戻らないのだ。
間もなくして、医者が紗雪の手当てをしてくれた。
手当も終わると、全身の痛みと高熱のためか、紗雪は再び深い眠りの中に落ちていった。
夕方、辺りはすっかり暗くなっていた。
まだ、寝ぼけていて意識が混濁していた紗雪だったが、突然立ち上る煙にむせ返って目を覚ました。周りからは、大声で叫ぶ声や逃げ惑う足音が騒がしく聞こえてくる。
「火事だ!早く逃げろ!」
彼女は息を呑んだ。痛む体を必死に動かしてベッドから這い出し、ドアを開ける。すると、廊下は真っ黒な煙に包まれ、真っ赤な炎も燃え盛っていた。人々が慌てふためき、階段へと押し寄せている。
紗雪もふらつく足取りで、人波の後を追うと、階段のところで、同じく逃げようとしていた志保とはち合わせた。
そんな混乱の中、何かに足を取られた志保が、とっさに紗雪の腕にしがみついた。二人はバランスを崩して、そのまま悲鳴を上げながら、階段を転げ落ちていく。
全身に激痛が走り、目の前が真っ暗になった。
痛みを堪えながら顔を上げると、燃え上がった瓦礫が崩れ落ち、唯一の出口がふさがれてしまっていた。
それでも、煙はみるみるうちに濃くなり、火の手が迫ってくる。
隣では足を痛めた志保が弱々しくすすり泣いていた。
紗雪は行く手を阻む瓦礫をどかそうとしたが、体に力が入らずビクともしない。さらに、煙を吸い込んで激しくむせ込み、頭もぼんやりとしてきた。
もうここで死ぬのだと思ったそのとき、外からレスキュー隊員の声がかすかに聞こえた。それと同時に、もう何年も聞いているあの男の焦る声も聞こえてくる。
「お兄さん!中は火が回って危ないですから、入らないでください!」
「離せ!大事な人が中にいるんだ!」
律だ!
次の瞬間、煙を浴びながらも、必死の形相の律が炎の中に飛び込んできた。
必死になって辺りを見回す律の視線が、志保の姿を捉える。
すると、彼は迷わず志保のもとへと駆け寄り、優しく横抱きにした。その声は、安堵からか微かに震えている。「志保さん!もう大丈夫だから。俺がいるよ!」
最初から最後まで、彼の視線は志保にしかなく、息も絶え絶えになっている紗雪には、全く向けられなかった。
志保をしっかりと抱きしめ、出口に向かっていく律。
その後ろ姿を見つめる紗雪の心は、寂しさと絶望で溢れていった。
しかし、律が数歩歩いたところで、腕の中の志保が何かを弱々しく囁く。
第8話
すると律が足を止め、少し迷う素振りを見せながらも、なんと引き返してきたのだ。
紗雪の胸に一瞬、かすかな期待がよぎる。しかし、律は紗雪に見向きもせず、志保がさっき倒れたあたりをすばやく手で探り、端が少し焦げたお守りを拾い上げたのだった。
それは、志保がいつも大切に持ち歩いていたもの。
なんだ、それを拾いに戻っただけだったのか。
「ふふっ……ふふふふ……」
紗雪は笑った。蔓延する煙と燃え盛る炎の中で、涙を流しながら笑い転げた。
昔、自分が少し指を切っただけでも、彼は大げさなほど心配して、抱きかかえて病院まで走ってくれたのに。
今は、火の中で死にそうになっていても、別の女のためにお守りを優先する。
律はお守りを見つけると、再び志保を腕に抱き、紗雪を振り返りもせず立ち去っていった。
二人の背中が見えなくなったそのとき、激しく燃え上がる梁が大きな音を立てて、紗雪の上へ崩れ落ちてきた。
再び、意識が闇の中へと消えていったのだった。
再び目を覚ますと、紗雪は自分のベッドの上にいた。
枕元に立つ律が、ばつが悪そうにそっけない声で言った。「昨日は少し混乱していたから、お前があそこにいるなんて気づかなかったんだ。もし知っていたら、俺は……」
知っていたら、どうしたというのだ?
紗雪は心の中でそっとつぶやき、皮肉な笑みをうかべた。
志保を放り出して、自分を先に助けてくれたとでもいうのか?
そんなこと、ありえない。
昔は自分のことだけを見てくれていたから、いつでもすぐに駆けつけてくれた。
だが、今の彼の心には志保しかいないのだから、志保以外の姿など、見えるはずがない。
あまりの虚しさに、紗雪は律と言葉を交わす気力さえなかった。
何も言わずに寝返りを打ち、彼に背を向けて目を閉じる。
自分と話すことを拒絶する紗雪の姿を見て、律は眉間にしわを寄せた。何か言いたかったが、結局は眉間を揉み、枕元のテーブルに水と薬を置いただけだった。「薬、飲んでおけよ」
それから数日間、律は予想外にも仕事に行かず、家に留まって書斎で仕事をしていた。
それでも紗雪は、律を完全に無視し続けた。
この徹底した沈黙が、律の胸を少しずつ刺激し、ひどくいら立たせた。
そして紗雪が黙り込んで5日目の夕方、律はとうとう仕事を切り上げ、紗雪のベッドへと歩み寄った。
「紗雪」律は少し不機嫌さを抑え、静かに尋ねる。「一体いつまで怒っているんだ?」
それでも、紗雪は相変わらず窓の外を見つめ、何の反応もない。
我慢も限界だった律は、紗雪の肩を掴んで自分の方を向かせた。「こっちを見ろ!俺はお前に、志保さんを愛してるって言っただろ?だから、非常時にあの選択をするのは当然なんだよ!なのに、お前は一体、何が気に入らないんだ?」
そこで初めて、紗雪はゆっくりと律に顔を向け、静かに彼を見つめた。
その一切感情のない視線に、律は少し動揺した。頭に血が上りながらも、やりきれない焦りが募る。
律はしばらく紗雪を見つめた後、うんざりしたように肩から手を離し、額に手を当てた。「もう大丈夫そうだな。だったら、俺がここにいる必要もない。仕事に戻る」
そう吐き捨てると、律は躊躇いもなく部屋を出て行った。
ドアがしっかり閉まるのを見届けてから、紗雪は呟く。「律、私は怒っているんじゃないの。
もう、どうでもよくなっちゃったんだ。
だから、あなたに何も期待もしないし、恨みもないよ」
それからというもの、律が戻ってくることはなかった。
紗雪の世界にも、静けさが訪れる。
紗雪はゆっくりと傷を癒やし、静かに食事をとり、窓から雲を眺めるような、そんな落ち着いた毎日を過ごした。
しかし、偶に携帯を開くと、嫌でも志保のインスタが目に入ってくる。
投稿されている写真は、どれも律とのデートばかり。
そしてそれらの場所はすべて、かつて律が紗雪を連れて行ってくれた場所だった。
展望台レストラン、共に並んで歩いた海辺。そして、挙げ句の果てには、あの縁結びの橋に行き、律はかつて紗雪と取り付けた南京錠を外して、志保との新しい南京錠を取り付けていた。
律はこうして、新しい「愛する人」の手を引き、紗雪と積み上げた9年の記憶をすべて、徹底的に消し去っている。
まるで、黒板の文字を消し去るかのように、それはあまりにも簡単なことだった。
第9話
その日、律は志保を家に連れて帰ってきた。
「紗雪、これまでのことはもう水に流そう。志保さんの体はまだ休養が必要で、このまま一人暮らしを続けさせるのは心配だから、今日からここに住まわせることにした。だから、お前も……志保さんと仲良くしてほしい」
その日から、かつて紗雪と律だけの場所だったはずの「家」は、完全に律と志保の愛の巣へと変わってしまった。
二人の遠慮のない笑い声が嫌でも耳に入ってきたし、律が志保をどれほど甘やかしているかも見せつけられる日々。
彼らはリビングのソファでキスを交わし、ダイニングテーブルで互いを求め合っていた。それどころか、かつて紗雪が毎日のように弾いていたピアノの前でさえ、情事を重ねていたのだ。
使用人たちは誰もがうつむいて、足早に通り過ぎ、見て見ぬふりをした。
ある日の深夜、紗雪は慌ただしい足音と動揺に満ちた叫び声のせいで、目を覚ました。
ドアを開けると、服が乱れている律が、これまでに見たこともないほど慌てふためき、同じく衣服の乱れた志保を抱きかかえていた。それに、志保の下半身からは血が流れ出していて、苦しそうにうめいていた。律は狂ったように階段を駆け下り、外へ飛び出していった。
しばらくして執事がやってくると、複雑な表情で言った。「奥様、旦那様が病院に来るようにと」
紗雪は多くを聞かずに、黙って車に乗り込む。
病院に着いて初めて、紗雪は何が起きたのかを知った。
激しすぎる行為が原因で、志保は黄体破裂を起こし、さらに搬送後に妊娠していることも発覚したらしい。その影響で大出血を引き起こし、母子ともに危険な状態に陥っていた。
一刻を争う状況のため、大量の輸血が必要だったが、あいにく志保は希少なRhマイナス血液型で、病院には備蓄がなかった。
そして紗雪もまた、同じRhマイナスだった。
だから律は、紗雪に有無を言わせず、無理やり採血室へと閉じ込めた。
「抜け!」律が医師に怒鳴り散らす。「抜けるだけ抜け!志保さんの危険がなくなるまでずっとだ!」
医師は躊躇しながら言った。「神谷さん、奥様の体はかなり弱っていますので、これ以上採血すると、命に関わって……」
「紗雪はどうなったっていい!」律が医師の言葉を遮った。「何が何でも、志保と俺の子供を助けろ!」
紗雪はどうなったっていい……
ベッドに横たわる紗雪は、その凍てつくほど冷酷な言葉を聞いて、ふと遠い昔のことを思い出していた。
ただの風邪を少し拗らせたときでさえ、律は紗雪の枕元に付きっきりだった。そして、隈を作った顔で手を握りしめ、「紗雪、早く元気になってくれ。お前に何かあったら、俺はどうすればいいんだ」と何度も呟いていた。
なのに今、律は紗雪の血が抜き取られるのをただ見つめながら、「どうなったっていい」と平然と言い放つ。
あまりの悲しみと不条理さを感じていると、突然大津波に呑まれるような感覚に襲われ、紗雪の目の前は再び真っ暗になった。
次に目を覚ましたとき、周りには誰もいなかった。
そのとき、携帯が鳴った。弁護士事務所からの連絡だった。「紗雪様、ご報告です。離婚届が無事に受理されました。なお、離婚届受理証明書もこちらでお預かりしておりますので、お時間のある際に事務所までお越しください」
紗雪は何とか体を起こし、病室を出る。
志保の病室の前を通りかかったとき、律が志保のお腹にそっと顔を当て、父親になる喜びに満ち溢れた笑みを浮かべているのが見えた。
寄り添い合う彼らの姿に少し眉を顰めたが、心は完全に麻痺していたので、何も感じなかった。
何も言わず、その場を立ち去る。
弁護士事務所で離婚届受理証明書を受け取った紗雪は、荷物をまとめるために、律と暮らした家へと戻ることにした。
持ち物は驚くほど少なかった。律に贈られた宝石、バッグ、ブランドの服……それらは全て置いていく。
書斎の机の引き出しの奥を片付けていると、ふと固い小箱が手に当たった。
蓋を開けると、そこには分厚い恋文の束。
それは、学生時代に律が紗雪へ宛てて書いたものだった。
【紗雪へ。今日、お前が隣のクラスの男子と喋っているのを見て、嫉妬で狂いそうだった。お前は俺のものだ。誰にも渡さない】
【紗雪へ。俺が卒業したら結婚しよう。誰よりも豪華な結婚式を挙げて、お前が俺の妻になったことを、世界中に見せつけてやる】
【愛する妻へ。今日で俺たちが一緒になってから千日目だな。お前を愛したことは、俺の人生で最大の幸運で幸福だ。歳をとっても、ずっと一緒にいよう】
紗雪は手紙を一つずつめくっていった。涙は出なかったが、ただ指先だけがかすかに震えた。
そして、立ち上がった紗雪は、隅々までこだわりの詰まった家を見渡す。
一緒に料理を作り、映画を楽しみ、将来の夢を語り合った。リビングのソファでは抱きしめられ、「お前が俺の世界のすべてだ」と言われたし、ベッドでは寄り添いながら、ずっと離れないとお互い約束した。
そのすべてが、今となっては皮肉にすぎない。
荷物を手に玄関に立った紗雪は、最後に、ライターの火をそっとカーテンに近づけた。
火は瞬く間に燃え広がり、ソファを、あの頃の恋文を、そしてピアノを……
赤々と燃え盛る炎の中に、紗雪は16歳の律と、16歳の自分を見た。
二人は手を繋ぎ、満開の桜の下で戯れている。律がわざと彼女のポニーテールを引っ張り、それを笑いながら追いかけている自分。
そして、その幻影の二人は仲良く、紅蓮の炎の中に消えていった。
紗雪はふっと笑みをこぼし、背を向ける。彼女が振り返ることは二度となかった。
飛行機が飛び立つ前、紗雪はSNSにログインし、最後のつぶやきを投稿する。
【16歳のとき、あなたが私を一生愛し続けると言ってくれたね。そして、20歳のとき、私たちは結婚し、あなたは永遠の愛を誓ってくれた。でも25歳……
あなたは他の女性を愛するようになってしまった。だから今日、私たちは離婚するんだよ。あなたが誓ってくれた今までの言葉、あなたに返すね。
それに、私の気持ちももうあなたのところにはないから。もう私は、神谷グループの社長夫人なんかじゃない。あなたとは一切関係ない、一人の女、椎名紗雪に戻るから@神谷律】
送信。
紗雪は携帯の電源を落とすと、SIMカードを抜き取って、座席のポケットにあるエチケット袋へ躊躇なく入れた。