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決して手の届かないあの人への恋
15歳の時、白石紬(しらいし つむぎ)は、姉の白石澪(しらいし みお)が近所の九条航(くじょう わたる)を壁際に追い詰めてキスしているのを見...
Chương (1)
第1章
15歳の時、白石紬(しらいし つむぎ)は、姉の白石澪(しらいし みお)が近所の九条航(くじょう わたる)を壁際に追い詰めてキスしているのを見た。航の背筋はピンと伸びて、耳まで真っ赤になっていたが、拒んだりはしなかった。
18歳の時、紬は、澪と航が手を繋いで両親に挨拶をし、結婚の相談をしにくるのを見ていた。
20歳の時、紬は、澪が留学という貴重なチャンスを手にするために、結婚式の前日に逃げ出したのを知った。
その時、紬は路地の入り口まで追いかけ、澪の後ろ姿に向かって震える声で叫んだ。「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」
澪は一瞬足を止めると、振り返りもせず、適当に手を振った。「いいよ、あげる」
こうして、両家の面目のため、自分自身の誰にも言えない秘密の気持ちのために、紬は自分のものではないウェディングドレスを着て、ブライダルカーに乗り込んで、航の花嫁になった。
第1話
15歳の時、白石紬(しらいし つむぎ)は、姉の白石澪(しらいし みお)が近所の九条航(くじょう わたる)を壁際に追い詰めてキスしているのを見た。航の背筋はピンと伸びて、耳まで真っ赤になっていたが、拒んだりはしなかった。
18歳の時、紬は、澪と航が手を繋いで両親に挨拶をし、結婚の相談をしにくるのを見ていた。
20歳の時、紬は、澪が留学という貴重なチャンスを手にするために、結婚式の前日に逃げ出したのを知った。
その時、紬は路地の入り口まで追いかけ、澪の後ろ姿に向かって震える声で叫んだ。「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」
澪は一瞬足を止めると、振り返りもせず、適当に手を振った。「いいよ、あげる」
こうして、両家の面目のため、自分自身の誰にも言えない秘密の気持ちのために、紬は自分のものではないウェディングドレスを着て、ブライダルカーに乗り込んで、航の花嫁になった。
あれから3年が過ぎた。紬は手料理を覚え、航の制服にアイロンをかけ、彼の身の回りの世話を完璧にこなした。けれど航の態度は、いつも壁を隔てているかのように冷たかった。
それでも紬は、ずっと航を愛し続けられると信じて疑わなかった。
そんなある日、紬はいつも通り航にお弁当を届けるため、彼が働く特殊部隊の基地を訪ねていった。その時、仕事を邪魔してはいけないという航の言葉を思い出し、外で待つことにした。
いつの間にか雨がしとしとと降り出した。紬はお弁当を抱きしめて、中身が濡れないように必死で守った。
だが、時間がことごとく過ぎても航は現れなかった。紬は航の持病で胃が痛みを起こしていないかと心配になり、意を決しておずおずと彼のオフィスの前へと向かった。
そこで紬が目にしたのは、全身の血の気がすっと引いていくような光景だった――
人前ではいつも冷酷で厳しい航が、今、床に片膝をついているのだった。その目の前には、3年間姿を消していた澪が座っていた。
航はとても優しい手つきで、壊れ物を扱うかのように澪の足首を包み込んで、ゆっくりと揉みほぐしていた。
「痛っ……もっと優しくして」澪は甘えるように声をあげた。
航はすぐに手の力を更に和らげて、澪を見上げて言った。「今の力加減はどう?」その声には心配の色が滲んでいた。
澪はそんな彼を見つめ、ぷっと吹き出して笑った。
「何が可笑しいんだ?」航が低い声で優しく尋ねた。
すると、澪の口元が綻んだ。「別に、ただ……紬が今、外で雨に濡れながら、あなたにお弁当を届けるためにずっと待っているでしょ。彼女はあんなにあなたのことを心から恋焦がれているのよ。なのに、あなたはここで私の足を揉んでいるの。それを見られたら、泣かれちゃうかもと思ってね」
それを聞いて、航は淡々と答えた。その声には何の感情の起伏もなく、けれどその言葉は、冷たくて鋭いナイフのように、真っ直ぐに紬の胸に突き刺さった。
「あいつが泣くのなんて、どうでもいい。
君が痛がっているかどうかのほうが、俺にとってよっぽど大事なんだ」
この短い言葉は、雷の轟きのように紬の耳元で思いっきり弾けた。
紬は全身が凍りつき、抱えていたお弁当ですら焼けたように熱くなり、手に持てなくなりそうになった。
「奥さん?隊長に会いに来たんですか?どうして入らないんですか?」ふと、通りかかった一人の隊員が、不思議そうに声をかけた。
その声で、部屋の中にいた二人もはっと気づいたようだ。
紬は航が顔を上げ、入口へ視線を向けるのを見た。慌てた彼女は、何か悪いことでもして見つかったかのように、お弁当を抱えて一目散に走り去った。
雨は激しさを増し、先ほどよりいっそう強くなっていた。
大粒の雨が体や顔に降り注ぎ、芯まで凍えさせていたが、紬はまるで感じていなかった。
彼女はただ必死で走り続けた。そうすれば、あの息苦しい光景や、航の無情な言葉から逃れられるかのようだった。
涙が雨に混ざり流れ落ち、切なさが喉の奥に詰まった。
紬にはどうしても分からなかった。なぜ……
同じ親から生まれた娘なのに、子供の頃から美味しい食べものや綺麗な服をもらったり、温かい愛情を受け褒められるのはいつもすべて澪だけだった。
自分が着る服はすべてお下がりで、おもちゃも、いつも澪がいらなくなったものばかりだった。
そして今、自分が何よりも大切にしていた愛する人でさえ、元々は澪が要らなくなって、譲ってくれた相手なのだ。
航と結婚できて、自分がどれだけ喜んだか、彼は知ることがないだろう。
この喜びは、紬にとって3年もの冷たい月日を乗り越えてきた糧なのだ。
幼い頃、近所の子にいじめられて大声で泣く紬を、航は険しい顔で守ってくれた。その後、手に持っていた体温を帯びた飴をくれた。
学生時代も、テストがだめになって泣いていた紬を、航はそっと寄り添って、「次、また頑張ればいいさ」と励ましてくれた。
そんな想いを胸に、大人になってから、制服を格好よく着こなす航の姿をこっそり見て、紬は何度もときめいていたのだった。
だから、澪が彼を捨てようとしていると知った時、紬は精一杯の勇気を振り絞って、「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」と言ったのだ。
澪が見向きもしなくなった相手でも、紬にとっては大切に守りたい想い人だったから。
紬はそんな大切な想い人を心から愛し、ありったけの愛情を注いできた。
なのに結局、その人は、15歳の時からずっと澪しか見ていなくて、一度だって自分に振り向いてくれることはなかった。
泣きながら笑い、雨の中でどれほど走ったか分からず、ただずぶ濡れになった紬は気が付くと、役所の前に立ち尽くしていた。
その瞬間、紬はふっとあれほど愛してきた相手でも、諦めようと決めるのはほんの一瞬なのだと気づかされたのだった。
そう思って、紬は冷たい水滴を拭い、意を決したかのように呼吸を整えて、役所へと向かった。
「すみません、離婚調停の申請をしたいです」
役所の職員はびしょ濡れで酷い状況の紬を前に、少したじろいだ様子だったが、深く聞き出そうとはしなかった。
というのも、これだけの雨の中で、妻をびしょ濡れにさせるのはきっとろくでもない男だろうから。
状況を察して、職員は申請用紙を差し出し、優しく記入するように促した。
紬が申請書に記入すると、職員から段取りについて説明を受けた。「離婚調停の場合、この後申請は家庭裁判所に引き渡されることになっている。手続には数日かかります。あとで必要な追加書類を揃えてもらう必要があり、その場合はまた後日ご連絡いたします」
それを聞いて、紬は小声で、「ありがとうございます」と言った。
だが、役所から出てほんの数歩も歩かないうちに、後ろからクラクションの音が響いた。
見回すと、そこに見慣れたジープが停まっていて、ゆっくり下りてくる窓の向こうから、航の整った横顔が現われた。
彼はずぶ濡れの紬を見るなり、かすかに眉間にしわを寄せた。「なんでそんなに濡れているんだ?乗りなさい」
今までの紬だったら、一緒に乗れる嬉しさで、何も考えずに大喜びで座席へ跳び込んでいたに違いない。
けれど今の彼女は首を軽く横に振り、こう言った。「いい。自分で歩いて帰るから」
そう言って、彼女は道端の軒先で蹲る浮浪者をチラッとみて、少し躊躇った後、近寄っていった。そして、これまでしっかり抱えていた自慢のお弁当をそっとその人の前へ置いて立ち去った。
一方、航は紬の一連の動きを見て、珍しく驚きと戸惑いの色を浮かべた。
彼は眉間をきつく寄せ、とっさに、もしかしてさっき職場で紬に何もかも見聞きされてしまったのではと察した。
多分、それで彼女はすぐにそこから去って行ってしまったのだろう。
第2話
だが、それでも航は説明しようとせず、ただ雨の中に佇む、ずぶ濡れなりながらも背筋をピンと伸ばしている紬を見つめて繰り返した。「ここは駐車禁止だ。乗りなさい」
その言葉を裏付けるように、後ろの車がいら立った様子でクラクションを鳴らした。
紬は黙り込んだ。しかし、道のど真ん中でこれ以上目立ちたくはなかったので、彼女はドアを開けて後部座席に乗った。
車内に入ると、かすかにクチナシの香りが漂ってきた。澪のお気に入りの香水だ。
予想通り、助手席の澪が振り返り、にこやかに微笑みかけてきた。「紬、久しぶり。今日帰国したばかりなの。まさか航に会うなんて、本当に偶然ね」
紬は黙ったまま頷き、窓の外へと視線をそらした。
それから、車は走り出した。
紬は、ものすごい速さで過ぎ去る窓の外の景色を見つめていた。しかし、どうしてもフロントシートの二人の会話が耳に入ってしまうのだ。
航は落ち着いて運転しながらも、たびたび澪を気遣い、「喉は渇いてない?水ならあるよ」と優しく声をかけてあげたりしていた。
車が少しガタガタと揺れると、航はごく自然に手を伸ばして澪の体をかばった。「気をつけて」
こんなにも至れり尽くせりの優しさを、紬は航と結婚した3年間で、一度も体験をしたことはなかった。
紬は窓の外を見つめながら、襲いかかる深い切なさを一身に受けてひたすら耐えていた。
自分の人生は、なんて悲惨なんだろう。
両親からも愛されず、夫からも愛してもらえない。
でも、もういい。
これからは、自分のことだけを大切にしよう。もう二度と、誰の愛も求めないと心に決めた。
その時、澪が小さく声を上げてお腹を押さえた。
「どうした?」航がすぐに澪を覗き込み、声をこわばらせて聞いた。
「ううん、なんでもない……生理だから。家に帰って休めば治まるから」
しかし、航は眉間にしわを寄せた。「初日はいつも痛みがひどいだろう。無理をしないで、すぐに病院へ行こう」
そう言って、彼はウィンカーを出して車線を変更し、病院へと向かおうとした。
一方、それを聞いた紬は信じられない思いで航を見つめ、胸が締め付けられるように痛んだ。
彼女は前に自分が生理痛で動けなくなり、額に冷や汗を流しながらソファで丸まっていた時のことを思い出したのだ。
その日はたまたま航が書類を取りに帰ってきたが、苦しむ自分を見ても少し立ち止まっただけだった。何があったのかを聞くことさえせず、すぐに家を出て行ってしまった。
航は気にかけることができないのではない。ただ、彼の思いやる相手が、自分ではなかっただけなのだ。
現に、澪を心配するあまり、航は明らかにスピードを上げた。
だが、交差点を曲がろうとした瞬間、見るからに柄の悪そうなチンピラの男が突然飛び出してきた。航はブレーキが間に合わず、車のフロントがその男に軽く接触してしまった。すると、チンピラはその場に転び、痛そうに声を上げ始めた。
それを見て、航は浮かぬ表情で車を降りた。
ところが、チンピラはすばやく起き上がると、ドアにしがみついて叫び立てた。「人を轢いといて逃げる気か?治療費を払え!払うまでここを通さないぞ!」
そう叫びながら、ふと航の着ている制服と冷たい表情に気づき、チンピラの勢いはたちまち弱まった。その目に一瞬、怯えの色がよぎったが、どうしても金が惜しく、無理に強気な態度を続けた。
航は車内で顔を青ざめさせている澪のことが心配で、時間を無駄にしたくなかった。ポケットを探ったが持ち合わせがなかったため、こう告げた。「あいにく手持ちがない。連絡先を教えてくれたら、後で金を届けるよ」
しかし、チンピラはしつこく食い下がった。「ふざけるな!行っちまったら、どこへ探しに行けばいいんだ?いいから今すぐ金を払いな!」
そう言われ、車の中で澪が痛みに耐えかねて縮こまっているのを見て、航は焦りと苛立ちで居た堪れなくなった。
すると、彼の視線がふと後部座席にいる紬へと向けられた。
そして、迷うことなく、航は大股で近づいてドアを開け、紬に言い放った。「降りろ」
何が起きているのか分からず戸惑いながらも、紬は指示に従って車を降りた。
航は冷ややかな声でその男に言い放った。「こいつをとりあえずここに置いていく。1時間後にまた金を持って戻ってくるから」
そう言って、航は紬の顔を見ることもなく、そのまま運転席へと乗り込んだ。急発進した車は、容赦なく水しぶきを上げながら、あっという間に去って行ってしまった。
雨の中に取り残された紬は、凍えそうな寒さを全身に感じながら、車が消えていった方をただ呆然と見つめた。
あろうことか、航は澪を早く病院へ連れて行くために、自分を見知らぬ男への担保として置いて行ったのだ。
あまりの衝撃と屈辱感に、息ができないほどの痛みが紬の胸に押し寄せた。
航は自分に何も起きないと信じているのだろうか?それとも……自分の安全など、最初からどうでもいいのだろうか?
第3話
時間が過ぎゆく中、雨は次第に止み、辺りは完全に暗闇に包まれた。
1時間はとっくに過ぎていたが、航は影すら見せなかった。
チンピラは初めのうちこそおどおどしていたが、待ち続けるうちにとうとう痺れを切らした。
「クソッ!これだけ待っても来ねえってことは、ハナから来る気なんてねえんだ!俺をコケにしやがって!」
チンピラは怒りに任せて紬の方へと向き直り、雨に濡れて体の線がくっきりと浮かび上がったその身体を、濁った目で舐め回すように見つめると、不意に邪悪な考えを思いついたようだ。
「おい!」チンピラは両手を揉み合わせ、いかがわしい笑みを浮かべた。「金はもういらねえ。その代わり、一晩俺の相手をすれば、この件は水に流してやるよ!どうだ?」
そう言うと、チンピラは紬に向かって飛びかかってきた。
紬は恐怖のあまり取り乱して、叫んだ。「来ないで!主人は絶対に……絶対に来るから!もう少しだけ待って!」
「待てるかよ!こっちはもう待ちくたびれたんだ!」チンピラは力強く紬の腕を掴み上げると、もう片方の手でその服を引き裂き始めた。
「離して!助けて!」紬はパニックに陥り泣き叫んだ。手足を振り乱して必死に抵抗したが、男の力の前では全く歯が立たなかった。逆に激しく身をよじったせいで、腕や首筋が引っ掻かれて、血が滲み出た。
その瞬間、絶望が冷たい潮波のように、紬を完全に飲み込んでいった。
チンピラが紬を濡れた地面に押さえつけ、その悪臭を放つ口を近づけてきたまさにその時、紬がなりふり構わず振り回していた手が、ふと自分の首にかかっているネックレスに触れた。
それは元々、航が澪へ贈るはずだった結婚祝いの品。澪が去った後、手元に残しておくのも目障りだったのか、紬が嫁いでいった日に、彼はそれを紬に適当にあげたのだ。
この3年間、紬はそのネックレスを肌身離さず身につけ、一度も外したことはなかった。
だが今、紬はそれを力任せに引きちぎると、遠くへ向かって思い切り投げ捨てた。「このネックレス、高く売れるわ!賠償には十分でしょ!持っていって!」
チンピラは一瞬呆気に取られ、無意識に紬から手を離してネックレスを拾いに走った。
紬はその隙に地面から這い上がり、ありったけの力を振り絞って、一度も振り返ることなく雨の中へと駆け出した。
どれくらい走り続けたか、チンピラを完全に振り切ったと確信するまで彼女は走り抜いた。それで、ようやく人通りのない路地裏にへたり込むと、息を荒らしながら全身を震わせた。
それから、紬は病院へ向かい、体の傷の手当てを受けた。
処置を終え、紬が廊下を通りかかった時、ふと隣の個室に視線を向けた。すると、その窓越しに、あろうことか、航と澪の姿があったのだ。
航はベッドの傍らに座り、澪に飲み物を飲ませてあげていた。澪はヘッドボードに寄りかかり、顔色はまだ少し青白かったが、その口元には甘ったるい笑みが浮かんでいた。
「航、私はもう随分良くなったから、早く紬を助けに行ってあげて。もうあんなに時間が経っているのよ?もし遅れたら、あのチンピラに乱暴されてしまうかもしれないわ……」
航は手を止め、コップを置いて立ち上がった。「ああ、じゃあ、ちょっと行ってくる……」
だが、航がまだ言い終える前に、澪がふいに手を伸ばして彼の服の裾を掴んだ。その声には、微かな甘えの響きが混じっていた。
「本当は……私、嘘をついていたの。あなたに行ってほしくない」澪は声を落とし、すがるような目をした。「暗いのが怖いの。一緒にいてほしい……
それでも、あなたは紬を助けに行くの?それとも、残って私と一緒にいてくれるの?」
そう言われ、航はその場に立ち尽くし、彼の影が照明に照らされて長く伸びていた。
航は黙って澪を見つめていた。いつもは冷ややかなその瞳に、今は彼女の姿がはっきりと映し出されているのだった。
数秒後、航は再び腰を下ろし、飲み物の入ったコップを手に取った。
「君の傍にいるよ」
一方、冷たいガラス窓を隔てて、紬はその場に立ち尽くしていた。10年もの間、ただ一途に愛してきた男。その彼が、別の女のために、今まさに危険にさらされているかもしれない自分を捜すことさえ、いとも簡単に諦めてしまったのだ。不意に、紬は声を殺して笑った。
笑いながら、それでも涙はとめどなく溢れ出てくる。
この3年間、自分は一体何に固執し、何を期待していたのだろう?
航の目に映る自分は、どうでもいい存在なのだ。
紬はよろめきながら背を向け、壁伝いに一歩、また一歩と、どす黒い夜の闇へと消えていった。
それから数日間、航が家に帰ってくることはなかった。
紬は何も問いただすことなく、ただ黙々とこの家にある自分の荷物をまとめ、出て行く準備を始めていた。
荷物をまとめたあと、大切に保管していた航に関わるすべての品を引っ張り出し、段ボール箱へ詰め込んで処分することにした。
ちょうどその時、ドアの方から鍵を開ける音が聞こえた。
航が帰ってきたのだ。
彼はパリッとした制服姿で、疲労を滲ませながらも、そのクールで凛としたオーラを隠せないでいた。
近くまで歩み寄ると、彼は紬の首筋にまだ貼られたままのガーゼへと視線を落とし、わずかに動きを止めた。
「あの日、どうやってあのチンピラの手から逃げ出したんだ?」
紬は事実のままに淡々と答えた。「あなたがくれたネックレスを渡したのよ」
それを聞いて、航は驚いた。
紬がどれほどあのネックレスを大切にしていたか、よく知っていたからだ。
風呂に入る時も眠る時も外さずにいた。ある冬にそれをなくした時は、魂が抜けたかのように冷たい吹雪の中を丸1日探し回った。その結果、戻ってきた時には手が赤く腫れ上がり、高熱にうなされながらも、口ではずっとネックレスのことを案じていたほどだ。
当時、航は理解できず、たかがネックレス1本にそこまでする必要があるのかと尋ねた。だが、紬は顔を上げ、高熱で潤んだ瞳を驚くほど輝かせながら、一語一句はっきり、「だってこれは、航が私にくれた初めてのプレゼントだもの。大切にするのは当然よ」と告げたのだ。
なのに今、紬は宝物のように大切にしていたそのネックレスを、かくも容易くチンピラにくれてやったというのか?
第4話
そう思うと、航の胸の内に、何とも言えないモヤモヤとした不快感が広がった。あの日、自分のために作った弁当を、紬がそこら辺の浮浪者にあげてしまってから、どうも様子がおかしいのだ。
しかし、その違和感も一瞬で消えた。航は特に気にすることなく頷き、いつも通りの淡々とした口調で言った。「無事なら、それでいい」
少し間を置いて、彼はキッチンを見回すと、ふと言った。「今日は食材を買ってきたんだ。ご飯作るから、待っててくれ」
そう言うと、彼は紬の様子を気にすることなく、そのままキッチンへと向かった。
一方、紬は元の場所に立ち尽くしたまま、ぽかんとしてしまった。
航が……料理を作る?
結婚して3年間、航がキッチンに立ったことなど一度もない。毎日の食事を用意するのは、いつも自分の役目だった。
だが、すぐにキッチンから野菜を切る音が聞こえてきた。その手つきは、思いのほか手際が良かった。
しばらくすると、航は本当にいくつかの見栄えの良い料理をお皿に盛り付け、テーブルに並べた。
「ほら、食べて」と、彼は紬に声をかけた。
紬は静かに歩み寄り、ダイニングテーブルの前に座った。
航は紬に箸を手渡した。そして自分はメモ帳とペンを取り出し、向かい合って彼女を見つめた。「食べてみて、それぞれの味の感想を教えてくれないか?」
紬は意図が分からなかったが、言われるがままに箸を取り、一通り口に運んでみた。
「この生姜焼きは、お肉がちょっと硬い。火を通しすぎかな。
卵焼きは塩加減がちょうど良くて、卵もふわふわしている。
ナスのお浸しは、味がちょっと濃いかも、ナス本来の旨味が消えちゃってる」
……
紬は料理を口に運んでは、淡々とした声で、客観的に良い点と悪い点を伝えた。
航は目の前でペンを握り、メモ帳に素早く書き込んでいく。その表情は極めて真剣で、まるで重要な任務に臨んでいるかのようだった。
そして、紬がすべての料理の評価を終えると、航もペンを置いた。
それから彼は立ち上がると、そばにあった弁当箱を引き寄せた。テーブルから紬が「美味しい」と褒めた料理だけを丁寧に移し替え、蓋を閉めた。
すると、テーブルに残されたのは、紬が「味が濃い」と言ったナスのお浸しと、「お肉がちょっと硬い」と言った生姜焼きだけだった。
航はそのまま弁当箱を手に取り、出かけようとした。ふと、紬にじっと見られていることに気づき、彼は取って付けたかのように言った。
「君は以前、自分と澪の好みがよく似ていると言っていたな」
そう言われ、紬の箸を持つ手は、かすかに固まった。
少し戸惑った後、やがて彼女は低く返事をした。「うん」
その返事に満足したのか、航は頷いて言った。「そうか、ならいいんだ」
そう言うと、美味しく出来上がった料理が詰まった弁当箱を手に、彼は振り返ることなく出て行った。
外からすぐに、車のエンジンをかける音が響いて、航は病院にいる澪に食事を届けに行った。
それを聞きながら、紬は視線を、航がダイニングテーブルの上に忘れていった、小さなメモ帳に向けた。
彼女は何かに吸い寄せられるように、メモ帳にそっと手を伸ばして、ページを開いた。
そこには、いくつものレシピと注意点が細かく書かれていた。さらに、それぞれのメニューの下に作られた余白に、先ほど自分が口にした感想の一言一言が漏れなく綴られていた。
航がこれほど周到に準備をしてキッチンに立ち、丁寧に自分の評価を書き留めていたのは、自分のためではなかった。
澪に料理を作ってあげるためだった。
そのために、彼はレシピをメモ帳一冊分も書き綴って、好みが似ている自分に味見をさせ、意見を事細かにメモしていたんだ。それら全ては、よくできた料理だけを澪のもとに届けるためなのだ。
紬はメモ帳をぎゅっと握りしめ、ふと声をあげて笑った。その嘲るような笑い声には、底知れない虚しさが滲んでいた。
結婚して3年間、初めて食べた夫の心のこもった手料理が、まさか姉のおかげだなんて、これ以上の皮肉はあるのだろうか。
本当に……どこまでも滑稽で悲しいことだ。
第5話
その日の夜、航が帰ってきたとき、紬はもう布団に入っていた。
彼女はドアに背を向け、静かに寝息をたてて、眠っているようだった。
航はベッドの脇に立ち、しばらく紬を見つめた。どうも、何かがおかしいと感じていた。
いつもなら、遅く帰ると紬はおずおずと話しかけてきたものだ。どれほど冷たくあしらっても、彼女はめげずに話しかけてきていた。
しかし、この数日の紬は、不気味なほど静かだった。
航が口を開こうとしたそのとき、外から突然、緊急の警報音が響き渡った。
それと同時に航が所属していた部隊の隊員が激しくドアを叩いた。「隊長!大雨のせいでダムが決壊しました!水が堤防を越え、周囲の民家を呑み込んでいます!上層部からの命令です、直ちに避難を!」
それを聞いて、航は表情を一変させて、急いで合羽を羽織った。
出ていく直前、彼は振り返って紬を起こして言った。「特殊部隊の隊長として俺はまず、一般市民の避難誘導を優先しないといけないから。君はこの俺の妻だから、強くあるべきだ!ひとまず自分で避難をしてくれ、後でまた様子を見にくる」
それだけ言うと、航は振り返ることもせず、土砂降りの雨の中に飛び出していった。
一方、紬はベッドにただ横たわったまま、遠ざかる足音を聞きながら、心に波風一つ立てなかった。
彼女はとっくに慣れていた。航にとって、自分はいつも後回しにされる側だから。
しかし、今回の洪水がこれほど激しいものだとは思わなかった。わずか30分ほどで、泥水が敷地に流れ込み、水位はみるみるうちに上がっていった。
紬は慌ててロフトへ上り、窓の外を覗いた。すでに官舎の団地全体が水没し、海のようになっているのだった。
さらに、時間が経つにつれて、官舎の団地から聞こえていた助けを求める声や泣き声は少なくなっていき、次第に静まり返った。
世界に取り残された自分は、たった一人だけ、水に呑まれていく孤島に囚われ、身動きが取れなくなってしまったようだ。
このまま見捨てられてしまうのだと思ったそのとき、雨の向こうから突然、聞き覚えのある声が届いた。
「隊長!奥さんがまだ中にいます!」
声のする方へ視線を向けると、航がびしょ濡れの制服姿で、足をとられながらも官舎を目指して必死に水の中を進んでくるのが見えた。
航は、来てくれた……
この時、紬の胸に自分でも情けなくなるほどの、ちっぽけな希望が芽生えた。だが次の瞬間、それは無残に打ち砕かれた。
航のすぐ後ろに、華奢な影がぴたりと寄り添っていたからだ。その人物は、航が着ていた大きな雨合羽を羽織っていた。
それは澪だった。
澪の家は、官舎の団地から遠く離れている。
航は避難誘導の合間に、あるいは避難が始まる前から、遠回りをして澪を迎えに行っていたのだ。そして彼女を傍に置いて自分の合羽を羽織らせて、雨に濡れないように守ってあげていたのだ。
だが、彼は自分がここにいると分かっていたはずだ。洪水がこれほど激しいことも分かっていたのに、それでも彼は自分を後回しにしていた。
航の頭の中では、一般市民が最優先で、澪はその次に大切だ。それに比べて自分は、いつだってどうでもいい存在だ。いつだって忘れられ、見捨てられる存在なんだ。
そう思っていると、航はすぐに下までたどり着き、ロフトの窓辺にいる紬を見上げて叫んだ。
「手を貸せ!」
紬が身を乗り出そうとしたそのとき、航の後ろにいた澪が突然、悲鳴をあげた。足を滑らせて波に足をとられ、一瞬にして数メートルも流されていった。
「航――」澪の恐怖に満ちた悲鳴が響いた。
一瞬にして、航の顔色が激変した。彼は差し出していた手をすぐに引っ込め、紬には目もくれず、澪のほうへ迷わず泳ぎだしていった。
ほぼ同時に、紬が乗っていた足場が大きく傾いた。彼女もバランスを崩し、冷たい水の中に勢いよく落下した。
氷のような水が容赦なく襲いかかり、鼻や口から濁り水が入り込む。もがきながら何とか頭を出し、迷わず澪の元へ急ぐ航の背中に向かって、紬は残された声を振り絞って叫んだ。「航!助けて――」
だが、濁流の轟音にかき消され、その声はひどく儚かった。
航に、届いただろうか?
おそらく聞こえたはずだ。
しかし、彼は振り返らなかった。
航の視線も、進むべき方向も、すべてが流されていく澪に向いていた。
冷たい泥水の中で溺れそうになりながら叫び声を上げている紬を、航は見捨てたのだ。やがて大きな波に飲み込まれ、紬は意識を失った。
……
紬が次に目を覚ましたとき、そこは病院のベッドの上だった。
周りには、誰もいなかった。
点滴の交換をしにきた看護師が、一人でいる紬を心配して声をかけてあげた。
「大丈夫ですか?お怪我がひどいので、どなたかご家族に付き添ってもらったほうがいいですよ。隣の病室の方は、大したお怪我ではないのに、ご主人とご両親がずっと付き添っておられているのに、あなたには誰も付き添いがいないのではさすがにまずいです」
ご主人とご両親?
その言葉に、胸を鋭い針で刺されたかのような痛みを感じた。紬はただ視線を伏せ、何も言わなかった。
そんな彼女を見て、看護師は小さくため息をつき、処置を終えると部屋を出ていった。
そして入れ違いに、病室のドアが開いた。入ってきたのは、紬の両親だった。
だが、二人の顔に心配している様子は全くなかった。それどころか、二人は彼女を責めるようにして言った。
「紬、目が覚めたなら早く起きてきなさい!澪も入院しているのよ。幸い軽傷だったけれど、ショックのせいか体調を崩しているのだから、誰かが付き添わないと。自分ばかりこんなところで寝ているなんて、よくそんな図々しい真似ができるね!早く看病しに行ってあげてよ!」
「そうだとも!澪は昔から体が弱いんだ。お前は昔から頑丈なんだから、これくらいの怪我は何でもないだろう?早く澪の看病をしにいってあげろ!」
第6話
紬は両親の焦りながらもどこか当然だという表情を見つめ、ふと過去の様々な記憶が脳裏を過った。
澪が幼い頃に熱を出した時、家族みんなで大騒ぎした。父の白石宗佑(しらいし そうすけ)は夜中に慌てて医者を呼びに行き、母の白石貴子(しらいし たかこ)は寝ずに看病していた。その時、自分まで起こされて、水などを運ばされ、看病の手伝いをさせられたものだ。
澪が転んで少しすり傷を作っただけで、両親はひどく心配し、よしよしとあやして抱きしめていた。
あるとき不意に手を怪我し、血が止まらなくなった時、両親はまず、そそっかしいと自分を責め立てた。それから、早く自分で手当てをしてきなさいと言ったのだ。澪の勉強を見てあげるのが滞ってしまうから。
いつだってそうだった。自分が病気でも、怪我をしていても、最後には、「もっとケアが必要な」澪の世話をさせられるのだった。
だから、今回も紬は何も言わず、手の甲の点滴の針を抜き取ると、痛む体を引きずるようにして、ゆっくりとベッドから降りた。
すると、両親は紬が素直に従ったのを見て、ようやく少し表情を和らげ、澪の病室へと彼女を急がせた。
病室に入ると、澪がベッドにもたれて座っていた。その顔は青白く、か弱い様子で航が口元に運んでくれた水を飲んでいるのだった。
紬が入ってきたのに気づき、航の視線は一瞬、彼女の手の甲から滲み出る血に止まった。すぐに、彼は眉間にしわを寄せ、かすかに表情を曇らせた。
すると、澪は優しい声で言った。「お父さん、お母さん、航。みんなずっと付き添ってくれてありがとう。お仕事もあるでしょうから、もう行って大丈夫よ。私には紬がついているから、安心して」
航にはまだ、災害対応の後始末という仕事があったし、両親にもそれぞれの仕事があった。
彼らは澪にしっかりと安静にするよう何度も言い含め、惜しみながら病室を後にした。
最初から最後まで、彼らは紬に対して「体調はどうか」、「怪我は痛まないか」などと、一言も声をかけることはなかった。
こうして、みんなが去ると、病室は紬と澪の二人きりになった。
途端に澪は、さっきまでのしおらしい態度を急に変え、当然のように紬を顎で使った。「紬、喉が渇いたわ。お水を一杯ちょうだい。
紬、肩が凝っちゃった。揉んでくれる?
紬、果物が食べたい。リンゴを買ってきてちょうだい。ちゃんと皮を剥いて、食べやすい大きさに切ってね」
一方、紬は一言も言い返さず、黙って指示に従った。
水を汲み、肩を揉み、だるい体を引きずりながら外へリンゴを買いに行った。そして、丁寧に皮を剥いて、綺麗に切り分けた後、皿に載せて、澪の手元へと置いた。
紬は心に開いた風穴がどんどん広がっていくのを感じながらも、まるで感情を持たない影絵のように、命じられるまま手を動かした。
それから数日後、澪は無事に退院した。
ちょうど、澪の誕生日が間近に迫っていた。両親と航は、あらかじめ市内きっての一流レストランの個室を予約し、お祝いをしようと計画を立てていた。
当日、個室は華やかに飾られ、テーブルには大きなホールケーキが置かれていた。その周囲にはたくさんのプレゼントが積まれていて、主役の澪は多くの人々に囲まれて、嬉しそうにお祝いの言葉を受けていた。
その一方、紬は一番隅の席にひっそりと座り、ただうつむいて、目の前の食事を静かに口へ運んでいた。彼女はまるで空気のようにそこにいても誰にも気づかれることはなかった。
昔なら、澪が誕生日を迎えるたびに、紬は密かに羨ましく思ったものだ。
誰かに愛され、大切に扱われるその姿を。
けれど今の紬には、もうその感情すらなくなっていた。
見ない、聞かない、考えなければいい。そうすれば、心に痛みを感じることもない。
誕生会がお開きになると、両親は澪に付き添って先に帰って行ったから、航と紬は、後に取り残された。
レストランの外に出ると、航は不意に立ち止まった。澪の歩いていった方向をじっと見つめ、彼の視線はしばらく動かなかった。
街灯の光が彼の険しい横顔に影を落としている。その視線からは、抑えきれない愛しさが、滲み出ていた。
それを見ていた紬の心は、ただ切なく静まり返っていくのだった。
彼女は何も口にせず、ただ前を向いて我が家の方へと歩き出した。
あの冷たく人気のない家に帰ると、玄関のところで警備員が慌ただしく一通の封筒を届けてきた。
「奥さん、マイナンバーカードが届きましたので、持ってきました」と、警備員は笑顔でそれを手渡してきた。
紬がそれを受け取ろうとした時、まだ回復していない指先が滑ってしまい、封筒はパシッという音とともに冷たい床へ滑り落ちた。
航がさっと身をかがめ、それを代わりに拾い上げた。ふと、彼は紬の誕生日はいつなんだろうと思い、聞いてみた。
紬が淡々と日付を伝えると、彼は固まってしまい、これまで見せたことのないほどの驚きの表情を浮かべて言った。
「今日は……君の誕生日でもあるのか?」
そう言われ、紬はただ航を見つめ、静かに頷いた。その声は相変わらず淡々としていて、起伏がなかった。「うん」
「なぜ……これまで何も言わなかったんだ?」
それを聞かれ、紬は不意に可笑しく思えてきた。
航をまっすぐ見つめ、紬の澄んだ瞳の奥には、すべてを悟り切ったかのような切なさが浮かんで、彼女は一語一句、穏やかなトーンで言ってあげた。
「去年も言ったよ。
一昨年だって、言った。
その前の年も、ずっと言ってたよ」
紬が言葉を重ねるごとに、航の表情は少しずつ強張っていった。
「だけど、あなたはこれまで覚えててくれたことなんてなかったじゃない」
第7話
航は一瞬言葉に詰まった。それから何か言おうと口を開いたものの、喉に詰まって上手く言葉が出てこなかった。「すまない。俺は……本当に忙しくて」
少し時間を置いてから、航は紬を宥めようとしたのか続けて言った。「今から一緒に食事でもどうだ?あるいは何か欲しいプレゼントはないか?すぐに用意ができるものなら……」
しかし、航が話し終える前に、ドアの外から、慌ただしい足音に交じって誰かの叫び声が響いてきた。
ほどなくして、紬の両親は慌てた様子で、取り乱した澪の手を引いて入ってきたのだ。
「航くん、大変よ!大変なことが起きたの!」貴子は泣きそうになりながら言った。「澪が……澪が友達のためを思って手伝った取引が、不正取引の疑いがかかったの!それで今、起訴されて、このままじゃ澪が逮捕されてしまうわ。どうしよう!」
それを聞いて、航は顔を強張らせて、澪に顔を向けて聞いた。「君が関わっていたという確たる証拠は掴まれているのか?」
澪はすでに恐怖のあまり顔が青ざめていた。彼女は涙ながらに頭を振って言った。「それは……多分ないと思う。取引をしていた時はずっと覆面をしてて、人目を避けたつもりだし……」
それを聞いて、航は黙り込んでしまった。テーブルを指でコツコツと叩きながら、眉間にしわを寄せ、明らかに何か考えを巡らせている様子だった。
室内には重苦しい沈黙が続き、ただ澪のすすり泣きと白石夫婦の焦りを交えた荒い吐息だけが響いた。
やがて意を決したかのように顔をあげた航は鋭い目線を、暗い隅に小さくなっている紬に向けた。
「紬、澪の代わりにすべての犯行を認めてきてくれないか?」
それを聞いて、紬は耳を疑った。彼女は信じられない思いで、立ち尽くし彼を見つめた。
だが、航は紬の驚きの視線を受けても、その口調は頑なで、全く動揺を見せなかった。
「澪は体が弱いうえに、精神面も弱い。これで捕まればきっとそんな仕打ちに耐えられないはずだ。それにこの件はどうせ大したことにはならないから、君が彼女の代わりに何日間か勾留されれば、俺が必ずなんとかして保釈してやる」
「いやよ!」と紬はきっぱりと断った。その声は怒りと悲しみが重なって震えるほどだった。
どうしていつも自分なんだ?何もしてない自分がなぜいつも澪のために犠牲にならないといけないんだ?
「嫌だって!?」それを聞いた貴子は勢いよく向かってきて、紬に思いっきりビンタをした。
叩かれた紬は一瞬にして頬が腫れあがり、続いてキーンとした激しい耳鳴りに襲われた。
だが、貴子の非難が止まらなかった。彼女は紬を指さして罵った。
「何が嫌だっていうのよ!忘れたとは言わせないわよ。元はといえばあなたが航くんと結婚できたのだって澪のおかげだったんでしょ!お情けをもらったんだから、今度は澪が困っている時に助けてあげるのも当然じゃない。それくらいの恩返しはしなさいよ!」
すると、宗佑も横から、言う通りにしなさいと言わんばかりの威圧感を漂わせ、不満げな目線を紬に向けた。
追い詰められ、紬は頬を押さえながら、目の前のいわゆる家族と、あの10年間愛し続けてきたが、今は他人のために自分に罪を着せようとする男を見つめた。この時、彼女の胸のうちが大きく引き裂かれ、ズタボロにされてしまったかのようだった。
そうこうしているうちに、外から騒がしい足音と厳しい声が聞こえてきた。「白石澪さんはこちらですか?すぐご同行をお願いします!」
どうやら捜査隊が来たようだ。
一瞬にして、白石夫婦は血相を変えて、有無を言わさぬ勢いでもがく紬を掴んで、予め用意していたと思われる縄で彼女を縛り上げた。そして、彼女の抵抗などお構いなしに、入ってきた捜査隊員に彼女を押し付けた。
「この子が澪なんです!彼女、さっき自分で認めました。すぐに連れていってもらって構いません」貴子は本当の澪がバレてしまうのを恐れて、慌ててそう言った。
両腕に鋭い制止を受ける間、紬は必死で室内へ視線を送ってみたが……
そこで見送った航はきわめて感情を感じさせない表情をしていた。しかし、一言も発しようとはしなかった。
澪は航の背後に身を隠し、涙を頬に伝わせながらも、その目にはどこか隠しきれない得意げな光が宿っていた。
両親には、大きなトラブルから解き放たれた、といったのどかさがあった。
紬の世界は、その瞬間に崩れ去った。
……
紬は拘留所に閉じ込められ、そのまま何日が過ぎていった。
じめじめした環境、粗末な食事、そして同室の囚人たちの無機質で凶暴な眼差し――そのすべてが、彼女にとっては拷問のような日々だった。
もともと虚弱体質だったこともあり、たった数日で彼女はげっそりと痩せ細ってしまった。
ようやく釈放され、疲れ果て、薄汚れた体で鉄の扉をくぐり抜けたとき、紬はこれで悪夢が終わったのだと信じていた。
しかし、そんな希望は一瞬にして打ち砕かれる。出口で待ち構えていた両親に力ずくで押さえつけられ、そのまま無理やり病院へと連れ去られてしまったのだ。
病院に着いて、紬は衝撃的な事実を知らされる。昨日、突如として倒れた澪が、精密検査の結果、急性白血病であると診断されたのだ。容体は極めて危険で、一刻も早い骨髄移植が必要だという。
骨髄バンクの照会も虚しく、適合者は誰一人見つからなかった。唯一の希望は、姉妹である紬の骨髄だけだった。
それから先は、地獄のような時間だった。紬が抗う隙も、喉を潤す暇さえも与えられないまま、彼らによって手術台へと引きずり込まれたのだ。
「離して!嫌よ!絶対にドナーにはならない!」紬は必死に抵抗し、絶叫した。
恐怖と絶望に、全身が激しく震える。しかし、彼女の手足は冷たい器具で固定され、周囲の人たちによって強引に押さえつけられた。彼女の叫びに、耳を傾ける者は誰もいない。
この場にいる誰にとっても、澪を救うことこそが至上命題であり、紬の苦しみや拒絶など、取るに足らない些事でしかなかったからだ。
麻酔が体内に流れ込み、意識が次第に遠のいていく。
深い闇に呑み込まれる直前、手術室の外から医師の焦りきった叫び声が聞こえた。「大変です!ドナーが急性の大出血を起こしています!このまま骨髄採取を続ければ、彼女の命に関わります!すぐに手術を中止すべきです!」
紬の胸の内に、極々弱いまばゆい希望が生まれる気がしていた。
しかし、その希望を打ち砕くように、母親の鋭く冷酷な声が氷のつぶてとなって、彼女の耳に突き刺さった。
「ダメ!中止なんてさせない!あの子が死のうがどうなろうが関係ないわ。澪を助けなさい、最後までやり遂げて!」
医師は絶句した。これほどまでに非道な親の言葉を、これまで聞いたことがなかったのだろう。
医師は仕方なく航に尋ねた。「九条さん。彼女の夫であるあなたに決断を仰ぎます。どうされますか?」
手術室を重苦しい沈黙が支配する。しばらくして、聞こえてきたのは、かつて愛した男の、冷徹なまでの低い声だった。
「そのまま続けて差し上げてください」
第8話
その瞬間、絶望に打ちのめされた紬はついに耐えきれなくなって涙を流した。
結局、彼らにとって、自分の命なんてどうでもよくて、澪のためならいつだって犠牲にできる道具でしかないのだ。
多分運がよかったのだろう、あるいは神様のご加護があったのかもしれない。紬はどうにかこの手術を乗り越え、生き延びることができた。
けれど、彼女の体はもうボロボロだった。まともにベッドから起き上がって歩くことすらできないほど、弱り切っていた。
入院している間、誰もお見舞いに来なかったし、看病してくれる人もいなかった。
両親は、手術を終えたばかりで、つきっきりの看病が必要な澪のことしか見えていなかった。
航も……きっと澪のそばにいるのだろう。
紬は術後の痛みにじっと耐えながら、不自由な体で食事をし、水を飲み、トイレへいくのも一人きりでこなしていた。
それから、ようやく退院の日を迎え、紬は自分ひとりで手続きを済ませると、まだ回復していない体をひきずりながら、家へと向かった。
ところが、玄関のドアを開けると、そこには思いがけない人――澪がいた。
綺麗なワンピースを着て、血色の良い澪は、見るからに大切に看病されてきた様子だった。その姿は、やせ細って顔色の悪い紬とはあまりに対照的なのだ。
紬を見かけて、澪は彼女の前に歩み寄ると、単刀直入に切り出した。「紬、航を私に返してほしいの」
紬は何も言わず、ただじっと澪を見つめていた。
澪はあたかも当然のことであるかのように話を進めていった。「あの頃は、夢を追いかけて留学することになったから、仕方なく航をあなたに譲ってあげたのよ。それであなたが彼と結婚できたわけだけど、私が戻ってきたからには、もう彼を返してもらうわ。
それに、この1ヶ月の間に、航がどれだけ私を愛しているか分かったでしょ?だから、分をわきまえて、痛い目を見る前に大人しく身を引いてくれると助かるんだけど」
それを聞いて、紬は心の中で自嘲気味に笑った。
身を引く?わざわざそんなことする必要なんてある?
航は最初から、澪しか見ていなかった。ほんの一瞬だって、自分のことを見てくれたことはなかったのだから。
紬が黙ってただ嘲笑を浮かべているのを見て、澪はバカにされたと思い、カッとなった。「なによ?彼と数年結婚していたからって、愛されてる気になってるの?バカなこと言わないで。今から航が本当に愛しているのが誰か、見せてあげるわ!」
そう言うと、目に険しい光を宿らせ、澪はポケットから二つの小さな薬の瓶を取り出し、すばやく、紬の口をこじ開けて、無理やり怪しい液体を飲ませた。
紬は激しくむせ込み、吐き出そうとしたが、澪にきつく口を塞がれてしまった。
続いて澪は、自分でもう一方の薬を飲み干した。
まもなく、紬は体の奥から奇妙な熱がこみ上げてくるのを感じた。激しい欲情はあっという間に全身に広がっていった。その瞬間、彼女は初めてこれは……そういう効果の薬だと察した。
一方、澪も同じようで、壁にもたれかかって座り込み、うつろな目で甘い吐息を漏らし始めていた。
ちょうどその時、玄関が開いて、航が帰ってきた。
彼は室内の様子を見るなり、顔色を変えた。「二人とも、一体どうしたんだ!?」
そう聞かれ、澪は消え入りそうな意識を振り絞り、途切れ途切れに言った。「航……私たち、何かの薬を盛られたみたい……」
すると、航は険しい顔で歩み寄り、二人を抱き起こそうとした。「今すぐ病院へ連れていく!」
「ううん……」澪は彼の腕にすがりつき、潤んだ瞳で甘く囁いた。「この薬……病院に行っても駄目なの……男の人に、抱いてもらわなきゃ、効力が消えないの……」
澪は苦しげに息をつきながら、そばでうずくまっている紬を見た。「紬を助けてあげて……私のことはいいから……誰でもいいから、適当に男の人でも探して……」
その瞬間、航は頭に血が上り、感情が爆発しそうになった。
「どうして他の男なら良くて、俺じゃ駄目なんだ?」
感情を抑えきれなくなった航は、澪をきつく抱きしめ、引き寄せるように唇を重ねた。
「ん……航……紬が、紬が見てる……」
そう言われ、航はハッと動きを止めた。今になって彼はようやく、紬が同じ部屋にいることを思い出したかのようだった。
だが、彼は苦し紛れにゆっくりと振り返って、部屋の隅で顔を真っ赤にしながら、息を荒くしている紬をただ複雑な眼差しでチラッと見ただけだった。
次の瞬間、航は着ていた上着を乱暴に脱ぎ捨てると、紬の頭へと投げかぶせ、その視界を遮った。
こうして、暗闇に包まれた紬の耳には、ただ、航の押し殺したような掠れた声が響いた。
「紬、少しだけ待っていてくれ。
安心して、澪を本当に抱くわけじゃないから。
ただ、手で触るだけにしておく。
とりあえず澪を……助けてから、後で君を助けにいくよ」
航の匂いが染みついた上着に覆われ、紬は何も見えなくなったが、聞こえてくる音を遮ることはできなかった。
服の擦れ合う音、次第に乱れていく澪の艶めかしいあえぎ声、航の荒い息遣い。更には生々しく卑猥な音までもが、はっきりと聞こえてしまっていた……
すぐ近くの場所で、二人は身を寄せ合い、求め合っているのだ。
それなのに航は、自分に待てと言った。
愛する女性のために用を済ませてから、残りの情けを自分に分け与えるっていうのか?
込み上げる深い屈辱と悲しみ、そして薬の効果による苛立ちは、真っ赤に焼けた鉄の棒のように紬の体をじわじわと痛めつけた。
もう、限界だった。
本当に耐えられそうになかった。
薬が回る混沌とした意識と果てしない絶望の中、紬は手探りで小さなナイフを見つけると、思い切り手首を切りつけた。
鋭い痛みが走り、生暖かい血が溢れ出した。
一回、二回……
何回切ったかも分からない。けれど、激しい痛みと血が失われていく感覚のおかげで、さっきまでの忌々しい熱が冷めていくようだった。
どれほどの時間が流れたのだろう。まるで果てしなく続いたようだった。
ようやく、紬の頭を覆っていた上着が引き離された。
少し服を乱した航が興奮の冷めぬ様子で紬の前に立った。そして、床に崩れ、青ざめた顔をしている彼女を見て、抱き起こそうと手を伸ばした。「紬、今度は君の番だ、俺が……」
だが、その言葉がぴたりと止まった。
航の視線は、血まみれになった紬の手首にくぎ付けになった。そこには無残な切り傷があり、流れる血がまだ滴り続け、床を赤く染め続けていた。
「紬!」航の瞳孔は驚きのあまり縮まり、初めて取り乱した様子を見せた。
彼が口を開こうとしたその時、紬は出血が多すぎたせいで、クラッとなり、完全に意識を失った。
第9話
紬が再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
病室には航が付き添っていた。紬の意識が戻るのを確認すると、彼は少し黙り込んでから重い口を開いた。「紬、昨日俺と澪は……あの状態じゃ見捨てるわけにいかなかった。少し手助けしただけで、本当に関係を持ったわけじゃない……これは裏切りにはならないだろ……」
紬はその言葉を静かに聞いていた。しかし、顔には何の感情も浮かんでいなかった。
航がどれだけ綺麗事で誤魔化そうとしても、結局一つの結論に行き着くのだ。
自分と澪の二人が並んだとき、航はいつも迷わず澪を選ぶのだと。
ほんの少し手を貸しただけだとしても、航は澪を気持ちよくしてやるために、法律上の妻である自分を放置したのだ。挙句の果てに自分は、彼らの動きをただ聞くしかなく、結局、自傷して薬の辛さに耐えるしかない窮地に追い込まれた。
あまりの疲労に紬は目を閉じた。もう航と一言も話す気になれなかった。
一方、航は、紬が何も言い返さないのを見て、自分の言い訳は受け入れてもらえただろうと思った。
実際、彼は最後のラインだけは越えずに持ちこたえ、法的な意味では本当に婚姻を裏切っていないと考えていたのだ。
それから、紬が無事であることを確認すると、航はゆっくりと立ち上がった。「それじゃあ、よく休んでくれ。俺は……澪の様子を見てくる。彼女も昨日は酷く驚かされたようだから」
そう言い終えると、彼は病室を後にした。
航が去ってしばらくすると、今度は役所の人間が病室にやってきた。
「九条様でしょうか?お届け先の住所にいらっしゃらなかったため、病院までお邪魔しました。あなたが提出された離婚調停申請ですが、あなたの状況から酌量のうえ申請が認定されました。それで、今後のご意向を確認させていただきたくお伺いいたしました」
そう言って調停の担当者が彼女に調停調書の謄本を手渡した。
差し出された調停調書の謄本を受け取ったとき、紬はそれを両手で強く握り締めた。それと同時に、今までにないほどの深い安心感を全身で感じ取っていた。
「ありがとうございます。これから離婚届の提出を進めて行きたいと思います」と、紬は小さな声でお礼を述べた。
相手が去ると、紬は急いで起き上がり、何とか退院手続きを済ませると、家に帰って用意していた荷物をとってから、すぐにでもここから立ち去ろうとした。
ところが家に帰り着いて、息つく間もなく、両親がまたやってきたのだ。
「紬。昨日、航くんと澪が関係を持ったそうね……全部聞いたよ。本来なら、航くんと一緒になるべきだったのは澪で、あなたと彼が結婚したのもほんの弾みなんだから、これを機にもう航くんを澪に返してあげなさい」
「その通り。紬、少しは分をわきまえなさい。これ以上あなたが頑なになっていると、澪にも悪い評判が及んでしまうし、彼女の将来に響くじゃないか?」
二人はそこまでまくしたてると、力尽くで紬を引きずって、強引に離婚届を書かせようとした。
「離して!」紬は懸命に叫び、もがき続けた。この時、彼女の積もり積もった怒りが激しく爆発した。
「言うことを聞きなさいよ!」紬が反抗するのを見ると貴子は表情を一変させて、彼女の頬を思いっきり引っぱたいた。「いいこと!反抗したって無駄なんだからね。どのみち澪には絶対に、航くんと結婚させるから!」
叩かれた頬がズキズキとしたが、それよりも心に感じる痛みの方が辛かった。
すると、紬は両親の手を振り切って、ポケットに大事にしまっていた調停調書を出して、二人の顔に向けて乱暴に投げつけた。
「言われなくても別れてやるから!」そう叫んだ紬の身体は怒りで激しく震えていた。だが、彼女の決意は揺るぎがなかった。「よく見てみなさい!これで離婚届を出せば航との関係は完全に終わりよ!」
宗佑と貴子は、眼前に投げ出された紙を見てしばらく立ち尽くしたが、やがてその怒りに満ちた表情が大きな喜びへと変わり、笑顔を綻ばせた。
「あら!これで離婚も認定されたようなものじゃない!」貴子はすぐさま地面から調停調書を拾い上げ、満面の笑みを浮かべた。「よかったわ!本当によかった!これで澪が密かに航くんに恋焦がれて辛い思いをせずに済むのね!早く!さっさと離婚届を出しに行ってきなさいよ」
両親が喜びを隠さない表情を見て、さらに自分の存在を無視して澪の想いが叶ったことにだけ喜ぶ彼らの様子を見て、紬は胸の内に残ったわずかな肉親への期待も綺麗に消え失せた。
彼女は二人に背を向けて荷物の置かれた部屋へ足を進め、予め記入済みの離婚届とスーツケースを手に取ると迷うことなく玄関へ向かった。
その時になって、両親は初めて事の重大さに気付いたようだ。
「紬、一体これからどこへ行くんだい?離婚届を出しに行くのか?」宗佑はわずかに不安を帯びた声でふいに聞いた。
「私がどこに行こうがあなたたちには関係ないでしょ?離婚届は私の方で出しておくからご心配なく。
それじゃ、もう戻ってくるつもりはないから」
そう言って、紬はノブを押し、スーツケースを引きながら出ていった。外の空気は冷たかったが、それでも彼女は振り返ることなく、降り注ぐ眩い陽の光の中へ姿を消した。
残された宗佑はガランとする玄関を見つめたまま、そばの貴子に不安げな小声で耳打ちした。「ちょっと追いかけた方がいいんじゃない……」
「どうしてそんなことをする必要があるの?」貴子はどこか自信ありげにあしらって言った。「紬一人で何かできるの?大した金も持たせていないのよ!せいぜい帰る場所に困り、数日もすれば自分からのこのこ戻ってくるに決まってるわ!気にしないで!」
貴子はそう言ってただ手に持った調停調書に目を凝らした。「澪たちが帰ってきたらいち早くこの知らせを教えてあげないと。本当に待ちきれないわ。これで澪の長年の想いがようやく報われるわね!」
……
一方、澪は特に入院する必要もなかったので、診察が終わると帰宅できると言い渡された。
そこで、航は澪を自宅へ送り届けようとしたが、ふと、紬のことを思い出し、彼女の様子もついでに見に行ってみた。
しかし、向かった先で看護師から、紬はすでに退院手続を終わらせて帰ったと告げられた。
それを聞いて、航は眉間にしわをよせ、無性に苛立ちを募らせていた。
腕にあれほどの大怪我を負っているのになぜ少しも安静にせずすぐ退院したのだろう?紬は一体なにをわがまま言ってるんだ?
航の浮かない顔を見て澪がすぐさま甘い口調で宥めるように言った。「航、あまり怒らないであげて。もしかしたら今頃、紬はもうご飯を用意して私たちの帰りを待ってくれてるかもしれないわよ」
そう言われ、航は少しぽかんとしたが、すぐに胸に湧いた苛立ちも薄れたように感じた。
彼はそれ以上深く考えることもなく、そのまま澪を連れて帰宅した。
しかし、家に戻ると、そこには温かい食事が並べられることもなく、せわしなく支度をする紬の姿もなかった。
代わりに澪の両親が、リビングで満面の笑みを浮かべて、彼らを待ちわびているのだった。
がらんとしているリビングとキッチンを見渡して、航はなぜか嫌な予感が胸を過った。
「お義父さん、お義母さん。どうかされましたか?紬は?」
そう言われ、貴子はにこやかに立ち上がると調停調書を航へと近づけて見せた。そして、軽やかな口調で言った。
「ねえ、航くん。紬は出て行ったわよ。多分もう戻ってこないでしょう。
それよりこれ見て。ようやくあなたと紬の離婚が認められたのよ。離婚届も紬の方で提出しておくそうよ。
これで邪魔者はもういなくなったわけだから、あなたもやっと澪と一緒になれるってわけね」