愛した日々は、もう戻らない

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愛した日々は、もう戻らない

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娘の一歳の誕生日。初めての選び取りだった。 夫の佐倉湊(さくら みなと)が用意した箱から、娘は女性ものの下着を取り出した。 その場が凍り...

Chương (1)

第1章

娘の一歳の誕生日。初めての選び取りだった。 夫の佐倉湊(さくら みなと)が用意した箱から、娘は女性ものの下着を取り出した。 その場が凍りつく中、葉山奈々(はやま なな)だけが「あっ」と声を上げ、両指を小さく合わせて子猫のような表情で私に謝る。 「ごめんごめん。この前、湊とふざけて交換した時のやつ、持って帰るの忘れちゃった……紗耶さん、気にしないでね」 せっかくの誕生日祝いを台無しにしたくなくて、私は何事もなかったかのように必死にこらえた。 気を取り直して、二度目の選び取り。 今度は、娘の手が厚みのある封筒に伸びた。 親族からのお祝いだろうと思い、ろくに中身も確認せずに受け取る。 すると、奈々がぷっと吹き出した。 「紗耶さんってば、がめつすぎない?中身も見ずに受け取るなんてさ。まさか、お祝い金でも入ってると思った?」 奈々はその封筒から一枚の書類を引き抜き、私のほうへバサッと投げてよこした。 ばらばらと床に落ちた紙を見て、ようやく気づく。 娘が選び取ったのは、私と湊の離婚届だった。 私は呆然と湊を見つめた。 「あなた……私と離婚したかったの?」 湊は一瞬、言葉に詰まった。けれどすぐに奈々を庇うように前へ出る。 「紗耶、違う。ただの冗談だって。真に受けるなよ。奈々の悪ふざけだ」 その背後から、奈々がひょっこり顔を出した。 「悪ふざけ?湊、まさか今さら弱気になってるの?」 祝いの席は水を打ったように静まり返り、客たちの視線が一斉に私へ向けられた。 長い沈黙の末、私は泣きも騒ぎもしなかった。皆が固唾をのんで見守る中、ペンを取り、離婚届の署名欄に「紀野紗耶(きの さや)」と迷いなく書き込んだ。 「分かったわ。離婚する」 娘が選んだものは、笑って受け止めるつもりでいた。 それが、たとえ離婚届だったとしても。 第1話 娘の一歳の誕生日。初めての選び取りだった。 夫の佐倉湊(さくら みなと)が用意した箱から、娘は女性ものの下着を取り出した。 その場が凍りつく中、葉山奈々(はやま なな)だけが「あっ」と声を上げ、両指を小さく合わせて子猫のような表情で私に謝る。 「ごめんごめん。この前、湊とふざけて交換した時のやつ、持って帰るの忘れちゃった……紗耶さん、気にしないでね」 せっかくの誕生日祝いを台無しにしたくなくて、私は何事もなかったかのように必死にこらえた。 気を取り直して、二度目の選び取り。 今度は、娘の手が厚みのある封筒に伸びた。 親族からのお祝いだろうと思い、ろくに中身も確認せずに受け取る。 すると、奈々がぷっと吹き出した。 「紗耶さんってば、がめつすぎない?中身も見ずに受け取るなんてさ。まさか、お祝い金でも入ってると思った?」 奈々はその封筒から一枚の書類を引き抜き、私のほうへバサッと投げてよこした。 ばらばらと床に落ちた紙を見て、ようやく気づく。 娘が選び取ったのは、私と湊の離婚届だった。 私は呆然と湊を見つめた。 「あなた……私と離婚したかったの?」 湊は一瞬、言葉に詰まった。けれどすぐに奈々を庇うように前へ出る。 「紗耶、違う。ただの冗談だって。真に受けるなよ。奈々の悪ふざけだ」 その背後から、奈々がひょっこり顔を出した。 「悪ふざけ?湊、まさか今さら弱気になってるの?」 祝いの席は水を打ったように静まり返り、客たちの視線が一斉に私へ向けられた。 長い沈黙の末、私は泣きも騒ぎもしなかった。皆が固唾をのんで見守る中、ペンを取り、離婚届の署名欄に「紀野紗耶(きの さや)」と迷いなく書き込んだ。 「分かったわ。離婚する」 娘が選んだものは、笑って受け止めるつもりでいた。 それが、たとえ離婚届だったとしても。 私が迷いなく署名すると、湊の顔色が変わった。 「お前、本気か?その離婚届は、奈々がふざけて入れただけだ。冗談に決まってるだろ」 「へえ?冗談で離婚届を用意して、ご丁寧に自分の名前まで書いたっていうの?」 思わず、私の口から乾いた笑いが漏れた。 「私のこと、そこまで馬鹿だと思ってるの?」 「もう、紗耶さんってば。そんなに怒ること?その離婚届、湊が罰ゲームで書かされただけだよ。みんなでちょっとふざけてただけじゃない。 何なら、私が破ってあげよっか?湊、紗耶さんを責めたりしないよね?」 奈々は面倒くさそうに肩をすくめ、テーブルの上の書類に手を伸ばした。 湊も眉をひそめた。 「ただの冗談だろ。そんなに騒ぐなら、今ここで破り捨ててやれば気が済むのか?」 そのうんざりしたような口ぶりからは、私を面倒な女だと思っていることがはっきり伝わる。 その瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、とうとう抑えきれなくなった。 「もういい!冗談、冗談って……いつもそればっかり!」 私の結婚指輪が奈々にわざとトイレへ落とされ、そのまま流された時も。 ウェディングドレスを切り裂かれた時も。 湊は決まって「ただの冗談だ」と奈々を庇った。 妊娠中、奈々にわざと床へ水をこぼされ、そのせいで足を滑らせて早産になった時でさえ。 湊は「奈々はわざとじゃない」と、また彼女を庇った。 私が留守の間に、奈々に娘のベビーベッドへネズミの死骸を入れられ、娘が恐怖で高熱を出した時も同じだった。 湊は「悪ふざけが行き過ぎただけだ」と言ってのけた。 そして今。 愛する娘の一歳の誕生日を、こんな形で台無しにされても、まだ「冗談」だと言うの? 私は湊の目を真っ直ぐに見据え、一語一語、噛みしめるように言った。 「もし今日、私が奈々のグラスに何か入れて、それも『ただの冗談よ』って笑ったら、あなたはどうするの?」 言い終わるか終わらないうちに、湊は奈々が口元へ運ぼうとしていたグラスを弾き飛ばした。 ガシャンッ、とけたたましい音が響く。 飛び散ったガラスの破片が私の足首をかすめ、血がにじんだ。 それでも湊の顔に浮かんでいたのは、奈々を心配する色だけだった。 その瞬間、本当に何もかもがどうでもよくなった。 手にしていた離婚届を湊の胸に押しつけ、娘を抱き上げてその場を出ていった。 「明日、区役所に来て。離婚届を出すから」 玄関先まで来たところで、湊が慌てて追いかけてきて私の腕を掴んだ。 「おい、何をそんなにムキになってるんだよ。奈々が昔からすぐ悪ノリするタイプなの、お前だって知ってるだろ?悪気はないんだって」 私が冷たい目で見返すと、湊は困り果てたように声を和らげた。 「……分かったよ。これからはやりすぎないように、俺からきつく言っておく。それで気が済むだろ?」 この期に及んでも、湊はまだ気づいていなかった。 私がもう限界で、本気で離婚するつもりでいることに。 「今日は娘の誕生日なんだぞ。そんな態度で、せっかくの空気を台無しにするなよ」 「へえ。あなたと奈々の披露宴じゃなくて、娘の誕生日だってことは覚えてたのね?」 思わず、乾いた笑いが込み上げた。 娘の大切な日だと分かっていながら、湊は奈々が選び取りのアイテムにあんな細工をするのを黙って見過ごした。 私たちこそが夫婦のはずなのに、今日は奈々と、まるで恋人同士のような服装で来ている。 「傍から見れば、あなたたちのほうがよほど夫婦らしいわ。私のほうが邪魔者みたい」 ほんの少しでいい。 湊の中に後ろめたさがあってほしかった。 けれど、返ってきたのは、あまりにも軽い一言だった。 「お前な……俺たちはただの幼なじみだぞ?奈々にまで嫉妬して、恥ずかしくないのか?」 「ただの幼なじみ、ね」 「虫に刺されただけだ」と言い張っていた湊の首筋の赤い痕に目をやり、私は冷たく笑った。 「本当に何もないのかどうか……あなたが一番よく分かってるんじゃない?」 「ちょっと待ってよ。せっかく娘さんの誕生日を祝いに来たのに、そんな言い方ひどくない?」 いつの間にか追いかけてきていた奈々が、いかにも傷ついたような顔で湊にすがりついた。 「湊!こんなふうに侮辱されて、私が黙っていられると思う?こんな噂を立てられたら、私の評判がどうなるか分からないじゃない! もういい。紗耶さんがそんなに冗談の通じない人だとは思わなかった。私たち、もう会わないほうがいいね」 そう言い捨てると、奈々は私の目の前で、見せつけるように湊のLINEをブロックした。 「これで満足?これでもう、私がわざと旦那さんを誘惑したなんて、言いがかりつけられないでしょ?」 第2話 出ていく直前、奈々は本気で湊と縁を切るつもりだとでも言わんばかりに、置き忘れたふりをしていたルームウェアや下着まで、きっちり回収していった。 湊は途端に顔色を変えた。 「奈々!」 奈々を追いかけようとしたが、火がついたように泣き出した娘の声に足を止めた。 その隙に、湊の友人たちが一斉に私へ矛先を向けてくる。奈々が傷ついた顔で出ていったのを見て、完全に私が悪者だと決めつけているらしい。 「自分が何したか分かってるの?奈々はわざわざ祝いに来てくれたんだぞ。それを追い出すなんて」 「金目当てで近づいた女って、やっぱり余裕がないよな。奈々が本気で湊を狙ってたなら、お前が佐倉家に入れるわけないだろ」 「湊。奈々は優しいから我慢するかもしれないけど、俺らまで黙ってるわけにはいかないぞ」 数人が、冷たい目で一斉に私を見た。 「お前ら夫婦そろって奈々に頭を下げに行かないなら、俺たちはもう湊とは付き合えないからな」 ほどなくして、客たちは一人、また一人と帰っていった。 広いリビングに残されたのは、床に散らかった料理や飾りと、娘の途切れ途切れのすすり泣きだけだった。 湊は苛立たしげに眉間を押さえると、足元にあった花の鉢を勢いよく蹴り倒した。 「せっかくの祝いの席をここまでめちゃくちゃにして、これで満足か?」 答えない。 ただ、鉢からこぼれ落ち、無残に折れた花をじっと見つめていた。 その花を見ているうちに、ふと湊と出会ったあの夏を思い出した。 あの頃の私は、母の治療費を集めるため、雨の日も花を売っていた。 湊はずぶ濡れになりながら、私と一緒に声を張り上げ、花を売ってくれた。 時には友人たちをこっそり呼び、自分のお金で残っていた花をすべて買ってくれたこともある。 そうやって少しずつ、母の治療費を工面するのを手伝ってくれた。 その後、私たちは恋人になり、結婚し、娘が生まれた。 一番幸せだった頃、湊は約束してくれた。 もう二度と、あんな思いはさせない。 苦労もさせない。 ずっとそばにいて、必ず幸せな家庭を築くから、と。 けれど、奈々が戻ってきてから、すべてが変わってしまった。 いつの間にか、湊は私とおそろいだったスマホケースを外し、別のものに替えていた。 結婚記念日に買ったペアリングも、外に出る時にはつけなくなっていた。 昔は、私と一緒に遊園地のジェットコースターに乗ることすら怖がっていたのに。 いつの間にか、奈々の趣味であるスカイダイビングやバンジージャンプに付き合い、スリルのあるドライブまで楽しむようになっていた。 そんな小さな変化が少しずつ積み重なり、気づけば湊は、私の知っていた彼ではなくなっていた。 それなのに湊は、今でも「俺の気持ちは何も変わっていない」と言い張って疑わない。 思い出から引き戻された時、湊も少しは冷静さを取り戻したようだった。 近づいてきた彼が、冷え切った私の手を取った。 「……ごめん、紗耶。娘の誕生日なのに、あんなふうに怒鳴って悪かった。 でもな、俺と奈々はただ気が合うだけで、お前が疑うような関係じゃないんだ。 あの離婚届だって、悪ふざけが過ぎただけだ。俺はお前とも娘とも、別れるつもりなんて一度もなかった。 これからは奈々とは少し距離を置く。だから、もう機嫌を直してくれよ」 その声は、昔の優しかった湊を思い出させた。 その目も真剣そのもので、とても演技には見えなかった。 ほんの数日前の私なら、娘のために心が揺れていたかもしれない。 けれど今は、かつて何度も胸を高鳴らせたその顔を見ても、浮かんでくるのはつらい記憶ばかりだった―― 初めて奈々と揉めた時、彼女が当てつけのように連絡を無視したことがあった。 あの時、湊は私のスマホを勝手に使い、友人たちのグループチャットに、私の名前で長文の謝罪文を送った。 奈々の機嫌を取るために、湊は私の名前で何度も頭を下げた。 そのせいで、私は仲間内で笑われ者になった。 娘が心臓発作を起こして生死の境をさまよったあの夜。 湊は、奈々とテーマパークで花火を見て浮かれていた。 そんな記憶ばかりが、次々と脳裏に押し寄せる。 だから今、私は湊の手から、ゆっくりと手を引き抜く。 「いいえ。やっぱり離婚する」 その瞬間、湊の目に驚き、焦り、そして怒りが次々と浮かんだ。 「紗耶、お前どうかしてるぞ!そこまでして家族を壊したいのか!?」 「壊したのは私じゃない。あなたよ。湊、私たちの誓いを裏切ったのは、あなたなんだから」 私たちが言い争っていると、突然、玄関の外から切羽詰まった声が飛び込んできた。 「大変だ、湊!奈々が事故に遭った!」 第3話 玄関先に立ち尽くしたまま、湊の車のテールランプが夜の闇に吸い込まれていくのを見送っていた。 腕の中の娘が体をすり寄せてくるまで、ずっと冷え切ったままだった。 ようやく我に返り、娘をぎゅっと抱きしめる。 額にそっとキスを落としてから、家の中へ戻り、荷物をまとめ始めた。 着替え。 運転免許証。 娘のおむつと、母子手帳。 この家に残っていた自分のものを、一つずつ片づけていく。 実家方面の航空券を予約し終えた瞬間、胸の奥につかえていたものが、すとんと落ちた気がした。 空が白み始めた頃、湊が帰ってきた。 玄関を開けるなり、リビングの真ん中に広げたスーツケースに目を留め、表情をこわばらせる。 「お前、今度は何の真似だ」 答えずに娘の服を畳み続けていると、湊は乱暴に私の手首をつかみ、怒りを押し殺した低い声で言った。 「お前が追い出したせいで、奈々は事故に遭ったんだぞ。今も病院にいるのに、俺には会いたくないって泣いてる。まだ足りないのかよ。どこまで奈々を傷つければ気が済むんだ?」 ゆっくりと顔を上げ、感情の消えた目で湊を見返す。 湊はさらに苛立ったように言った。 「俺に見限られるまで、まだ続ける気か?紗耶、お前は俺に、奈々っていう幼なじみまで失えって言うのか?」 幼なじみ。 その言葉に、思わず自嘲の笑みがこぼれた。 湊の中では、私と娘よりも、奈々とのその「絆」とやらのほうが大事らしい。 「そこまで奈々が大事なら、どうして私と結婚したの?」 湊がふっと言葉に詰まる。 「私はもう離婚すると言ったじゃない。これ以上、あなたたちの邪魔はしないわ」 目の奥がじわりと熱くなる。 それでも私は、湊の手を振りほどいた。 「ここまで私を追い詰めたのは、あなたでしょう?離婚して、きれいに別れればいいじゃない!」 「離婚、離婚って……お前はそれしか言えないのか!」 湊が苛立たしげに腕を振り払った拍子に、床に置いてあったスーツケースがひっくり返った。 大きな音に娘がびくっと肩を震わせ、次の瞬間、火がついたように泣き出す。 私はとっさに駆け寄ろうとしたが、散らばった荷物に足を取られ、そのまま床に倒れ込んだ。 腰がローテーブルの脚に強くぶつかる。 鋭い痛みが背中まで走り、一瞬で顔から血の気が引いた。 奈々のせいで足を滑らせ、早産になったあの日。 その時に痛めた腰は、まだ完治していない。 少し無理な体勢を取るだけで、今でも鈍い痛みが走る。 「紗耶!?どうした?」 泣いている娘を抱き上げた湊が、慌てて駆け寄ってくる。 その声には、珍しく焦りがにじんでいた。 「腰を打ったのか?今すぐ病院に連れて行く!」 湊が身をかがめ、私を抱き起こそうとした、まさにその時だった。 けたたましくスマホが鳴った。 電話の相手は、湊の友人だった。 「湊、早く来い!奈々が目を覚ました。でもお前がいないって分かった途端、『飲みに行く』って聞かないんだ!」 私に伸ばしかけていた湊の手が、ぴたりと宙で止まった。 その目はもう、私ではなく奈々のことだけを追っていた。 「何だって!?奈々が目を覚まして、俺に会いたがってるのか?勝手に外へ出るなって伝えろ。今すぐ行く!」 勢いよく立ち上がった湊の声は、隠しきれない安堵と喜びに弾んでいた。 抱いていた娘を私の腕に押しつけると、湊は振り返りもせずに家を飛び出していった。 バタン、と大きな音を立ててドアが閉まる。 その音で、私の中にわずかに残っていた未練も完全に消えた。 自分でタクシーを呼び、痛む腰をかばいながら娘を抱いて夜間救急へ向かった。 受付を済ませ、レントゲンを撮ってもらう。 検査を終えて廊下を歩いていると、奈々の病室の前に湊の友人たちが大勢詰めかけているのが見えた。 開いたドアの向こうでは、ほんの数時間前に私へ「距離を置く」と約束したばかりの夫が、奈々のベッドの脇に膝をつき、必死に彼女の機嫌を取っていた。 その光景に胸が悪くなり、私は静かに目をそらした。 ふとスマホを見ると、数分前に湊からメッセージが届いていた。 【紗耶、湿布は頼んでおいた。もうすぐ届くと思う。今夜は急な仕事のトラブルが入ったから、先に寝ててくれ】 白々しいその文面を見た瞬間、ただ笑うしかなかった。 第4話 真夜中、ようやく娘を寝かしつけ、ふうっと目を閉じたその時。 隣の病室から、男女の笑い声が聞こえてきた。 「少し会えないだけで俺がどれくらいつらいか、分かってるくせに。わざと拗ねてみせるなんて意地悪だな」 男の声は、紛れもなく湊のものだった。 そして奈々の声は、普段とは違って、甘くまとわりつくように響いていた。 「だって、あなたがあの女を庇うからじゃない。私のことなんて、もうどうでもいいのかと思って」 「悪かったって。どうすれば許してくれる?」 「さあ?半日も私を放っておいたんだから、ちゃんと埋め合わせしてよね。私、あの女みたいにちょろくないから、簡単には機嫌直さないよ?」 「じゃあ……これならどう?」 「んっ……もう、バカ……そんなところに跡つけないでよ。見えたらどうするの」 その先に続く音は、もう聞くに堪えない。 「俺と奈々はただの幼なじみだ」 つい数時間前までそう言い張っていた男が、今この瞬間、壁一枚隔てた向こう側で、情欲のままに奈々を抱いている。 聞きたくもない卑猥な音が、何度も何度も鼓膜を叩く。 ふとスマホが震え、見知らぬアカウントから一枚の写真が送られてきた。 画面の中では、湊が奈々の首筋に顔を埋めている。 露わになった湊の肩には、奈々がつけたものとしか思えない赤い引っかき傷がいくつも残っていた。 気づけば、指先が白くなるほどスマホを握りしめていた。 覚悟はしていたつもりだった。 それでも、動かぬ証拠を突きつけられた瞬間、胸の奥が細く裂けるように痛んだ。 その夜をどうやってやり過ごしたのか、よく覚えていない。 いつ泣き疲れて眠りに落ちたのかも分からない。 ただ、娘のただならぬ泣き声で、弾かれたように目を覚ました。 視線を向けると、ベビーベッドの前に奈々が立っていた。 手に持った何かを、嫌がる娘の口へ無理やり押し込もうとしていた。 娘が苦しそうにえずき、口の端に白い泡を浮かべているのを見た瞬間、頭に血が上った。 ベッドから飛び出し、奈々を娘のそばから乱暴に引き離した。 次の瞬間には、床に倒れ込んだ奈々につかみかかり、気づけば無我夢中でその頬を打っていた。 「あんた、この子に何したのよ!?」 次の瞬間、背後から強い力で体を乱暴に引き剥がされる。 そのまま床に叩きつけられ、腰の奥でゴキッと嫌な音が鳴る。 「紗耶、お前、頭おかしくなったのか!?」 湊は床に倒れた奈々を庇うように立ち塞がり、信じられないものを見るような目で私を見下ろしていた。 「奈々は娘の面倒を見てくれてただけだろ!なんでいきなり殴りかかるんだよ!」 激痛に耐えながら、近くのサイドテーブルにすがりつき、必死に体を起こす。 信じられない思いで湊を見返した。 「本気で言ってるの?面倒を見る?この子が苦しんでいたのに? 前にこの女が娘のベッドにネズミの死骸を入れたこと、もう忘れたの!?それとも……昨夜ずっとこの女と抱き合ってたせいで、自分の娘の命すらどうでもよくなったの!?」 言い終わるか終わらないうちに、湊の平手が飛んできた。 乾いた音とともに、頬に強い衝撃が走る。 「いい加減にしろ!奈々は何もしてないだろ!何でもかんでも奈々のせいにするな!」 叩かれた頬を押さえたまま、言葉が消えた。 もう、この人に何を言っても無駄だ。 痛みに歯を食いしばり、泣きじゃくる娘を抱き上げると、一度も振り返らず病室を出た。 三十分ほど経った頃。 奈々をなだめ終えた湊は、ようやく私たちの不在に気づいたらしい。 病院中を探し回っても見つからず、やがて、しびれを切らしたようなメッセージが届いた。 【探し回るこっちの身にもなれ。二日後は奈々の誕生日パーティーだ。ちゃんと来て、みんなの前で奈々に謝れ。そうすれば、今回の件は水に流してやる】 もちろん、返信すらしない。 娘を固く抱きしめたまま、実家へ向かう飛行機に乗り込む。 ――二日後。 湊は市内の高級レストランのフロアを貸し切り、奈々のために盛大な誕生日パーティーを開いていた。 「紗耶さん、来てくれないね。まだ私のこと、怒ってるのかな……」 高いヒールを履いた奈々は、すらりとした脚をわざとらしく湊に絡めた。 「来ないわけないだろ。あいつ、何様のつもりだよ。少し突き放しておけば、そのうち泣きついて謝ってくるさ」 「湊、今日は約束通り、あの女に奈々の前で土下座でもさせろよな」 「娘の誕生日の件も、病院で奈々に手を上げた件も、このままうやむやになんてさせねえからな」 取り巻きたちが口々に囃し立てる。 既読スルーされたままの私とのトーク画面を見つめ、湊は忌々しげに眉をひそめる。 そして、最後の警告を打ち込もうとした。 【紗耶、いい加減に意地を張るのは――】 けれど、その文面を打ち終えるより先に。 湊とその場にいた友人たち全員のスマホが、一斉にけたたましい通知音を鳴らした。 誰もが反射的に画面を開く。 次の瞬間、その場にいた全員の顔から血の気が引いた。 「おい、これ……何だよ……!?」