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インターンの食べ残しで婚約破棄
私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。 インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、その...
Chương (1)
第1章
私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。
インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、そのまま私の婚約者、稲富竜也(いなとみ たつや)の取り皿に入れたのだ。
竜也は少しもためらわず、それを箸でつまんで口に運んだ。
その夜、私は両家で進めていた縁談の書類を細かく破り、ごみ箱へ捨てた。
竜也は眼鏡を外し、眉間にしわを寄せた。
「アワビ一切れで、そこまでするのか?」
「彼女が食べかけたものを、あなたは平気で食べたのよ」
竜也は顔を上げ、薄く笑った。
「朔乃、お前がそこまで面倒な女だとは思わなかった。
わかった。そこまで言うなら、結婚はなしでいい。ただし、あとで泣きついてくるなよ」
彼は、私がまた以前のように自分へすがると信じていた。
けれど私は笑った。
「わかった。その言葉、忘れないでね」
第1話
私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。
インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、そのまま私の婚約者、稲富竜也(いなとみ たつや)の取り皿に入れたのだ。
竜也は少しもためらわず、それを箸でつまんで口に運んだ。
その夜、私は両家で進めていた縁談の書類を細かく破り、ごみ箱へ捨てた。
竜也は眼鏡を外し、眉間にしわを寄せた。
「アワビ一切れで、そこまでするのか?」
「彼女が食べかけたものを、あなたは平気で食べたのよ」
竜也は顔を上げ、薄く笑った。
「朔乃、お前がそこまで面倒な女だとは思わなかった。
わかった。そこまで言うなら、結婚はなしでいい。ただし、あとで泣きついてくるなよ」
彼は、私がまた以前のように自分へすがると信じていた。
けれど私は笑った。
「わかった。その言葉、忘れないでね」
私は、その日のうちに両親へ、政略結婚の相手を替えてほしいと切り出した。
二人は驚いた顔をしたものの、それ以上は追及せず、その場で了承してくれた。
案の定、竜也はすぐに私との連絡を絶った。
ブロックされ、友だちからも消され、連絡先は一つずつ塞がれていく。あまりに手慣れていて、いつものやり方なのだと嫌でもわかった。
彼は、私がまたこれまでのように自分から折れると思っていたのだろう。
けれど今回は違った。画面に表示された友だち申請の通知を前に、私はしばらく指を止めていたが、最後まで承認を押さなかった。
一週間後、社内チャットに通知が流れた。
【本日、社長の誕生日会を開催します。全員参加でお願いします】
場の空気を悪くしたくなくて、私は結局行くことにした。
個室の扉を開けると、上座に座る竜也の隣で、風香が彼の耳元に寄り添うようにして話していた。
二人は声を潜めて話し込み、周りが声をかける隙もないほど、そこだけが別の空間のようになっていた。
笑い合うたびに距離はさらに縮まり、次の瞬間には唇が触れそうだった。
私は視線を外し、隅の席を選んで、一人で酒を飲んだ。
同僚たちは次々とプレゼントを渡しに行ったが、私は何もしなかった。
しばらくして、誰かが私の前で足を止めた。
顔を上げると、整った顔に不機嫌さを隠そうともしない竜也が立っていた。
「朔乃、俺へのプレゼントは?」
以前の私なら、こういう日のために何か月も前から準備していた。
かつて彼のために、あるファンタジー映画に出てくる、歯車仕掛けの小さな城の模型を手作りしたこともある。
歯車が回り、煙突から白い霧が吐き出されたとき、彼は私の手を握って言った。
「俺たちもきっと、最後にはお互いの帰る場所になれるよな」
あのときの私は、本気で信じていた。
けれど、あの日の言葉は、三年も経たないうちに色あせてしまった。
「忘れた」
私は淡々と答えた。
竜也の表情が一気に険しくなった。
「いつまで意地張ってるつもりだ。たかがあれくらいで」
彼の唇の端に残る、妙に艶めいた濡れ跡が目に入った瞬間、胃の奥がむかついた。
「意地じゃない。婚約を白紙に戻す話なら、本気よ」
彼の表情がわずかにこわばった。けれど、風香がそっと手を握ると、すぐにいつもの余裕を取り戻した。
「朔乃さん、誤解しないでください」
風香は柔らかな声で続けた。
「私はただ、食べ物を無駄にするのが見ていられなかっただけなんです。朔乃さんがそこまで気にされるなら、次から会食では、皆さんが食べ終わってから席に着くようにします」
その一言で、竜也の顔つきが変わった。
「風香、もういい。お前が謝ることじゃない。朔乃、これ以上この場の空気を悪くするなら、出ていけ」
風香は私のそばまで来ると、親しげに肩へ手を添えた。
「朔乃さん、女ならもう少し受け流すことも覚えたほうがいいですよ。竜也さん、この数日ろくに眠れていないんです。合わないところがあるのは仕方ないですけど、お二人は婚約者なんですから……」
私はその手を振り払い、鼻で笑った。
「白石さん。私、あなたのそういうところだけは本当に感心する。
人の婚約者に手を出しておいて、平気で被害者みたいな顔ができるところ」
その瞬間、風香の口元から笑みが消えた。
けれど、先に声を荒らげたのは竜也だった。
「朔乃、いい加減にしろ。風香を悪者にするな!」
「じゃあ聞くけど、あなたが私にくれたものと同じものを、どうして白石さんも持っているの?
私たちが揉めるたびに、どうしてその話が白石さんの口から会社中に広まるの?それに、あなたのお尻の上あたりにある傷のことを、どうして白石さんが知って――」
「もういい!」
パン、と乾いた音が個室の空気を裂いた。
左耳の奥が、じんじんと痺れる。
同僚たちの視線が一斉に私へ集まった。
心配するでもなく、止めるでもない。
ただ、哀れんでいるような、面白がっているような目ばかりだった。
第2話
耳の奥で鳴っていた音が少しずつ遠のき、代わりに竜也の声だけがやけにはっきり響いた。
「今日から、俺と風香のツーショットには好きにいいねしてくれていい。千を超えたら、この縁談を白紙に戻して、風香と籍を入れる」
そう言い捨てると、彼は風香の手を引き、一度も振り返らずに出ていった。
私の前を通り過ぎるとき、風香は隠す気もなく、勝ち誇った目を向けてきた。
二人が出ていくと、個室からはすぐに人が引いていった。
面白がるような声が聞こえた。
「余裕ぶってたくせに、結局こうなるんだ。今さら後悔しても遅いよ」
親しい同僚が、そっと声を落とした。
「朔乃、意地張ってる場合じゃないよ。早く謝ってきなって。社長が勢いで本当に……」
わかっている。
竜也はまた、私が先に折れるのを待っている。
でも、もう同じことは繰り返したくなかった。
どうしても、それだけは嫌だった。
さっきまで騒がしかった個室は、あっという間に静まり返った。
残されたのは、私一人だけだった。
私はテーブルに残っていたきつい酒を手に取り、一息にあおった。
喉から胃まで焼けるように熱くなり、目の奥までつんと痛んだ。
二十年近く積み重ねてきたものも、切ると決めれば、案外あっけない。
それなら、それでいい。
家が決めた縁談を受け入れて、遠く離れた汐ヶ原へ嫁ぎ、新しい提携を進めればいい。
それだけ離れれば、彼の手ももう届かない。
気づくと、頬を伝った涙が冷たくなっていた。
家に戻るなり、私はスーツケースを広げ、荷物を詰め始めた。
私と竜也は幼なじみだった。
まだ長いとはいえない人生の大半を、彼と隣り合って過ごしてきた。
だから、置いていくものが多すぎた。
ひとつ手に取るたび、思い出がまとわりついて離れない。
箱の底から、色あせた赤い折り紙のメダルが出てきた。
幼稚園のころ、竜也が初めて先生にもらった「よくできました」だった。
彼はまだ小さな足で私のところまで駆けてきて、それを大事そうに私の手のひらへ乗せた。
「これ、いちばんいいやつだから、朔乃ちゃんにあげる!」
黄ばんだ写真に残っているのは、初めて夢精をして、耳まで真っ赤になっていた竜也の顔だった。
あのころの彼は保健の授業をろくに聞いていなかったらしく、自分はもう長くないのだと思い込み、私のところへ別れの挨拶みたいなことを言いに来た。いつか彼氏を作るなら、自分より格好よくない男にしろとまで言った。
呆れるやらおかしいやらで、事情を聞き出したあと、私は近くのコンビニで替えの下着と、体の変化について書かれた絵本を買った。ページをめくりながら、二人でひとつずつ確かめていった。
授業中にぼんやりしているからだと笑うと、彼はむきになって、私の腕に軽く噛みついた。
不思議と痛くはなかった。
ただ、胸の奥にだけ、ほんの少し甘いものが残った。
その後、私たちは自然と恋人同士になった。
別々の大学へ進んだことで、四年間の遠距離恋愛が始まった。
あのころため込んだ分厚いチケットの束には、何度も何度も彼に会いに行った道のりが刻まれている。
当時の竜也は、何をしていても私のことばかりだった。どんなに遠くても、会いに来ることを面倒だと言ったことは一度もない。
指先が、硬い小箱に触れた。
中には、二人で作った飾りのないペアリングが収まっていた。
彼のために、私は卒業後、迷わずこの街へ戻ってきた。
その日、彼は私の手を引いて、手作り指輪の工房へ連れていった。
彼は私の指にリングをはめ、笑って言った。
「朔乃、これをはめたら、もう俺のものだからな。どこにも行かせない」
あのころの私たちは、口にした瞬間の気持ちが、そのままずっと続いていくのだと思っていた。
まさか先に手を離すのが、彼のほうだなんて、思いもしなかった。
第3話
風香が会社の面接を受けに来た日、面接の出来はひどいものだった。
竜也もその場では、採るつもりがないことを隠そうともしなかった。
経歴も能力も物足りない応募者を、私も特に気に留めなかった。
それなのに、どういうわけか彼女はそのまま採用が決まり、インターンとして会社に入ってきた。
私が本当におかしいと思ったのは、私と竜也だけのものだったはずのペアリングが、風香の指にはまっているのを見たときだった。
最初のうちは、私が問い詰めても、竜也はまだきちんと説明してくれた。声をやわらげて、私をなだめようともした。
けれど、いつからか返ってくるのは苛立ちばかりになった。
私が何度も言葉を飲み込み、結局は許してしまったせいで、竜也は風香を特別扱いすることに、少しもためらわなくなっていった。
会社の食事会のメニューは、いつも風香の好みに合わせて決められた。
彼女は週に半日だけ顔を出し、それ以外の時間は竜也に付き添って、あちこち出かけていた。
本来ならインターンの彼女に任せるはずの雑用まで、竜也は当然のように私へ振ってきた。
竜也が私の前で風香の話をすることも、日に日に増えていった。
最初は、ただ「風香は気が利く」とか、「素直で可愛い」とか、その程度だった。
それがいつの間にか、私への不満に変わっていった。
私はロマンがわからない。
言い方が可愛くない。
そういう言葉を、彼は平気で口にするようになった。
ある日の休憩時間、竜也が頼んだミルクティーをひと口飲んで、「これ、うまいな」と言った。
すると風香がそばに寄ってきて、「私も少し飲んでみたいです」と言った。
竜也は何のためらいもなく、そのまま彼女へ差し出した。
ストローも替えなかった。
風香は彼の使ったストローに口をつけ、大きくひと口飲んだ。
それだけでも胸の奥がざわついたのに、竜也はすぐにそれを受け取り、何事もなかったように続きを飲んだ。
その瞬間、心臓を見えない手でぎゅっと掴まれたようで、息が苦しくなった。
それから、風香はますます遠慮をなくしていった。
竜也のスキンケアに付き合い、自分の手でクリームやアフターシェーブローションを塗る。
竜也が足をひねったときは、すぐそばにいた私には目もくれず、ほとんど抱きかかえるようにして医務室まで連れていった。
竜也が約束してくれていた私の誕生日祝いも、風香が少し風邪を引いただけで取りやめになった。
私が不満を口にするたび、竜也は決まって面倒くさそうな顔をした。
「朔乃、お前がそういう目で見るから、何でもそう見えるだけだろ。風香はただのインターンだ。俺と何かあるわけないだろ。勝手にいやらしい想像をするな」
ただ、そう言い張るたびに、彼の言葉は少しずつ言い訳じみて聞こえるようになっていった。
一番こたえたのは、業界関係者が集まる大事なパーティーのときだった。
招待状には、同伴者はパートナーに限ると明記されていた。それなのに竜也は私に黙って、風香を連れていった。
あとになって何人もの人から「別れたの?」と聞かれ、私はそこで初めてそのことを知った。
問い詰めに行くと、怒っていたのは竜也のほうだった。
「風香を連れて行ったくらいで、何がそんなに気に入らないんだ?インターンに経験を積ませるのも仕事のうちだろ。お前も女なら、少しは余裕を持てよ」
そのあと、私たちは長い間まともに口をきかなかった。
このまま本当に終わるのかもしれない。
そう思い始めたころ、深夜に竜也からメッセージが届いた。
【朔乃、腹痛い……助けて】
張り詰めていたものが、その一言であっけなく切れた。
そして、うんざりするほど繰り返してきた流れに戻っていった。
私が責める。竜也が怒る。
最後は私が折れて、彼が許したような顔をする。
私はリングケースのふたを閉じ、そのままごみ箱へ放り込む。
引き出しの奥には、竜也が十八歳のときに書いた反省文がまだ残っていた。
私からのメッセージを一通返し忘れただけで、彼がわざわざ書いてきたものだ。
あのころの竜也は、本当に私を大切にしてくれていた。
けれど今、彼の目に映っているのは、あのインターンだけ。
私は黄ばんだ反省文を取り出し、少しずつ破って、ごみ箱へ落としていく。
長い年月をかけて溜め込んできたものを片づけ終えると、部屋がやけに広く感じられた。
胸の中まで、がらんと空いてしまったみたいだった。
社内チャットには、風香が竜也の誕生日を祝う写真が次々と流れてくる。
どの写真の竜也も、楽しそうに笑っていた。
竜也の機嫌を取るのがうまい同僚たちは、競うように二人を持ち上げている。
【社長と風香ちゃん、仲良すぎません?】
【彼女にするなら、やっぱり風香ちゃんみたいな子だよね。明るいし、気も利くし。有栖川部長みたいに、いつも近寄りがたい人はちょっときつい】
【インターンなのに、あそこまで社長のことを気にかけられるのすごいよね。ああいうのが本当の気遣いなんだと思う……】
それ以上見る気になれず、私はすぐに弁護士へ電話をかけた。
「稲富グループへの出資は、すべて引き揚げます。手続きをお願いします」
第4話
翌日、私は会社へ荷物を取りに戻った。
私専用の休憩室の扉を開けると、風香がやけに短いスカート姿で、私のデスクに脚を投げ出していた。
部屋の中は、彼女の私物で埋まっている。
私のものは、廊下に乱暴に放り出されていた。
この休憩室は、竜也が昔、私のためだけに作ってくれた場所だった。
社内の誰もがそれを知っていて、勝手に入ろうとする人なんていなかった。
今の風香のやり方は、私の顔を真正面から踏みにじるようなものだった。
言い争う気にもなれず、私はその場で警察に電話をかけた。
警察で事情を聞かれているあいだ、風香は明らかに落ち着きをなくしていた。
「私はただ、竜也さんに頼まれて資料を取りに行っただけです。こんなことで警察沙汰にするなんて……」
「頼まれたなら、先に私に確認するべきだったんじゃない?
あそこに置いてあるものは、私物よ。勝手に入って、勝手に触っていいものじゃない」
私が言い切ると、風香は口をつぐんだ。
けれど次の瞬間、その目にみるみる涙がたまっていく。
嫌な予感がして振り返ると、案の定、竜也が立っていた。
その顔は、すでに私を責めていた。
「竜也さん!」
風香は泣き声をにじませ、彼の胸に飛び込んだ。
「私、本当に資料を取りに行っただけなんです……
でも朔乃さん、私のことがそんなに嫌いみたいで……どうしても私を泥棒にしたいみたいなんです。
竜也さんにもらったものだけで、家の中はもういっぱいなのに……私が朔乃さんのものを欲しがるわけないじゃないですか……」
あの小さな部屋は、かつて私だけの逃げ場所だった。
私が彼のために、あの映画に出てくる建物の模型を作ったあと、竜也が返してくれた贈り物でもあった。
あそこには、二人だけの時間があまりにも多く残っていた。
せめてあの場所だけは、最後まできれいな思い出のまま残ってくれると思っていた。
けれど竜也は、それさえ自分の手で汚した。
彼は風香の肩を抱きながら、警察官に軽く頭を下げた。
「すみません、誤解なんです。お騒がせしました」
竜也は私を見た。
その目に浮かんでいたのは、怒りというより、あからさまな軽蔑だった。
「朔乃、見損なったよ。気に入らない相手なら、立場を使ってここまでするのか。相手はただのインターンだぞ」
私が言い返す前に、風香がすがるように彼の袖をつかんだ。
「竜也さん、朔乃さんを責めないでください。私が悪いんです……」
彼女は今にも泣き出しそうな声で続けた。
「私ひとりが疑われるなら、それでいいんです。必要なら、いくらでも説明します。でも、私のせいでお二人がこんなふうに揉めるのだけは嫌なんです……」
竜也は風香の手を握り、なだめるように声を落とした。
「お前は優しすぎるんだよ。だから、すぐこういう目に遭う」
そして私に目を向けると、声が一段低くなった。
「今すぐ風香に謝れ」
「勝手に入ったのは彼女でしょ。私が何を謝るの?
私のものを外に放り出して、泣けば済むと思ってるの?」
その横で、風香がまた小さくしゃくり上げた。
竜也は鼻で笑った。
「あそこは会社の休憩室だ。稲富グループの名義になっている以上、お前が自分の部屋みたいに扱える場所じゃない。
これ以上騒ぐなら、こっちにも考えがある」
そう言うと、竜也は風香の手を引き、警察官のほうへ向かった。
胸の奥に、冷たいものが刺さったようだった。
この何年も、私は自分にできることをすべて稲富グループにつぎ込んできた。
竜也との未来を支えているのだと、本気で信じていた。
なのに彼の言葉ひとつで、私のしてきたことまで全部、意味をなくした気がした。
立ち去る間際、竜也が振り返った。
「いいねはもう990まで来てる。その態度を改めないなら、本当に風香と籍を入れる」
竜也の後ろで、風香がちらりとこちらを見た。
隠しきれない優越感が、その目に浮かんでいた。
その瞬間、ようやく自分の惨めさが身に染みた。
風香のやり方なんて、本当はずっと見え透いていた。
竜也ほど頭の回る人が、気づかないはずがない。
見抜けなかったのではない。
見て見ぬふりをしていただけだ。
彼の気持ちは、とっくに風香のほうへ移っていた。
何もかも、邪魔になった私を追い出すために、二人でそう仕向けていたのだ。
情けないことに、私だけが最後まで手を離せずにいた。
そう気づいた瞬間、竜也への最後の未練も消えた。
汐ヶ原へ向かう準備をしていた数日間、面白がった同僚たちから、社内チャットで何度もDMが届いた。
【いいね、もう994だって。そろそろ謝ったら?未来の旦那様、ほんとに取られちゃうよ】
【うわ、997!このままだと一生独身コースじゃない?朔乃さん】
【今回はずいぶん粘るね。風香ちゃんには勝てないってわかって、怖くなって逃げる準備でもしてるの?】
私は一つずつ削除し、ブロックして、相手にしなかった。
いいねが999で止まったあとも私が動かずにいると、竜也は目に見えて苛立っていった。
社内の誰も空気を読んで、最後の一つには触れようとしなかった。
竜也が次にどうやって私を屈服させるか考えていた、そのとき――
誰かが社長室へ駆け込み、声を張り上げた。
「社長!1000件目のいいねが……入りました!」